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田名網敬一オーラル・ヒストリー 2013年8月15日

南青山の田名網スタジオにて
インタヴュアー:池上裕子、宮田有香
書き起こし:永田典子
公開日:2014年12月31日
 

池上:本日もよろしくお願いします。今日はまず、アニメ作品の制作についてお聞きします。そもそも静止しているはずのものが動くということに対する興味を幼い頃から持たれていたということで、その原点みたいなものがあればお聞きしたいんですが。

田名網:それはね、前にもちょっと話したけど、僕の父親の弟、叔父がその時代にしてはとてもモダンな人だったので、いろいろな雑誌の収集をしてて、幻灯機というのもあったんですよ。電球を差し込んで、手で回すと映るという。それはイギリス製の高級な幻灯機で、それを叔父が持ってて。叔父は亡くなっちゃって、僕のものになったんです。子どもの時遊んでたんですよ。ただそれに付いているフィルムは、2メートルぐらいしかない、ミッキーマウスがちょこちょこっと動くとか、電車が動いてるとか、ただそれだけのフィルムなんですよ。速く回すと速く動いて、ゆっくり回すとゆっくり動くわけね。
 子どもの時、僕、スズメを捕るのが好きだったんです。レンガを5つぐらいこういうふう(積み木の家のよう)に囲んで、一つのレンガを斜めに置いて、そこに突っかえ棒をセットするんですよ。で、周りにお米をまいておくと、朝方スズメが来て、周りのお米を食べて、レンガの囲い中にもお米を入れておくと、そこにスズメが入るわけですよ。入る時はスッと入るんだけど、出る時はバッと羽を広げるじゃないですか。その震動でその棒がポンと外れて、パタンと閉まるという、そういう仕掛けを考えたわけですよ。それを5台ぐらい仕掛けておくわけ。そうすると朝3つぐらいには入ってるんですよ。
 最初はスズメを捕って部屋の中に放し飼いしてたんだけど、ある時、スズメを幻灯機の中に、それで映したらどうなるかなと思って入れて。ものすごい高熱なんですよね、裸電球が入ってるから。そうすると画面に黒白の映像が映るんです。スズメは苦しいから暴れるじゃないですか。やがて焦げ臭いにおいがしてスズメが死んじゃうわけね。だけどそれがね、何て言うのかな、まあ迫力なんですよ、焼け焦げて激しくもがくから。子どもの時は結構残酷だったと思うんだけど、それをね、もう毎日毎日やってたわけですよ。捕ったスズメはみんな死んで。しょうがないからお墓を作って。

池上:供養はされたんですね(苦笑)。

田名網:ええ、一応棒を立てて。見渡す限り、お墓だらけなんですよ。

池上:死屍累々(笑)。

田名網:毎日毎日それをやってたら、羽が焦げるくさい臭いで、ある日、母親に見つかっちゃったわけですよ。それで当然怒られて、幻灯機はどっかに隠されちゃった。それで見られなくなったんだけど。それからもう一つ考えたのはね、その頃フィルムがないわけですよ。どこにも売ってないんです。しょうがないんで、紙に絵を描いて、パーコレーションって穴があるじゃないですか、あれをこういうふうに(絵の端に)空けて。薄い紙だと破けちゃうんだけど、ちょっと硬い紙だと幾分動くわけですよ、クルクルッと。そうするとぼんやりなんだけど映像が映るわけね。それがものすごく面白くて毎日のようにやってたんですよ。小さい時から、ものを動かすことに対する興味はあって、スズメを焦がして動かしたというのが、僕の動くものへの興味の原点だと思うんですよ。

池上:それは、おいくつぐらいの頃ですか。

田名網:中学生の時ですよ。そんなことばっかりやってたんです。結局幻灯機がなくなったからその遊びはやめちゃったんだけど、ほかの遊びってあまり興味がなくて、もうそればっかりやってたの。ウォルト・ディズニーが『白雪姫』(1937年制作、1950年日本公開)を作った。それが一番最初の長編なんだけど、銀座の有楽座という映画館で観たんですよ。その時にすごいショックを受けたのと、僕の家のそばにあった目黒パレスで観てたディズニーとかフライシャー兄弟のモノクロの短篇があって、それらがアニメーションというか絵を動かすことへの興味のきっかけになったと思うんですね。

池上:いつか自分で作りたいというのは漠然とは思っていらしたんですか。アニメーションというのを。

田名網:うん。まあ、お金もないし、作れないんだけど。美術学校へ入っても、その当時、アニメーションとかを教えるような学科もないし、習うことはできなかったんですけど、草月会館というところがいろんな芸術活動の発信を始めたんです。舞踏であるとか、演劇であるとか、映画であるとか、あらゆるメディアを駆使した実験の場だったのね。そのプログラムの中に久里洋二さんという漫画家と真鍋博さんというイラストレーターと柳原良平さんの「アニメーション三人の会」(1960年結成)というのがあって、草月会館で初めて観たんです。それが、商業的なディズニーのようなものじゃなくて、もっとプライベートなアニメーションを観た最初なんですけど、それを観て、「あ、作りたいな」と思ったんですよ。それで久里さんのところに「作らせて」と頼みに行ったんですよ。そしたら彼は自分のスタジオに撮影機とか機材を全部備えてて、それで翌年に「草月アニメーション・フェスティバル」を開くというんで、いろんな人に今誘いをかけてるから、「うちで作ったら?」というんで、久里さんのところで作らせてもらった。(注:「アニメーション三人の会」による上映会は1960年〜63年、「草月アニメーション・フェスティバルは1964〜66年の開催。)

池上:それで最初に作られたのが、1965年の《仮面のマリオネットたち》になるんでしょうか。

田名網:そうです。その時は僕だけじゃなくて、横尾忠則とか和田誠とかが一緒に、やっぱり久里さんのところで作ってたんですよ。

池上:一人作ったら次の人がやって。

田名網:その時はほかに作る工房みたいなものも全然なくて、久里さん頼りで、順番に作ってもらってたわけ。

池上:技術的には今までされてないわけなんで、久里さんが教えてくださったという感じなんですか。

田名網:そうそう。だけど結局アニメーションを作るという基礎的なものも、今だったらテレビとかである程度の知識があるけど、そういう機会が全くないわけですよね。動かすといっても、久里さんが教えてくれるんだけれども、それも十分に理解できないわけよね。だから見よう見まねで作って、撮影は久里さんがしてくれるんだけど、こういうふうに動かしたいという理論的説明ができないわけですよね。例えば歩くシーンでも、フィルムは1秒間に24コマなんですけど、何コマぐらいで足を動かしていくかという、そのタイミングが分かんないのね。それで最初はアニメーションと言えるほどのものじゃなくて、ぐじゃぐじゃなものになっちゃったんだけど、とにかく動くということだけがうれしくて、それで終わっちゃったという感じですよね。

池上:ほかの方の、例えば横尾さんなんかのすごいポップ的な作品がありますよね。リキテンシュタインの漫画をちょっと模したようなもの。ああいうものをご覧になっていかがでしたか。

田名網:実験的なアニメーションがそんなにいっぱいなかったら、すごく面白かったですよ。

池上:それぞれの作家さんのやってることが。

田名網:たぶん今みたらすごく幼稚だと思うんですよね、技術的なものを含めて。だけどとにかく動くというだけでもう感激しちゃうんですよ。

池上:アニメーション・フェスティバルでこの《仮面のマリオネットたち》なり、次の年に《おんな》というのを制作されてますけれども、それを発表されて。

田名網:そうです。

池上:横尾さんが、そういう発表の時に「すごく緊張した」というコメントを残されているんですが、田名網さんはいかがでしたか。

田名網:やっぱり緊張したかな。というのは映画館で自分の絵を映すことがないじゃないですか。それからもちろん有料でしょ。お金を取って見せてるわけだし。しかも、アニメーションがみんなに知られている存在ではないわけですよね。だけど物珍しさもあってとにかくお客さんがすごくいっぱい入っちゃうんですよ。

池上:実験アニメだから、そんなに分かりやすいものじゃないのにね。それでもたくさん来たんですね。

田名網:そう。もう立ち見で。だから結構緊張してたかもしれないね。

池上:それは、いわゆる美術界の方たちじゃなくて、一般の方も。

田名網:若い人。アニメーションという新しい領域にみんながすごく関心を持っていた頃なんだと思うんですよ。

池上:それなりに緊張感があるなかで発表を。

田名網:うん。

宮田:アニメーション・フェスティバルでは、国内の作家さん以外の海外の作家さんも。

田名網:海外の作家もいっぱい出してましたよ。チェコとかポーランドとか、特に東欧はアニメーションがすごく活発だったんですよ。それで世界的に活躍してる作家もいっぱいいて、日本なんかより全然アニメーションに関しては進んでいたわけね。日本のものとはレベルが全然違う、ものすごく完成度の高いフィルムになってたんですね。

池上:特に印象深かった作品はありますか。

田名網:(アレクサンドル・)アレクセイエフ(Alexander Alexeieff)というソビエトの有名なアニメーション作家がいるんだけど。それとポール・グリモー(Paul Grimault)なんかすごく面白かったね。

宮田:アニメーションにはストーリーがあったりするんですか。

田名網:ショートフィルムだけどストーリーのあるのもありますよ。ポーランドとかチェコのアニメーションって保守的なアニメーションが多いんだけど、その時代から国が援助してて、すごくお金のかかったフィルムが多かったんです。

池上:作家さんもチェコやロシアからいらしてたんですか。

田名網:いや、来てなかった。

池上:作品だけを送ってきて。

田名網:うん。

宮田:カラーですか。

田名網:カラー、もちろん。

宮田:音楽とかも入って。

田名網:もちろん音楽も入って。

池上:その次のアニメーションの作品は少し時間が空いて、1971年に《Commercial War》(16ミリ、カラー、4分30秒)ですとか、《Good Bye Elvis and USA》(16ミリ、カラー、7分)とか《Good Bye Marilyn》(16ミリ、カラー、4 分52秒)を作られるんですけれど、ちょっと時間が空いたというのは何か。

田名網:それはね、とにかくその頃のお金で1本50万ぐらいかかるんですよ。50万円といったら、今で言ったら何百万円なんですよ。

池上:結構なお金になりますね。

田名網:最初の時はとにかく貯金も全部下ろしてやったんだけど、1本作るのにおそらく今のお金で400万ぐらいかかるんじゃないかと思う、その頃ね。フィルムだし、スタジオで撮影するでしょ。それから現像したり、編集したり、音を入れたりということをしてると莫大なカネがかかる。スタジオ代だけでもすごいんですよ。お金がなくなっちゃって、しばらく作れるような状態じゃなかったのね。

池上:でも貯金はたいてもやっぱり作りたいという。

田名網:うん。その時はだから必死の思いで作ったわけですよね。だってその頃ね、サラリーマンの初任給が3万円ぐらいの時なのよ。

池上:それで1本作るのに50万となったら。

田名網:そうすると年収どころの騒ぎじゃないのよね。

池上:それは大変だ。順番は、《Commercial War》が1971年に作られたなかでも最初になるんですかね。

田名網:それがね、その頃作ったアニメーションというのは、「11PM」という、日本テレビが放映してた大人向けの番組があって、その番組が、僕だけじゃないんだけど、宇野亜喜良さんとかいろんな人に短篇を毎回依頼してたんですよ。予算は決まってて。僕がその頃、作った短篇というのは、ほとんど「11PM」の依頼で作ったものなんです。

池上:じゃあ《Good Bye Elvis》も《Good Bye Marilyn》もそうなんですか。

田名網:そう。「11PM」が「何でもいい」ということで。期間が1週間ぐらいなんだけど。1本600枚くらいの原画が必要なので、終わると必ず腱鞘炎になった。1週間かけて、自分一人で全部描いて作るんですよ。

池上:じゃあそれは「11PM」が予算をつけてくれたから、前みたいに貯金をはたかなくても作れた。

田名網:そうなんです。「11PM」が予算をつけてくれて、テレビ局だから音もわりかし自由に使えたんです。

池上:《Commercial War》では実際のコマーシャルの音源を使われて。

田名網:日本テレビに音響専門の部署があって、「こういう感じで」と言うと、そこのスタッフがやってくれるんですよ。

池上:じゃあ日本テレビで放映されていたCMに限られてたんでしょうか。ほかの民放ではなく、そのチャンネルで流れてたCMの音源?

