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田名網敬一オーラル・ヒストリー 2013年8月28日

南青山の田名網スタジオにて
インタヴュアー:池上裕子、宮田有香
書き起こし:永田典子
公開日:2014年12月31日
 

池上:今日は、前回も少しお話は出たんですけども、最初の日に伺った時に見せていただいた、新しく発見されたコラージュ、あれについてちょっとお聞きしたいと思っていて。これはプリントアウトしてきたものなんですけど、もとになったロイ・リキテンスタインの《ワーム!》(Whaam!、1963年)という作品で、こちらがリキテンスタインが参考にした、基ネタになった漫画のコマなんですよね。田名網さんが使用されたのは、リキテンスタインの絵がどこかに図版として複製されていて、それを使われたのかなというふうに思ったんですが。記憶されていることがありましたら教えていただければ。

田名網:どんな本にでてたのか特定できませんが、かなり昔の本に出てたんですよ、モノクロの線描きで。

池上:それはリキテンスタインの完成作とは違うものっていうことですか。

田名網:でもこれほとんど同じだもんね。

池上:すごいそっくりなんですよ(笑)。

田名網:だけど、本来なら網点が入ってるんだけど、スミ線だけのモノクロで出てたんですよ。

池上:白黒の図版だった?

田名網:白黒でも網点は出るから。

池上:それはそうですよね。じゃあ網点とかもないスミ線だけの図版を、どこかで見つけられた。

田名網:どこに出てたっていうのは分かんないんだけど、とにかく大量の素材の中から見つけたので。

池上:じゃあ、これはこのままの大きさでどこかに出てたんですか。

田名網:そう、このまま原寸で。だから相当大きく出てたのよね。

池上:ですよね。

田名網:だってトリミングとかもしてないし。

池上:このコラージュがそもそもわりと大きめのコラージュですよね。(注:27.1 × 35.3 cm)

田名網:だから僕は、これのもとの絵だなと思ってたわけ。

池上:でも、もとの漫画のコマと比べるとリキテンスタインの絵の方が近いですね、全然。

田名網:ただ、完成作には網点とかいろいろな要素が入ってるじゃないですか。これにはそういうものはないんだよね。

池上:ですよね。不思議ですね。どこで見つけられたというのは覚えていらっしゃらない。

田名網:外国の雑誌だと思うんだけど。

池上:かなり大判の雑誌で。

田名網:相当大きい。

池上:どういう媒体なんだろう、それって。ポスターとかじゃないですよね。

田名網:ポスターじゃなくて。いわゆる『LIFE』ぐらいの大きさ(約35 × 27cm)ですよね。それの見開きぐらいに大きく載ってた。網点も入ってないから、この版下は漫画の版下の拡大だと僕は思ったのよ。

池上:でもリキテンスタインはリキテンスタインで、もとの漫画からかなり変えてるんですよね。この飛行機の種類も別の漫画から持ってきたのを組み合わせているみたいで。ちょっと不思議なのが、田名網さんがここに使われているパイロットの頭の部分だけが全然違うんですよ。これは上から何か貼られているのか、これ自体も切り取ってこられたのか。

田名網:ちがう、これは別の写真を貼ってんの。

池上:ああ、頭の部分だけは上から貼ってるんですよね。

田名網:上から。それから飛行士とかも貼ってるから、これは全然関係ないんですよ。関係あるのはこことここだけなのね。

池上:そうですよね。あとたぶん構図がちょっと変わってるので、2つに切って組み合わせていらっしゃるんですよね、たぶん。

田名網:そうじゃなくて1枚の絵なんですよ。

池上:ああ、そうなんですね。(注:聞き取りの後で作品を実見し、やはり2つに切って組み合わせていることが判明。)

田名網:だから僕は、誰かが漫画をコピーした絵なのかなと思ったわけ。

池上:ああ、そうか。じゃあまた別バージョンの何かをご覧になったんですね。

田名網:うん。

池上:まんまなんですね。これは今日スタジオにまだありますか。後で拝見してもいいですか。

田名網:はい。

池上:ありがとうございます。もとになった絵が探したら出てきたので、見比べてお話を伺ったら面白いかなと思って。このリキテンシュタインのところはそうやって切り抜いたもので、その下の鳥瞰図っていうか、上から見下ろしている風景も同じように雑誌から。

田名網:そうそう、これはまた違う雑誌からのものなんですよね、背景写真は。

池上:ですよね。違うイメージを組み合わせる時に、これをあそこに使おうとか、この背景にはこの鳥瞰図の写真が合うとかいうのは、どういうふうに決められるんですか。

田名網:この線描きの飛行機を見た瞬間、完成図が浮かびましたね。あまりにもインパクトのあるイラストレーションだったので、あらかじめ雑誌などから必要な素材を切り抜いてあるので、貼り込む順番を決めてからスタートするわけです。まぁ、アドリブもありますけど、昔の作品だけど、細かいディテールとか結構覚えているんですよ。

池上:じゃあ、まずはこの線描きのドローイングの部分があって、この風景を合わせて、その後こういう戦闘機とかスーパーマンとかを配して、アレンジしていく。それはあまり迷わずに決められるんですか。

田名網:こういうのって自分の描いた絵じゃないから、自分の絵だったら厳密にここにこういうものを入れようと思えば入るわけですよね。1ミリも狂わないで。でもこれ全部人のものだから、厳密にこれをこの位置にピタッと当てはめことは不可能ですよね。どっかこの辺に入れたいということだけで、それをきちっと入れることは逆につまんなくなっちゃうわけよね、あんまり計算されていると。全部僕が描いているものに関しては、入れる位置とか、間隔みたいなものも最初から考えて作っていくんだけど、逆にそれが面白いっていうのもあるんですよね。

池上:あまり厳密に考えずに、サイズとか。

田名網:だって言ってみれば、写真にしても図版にしても全部他人のものだから。

池上:そうですよね。じゃあこれだと、端っこに大きいスーパーマンを置かれてるんですけど、だいたいこれぐらいの大きさのものがいいなっていうのを何となくイメージされて。

田名網:何となくはあるんだけど、そのとおりのものがあるわけがないんで、まあほぼそうだろうな、で貼るわけですよね。

池上:この大きさのコラージュだと、このスーパーマンもかなり大きい雑誌から?

田名網:相当大きくないとだめですよね。

池上:かなり大きいですよね。こんな大きいものが見つかるんだというのがちょっと驚きですけど。

田名網:糊は昔の「ヤマト糊」で貼ってるんですよ。何十年も経ってるものではがれちゃうんですよ。それで、ほとんど貼りなおしをしてるんです。

池上:それはいつごろされたんですか。

田名網:もうここ(南青山のスタジオ)に持ってきてから。はがれてるところははがしてもう一度貼り合わせて、破けてるところは別のものを貼ったりしているのもあるんですよ、似たものを。

池上:見つけられたのがこの夏ですか。

田名網:そうです。世田谷に僕の倉庫があって、南塚くんのところにもあるんだけど、そこにも絵とかいっぱい入ってるんですよ。それを見に行く時間がなくて。たまたま今留守番してる人がいるんで、その人が大掃除の時に「なんか袋がいっぱい出てきた」っていうんで、見に行って発見したんです。

池上:そこはお母様の元お住まいなんですよね。

田名網:そうなんですよ、うちのお袋が住んでた家で。母親が亡くなってから、空けとくわけにいかないんで、今は留守番の人に住んでもらっていて、その人がお掃除とかしてくれてるんです。それで「なんかありますよ」って教えてくれるわけです。

池上:そこにまとめて入れたのが何年ぐらい前?

田名網:うちのお袋がそこにいた頃だから、もう何十年も前ですよ。全然開けない状態で、倉庫にしまってあって、暗いから、フィルムとかも管理がすごくいい、ベストコンディションで保管してあったんです。

池上:そうそう、保存状態がすごくいいっていうのは前も拝見して驚いたんですけど。

田名網:フィルムとかは、明るいところに置いておくと劣化しちゃうんですよ、昔のものは。

池上:焼けちゃいますよね。

田名網:それが電気のない暗いところに置いておくと結構長持ちする。

池上:湿気にもやられずに。

田名網:そうそう。木造だし結構保存状態が良いんですよ。

池上:それじゃあ、30年とか40年ぶりですか。

田名網:そうですね。新しく貼ったりとかいろいろやっているので、ああこういうこともあったと再確認してるんだけども。

池上:久しぶりに、何十年ぶりにご覧になっていかがでしたか。作ったこと自体は覚えていらっしゃったんですか。

田名網:不思議なもので、古新聞を開いた時はぴんと来なかったんだけど、一つ一つ見ていくうちに忘れていた記憶がゆっくりと蘇って来たんですよ。切り貼りしているときの状況とかも、画面の片隅に小さく貼った人物にも見覚えがあるんですよ。

池上:だけどそれまでは、ああいうのがあるっていうのはあまり意識せずに。

田名網:それはもう全然。フィルムなんかでも必要に迫られて探してくるんだけど、それがなければそのままずっとお蔵に入ったままになってるかもしれない。

宮田:貼り替えるものもちゃんと一緒に残っていたというところが面白いですね(笑)。やぶれてしまった代わりになる顔の部分とか。

田名網:それはもうないのよ。

宮田:後からやぶれてて貼ったり、貼り替えたりというのは。

田名網:それは別のものを貼っちゃうの、しょうがないから。

池上:今手に入る素材のもの。

田名網:そうそう。結局そこだけがはがれた状態になっちゃうじゃないですか。そこに似たものを貼りつけるわけね。

池上:こういうコラージュは、この手のものが100点ぐらい見つかったとおっしゃっていたと思うんですけど、当時発表はされなかったんですか。個展で見せていたとか。

田名網:雑誌とかに掲載してたものは結構あるんだけど、依頼でやったものじゃないから、ほとんど発表してないんですよ。一部発表しているものも、もちろんあるんだけど。

池上:展覧会にも発表されてない?

