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高階秀爾オーラル・ヒストリー 2010年9月8日

国立西洋美術館にて
インタヴュアー:林道郎、池上裕子
書き起こし:畑井恵
公開日:2013年6月16日
 

池上:今日は、国際美術史学会との関わりについてお話をしていただくことになってたかと思いますが。

高階:はい。

林:国際美術史学会の設立の経緯から始まって、先生のご経験について。

高階:国際美術史学会そのものは、吉川(逸治)先生の時代からあったわけです。最初はイギリス、フランスとアメリカの美術史の先生方が集まって作った。日本の美術史学会も最初はそうだけれど、専門家の新睦会っていうか、連絡機関だけど懇親会みたいなもの。それに僕が参画したのが1970年代かな。その頃はアメリカ、フランスの先生方が中心で、日本では吉川先生が入っておられた。だから日本の美術史学会とは全然離れてたわけです。日本の美術史学会っていうのは前からもちろんあって、それとどう組み合わせようかっていうのがあった。結局、後までバラバラになってたんですけどね。あれは西洋の人だけがやる、美術史学会とはちょっと違うとかいう話まで出て。国際美術史学会も吉川先生が個人的に入っておられたのかな。だから最初は関係者の個人的なつながりで、組織体としては、年に何回か集まって会議をやってたわけですね。それが70年代の頃から、吉川先生からも話があったし、(アンドレ・)シャステル(André Chastel)先生が中心になって「出てこい」って言うんで、国際美術史学会の会議に参加したのが始まりですね。で、建前としてあれは何年かにいっぺん、研究会をいろんな国でやる。それに出てこいと言われた。フランスで中心になったのはシャステルさん、アメリカでは(H. W.)ジャンソン(H. W. Janson)さん、それからミースさんね。ということは、イギリス、フランス系の美術史家の方。公用語も英語・フランス語だったんですよ。スペインやイタリアであったりしたときにはその国の言葉をその時だけ加えると。普段は英仏だけって。だから、日本美術史学会の吉川先生がそれに加わろうかっていった時に、日本の方も英仏では事務的な連絡も無理である、ということがあったんです。そう、僕は1973年のグラナダ大会から参加したんだな。会議はある程度テーマも絞って、参加者もアントワープの場合にはフランドル関係のものだけがある。で、何年かにいっぺん国際的な大会があるわけです。大会の参加国は、1970年代にはヨーロッパ関係とアメリカだけで、欧米以外では日本だけですね。その後もっと国際的に広がりたいっていうので、吉川先生の後を受けて、東京会議っていうのを1991年にやった。つまり、日本でもなんかやれっていうことがあって。

池上:1991年ですね。

高階:これがかなり大変だったんですけれど、事務局から何から。それでこの時には僕は途中からその副会長になって、やらしていただいたんです。事務局っていうのは、会長、副会長、それから会計っていうのがあって、五、六人いるんですが、全部呼ばなきゃいけないとかね。それから、参加したい人はホテルの割引をするとか、会場の手配とかいうこともみんな事務局がやって。大会をやると、それぞれ、ウィーンでやったときはオーストリア政府がいろいろしたし、ボローニャでやったときにはイタリアの政府がやっぱりやった。ウィーンのときは大統領が来て話したとか、わりにみんな一生懸命やって。日本はとても無理なんですよね(笑)。何かあったって、文部省から誰も出てこないんで。で、その東京会議ぐらいから少し広げるという形で、アジアも一日やんなきゃいけないというので。この時以降、メンバーに各国が二人ずつメンバーを正式に出すって形ができて。日本ではそれに、今までは吉川先生と私、その後柳(宗玄)先生、前川(誠郎)先生、それから辻佐保子さんに代わる代わる入っていただいてたんですが、実際の事務的な連絡は僕がわりにやっていて、東京会議のときに、ベルリンの時から日本も入れようってことで、河野(元昭)先生に入っていただいて。今は、僕はもう引きましたけれども、小林忠さんが入ってて。ちょうどこの頃からですね。1989年がストラスブール大会、これがフランス革命200年かなんかでわりに大きくって、組織をかなりちゃんとしようと。それまではわりに仲間内だけで、シャステルさんなんかがずっと会長をやっておられて。それはやっぱり任期制にすべきだとかね。組織も英仏ばっかりじゃなくて他の国も入るべきだと。公用語も増やせとかね。少しずつ変わってきて。日本語も公用語ってわけにいかないけれども、東京会議の時には通訳付きで、日本もやりました。一応英仏が中心だけれども。アジアにも目を向けると。

林:実際にアジアの国から代表がこの時に見えたと。

高階:出てないです、日本だけです。未だに他は出てないんですね。

池上:ああ、そうですか。

高階:ええ。日本では河野先生や小林先生がメンバーをしておられるんですけれども、アジアもアフリカも入ってない。南アメリカは入った。メキシコ関係があるから。だからブラジルとかアルゼンチンの人が入ってましたね。

林:アジアにも広げるっていうのは、主題的な研究対象として広げていくということでしょうか。

高階:ええ、当然それは研究対象として広げると。向こうの人たちも、中国語や日本語でやられたって分かんないわけだから(笑)。

林:ああ、そうですね。

高階:ヨーロッパでやってた間は一応英仏が公用語、それから現地語が加わって。グラナダのときはスペイン語で発表やったっていいと。別に通訳なしでやるんですけどね。イタリアの時はイタリア語でやってる人はいた。しかし日本語で通訳なしでやっても、誰も来ないだろうと(笑)。だから東京会議の時は、日本人の通訳をつけました。日本と西洋の関係ということでみんなでやろうと。

池上:大会っていうのは、まだ日本では行なわれてないんですね。

高階:大会はやってないです。これはやると大変です。この会議の時だけでも、いろいろ実際的な手配から、ホテルの世話から、わりにめんどくさかったですけどね。でも、僕は研究上、美術史関係のことではこの国際学会の時にみなさんにお会いすることができて。アメリカのジャンソンさん、それからポーランドの(ヤン・)ビアウォストッキ(Jan Bialostocki)が、中心だったですね、あの頃は。シャステル先生はもちろんいたし、それから(ジャック・)チュイリエ(Jacques Thuillier)さんがシャステルさんの下で一緒にやってた。そういう人たちとしょっちゅう話をして。だからシャステルさん、ゴンブリッチさん、それからビアウォストッキさんにも日本に来てもらって、今度は逆に日本でいろいろして。西洋美術のことを、美術史学会の講演会でやってもらった。ジャンソンさんも来てもらうはずだったのがちょうど、亡くなられたんですね、予定が入った頃に。という感じで、美術史関係の専門家の方たちと、学会の発表を聞くだけじゃなくて、そういうお付き合いはずっとできて、これは研究上も非常にいいことだと思いますけど。今は、小佐野(重利)君が中心でやっておられる。それから三浦(篤)さんとか入ってもらって。事務的に大変なこともいろいろあるけれど、研究の広がりとかネットワーク作りには非常に役に立つ場だと思いますね。

林:ということは、国際美術史学会の支部じゃなかったんですね。日本の中で組織化がされたということではなくて、未だに個人ベースでやってると。

高階:えーっとね、一応国内委員会っていうのを作りました。

林:ああ、そうですか。委員会っていうのが一応。

高階:それは小佐野さんが中心になって、僕の時から作りました。ただまあ、委員は少ないですよね。今十数名かな、西洋美術関係で。あと河野先生やなんかにもその委員に入っていただいた。日本の方は僕も一つ入っていて。これも各国別々で、そういうふうに個人ベースでみんな入ってるところもあれば、フランスなんかは組織替えしたときにフランスの国内美術史学会を、全部一緒にしようということまでしてるんですけどね。

林:ああ、なるほど。

高階:それぞれの国の事情で、国際美術史学会としては各国代表がとにかく二人ずつです。その二人は個人ベースで入った人が出てきてもいいし。もちろん一応業績審査なんかした上ですけど。フランスの場合には美術史学会の中から二人出てきて。参加国のメンバーはかなり増えたんだな。各国とそれから研究機関代表っていうのもいくつかある。チーニ財団(Fondazione Cini)だとか、フィレンツェにあるイタリア美術研究所とかですね。

林:なんとなく、ヨーロッパが中心というふうに考えていいんでしょうか。おそらくアメリカであんまりこの国際美術史学会の話って聞かないですよね。

池上:そうですね。でも前回、2008年のオーストラリアのメルボルン大会はアジア・オセアニア地域で初めての大会っていうことで、より地域的な広がりを持たそうっていう動きがあったと思いますけど。

高階:そうですか。わりに最初はみなさん個人ベースで入っておられたから、ジャンソンさんが非常に中心で、しょっちゅうやっておられましたよね。

池上:メルボルンの前はモントリオールでしたけど、やっぱり北米の開催でもアメリカからの参加者は確かに少なかったです。

高階:ああ、そうですか。

林:僕はメルボルン大会、誘いを受けたんだけど断ってしまって(笑)。

池上:面白かったと聞いておりますけど。私もちょっと行けなかったんですが。

高階:この1989年の場合には、美術史のコリン・アイスラー(Colin Eisler)はしょっちゅう出て来てました。僕もずいぶん親しくして。それからアーヴィング・レイヴィン(Irving Lavin)。それからセンターの代表で、ナショナル・ギャラリーのヘンリー・ミロン(Henry Millon)がしょっちゅう来てたな。最初はシャステルさんとかジャンソンさんが中心になってたけれども、89年にビューロ(bureau、事務局)っていうのができたときに、フランスの(アルベール・)シャトレ(Albert Châtelet)さんやローマのオレステ・フェラーリ(Oreste Ferrari)さんが中心で。(ヘルマン・)フィリッツ(Herman Fillitz)さんもなかなかウィーンでは顔ですね。それから(ベアトリス・ド・)ラフエンテ(Beatriz de La Fuente)さんが南アメリカ代表みたいな方で、メキシコだから中南米ですけど。それからレイヴィンさんと僕が入って、ジョン・ホワイト(John White)がイギリスから入ってました。副会長がこれだけいて、ビューロのセクレタリはアルフレッド・シュミッツ(Alfred A. Schmid)。これはスイスの人ですね。お金はスイスだから(笑)、その出納係もやって。それから、セクレタリ・シアンテイフィーク(secrétaire scientifique)っていうのはオランダのレニック(Adrian Wessel Reinink)さんだな。あとは、いくつか内部で委員会があって、ヨーロッパのステンドグラスを全部調べるとか。これは中世専門のキャヴィネス(Madeline Harrison Caviness)さんがやってた。それから新しい情報機器、ワープロだとかそういうものを(ジャック・)チュイリエ(Jacques Thuillier)さんがやったとか。それから、トマス・ゲスティンス(Thomas Götghens)っていうのは知ってる?

林:いや、知らないです。

高階:今、ドイツで。これはドイツ美術史の中心になってフランスで研究所を作った人。これはドイツの方で中心になってた。アメリカの人はあんまりいないんだな、やっぱり。この時は引いてたけど(ジュリオ・カルロ・)アルガン(Giulio Carlo Argan)さん、ロレンス(Lorenz)さんなんかもいた。(ヴィリバルト・)ザウアーレンダー(Willibald Sauerländer)もドイツでずいぶん。今彼は、確かサンフランシスコかどっかにいるんですね。ドイツ中世の専門です。それから東欧代表ではヴァイヤー(Lajos Vayer)さんかな。それぞれ各国内のコミッティーで関わられた方は一応名誉会員。日本では前川先生が入ったし、吉川さんも入ってたし。

林:(資料を見ながら)ジョージ・キューブラー(George Kubler)がいた。

高階:キューブラーはなかなか面白い人ですよね。グラナダのときは一緒にずっとアルハンブラ見て、いろいろ話してもらった。彼はしょっちゅう来てたな。でもアメリカの人はあんまりいないんだな。キューブラーはアメリカ人なんですが、ちょっと外れてるのかな。

池上:やっぱりプレコロンビアン研究の創始者ですからね。

高階:そうですよね。

林:現代美術の文脈ではよく読まれてますよ。(日本の)美術史学会ではどうなのかよく分かりませんけど(笑)。

池上:プレコロンビアンの方でも、いまでもすごく尊敬されているようで。

高階:ああ、そうですか。この時にアメリカで中心だったのがアイスラーさんと、フォレスティエさん、レイヴィンさん、ミロン(Henry A. Millon)さん。ミロンさんは美術館代表だったんだな。という形で、各国から二名って言いながら一人しか出てないのもあるし、まあバラバラだったんです。この時は。