田名網:それも2回くらいしか映さないから。「あとは自由にしてください」とくれるわけですよね、権利を。

池上:その音の権利を。今だったらいろいろうるさいと思うけど。

田名網:音というかフィルム全部の。

池上:今見ると、「11PM」がちょっと大人向けの、少しセクシーなものも入る番組だったということを考えても、かなりきわどい表現が《Commercial War》とかには入っていると思うんですけども。

田名網:そうですね。その頃は前日に持って行くわけですよ、フィルムだから。いや、その日かな。もうギリギリに。それから編集とかやってるわけですよ、テレビ局が。夜11時からの生番組だから。スタジオでもうリハーサルなんかやってて、渡すと、ちょっと見て「あ、オッケー」ってそれで終わりなんですよ。だから、途中で内容をチェックしてる間がないの。

池上:というか、1週間で作れというのが、そもそも結構乱暴な依頼ですよね(笑)。

田名網:そうそう。机に積むと25センチくらいあったからね。原画が。ほとんど処分しちゃったけど、残しておけばよかったと思うね。

池上:徹夜続きとか。

田名網:うん、1日に100枚ぐらい描かなきゃなんないわけ。

池上:うわー。撮影は日本テレビの。

田名網:日本テレビの外部にスタジオがあって、そこで撮ってと言うので、持って行くと撮影してくれるわけ。

池上:撮影指示を出して。

田名網:そうそう。

池上:ほかの仕事、生活のための仕事もしながら。

田名網:それもしなきゃいけないし。とにかくすごく(ギャラが)安いんですよ。そのかわり自由にやっていいということなんで。でも1週間それだけやってたら食えなくなる。

池上:《Commercial War》はちょっとマスメディア批判的な感じもする作品だと思うんですけど、そういうことを考えていらしたんでしょうか、当時。

田名網:その頃は、娯楽がとにかくテレビと漫画しかないんですよね。テレビは娯楽の王様だったわけよね。昨今のテレビは衰弱してるけど、僕が少年だった頃のテレビは力道山のプロレスなんかがあると、新橋に、野外に大きく映す、オーロラヴィジョンというのかな、大きく映す装置があって、その周りに2000人ぐらいの人が集まるの。というのはテレビが家にないから。そのくらいのテレビの時代があったんですよね。だから「11PM」でアニメーションをやると、翌日、ほとんどの人が知ってるぐらいみんな見てるんですよ。今では考えられない。そんなテレビの持つ圧倒的な力を皮肉ったものを作りたかったわけね。今だったらたぶんボツにされたと思うけど、その頃のテレビマンは太っ腹だったのかな。

池上:じゃあ視聴率もすごく良かった。

田名網:視聴率はすごかったんじゃないのかな。今は若い人はほとんどテレビを見てないでしょ。

池上:そうですね。パソコンでYouTubeとか見てますよね。

田名網:ところが当時はほかに何も娯楽がないから。

池上:そういうすごく強力なテレビというメディアで、ちょっとテレビ批判的なメッセージを含むような作品を。

田名網:そういうのをちょっとやってみたかったの。テレビの中で社会批判や反社会的なものがわりかし自由にできた時代だったんだね。それを「いいよ」という形で受け入れてくれたというのが面白かったと思うんです。今だったら面倒な検閲があって。

池上:そうですよね。ああいうちょっとエロティックな画像とかも検閲が入ってくるんじゃないかなと。

田名網:それからフリッカーみたいなのももちろんダメだし、ポケモンの騒動なんかがあってテレビ局が自粛しているよね。滅茶苦茶なダメ出しが出ちゃうと思うんですよね。

池上:当時は自由だった。

田名網:うん。

池上:実際のCMの音源も編集されたのは田名網さんなんですか。

田名網:そうです。撮影して、できたフィルムを編集室というところに行って、文字通り切ったり貼ったりして、音も含めて1本に編集するわけですよ。

池上:音源というのは後からそこに。

田名網:音源が先の場合もあるんですよ。音源が先にあって、その音源にコマ数をきっちり合わせていくわけですよ。例えば何か歌謡曲みたいなものを使う場合は、歌に合わせて絵を作るというのもあるわけです。

池上:《Commercial War》の場合は、音源が結構ブチ切れでつながっているじゃないですか、いろんなコマーシャルがちょっとずつという。

田名網:そうです。あれは後から絵に合わせて、音を作る人が音を切ったり貼ったりしながら絵に合わせていったんですね。

池上:この音源のこの部分をこのぐらい切ってね、というのは田名網さんが指示されて。

田名網:そうです。デジタルだと非常に簡単なんだけど、その頃はもう大変なんですよ。いちいちフィルムをかけて、「あっ、ここでストップ」とか、合わせていくから。スプライサーという機械でフィルムを一コマ一コマ見ながら切り貼りするわけです。ちいさな画面を見続けるので、目は痛くなるし、気の遠くなるような作業です。ただ、アナログで作ると、完成した時、猛烈にうれしいですよ。

池上:今の私たちがあの作品を見ると、何のCMか音だけでは分からないものがあるんですけど、当時の人たちはみんなすぐに分かったわけですか。

田名網:ええ。だから、当時は面白いと言われたんですよ。みんな日頃見てる音が出てくるから。

池上:今見ると商品が分からなかったりするので、実際のCMはどういうものだったのかなというのが、逆に想像力をかきたてられます。《Good Bye Elvis》はたしかいくつか曲がつながって。

田名網:つながってるけど、スローモーションにしたり、速度や音質を変えたりしながら合わせていってるから、(エルヴィス・)プレスリーの歌をコラージュして使ってるんですよ。

池上:だからちょっと長めになっている。7分の作品で。

田名網:そうですね。ちょっと長めになってますね。オノ・ヨーコの(《OH! YOKO!》1973年)は、テレビ局でオノ・ヨーコを使っていいということで入れたんだけど、映像をDVDで販売する時にオノ・ヨーコの許可が取れなかったんですよ。だから音を消してるの。販売してるものは音が入っていません。

池上:音の方ですか。

田名網:ええ。《OH! YOKO!》の。

池上:歌が、入ってるんですよね。

田名網:それをカットしてるの。

池上:許可がもらえなかった理由というのは。

田名網:こちらのDVD制作の締め切りに、向こうの申請許可が間に合わなかった。

池上:タイトルがちょっと面白いと思ったんですけども、《Good Bye Elvis》とか《Good Bye Marilyn》という、「さよなら」というのはどういう意味を込めてらっしゃるのかなと。

田名網:とにかくマリリン・モンローとエルヴィス・プレスリーは誰でも知ってるような、希代のスーパースターですよね。ある時代、僕の作品のいたるところに登場する重要なアイコンだったわけです。あらゆる創造の源泉であり、創造の神でもあったのです。僕の作品のテーマを決定することもあったし、彼らの強烈なイメージを前面に押し出すことで僕の思想の代弁者になってもらうこともありました。でも、いつまでも彼らの仮面をつけて勝負するのは良くないと思ったのです。2本のアニメは僕なりのオマージュですが、「ありがとう」という意味でもありますね。

池上:じゃあオマージュであると同時に、ちょっと決別のメッセージでもあるという。

田名網:そうなんですよ。

池上:もう別のものに行こうというのは、なぜそういうふうに思われたんでしょうか。

田名網:その時代、僕はもちろん若かったし、プレスリーとかモンローに限らずほかにもたくさんのアイコンがあったわけですよね。それらをテーマにした作品を僕はいっぱい作ってたんだけども、そうじゃない別のものをやろうという気持ちがすごくあったわけですよ。インディペンデント映画とか、新しいものを模索し始めている頃で、試行錯誤が極限に達した時期ですよね。

池上:ポップへのさようならというか、決別というか。

田名網:うん。僕がアメリカに行った1968年頃、アメリカのインディペンデント映画がすごく人気で、ケネス・アンガー(Kenneth Anger)とか、ジョナス・メカス(Jonas Mekas)とか、ジャック・スミス(Jack Smith)とか、それからマルチスクリーンでやる(スタン・)ヴァンダービーク(Stan Vanderbeek)とかね、とにかくいっぱいいたんですよ、そういう映像作家が。ウォーホルももちろん作ってましたけど。僕がニューヨークへ行った時は一番過熱してる時で、グリニッジ・ヴィレッジなんかの地下の小さい劇場へ行くと、ほとんどそういう映画がかかっていて、みんなお酒やドラッグを楽しみながら観てるんです。雷に打たれるような衝撃が走りましたね。それで帰ってきてから、アニメーションじゃなくて、言ってみれば実験的な映画というものを作ろうと思った。今までのアニメーションとガラッと変えて、例えば写真とかの印刷の網点みたいなものだけで作ったものとか。

池上:《WHY》(1975年、16ミリ、カラー、10分30秒)という作品とか。

田名網:そうです。そういう方向に転換していったんです。

池上:ああ、それで実験アニメ的なものと実験映画みたいなものと共存している時代があるんですね。

田名網:一瞬ね。だけど結果的には、手描きのアニメーションじゃないものをもっと作ろうかなという。僕の方向性と興味がちょっと変わってきたんです。

池上:だんだんそっちにシフトしていかれた。いまGood Byeシリーズはポップへの決別だというような話がありましたけれども、ちょっとその前に戻ってお聞きすると、ああいうポップ的な作品を作られるきっかけになったのは、ニューヨークに移住された篠原さんを訪ねて行かれますよね、アメリカに(注:1969年に初渡米)。そこで初めて実地で見たアメリカ文化というものが大きいインスピレーションになったのでしょうか。