田名網:うん。

池上:前、NANZUKAで見せられていた、スケッチブックの余白分がわりとあるタイプのものと、こういう余白がなくて、かなりイメージを隙間なく詰めていくタイプのものとあると思うんですけど、それは何か手法として意識されていたんですか。

田名網:たぶん時代がちょっと違うんだと思うんですよ。その隙間だらけのやつは、ちょっと前のだと思うの。

池上:そんな感じがしますね。今回見つかったものは1970年代に入っているのかなという。

田名網:花柳小菊という芸者さんの写真なんだけど、そういうのは、うちの伯父が出征して死んじゃって、納戸の本箱にしまってあったものを、そのまま倉庫に保管してあったんですよね。何回も捨てちゃおうと思ったんだけど、僕が絵の仕事をするようになったんで、捨てない方がいいなと一応しまっといたんですよ。だからこれは昭和の初めですよね。昭和8年とか。

池上:1930年代ですよね。

田名網:そのくらいに出版されたものなんですよ。

池上:それにしたらものすごく保存状態が良いですね。

田名網:昭和8年って、僕は生まれてないんだから、80年ぐらい前だよね。80年ぐらい前のだったらすごくモダンじゃないですか。

池上:ですよね。そして恐るべき品質というか、印刷のクオリティの高さで、それがまたものすごくきれいに残っている。

田名網:たぶんこれがどっかの本屋とかに流通しているものだったら、もう退色しちゃってボケボケになってんだけど、そのままの状態で、叔父さんが買ってきたままで密封してたんでこうなってるんだと思うね。

池上:これは一つひとつタイトルとかはつけてらっしゃらなかったんですか、当時。

田名網:いや、つけてないと思う。僕、これをやってた頃ってものすごく忙しく仕事をしていた時だったんで、タイトルをつけるとかは全然してなかったと思うんですよ。

池上:発表を前提としてないわけですからね。前もちょっとお聞きしたんですけど、発表を前提としてないにかかわらず、これだけすごいクオリティのコラージュを何十枚という単位で作られていたというのがすごいことだと思うんですけど、どういう意識で作っておられたんですか。

田名網:どういう意識で作ってたのかなあ。膨大な写真群の魅力に圧倒されたこともあるし、自然に手が動いたということもあるよね。

池上:いわゆるお金をもらう仕事とはもちろん違いますし、通常の作家さんみたいに個展をやるために作るというのとも違うわけで、いわば空き時間というかご自分の自由な時間にされていたわけですよね。

田名網:今になって思い出すとね。要するに需要なかったんですよ。シルクスクリーン版画とかアーティストブックなんかは精力的に作って、発表もしてたんだけど、コラージュの連作に関してはギャラリーに見せることもなかったしね。ひっそりと密室で作ってそのまま倉庫入り。批評家の石子順造さんにも見せたんだけど、あまりピンとこなかったみたいで、なんの批評もなかったね。「なにこれ」って感じじゃなかったのかな。全部で300枚近く作ったと思うな。いや、もっとあるかもしれない。

池上:発表されていたものは版画とかですよね。そっちの方がニーズがある。

田名網:そうそう。たぶんそうじゃないかな。

池上:それってなんでだと思いますか。

田名網:時代の風潮に合ってなかったというのもあるかもしれないですね。

池上:べつに政治的な理由とかではなくて。

田名網:そういうことじゃなくて。

池上:こういうスタイルが当時受けなさそうだっていうようなことですか、ギャラリーの人からすると。

田名網:うん。まあもちろんギャラリーにもよるんだけど。

池上:そうですよね。

宮田:でも作り続けたんですよね(笑)。

池上:当時はこのコラージュも、評価されなさそうだと。で、実際にあまり評価されなかった。

田名網:これを並べましょう、という画廊がなかったというのが大きいかもしれない。

池上:それである程度作りためてはいたんだけれども、それ以上は作らなかったんですか。

田名網:ええ、それ以後はもう全然作ってないんですよ。

池上:その時面白いからバーッとたくさん作った。

田名網:あとは仕事で雑誌に頼まれて作ったものはあるんだけど。

池上:こういうのを作られていて何が一番面白く感じましたか。

田名網:コラージュは、あらかじめ用意された素材を使うわけですから、アイデアが決まれば早いですよね。頭で思考するスピードと手が、ほぼ同じ速度で回転するので、どんどん仕上がっていくわけです。このリズム感が僕は好きなんです。絵の仕事は結構ストレスが溜まるんです。脳内に浮かんだイメージを絵にするのはかなりの時間がかかるわけで、ちょっと疲れますね。

池上:1点につきどれぐらいかかっていたんでしょうか、時間。

田名網:どうなのかな。今8点の直しをやってるんだけど、手直しするほうが時間がかかるんですよ。

池上:ですよね。組み合わせるだけとはいってもやっぱり。

田名網:糊をはがした時に破れちゃうじゃないですか。そのままじゃまずいんでもう一回貼り直さなきゃならない、素材を探して切って貼るだけでも、すごい手間がかかるんですよ。

池上:1970年代の初頭というか前半だと思いますけど、すごくお忙しく仕事をされるなか、こういう時間がかかる制作もされていたというのがすごいなと。

田名網:今でこそ大竹伸朗さんとかコラージュ的なものを手掛ける作家は沢山いますよね。その頃はやる人があんまりいなかったんじゃないかと思うんですね。それが僕をコラージュに熱中させた理由じゃないのかな。

池上:たしかにそうかもしれないですね。制作される時は、これ使いたいなという、例えばこっちの作品でしたら芸者さんの顔だったり、こっちの作品《Whaam!》だったらリキテンシュタインの原画だったりという、そこから着想を得て、これに何が合うかなという感じで考えられるんですか。

田名網:この時はね、叔父が残した雑誌が大量にあって、それがもう置ききれないぐらいあったんですよ。それを全部保存しておくと部屋も狭いし大変なことになっちゃうので、必要なものだけを全部切り取ったんですよ。それをストックするといっても膨大な量で、大きな箱が何箱もあるんです。一つひとつをそのつど探すんじゃなくて、もう何回も見た、飽きるほど見てるものなので、だいたいあそこにあれ、ここにあれって。

池上:それとこれを合わせてみようかという感じでされていく。当時、ポップが全盛でとおっしゃっていたんですけど、こういう非常にポップなイメージを使われたコラージュをされていて、自分もポップな作家だというふうに認識されてたんですか。

田名網:ポップ・アーティストの中でも、特に好きだったのはジム・ダイン(Jim Dine)、オルデンバーグ(Claes Oldenburg)、ローゼンクイスト(James Rosenquist)などでしたが、やはりウォーホルは特別の存在でしたね。あらゆるメディアの領域を軽々と超越した発想法は、僕の仕事と生き方に大きな影響を与えましたね。NHKのウォーホルの特番のときでも、単なるアートディレクションではなく、ポップ・アートの基本的な方法論を、映像作りの根幹に据えたわけですよ。例えば無限に連続するイメージの羅列とかですよね。そんなふうに考えると、ポップ・アートをかなり意識していたんだと思いますね。

池上:でも、こういうコラージュは発表されなかった。逆にいうと一番自由なところが出てるってことでもあるんですよね。誰に何を言われたわけでもなく。

田名網:実際に仕事で使ったものは今でも保存してあるんだけど、あんまり面白くないのね、そっちは。結構きれいにまとまってて。

池上:やっぱり依頼仕事だからというところでしょうか。

田名網:個人的に作っていたコラージュは仕事には使えなかったでしょうね。

池上:アメリカン・コミックとか、雑誌というものに対する見方とかそういうものも違うんでしょうかね。出来物のイメージを使って何かをするということが今はまったく当たり前ですよね。

田名網:コラージュに使うそれぞれの写真は一つ一つ個別の時代背景や物語や意味を持っていますよね。中には公表できないような、とんでもない写真だってあるわけです。戦時中の残忍な殺戮場面に隠された想像を絶するドラマなど、1枚の写真の持つパワーには圧倒されてしまいますよ。そんな写真が一つのフレームの中にひしめき合うんですから、考えたら恐ろしいですよ。生きた時代も、国籍も、人種も、年齢も、全て異なる無関係な人物が、2枚貼られるだけでも、一つのドラマと意味が浮かび上がります。『戦艦ポチョムキン』(1925年)の監督、セルゲイ・エイゼンシュテイン(Sergei Eisenstein)の提唱する「モンタージュ理論」ってありますよね。「モンタージュ」ってフランス語は「断片を組み合わせる」という意味なんだけど、映画における視覚的文法なんですよ。例えば、泣いている女性の顔のカットに、葬儀のシーンを繋ぐと悲しみの場面になるし、結婚式のシーンを繋ぐと喜びの場面になるんです。コラージュも同じで、隣り合う写真によって意味がまったく違ってくるわけです。

池上:そうですね。

田名網:一つひとつの画像が意味を持ってくると相当違ってくるんですね。ここに日の丸の旗があるんだけど、芸者さんの後ろに。これはたぶん戦時中の芸者さんの愛国心を表すために後ろに日の丸を配した、ポストカードじゃないですか。それを今見たら絵として面白いと思うかもしれないけど、その時代の人が見たら違う意味合いがあるのよね。