林:(フランシス・)ハスケル(Francis Haskell)さんは。

高階:ハスケルさんは非常によく来ておられました。

林:マーティン・ケンプ(Martin Kemp)も。

高階:マーティン・ケンプも。日本では私と柳先生が一応形として入ったっていう形ですね。だからハスケルさんにはずいぶんこれでお世話になったな。ロンドン行ったらいろいろ教えてもらうからね。それから各国別に、研究機関の代表が入る。チーニ財団といってすごいお金がある、ヴェニスにある研究機関がある。僕はそこで話をさせられたけども。そこのアレッサンドロ・ベッターニョ(Alessandro Bettagno)さんって18世紀の専門の人がいた。それから、チューリッヒの研究所のデュティエ(Dutier)さん、これも呼ばれたな。それからフランスにある、オランダ・インスティテュートのハステルさんなんかも入っていた。だからチューリッヒの時には、デュティエさん中心で、チーニに呼ばれた時は、ベッターニョさんに世話になったり。それから、レニックさんがやった時には、ストラスブールの準備のためにオランダに行って話をしたり。そうすると、それぞれが公式のパーティを開いたり、それから皆ご自宅に呼んで、大宴会やったり。日本でそんなこと誰もできない(笑)。東京でやってくれって言われたとき、それはもう苦労しました。でも、つまり国際化しようっていうのを、シャステルさんあたりはもうしきりにそれを最初から言っておられたから。だから僕はまだ入って間もなかったけど、ボローニャのときには「お前が全体講演やれ」っていうんで、日本と西洋っていうのやらされて。それから少しずつ副会長になれとか言われて、東京会議までやったということですね。その時期から、じゃあ委員は二期以上続けないとかね、美術史学会の中でもきちんとした形で報告をするとかいうことに。最初は美術史家同士の集まりだったから、メンバーに入る時も、一応もちろん業績審査はあるけど、ポストとして決まってるわけではなくて。これはソ連時代にロシアの人が入りたいって言った時にかなり問題になって。もちろん優れた美術史家がいるからいいと。しかしそのメンバーは、その後は向こうのソ連が決めるって言うので、それは困ると。それじゃあ不安なんですよ。国として入るからね。国として入るんだから、ソ連の国が誰にするかメンバーを決めるのは困る、国の代表として個人で入るんだと。個人業績でダメなら次の人は誰だとかっていうことは今でも続いてるはずですけどね。それをしかし、きちんともっと規約もそこに入れようとかいう形で続けてますけれども。これは大事だと思ってるんですよ。特に、今のところはアジア関係は日本だけ。中国やなんかも入りたがってる。個人的に研究発表に来る人はいるけれど、国としてはメンバーに入ってないので。日本はちょっと代表みたいな、他の東南アジアとか中国の美術史の人との連携をする役目もあるだろうということで。今もお金がないですけど、東京会議の時からお金集めも大変だった。一応それでもやって結果も出したから、僕は個人的にはそういう先生方とそれでいろいろ親しくなったし、教えていただくことがあったっていうのは、たいへん勉強になったと思います。

林:先生の場合、各国の美術史家とそうやっていろんな付き合いをされてきたわけですけど、日本の美術史学の、アカデミーにおける体制も含めて、例えばヨーロッパやフランスといったところと比較をしたときに、どういうことが問題だと思いますか。

池上:ちょっと誘導してますね(笑)。

林:誘導尋問みたいになって(笑)。

高階:いやまあ、美術史学会は各国で問題あると思うんですが、日本の場合には、外国の日本美術史研究者とはわりに交流があるんだけど、それ以外では日本美術史と外国との連携が弱いですよね。だから国際美術史学会でも、アメリカとかフランスで日本美術をやってる人はなかなか出て来られないんですよね。やっぱり向こうでも、マイナーでしょう、日本美術史を研究するっていうのは。それで日本に来ては一生懸命皆やってるんですけど、国際学会なんかにはなかなか入ってくれない。日本の美術史学会でも海外に行ってた人が最近いろいろ出てきたけど、やっぱり向こうの日本美術研究者とか、日本美術を持ってるフリア(美術館)なんかとはつきあいがあるけれども、それ以外とは非常に切れてるんですね。それはもう国内でも。それをどうやってつなげるかって。問題意識としてはつまり、その連携が非常に弱いことですね。影響関係とか比較とか言えば当然両方のことになるんで、それをどうやってつなげていくかってことですよね、これからの問題は。日本の美術史関係に関して言えば、海外的な発信力っていうのはあんまり考えないから。向こうで研究熱心な人は日本にもちろん来てくれるから、そういう人たちをお相手するということだけですからね。だからそういう組織化された形で向こうの研究者とつきあうということが必要で。海外の研究者にも非常に専門的に固まってる人もいるけど、国際美術史学会をやってた人は、シャステルさんも、ジャンソンさんも、(ヤン・)ビアロストッキー(Jan Bialostocki)さんも非常に幅が広かったし、国際化をやるのは必要だっていう感じは強く持っておられた方ですからね。それでいろいろ、欧米以外の人に広げてっていうことが気運として出てきた頃、僕が入ったっていうことなのかな。だけどやっぱり、なにかとまだヨーロッパ語圏ですからね。日本の美術なんかもずっとやってくださってたけど、発表は通訳つきでもいいけど、議論をする時にいちいちっていうのはできてないですよね。だいたい英仏がもう公用語で。これはもう自由に他の国の人も。それからドイツなんか行けば通訳なしで、自国の発言は自国語でやると。これは今、国際会議はそうなのかな。でも皆聞いて、だいたい分かってるわけですよ。ドイツ語で。それで、ドイツやイタリアの人も英語やフランス語ができる人は公用語だからそれでやる。しかしイタリアならイタリア語でやってもだいたい皆分かって、そこで議論が進むんですよね。それが日本でやる時に、日本美術の人で(英語やフランス語が)できる人が少ないんで。アメリカにいた清水(義明)さんみたいな方も、これには入ってなかったですね。そのへんは要するに、コミュニケーションが大きな問題になるでしょうね。でも大事だと思う。あなた方はこれから、十分やっていける。

池上:モントリールの大会でもやっぱりアジア系の人はとても少なくて、日本からの発表者は3人だけ。私と、田中純さんが矢代幸雄さんについてのご研究を発表されて、あと田中英道先生もいらっしゃいましたけど。

高階:田中君がずいぶん張り切ってたんですよね。

池上:もっと日本美術のセッションを増やしてほしいっていうような、ロビーイングをされてました。英道さんの方が。

高階:ああ、そうですか。田中純さんは何語でやったんだ。

池上:田中さんは、他のパネルと重なってしまってちゃんと聞けなかったんですが、英語でされていたと思います。

高階:そうですか。発表はできると思います。形はとにかくまあ、大変だけどやるとかね。うまく組織化すれば、それはいろいろできてくるだろうなぁ。大会っていうのは何年かに一回だけど、毎年あちこちで会議がある。今度ニュージーランドでやるとか、それに参画はできるようにもなりますからね。行くだけでも、顔つなぎが必要だと思います。

池上:それをコンスタントにされる方っていうのがやっぱりなかなか出てこないというか。

高階:事務連絡が大変でけっこうね。向こうからそういうことがありましたって連絡がしょっちゅう入ってくる。それはもちろん、だいたい英仏で来ますね。規約も全部英仏でできてるわけだし。

林:そういうふうなことを話しだすと、ほんとに日本だと文化行政一般に通ずる問題になりますね。

高階:それでみんな、国がやってるんですよね。ちゃんと事務室があるし専用のセクレタリがいるしね。

林:それはやっぱり日本では不可能だということですよね。

高階:不可能ですね。どういう形でやればいいのかな。文化や美術館の制度もそうですし。それから大学の制度もそうで、やっぱり海外でも「金がない金がない」とか皆言うけども、桁がやっぱり違ってますよね。資料も揃ってるし。それから、アメリカだと、ミロンさんがいたナショナル・ギャラリーにCASVA(注: Center for Advanced Study in the Visual Arts)っていうのがありますよね。

池上:ありますね、はい。

高階:だから人が来ればあそこで受け入れる。もう非常にいいとこだと思った。ああいう研究所があって、研究者に場所を提供してくれるところって、日本ではなかなか無いんですよね。

林:無いですね。

高階:日本のことやりたいって来た人に場所もないし。

池上:そうですね。机どころか椅子もないみたいな状態で。

高階:いや、とてもできないし。文化財研究所もそれがない。そういう場所は非常に必要ですね。ローマではチーニにもそれがあったし。

池上:文化資源はあるわけですから、もったいないですよね。

高階:ものはいっぱいあるんだからね。それがうまくできるような形が必要ですね。

林:クールジャパンとかいう前に、そういうことやってほしい(笑)。

池上:そうですね。そういうものは放っておいても伝播するわけだから。

高階:それでいろいろ、向こうの大学や美術館から、ちょっと来いとかいうことはあって。僕はそれでハーヴァードに行けたんですけどね。研究員で来なさいとか言われて。まあ一回か二回話すれば、あとは自分の研究してた。あそこにはあの、アンリ・ゼルナー(Henri Zerner)っていう人がいた。彼はフランスでもともとシャステルさんのお弟子さんだから。

林:ああ、そうですか。

高階:ええ。日本にもちょこちょこ来るようになった。あの頃はまだアメリカにいた。僕がハーヴァードに行った時はずいぶん世話になりましたけどね。

林:そうですか。もう引退されましたか。

高階:もうそろそろ年ですよね。

林:けっこうそうですね、一時日本語にも訳されたりして。

高階:そうですね、面白い新しいことをやってた人ですね。ゼルナーさんとか、チュイリエさんも今は引退されたけども、シャステルさんの後でコレージュ・ド・フランスに行かれて、中心になってやってた。僕がコレージュに呼ばれたのもそれで。コレージュという組織は大学より格が上みたいなところで、大学から、次にコレージュに行くっていう感じで。コレージュはまた非常によく施設が整ってるんですよ。図書館も揃ってるし、それからきちんと研究室くれるし。そこで話をしなさいって、まあ何回か話をする。というので、コレージュの先生方と一緒になる。そういう広がりをずいぶんやってくれて。コレージュの場合も、これは日本の講座制と違って、やっぱり個人ベースでやりますから。シャステルさんの時にじゃあイタリアっていう講座を作ってたけども、シャステルさんの後それを誰かがってことじゃなくてなくなっちゃうんですよね。別の人が行ってその人の専門の講座。講座制でないから、本当の一流の人を選んでやってくれる。そして学生がいないから、そうすると一般向けの講義だけですよね。(モーリス・)メルロ=ポンティ(Maurice Merleau-Ponty)なんかがやって、誰でも聴ける。ただ、ずいぶん難しいことを平気でやる(笑)。セミナーももちろんやる。講義もやるしセミナーもやる。そういうシステムは(日本には)無いですよね。

林:さっきチュイリエさんの話が出ました。ちょっと話が変わっちゃうかもしれませんけど、チュイリエさんを筆頭にして、1970年代から1980年代にいわゆるリヴィジョニズムという美術史の動きがありましたけど、高階先生はああいう動きに関してはどういうふうに。

高階:僕はわりに早くから興味持っててですね。つまり、日本でわりに古くから注目された(ジャン=ポール・)ローランス(Jean-Paul Laurens)だとか、ラファエル・コラン(Raphael Collin)とか、向こうではそうたいした作家ではない(笑)。それから(レオン・)ボナ(Léon Bonnat)だとかね。それが、ちょうどあの頃から見直しがあった。アカデミズムというものの見直し。わりに面白い。アール・ヌーヴォーの再評価もシャステルさんから始まったんですけど、それが50年代、僕が行ってた頃から始まったのかな。僕が行ってた頃はもう、非常に評判悪かったですね、アール・ヌーヴォーは。(エクトール・)ギマール(Hector Guimard)なんて「あんな変なやつ」っていう(笑)。でもシャステルさんなんかは面白い、こういうことがあるんだって。だけどその頃フランス人の家に呼ばれて「お前は何やってるんだ」って、「世紀末芸術が面白い」って言ったら、「あんな変なものを」っていうのが、1950年代の一般の感じだったので。で、1960年代頃から、チュイリエさんなんかもポンピエ芸術を。1970年代は非常にはっきりしてきましたよね。(ウィリアム・アドルフ・)ブグロー(William Adolphe Bouguereau)だとか、ボナだとか、(アレクサンドル・)カバネル(Alexandre Cabanel)っていうのを。それまでは、それこそブグロー、カバネルは完全に敵役ですよ。印象派があっても理解もしないし、要するに伝統に凝り固まってるだけであると思われていた。それを新しく見直そうっていうのはかなりはっきり出てきました。チュイリエさんは一つ中心だったし、プティ・パレなんかで展覧会いろいろやってましたよね。ブグローの展覧会とか。アメリカもわりにそれはあったんじゃないかな。ジェロームとか、ものがいっぱいあるから。ジェロームの研究は(ジェームズ・)アッカーマン(James Ackermann)ですからね。

池上:でもアッカーマンなんかも、わりと周囲の冷たい視線の中、ジェロームをやってたという感じだったらしいです。ちょうど先月ゲッティに行った時に、ジェロームのすごく大きな回顧展をやっていて、もう素晴らしかったです。アッカーマンの時と違うのは、今はちょうど私ぐらいの世代の、アメリカの若手研究者が、非常にジェロームに興味を持って、新しい視点から見直していく。だから急激に見直しが進んでいるような感じでしたね。

高階:そうでしょう。フランスではやってなかったんだよ。ジェロームっていったらアッカーマンぐらいしかいない。それをやり始めたのはやっぱり、チュイリエさんもそうだし、ハスケルさんなんかも興味持ってましたよね。アカデミズムが大事だから、見直そうという動きがかなり出てきた。

林:日本だと、阿部(良雄)先生がけっこうそのあたりのことをずっとやってらっしゃいますけども。阿部先生とはけっこうお付き合いが。

高階:ええ、もちろん僕はよく知ってました。もともと文学の方だから。クールベやなんかの研究もしておられたので。日本で中央公論社の美術全集出す時に、じゃあクールベは阿部さんに参画してもらおうとかね。阿部さんは、特にボードレールを通じてですが、美術のことをやっておられたので。仏文関係の方はわりに美術を。美術史家ではないけれど小説家の福永武彦さんなんかもボードレールを通してゴーギャンを書いた。ただ、それはいわゆる美術史学とはまったく別のジャンル。阿部さんはそれを学校のきちんとした教科の中に入れてなかったように思いますね。だから、ヨーロッパの新しい美術史学の動きっていうのに触れる、その影響っていうのは国際美術史学会のメンバーの中ではずいぶんありました。そういう方向があるのか、それで見直すとかね。