田名網:いや、昔、僕がよく通っていたB級専門の映画館は、僕にとっては、ポップ・アートとは言わないけど、非常にポップな世界だったんですよ、僕から見るとね。

池上:ポピュラー・カルチャーそのものですよね。

田名網:それに僕は少年の頃からものすごい興味を持ったんですよ。例えば豪華な食事のシーンとか、プール付きの家とか、ブロンドの美女とか、西部劇のスーパーヒーローが出てくるとか。賭博師が博打をしながら旅していく映画とか。それから、『大アマゾンの半魚人』(ジャック・アーノルド監督、1954年)という有名な映画があるんだけど、そういう荒唐無稽なものとか。結局、それってよく考えたら、もろポップなんですよね。そういうものを、家に帰っては、映画の雑誌とかはないから、思い出して描くんですよ。もう今はなくなっちゃったけど、非常にポップな絵だったわけですよね。だから僕の興味というのは、少年の頃、B級の映画を観た時にすでに、ポップ・アートというものはもちろんなかったんだけど、すごく猛烈にリスペクトしてたと思うんですよ。

池上:アメリカに行く前からそういうものにずっと漬かっていて。

田名網:うん。そこで「アメリカってすごい」って洗脳されちゃったわけですよね、映画によって。その頃は、映画の上映というのはアメリカの何かの機関が決めたらしいですね。日本でこれとこれは映してもいいけど、これはいけないというのを決めて日本に(持ってきていた)。今みたいに日本の配給会社が買い付けるんじゃなくて。

池上:持ってこられたものを観ていた。

田名網:だからアメリカにとって都合のいい作品、「アメリカすごいな」という映画ばかりなわけですよ。

池上:それを観て、アメリカ文化にどっぷり漬かりながら育ったという。

田名網:とにかく「すごい」と圧倒的な物量の映像が脳内に渦巻いてたんでしょうね。

池上:ドンピシャの世代だったわけですね、田名網さんが。

田名網:そうそう。

池上:じゃあそういうものに最初からすごく漬かっていて、初めてアメリカに行かれた時はどういう感想を持たれたのでしょうか。

田名網:初めてアメリカへ行った時には、映画とかで知識は一応あるわけですよね。ただ、象徴的な出来事が次々に起こった時代だった。ケネディの悲劇、人種差別、ベトナム(戦争)、学生運動など、バラ色の幸福に満ちた未来像は崩壊していた。アンダーグラウンドな雰囲気がニューヨークに充満してたから、それをとにかく見て歩くだけで大変だったんですよ。ジョン・ウォーターズ(John Waters)の『ピンク・フラミンゴ』(1972年)もその後、封切られて、レイトショーでやってたんです。アンダーグラウンドのカルト映画シリーズもかなりいろんな劇場でやってて。ニューヨーク全体が、不健全な方向に向かっていくような。草間彌生がハダカでハプニングをやったりというのもその頃で。戦後のベビーブームは頂点を迎えていて、30歳未満が全人口の半分を超えていたんだよね。若者があふれていた分、暴力的な時代でもあった。

池上:今まで培われてきたアメリカ像と、実際にアメリカで見たアメリカというのがかなり違ったわけですね。

田名網:そうなんですよ。アメリカの圧倒的なエネルギーと影響力に驚かされましたね。それから僕が行った頃はマリファナとかLSDが解禁されてたんですよ。だから街の中でヒッピーみたいなお兄さんがLSDとか売ってんのよ、露店で。ダウンタウンを歩くのも怖かったし、ものすごい混沌とした時代だったんですよね。今にして思うと、その頃のアメリカってやっぱりすごい活力があった。

池上:じゃあアメリカもまだまだ若い。

田名網:うん、ものすごいエネルギーに満ちたアメリカだったわけね。

池上:泊まられたのは篠原さんの家ですね。当時はチャイナタウンの近くですかね。

田名網:キャナル・ストリート(Canal Street)というとこ。

池上:キャナルですね。そこに泊まって。

田名網:そこは河原温のアトリエだったんですよ。河原温がその時すでにデイト・ペインティングというのをやってて、棚にいっぱい入ってるの。

池上:篠原さんが移住されたのがその年の春ぐらいなんで。

田名網:たぶんその秋ぐらいだと思うんです。

池上:最初に行かれてから、わりと何度もその後行かれるようになった。1年に1回ぐらいは行ってらしたんですか。

田名網:いや、もっと行ってたかも。というのは僕が『(月刊)PLAY BOY』の仕事をしだしてから、撮影とかで、出張のような形でよく行ってたの。

池上:ニューヨークでは、タイムズスクエア辺りのポルノ文化にも触れて、新聞や雑誌をを持って帰ってこられて、それがコラージュの素材になったりもしてると思うんですけれど。その新聞とかはどこで買われたんですか。

田名網:新聞はね、草間(彌生)なんかが出してる『Orgy』(Kusama's Orgy of Nudity, Love, Sex Beauty)というのが出てたんだけど、それ以外にもたくさんあった。そういう本も新聞のスタンドの端っこに並んでるんですよ。『ニューヨーク・タイムス』とかと並んで。

池上:じゃあポルノ的なものだけに限らず、そういういろんな種類の。

田名網:それからグリニッジ・ヴィレッジなんかに行くと、本屋さんじゃなくて飲み屋の入口なんかにロバート・クラム(Robert Crumb)の漫画がいっぱい積んで売ってるわけ。その頃はいわゆるアンダーグラウンド・コミックスというのがね、すごい種類出てたんですよ。それがいっぱい書店にももちろん出てるし、だいたい10セントぐらいだから、(今だと)10円ぐらいですよね。それを大量に買って東京に送ってたわけ。ひどい粗雑な新聞紙に刷られた卑猥な写真ってすごいアートなんですよ。これでもかっていうくらいあくどい紙面構成も妙にかっこいいんだよ。

池上:女性のイメージというのもコラージュやアニメの作品でどんどん出てくると思うんです。少年の頃に見ておられたハリウッドのグラマラスな女優さんたちのイメージを、たぶん強く持っていらっしゃると思うんですけれど、実際のニューヨークで見た、もうちょっと猥雑な文化ですよね、ポルノ文化であったりポルノ雑誌だったり。そういうものというのはどういうふうに消化されたんでしょうか。

田名網:僕が映画で観たハリウッド女優というのは、まったく別の生き物ですよね。例えば、ブロンド美人のローレン・バコールがニューヨークの夕暮れを歩くシーンがあるんです。ハイヒールの音がコンクリートに響くんです。コツンコツンと。その音を聞くだけで猛烈なエロスを感じましたね。ポルノ新聞で見る卑猥な写真は、あの紙の質感に刷られることでエロ感が増幅されますね。2色刷りなんて妙にいやらしくて好きです。

池上:へえ。理想と現実のアメリカ、みたいなものがそこでもあったんでしょうか。

田名網:現実とはこういうものなんだな、というのはやっぱりありますよね。少年の頃見ていたハリウッドスターは、もう磨き抜かれた人だもんね。そんな人、歩いてないもんね。

池上:そうですよね。じゃあアニメの中やコラージュなんかでも出てくるような、ちょっとエロティックな感じの女性の表情というのは、むしろ現実の方に近いというか。

田名網:無論、現実です。42丁目の大通りってありますよね、フォーティ・セカンド。だってあそこの道路の両側全部、ポルノ系のショップなんだもんね。

池上:それは何かショーみたいなのをやってるんですか。

田名網:ショーもやってるし、怪しげな本も売ってる。バーのカウンターの上でストリッパーが踊ってるわけですよね。そういう店もあるし。あれが全部成り立ってたんだから驚きますよね。

池上:そうですよね。今はそんなにないですよね。

田名網:今は全然ないでしょ、そんなの。

池上:普通に歩いてる感じでは見ないですよね。ちょっと路地裏へ入ればあるかもしれませんけど。

田名網:うん。

池上:それをギュウチャンと一緒にちょっと入ってみたりとかされたんですか。

田名網:そうです。日本も似たようなものはあったかもしれないけど。すごいカルチャーショックですよね。

池上:そのストリップ的なものというのは、下着とかも全然つけずに踊る感じなんですか。

田名網:全裸なんだけど腰に針金まいてるんですよ、ストリッパーが。その針金は何かといったら、そこにお札を挟むんですよ。

池上:ああ、おひねりですね。

田名網:そう、おひねり。しまいにここ(腰)がしめ縄みたいになって、横綱の。もう札が束になって。人気のストリッパーなんて針金何本も巻いてるの。しまいには膝に乗って踊ってくれる。

池上:全然違う文化というか。

田名網:うん。

宮田:ニューヨークに行かれる前の1968年にパリとかベルリン、ロンドンを旅行されていますね。

田名網:それはたぶん初めて外国へ行った時だと思うんですよ。単なる観光で行ったから、ただ何か見て歩いてるというだけなんだけど。ロンドンのカーナビー・ストリート(Carnaby Street)ってあるじゃないですか。あそこですごく面白かったのは、ビートルズがアップル(Apple)という店を作ったんですよ。壁面にペインティングをしたビルがあって。ちょうどその頃だったので、面白かったですよ。

池上:ビートルズはやっぱり当時大人気で、田名網さんもお好きだったんですか。

田名網:うん、大好きだった。僕が集英社の『ヤング・ミュージック』(1967年1月創刊)という音楽雑誌のデザインとかもやってたんで、ビートルズやストーンズのニュースや写真がどんどん入ってくるから、すごく詳しくなった。それと、ミニスカートで売り出したイギリスのデザイナー、マリー・クワントの宣伝で、モデルのツィギーが日本にやってきたの。『ヤング・ミュージック』で特集を組むので、ツィギーの似顔絵を描いた。後年、マリー・クワントと仕事をすることになって、1960年代の彼女のイラストレーションをポスターやTシャツにしたことがある。

池上:お話をお聞きしていると、仕事の量が膨大といいますか、コラージュを作っていらっしゃる量もハンパではないですよね、納戸から100枚ぐらい出てきたりして。どういうふうに時間を管理されていたんですか。どれぐらい寝てらしたんですか、当時。

田名網:いや、結構寝てるんだけど。この前、南塚(真史)くん(注:NANZUKA の代表者で田名網のギャラリスト)のギャラリーで並べた絵とか、あれみんな同じぐらいの時代に描いた絵なんですよ。だから1960年代の後半というのは、1日に100枚ぐらい描いた日もあるんですよ。依頼の仕事も含めると。

池上:1枚描くのにどれぐらいかかるんですか。

田名網:すごく速いです。編集者の人がいっぱい来るんですよ。その頃まだ新婚だったうちの奥さんが、「売れない喫茶店くらい人が来る」って言ってましたもんね。

池上:原稿を取りに。

田名網:原稿を取りに来たり、依頼に来たりとかで。

池上:いつ寝てらっしゃるんだろうって。

田名網:その頃はものすごく働いてたから。

池上:コラージュなんかは売るためでもないわけですし。

田名網:その頃は絵を売るとか考えたこともないし、絵が売れるなんて夢のまた夢でしたね。

池上:仕事としての仕事とは別に、作家としてのコラージュ制作ですとか、そういうものにもすごく時間を割いてらしたんですね。

田名網:べつに依頼されてないシルクスクリーン版画とかもやってたから。1960年から70年にかけて作ったアートブックやコラージュ、ドローイング版画、ポスター、アニメーション、実験映画などをチェックすると作品数が量的に一番多いかもしれないですね。酒ばかり飲んでるんだけど、体力と気力が充実してたんです。