池上:そうですね。ちょっと思い出したくないところもあるかもしれないですし。

田名網:そうそう。

池上:そうか、当時は受け皿がなかったというのが非常に意外であるし、面白いところでもありますね。それでちょっとポップの方に話題が戻ってしまうのですが、先日のお話を聞いた時に、たぶん1963年あたりだと思うんですけれど、篠原さんと本屋に行って、植草甚一さんから「今これが一番新しいんだよ」といってポップ・アートを見せてもらったということで。例えば篠原さんだったらそれがイミテーション・アートという形で、わりと分かりやすくポップ・アートを発見した結果みたいなのがその年に出るわけなんですけれども、田名網さんの場合はそのようなものってあったんでしょうか。

田名網:一つあげるとすれば、アーティストブックとして作った『田名網敬一の肖像』(1966年)でしょうね。複数の原画として、不特定多数の人に配布するという目的で作りました。

池上:前にいただいた画集で、その肖像の原型なのかなと思われるものが。(注:1965年の自画像。)

田名網:ポップ・アートを意識して描いた一番最初のものなんですよ。インクで描いたんだけど、結構大きい絵なんですよ。

池上:これは今どこに。

田名網:南塚くん(NANZUKA)のところに。

池上:本の出版は1966年なんですけど、これは1965年で。だから篠原さんとは全然違う表れ方だと思うんですけど。

田名網:その頃「肖像」というシリーズを作ってたので。これ自画像ですよね。

池上:これもすごく大事な作品だし、ポップ・アートを発見されたという、そのインパクトがこちらに出ているのかなというふうに思ったんです。

田名網:『田名網敬一の肖像』がこのスタイルの出発点になってくると思います。これに関連する作品は他にもあって、松本俊夫さんの著書『映像の発見』(『映像の発見 アヴァンギャルドとドキュメンタリー』、1963年)のポスターにもなっています。その他、ドローイングもあります。

池上:そうですか。メガネをかけているのは、ご自分も当時かけていらしたから。

田名網:そうです。

池上:メガネに、メガネをかけている人がまた写ってという、やっぱり複製という要素がここにすでにはっきり出ているのかなと思ったんですけど。同じポップにしても、篠原さんとはちょっと違うところに反応されているのかなと。

田名網:そうですね。

池上:この肖像シリーズというのは当時どこかで発表されたんですか。

田名網:発表してないと思うんです。

池上:本としては自費出版みたいな形で出されてますけど。

田名網:本としては出してるけど、展示はしてないと思うんです。

池上:ギュウチャンに見せたりとかは?

田名網:見せてますよ。

池上:なんとなくそういうものが自分の中にたまっていって、あの肖像の本につながってという感じだったんでしょうか。

田名網:その時は、いや、もう少し積極的でしたね。こういうものを作りたいというはっきりした意志がありましたよね。自分自身の性格の問題でもあるんだけど、僕はどんなものでも作る過程が好きなんですよ。作っている最中は興奮するんだけど、完成してしまうと、どうでもよくなっちゃうんです。その反対の人もいるらしいんだけど、自分の出版物でも仕上がった一瞬は嬉しいんだけど、机の上にあってもあんまり見たくないんだよ。最近どうして昔のものとかいっぱい発掘されたかっていうとね、そのほとんどは外国の美術館のキュレーターとか、コレクターとか、ギャラリストからの要請なんですよ。「あれ見せろ」、「これ見せろ」という申し出がいろいろあって、倉庫をひっくり返して探し出したわけです。自分でも忘れていた作品もまだいっぱいありますよ。

池上:じゃあ向こうから言われなければ。

田名網:言われなければたぶんそのままもう。

池上:忘れてた。

田名網:そのままお蔵入りだと思うんですよ。

池上:当時も、好きだから作って、倉庫に入れて、あとは忘れた感じになっちゃうというのは、ご自分にとってはそういうものっていう感じで、「発表の機会がなくて残念だ」とかいうふうには思っていらっしゃらなかったんですか。

田名網:どうなんでしょうね。

池上:いわゆる作家さんとは、その辺の発表の形式とか作り方とかもずいぶん違いますよね。やっぱりグラフィック・デザイナーとしてのお仕事を、昼間の仕事というと言い方が変ですけど、しっかりやって、経済的にもしっかり生活の基盤があってというところからなんでしょうか。作家としての発表ということにそこまでこだわっていらっしゃらない?

田名網:一時期はちょっとまとめていろいろ発表したこともあるんだけどね。そんなに積極的に、やってないんですよ。木製の立体作品もかなり作ってたんですよ。その頃の美術の潮流とか動向に一切関係のない仕事だったので、やはり何十年も倉庫に眠ってましたね。僕を立体制作に駆り立てた要因はね、幼児期の積木遊びと目黒雅叙園(注:昭和の竜宮城と呼ばれた怪建築で知られる結婚式場)の底知れぬ迷宮体験なんです。中国の奇想天外な伝説を題材に、像の化身である羽の生えた巨大な建物が、ウォルト・ディズニーの『ダンボ』みたいに空間に浮遊する作品、《昇天する家》(1987年)などが主要なものです。日本ではまったく問題にされなかったこの立体作品が、近年ヨーロッパを中心にとても人気があるんです。ベルリンの美術館シンケル・パビリオン(Schinkel Pavillon)での個展や、スイスのスペーストラ美術館(Gallery Speerstra)の個展に続いて、来年の10月にはニューヨークのスカルプチャー・センターでのグループショーにも展示されるんです。

池上:でも当時は、作家としても認められたいという欲求みたいなものは、特になかったんでしょうか。

田名網:いや、それはあったと思うんですよ。これでいいやというのが片一方にあって。これじゃないんじゃないかと、また違うのをやるじゃないですか。そんなことを延々とやってきたと思うんですね。だからギュウチャンみたいに、これ!というものでずっと画家生活を送ってきた人もいるけれども、僕はあんまりこれっていう、自分自身に対して確信を持てないまま来てると思うんですよ。

池上:作家として、制作ということに関しては?

田名網:制作に関しては、かなりの量の仕事をしているから、まあ満足してますよ。

池上:デザインに関してはもう迷いがなく。

田名網:まあデザインは受注する仕事なんで、受けて返すんだから、依頼があるということはまあ必要とされているわけじゃないですか。そういう意味で対社会との関係は良好だったんでしょうね。絵はそう簡単じゃない。今と違ってその当時は画商とかコレクターなんかは周りにいないわけだし、絵が売れたり、どこかで展覧会をするといってもなかなか大変なわけです。そういう意味で、そんなに積極的になれなかったと思うんですよね。

池上:実際に、「こういうコラージュいけますよ!」と言ってくれるギャラリーもいなかった。

田名網:そう。今だったら外国のコレクターも絵を見に来てくれるし。アート誌の取材もたくさんあるわけです。アメリカのアーティスト、カウズ(KAWS)も僕の絵のファンで、日本に来るたびに買ってくれますよ。もう少し反応があれば状況も変わってますよね。

池上:ですよね。

田名網:でもねぇ、今になって考えると、これで良かったと思うんですよ。欧米の美術関係者がいろいろな場面で声をかけてくれて、とても積極的にサポートしてくれるんです。

宮田:今の話になっちゃいますけど、制作することというのがようやく追いついてきたという感覚があるんですか? 今ものすごい制作をされている感じが(笑)。

田名網:そうそう、今は、いろんなところで「やりましょう」という話がいっぱいあるんで、もう作らざるをえなくなっちゃうのと同時に、昔のものも探して、それも発掘しなきゃならないということで(笑)。だから今は非常に前向きになってるんだけど、だけどギュウチャンなんかは、そういう要請があろうがなかろうが(一同笑)、やったわけじゃないですか。僕はそこまでの積極性というのはなかった。

池上:でも今はほんとに現在の作品も求められているし、過去の作品もようやく正当な評価を得つつあり、かつ保存状態もすばらしいまま残っているというのは、ほんとに幸運だなと。よかったと思います、ほんとに(笑)。

宮田:見れますからね、生を。

池上:当時はほんとに日本の現代美術というシステム自体が未成熟で、画廊の数も今とは全然違って少なくて。そういうところから、やっぱり受け皿がなかったんだなあというふうに感じますね、お話を聞いていると。

田名網:その時代のアーティストは、皆同じように劣悪な条件で制作を続けていたわけです。僕だけでなく。一方、デザインの仕事を通して社会や経済と結びついているので、社会の動向に対して敏感だったわけです。そうした社会に適応した人間と、反社会的人間が同居しているわけですよ。その二つの両極が、僕の中ではやじろべえみたいにバランスを取っていたかもしれないですね。