林:阿部さんの話が出たんでついでに、宮川(淳)さんのこともちょっと。

高階:宮川君は、早く亡くなられたのはほんとに残念だったですよね。彼はもともとNHKにいた。

林:ああ、そうですか。

高階:宮川淳さんでしょ。NHKのディレクターやってたんですよ。その時に僕はなんか引っ張り出されて。NHKとして、ちょうどテレビのカラー放送が始まるという時に僕が帰ってきて。美術番組っていうのは小さいものがあった、まだ白黒だけども。実験的にカラーもやりましょうというので。

林:東京オリンピック前後ですね。

高階:そうですね、ちょうどそうだと思います。宮川さんの年譜を見れば分かる。辞められるまでずっとNHKでやって。その実験的なカラー放送の時に宮川さんがディレクターで、僕が出た記憶がありますね。その時から、いろいろ日本美術のこと、特に現代美術に興味持っていろいろ話はして。評論も書かれるようになって。東野君と論争した時に、いろいろ出てきたりして面白かったですけどね。わりに、良い視点があったと思う。ただゆっくり海外に行ってはおられなかったんですよね。早く亡くなっちゃったなぁ、確かに。残念だったと思います。その頃僕は美術館にいたから、よく来ておられましたね。アメリカの現代美術、ポロックなんかも、宮川さんわりに早くから興味があって。ゆっくりアメリカ回ったことはないのかな、彼は。行ってないと思いますよね。だけど、いわゆる抽象表現主義はアメリカ的なプロテスタンティスムだとかね。

林:そういうことを書かれてますね。あれはちょっと僕はいただけないと思って。

池上:ユダヤ系もいっぱいいますからね。

高階:そうだ(笑)。

林:そうそう(笑)。「アンフォルメル以降」っていう文章は確かにいい文章だと思いますけど、けっこう同じようなことを何度も書かれていて、ちょっと。

高階:いや、でもあれは若い人にインパクトあったんじゃないかなぁ。

林:いや、大きかったと思います、あの文章は。それで意外とやっぱり宮川さんあたりがフーコーとかフランスの現代思想をちょっと紹介して。僕らの世代からいうとそれはすごく新鮮に見えてたところがあるんですけど。でもなんていうか一方では、宮川さんの文章を読むと、観念的な言葉が羅列されていて、ものを見てるのかっていう感じがちょっとあった(笑)。

高階:彼はだから、実際に動き回ってはいなかったですよね。面白いことは面白かったんだけどね。

林:先生は、小林秀雄とかそういう文芸系の人が書く美術に関する文章というのは、どう思われてるんですか。

高階:帰って間もなくだけど、小林秀雄は「ルノワール論がおかしい」っていうのを書いたんですよね。『近代絵画』に対して。

林:『近代絵画』、はい。

高階:で、あれは小林さん一流の文章ではない。なんとなく僕は小林さんの美術論っていうのは、あんまりピンときてない。

池上:どこがおかしいっていうふうに書かれたんですか。

高階:ルノワール論に関しては、要するに小林さんっていうのは絵を見ないで文章を見る人で。ゴッホ論では、ゴッホの手紙とか。それの分析は面白いことをやるけど。ルノワールはあんまりないんですよ、残した文書が。ずいぶんそれで苦労をしておられて。要するにあの人は、そういう典拠がなくって感覚的に書いてるっていうことだけど、まったくそうではない。ルノワールは、非常に知的な画家である、って今度書こうと思ってるんですけどね(笑)。そして作品の様式的な展開のことはまったく触れない。『近代絵画』もそうかもしれないんですけどね、それこそ印象派が持ってる意味もよく分かってなかったので。それを『みづゑ』かな、「ルノワール1884年の危機」っていうのを書いた。要するに直接ではないけど『近代絵画』はちょっとおかしいよってことを言いましたね。

林:それはあの、いわゆる古典復帰をする時代の話ですか。

高階:そうです。小林さんがそこで一番苦労してたわけですよ。感覚的で非常に色彩豊富で豊かな画家っていうことへ行こうと思ったらあれが出てきたんで。アングル風だとかなんとかってちらっと証言あるけど、証明がまったくない。ゴッホなんか手紙を一生懸命分析してね、その中からこれは実はこうだって言えたけど、ルノワールについては言えなくて。小林秀雄さんの評論がなぜ文学においてもあれだけ強い影響力を持ったのか、ちょっとよく分かんない。まあ僕がよく理解してないのかもしれないけど。我々の時代では確かに小林秀雄の影響力ってのは強かったですけどね。

池上:セザンヌ論も書かれてますよね。

林:それも『近代絵画』に入ってますよね。セザンヌ、ピカソ……

高階:どうですか。

林:セザンヌ論は、読んだ時に若い人はやっぱりしびれますよね。これが文学的なレトリックの強さかっていうのかって、あっと思ってしびれて。だけど、よく絵を見たり研究したりしてると、なんとなく、やっぱりこれじゃあちょっと済まないぞって感じになってくるっていう。メルロ=ポンティなんか読んでたのかな。セザンヌ論は、僕の感じではメルロ=ポンティなんかが下敷きにあって、それをなんとなく彼風に翻案してるんじゃないかって後から思いましたけど。だから、メルロ=ポンティも僕は不満があって、セザンヌ論に関しては。哲学のために絵を使ってるっていう、そういう書き方だなっていう。

高階:それはもうセザンヌ問題っていうのは、それは非常に大きい。やっぱり一番扱いにくい相手ですよね。そんな面があるから。こう本人がいろんなこと言ってるだけにかえって具合悪いっていうとこあるんですよね。言い方も、相手によって違ってきたりするしね。

林:そうですね。言ってることとやってることが違ったりね。いまだに困ってます(笑)。

高階:それは、おもしろいね(笑)。

林:でも先生、東大に勤めてからまた(西洋美術館に)戻られるまでに、東大にどのぐらい。20年くらいいらっしゃったんでしたっけ。

高階:東大には1971年に移って、ちょうどあの安田講堂の後で、文学部だけはまだ火種が残ってたけれども、一応正常化してからですよね。文学部は助手がまだ残ってて、研究室がゆっくり使えないとか、いろいろ問題がありましたけどね。一応1971年から1992年の定年までだから、20年ぐらいですね。

林:そうですね。西洋美術を日本で教えることの難しさっていうのは、僕なんかもいろんなことを感じてますけど、どういうところにあるとお感じですか。

高階:一つは完全に資料不足ですよね。これはもう決定的だ。東大は他よりはいいんだって言われてたけど、それでも文献はない。特に雑誌、つまり定期刊行物に重要なものがない。東大も本当にお粗末だった。今でもまあそうでしょうけどね。したがって基本的な資料がない。西洋美術史に関してはアーカイヴもないわけです。だから観念的になるか、方法論の議論にならざるをえないんで。それは、歴史研究の場合には一番つらいとこなので。今でもそうだと思います。向こうに行けば簡単に分かることが、日本では何カ月かけてもなかなかね。

池上:そうですね。いくらインターネットが発達しても、やっぱり一次資料にはあたれないですもんね。

高階:ちょっと一週間行ってくりゃ全部済むのにっていうことが、なかなか済まないことがある。それは今以上に。インターネットもないし。だから、翻訳を通じて向こうの文献と方法論を学んで、ということでしょうね。そして日本にあるわずかな資料で日本との関係をやるとかね。実際になかなか新しいことを西洋美術関係でできない。要するにディシプリンとしての美術史っていうことをきちんと皆でやりたいってことは、東大はわりに皆一生懸命やってくれたと思いますけどね。文献を読むとか、基本的なものはおさえてきたりだとかね。だから、未だにそれは問題だろうな。

池上:研究を志す学生には、現地調査なり留学なりを勧められていたということですか。

高階:そうです。少し真面目にやろうと思うなら、フランスのことやるならフランスに行け、ドイツやるならドイツ、という以外になかなか手がない。その一番基礎になるものはきちんと読んどくっていうのは必要ですけどね。それはまあ難しい問題だなぁ。

林:でも意外と僕がアメリカに行った時に思ったのは、アメリカの大学院に入ってくる学生さんたちは、わりと基本的なものを読んでないですよね(笑)。

高階:あ、そうでしょう。

池上:それはそうですね。

林:日本でずいぶん、ある意味で鍛えられて行ったんで。

高階:基本的教養は少ないかもしれない。最近の学生は分かんないけれども、我々の頃はまだそれは良かったですよ。皆知ってた。アメリカに行って僕が思ったのは、一般的な水準っていうのは非常に低いです。そういう意味ではまあ、今の大学はそうなってるのかな。それを補うためのサービスを大学の先生がやらされるんですよね。ハーヴァードに行って、ヴェルナーさんが講義したとき、学生に今日やるスライドのリストをちゃんと前もって渡すとかね。僕はそんなこと全然したことない(笑)。今もやってない。それからシラバスを書けとか、アメリカで大いにやってましたね。授業計画をきちんと文章にして出して、というのもあるし。なかなか、そうでないと向こうの人は基本的なことは分かってないってことはあるでしょうね。

林:それはそうですね、パノフスキーにしてもヴェルフリンでも、基本的なものはこっちでとりあえず、まあ翻訳も使ってですけど、読んでいたということがやっぱりずいぶん違いましたね。

高階:それはそうだと思う。たぶん知らないでしょう、おそらく一般の学生は。

林:『美の思索家たち』、あれはずいぶん(助かった)。

池上:あんちょこですね(笑)。

林:あんちょこです。あれは確かに(笑)。

高階:あれは実物を見ないで文献ばっかりということはあるけども、ものの考え方とか見方に対してはほんとに勉強になりましたね。ああいうものは、一応皆見ておくべきだろう。

林:それで少し話が遡りますけど、『季刊藝術』の話を前回ちらっとおっしゃってましたけど、もう一度確認というか、その創刊の経緯をお聞きしたい。

高階:あれは確か1967年だったのかな。

林:先生はその発起人の一人みたいな形になってるんですか。

高階:一番中心になったのは遠山一行さんですね。

林:ああ、遠山さんですか。

高階:遠山さんはフランス留学時代からよく知ってたし、音楽会やなんかで一緒になってたから。で、遠山さんは、文学、美術、音楽、領域横断的な雑誌を作りたいっていう意欲を持ってらして。

池上:1967年の春号が創刊号となってますね。

高階:春からってことは、その前の年ぐらいからもちろん話があって。1966年から。僕が帰ってきたのは1959年で、遠山さんも帰ってこられて。その前に『聲(こえ)』という雑誌がありました。知ってる?

林:いや、知らないです。

高階:これは文学関係ではかなり重要だった。『聲』(丸善、1958–1961年)っていうかなり大判の同人雑誌を丸善が出していて。美術も入ってる雑誌で、吉川先生も一時期書かれてたな、中世のことを。文学が中心だったですけどね。中村光夫とか、加藤周一だとか、あのあたりの人たちが中心になって。『聲』という雑誌が一時期、文学の間ではずいぶん評判になった。それも15号ぐらい続いたのかな。それこそ買い手はあると思います。そのようなことをやりたいんだって遠山さんが言っておられたのを僕はよく覚えてるんです。『聲』のことは吉川先生が書かれてたんで知ってたんですけどね。したがって、美術雑誌とか文学雑誌はあるけど——美術雑誌もあの頃は『美術手帖』とか『みづゑ』とかだけですけど——もっと評論を中心にした領域横断的なのがやりたいと。遠山さんは音楽のことをいろいろやっておられたし、江藤さんと親しかったんですよね。僕は江藤淳さんを知ったのは1966年だな。遠山さんのご紹介で、文学では江藤さん。なかなか優秀な人がいると。

林:それは、漱石論とか書かれる前ですか。

高階:漱石論、もちろん書いてましたよ。遠山さんは江藤さんのことは非常によく知っておられて。もう活躍はしておられました、新聞で。平野謙と論争したりなんかしてたんで。それは見て僕も面白いと思った。遠山さんも新聞で活躍しておられて、遠山さんとはお話してたから、じゃあ江藤さんと三人でやりましょうと。つまり文学、音楽、美術。で、実際の編集その他は必要だから誰か適当な人をっていうので古山(高麗雄)さんに。古山さんは、小説をまだ書いてなかった時です。編集長ということで、もちろん同人に加わってもらった。四人だけれども、古山さんが初めて小説発表されたのは、『季刊藝術』の何回目かからですよね。それまでは『芸術生活』という雑誌があって。

林:ああ、ありましたね、『芸術生活』。

高階:あの東野君との論争もやった。古山さんはその編集をずっとやっておられて、なかなかいい方だし、編集に加わってもらおうというので。その四人が何回か集まって話して。最初は遠山さんのお宅に行ったり江藤君とこ行ったり、うちにも来てもらったのかな。最初はそれぞれの家に行って、雑談ぐらいから始まって。しかしどういう形でやろうかっていうのを66年に話し合って。具体的には編集。最初は三人でずっとやってたけど、編集者を本当にできる人っていうので、『芸術生活』で遠山さんも古山さんのこと知ってたし、僕もよく知ってたし、じゃあ古山さん引き抜こうかっていう。それから、財政はもちろん要るんだけど、一般に出すために出版社と組んでやるっていうんで、遠山さんが講談社に話をされて、季刊藝術出版社っていう会社を作りました。宣伝・販売は講談社に任せると。だからこれは講談社の雑誌じゃなくて季刊藝術社の雑誌で、編集や中味は全部『季刊藝術』が持つと。しかし販売・宣伝は講談社に任すという形で始まりました。だから費用は遠山さんが全部個人で持たれたんですよね、最初から。