池上:前回見せていただいたコラージュというのは、アメリカから持ってきた雑誌のイメージとか、もとから日本で持っておられたものとか、組みあわせはどういうふうに決めておられるんですかね。

田名網:伯父が残した雑誌などの膨大な資料が重要な素材になっています。戦前の映画雑誌や戦争に関するもので、印刷の退色具合が程よくて、なんとも言えない味わいがあるんですよ。昔の女優のポートレートなんかも、おさえた色気というか、内面に潜む怪しい光を感じましたね。それとニューヨークから大量に送ったポルノ新聞とアンダーグラウンドコミックもコラージュしました。11PMのアニメーションの原画も少し残っていて、それも素材に使いましたね。特に記憶に残っているコラージュがあるんだけど、それはね、ごみの廃棄場に全裸で立ってる女の写真の背景にアメリカンコミックスのスーパーマンとワンダーウーマンなどが複数貼り付けられている作品です。汚染されたゴミ廃棄場に立つ日本の痩せたポルノ女優と、空を埋め尽くす強力な力の象徴としてのスーパーマンを対比したものなんだけど、そのスーパーマンも得体が知れない巨大な力によって握りつぶされてしまう。こういう不穏な時代を暗示させるコラージュを結構作ったんですよ。

池上:前回見せていただいた中には、着物姿の女性のイメージを使われたコラージュとか、そういうのもありますよね。

田名網:中目黒の僕の家の近くに、その頃流行作家で川口松太郎っているでしょ、その人が住んでたんですよ。僕の家から5軒目ぐらいのところに。そこは川口松太郎のほんとの家じゃなくて、愛人の家だったんですよ。花柳小菊という芸者さんなんですよ。だけど芸者をやめて、後年東映で時代劇の女優になったんです。

池上:別宅みたいな感じなんですね。

田名網:別宅で。僕が道路に蝋石で線路を描いて、自宅の前から延々と描いていくわけですよ。そこに電車も描いて。描いてると必ず川口松太郎と花柳小菊が出てくるんですよ。その頃、僕は子どもだったんだけど、うわさ話で、川口松太郎は有名な作家で、あの女優は愛人だという話はなんとなく分かっているわけですよ。その花柳小菊が必ずお菓子なんかくれるんですよ。それでね、すごくいい匂いがするんですよ、芸者さんだったから。綺麗な紙にくるんだお菓子くれて、「坊や上手ね」って頭をなでてくれるわけね。僕はね、ドキドキしちゃうんですよね。手なんかつないでくれて、指についた匂いをかいだりした。僕が後年映画を観るようになって、花柳小菊が出てると、結構意識して観てたわけですよ。だからコラージュなんかにも花柳小菊を使いたいわけですよ。伯父が残した古い映画雑誌の表紙に花柳小菊がいくつも出てたんです。一瞬にして、あの頃の色っぽい容姿がよみがえって興奮しましたね。夜空を埋め尽くす爆撃機の恐怖と色鮮やかな花柄の着物、空襲の熱風に苦しみながら、金魚の浮かぶ水槽を見続けた遠い記憶に重なりますね。

池上:やっぱりそういう幼少期からのテーマを意識された部分はあるという。

田名網:そうそう。花柳小菊に限らず、僕が昔映画を観てて一番好きだった女優は、ジーン・ピータースなんですよ。今はみんな知らないけど。『女海賊アン』(1951年、カラー)という映画があってね、大ヒットしたんですよ。B級映画に没頭していた時代、時節柄、戦争映画が多かったんですよ。ジーン・ピータース主演の空軍パイロットとのラブロマンス。あまりに映像に入り込んでしまって、夜、布団に入ってからも彼女の豊満な肉体のイメージが蘇ってなかなか眠れないんですよ。雑誌も写真もなかった時代なので、ともかく想像で彼女の似顔や映画の場面を描いたわけです。描き進むうちに、髪のウェーブの曲線とか、細かなディテールが微細に描けるんです。何十枚と溜まった絵を1冊に綴じることを考え、表紙にも彼女と戦闘機と名前を組み合わせた、まぁ、コラージュの真似事みたいなものを作りましたね。ちょうど同じ頃、映画館の暗闇で『蒸気船ウィリー』のミッキーマウスをノートに描いたことがあります。どうしても手元に置きたいという抑えがたい欲求があって、闇の中で描いたわけです。

池上:アニメの方でも、《Good Bye Elvis》なんかは結構戦闘機とかが入ってるようなシーンとかもありましたね。

田名網:そうですね。空襲の爆撃と、空じゅうが爆撃機になったというイメージがものすごく強くあって、それで出てくるんだと思うんですね。

池上:アニメのために制作されたドローイングというか原画がありますね。それをコラージュにもどんどん転用されていると思うんですけど。

田名網:使うとコラージュに厚みが出るし、時代感覚が重層的に浮かび上がりますね。

池上:アニメの、確かNANZUKAでの個展のところに一部展示されていたと思うんですけれども、絵コンテみたいなのを最初に描かれるんですか。

田名網:そうです。絵コンテもだいぶ後になって倉庫から出てきたんだけど。簡単なものですけど。メモ程度の。なぜ描いたかというと、音楽の人に先に渡しておかないといけないんですよ。一応どういうものが出てくるかを知りたいというんで。

池上:《Good Bye Marilyn》は音は何を使われてましたか。

田名網:あれは平山三紀という、その当時のヒット曲なんですよ。

池上:タイトルはお分かりになりますか。

田名網:あれは何といったかな。平山三紀ってヒット曲が1つしかないんですよ(注:「真夏の出来事」、1971年)。有名な曲なんだけど。アニメーションに使ってみたかったので、テレビ局が許可を取って借りたんですよ。

池上:《Good Bye Elvis》の時はエルヴィスの歌を使っていらしたけど、モンローの時はモンローの歌ではなくて日本の歌謡曲を。

田名網:平山三紀の声がハスキーでちょっとセクシーな色気があるんですよ。無論、体型なんかモンローとは比べるまでもないんだけど、絵と合わせてみたら、結構ぴったりだったんです。

池上:日本の歌とモンローというのは面白い組みあわせだなと思うんですが。《Good Bye Marilyn》の方で、マリリン・モンローが何か鳥みたいになってるのがあって印象的なんですけど、あれはどういうところから来てるんですか。

田名網:それはちょっと…… 一コマ一コマはよく記憶してないんだけど、その時はたぶん何か考えてたと思うんですけど。

池上:モンローがピヨピヨしてるという(笑)。

田名網:ああ、はいはい(笑)。

池上:その時は何かあったんだろうと。

田名網:うん。

池上:アニメつながりでもう少しお聞きしますと。1971年にいまお聞きした3つの作品があって、次、1975年に《CRAYON ANGEL》と《優しい金曜日》(どちらも16ミリ、カラー、3分)というのを作られていると思うんですけれど。さっきおっしゃっていたみたいに、《Good Bye Elvis》とか《Good Bye Marilyn》はちょっとアメリカとの決別みたいなものがあって、1975年の2つの作品はちょっとトーンが違う感じがします。

田名網:《CRAYON ANGEL》というのはやっぱり戦争というのを意識して作ったもので。

池上:それがもっとはっきり出てきますよね。

田名網:その時代に活躍したエノケン(榎本健一)とかロッパ(古川ロッパ)とか笠置シヅ子というのは当時、三大スターだったんですよ。大衆に圧倒的に支持されたポップのアイコン、その象徴として登場させたんです。笑いに包まれた対戦前夜の束の間の平穏、それを切り裂くように現れる戦闘機。航空母艦に突っ込む特攻隊の映像、真珠湾攻撃。一瞬の誤算で逆転してしまう「笑いと戦争」をテーマにしたものです。

池上:アメリカのポップ的な要素が抜け落ちても、戦争というものは抜けていかないというか、やっぱり原体験の一つとして制作の動機になっていくという。あの女性、風に吹かれている金髪みたいに見える女性は、実は爆風で飛ばされてるんだというのをお聞きしたんですけれども。

田名網:そうですね。

池上:あれは、じゃあ金髪に見えるんだけど、ほんとは金髪じゃないということですか。

田名網:日本人の黒髪が、空襲の時の爆撃の熱風で揺れてるという、そういうシーンなんですけど。

池上:じゃあほんとは黒髪であると。

田名網:うん。

池上:この時期にもう一回戦争体験に立ち返ろうと思われたのは何かあったんですか。

田名網:いや、その時期だけじゃないんだけど、戦争の記憶というのはそんな簡単に払拭できないもので、自分で意識してそういうテーマでやろうと思わなくてもそういうシーンが必ず出てきちゃうんですよね。

池上:この2つの作品はどこかからの依頼ではなくて。

田名網:それは自主的に作ったの。

池上:それで短いんでしょうか。どっちも3分ぐらいの。

田名網:最初は5分くらいのものにする予定だったの。だけど編集しているうちに少しずつ短くなって、3分になった。

池上:この2つは特別な感じがするなというふうに思うんですが。

田名網:テーマ設定が明確だったからでしょうか。見切り発車でスタートすることも多いから。

池上:《CRAYON ANGEL》は、タイトルはどういう意味があるんでしょうか。

田名網:あれはね、森永製菓のエンゼルマークあるでしょ。だいぶ昔の話だけど、子供を対象にしたエンゼルマークを描くコンペがあったんです。新聞に当選の絵が出たんだけど、子供の絵でクレヨンらしきもので描いたエンゼルが目についたんです。それがとてもかわいくて、しばらく机の前に貼っておいたの。たぶんそれがタイトルになったと思うね。

池上:こちらは戦争に関する意識がすごくはっきり出てる感じなんですけども、《優しい金曜日》の方はもうちょっと自伝的な要素というのか。

田名網:そうです。それはね、僕は金曜日というのが好きだったんですよ。その時期いろんな仕事のサイクルがあって、金曜日ってわりかしポコッと空くような日だったんです。金曜日って嬉しかったんです。朝起きて、顔を洗って歯を磨く。そんな、何気ない一日の悔恨に満ちた出来事や、今日これから起こるであろう大事件の気配を記録する…… イマジネーションが奔放に交差する時間。自分自身の網膜に映った雑多なイメージや妄想をフラッシュ的に挿入した映像日記とも言えますね。