池上:そうですか。そういうのもあって、制作一本ではやっぱりちょっと、というのを感じて。

田名網:うん。それともう一つはね、デザインとアートという問題って、最近はあんまり聞かなくなってるかもしれないけど、一時はすごくあったわけです。横尾さんなんかは、デザインをやめて画家一筋でやることに切り替えたじゃないですか。デザインとアートというのは、もちろん表現内容も目的もまったく違うんですよね。デザイナーというのは職人ですよね。要するに仕事を受けて、クオリティが高いものを相手に投げ返すということでしょ。アートの場合は自分自身の問題じゃないですか、すべてね。自分自身の中ですべてが解決できる問題で、生きる姿勢も含めて作品じゃない? でもデザインというのは、人間性とかということよりも、やっぱり相手の企業なり出版社なりに対してどれだけの表現内容を投げ返すことができるかに価値があるわけじゃない? それで僕は、絵とデザインというものを分けるというよりも、広告関係の仕事をしなかったんですよ。編集にかかわる仕事とか、ポスターを作るとかって比較的アートワークに近いレベルで仕事だけをしたわけです。だから制限が少ないし、自分の思うとおりにできたんです。そういう仕事ばっかりしたんですよ。そうすればアートワークと遜色ないぐらいのレベルのものを作ることができるし、ポスターの方が人目に触れるわけなんです。そういうふうに僕は逆にプラスに考えたんですよ。1枚の絵をギャラリーに並べるより、雑誌に1ページ入ってた方が見る人間が多いじゃない? そっちの方に面白さを感じたんですね。

池上:複製ということの特徴を最大限引き出して、デザイナーとしても作家としてもどちらも両輪で活動されていた。

田名網:そうなんです。現在はアート活動が中心ですし、それ以外のことをする時間の余裕がないんですよ。ただ、ファッションブランドとのコラボレーションとか、最近ではフランスのマルセイユで開く展覧会に合わせてル・デルニエ・クリ工房(Le Dernier Cri)で馬鹿でかい本を作っています。まぁ一つのことにこだわらず、おもしろければ何でもやるということです。僕の時代というのは先生なんかがそういうことに対して非常に嫌がったんですよね。デザインを勉強してるんだから「絵なんか描かないでもっとまじめにデザインをやれ」、とかいう言い方をするわけよね。今の芸大でそんなこと言わないもんね、先生が。

池上:そうでしょうね。絵の方は絵の方で、芸術家なんだからコマーシャルワークはやるな、みたいなそういう考えがきっとアートの方にもあったんじゃないかと。

田名網:あったと思うんですよ。でも今は逆に、草間彌生さんにしても村上(隆)さんにしても、要するにコマーシャルベースの仕事をアート表現の一つとして普通にやってるよね。

池上:垣根がほとんどなくなってきてますよね。

田名網:だから昔、絵描きが例えば小説の挿絵を描いたりしたら値段が下がるとかね、そういうことだったんだと思う。

池上:そうか、じゃあその逆で、田名網さんがずっと第一線でデザインの仕事も続けられていたので、社会的にはアーティストとして認知されにくかったということがあるんでしょうね。

田名網:それはもう100%ありますよね。

池上:今はこういうコラージュを見ると、なぜこれが理解されなかったのかと思いますけど、社会的存在としてどっちなんだということがあって、当時は「デザイナー」というふうに思われてた。

田名網:社会的にはもっとはっきりしなさいということだったと思うんですよね。僕はその時から感じてたけど、べつに全然気にしないでやってたから。最近はそういう質問もされなくなったけど、昔は質問というとやたらそこばっかり質問してくる人が多かったもんね。

宮田:「何が専門なんですか」っていう感じですか?

田名網:うん。

池上:じゃあ、もう40年ぐらい前から今の作家のあり方みたいなものを実践されてたというふうにも言えますよね。

田名網:たまたまですよ(笑)。

宮田:聞かれた時に、よく「イメージ・ディレクター」というふうに答えてたというのを何かで読みましたけれど。

田名網:うん、なんかもう言いようがないから。

宮田:相手が理解しないというか(笑)。

田名網:今から考えるとものすごく滑稽なんだけど、その時代は結構真剣な悩みだったんですよね。

池上:ご自分でもそれは。

田名網:うん。

宮田:横尾さんもわざわざ「画家宣言」という、宣言をしないと(いけない)という。

田名網:あれは、絵を売ったりする時に不都合が出てくるわけよね。出版物なんかに、あっちにもこっちにもいろんな絵を描いてて、その絵を1点例えば何百万で売るというのはおかしいということになってくるわけ。だからギャラリーのほうからも、絵をやるんだったらグラフィックなものをしないで絵に集中してほしい、じゃないと絵の値段が定まらないということもたぶんあったと思うのよね。

池上:横尾さんはそれで画家宣言をされて。ウォーホルなんかでも、やっぱりコマーシャルワークは基本的にスッパリやめてファインアートの世界に入ってくるわけじゃないですか。田名網さんはどちらも面白くてやりたいのに、なんでどっちかやめなくちゃいけないんだという。

田名網:さっきも言ったけど、広告の仕事をしないというのは、僕なりの一つのけじめなんですよ。僕のデザインワークがどうしても必要であれば、依頼者と対等の立場で仕事ができるし、妥協することもないわけです。デザインというフレームを外してしまえば、そのまま作品として通用する。まぁ、あまり良質なデザイナーとは言えないかもしれませんね。でも、やっぱり両方やってるっていうマイナスというのは、ものすごくあったと思うんですよ。

池上:それは、作家としては評価されにくかったというマイナスがまずありますけれども、デザイナーとしてもあったんでしょうか。

田名網:デザイナーとしてもあったと思いますね。

池上:何をやってるか分かんない人ってことですか。

田名網:そう、何やりたいか分かんない人ですよね。デザイナーはデザイナーで、アーティストに対する反発というのは当然あるから、その辺のところの線引きが、非常に曖昧なわけですよね。それでアートの方から見ればまた違う見方があるわけだから。そこを行ったり来たりすることのいいかげんさ、そういうものがマイナスに働いたというのはすごくあると思う。

池上:私は全然いいかげんとは思いませんけど、当時の人からするとそういうふうに見えたということですね。

田名網:まぁ、ギャラリストも若い世代になってきたので、つまらない偏見を持たなくなりましたね。欧米のコレクターなんかも、その辺の経緯はまったく気にしませんね。僕が1960年代に描いたイラストレーションを買うコレクターにとっては、どうでもいいわけです。当然のことながら、アート作品として買うわけですから。僕が昔から提唱していた通りになってきたんですよ。

池上:今はその差異というか垣根にこだわらない人がすごく増えているので。でも当時はかなり垣根があったということなんですね。あっちでもこちらでも、どちらの壁の中でも安住できないというか、どちらのコミュニティからも、何をやってるか分からない人だと思われてしまうというような。

宮田:そういう外部からの意見というか、そういうものと自分自身の中で折り合いをつけていったわけですか。

田名網:いや、僕自身はそんな大げさには考えてなくて、普通にやってたから、風当たりが強くて困ったとか、そんなことはないんですよ。ただ作品を発表していく時に、自分の中で、これをどうしても絶対に出していこうという、何か決定的な自信みたいなものが持てなかったわけね。だから仮に僕がデザインをしないでアート一本でもしやってたとしたら、もうこれに賭けなきゃなんないじゃないですか。これがいいとか悪いとか自分で判断する前に、もう何でもいいからどんどん出していかなきゃだめでしょ。だけど僕は、デザインとのバランスでやってたから、「まあいいや」という。それがマイナスになったのかプラスになったのか、今にしてみれば分からないけど、なんかその辺の気持ちが揺れてたというのがあったんだと思うんですよね。

池上:その揺れている気持ちというのは、吹っ切れた時期というのはあるんですか。

田名網:それはだから、もうかなりの年齢になってから。20年ぐらい前ですね。

池上:意外と最近ですよね、20年前って。

田名網:そう。まあ先も見えてきたじゃないですか。だから何か自分ではっきりしたものを出したいという強い気持ちになったんですよ。それが直接のきっかけだと思うんですね。

池上:ちょっと報われたような感じが。

田名網:うん。

池上:でもそれが1990年代に入ってからというのがね。

田名網:大分時間かかりましたね。

池上:海外のコレクターが見いだすようになったというのは、きっかけはNANZUKAで見せるようになったことからですか。

田名網:そうですね。南塚くんのところでやるようになって、海外のコレクターなんかがうちに絵を見に来るようになったの。一番最初にスイスのコレクターがうちに来たんですよ。有名なコレクターなんだけど、ピエール・フーバー(Pierre Huber)っていう。スタジオにある絵を20枚ぐらい、いっぺんに買っていったんですよ、大きな立体とかも含めて。それまでそういう状況に僕はなかったじゃないですか。だから、「いやー、ホントなの?」って言ったら、「本当です」って言うからね、「そうなのかあ」と思ったらやっぱり本当だったんですよね。

池上:そりゃねえ(笑)。

田名網:それが今から10年ぐらい前なんですよ。それが最初のきっかけなんだけど。それからそのあとは続けざまにいっぱい来るようになって。ヨーロッパの美術館からもずいぶん話もあったし、コレクターの人がたくさん来るようになった。それで絵がどんどん売れたり、スイスの若いキュレーターが、僕の1980年代の木製の立体を見て、「これが面白い」ということで、それで80年代の作品もまた別のルートで海外に行くことになったんですよね。それも10年ぐらい前ですよ。

池上:南塚さんと知り合われて、彼のところで発表されるようになった経緯というか。

田名網:それはね、宇川直宏くんですよ。宇川くんと僕が知り合いで、宇川くんと南塚くんが友だちだったんですよ。それで宇川くんが南塚くんをスタジオに連れてきた。

池上:いわゆる日本の画廊と組むというか、画廊が付くという状態は、それが初めてですか。

田名網:いや、もっと前にはね、今は老舗だけど西村画廊ってあるじゃないですか。あそこがギャラリーを開いた時に僕が最初に展覧会をしたんですよ(「版画展 恋のスーパーオレンジ」1974年11月8-22日)。それで西村さんのとこで、「じゃあうちでずっとやりましょう」ということになったんですよ。すごいギャラリーでね。展覧会の一番最後の日に、「田名網さんちょっと事務所へいらっしゃい」って言うじゃないですか。そしたらね、全部売れてないのよ、売れてないんだけど、「全部売るから」って、封筒にピン札が入っていて売上げを全部計算して、くれるの。ちょうどその時期に、草間彌生さんがニューヨークから帰ってきて、展覧会をするところを探してたんですよ。それで僕が西村さんに紹介したんです。その後も篠原有司男と合田佐和子を紹介しました。だけどねぇ、いろいろと行き違いがあって、三人ともうまくいかなかったの。ここでは話せないけど。その結果、僕もそのとばっちりをくって、以後の展示はなくなったんですよ。