林:そうですか。

高階:ええ。だから最初の頃はある程度売れてたけれども、それにしてももちろん赤字でしょうね。会社を作ってやってるわけですから。遠山さんがおられたからできたんだと思います。一応小さいけど事務所も作ってやったんで。67年春に始まったから、1966年末ぐらいから何回か集まって話したんだな。名前をどうしよう、『新批評』にしようとか。でもまあ年四回くらいがせいぜいだから『季刊藝術』になって。批評中心っていうと、いろんな分野があるから、文学ばっかりになっちゃうと困るとかね。ということから始まって、春号が出た。美術のことも必要だっていうので、表紙は粟津(潔)さん。この間言ったけど、もう西洋美術館でいろいろ粟津さんにお願いしてたんで、表紙やレイアウトは粟津さんに。最初の頃は、僕は実際に経理は担当してなかったんです。それは大変だったと思いますけど、いろんな専門家を頼んで粟津さんに表紙からデザインをやってもらった。だから創刊号の表紙はかなり統一した斬新なものだったと思いますね。しばらくはずっと粟津さんにやってもらったんです。だから中味も音楽、美術、文学のようなそれぞれの評論とか、シンポジウム形式や座談会とかっていうのを入れてやってたんですね。僕は個人的に言えばその67年の秋からやっと僕はアメリカに行くことになったんですよね。59年に帰ってきて、10年間まったく行ってなかったんだけど、ロックフェラーに呼ばれたから行った。だから『季刊藝術』ができたばっかりの頃、向こうから原稿を送ってた記憶がありますね。何かやんなきゃいけないっていうので。

林:当時は何で送ってたんですか。郵送ですか。

高階:航空便で。航空便しかないですよ、郵送。

林:そうですよね。ファックスってまだ出てないですよね。

高階:ファックスもないし、電話ってわけにいかない、金はかかるしね。航空便であれした。それでアメリカからヨーロッパを回って帰ってくる時に、1968年のフランスの革命にちょうどぶつかったもんだから、その話とか。それから藤田嗣治が亡くなったっていうのがちょうどあったんで、そこから何か書いた覚えがあるなぁ。文学関係はやっぱり江藤さんが非常に頑張っていろいろやっておられたから、新しい人を入れたりもしたけど。美術では酒井(忠康)君だとか、大久保喬樹だとか、いろんな新しい評論の人を作りたいということで。それから日本の近代美術に関して、僕はまあ最初近代美術のこと書いて、土方さんとか河北さんなんかにもお願いしてたということだったですかね。あれ12年くらい続いたのかな。財政的な問題が一番大きかったです。

池上:(資料を見ながら)1979年に終わったとなってますね。

高階:1979年ね。

林:なんとなく僕は雑誌の黄金時代だと思っているんですが。

池上:そうですね。今、そのような雑誌はちょっと見当たらないですよね。

林:その頃、『季刊藝術』でしょ、それから『季刊フィルム』っていうのがあって(注:『季刊フィルム』1968–1972年。これもデザインは編集委員の一人だった粟津潔)。とにかく季刊なんとかっていうのはすごい美術系の雑誌がいくつかあって。『季刊フィルム』っていうのは、たしか一時期中原(佑介)さんが社長されてたんです。

池上:ああ、そうでしたか。

高階:へぇー。それ知らなかった。

林:フィルムアート社の社長なんですよ。けっこう面白い雑誌で、僕はバックナンバーをごっそり手に入れていろいろ読んでいて。だからほんとに雑誌っていう媒体の黄金期ですよ、60年代の後半から70年代にかけて。

高階:そうですか、まあ今から見ればそうかな。書く場所がなくって皆苦労してたっていうような。ヨーロッパに比べて、自由に書けない。

林:今は美術系の雑誌で、長いちゃんとした文章を書ける媒体ってほとんどないですよ。

高階:ないです。

林:ないに等しいですよね。

高階:その頃から『季刊藝術』の場合も美術系がゆっくり書く場所だと。文学でもそう言ってました。つまり新聞の批評とか、雑誌も『美術手帖』なんかの展覧会評をせいぜい何行かっていうのを皆いろいろ書いてた。それ以外にちゃんとしたものを書く場所が無いから、それを出そうってことで。音楽でもそうだって言ってました、遠山さん。演奏会批評とか、要するに新聞批評だけで。

林:いわゆる、レヴューはあるわけですね。

高階:レヴューしかない。だからレヴューでちゃんとしたことが言えない。少し長いレヴュー・アーティクル式のやつは、アメリカではよくやりますけど。出た本を種にしながらけっこう長いレヴューを書く、ニューヨーク風の。

林:『ニューヨーク・レヴュー・オブ・ブックス』ですね。

高階:3、40枚。場合によっては5、60枚ですよね。本のことよりも自分のことをいろいろ(笑)。ああいうことをやれる雑誌っていうのがぜひ欲しくて。あれは非常に面白い。

林:あ、最初にイメージがちょっとあったわけですか。

高階:ありました。アメリカの時から『ニューヨーク・レヴュー』は非常に。わりに政治的にはっきりした立場があるから、面白いといえば面白いし。

林:『タイムズ』のリテラリー・サプリメントとか。

高階:ある。タイムズのリテラリーもそうですけど。書評って言っても、日本の書評はとてもできない。

池上:紹介ですもんね。

林:なんなんでしょう、書評文化がないというのは。それも不思議ですね。

高階:不思議ですね。

林:僕も読売の書評2年やりましたけど。

高階:ああ、やってましたよね。

林:もう本当に短くて。最初は驚きました。大評ってのが800字で、小評は400字だった。400字ってのは、もうなんか芸の世界ですよ(笑)。

池上:ほんとに紹介するだけ(笑)。

林:俳句の世界みたいな(笑)。

高階:その芸がみんなあったと思う。

林:芸はあったと思う。

高階:わりに短く、なんか一応ちゃんと言えるっていうね。書評っていうよりもその本の紹介ですよね。だから文句はつけない、新聞批評は。文句つけるものは取り上げないっていう。だから問題作だったら取り上げて文句つけて批評っていうことは、日本のジャーナリズムはないですよね。

林:ほんとに充実した書評誌があるかないかで、ずいぶん状況が違うと思うんですよね。そうか、やっぱり『ニューヨーク・レヴュー・オブ・ブックス』とかがやっぱり念頭にあったんですね。

高階:今は評論を書く場所ってのは。

林:無いです。

高階:君の場合なんかは、最初から単行本で出してたの。

林:あれは最初から単行本ですね(注:『絵画は二度死ぬ、あるいは死なない』のシリーズ、ART TRACEから2003–2009年に出版)。

高階:昔から無いんだよね。展覧会評もそうだし。

林:だから『美術手帖』。

高階:『(美術)手帖』はまったくだめになっちゃいましたね。昔はある程度書かせてた。吉川先生が書いておられたりもしたんだけど。まったくだめで、週刊誌みたいになっちゃった。だから『手帖』、僕はあまり近頃は見てないです。

池上:宣伝誌みたいですよね。

高階:ああ、そうですかね。

林:ほんとにある程度長い文章をちゃんと載せられたのが、僕が「美術史を読む」っていう連載をしたのは1996年なんですけど。あの頃までかもしれません。

高階:ああ、田中君やなんかとやった。あれ『手帖』ですね。あれは面白かった。

林:あの頃がほんと最後じゃないかな。あれもかなり抵抗が編集側にはあって。

高階:ありました。

池上:そうなんですか。

林:そうなんですよ。あれは一回30枚って約束で、僕はもう全然だめで、70枚ぐらい書いた。それで、お金要りません、30枚分でいいから載せてくださいって言って。そしたらその時の編集長がわりと理解のある人で、「じゃあ、いいです」って載せてくれた。長いものはとにかくだめだっていうのはあの頃からありました。今は依頼があっても、「だいたい2週間で20枚ぐらいでどうですか」みたいな、そんな感じですね。

高階:だから、僕の頃はまだ『みづゑ』もあったし、『三彩』も2、30枚くらいのものは連載させてくれて、『手帖』があったっていうことですね。

林:というか、評論や批評っていうものは、要請されていないっていうか、ニーズにない、今おそらく。

高階:そうなんでしょうね。

林:たぶん、そう思います。なんか求められてるなって感じが全然しないのね。

池上:それはそうかもしれないです。

高階:それは日本の画壇の制度と関係あるのかもしれない。

林:どうなんでしょうね。

高階:要するに、生産者と消費者のつながりという役目は、批評はあまり果たしたくないんだ。ということは、別の回路で、売れる人は売れてるわけだから(笑)。それは団体展とかね、日本画のあれとかって。売れない人はまだ売れなくて困る。

林:現代美術は、なんかアートフェアとかああいうもので、わりと画廊さんとコレクターが今もう密接にというか一緒に動くようになってきてる。評論家が何を言おうと、あとは関係ないのかなって。

池上:あとはブログ批評的な、インターネットで語られる言葉が補完的にきているというぐらいで。でも匿名の批評っていうのは、無責任なところがありますし。

高階:(池上に向かって)あなたは新しい現代をやるっていうことで、発表する場所は何ですか。学校の紀要とかなんかはもちろんあるけど、あとは学会誌。学会誌もしかし、なかなか難しいでしょうね。

林:場所はないよね。

池上:そうですね。今度ようやく本を出すことになりましたが。

高階:あとはなんだろう。展覧会カタログを利用して、思い切ってなかなか。

池上:林さんなんかはね、そうですよね。書かれてますよね。

林:まあそうですね、展覧会とか、ほんとにマイナーなメディアにちょこちょこ書くって感じですよ。

池上:すみません、さきほどお話に出た、大原美術館の館長になられてからのお話も少しお聞きしたいんですけれども。

高階:僕は東大を1992年に定年退職して。

池上:で、こちら(西洋美術館)の館長になられて。

高階:館長になって、8年間いたのかな。で、2000年に館長職が終わりました。その後はふらふらしてたんだ、どこも口もないし(笑)。2年ほどして大原に、美術館ということになったわけですよね。大原美術館は昔からもちろん知ってたし。(大原)孫三郎さんは僕知らないけど、二代目の總一郎さんていうのは現代美術に非常に興味があった人です。孫三郎さんっていうのは最初にお話しましたけど、大原家自体が江戸時代以来のあそこの大地主でもあったし、裕福で、自然に当時の画家とか役人たちが来て、もう江戸時代から来てやってる。(浦上)玉堂なんかもそうですけどね。そういう人たちを泊めては。まあ逆にそういう人たちがいたから、芭蕉もあっちこっち行ったりっていう便利があった。大原家自体も古いものがいろいろあったし。孫三郎さんの時代には、特にお茶会。明治期は、お茶道具なんかは美術史の対象ではないんですよね。だから道具と言ってた、作品とは言わないで。お道具をいろいろ集めて。そうすると趣味のある益田鈍翁だとか、そういう人たちがお茶会を開いて。同時にまあ新睦会でも情報交換会でもあったでしょう。日本のお茶っていうのはだいたいそういうもんかな、昔から。江戸時代、戦国時代でも。それによって名品がずっと伝わるっていうこともあるし、逆に言えば、絵巻を茶掛けにするために切ったりっていう途方もないことをやったりってこともあるんですけどね。孫三郎さんは、お茶会もなかなかちゃんとしたものをご自分でもなさった。18世紀頃の文人画や金物には興味を持っておられて、お道具類はその後ずいぶん手放されたらしい。美術館だけじゃない、実際の経営の上での問題もあったかもしれないしね。ただ、掛け軸関係は残っていて、その中に国宝に指定されてるのは二点。雪舟がありますし、それから元の時代、これまあ作者はいろいろ議論があるけど、元の出だっていうことは明らかな。桓野王と称してるけど、宮廷の女性の描いた宮女像があります。あと玉堂がいっぱいあるし、(青木)木米があるし。それは大原さん個人のコレクションですが、大原美術館としてはそれも見せていくという。今年はちょうど80周年記念です。大原美術館ができたのが昭和5年、1930年ですから、ちょうど80周年目で、なおかつ孫三郎さん生誕130周年になる。たまたまですけどね。だからその記念の催しをやるというので。私はその35周年の時に…… ということは昭和5年のプラス35年周年ですね。

林:昭和40年、つまり1965年?