池上:ギュウチャンから来たポストカードみたいなのが出てきたりしますよね。

田名網:そうそう。あれ勝新太郎と撮った写真なんですよ。

池上:よく文通みたいのをされてたんですか、篠原さんと。

田名網:その頃はギュウチャンも向こうへ行ったばかりで暇だったと思うんですけど、いつも便せん3〜4枚ぐらい書いてくるの、絵入りで。

池上:近況を。

田名網:メールも何もないから、文通わりかしマメにやってましたよ。

池上:その頃の手紙とか取っていらっしゃいますか。

田名網:ありますよ。結構すごい量よ。

池上:調べると面白そうな(笑)。この2つのアニメーションの後、アニメ的なものの制作がちょっと止まるような感じなんですけども、それは何か理由がありましたか。

田名網:それはさっきも言ったように、ニューヨークに行って(ジョナス・)メカスとかの映画を観て、もうちょっと、ライブな映像を作りたいということと、印刷の手法と、オフセットの網点。そういう印刷物に対する興味とこだわりがすごく強くなって、印刷の工程みたいなものをそのまま映画に導入したらどうなるかというのを考えてたんです。グラフィック・デザインのワーキング・プロセスを、そのままフィルムに転化することができるか、印刷における色指定とか、製版スクリーンによって網点に分解された写真を動くフィルムに定着することが可能なのか。いろいろと試行錯誤があったわけです。机上の作業であるグラフィックの仕事のプロセスから、動きと時間であるフィルムへと変化させる難解な作業、そこに着目したんです。それを実現できたのは、依頼していた現像所の素晴らしい職人と出会ったからなんです。「いつも仕事でやっている方法で設計図を描いてくれれば、その通り仕上げてあげますよ」と言われたときに、僕の映画は80%完成したんです。

池上:色指定みたいな。

田名網:まず、いわゆる絵コンテを描くんです。そのコマ割りの余白に、時間とともに変化していく色彩の変化を、カラーチップを貼り付けて色指定していくわけです。人物は赤、背景はグリーンにと。それをオプティカル技術、光学的に処理するんですよ。今だったら簡単にできると思うんだけど。その頃の現像工程はすごく複雑で大変だったんです。試写室で見たときは、動くシルクスクリーンみたいでかっこよかったですね。それから印刷のモアレを拡大して映画を作りました。『Why』(1975年)という作品です。前座のボクシングの試合を最初から終わりまで、モータードライブのストップカメラで撮影し、それをオフセットで印刷にしました。1,000枚近いカットを大きく紙焼きして、それをアニメーションの線画台で撮影したんです。

池上:すごい複雑ですね。

田名網:ええ。モータードライブで撮ったモノクロの写真が積み上げると30pくらいある。僕のいろいろ作った映画のなかでは一番時間がかかってるんです。

池上:手法的にはアニメに近い感じですよね。

田名網:ええそうです、コマ撮りだから。

池上:でもパッと見はアニメにはあんまり見えない。

田名網:昨夜見たボクシングの試合を翌日のスポーツ新聞で再確認するとき、あのザラザラした新聞紙に掲載された荒れた写真に、前夜見たテレビ画面以上の凝縮されたイメージを発見して驚くことがあるよね。まさにこれこそが現実だっていう。新聞の写真が突然動き出すなんで愉快じゃない。僕は現実の試合は何も見てないわけよ。でも昨夜のテレビで見たボクシングを現実にみたような錯覚を持って見ているのよ。だけど複製されたものを見たに過ぎないわけ。その複製された試合をもう一度僕が複製する。つまり複写の複写の複写なのよね。一度複製された虚構像をさらに複雑に分解して、まったく違った虚像に作り上げることもできるわけだよ。

池上:写真自体は田名網さんが撮られたんですか。

田名網:いや、カメラマンと一緒に行って。

池上:そうか、私は最初から何か印刷物を使っているのかと思って。

田名網:いや、そうじゃないんです。一から全部。

池上:生の素材から。

田名網:うん、全部作ったの。

池上:何回複製してんだってぐらい(笑)。

田名網:「複製されたもの」への固執だよね。

池上:すごく面白いですよね。あれも1975年ぐらいでしたか。

田名網:そうです。

池上:一方でポップなアニメがあって、ああいうものもあるので、共存しているのがすごく面白いなと思って見ていたんですけど。でも結果的にはそっちの実験映像的な方にシフトしていかれたので、いわゆるアニメは1975年あたりでちょっと一段落したという。

田名網:そうですね。アニメーションのテクニカルな部分は使っているけど、絵を使うというのは一応中止しましたね。印刷の工程を映画に応用したり、グラフィック・デザインの方法論を映像の中で突き詰めていこうと思ったわけです。

宮田:アニメとお仕事との間に版画作品、版画制作というのをされていますが、版画制作というのはどういう位置に。ドローイングを描きながら、仕事もしながら、版画もという、棲み分けみたいのがあったんですか。

田名網:版画はね、僕はその頃ポスターとか作ってて、シルクスクリーンで作ることが多かったんですよ。それで版画の方にシフトしていったんだと思うんですよ。シルクの工房としょっちゅうやりとりがあったので。「これを版画にしたら面白いかな」という発想が出て。

宮田:1965年に椿近代画廊で「田名網敬一版画展」というのをされています。そこで版画を発表するというのはどういう経緯があったのでしょう。

田名網:それはね、その頃は複製というものにものすごい関心を持ってたので。版画も複製じゃないですか。そういう意味で、一枚の原画を描くよりもどんどん複製していくことに関心を持っていた。アートブックを作ったのもその一環なんだけど。

宮田:どれぐらいのエディションがあったんですか。

田名網:エディションは少なかった。30枚ぐらいしか作んないけど。

池上:それも特に売るということは考えておられなかった?

田名網:その頃はね。絵なんか売れなかったし。

池上:発表はするけどべつに売るためではなくて。

田名網:うん。友だちが渋々買うというのはあったけど。

池上:先ほど宮田さんが持ってこられていた『美術ジャーナル』の特集号(1967年9月号 特集: Comic Strip 掲載作家:井上洋介、金坂健二、久里洋二、沢田重隆、篠原有司男、谷川晃一、田名網敬一)、これもすごく面白いなと思っていたのですが、これの特集をやりませんかというのは『美術ジャーナル』の方から提案があったんですか。

田名網:『美術ジャーナル』がもう廃刊しようかという頃で、「何でもいいから作って」という最後の雑誌なんですよ。

池上:そうなんですか。最後の花火みたいな感じなんですかね(笑)。

田名網:そうそう。それで僕と谷川晃一くんが話を聞いて、「じゃあこういうのでもいい?」って言ったら、いいっていうんで、それで作ったの。

池上:これ、ものすごく面白いですよね。

田名網:結構ね、今買ったらすごく高いんですよ。

池上:手に入れたいと思ってたんですけど、難しいかもしれない。これはじゃあいろんな方が、篠原さんとか久里洋二さんとかが出されてますけれども、そういう人選をして「出してよ」というふうにして。

田名網:そうそう「好きなもの描いて」って描いてもらったの。

池上:田名網さんはこの中で『ワンダーウーマン』(Wonder Woman, DC COMICS, 1941)をテーマに、ちょっと漫画調のものを出されているのですけれども。これは実際にアメリカに行く前のお仕事だと思うんですけれども、やっぱりB級映画で見た。

田名網:B級映画の影響もあるけど、その頃アメリカのコミックスが大好きだったの。

池上:先ほどおっしゃっていた日本のポルノ、ピンクスターというのはこの方ですか。

田名網:いや、この人は青山ミチ、黒人とのハーフの歌手。

池上:ああ、そうなんですか。

田名網:その当時有名だった。僕は大ファンだったの。

池上:ああ、そうなんですね。すごい豊満な体型をされているので。

田名網:本買った人が、この人誰だか教えてくれって結構聞く人いるんだよ。

池上:すごく魅力的なかわいらしい方だなと思って。

田名網:ギュウチャンのも面白いでしょ。

池上:すぐにギュウチャンって分かります。《銀座にベトコンがでた》(1967年)という作品、たしか当時大きい作品を作っていて、それとつながっているような感じなんでしょうね。1967年の『美術ジャーナル』の後に、1968年には《No More War》というポスターがアメリカの『AVANT GARDE』(アヴァンギャルド、Avant-garde Media, 1968)という雑誌の反戦ポスターコンテストで入選するという。これは応募を?

田名網:応募したんですよ。

池上:情報は入ってきたんですか?

田名網:『AVANT GARDE』というのは、ハーブ・ルバーリン(Herb Lubalin)という有名なアメリカのタイポグラフィのデザイナーがいて、その人が作ったんですよ。『AVANT GARDE』が出たときは、僕たちはものすごく期待してたわけ。今でも『AVANT GARDE』って古本屋さんなんかにあるけど、結構高いんですよ。あんまりたくさんは出てないんだけど、その『AVANT GARDE』誌が反戦ポスターを募集するというのは結構大きなニュースだったわけ、日本でも。それで応募したんですよ。1ドルポスターというので、反戦のキャンペーンで全米で売ったわけです、入選作を。

池上:1ドルで買ってそれがチャリティというか。

田名網:5作品入選したしたんだけど。1ドルポスターとして売るということで募集したの。

宮田:世界中から集まったなかでということですか。

田名網:そうそう。『AVANT GARDE』誌というのは、その当時の絵とかデザインを志す若い人にとってはすごく刺激的な雑誌だったので、かなり応募があったと思うんですね。

池上:でしょうね。じゃあ全米にそのポスターが流通したということですね。

田名網:そうですね。ポスターショップとかでたぶん売ってたと思うんですよ。

宮田:ポスターが売れると印税が入るとか。

田名網:いや、そうじゃないの。全部寄付だから。

宮田:なるほど。

池上:同じ年のことなのでちょっとお聞きするんですけれども、篠原さんの『前衛の道』(美術出版社、1968年)の装幀をされますよね。篠原さんの自伝の本。あれは復刻本(2006年)も出て、今でも名装幀としてすごく名高い。

田名網:あれ、僕が装幀したんじゃないのよ。

池上:でも篠原さんいわく、「田名網クンがアイデアをくれてデザインもしてくれて」という。

田名網:そうそう。あの本の絵も文章もほとんど、僕のうちで書いたから。

池上:ほとんど共作のような(笑)。住んでた頃ですよね。

田名網:僕の仕事机の隣に座って描いてた。「ちょっとこれおかしいんじゃない? ここんとこ」「ああそう、じゃあちょっとこれ入れようか」とかって、うちの画材とか全部使って。

池上:そうか、じゃあアイデアを二人で出し合いながら。

田名網:べつに僕がやったんじゃないんだけど。だけど美術出版社の編集者も打ち合わせに来るんだもん。

池上:本の奥付には「装幀 田名網敬一」というふうになってます。

田名網:あと復刻版も出たじゃないですか。装幀のデザインも用紙も、初版と同じにしたんです。3冊出したんですよ、あの時。ドローイングの本と対談集と。(『早く、美しく、そしてリズミカルであれ 篠原有司男対談集』ギュウチャン・エクスプロージョン!プロジェクト実行委員会、田名網敬一監修、2006年)

池上:復刻版の時ですよね。『(篠原有司男ドローイング集)毒ガエルの復讐』とか。『前衛の道』は虹色の光る紙がカバーに使われていたり、ものすごく斬新な。

田名網:そうですよね。ドローイング集は構成、デザインなどすべてを担当しました。

池上:そうだと思います。復刻版が出る前はもう「幻の名著」という感じでなかなか手に入らなかったです。折り込みになっていて、両開きになるとか、すごく凝っていて。

田名網:よく美術出版社も出してくれたよね。

池上:ですよね。お金がかかりそうな。

田名網:お金かかってると思うんですよね。

池上:スクリーントーンも使ってますね。

田名網:僕その頃よく使ってたから、うちにスクリーントーンがいっぱいあったんですよ。線描の上にペタペタ貼り付けてましたよ。作業はすごい雑なんだけど、印刷になったらすごい迫力なの。

宮田:切り貼りしてたんですね。

池上:その頃はほぼ同居みたいに住んでおられて。篠原さんの《コカコーラ・プラン》(1964年)という作品を一時田名網さんが持っておられたと聞いたことがあるんですけども、今青森県立美術館に入っている。それはお家にあったんでしょうか。

田名網:そうそう。その頃はうちに。

宮田:うちで作ってた(笑)?