池上:じゃあそれ以来、特に画廊は。

田名網:表参道にあるギャラリー360°でかなりの期間やりました。特にオーナーの根本寿幸君が60年代のポスターやペインティングが好きなので、かなり集中的に展示しました。根本君のプロデュースで出版した『BLOWUP』(2001年)は、僕の本の中で一番売れたもので、今でも注文があるんです。1960年代のポスターも、360°の展示が起爆剤になって若い人たちに知られるようになったわけです。

池上:南塚さんは最初から田名網さんを海外に向けて発信していこうというつもりで来られたんですか。

田名網:日本じゃ絵が売れない、もう海外しかないということですよね。もう一つは一番最初にうちに連れてきた、スイスのコレクター、ピエール・フーバーなんだけど、その人にいろいろ教えられて、もうこれからは海外に持っていかないと商売できないということで、それで海外中心にやることになった。

池上:一般的な状況としてそれはありますもんね。

田名網:だから日本の国内では、売れないんですよ。

池上:今も、ですか。

田名網:今も。

池上:それはほかの作家さんについても聞きますね。おかしなことだなあと思いますけど。

田名網:シンガポールのミヅマギャラリーで個展をしたんだけど、日本では考えられないほどのコレクターや美術関係者が集まるんですよ。やはり国が文化活動をバックアップしているのが如実にわかるんですよ。三潴(末雄)さんも半分くらいシンガポールに住んでるらしいですよ。現在、香港で作っている世界最大の美術館M+が今、コレクションする作品を世界中からピックアップしているんですよ。僕の1960年代のコラージュや、1970年代のアニメーションもかなりの数がセレクトされているんだけど、立体専門のキュレーターが近々作品チェックに来るんです。日本と違って予算の規模も桁違いですよね。

宮田:1980年代のお話に戻りまして、この間は1970年代の後半までお話を伺ったのですけれども。先生はすごく文章を書かれていますが、一番初めにテキストを書いて公表するというのはいつぐらいからだったのですか。

田名網:いつ頃かなあ。1970年代って文章とか書いてる暇なかったから、たぶん1980年以降ぐらいだと思うんですよね。

宮田:依頼されて?

田名網:最初は依頼されて、面白いから、書こうっていう自発的な気持ちが出てきたんですよね。

宮田:雑誌に文章を書かれるのと、デザインも同時にされていて、イメージで伝えるというのと言葉で伝えるというのと、何か自分の中で棲み分けというか、何か変化を持って、違いを持たせてやってたんですか。

田名網:絵は非常に抽象的じゃないですか。絵で何か相手に伝えるといっても抽象的なイメージしか伝わらないけど、文章は非常に具体的じゃないですか、一つひとつね。だから絵で伝わらないものって必ずありますよね。それは文章の方が伝わるから、文章と絵とセットにしたらもっと伝わる。

宮田:言葉じゃないと伝わらないなと思ったことって、具体的にどんなことだったか覚えていることってありますか。

田名網:例えば絵についての考え方だったり、表現に至るまでの微妙な心の変化などです。絵で表現することは結構もどかしいんですよ。

宮田:版画作品とともに立体作品の制作というのが1980年代に始まると思うんですけれど、テキストでないと伝わらないものがあると同じように、立体作品もそういう流れで何か平面を立体にというきっかけはあったんですか。

田名網:一番最初に積極的に取り組んだのはね、四国のお醤油屋さん(鎌田醤油)に大きな敷地があるんです。そこの社長が、僕が紙で作った原色の建物を見て、これをそのままビルにして建てたいと言い出したのよ、バブルの頃。それを二棟、5階建てぐらいのを建てたいという話になって、それのラフスケッチをいっぱい作ったんですよ。ところがバブルがはじけて、その建築自体は中止になっちゃったのよね。それが一つのきっかけで、こういう怪奇な建築の都市を作ったら面白いと思ったの。技術的にはシルクスクリーンを使って、組み立てると大きな都市になる、そういうものを作ろうというのがそもそもの発想なんですね。
 僕が子どもの頃によく遊んでたのが、目黒の雅叙園で。今でもありますけど。幼稚園に僕が通っている時に、歩いて50メートルぐらいのところに雅叙園があったんですね。母親が迎えに来る間、必ず雅叙園に行って遊んでたんです。昔は平屋だったんですよ。あんな高層のビルじゃなくて木造の建物だったわけ。入口に人もいないし。今だったら子どもなんか入れないんだけど、その頃は子どもが中へ入っても何にも言われないような、わりとのんびりした時代だった。それで雅叙園の内部にどんどん入っていったら、めちゃくちゃ面白いんですよね。もう乙姫様が踊ってたり、便所に真っ赤な太鼓橋があったり。

池上:今もすごいですけどね。

田名網:今もすごいけど、僕が子どもの頃に見た装飾はもっとすごかったと思うんですよ。そこで遊ぶのは最大の楽しみだったんですね。絵はある、立体はある、乙姫様はいる、亀に乗った竜宮城の浦島太郎はいるわ、絵本の世界が立体化したようなもんですよね。とにかく毎日のように、幼稚園の帰りに行って、母親は雅叙園に迎えに来て帰るという。そういうのが毎日だったんですね。それでその時の奇っ怪な世界というか、異界探検が僕の頭にこびりついてしまったんです。

宮田:この時の立体作品は立版古(タテバンコ)というんですか。

田名網:江戸時代から大正にかけて大流行したおもちゃ絵の一つで、人物や建物の絵を切り抜いて、糊で貼り、台紙の上に組み上げるものです。浮世絵師の歌川芳藤という名人がいて、歌舞伎の舞台のミニチュアを再現して楽しんだんですね。今でもはっきり覚えているのは僕の子供時代に大流行した少年雑誌の付録ですね。ほとんどが組み立て式のもので、一番すごかったのは戦艦大和です。組み立てると1メートルくらいになるんです。

池上:すごいですね。

田名網:かつての少年雑誌は付録で売ってたわけ。今の女性誌と同じよね。

池上:そうですね。トートバックがほしいから買うという。

田名網:戦艦大和というのは、その当時の人はみんな覚えてるんだけど、すごい付録だったわけ。大ヒット商品ですよね。それがみんなタテバンコなんですよ、組み立て式のね。そういうものが僕の頭の中にずっとあって、雅叙園と少年雑誌の付録とかが合体して僕のの立体に結びついたんです。

宮田:立体になってくると、都市を形成するようなかたちで、何か配置とか空間性を作るという意味でまた平面と違うと思うんですけど、そのあたりの編集と立体でものを配置するというのと、何か考え方が変わったりとか、逆に編集の方に影響があったりとかというのは。

田名網:編集の方にはあんまり影響はないんだけど。版画というのは平面なんだけど、版画を立体的にしたいというのがそもそもの発想だったの。版画を組み立てて立体にして、それを並べて大きな都市を作るという。だから版画の見え方もちょっと変えていこうという発想があった。そういう意味ではすごく面白かったとは思うんですよね。それも途中でやめちゃったんだけどね。もうちょっと積極的にやればよかったんだけど。

宮田:当時のお写真を見てると、かなり大きいですよね。

田名網:大きいですよ。シンガポールで発表した作品は、シンガポールの国立美術館が買い上げてくれて、今常設になってるんです。

宮田:さすがですね、シンガポール。青画廊で個展をされているんですけれども、何か青画廊との個展の印象ってありますか。

田名網:青画廊はね、その当時としてはとても珍しくて、青木さんというオーナーがいたんだけど、その人が、サブカルチャーを中心にしたギャラリーを始めたわけ。その頃サブカルチャーを全面に押し出した画廊なんて、なかったわけですよ。今はやたらあるけど。篠山紀信とか、その頃活躍してた写真家とかデザイナーとか。谷川(晃一)くんなんかもやってたよね、そういう人たちが青画廊で次々に発表したわけね。そういう意味で先駆的な画廊だと思うんだよね。メインカルチャーじゃなくてサブカルを全面に押し出したギャラリーという。僕の立体作品は最初、青画廊で発表したんだ。

宮田:青木さんから、こんなことをやってほしいとかいう話が来たんですか。

田名網:青木さんは、美術出版社にいたんで、そういうことがたぶん好きだったんだと思う。合田佐和子や野中ユリなんかもやったよね。

宮田:1980年だと思うんですけど、合田佐和子さんと小野耕世さんと中国旅行をされていますね。その旅行をきっかけにリキテックス絵の具でドローイングを描かれたということが略歴に載っていたんですけど、何か中国の旅行から喚起されたことというのは。