高階:1965年ですよね。35周年記念で、非常に總一郎さんは現代美術熱心だから、總一郎さんの時代にやった大きなことは、現代ものを入れる。だからフランスでもアメリカでもアンフォルメルだとか、アクション・ペインティングものを入れる。マチウだとかアルトゥングだとかフォートリエから始まって、デ・クーニングだとか、そういうものが入ってきたんです。ポロックも入って。

池上:あの《カット・アウト》(1948–50年)という作品はどういう経緯で大原に入ってきたのかはご存知ですか。

高階:あれも面白いですね。これは調べたらわりにはっきり分かってるはずです。總一郎さんの時代だな。あれは画商さんを通してだと思いますけどね。よく入ったって言えばよく入ったですね。

池上:ポロックの中でも一番大事な作品の一つですから。

高階:大事な作品なんです、そうなんですよね。その辺のあれは、愛知(県立美術館)にいる大島徹也君が少し調べてたんだな。

林:なんか今度ポロック展やるらしいですね。

高階:ポロック展をやるから、分かってるはずです。そういう現代ものに非常に興味を持っておられて。それから総一郎さんの時代に買った日本近代をやる。これは、西洋の近代が入るから同時代の日本ということで、洋画、油絵に限ってるわけですけどね。明治初期、まあ青木繁あたりから、同時代も堂本(尚郎)君とか今井(俊満)さんなんかまでを入れる。その35周年記念では、現代美術のシンポジウムを大原美術館でやったんですよね。非常に面白い。その時に、大岡(信)さんや中原君、まだ新米だけど僕も呼ばれて。それから堂本さんが作家として来られた、わりに大きなシンポジウム。それに長老の、当時一番偉い今泉(篤男)さんとか土方(定一)さんとかも来られて、かなり大がかりなシンポジウムやったんですよね。それ以前から僕は夏期講座っていうのをあそこでやっていて、夏の間だけ美術史的な講座をずっとやる。それにも何回か呼ばれて、ご縁があった。大原美術館にはだからちょくちょく行ってました。作品ももちろんいいのがあるということはあって。ずっと決まってではないけれども、わりに夏期講座は続けてやったことがあって。それで、西洋美術館の館長がまあ終わって、2年ぶらぶらしてた時に、じゃあ大原でっていう話があったんで、2年から行きました。僕はそれは喜んで行きました。

池上:それは總一郎さんが……

高階:じゃなくて謙一郎さん。總一郎さんは比較的早く亡くなられたんですよ。それはたいへん残念だったんですが。で、總一郎さんの子どもの謙一郎さんっていうのが、これはもともとはもちろん、クラレの仕事をやっておられたし、中国銀行の副頭取もやられたし。イェールに行かれた方ですけどね、東大を出てからイェールに。しかし、もちろん美術のことが非常に前から興味があったし。總一郎さんの跡を継がれたわけだから、美術館中心になってやっておられた。「じゃあ館長に」って言われたんで、僕はやりましょうと。孫三郎さんが西洋近代を入れた。總一郎さんは西洋の現代と、まあアメリカも含めてですが日本近代を入れたんです。だから第三代目として、今までの続きは当然やるということと、この80周年を機に新しい方向に。それで日本の近代以前の作品が孫三郎さんの時代からありますから、「日本美術への眼差し」という展覧会をいたしましょうと。そうすると国宝があって、今は京博に預けてあるわけですが、それを取り戻すっていうか持って来て、それから大原さんとこにある指定品も含めて。だから形としては、そのうちの一部は美術館が買いました。大原コレクションから何点か、(円山)応挙、(与謝)蕪村、(狩野)探幽、(長沢)芦雪なんかはもう美術館の所蔵にすると。それから中国ものでは、五牛図巻という面白い、古い、牛をずらっと描いたものがあったし。そういうものを見たら、かなり傷んでるものですからね。そういう美術館所蔵品、それから美術館に移ったもの、それから大原さん個人のものも含めて。しかし、謙一郎さんは個人としてはずっと持っててもしょうがないっていうことを考えておられるらしいけど、それも含めて。だから形では個人コレクションですけどね。
 それで倉敷の個人コレクションと美術館のもの集めて、「孫三郎の日本美術への眼差し」という展覧会をやる。そのために分館の東絵画室に新しい展示ケースができる。指定品を並べる条件がありますからね。許可を取るための新しい展示ケースを作ったばかりです。1月末から始まるのかな。ということで、古いところでは今のところ蕪村とか応挙とか、17、8世紀が多い。それから鎌倉のもので、これも重要文化財の過去現在因果経があるわけです。これは寄贈していただいたんで、個人からのもの。それも含めて、国宝や重文に指定されているのが7、8点になるのかな。それで新しい展覧会を。日本美術の場合にはずっと続けてできないですから、入れ替わり立ち替わりだけど。ですからこの買ったものを全部出すわけにいかない。周りも見ながら少しずつやる。
 總一郎さんの考えは、美術館というのは単なる倉庫・墓場ではないと。常に成長する。だから現代美術が新しくなれば新しいものを美術館に入れるべきだっていうことが一つ。それから、国際的なつながりが強いもの、特に近代現代。日本もそれに入ってるので、日本近代も見せなきゃいけない。日本近代美術も、總一郎さん時代のもので重要文化財になってるのが二点ありますけどね。だからそれも続けると。そうなると、日本と西洋が切れてるだけじゃなくて、日本の近代だって実は江戸から続いてる。日本の近代美術の問題は、大学でもわりにそうだったけど、要するに美術史は江戸まで、っていう感じがあって。だから近代、現代ものは20世紀はやらないっていう大学はなんとなくそういうのがあってね。だからグリーンバーグなんかやろうなんて言ったら何あれっていうことになる(笑)。ラウシェンバーグだって無理ですよね。というけれども、それはつながってるし。近代も近世ともつながってると。江戸の見直しというのはあるから、それもつなげて。
 だから大原美術館に行ったときに、もちろん従来の美術館の活動を続けるけれど、横軸と縦軸を広げましょうと、僕は最初から言ってた。横軸ってのはつまり空間的に、江戸時代の町とのつながり。しかし、国際的な広がりですね。外国との美術のつながりをもっともっと広げるということ。縦軸ってのは歴史だから、実は近代も昔からつながっている。遡れば日本の文化っていうのと。文化っていうのは蓄積であり、交流の成果であるっていうことが分かる。そういう場としての美術館を作っていきたいということはある。それがちょうど80周年記念で今年、それができることになった。僕が来てからあそこでは、従来のものもあるけれど、新しい現代の日本の作家っていう特別展をいくつかやりました。それで美術館も小さいから場所がなくていつも困ってるわけですけど、大原家の別邸で有隣荘っていうの。行った?

林:いや行ってないです、僕は。

高階:有隣荘っていう別邸があってね、すぐ向かいにある。

林:ああ、いや、そういえば行きました。ずっと昔ですけれども。そこで(浦上)玉堂見せてもらったことがあります。

高階:ああ、出したことある。

林:ええ。

高階:大原さんのお宅もあるわけですよ、もちろん。すぐ川向に。それは、だいたいお宅自体が指定品だから、やたらに手が加えられないって言って、「寒い、寒い」とか言ってましたけども、実際そこに住んでおられて。江戸時代のおうちがあって、そのすぐわきに孫三郎さんの時代に別邸を作られた。迎賓館およびご家族の特別のお年よりの方がお住まいになる場所っていうんで作られたんですが、実際にはあんまり使われなかった。美術館ができたのは昭和5年て言いましたよね。その2年ぐらい前に作ったんですよ。それが今は別邸と言ってますけれども、昭和の初期ですから建築としても面白い。和洋折衷でエジプト式の洋間があって、もちろん和室もあって。お庭が小川治兵衛って、ずっと京都で代々やってた小川の7代目の方がやって。お庭もなかなかいいお庭で、かなり金をかけたらしい。結局美術館建築よりも金がかかったそうですから(笑)。立派な建物で、材料もきちんと吟味した。薬師寺主計(かずえ)さんっていうアール・デコの建築家で、建築としても面白いんで。大原美術館もその方の設計で、プラス内装に関しては児島虎次郎がデザインをしてるっていうので、建築の人がいろいろ見に来るんですよ。建築史として面白いから。それから庭園史の人が調べたいとか。

林:堀口捨己なんかと関わるんですか。

高階:直接的じゃないと思うな。この間も、東大の鈴木(博之)さんの学生がやってますよね。藤森(照信)さんが岩波の『日本の近代建築』(岩波書店、1993年)書いた時に、「日本の近代建築は全部見た」って威張ってたけど「あ、これ見てなかった」とか言って見に来て(笑)。それで感激してましてけどね、面白いものだって。でもそれは、常時公開するわけにいかない。だから美術館が管理して、春と秋には特別公開しましょうと。特別公開って建物だけじゃなく、いろいろ作品も見せよう。じゃあ若手の作家に、あそこに新しい作品を作ってもらうということで。春の時には必ず若手作家に、あそこをテーマにしてあそこに並べるものを作ってもらう。最初は福田美蘭さんに頼んだ。

池上:それは拝見したと思います。

高階:そうですか。それが有隣荘特別展の始まりです。秋は、大原美術館が持ってる古いもの、明治以降でも西洋のものでも、見せてないものがあるわけですから、大原の普段見せないものの特別展をやると。芹沢C介の衣装だとかいっぱいあるんだけども、普段は芹沢館に並べきれないから、その特別展をやるとか。棟方(志功)さんのもやったかな。棟方志功もずいぶんいっぱいあって、普段は版画しか見せないけど、肉筆の屏風もあるんですよ。それを見せるとかね。そういう春と秋の特別公開を。春の時は福田美蘭さんから始まって、毎年なんか新しい人を。

池上:それはレジデンスという形で招待をされるんですか。

高階:それとはまた別なんです。いいことをおっしゃった。現代では、大原の有隣荘特別展と、それからアーティスト・イン・レジデンスも、これは少し遅れてですけど、僕が来てから始まった。あそこでやったのはあなたがご覧になった以外に、やなぎみわさんとか、鴻池朋子さんとか、それから会田誠、小沢剛、それから山口晃あたりにあそこで展覧会やってもらって。

池上:それとは別に、レジデンスもプログラムとして。

高階:展覧会をやった時には、作品も入るようにする。それとは別にレジデンスっていうのを。虎次郎っていうのはなかなか面白い人で、孫三郎さんより一つ下だから、来年が生誕130年になる。生誕130年記念児島虎次郎展。虎次郎は日本であんまりやんないですよね、展覧会。

池上・林:そうですね。

高階:虎次郎は帝展にも出してたし、パリにはポンピドゥーにも作品があって、それからベルギーにずっといたからベルギーのゲントにも今並んでますけど。日本であんまり知られないのは、ほとんど作品を売ってないんですよ。彼は孫三郎さんと非常に仲が良くて、フランス留学ももちろん孫三郎さん(の出資で)。児島虎次郎はたいへんよくできて、大原家の奨学金をもらって東京美術学校に入って、黒田清輝の弟子になって。非常に評判が良くて、あの頃は飛び級っていうのがあったのかな、4年間を2年間で進んだ。2度飛び級をやったから2年で卒業して、研究科っていう今の大学院に入った時に、東京府勧業博覧会っていうのがちょうどあって。それに「お前出せ」って言われて出したら一等取っちゃった。その作品も残ってますけどね。それで孫三郎さん喜んで、「じゃあお前初めてだからヨーロッパ行け」っていうんで、5年間行ってこいっていうんで。よかったよね(笑)。それでパリへ行ってベルギーへ行って、ベルギーの美術が合ったんだな。ベルギーのゲントの美術学校で首席。これはいろいろ調べて、美術学校の記録も見ました。ちゃんと首席で卒業して。そして、その間に日本に(絵が)欲しいっていうことがあって、孫三郎さんに頼んで絵を持って帰るってことがあったわけですよね。最初の時は一点だけ持ち帰って、その後は第一次大戦があったけど、もう一回、自分の勉強と同時に集めたり。それが美術館の始まりです。孫三郎さんは日本のものは持ってたけど、西洋のことはよく分からない。一度も行ってないわけですしね。
 これは松方さんとの違いで、松方コレクションは松方さんが行って買ってるけど、孫三郎さんは児島に任せると。その代わり良いものを買えっていうので。それで児島虎次郎が、モネのところ行ったりマティスのところ行ったりして買ってきた。それが始まりですから。同時に、児島さんはもちろん画家としてもずいぶん活躍して、帝展出品作にも非常に良いものもいっぱいあるんです。ただ、(孫三郎さんが)「売り絵は描くな」と。だから生涯大原さんに面倒見てもらって、売ってないんですよ。売ってないからあんまりマーケットに出ない。大原美術館が二百数十点かな、非常に良いものがあります。それから生まれ故郷が近くの成羽町で、そこに美術館があって、故郷のものがいくつか。あと、岡山近辺には関係があって絵を寄贈したり。石井十次って、福祉をやってた人がいる。そこで縁があったから、絵が残ってたりですね。岡山近辺には若干あるけど、他の美術館にないから、知られてないってことがあって。
 だから虎次郎の大回顧展のために、今はカタログ・レゾネを作りましょうっていうのをやってるんですが。そういう意味で虎次郎さんの存在は非常に大きいんです。有隣荘を作る時も、建築は薬師寺さんだけども、中の欄間の飾りに虎次郎さんが龍の紋、ドラゴンをかたどった透かし紋を作ってはめたり、いうことをやっておられるので。というのは、孫三郎さんが辰年なのかな。だから辰が、龍のあの紋があって、それから虎次郎が虎だから、虎と龍が(笑)。この間、春の有隣荘の時はヤノベケンジに来てもらって、虎と龍で、テーマで新作やってましたけどね。というようなことがあって、孫三郎さんは虎次郎が帰ってきたときに、アトリエまで提供するわけですよ。それが倉敷からちょっと離れた、まあ自転車で14、5分のところ。高梁川のすぐ近くに立派な場所があって。そこにアトリエと住まいも作って、ちゃんと仕事ができるようになった。