田名網:いや、うちで作ってたのもあるんだけど。僕が買ったのもあるし、とにかく結構いっぱいあったんですよ。

池上:ほかにどういうものを持っていらっしゃいました?

田名網:ピストルが飛び出してるのがあるでしょ。あれもうちにあった。今でも昔の結構大きいキャンバスがありますよ。

池上:ぜひ拝見したい。《コカコーラ・プラン》に関しては、60年代に作ったのは2点しか確認されてなくて。一つは富山県立近代美術館に入っていて、一つは青森県立美術館に入っているんですけれども、田名網さんがお家でずっと持っておられたものを青森の方に譲られたという感じなんでしょうか。

田名網:そうです。

池上:それは青森の美術館ができる前ですか。準備室の方からそういう提案というか。

田名網:それはね、村松画廊が昔の絵を並べるというので、赤瀬川原平のお札とか、ギュウチャンのとかを貸したんですよ。その時「これどうですか」というふうに言ったのかもしれない。

池上:先週、青森に行く用事があったので収蔵庫で見てきました。

田名網:ああそうですか。

池上:保存状態がすごく良くて、田名網さんのお家にずっとあったのが良かったのかなと思って。

田名網:そこのとこにもいっぱいありますよ。『前衛の道』のポスターとか。

池上:貴重なものですね。

宮田:ペニスが(指をクロスさせて)こうなっているやつですか。

田名網:あれは違うんじゃない?

池上:あれは何とか草子という、また別の(注:篠原有司男個展「日本衛生草子」1964年)。

田名網:あれはちょっと違うと思うよ。それもね、どこかに貸したんだよね、どっかに。(席を立って作品を取りに行く)いっぱいあんのよ、ここに、昔のギュウチャンのが。こういうの。(篠原がナポレオンの格好をしたポスターを見せる)

池上:わっ、面白い!

田名網:これきれいでしょ。

池上:きれい。右の(『前衛の道』のポスター)は知ってますけど。

宮田:すごーい。

池上:これはめずらしいタイプの。

田名網:それはね、相当めずらしいと思う。

宮田:1968年。

池上:1968年ですね。全然変わってないところがすごい。

宮田:「篠原有司男ナポレオン」って何ですかね。

田名網:渋谷の西武デパートで何かやったんですよ。その時のポスターかな。

池上:これなんかついてるよ、実際の素材が。ラミネートみたいなのが。

宮田:ほんとですね。「君はもう読んだか」(ポスターに掲載されている一文)。

田名網:これすごいでしょ。こんないっぱいあるのよ。これは『前衛の道』の原稿かもわかんないな。

池上:そうかもしれないですね。

宮田:生原稿が。

池上:生原稿発見! これはすごい。

田名網:これもそうなんじゃないかな。

池上:照らし合わせると出てきそうですよね。

田名網:これは内科画廊の(地色蛍光レモンイエローのポスターを持って)。

池上:宮田さん知ってた?

宮田:知らないです(笑)。

田名網:これ、彼が自分で刷ったんだよ、シルクで。初めてみた? これは1枚ぐらいしかないんじゃないかな。

池上:お化けガエルがすでに出てきている。

田名網:こういうのあるんだよ、ストーリー付きの。これね、ギュウチャンが書いたストーリーなの。

池上:これはニューヨークに移ってから描いたやつですね。

田名網:これなんか相当いいもんでしょ。

池上:いいですねえ。

田名網:ストーリーがね。

池上:素晴らしい。去年来てればよかった(笑)。(注:池上と富井玲子氏の共同企画で2012年にアメリカで開催した「Shinohara Pops! The Avant-Garde Road, Tokyo/New York」展(Samuel Dorsky Museum of Art, 2012.08.29-12.16)に出品できたのに、の意)

宮田:ほんとですね。

田名網:「草間ハプニング」と書いてあるからね。

池上:これギュウチャンが撮ったやつがあるんですよね。

田名網:カラーもあるの。本を出そうというんで作ったの。「ニューヨーク・ヤングマップ」という本を。文章もみんなくっついてるわけよ。

宮田:今出してもいいと思いますよ。

池上:ねえ、出せばいいのに。ああ、あの時期のだな。

田名網:相当あるよね。

池上:ギュウチャンよりもずっときっちり保存されておられる(笑)。ギュウチャンのためのリサーチとしてまた改めて来たいような気がします。

田名網:これ相当貴重だと思うんだよね。

池上、宮田:貴重ですね。

田名網:内科画廊の。

池上:64年あたりですかね。イミテーション・アートの。

宮田:7回(個展)やってますもんね。

池上:内科でやったけど内容が分からなかったのがあるじゃない。そのうちの一つだよね。

田名網:これ昔のだから相当手が込んでるね。文字とかいっぱい入ってるから。キャナル・ストリートの駅とか出てるもんね。これ表紙Aとか書いてあるから、たぶんこれを表紙にしたいという、「ニューヨーク・ヤングマップ」の。

池上:この手のドローイングは今もギュウチャンのスタジオにいくつか残っていて、去年の展覧会(「Shinohara Pops!」)にもちょっと出したんですけど、それの原型みたいな感じですごく面白いです。

田名網:こっちの方が古くて、荒っぽい方はわりと新しい。これは相当古いんだと思うんだよね、細かく描いてるのは。これ第1案、第2案なんて書いてあるもの。

池上:ていうか、そんなに細かく仕事してた時期があったんだ(笑)。

田名網:これ(篠原がナポレオンの格好をしたポスター)面白いでしょ。

池上:すごいレアです。

宮田:「1階ファッションラウンジへ」(ポスター掲載文)て、何をやったんですかね。

田名網:木馬に乗って写真撮ったの。

池上:演出とかやって、ちょっとイベントとかお芝居っぽい。

田名網:1968年だ。

池上:渡米前ですよね。

宮田:西武(百貨店)でそんなことさせてくれるんですね。

池上:面白すぎる。

田名網:だからこれは最初のポスターですね。

池上:それは『前衛の道』の表紙になってるから、イメージとしては知られている。ここに実際に紙が。表紙に使った紙ですよね、虹色に反射する。

田名網:そうそう。これは色があせちゃったけど。

宮田:こういうのって本屋さんで貼ってたんですかね、こういう(細長く小さな)ポスターは。

田名網:どうかな。貼るとこなんかないんじゃないの?

池上:作ったんだね、プロモーションのために。

田名網:美術出版社が作ったんじゃない? それとも西武が作ったのかな。

池上:いやあ面白かった。ありがとうございます。すいません、ギュウチャンに話が逸れてしまいました。

宮田:草月アートセンターでのアニメーション・フェスティバルの後に、松本俊夫さんの著書の『映像の発見(アヴァンギャルドとドキュメンタリー)』(三一書房、1963年)に刺激を受けたというようなことを年譜で読んだことがあるんですけど。後でメカスだとかアメリカでのアンダーグラウンドの実験映画と、松本さんとかもその当時実写でアンダーグラウンド・フィルム的なものを撮られていたと思うんですけれども、日本の作家さんからの影響というか刺激を受けたとか、そういうことっていうのはあったんですか。

田名網:松本さんの『映像の発見』は、その当時の若い人たちにとって、映像のバイブルと言われたぐらいの、話題になった本で、みんな読んでたんですよ。長編の劇映画だけじゃなくて、いわゆるインディペンデントなものも映画だっていう彼の考え方を本にしたもので。僕もその本を読んで衝撃を受けましたね。その時はまだ松本さんと面識なかったんだけど、それは岡本太郎の『今日の芸術(時代を創造するものは誰か)』(光文社、1954年)の映像版みたいなものだったんですね。その松本さんと一緒に、インディペンデント映画の上映会とかやったんだけど、結局実験映像というのは、名称そのものもみんな知らないぐらいに消滅しちゃったわけよね、映画や美術の歴史の中からも。消えちゃったんだけど、結局、メディアアートに吸収されたんだと思うのね、実験的な映像のいろいろな要素が。

宮田:その当時、日本人で松本さん以外に実験映画で影響力がある方ってほかにどなたが。

田名網:萩原朔美も作ってたよ。あと、かわなかのぶひろ。イメージフォーラムを作った富山(加津江)さんと夫婦だけど。その頃は実験的な映画って結構いろんな人が作ってたのよね。でもだんだん作らなくなっちゃって。それから寺山修司も実験的な短編たくさん作ってるよね。寺山が渋谷に作った劇場天井桟敷でも、ずいぶん上映会をやらせてもらった。僕が会場を探しているとき、「空いてるとき、自由に使っていいよ」と声をかけてくれたの。

池上:実験的なアニメの方も同じような経路を辿ったのでしょうか。

田名網:いや、アニメーションの場合はもっとポピュラーなものなので、上映する場所もいろいろあったんですよ。

池上:実験的であってもフェスティバルがあったり。

田名網:美術館や映画祭など、上映する機会が多かったんです。ただ実験的な映画は非常にコンセプチュアルなもので、いわゆる「構造映画」と言われるものですよね。要するにコンセプトが突出して、余分なものはすべて排除してしまう。例えば一つのリンゴを延々とに撮ってるとかね。要するに構造映画というのは退屈で、あんまり面白くないんです。

池上:難解になりがちであると。

田名網:そうそう。

池上:じゃあアニメと実験映像の観客というのはあまり重ならなかったんですかね。

田名網:でもね、僕が作ってた頃っていうのはみんなガマンして観てたの(笑)。

池上:アニメの方はフェスティバルをやっても観客が立ち見で、とおっしゃってましたけど、実験映像の方は観客の数という意味では。

田名網:だんだんみんなに飽きられた頃なんてお客さんは5人とか10人とかね、そういう感じだもんね。

池上:当初はわりと興味ある人が来てた?

田名網:当初はメカスとか、例えばウォーホルの、エンパイアステート・ビルを延々と撮ったもの(《エンパイア》1964年)とかあるじゃないですか。ウォーホルのコンセプト自体はすごく面白いんだけど、あの映画を最後まで観た人なんていないと思うのよね。8時間。

池上:8時間観られるかというと。

田名網:だから僕がニューヨークへ行った時《エンパイア》とかやってたけど、1人か2人だもんね、お客さん。そのお客さんも帰っちゃうの。延々と映ってるんだけど、また途中で帰ってきたり、ちょっといて、またいなくなっちゃうとかね。

池上:まあ、そんなに真面目に全部観るもんでもない。

田名網:要するに、コンセプト自体をみんなが知ってるわけじゃないですか。その映画がどういうものかと観に来る人はいても、じっくり味わおうなんていう映画とまた違うもんね。

宮田:田名網先生みたいに、アニメーションと実験映画と版画と出版とという、領域をまたいでいた人っていなかったんじゃないかというお話が前回出ましたけれども、やっぱりいなかった?