田名網:それはちょっとなんか分かんないんだけどね。 

宮田:絵の具を使われるということと何か関係があるのかなと思ったんですが。

田名網:だからね、絵の具を使って描くのをずっとしなかったんですよ、意識的に。というのはその頃は複製という概念に強いこだわりがあったんです。シルクスクリーンで刷るとか、印刷したアーティストブックを作るとか、手でものを描くということを極力しなかったわけね。それが何かあるきっかけで、手で描くということにもう一回立ち返ってやろうという時期があったんですよ。それが中国へ行った時かどうかちょっと分かんないんだけど。

宮田:絵を描こうという時に、油絵なのかアクリル絵の具なのかと、考えて選ぶということってあるんですか。

田名網:昔は油絵を描いてたんだよね。もっとも、昔はリキテックスないからね。すぐ乾くしどんどん描けるから、それでリキテックスにしたのかもしれないね。

宮田:中国旅行の後に、8ミリビデオに着色した作品があって。ビデオを使ったということが略歴に書かれていたのですが、ビデオがこの頃出始めて。

田名網:その頃ビデオとかも使ったけど、僕はやっぱりビデオよりもフィルムの方が好きだったから、ほとんどフィルムしかやらなかったんですよね。

池上:決定的な違いはどこに感じられましたか。

田名網:何て言うのかな、フィルムを作る時の複雑すぎる面倒くさい工程。それが圧倒的に面白いのよね。ビデオは編集でも何でも機械でできちゃうでしょ? ところがフィルムの編集というのは手で切ってつなげてという、全部手仕事じゃないですか。スプライサーを使って切り貼りする瞬間ってドキドキするよね。

池上:現像してという。

田名網:そうそう。そういう工程がもうすごい面白くて。フィルムにはかなわないですよね。

池上:ビデオの方が簡単だからそっちへ行こうというふうには思われなかった。

田名網:それと、今のビデオとは内容的にレベルが全然違うから、まだその頃はね。フィルムの方がはるかにクオリティという点では高かったと思うんですよ。

宮田:ビデオはテープも大きかったですしね。

田名網:昔のなんてすごかったじゃないですか。

宮田:8ミリの方が逆にカメラが小さいとかいうことがありましたね。このあいだのインタヴューで、1981年の入院のお話を少し聞きましたが、入院生活の中で夢日記だったり、幻覚の記録というのを始められたということだったんですけど、夢日記というのはその時がきっかけだったんですか。

田名網:えっとね、その前にもちょっとやってたんですけど。僕が夢日記を書くきっかけというのは、白州正子さんが書いた、京都高山寺のお坊さん、明恵上人の伝記(『明恵上人』講談社、1967年)です。そのあと、河合隼雄さんが、『明恵 夢を生きる』(講談社、1987年)を書いたんですよ。その2冊を読んで、興味を持ったんです。明恵の50年にわたる夢の記というのが、直接のきっかけなんですよ。

池上:それ以前から、自分が見る夢って面白い夢が多いなというのはあったんですか。

田名網:それはあった。明恵の影響で夢をずっと記録してて、10年間ぐらいは続けたんです。もう膨大な量があるんですよね。それでね、一日もかかさず夢日記を書いているうちにだんだんとね、不眠症になっちゃったんですよ。全然寝れないの。夜、寝る間際に今日はこういうのを見たいなと自分で念じると、それに応えるというか、それを超える程の夢が出現するんですよ。

池上:例えばどういうことを念じるんですか。

田名網:例えば、今日は大活劇みたいなものが見たいとか、寝る間際にね、そうするとそれらしきものが出てくるんですよ。

宮田:それは自分が主人公になってるんですか、それとも見てる側に。

田名網:主人公の時もあるし、見てる時もあるんだけど。ある程度コントロールできるようになるんですよね、慣れてくると。それを続けてるうちに、精神状態がだんだんおかしくなってきて、全然寝れなくなって、睡眠薬飲んだりしても寝れないので医者へ行ったら、「あなた何かしてますか」っていうんですよ。「夢日記書いてるんです」って言ったら、「ああ、それすぐやめなさい。やめたらすぐ寝れるようになりますよ」って、その日からやめたんです。そうしたらすぐ寝れるようになった。それがやめるきっかけなんだけど、たまにね、これは書いておかなきゃというのがあるんです。そういうのだけ書いて、あとはもう書かないことにしたんです。夢日記に振り回されていた時は、とにかく猛烈に疲れるんですよ。朝も、疲労が溜まっちゃって、何もする気が起きないの、たぶんすごいエネルギーが必要だったんじゃないのかな。枕元にメモ用紙を置いて、朝目覚めると朦朧とした頭で夢をメモる。それをスタジオに持って行って、細かいディテールを描き込むわけです。色をつけるときもあります。なんか夢に振り回されているような気分でしたね。

池上:それは作品にはどういうふうに反映されてたんですか。

田名網:具体的にこれです、というのはちょっと説明できませんね。作品のある部分に夢世界が見え隠れしていることもあるし。夢に撹拌されたような作品もあるんです。夢というのはつかみどころのないものですよね。

池上:例えばコラージュなんかでそれに近い素材をさがしてきたり。

田名網:それはよくありますね。でもなかなか見つけられないです。とにかく大量にあるから。

宮田:残ってるんですね。1970年代後半ですか、明恵とかを読んだのは。

田名網:白州正子さんの本はずいぶん前に出てるから、だいぶ前に読んだと思うんですよ。それから何回も読んでるけど。

池上:夢をコントロールできるようになっちゃうと、逆に健康には良くなかったというか、夢は夢のまま置いとくべきだ、みたいな側面もあったということなんでしょうね。

田名網:でもね、明恵の本なんか読んでるとね、かなりレベルの高いお坊さんじゃないですか。僕みたいな凡人の見る夢とはレベルが違うんですよ。実験的でもあるし、内容が実に濃密なんです。僕なんかでもある程度修行すると、夢をコントロールできるようになるんです。明恵の夢でおもしろかったのは、夢の続きを見られることです。途中で終わった夢の後半が翌日、現れるわけです。ただ、僕みたいな素人が熱中すると、頭がおかしくなっちゃうんですよ。

池上:やっぱりそれに耐えられるだけの精神修養を積まないといけないという。

田名網:そうそう。お坊さんだったらきっとすごい修養を積んでるからびくともしないんだけど、普通の人だったらおかしくなっちゃう。

宮田:最近のインターネットに出ているインタヴューで、先生が記憶を呼び起こすための装置というか、ちゃぶ台と和室をセッティングしてということが書かれてたんですけど、それはこの時期にされていたんですか。

田名網:僕は昔ちゃぶ台で勉強してたんだけど、それが古道具屋に売ってたんですよ、似たのがね。そこに最小限の筆記用具だけを置いて、晩ご飯を食べた後にその部屋に籠るんですよ。そうすると自然に過去の記憶の数々が蘇るんです。そのための装置ができてるから。ちゃぶ台に座った瞬間、一挙にバーッと噴き出してくるんですよ。

池上:それは子どもの頃の記憶ですか、それとも夢ですか。

田名網:記憶。夢と記憶って、僕は分けて記録してるんですよ。

池上:分けてできるんだ!

田名網:夢は夢でやって、記憶は記憶でやるんですよ。

池上:分けられるんですね。

田名網:記憶を書く作業というのは、まったく別にやってたんですよ。

宮田:それはいつぐらいからなんですか。

田名網:記憶を記録するというのは結構昔からやってたんだけど。それはね、幼稚園に行くじゃないですか。幼稚園の机があって、そこにクレヨンとかがのってて、先生がいて、窓があって、友だちが座っていて、中庭があるという状況を自分で思い出すとするでしょ。まずその情景を描くんですよ。描いていく過程でどんどん細部のディティールを思い出してくるのよ、不思議なもんで。中庭の中にこういう彫刻が置いてあったとか、中庭の向こうにレンガの塀があったとか、塀の向こうにへんてこな木があったとか、カーテンの柄とかをどんどん思い出していって、それをどんどん描き込んでいくんですよ。そうすると幼稚園の窓の外に通路があって、その通路からおじさんが覗いている。そんな記憶が思い出されるんです。

池上:なんか映画的な記憶ですね。

田名網:そうすると今度、道のずっと先には、右に曲がったところに犬がいるのが分かってきて。

池上:分かってきて(笑)。

田名網:だから、記憶というのは一つのものをきっかけにしてどんどん明瞭になっていくの。人間の手のアップからスタートして、カメラを引いていくと、体全身、室内の様子など、その周辺が次々に明確になっていきますよね。

池上:そういうものとして頭のどこかに記憶されていて、それをもう一回たぐっていくという感じ。

田名網:そうそう。だからすごい細部まで、頭で考えてると出てこないんだけど、描いていくとね。

池上:それは絵として描いていくんですか。

田名網:絵として。中目黒に住んでいた頃、うちの前に禿げ山があって。その禿げ山を思い出した時にね。どの位置にトンネルがあって、どこにどんな池があって、どこに秘密の通路がある。描いていくと次々に微細に思い出してくるのよ。僕は特に、幼年期の記憶がすごく明瞭なんですよ。自分でも驚くぐらい。ただ専門家に聞いてみると、それは都合のいい記憶であって、本当の記憶ではないらしいんですよね、正確な。そういうふうに思い込んでるわけね、自分で。「だけどその思い込んだのもあなたの記憶ですよ」って。

池上:まあそうですよね。

田名網:僕はそんな記憶を描いてるんだけど。その時一緒にいた友人に見せたら、「これは違う」と言うんですよ。「こんなとこにゴミ箱はなかった」とかね。

池上:たぶん覚えてないと思いますけど(笑)。

田名網:だからそういうことも含めて記憶なんですよね。

宮田:記憶の記録と夢の記録と同時並行で。

田名網:そうそう。夢と記憶を二本立てでやってるの。

宮田:両方が浸食しないですか。

池上:頭がおかしくなりそうですけど(笑)。

田名網:でもね、両方ないとダメなんですよ。

池上:記憶は自分にとってどういうもので、夢は自分にとって……

田名網:僕にとって、それがウソの記憶だったとしても一応真実の記録じゃないですか。実際に経験してきたことでしょ。思い違いかもしれないけど。だけど夢は、現実じゃないからね。あくまで夢の出来事だよね。だからその2つが必要なんですよ。

池上:必要というのは、制作に必要?