林:うらやましい(笑)。

高階:うらやましいですよ、非常に。

池上:素晴らしい、理想的なパトロンですね。

高階:ええ。そのアトリエが、特に虎次郎さんは最晩年、今明治神宮にある聖徳記念絵画館のために、明治天皇のご事績を当時いろんな人に頼まれて。日露戦争のための御前会議かなんかのテーマで依頼を受けて。それでもうたいへん名誉だからっていうので、アトリエをいっぱい建て増しして、大きなアトリエに。でも、結局その絵は完成されずに亡くなっちゃうんですよね。非常に体が弱かったので。聖徳記念絵画館には、その後友達の吉田?(すすむ)っていうのが受け継いでその絵が入ってます。児島さんの遺志を受けた形で入ってるんです。

池上:その方が完成させた。

高階:完成させた。だからいいアトリエが残ってるわけですが、児島さんが亡くなった後はそれっきりになってたわけです。それはちょっともったいないというので、そのアトリエに作家に来てもらおうっていうので。

池上:それがレジデンスの起源なんですね。

高階:レジデンスの始まりです。最初に津上みゆきさんに来てもらった。そこに2、3カ月ぐらい。ただ、昔のアトリエでそれっきりもう使ってなかったものですから、手入れは行き届いてない。まあ使えるようにはしたけれど、ガスも電気もないから、昼間しか行けないわけですよね。だからレジデンスだけれども住まいは倉敷の町のマンションを美術館が用意して。そこに住んで、お日さまとともに行って、暗くなれば帰ってくるということです。ただアトリエとしては、広々として非常にいいアトリエで。だから津上さんも、それからあと町田久美さんとか浅見(貴子)さんが、普段はなかなか描けない大きい作品が自由に描けると。三瀬夏之介なんか張り切っちゃってね、壁いっぱいに描きまして。ていうことを、何カ月か来てもらってやるというのを毎年やりました。それは、必ず展覧会を秋にやると、その成果を。そして、一部分は美術館に入れる。だから有隣荘での特別展と、それからアーティスト・レジデンスと。

池上:二本立てのような形で。

高階:プラス三本立てで、AM倉敷っていうのもやったんですけどね。これは三年ぐらい前かな。AMっていうのは、ラジオのAMじゃなくて、アーティスト・ミーツ・倉敷だったですね。これは最近の特に映像系、あるいは音響系、それからパフォーマンス系の作家たち。これはレジデンスでアトリエに籠るわけじゃないんで、街で写真を撮ったり映像でやったり、それからパフォーマンスで一緒に踊りをやったりっていう。これはだいたい中堅クラスの人に毎年お願いして。作品としては写真だったりビデオだったりです。そのAM倉敷という新しい方向と、三本立てで若手が新しい方向に行きましょうと。だから、縦軸では未来に向かって若手のものを入れていく。そして過去に向かっては備前に、というのが80周年のこれからの動きだっていうことになります。

林:大原はこれまでも、いわゆる企画展ていうか、例えばなんとか展が巡回してきて、というような形のものは。

高階:これはですね、まず場所が非常に少ないんで(あまりやってない)。戦後はやってました。僕はもちろんまだ知らない時で。孫三郎さんの時代から、戦後で總一郎さんになってからも、中央から人を呼んでの講演会とかはあった。今も続いてますけど、日曜講演会っていうのをやって、美術に限らず政治家を呼んできたり、教育者を呼んできたり。孫三郎さんの事業で、今年もう一つ、大原ネットワークっていうのを作った。孫三郎さんは美術館も作ったけど、それ以外に、今でいう社会貢献をいろいろやった。重要なものが、今もある倉敷中央病院。これは、もともとは工場の従業員のためのものですけど、非常にお金をかけた立派な病院で。僕もだから倉敷で病気にかかるとそこに行くんですが。中庭に熱帯植物を置いて、図書館に二万冊本を置いてという、かなり贅沢な病院を作って。模範的な良い病院。今でもなかなか良い病院だと思いますけども、それを作られた。それから、地区の農業はもともと養蚕だから、農業科学研究所っていうのを作られて、新しい農業方式を考えて。これは現在岡山大学に譲って、岡山大学の研究所になってます。それから、社会問題研究所っていうのを作ったんですよね。労働争議なんか起こった時代ですから。『女工哀史』(細井和喜蔵著、改造社、1925年)なんかがあった時代、従業員の社会問題が大事だと。孫三郎さん、あの人若い頃はさんざん遊んだっていうんだけど、当主になってからはちゃんとして、倉敷ではそういう労働争議は全然無かったそうです。病院も最初は従業員のため。女工さんたちも含めて、きちんとしたいと。そのために労働管理所を作った。それが、現在は法政大学にあります。法政大学大原社会問題研究所。

林:ああ、ありますね。

高階:大原家の名前残ってるんです。孫三郎さんの良いところは、作ったらどんどん他に譲っちゃうんですよね。農業科学研究所は岡山大学になったし、社会問題研究所も法政大学に。この時は、河上肇のとこ行って「所長になってくれ」って言ったとかね(笑)。でも「おまえ資本家なのになんで来るんだ」って言われた(笑)。森下辰夫だとか、左翼系の人たちも入れてとにかく研究をやるっていうのを作られたんです。それから労働科学研究所というのも作られた。これは今、独立して倉敷にあります。そういうものが、大原から離れてもいまだに続いてる。美術館だけは大原美術館で、ただ財団法人になってますけど。それで、法政と岡山大学と労働学研究所と中央病院と美術館で、大原ネットワークっていうので、現在どういうことをしてるかっていうシンポジウムをやりますけどね。美術に限らず、孫三郎さんの社会貢献について。美術館も、美術館は譲んなくて良かったんだけど、あそこの土地は大原家のものだったのを市にあげちゃったんですよね。だから土地は市のものになって、今は地代払わなきゃいけなくなって(笑)。

林:ああ、そうですか。

池上:払ってるんですか。

高階:ええ、真ん中の新渓園の公園を使いたい時には市にお伺いをたてて(笑)。許可を得ないといけない。まあ面白いっていうか、社会のためっていうことなんでしょうね。

池上:でもそういう経緯がありますから、市も当然協力的に。

高階:まあもちろん美術館のためにいろいろやってくださってるんですけどね。そういう形で、美術館の活動というものを広げていく。だから美術館は今にも、過去にも、将来の若手にも目を向けると。それからあとは、地域社会との結びつきで。これはもうどこでも最近やりますけど、子どものための美術館とかですね。町の屏風祭と一緒にやるとか。つまり社会に開かれた美術館ということも大いに考えると。今の課題はそういうことかな。

林:すごく細かいこと聞いていいですか。大原が持ってるセザンヌ、あれは『白樺』の。

高階:そうです、白樺美術館のためのものです。

林:ああ、そうですか。じゃあ白樺の人たちともつきあいが。

高階:そうです。孫三郎、總一郎のもう一つの事業は民藝への援助ですよね。孫三郎さんの時代からですが。東京民藝館作るときも、孫三郎さんがごっそりお金出したらしいです。それから倉敷にも民藝館を作りました、今は独立しましたが。特に柳宗悦と親しくて、その縁で河井寛次郎や浜田庄司がしょっちゅう遊びに来てた。棟方さんもそれで来たんですよね。總一郎がまだ若くて、まだ孫三郎さんのもとへ帰ってきたばかりの時、孫三郎さんがたいへん気に入って、「自分の家の襖絵を書いてください」って。屏風と襖絵が残ってて、前に棟方さんの肉筆を見せたっていうのはそれなんですが。これは大原さんの室のものだけども、肉筆の立派な鯉を描いた屏風一双とか、山水の屏風とかです。それから軸ものでも、かわいらしいホオズキ、ミミズクの絵とか、けっこういろんな肉筆が残ってる。それはなかなか見せられない。もちろん、版画もいろいろあって、棟方さんのは全部そろってるわけですが。そういうものも含めて、パトロンをやってたわけですね。だから柳さんとの関係で、志賀(直哉)さんとか、梅原(龍三郎)さんとかしょっちゅう来てたらしい。35周年の頃は梅原さんも来ておられました。長老で招かれて。その前からも志賀さんはしょっちゅう来てて、30周年の時も来ておられた。僕はまだいなかったですが。「美術館っていうのは絵を大事にしなきゃいかん」とかなんとか志賀さんが言って、「だから絵の前で煙草吸っちゃいかん」とか言いながら自分で煙草吸ったっていう(笑)。梅原さんなんかもずっとお元気だから、僕もよくお話してました。その時、武者小路実篤さんも来ておられた。武者小路さん、志賀さんが中心になって、『白樺』が明治43年にヨーロッパのものを入れるっていうので。

林:なんか共同でお金出しあって買ったんでしたっけ。

高階:あのね、まず43年に創刊して、次の年ロダン特集号を出したわけ。

林:ああ、そうでしたね。

高階:それでロダン特集号をロダンに送ったわけ。その時に日本の浮世絵もついでに、まあ新しいものだけども、送って。ロダンが喜んで、三点送ってきてくれたわけです。小さいんですけどね。三人の踊り子(《或る小さき影》、1890–91年)と、《ゴロツキの首》(1885年)と、奥さん(《ロダン夫人》、制作年不明)の。小さいけどロダンから贈られた彫刻が来たっていうんで、『白樺』に書いてあります。それじゃあ白樺で美術館も作ろうやって話が出てきて、作品も買おうとかいうことになって。ただまあお坊ちゃんだったから実際の経営の知識もあんまりなかったんだろうな(笑)。展覧会はやりました、白樺美術館のための展覧会っていうのを、今のロダンの三点をはじめとして買ったものいくつか。それが、結局美術館を作るとこまでいかないし、バラバラになっちゃったのもあるのかな。誰がどうやって入れたかも分かんない、というので。ただ柳宗悦さんとの関係で、そのロダンの三点は美術館で預かってほしいと。今も美術館で預かってます。その後になってセザンヌも。美術館はできないけど、大事なものを持っておけないから、預かってほしいっていうので。これも最初のうちは、わりに簡単にじゃあ預かろうって言えた。でも正式にはちょっとそれだけでは困る。で、僕の前の館長の藤田(慎一郎)さんの時代、まだ武者小路さんがおられた頃に、きちんと書類にして、白樺美術館のものを美術館に永久寄託した、という書類はもらったんです。だから形としては永久寄託ということで。あのセザンヌ、なかなかいいですけどね。

林:そうですね。

高階:それも、『白樺』の誰が買ったんだろう。武者小路さんと志賀さんの手紙はあるけど、他の同時代の記録は、よく分からないんだけど(笑)。

林:当時の白樺の人たちが団体で写ってる写真の背景に、あの絵が写ってますよね。

高階:あります。野島康三の写真に、あれがちゃんとあるんです。あ、こんなとこにあったっていう。大事なセザンヌですからね、それ見るとたいへん面白い。わりにのんびりした人たちだから、よく分かんないとこもあるわけですよ。どういう経緯でものが入ってきたか。彫刻三点だけははっきりと贈られたっていうことが残ってるんですけど。

池上:届いた時の記述がありますよね。すごく感動して、開けたという。

高階:そうそう、非常に喜んで。だから、その縁で「白樺100年」っていう展覧会を今年やりました。大原では場所がないから、アーティスト・イン・レジデンスの作品は出来上がったものを秋に一部屋だけ成果を見せる。春には有隣荘で、新しく頼んだものを見せる。それ以外には、テーマ展っていうのをいくつか。これは、部屋をコレクションのテーマでいくつか使って。今年の1月にやったのは「白樺100年」ということで。セザンヌやロダンもそうですが、さらに『白樺』の雑誌を出したり他からも借りたり、志賀さんが来た時の写真も見せて、大原と『白樺』との関係というテーマで。今年は白樺100年で他でも展覧会やってたけどね。

林:どこかでやってましたね。僕は見逃しちゃったんです。

高階:けっこう面白かった。その展覧会に、大原も貸しましたけども。大原の場合には一部屋だけ使ったんで、特に大原と関係のあったもの、文献資料を中心にそういう特別展をやると。テーマ展では一部屋だけなので、横浜美術館の持ってた芸術家の写真を見せた。横浜美術館は写真をいっぱい持ってる、ピカソだとかブラックだとか、マティスの写真をマン・レイが撮ったとか。シャガールの写真とか。それを借りてきて、大原の持ってるその作品と並べて、写真と絵画っていうのをやった。そうやって外国のものを見せると。それから、金毘羅さんと一緒に瀬戸内海を挟んで、金毘羅さんのお宝を見せるっていうので。金毘羅さんにはうちの西洋画が。大原のマティスを金毘羅さんに並べたり。

池上:面白いですね。

高階:ええ。そういう部分を使っての特別展。それ以外にまとまった大きな特別展はなかなか場所がないんですよ。最初にやったっていうのは、戦後間もなくで。51年にマティス、ピカソ、ブラックの展覧会が、東京で非常に大きいのありました。それからルオー展。それが大原に来てるんですね。

林:ああ、そうですか。

高階:だからあの時、東京でマティスと光琳の非常に大きな展覧会があって、それが次は大原に来て。つまり、他に場所がなかった。美術館がないわけですからね。總一郎さんは非常に熱心で、マティス展、ピカソ展、ルオー展が来た。それは当時の記録が残ってます。

池上:巡回するように。

高階:その時は全館もちろん使って、大がかりでやった。そういう形の大きな企画展ていうのは、それ以後は場所が全くないわけです。何かやるとすれば、去年は大原総一郎展っていうのやりましたけど。それは分館の地下を全部使って、總一郎さんが集められたもの、今のマティスやピカソの展覧会の写真資料も含めて、總一郎さんの活動を示すために。まあ特別展といえば特別展ですけど、それ以外にそういう大きなまとまった展覧会はちょっとやりにくい。場所が欲しいですよね。