田名網:いたと思います。

池上:しかもどの分野でも最先端の仕事をされているというのはすごく特異な存在かなと。

田名網:うーん、まあそうかなあ。ちょこっとやった人はいると思うけど、僕はアニメーションでも結構長期間、しつこくやってるから。

宮田:映画でいうと、1971年に草月会館で「シネマ・デモンストレーション」という個展というか田名網先生の特集上映を。

田名網:初めての映像上映。

宮田:その時に上映された作品というのはどういうものですか。

田名網:それまでに「11PM」とかで作ったフィルムを寄せ集めて、それで1時間ちょっとぐらいにした。

池上:じゃあアニメも実験映像も両方。

田名網:全部入って。そのあと松本俊夫さんと二人で渋谷西武のパルコ劇場でもやってるんですよ。

池上:そういうこともあって、だんだんアニメから遠ざかって実験映像の方が増えてきた。

田名網:そうそう。それで1975年頃はそういうのばっかり作ってたわけ。

宮田:パルコ劇場の時、2面スクリーンとか3面スクリーンというものを使っていると書かれていたんですけれども、なかなかそういう発想って(めずらしい)。普通、映画館で1面スクリーンというものが基本だと思うんですけど、2面、3面ってめずらしかったんじゃないかと思うんですが。

田名網:映画館って今だったらマルチスクリーンでいくらでも映写はできるけど、その頃は映写機が一つの劇場に3台もないでしょ。だから結構大変だったの。いろんなところから寄せ集めてきて。スタートも、今だったらボタン一つでポンとスタートするんだけど、その頃はアナログだからずれちゃうのよね、ポンと押しても。合わないわけ。それからフィルムのスピードが微妙に違うから、だんだんずれていっちゃう。まあそれも面白かったんだけど。

宮田:先ほど実験映画が、観客がいなくてすたれていってしまうなかで、パルコ劇場とかでそんな大きな上映会をするって、すごく評価があったということですか。

田名網:評価があったというか、ちょうどその頃パルコ劇場にそういう変わったものを面白いというスタッフがいて、それで実現したんだと思う。パルコ劇場というのは商業演劇の劇場だから、実験映像みたいなものはやらないわけよね。だから結構面白いというかめずらしかったわけね。僕がやった少し後に、グラフィック・デザイナーの粟津潔さんもやったんですよ。それも実験精神にあふれた、粟津さんらしい映像の展覧会だったけど。
 その頃、亀倉雄策さんという偉いグラフィック・デザイン界の大御所がいて。僕が粟津さんのをパルコ劇場で観た帰りに、喫茶店に入ったら亀倉さんがいたのよ。「田名網クン、ちょっと」って言うから、「何ですか」って言ったら。「キミ、粟津はこんなくだらないことばっかりしてるから本業に身が入んないんだ」って言うのよね。「何が面白いんだ、あの映画」って怒ってるわけね。「君もだ」っていうんでさ、僕も怒られて。「君もこんなくだらないことしないで、もっとちゃんと仕事をするようにしなきゃダメだよ」なんてそこで30分ぐらい怒られたの(笑)。

池上:実験映像なんかにうつつを抜かすなと。

田名網:そうそう。こんなくだらないことしてね、お金の無駄遣いだろうとかいって。

宮田:亀倉さんの話とか出ましたけど、1970年代初めのグラフィック・デザイン界というのはそういう感じだったんですか。お会いしたら皆さんお話しされるような。

田名網:その頃は、日本が高度経済成長の時代で、日本のグラフィック・デザイン界は非常に好調だったんです。ポスター1点作るのに何十人ものスタッフが関わるという、とんでもなく不経済なことを日常的にやっていたわけです。単なる商品ポスターを「作品」と呼ぶデザイナーの意識にも問題があるが、バブルに踊らされて、ちょっと舞い上がっていたのかもしれません。ただグラフィック・デザインは若者に人気で、社会的にも注目される職種になったんです。

宮田:パルコでやる前年に、寺山修司さんの芝居をやっていた天井桟敷館でフィルム作品特集上映をされていますが。

田名網:それはね、今はいろいろあるんだけど、その時代は上映する場所がないんですよ。映してくれるところだったらどこでもよかったんだけど。ちょうどその頃、寺山さんが天井桟敷館を渋谷に作って、演劇の公演してたわけね。使ってない時だったら使っていいよ、って寺山さんが言ってくれたわけ。演劇をやってる時はダメなんだけれど、たぶん終わった後だと思うんですよね、夜の12時頃とか。ところがね。お客さんが来ないわけよ。3人ぐらいしか。寺山さんに「いいよ」と言ってもらった手前、なんかまずいじゃないですか、3人じゃあ。電話して友だちとかに来てもらって、それでもせいぜい10人ぐらいね。ゼロの日もあるわけですよ。もうまずいなあと思って。しまいにね、事情を知らないで入ってきたおじさんがね、怒ってね、「金返せ」とか言われて、入口でお金返したりね、結構大変だったんですよ。

宮田:有料でやったからじゃないんですか?

田名網:有料といっても300円ぐらいなのよね。

池上:アニメの方は国際映画祭もあったりして、外国でもあるわけですよね。実験映像の方はそういうのはなかったんですか。

田名網:海外にはたくさんあるんですよ。ドイツのオーバーハウゼン国際映画祭とか、大規模な映画祭があって、かなり盛況らしいです。ただ日本は少ないです。

池上:もうちょっとアングラ的なものなんですね。

田名網:アングラなんですよ。

宮田:アテネ・フランセとかアメリカン・センターとかでよく。

田名網:それはやってた。アメリカン・センターなんかは外国の映画作家の作品を輸入したりしてたんで、わりと協力してくれて結構定期的にやってくれてた。いずれにしても映像というのは、長時間拘束するじゃないですか。絵だったらパッと見て、イヤだったらパッと帰っちゃうけど、映像ってずっといなきゃなんないじゃない。あれがね、たぶん見る人にとって苦痛だったんだ。

池上:暗い中でね。

田名網:うん。やっぱり衰退するはずよね。

池上:必然だったんでしょうか(笑)。質問はアニメと前後しちゃうんですけど、これも1972年ですかね、フランスのアヌシーで国際アニメーション映画祭(Annecy International Animated Film Festival)のレセプションに招待されたとお聞きしていますが、そういう国外のアニメ映画祭に行かれたのはこれが初めてですか。

田名網:アヌシー国際アニメーション映画祭って海外の映画祭の中でも大きい映画祭で。それが初めてです。アヌシーというところは山の上にお城があって、そこが美術館になっていて、アニメーションに貢献した有名な監督の作品を展示する美術館なんですよ。そこで僕の展覧会をしてくれるというんで、映像の上映と展示もやったんですよ。世界のいろんな作家が1年に1人ずつやっていくというシリーズで、それでやったんです。

池上:何を展示されたんですか、上映以外では。

田名網:版画とか立体とかいろんなものを展示しましたよ。結構大きいところだったから。

池上:海外での初めての個展ということですね。

田名網:うん。

池上:アニメの方も含めてどういう評価、反響がありましたか。

田名網:アヌシー映画祭というのはわりと保守的な映画祭なんですよ。世界の映画祭のなかでもちょっと古くさいんですよ。お客さんはすごく来てるんだけどね、僕の映画になったらもう3分の2ぐらい席を立っちゃったね。

池上:ちょっとエロティックなところとか?

田名網:いや、あんまり面白くないから。

池上:へえ、彼らが面白いと思って観るようなものと違うということですか。

田名網:ストーリーがあったり笑いがあったりという、いかにもアニメーションというのを好む映画祭なんですよ。カナダとかイギリスとかアメリカにもあるんだけれど、その中でも一番権威はあるんだけど、保守的なの。

池上:そういう実験的なものを見慣れてない。

田名網:そういうのに対して拒否反応があんのよ。それで日本の観客は我慢して観るけど、向こうの人はもうバッと出ちゃうからね。

池上:我慢しないんですね。

田名網:うん。その時は結構つらかったけど。

池上:ねえ、ちょっと残念ですよね。映画評とか展覧会評とかそういうものが出たりは。

田名網:出るんですよ。映画祭の歴史と規模はかなりと大きな映画祭なんで、機関誌は出てるし、アニメーションの専門誌も出てるんで、結構まじめな評論とか出るんだけど。

宮田:海外のアニメーションのオファーというのは直接来るんですか。

田名網:直接もあります。他にはイメージフォーラムを経由して来るか、アニメーション関係の団体に来るか、いろんな形ですよね。あとフランスに僕の映画のマネージメントをやってくれている岡本珠希さん(CaRTe bLaNChe)という女性がいて、DVDの制作とか、ヨーロッパでのTV放映の契約などの業務をしてくれます。岡本さんがヨーロッパの代理人になっているので、そこにいっぱい来るの。

宮田:その代理人を置かれるようになったのは最近なんですか。

田名網:いや、もうだいぶ経ちますよ。岡本さんがヨーロッパ全土の、どこで何を上映するかを全部プログラミングしてくれるわけ。

宮田:それだけ上映する回数が多いということですね。

田名網:ヨーロッパでは頻繁にやりますよ。DVDを発売するとか。もうじき新しいDVDも出るんだけど、そういうのも全部フランスが中心でやってくれてるわけ。

宮田:1970年代後半に実験映画の上映会が増えると同時に、海外でも実験映画を上映する機会が増えたり、国内では映画講座とか講演会などが増えていると思うんですけれども、映画制作に対してどういうお話をする機会が。

田名網:その頃は武蔵美とか藝大なんかの学生が映像に興味を持っていて、映像関係の先生が結構多かったんですよ。だから映像を作っている人を呼んで話をするのが、いろんな学校で結構活発だったんですよね。その時はいろんなところに行って話はしたけど。だけどその後も海外のアニメーションの映画祭から招待が来て、呼んでくれたりして、そこで講座や上映があったり、日本と違ってすごい活発なんですよ、今でも。日本は広島の(国際)アニメーション・フェスティバルがあるけども、それ1つで、あとは何にもないのよね。毎年のイメージフォーラム・フェスティバルというのはやってるけど、それ以外に上映する場所というのは、日本の場合少ないんですよね。

宮田:海外で講演とかワークショップをされる時によく質問されることって何ですか。

田名網:よく質問されることっていうのは、まあ技術のこととかは聞くよね。今はもうデジタルで作ってる人が多いから、ほとんど何でも可能になっちゃうから、テクニカルな問題で聞く人っていうのはあまりいないのね。あとはどういう意図で作ったかということに関しては結構しつこく聞くけどね。