田名網:本にするとか、どこかで発表するとか、まったく考えていません。とにかく、ただ記録することが楽しかったからです。自分自身の陰影を知ることに関しては、ちょっと怖いですよね。夢も記憶もそれぞれ5000枚くらいありますよね。今は段ボール箱の中で眠ってますよ。

池上:何でもすごい量があるんですけど(笑)。

田名網:それは、めちゃくちゃいっぱい描いたから。

池上:それは、色とかついてなくてドローイングみたいな。

田名網:いや、色もついてる大作もあるよ。

池上:それは今どちらにあるんですか。

田名網:それはここもあるし、倉庫にも。

池上:全部紙媒体というか、絵に。

田名網:文章もあるんです。文章があって、それの解説として図版があるわけ。

池上:すごいなあ。それで、相補うというか、イメージと言葉でお互いに補足してというようなものとしてあるんですよね。

田名網:そうそう。

池上:いやあ、すごい。

田名網:記憶のスケッチブックも50冊くらいありますよ。

池上:ぜひ見たいな。

宮田:特に入院生活がきっかけでということではなかったということですね。

田名網:入院してる時は暇だったんです。4カ月ぐらい入ってたから、記憶のノートを作ったりしてたんです。特にその時期は集中してやってたから。結核だから苦しくもなんともないし、ただ病院にいるだけなんですよ。

宮田:その頃、病室からの風景で、松というのが。

田名網:それは夜、ストマイ(ストレプトマイシン)じゃないと思うんですけど、注射があるんですよ、夕方の6時頃に必ず。その注射の後、ものすごく発熱するんですよ。とにかく驚くほどの。「これは発熱します」って医者に言われていて、その発熱して30分くらいたつと、幻覚なのか夢なのかよく分かんないぐらいの、朦朧とした状態になるんです、高熱で。それでね、「これは幻覚だな」と僕が思ってたんだけど、幻覚じゃなくて現実に高熱でそうなってるっていうのが後で分かったんです。
 それでもう一つおかしいのはね、その頃、僕ダリの絵なんか全然関心がなかったんだけど、ダリの《ポルト・リガート》、「入り江」を描いた有名な絵があるんですよ。ダリが生まれ育った海岸の風景ね。それが必ず出てくるんですよ、僕の目の前の白壁に、もう不思議ですよね。「ああ、あれはダリだな」と思って、ダリの画集を友だちが持ってきてくれて、そんなにダリの画集って僕は一生懸命見たことはなかったんだけど、見た時にビックリしたの入り江の風景そっくりなの。それが毎日出てくるんですよ、まったく同じ風景が。それから結構ダリの絵が好きになったんだけど。
 それともう一つは、ベッドの横に窓があって。六本木というのは6本の老松があったことで六本木になったらしいんだけど、そのうちの1本が日赤病院の庭にあるの。それがね、病室の窓のところにちょうどあるんですよ。見るものがないから毎日見てるんですよ。その松を。深夜、高熱になるでしょ。そうするとね、外は薄暗いんだけどぼんやり松が浮かび上がるんですよ。その時ダリの画集を一生懸命見てたせいかもしれないけど、老松がダリの時計みたいにグニャグニャって曲がって見えるのよ。これはちょっとこわいなと思ったんだけど、松の木がうねるように見えるの。それを夢か幻覚かよくわからない状態で見てたんですよ。

池上:それがまた作品のモチーフに。

田名網:それはもういっぱい描きましたよ、そのグニャグニャの松は。

宮田:退院を待ちきれずに絵画作品を制作されたというのが載ってたんですけど。なんか待ちきれないという。

田名網:入院中のめくるめく幻覚体験は、それ以後の僕の作品をとんでもない迷路に誘い込んだんです。入院中書き留めたノートは、10冊を越えるほどあって、その記録をもとに木製の立体が生まれたわけです。ノートの中には、結構面白い頁があるんですよ。子牛ほどもあるけむくじゃらの犬が僕の胸の上に覆い被さっていてすごく苦しいんです。撥ねのけようとしても、しっかり抱き付いていて離れないんです。そんな幻覚体験がノートにびっしりあるわけです。

宮田:退院してわりとすぐに発表というか展示の機会というか、上映会とかの機会が。

田名網:あったかもしれないな。

宮田:1980年代、「スタジオ200」とか西武とかで。

田名網:その時、池袋西武のスタジオ200がわりと実験映像をすごくやってくれてる時期で、よくやってました。

宮田:当時、1980年代というと西武全盛期という印象があるんですが、一方で実験的な映画の上映会だったりも自由にできた。80年代の後半にギャラリー360°(青山)や四国(香川県)の佐野画廊とおつきあいがあったりしますが、ちょっと個性的な画廊だと思うんですけれども、それは向こうからオファーがあったんですか。

田名網:360°の根本(寿幸)くんは僕の若い頃からの知り合いで色々やりましたよ。

宮田:四国の佐野画廊は、佐野さんから?

田名網:佐野画廊は、最初にやったのはギュウチャンだと思うの。たぶん。その関係でやることになったんだと思います。

池上:たしか佐野画廊で、乃り子さんと二人展か何かされてるんですよね。

田名網:そうそう。

宮田:ネオダダ再評価みたいな。

田名網:ほかに吉野(辰海)くんとかもやってるけど(「ネオ・ダダの現在’96 破壊/再生」1996年3月24 日—8月25日)。

池上:ところで1980年代というと、世の中はバブルですよね。

田名網:うん。その頃ちょうど村上龍が武蔵美を出て、作家として芥川賞を取った頃なんですよ。村上龍は僕の後輩なんでよくうちに来てたんだけど、『PLAYBOY』で連載してたんですよ。まだ学校出たてですよ。それで東映から映画化の話が来たんです。芥川賞作『限りなく透明に近いブルー』の映画化を。東映のプロデューサーに会うっていうんで、「ちょっと田名網さん一緒に付いてきてくれ」っていうんで、フランス料理屋に付いていったことがあるの。そしたら原作料の話になって、「このぐらいで村上さんどうですか」って、その度に村上龍が「田名網さん、これでいいの?」って聞くんだけどさ、相場が分からないじゃないですか、映画化権の。でもその頃バブルの頃だから、「こんなもらえんのか」っていうぐらいの金額なの。

池上:いくらなんですか。

田名網:いや、ちょっと忘れちゃったんだけどね。だってその頃、村上龍をホテルオークラに泊めてるんですよ、集英社が。

池上:へえ、まだまだ駆け出しの作家を。

田名網:学生にまだ毛が生えたぐらいの若者が、オークラに泊まってんの。「田名網さん、ちょっとホテルへ行ってマッサージ頼もうよ」って言うので、マッサージを頼んだり、ルームサービス頼んだり、もうめちゃくちゃなことしてたもんね。それでもなんともなかったんだね。

池上:おそろしい世の中だった(笑)。

田名網:おそろしい世の中ですよ。

宮田:1980年代、変わらず海外での上映の機会も続いているんですけれども、最近はヨーロッパに映画の管理をされている方がいるということでしたが、80年代にオファーがある時に仲介される方とかというのはいたんですか。

田名網:80年代はイメージフォーラムがやってたの。

池上:この場合の映画というのは、1970年代の実験映像の上映が中心ですか。

田名網:そうです。1960〜70年代の作品です。

池上:さっき村上龍の話が出ましたけど、『限りなく透明に近いブルー』の実写版の方に《やさしい金曜日》が挿入されているというふうに。

田名網:いきなり頼まれて。

池上:まだ映画の方は私は観てないんですけど。

田名網:結構面白いですよ。いきなり出てくるから。

池上:それはぜひ観てみたいです。

宮田:1988年に「風鈴ブラザーズ」という、ネオダダのメンバーの皆さんとの10人展というのを画廊春秋でされたりしてるんですけど、皆さん、1960年代以降もずっとつながりがあって、お互いに作品を見合ったり、会う機会って多かったんですか。

田名網:昔みたいにそれほどは会わなくなったけど、でもその頃は結構一緒に遊んでましたね。赤瀬川(原平)とか吉野(辰海)でしょ、田中信太郎とか秋山(祐徳太子)とかギュウチャンとかね。

宮田:結構仲良しですね。田名網先生の世代の上だと「具体」だったり、下の1970年代は「もの派」だったり、それぞれの時代のグループがあって。グループとひとまとめに考えるわけではないですが、人間関係でいろいろ難しいところを後から聞いたりするんですけど、1960年代の皆さんってわりと仲良し。

田名網:みんな理屈っぽくないし、面倒臭い話ってしないしね。

宮田:仲良しの秘訣みたいなのって、何かあるのかなあって思ったんですけど。

田名網:だってギュウチャンが帰ってくるといまだに、みんな必ず集まるもん。めずらしいよね。

宮田:1980年代以降、90年代に入って、1960年代の再評価みたいのが展覧会で始まったりすると思うんですけど、集まられた時に何か60年代の位置付けみたいなことが話題になったりすることはなかったですか。

田名網:ネオダダの人? 