池上:贅沢な悩みというか、他の美術館は、箱はあっても見せるものがなかなかっていう悩みがあるわけですから。

高階:中味が(笑)。まあ、それはどっちもどっちだけど、やっぱり箱は欲しいよな。

林:購入費とか、そういうのは、やっぱり行政からも補助ももらってるんですか。

高階:それは、前からそうだったし、今の謙一郎さんも、一銭も受けないと。

林:ああ、そうですか。

高階:ということで、いまだに受けてません。

池上:ひも付きのお金はよくないという。

高階:ひも付きはね、受けるとやっぱりめんどくさいんですって、使い方が。大原は指定品だから、そういう建物の修繕っていうのは、市の建物補助が出るけど。あそこは美観地区になってるから、美観地区内の建物っていうのは直す時には市が補助するんです。だから、一部水漏れがあったとこを直すのに補助受けたりっていうことはありましたけどね。普段の経営には全く入れない。だから、逆に言えば辛いんですよ。お客さんだけですから、完全に。あとは寄付だけど、寄付は今なかなか難しくて。僕がその35周年からその後しょっちゅう夏期講座で行ってた頃は、お客さんが圧倒的に多かった。今の倍以上はいました。山陽新幹線ができた時にどっと来たのかな。それから瀬戸大橋ができた。その時にはもう年間100万超えてるんですよ。100万人以上来ると、1000円ずつ払ったって何億という収入になるんです。今は40万欠けてるんです。半分以下になってるんで。40万か時々30万ちょっとで、やっぱりお客が減ってる。その入場料で全部やるわけですから。それからまあ最近はショップで、わずかなプラスにはなる。あとは志ある方の寄付しかない。90年代はバブルで、瀬戸大橋もバブルの結果建てた。あの頃は、非常に贅沢にどんどん買ってましたよね。今はとても買う予算もなくって。ただお役所とは違うので、お金の使い方は美術館内で、我々で決められます。若手の作家支援は決めてるわけですから。アーティスト・イン・レジデンスでお金を使うと。作品は入れるから、購入するわけです。有隣荘で使うときも、一部は購入する。それ以外でもいい絵があってこれは買いたいって言えば、理事長と学芸員と僕とで相談して、じゃあ買おうやってわりに簡単に決まるんですけどね。

林:そこは、委員会があってなんか議論があって、じゃないんですね。

高階:そういうのはないんです。だから、とても高いものは今んとこは無理ですよね。印象派を買いましょうというわけにはいかないんで。

林:そのレジデンスの作家の作品を買い上げるっていう時は、レジデンスをやらしてあげる代わりにちょっとディスカウントして買うっていうことは。

高階:それは、口頭で。

池上:それはよくありますよね。

高階:それはもちろん、相手にもよるわけですが。

池上:現在の若手の作家の作品をご覧になって、批評家としてどうお感じになってますか。

高階:僕は、若手は非常に面白いと思ってるんですけど。

池上:何年か前にお話をお聞きした時に、ちょうど会田さんの展示をやっていたのかもしれないんですが、「会田誠をどう評価するかが大きな問題だ」とおっしゃってたのが印象的だったんですが。

高階:そんなこと言いましたっけ。

池上:おっしゃいました(笑)。あれからどうお考えでいらしたのか。

高階:あれはいつ頃だろう。ちょうど会田、山口であれをやってた頃かな。

池上:あ、そうだと思います。

高階:会田誠、山口晃、小沢剛、三人展てのをやった(注:2005年の有隣荘特別公開展)。(会田は)僕は面白い作家だと思ってるんですけどね。時々はめちゃめちゃで、変なこともやるけれども(笑)。《紐育空爆之図》(1996年)とかですね。『現代美術を見る』っていう、講談社が出してる雑誌の表紙に使った。今も出てますけど、最初は《紐育空爆之図》を使ったんですよ。現代作家の若手といっても、もう会田さんは今となってはかなり。

池上:若手ではないですけど、今では(笑)。

高階:その雑誌では、現代作家の新しい作品を表紙に使うっていうことをずっとやって。もう50回くらいになるかな、だから50人新しい人。その時に津上さんだとか鴻池さんだとか、レジデンスで使った人もそうだし、美蘭さんも使ってるな。VOCAで賞を取った人とかですね。あの時会田さんも、あれはたいへん面白かったから使ったんですけどね。評論としては、そういう今の若手の人、いろいろあるけれども、いわゆる団体展に属さないで自分たちでやってる人たちっていうのは、非常に良い、面白い人がいる。

池上:村上隆ですとか、奈良美智ですとか、海外で非常に成功している作家についてはいかがですか。

高階:奈良さんは、僕は非常に良いと思ってます。講談社の『本』っていう雑誌がこの間は奈良さんを取り上げたのかな。まあ宣伝雑誌ですよね。それの表紙で。(雑誌を見せながら)これも面白いし、これも最近の。

林:これこの間の「絵画の庭」(展)に出てましたよね。

池上:ああ、出てましたね。

高階:これは奈良君です。僕は中山玲佳さんって初めて知ったんで、これは面白いなってそういう人を取り上げて。これ毎号やっていて。最初の30ぐらいが一冊の本になりました。

池上:表紙だけでも、すごい見ごたえが。

高階:表紙面白いでしょう。これはね、次に何をやろうかっていうのが面白い判断で。それで奈良さんはやったんだけれども、村上さんはまだやってないんですよ。どうも良いのがないと(笑)。村上さんは、あれはちょっとぴんきりで、キャラクターものはやっぱり僕は買わないんです。平面で良い作品があれば取り上げたいと思ってるんですが。外国で非常に評判にもなってることもあるんだけど。ただ、毛嫌いしてるわけではない、なかなか良い作家だと思うけど、ほんとにフラットで良いものはなかなか少ないんじゃないかな。高橋コレクションに入ってるのも、あんまり僕は気に入らなかったんですよ。この表紙のシリーズはわりに高橋コレクションと重なる部分もあってね。できやよいなんかこの間やったんですけれども。池田学とかもこの間やったのかな。

林:そうか、この表紙は先生が選ばれてるんですね。

高階:そうです、全部。毎回。

池上:そう思うと、ちょっと見る眼が変わりそうですけど(笑)。

高階:それはだから、もう選ぶのは全部任せてほしいっていうことで。

林:先生はVOCAにも審査でずっと関わってらっしゃいますけど、VOCAは平面ですよね。

高階:そうです。

林:やっぱりご自分としてはあれですか、評論の対象としては平面作品が……。

高階:いや、彫刻だってもちろん取り上げてますよ。まあVOCAは最初から平面ですけども。今の奈良君とか、田島さんのあれは焼き物だし。広げることはある。それから、若手支援ではVOCAに大原美術館賞がある。あれは必ず100万ずつ入ってくるから。平面作品がまだまだ可能性があるってことはその通りだと思いますけどね。VOCAを作ったのは僕じゃないんだけど。平面の可能性っていうのを。

林:VOCAはどういう経緯で出来たんですか。

高階:あれは、ブリヂストンにいた宮崎克己君とか、ブリヂストンの人たちが第一生命と話をして、まだ景気が良かったんで。

林:そうか、第一生命のロビーにかかってましたね。

高階:第一生命の社会貢献というか美術援助で、それじゃあ若手支援と。その時に、平面芸術ってまだ可能性があるよということで、宮崎君あたりが中心になって、酒井君やなんかと相談してなんかやりましょうやと。それで僕は引っ張り出されて、面白いからやろうということで。だから第一生命がスポンサーになっていて、賞を取ったのは全部あそこが買う。だからVOCAの第一生命コレクションだけの展覧会、特別展っていうの大原ではやりました。僕がVOCAの受賞作品だけでも一般の展覧会できるからってあちこち話して。なかなか美術館で受けないんで、大原で一回やりましたけど、10年分のやつ。VOCA賞と奨励賞は必ず買ってるわけだから、10年やれば10点、両方で20点はあるわけです。それでVOCAは今でも続いてますから。「絵画の庭」もそうだったけど、あれで知らない作家が出てくるんですよね。僕が知らない、こんな面白い人がいるのかってことがあって、それは楽しみなんですけどね。

池上:若手の作家っていうことで言いますと、京都造形芸術大学でのお仕事も2004年に始められるんですけど、制作系の大学で教えられるっていうのは初めてでいらっしゃいますよね。

高階:もちろん初めてですね。ただ制作指導はまったくしなくて、美術史の方をやれってことだったんですけどね。僕は東大以外では講義もあっちこっち行ったけど、美術制作はあんまり行ったことはないんです。芳賀(徹)君が学長をやってて引っ張られたんですよ。むしろ美術史の専門家がいないと。あそこは制作系だけど大学院もあるし、きちんとした美術史研究もやりたい。それに来いって引っ張られたんですけど。だから大学院を中心に、制作系と研究系で別れた。数から言うと少ないけれど、やっぱり研究者になろうっていう人もいるわけです。せっかくだから芳賀君と一緒になって比較芸術学研究センターっていうのを作ってもらって、そこで外国の人を呼んでシンポジウムやったり、京都にあるから京都伝統工芸のことをやったりということで、制作には全然タッチしてないですね。先生方はもちろん知ってて、展覧会で批評したりぐらいはするけれども、口頭でね。卒業制作で、先生が「お前これはだめだ」っていうのに乗っかってやることはありますけどね。

池上:でもご覧になるってことはされてたんですね。

高階:だから学生の作品は、もちろん皆さんでやりました。芳賀君が辞めると同時に僕ももう手が回らないから辞めてますけれども。ただ、何人かはそこから美術研究のドクター論文もでたし。藝大なんかはもっとよくやってるけど。京都造形は小さい大学だし、伝統もないけども、そこでドクター論文やった人は、つまり制作系のことが強いですからね。調べながらやる強みっていうのはあって、何人かは出てきましたね。ただあんまり成果は上がんなかったな。やっぱり皆、絵を描く人が多いから。

池上:でも美大としては今すごく勢いがある大学ですよね。

高階:なんかそうみたいですね。

林:京都はなんかすごく狭い地域に美大が乱立してて、競争が大変だって言ってましたね。

高階:そうですね。

林:僕も知り合いが今ちょうど京都造形で教え始めてて、いろんな入試関係の仕事に駆り出されてて。

高階:大変みたいです、事務的には。

池上:学生の取り合いに。

林:高校生から内定取ったりするんだって。

池上:すごいですね(笑)。

高階:かなり強引にいろんなことやるんだな。

林:強引に、すごいらしいです。これちょっとオフレコかもしれない(笑)。

高階:それはまあ美大に限らないかもしれない。大学は大変ですよね。

池上:これからの大学はみんなそうですね。

高階:これからはみんな大変でしょうね。僕は直接経営にはまったくタッチしなかったけれども、会議とかはやっぱり大変で。どうやって学生を集めるか、オープンキャンパスやるとかね。そういうことをいろいろやってましたね。

林:でも制作系の人たちと話をすると、ちょっとこっちがドキっとすることはよくありますよね。僕の『絵画は死なない』のシリーズもそうなんだけど、質問者はみんな制作者だから。みんなプロの画家なので。

池上:ああ、それはそうですよね。

林:ええ、ムサビ(武蔵野美術大学)の元学生さんたちが大勢いて。こっちもちょっとピリピリして、下手なことは言えないなと。だけど、いろいろ学ぶこともあって。美術史の本だけでは分からないことがいっぱいあるなと。でもなかなか交流ってないですね。藝大ですらないらしいですから。美術史やってる人たちと油絵科と、ほとんど交流がないみたいな。

高階:そうなんですよね。

池上:最初の二年、実技を一緒にやるぐらいの感じですかね。

高階:これはしかし、外国でもわりにそうじゃないかな。パリのエコール・デ・ボザールの学生との交流はないかな。いい先生はいるんですけどね。そう人が展覧会やったりってことはあったけども。

林:そうですね。確かにコロンビア大学なんかでも、ファイン・アートのセクションと美術史があったけど、あんまり交流はなかった。

池上:イェールでもそうですね、それは。

高階:あ、そうですか。

林:交流っていう意味では、美学と美術史っていうのも微妙ですね。

一同:(笑)。

林:美学美術史研究室、もともと東大は一つだったじゃないですか。

高階:僕が入ったときはそうですね。

池上:いつ分かれたんでしたっけ。

林:僕が入った時にはもう分かれてたような気がしますね。

高階:そうです、僕が東大を出てからですね。ということは1971年以前かな。つまり僕が入った時には、一応美学美術史だけれども研究室は分かれてました。隣の研究室で。そして、美学美術史というのに入ったけれども、「お前はどっちを選ぶ」って言われて、研究室の所属ではもう分かれちゃったんですよ。もちろん授業は出る。美術史の人も必ず美学の授業は一つは取るという規定にはなってたけども、あんまり交流なかったですね。

林:そうですね。そんな記憶があります。なんか不思議な分かれ方をしていて、それこそ現代美術系のことは美学の人たちがけっこうやってるんだけど、美術史の人はやらないっていうような。

高階:今、そうですよね。美学の人たちの方がいろんな。美学は美術だけじゃなくて、演劇とか音楽とか、それこそパフォーマンスとかダンスとかやりたい、映画監督になりたいとかね。そういう人たちは美学行くわけですよ。映画のことやりたいとかって。だからわりに、現代のあれには敏感でしょうね。