池上:アニメの方なんかでよく聞かれる質問というのは逆にありますか。

田名網:それはだから、どうしてストーリーがないとかね、そういうどうでもいいようなことよね、ほとんど。2009年にドイツのシュトゥットガルト国際アニメーション映画祭で。僕の上映もあって、審査員もやったんだけど。向こうの映画祭って、アニメーションに対する考え方がわりと保守的で、ストーリーがあったり、誰でも分かる話のオチがあったりを優先するのよね。例えばどれを受賞させるか決める時、僕なんかが推すのはだいたいほかの審査員は反対なのよね。あんな下品で、暴力的なものは絶対認めませんとかね。向こうの人ははっきり言うじゃないですか。絵がきたないとかね。だからいろいろ論争をしたとしても、通訳が入ったり、チェコから来てる人はまた言葉が違うでしょ。英語で、フランス語で、日本語だから、その間に通訳がそれぞれ入ってるから、一つのことを決めるのに1時間ぐらいかかっちゃうわけね。しまいに面倒くさくなるんだけど、向こうの人ってあきらめないのよね、延々と。それでたいていこっちが引き下がってやめちゃうんだけど。とにかく物語性があって、上品で、なんとかでって、とにかく色々理屈があるんですよ。

池上:意外とコンサバティブなんですね。

田名網:そうなの。アニメーションというものに対する特別な思い入れがあって、そういう人がたまたま集まってるのかもしれないけど。実験するとかということに対して非常に臆病なのよね。

池上:ファンタジーとか人畜無害みたいなものが喜ばれるんですね。

田名網:うん。

宮田:1980年に『イメージフォーラム』が創刊されますけれども(注:ダゲレオ出版、1980年6月創刊)、その時期個人映画の制作が盛んだったということが背景に。『イメージフォーラム』みたいなものが出るということはそれだけ受け手があるという。

田名網:『イメージフォーラム』は、最初はインディペンデント映画を主体にした評論誌を出そうということで出したんだけど、実際はそれじゃ売れないから、商業映画をメインに取り上げて、残り10ページぐらいを実験映像に割くぐらいの本なわけですよ。だけど『イメージフォーラム』はそんな売れなかったから、すぐ廃刊しちゃったものね。(注:1989年に継続誌に移行)

池上:残念ですね。

宮田:一定の層で個人映画を作るという雰囲気があったのに対して、田名網先生が何か関心なり興味を持たれる部分があったのかなと。

田名網:どれに?

宮田:個人映画というのが盛んになっていく動きに対して何か。

田名網:でもね、やっぱりお客さんが来ないというのは決定的だから。若い人の興味がほかの分野へ行っちゃうでしょ、そんな流行らないものはしないから。だからだんだん作る人も減っていって、最終的に実験的な映像を作る人は4、5人になっちゃうわけよね。流行っている時は、学園祭のお呼びがすごく来るんですよ、人気の時は。ただ、近年はだいぶ様子が変わってきて、現代美術の領域ですごく人気があるんです。特に70年代初めに作った僕のアニメーションはコレクターの要望が多くて、ベルリンのハンブルガー・バーンホフ現代美術館などにもコレクションされています。スイスのバーゼルアートフェアや、今年9月のSikkema Jenkins & Co. ニューヨークの個展でも上映されるんです。これからますます需要が増えそうなんですが、困ったこともあるんです。それは16ミリの現像をするところが世界的になくなってしまったんです。

池上:実験映像がだんだん先細りになってしまったり、『イメージフォーラム』もあんまり部数が出なかったりというのと時期的には平行する形で、『PLAYBOY』の雑誌のアートディレクターをされていて、これはバーンと売れたわけですよね。そのアートディレクターを引き受けられた経緯というのをお聞かせいただけますか。

田名網:デザインにはいろんな種類の仕事があるけど、僕はエディトリアル・デザインが一番好きなんですよ。好きな理由は、映像とものすごく似てるのよね、雑誌って。次に何が出てくるかという興味でめくっていくわけじゃないですか。だから時間もあるわけです。一枚物のポスターには時間がないですよね。雑誌の場合はめくるスピードによっても違うし、非常に映画と似てるんですよ。エディトリアル・デザインは一番体質に合ってるので、今までいろいろやってるわけ。僕はなんでも編集することが好きなんですよ。種々雑多なものを拾い集めて、組み合わせ、再構成する。雑誌はその最たるものなんだけど、僕の人生なんて雑誌によく似てるんですよ。表紙という顔があって、タイトルは名前ですよね。目次は当面の予定表のようなものだし、漫画は束の間の息抜き、エロティックなヌードグラビアであらぬ妄想を掻き立てたりね。ぐちゃぐちゃといろいろなものが雑多に詰め込まれているのが人生ですよね。

池上:『PLAYBOY』の話が来たのは、あちらから「やってみないか」というふうに。

田名網:そうです。

池上:アメリカのPLAYBOY社の方が田名網さんの仕事をご存知だったんですかね。

田名網:いや、それは知らないと思う。集英社が『PLAYBOY』の出版権を買ったわけですよね(1975年創刊)。それで(月刊PLAYBOY)日本版というのを出して。それが一番最初だと思う。その以後、女性誌の『FIGARO』『VOGUE』とかいっぱい出てるじゃないですか。あれも向こうの、ロゴタイプも含めて版権を買うわけですよね。『PLAYBOY』というのはそれの先駆けみたいなもんですよね。

池上:では集英社からお話があって。

田名網:うん。

池上:シカゴのPLAYBOY社にも実際行かれているわけですよね、打ち合わせなんかで。

田名網:何回も行きましたよ。

池上:それは何を決めに。

田名網:プレイメイトのオーディションとかしましたよ。

池上:それも審査員というか(笑)。

田名網:うん。

池上:それは美人さんがたくさん来るんですか。

田名網:ものすごいいっぱい来るんですよ。PLAYBOYの本社というのはシカゴにあるんですよ。シカゴのPLAYBOYの本社の真ん前にドレイク(The Drake)という超高級ホテルがあって、そこに泊めてくれて。別に大きい部屋を借り切ってオーディションをやるんですよ、プレイメイトの。だから全米だけじゃなくてイギリスとかいろんなところから来るんです。すごい金額らしいんですよ、それに受かると。だからタレントの卵とか、ハリウッド映画にも出たことのある女優とかがいっぱい来る。扉を開けて、次々にグラマーな美女が現れるんですよ。ガウンを脱ぐとすっぽんぽん、全裸なんです。それで音を持参して踊っちゃったり。もう冷静に審査なんてできないんだよね。僕はアメリカ映画で育ったようなもんだから、金髪美人に強い憧れがあるの。窓の外には夕暮れの摩天楼が見えるし、終わったらフラフラになっちゃったね。
 僕は日本しか知らなかったから、アメリカへ行って驚いたね。編集者が全部個室なんですよ。日本の編集者って同じ大部屋にいるでしょ。それで個室に必ず秘書が1人いるの、入口に。すごい待遇なんですよね。カートゥーン(cartoon)といって一枚物の漫画が、1枚150万なんですよ、原稿料が。だから1枚描けばもう生活ができる。というぐらいのギャラなんですよ。でもその時代、『PLAYBOY』って800万部ぐらいだから。もう楽々でしょ。

池上:日本では何部ぐらいになったんですか。

田名網:でも100万超えたんですよ、全盛時は。

池上:それはすごい。判型を大きくされたっておっしゃってましたよね。

田名網:そうです。日本の場合は文藝春秋とか小さい版の雑誌しかなくて。大版は「日本では売れない」と出版社が決めつけてたんですよね。PLAYBOYを縮小して出すというアイデアがあったんだけど、判型を崩しちゃいけないという規約がPLAYBOYにあって、原寸のまま出さなきゃならなかったんです。だけど売り出したらものすごく売れて、あのままやって良かったわけですよね。

池上:原寸ってA3ぐらいのサイズですよね。

田名網:女性誌の『VOGUE』とかみんな同じですよね。

宮田:初めて海外でお仕事をするのに緊張したりしなかったですか、シカゴ本社に。やり方が違うというのに。

田名網:日本から編集者もいっぱい行ってるし、それは全然大丈夫だったですよ。

池上:仕事自体は、エディトリアルは日本でされるわけですよね。

田名網:そうです。

池上:オーディションにわざわざ日本のスタッフも呼んだというのがちょっと意外だったのですけれども、やはり日本にも読者がそれだけいるわけだから。

田名網:多少気を使っていたかもしれない。その頃は出版社も、すごく経済的に楽だったんですよ。今は大手の出版社も苦戦してるじゃないですか。その頃、集英社なんか特に漫画ももちろん売れてたし、すごいバブリーな会社だったのよね。

池上:潤沢だったんですね。それで10年『PLAYBOY』のアートディレクターをされて、1985年で次の方に交代されたということなんでしょうか。

田名網:結局ね、結核になっちゃったんですよ。疲れで、あまりにも働きすぎて。胸膜炎になっちゃったんです。肺に水が溜まっちゃって、呼吸ができなくなる病気なんだ。朝起きたら苦しくて呼吸ができないんで、救急車で日赤に行って、レントゲンを撮って見たら、普通黒いじゃないですか、真っ白なのよ。そしたらそれは全部水なんですよ。肺の上の方にちょこっと隙間があって、その隙間で呼吸してるわけね。下はもう全部呼吸できないから。即入院だっていうの。腕くらいの太い注射器で背中から水を抜くのよ。

池上:痛そうですね。

田名網:それが7本ぐらい持って来んの、看護婦さんが。

池上:こわい!

田名網:こんなにいっぱい注射するのかなと思ったら、そうじゃなくてね。

池上:抜くんですね。

田名網:背中から抜くんだけど、水の溜まっているところに注射器が命中しないわけ。だから一回刺して、「あ、ちがう!」とか言ってんのね。また今度違うところに。水を抜くのに麻酔なんかもちろんしないわけですよ。

池上:なんでしないんですか。

田名網:注射と同じだから。注射って麻酔しないじゃない?

池上:まあそうですね。

田名網:すごい水の量なの。だって両肺が全部隠れるぐらいの水だから。

池上:すごいですねえ。

田名網:それで、もうそんな働いちゃいけないっていうことで、ちょっとセーブしたんですよ。

池上:それまでは、ほんとにお話を聞いているとノンストップで、仕事も作品制作も同じぐらいの量というか、ものすごい勢いでされてるんですよね。入院はどれぐらいされたんですか。

田名網:4カ月ぐらい。

池上:一応すっかり良くなって退院されて。

田名網:そう。夜は早く寝なきゃいけないし、仕事は最小限にして、療養してたんですよ。

池上:何かそこで今までの考え方というか、人生観が変わったりみたいなことはありましたか。

田名網:それはないんだけど、とにかく朝から晩まで働いてたから。結果、よかったと思うんですよね。

池上:仕事のペースを見直して。

田名網:そう。

池上:今日はこのへんにしましょうか。今日も密度の濃い話をたくさん聞かせていただいて。

田名網:なんかまとまりがないでしょ。

池上:いえいえ、とても面白いです。

宮田:領域が広すぎて、どこから何を聞いたらいいのか。

田名網:自分でもどこからどこまでか、よく分かんないのよね。

池上:今日はここで、切りがいいところで終了にしたいと思います。