池上:阪大でも、だいたいそういう傾向があるかもしれないですね。戦後をやっていると、美学出身ですかって聞かれます。

高階:美学科っていうのはあんまりないんじゃないかな、外国では。

林:ないです。

高階:哲学の中に入ってる。

林:そうですね。アメリカでは美学科っていうのは科として成り立ってるとこは……

池上:ないんじゃないですか、ほとんど。

高階:いやいや、フランスでもないでしょうね。日本は……

林:ドイツの影響ですか。

高階:ドイツのあれでしょうね。美学の方が偉いっていう感じが(笑)。まあものがなかったっていうこともあるのかもしれないけど。

林:なんか尼ヶ崎彬さんはアメリカ行った時に自分は美学者だっていうことを言ったら友達に「美学者とはアメリカでは言うな」と。「美学者だというと、非常にコンサバティヴな人間に思われるから」と言われたらしいです(笑)。

高階:(笑)。

林:なんでも「コンパラティヴ・リテラチャー(注:比較文学)とかなんとか、そういうふうに言え」って言われて、非常に驚いたっていう話をされてました。確かに美学っていうのはないですね。

高階:ないですね。ソルボンヌでも美学の先生はいたけど、哲学の方に入っておられた。日本はわりに美学会っていうのは強いんですよね。明治以来、面白い伝統がある。

池上:微妙な緊張が、美学と美術史の間にあるような気はしますけど。

高階:そうそう、ありますね。

林:先生は今までの話の中で出てこなかったけれども、この人から影響を受けたとか、この人にはやっぱりすごく感心してるとかいうことはありますか。

高階:それはもう、実際の美術史のことで言えば、今までもしょっちゅう出てたシャステル先生が一番大きかったでしょうね。

池上:やっぱり、一番のメンターという感じで。

高階:それから現在ではドリヴァルさんのことも、もちろん。

林:ずいぶん前に先生は、アーサー・ダントー(Arthur Danto)を訳そうなんて話をちらっとされていましたが。

高階:そうそう、ダントー面白いんじゃない、やったら。僕は一部訳したんだけど、日本でなかなかできないですね。ダントーは、僕は非常に面白いと思ってます。美術史で美術評論の雑誌がないから、一度『すばる』に出したことがあるのかな。ダントーの翻訳をね(注:「芸術の終焉の後の芸術」高階秀爾訳『中央公論』1995年4月号)。それ続けてやってまとめたいと思ってたけど、やっぱり文芸雑誌じゃなかなかそういうのは受けないですよね。

林:(高階)絵里加さんもなんかやってたりした。

高階:絵里加はレッド・グルームス(Red Grooms)を訳しました。彼がやった展覧会のカタログ、日本でやる時に絵里加も訳した、僕もいくつか訳してる。バラバラにやれば。石黒(ひで)さんとも仲がいいからね。

林:そうですね。

高階:いくつか上手くまとめてやれば、評論集出したいとは思うんですけどね。

林:石黒ひでさんとはどういう。

高階:ひでさんもなかなか優秀な人でね。もともとは教養学科です。東大の。

林:その時代からもうお知り合いで。

高階:ただし、向こうの方が下ですから、ちょうど僕が卒業した時に下に入ってきて、顔を合わせた程度ですけど。前田(陽一)先生のお弟子さんで知ってて。親しくなったのはロンドンに行かれてからですよね。僕もちょこちょこ向こう行って、ロンドンで。石黒さんは現代美術にも興味があって。

林:ですね。なんか荒川(修作)さんともかなり親しかったですね。

池上:ああ、そうですか。

高階:ホワイトチャペル・ギャラリーの人と親しくて。僕はロンドンに行ったときにいろいろ情報をもらったし。それからまあ、もともとは教養学科だから、同窓っていう感じもあったから。コロンビアに移られてからは…… サッチャーの悪口をしょっちゅう言ってたから(笑)。アメリカに行った時にもしょっちゅうお会いして。

林:なんか不思議なヴィトゲンシュタインの学者で。

高階:いや、ライプニッツ。

林:ライプニッツが専門だった。

高階:日本の哲学者で向こうで認められてるほとんど唯一の人です。日本の哲学者っていうのはどうも哲学史だけやってて、ちゃんと哲学やってるのは向こうで聞くと、石黒さんは確かだ。

林:ヒデ・イシグロっていうとね、みんながやっぱり知ってますよね。

池上:あ、そうですか。

高階:お話もなかなか面白い人だから。わりにちょこちょこ家族ぐるみで付き合ってます。

林:僕は不思議な縁で、ドリー・アシュトン(Dore Ashton)経由なんですよ。ドリーとひでさんがすごく仲がよくて、ずいぶん前からそうみたいなんですけど。それで、ドリー経由でひでさんを知るようになったのかな。あ、違うか、その前に大嶋加津子さんっていう人(注:アクセサリー・デザイナーのKAZUKO)のコネクションで、ひでさんを知って。でもドリー経由でもっと親しくなってっていう感じでしたね。

高階:ドリーもずいぶん活躍してましたしね。ニューヨーク派をやったし。よくやってたな。彼女はまだやってますか。

林:まだ教えてますけどね。元気は元気ですけど、まあそろそろ。

池上:かなりのお年ではありますよね。

高階:僕はその後、ニューヨークのことは疎くなって。ダントーはまだやってるわけ。

林:いえ、もう授業は持たれてないはずですよ。数年前にちょっとコンタクト取ったんですが、その時にもう授業はやってないという話でしたから。

池上:じゃあもう引退されて。

林:引退されてます。

高階:批評はやってるのかな。『ネーション』かなんかに。

池上:どうでしょうね。

林:『ネーション』にずっと書いてましたけど、どうなんだろ今。

高階:『ネーション』にずっと書いてた。ちょこちょこそれを本にして、面白かった。今は誰ですか、批評で。

林:いや、いろんな人がいますけど。

高階:知らないなぁ。

林:まあいわゆる『オクトーバー』の連中が出てきて一世を風靡して、(ロザリンド・)クラウス(Rosalind Krauss)とか(イヴ=アラン・)ボワ(Yve–Alain Bois)とか(ベンジャミン・)ブクロー(Benjamin Buchloh)とか、ああいう人たちがある種のエコールを作ったわけですけど。その後の人たちがわりと今活躍してますけど、なんとなくみんな。

池上:第二世代というか、似ている。

林:そうそう、第一世代のエピゴーネンみたいな感じの、同じライティング・スタイルで。

池上:本人たちはそうは思ってないかもしれませんけど。

林:同じようなことを書いてるというパターンで。

池上:やっぱり、ちょっとスケール小さいような感じはしますよね。

林:縮小されてる。

池上:それがアカデミー化した、アカデミックになったということなんでしょうね。

林:そうですね。

高階:僕はその辺は弱いな、現代の。グリゼルダ・ポロック(Griselda Pollock)はこの間来たけど、(リンダ・)ノックリン(Lynda Nochlin)さんももうだいぶお年だしね。

林:まだ教えられてるみたいですね。

高階:ああ、そうですか。その後はフェミニズムとか精神分析とかあって、最近は社会系の(ピエール・)ブルデュー(Pierre Bourdieu)なんかの気運が出てきてますよね。あんまり知らないんだけど、アメリカでもけっこう影響は出てきてるみたい。

林:ブルデューはけっこう、言及する人は多いですね。あとはW・J・T・ミッチェル(W. J. T. Mitchell)っていうのがシカゴに。

高階:ああ、そうですか。

林:彼はちょっと今言った連中とは離れたところで、別のエコールを作ってるような。

池上:シカゴはシカゴで、シカゴ学派と言ってますね。だいたい予定していた質問はお聞きできたように思うんですが。

高階:もういいです、はい。

池上:林さん、特に最後にお聞きしたいことがあれば。

林:そうですね、たいへん重要な話を聞かせていただいて。

池上:そうですね。じゃあ最後に、せっかくの機会ですので、これから美術史を志す学生さんに向けて。

高階:そういうこと言える資格はないんですが(笑)。

池上:何かあればお聞きしたいと思うんですが。

高階:二つある。一つはやっぱり、作品の持つ意味。特に今、ヴァーチャルが非常に進歩してるから、情報を入手するのには便利になったし、それは必要だと思います。日本には資料が無いけれども、かなりのものは日本にいてもできるようになった。それも文字情報だけじゃなくて、映像情報までいろいろ手に入る。しかし、それこそベンヤミンの問題だけど、じゃあ実物の持つ意味は何かっていうこと。これはやっぱり実物にあたってみる必要がどうしてもでてくる。これは相撲がテレビ放送した時に問題になったんだけど、つまり今NHKが放送してるけど、昔、国技館だけでやってる時に、相撲協会からたいへん反対があって、あれをやり出したらお客が来なくなるっていう反対もあった。やってみたら逆に来るようになったらしい。それはたいへん結構で、美術館で情報が取れるようになる。しかし逆に、まあこれで分かったって、中国はそれがあるってこの間言ってましたね、中国の人が。中国はもともと西洋のことに関する関心は弱いとこだけど、インターネットやなんかが発達して、モナリザやなんかもう知ってるって、それで済ましちゃう傾向がある。だからヴァーチャルとリアルなもの。このリアルって、美術史の持ってる一番基本的なものはそれですよね。映像芸術や複製芸術にしたってやっぱり、実物はまずそれを作ったもの。その意味では、しんどいけどね、あちこち動かないと。一つしかないものは、ないから。でもリアルなものとの接触は非常に必要。それと二つめは、美術史研究ならやっぱり基本的な文献は全部おさえる。資料なり先行研究なり。新しい視点が出るのはたいへん結構なんだけれども、それは全部過去のあれをおさえた上で。これも大変ですけどね。これだけは、どうしても忘れてほしくない。まあ、自分だって十分できてないから言う資格はないんだけど、そういう反省も含めて。

池上:はい。私も十分に耳が痛いことをお聞きしました。

高階:いや、そのためのその設備とか制度が整ってないっていうところも、美術史を志す人としてはたいへん不利な条件だと思いますけどね。そのうえでなおかつ、やっぱりそれが必要だなと。

池上:ありがとうございました。

林:僕、二つだけ聞いていいですか。

池上:はい、どうぞ。

林:一つは、今好きな女優さん(笑)。

高階:ええー(笑)。知らないからな。

池上:今、綺麗に終わろうとしたのに(笑)。

林:いやいや、それを聞きたい。それとね、もう一つは、高階先生が今世界中の美術館いろいろ見られていて、この美術館が好きだ、個人的にここはやっぱり一番良いって思える美術館はどこか。

池上:良い質問ですね。

高階:作品についても作家についてもよく聞かれるんですけど、これはたいへん難しいですよ。林さん、知ってるいろんなお友達、女性の友達で一番好きな人は誰って聞かれて、公式に言えますか(笑)。

林:言えない、難しいですね。

高階:難しいでしょう、やはり。一人にするってことになると、他はっていうことでね。

林:いや、複数でもいいですよ(笑)。なぜこんな質問をするかというと、僕は、昔高階先生に、若い頃にジャンヌ・モロー(Jeanne Moreau)が大好きだったって話を聞いたのがすごい記憶に残ってるんです。

高階:ジャンヌ・モローは確かに、ええ。それはフランスで見た舞台ですよ。ああ、そんなこと言いましたっけ。

林:車でね、なんかどこかから帰る時に同乗させてもらって、その中でね。

高階:(ジョージ・)バーナード・ショー(George Bernard Shaw)の『ピグマリオン』(Pygmalion)をやったんですよ。舞台で。そのイライザを彼女がやった。僕は知らなかったけど、まだ若い頃ですね。

林:映画になる前ですよね。

高階:映画の前です。まあ芝居も面白かったけど、向こうに行ってすぐだから、なんでも面白かったってこともあるけども、ジャンヌ・モローの演技が非常に見事だと思ったことはありました。それを君に言ったのかもしれないな。

林:そうなんですよ、それをすごく。

高階:ファンレターを書くべきかどうか悩んだ(笑)。

林:それがすごい記憶に残っていて。

池上:お書きになったんですか。

高階:いや、書かなかったんですけども(笑)。そういうことは、昔はありますよね。今はうちの家内が女優だから(笑)。

林:ああ、そうか(笑)。

池上:好きな女優は、奥さまでしょうか(笑)。

高階:美術館ではどうだろうな。これも難しいですね。美術館として、つまり作品の良さ、それからもちろん今のセンス的なことがある。イギリスの場合はわりにはっきりして、イギリスで必ず他があっても行くのはナショナル・ギャラリーですね。ナショナル・ギャラリーっていうのはやっぱり非常に良いですね。

池上:素晴らしいですね。

高階:フランスはあっちこっちがあるから難しいですけど。アメリカでは、他が悪いってことじゃないんだけど、良いのはフリック(・コレクション)ですかね。フリックは非常に良いですよ。

池上:私もフリック大好きです。

高階:あそこはまた資料もいい。ライブラリーにエドガー・マンホール(Edger Munhall)っていう人がいて非常によく世話になったけど。だから今の質問は難しくて、「お前にやる」って言われたら何かってったらフリックをもらう(笑)。メトロポリタンをもらうと大変だけど、フリックならもらってもいいっていうような感じありますよね(笑)。

林:なんか、マネジャブルなサイズってありますよね。

高階:そうですよね。ほんとに難しい質問ですね。

池上:他には、よろしいですか。じゃあ本当に、4回に渡って貴重なお話をたくさん聞かせていただきまして、ありがとうございました。

林:ありがとうございました。

高階:ご苦労さまでした。