宮田:はい。

田名網:多分話してると思うけど、覚えてないなぁ。でもねぇ、数えきれないほどのおもしろいことありましたよ。60年代、新宿百人町に吉村益信のアトリエがあったんですよ。アトリエの設計は磯崎新が担当したの。それでね、新宿の吉村アトリエって現在もそのまま残ってるらしいですよ。ちょうどネオ・ダダイズム・オルガナイザーズ結成(1960年)の頃で、みんなエネルギーを持て余していたんです。夕方になると仲間がいっぱい集まってくるんです。アトリエの近くまで来ると、もう酒臭いんだよね。塀の外には空きビンが山と積まれていて、連日ドンチャン騒ぎなの。とにかくめちゃくちゃなパーティだったんです。僕も夜になると自然に足が向いちゃうんですよ。そんな狂乱の中からネオダダグループが生まれたわけですよね。

池上:田名網さん自身は、お友だちはネオダダ周辺の方が多いですけども、例えば上の世代で、具体だったり、同時代でもの派だったり、そういうほかの日本の前衛美術グループみたいなものに特に関心を払っていたということはありますか。展覧会を見に行ったとか。

田名網:具体は好きだったから、展示もかなり見てますね。人間の肉体の一部をゆがめて、誇張したような元永定正の絵は特に好きでしたね。今は世界に認知された白髪一雄とか田中敦子もいいですよね。ヨシダミノルとは付き合いもあったし、アンフォルメル運動の提唱者だったミシェル・タピエ(Michel Tapié)が日本に来た時に絵を見てもらったこともあって、具体にはその頃から興味がありましたね。

池上:他に特に印象深い作家や作品はありますか。

田名網:僕なんかよりだいぶ上の世代なんだけど、鶴岡政男に《重い手》(1949年)という作品があるんです。手足が複雑に絡まって、山の形になっている絵なんです。もう何十年も前に見ただけなのに、存在感というか、画面が放射する筆跡のエネルギーに圧倒された記憶は今も忘れられませんね。河原温の「浴室」シリーズ(1953年)も忘れられない作品です。キャンバスが凸凹とヘンテコリンな形をしていて、内容もタイルの遠近法が狂っているので、じっと見ているとめまいがしそうになるんです。それから岡本太郎の《森の掟》(1950年)ですね。最初、どこで見たのかどうしても思い出せないんだけど、岡本太郎が提唱する対極主義を真正面に据えた記念碑的大作ですよね。見ているうちに、これが絵なのか、絵はどんなふうに描いてもいいんだ。いつも心の中にあったもやもやとした霧が瞬時に消え去り、美術教育という制度に縛られて身動きできないでいた僕を、いとも簡単に解放してくれたんです。それと、岡本の著書、『今日の芸術 時代を創造するものは誰か』(1954年)も僕に勇気をくれましたね。

宮田:いつも行く画廊とか、美術館とかは決まってたんですか。それとも面白い企画があるから行くっていう感じ。

田名網:面白い企画なら、どこでも行きます。

宮田:1980年代後半に川崎市民ミュージアムで、国内で初めてパブリックコレクションとして田名網先生の作品が入るんですけど、その頃国内の学芸員との交流はあったんですか。

田名網:いやあ、あんまりないと思うな。

宮田:川崎市民ミュージアムが購入するきっかけというのは。

田名網:それはね、粟津潔さんというグラフィック・デザイナーが川崎市民なんですよ。それで川崎市民ミュージアムのロゴを作ったりして、美術館の建設にすごく協力してるのね。粟津さんが僕のこと推薦したんだと思うんですよ。

宮田:美術館に作品が入るということに対して何か気持ちは。うれしいとか何か(笑)。

田名網:いや、でもその頃美術館に入れるといってもね、ものすごく安いのよ(笑)。でも100点ぐらい買ってくれた。

池上・宮田:わあ、そんなにですか!

宮田:じゃあその後の展覧会というのは、こういう収蔵品がきっかけで展覧会を。

田名網:収蔵品の展覧会とかはもちろんしてるし。

宮田:映像作品は海外の方が早く所蔵された。

田名網:映像作品は、ついこのあいだはドイツの国立美術館に、何とかバンホフという有名な。

池上:ハンブルガー・バンホフですね(注:ベルリンの国立現代美術館)。

田名網:そう。あそこが1970年代のアニメーションをほとんど収蔵してくれたから。

宮田:それはエディションを作って、オリジナルではなく。

田名網:ネガもコレクションするの。

池上:それはすごいですね。

田名網:ネガも購入するって、ちょっとびっくりしましたね。

宮田:もしほかのところが同じ映像が欲しいとなった時には? そういうのって今後あると思うんですけど。

田名網:ネガの権利は僕の方にあるから、売ったものに関しては向こうのものだけど、オリジナルのネガは僕が保管してるの。

池上:そこからまた焼き直して。

田名網:そう。それは複製できるんだけど、普通日本の美術館だったらネガは持っていかないでしょ? でもドイツの美術館はネガも必要なの。

宮田:ほかに条件として聞かれることはありましたか、ドイツの美術館に。

田名網:ドイツの美術館は、わりと細かい規約がいっぱいありましたね。驚いたのはね、上映するときのスクリーンサイズが3つあって、そのどれかでしか上映しないらしいですよ。今年の年末にコレクション展というのがあるんですよ、美術館で。すごいコレクションでね。そこに僕の作品も出すことになったんです。

宮田:一番初めに映像作品が海外に収蔵されたのが1985年で、イタリアのジェノヴァ大学のようなんですけれども、何かその時のご記憶ってありますか。

田名網:それはたぶんイメージフォーラムが持って行ったんだと思うんですけどね。

宮田:その時には今回みたいに、どんなサイズで見せるとかそういうのは。

田名網:そこまでは。国立美術館は、結構ちゃんとしたコレクションだから。日本でもコレクションしてるけど、そんなに厳格なコレクションじゃないもんね。

宮田:1990年に横浜美術館が映像作品を購入という記録はありますね。

田名網:それもアニメーションを買ってくれたんだけど。

池上:あれは《Sweet Friday》の方でしたか。前々回のヨコハマトリエンナーレで1975年のアニメーションが1つ展示されてましたけど、その購入したものを出してたんですね。

田名網:そう。

宮田:特に国内の学芸員と交流が、親しい方がいるとか、そういうのは特にないですか。

田名網:国内はほとんど付き合いないね。でもね、海外はめちゃくちゃあるのよ。

池上:日本でもそろそろあるだろうという気はしますけど。

田名網:でももう日本はいいやと思っていて。

池上:そんなこと言わないでください(笑)。

宮田:海外からオファーがある時は、向こうの学芸員の方が「こういうことしたい」というのをすごく提案されるんですか。それとも田名網先生が。 

田名網:向こうの場合はすごくはっきりしてるから。何年の作品はこれって向こうが全部細かく決めてくるから。

池上:そういうのが求められると同時に、ご自分の中で、「僕だったらこういう回顧展にしたいのにな」という構想も同時にあったりしないですか。

田名網:それは、「こういうのもありますよ」と言えばまたそれは加えてくれるから、全然大丈夫なんだけど。

宮田:1980年代後半に、例えば岩井俊雄さんだったり伊藤高志さんという次の世代の映像作家との、同じ場で発表だったり交流が始まっていくと思うんですけど、そういう新しい世代というのはどういうふうに見ていたんですか。どういう交流があったのか。

田名網:でもね、あんまり交流ないな。広島の国際アニメーションフェスティバルとかね、日本の場合は広島ぐらいしかないじゃないですか。ヨーロッパは一つの国に3つも4つもあるわけですよね。日本は本当に少ないでしょ。観客動員も日本だとせいぜい2万人ぐらいだけど、海外の映画祭だと5万人ぐらい来るわけよね。だから映画祭のレベルが全然違う。日本では僕の映画なんてほとんど上映する機会がない、僕に限らず、アニメーションの人ってほとんどないんだけど、海外は沢山あるんですよ。だから同じエネルギー使うんだったら、日本でやるよりも海外でやった方が、見てくれる人いっぱいいるし、作品を見せるという意味では非常に積極的になれるんだよね。

池上:受け皿がない状態が、今も続いている感じですよね。

田名網:そうですよね。だって、イメージフォーラムと、あと3つぐらいしかないんじゃないですか、本当にやってるところは。

宮田:若い世代が出始めてきて、「アシスタントになりたいです」とか「弟子にしてください」とか言ってくる人っていなかったんですか。

田名網:いつ頃?

宮田:1980年代になって。

田名網:僕が『PLAYBOY』なんかやってる時は、イラストレーション売り込んでくるとか、そういうのはいっぱいあったよ。

宮田:特に誰かをアシスタントにしたとかいうことはなかったんですか。

田名網:その頃アシスタントをやってもらった人は何人もいるけど。

池上:大学の話が出たのでそちらのお話も聞きたいと思います。1991年に京都造形芸術大学の教授に就任されるんですけど、それはどういうきっかけだったんですか。

田名網:それはね、松本俊夫さんていう映画監督がいて、京都造形芸術大学短期大学の先生だったんですよ。それで松本さんから電話あって、来年4年制の大学に変わるということで、「来てくれないか」と言われて。粟津潔さんも教えてたんですよ。粟津さんと松本さんの二人が僕のことを推薦してくれて。粟津さんはそこで退官されるという時だったんですよ。「代わりに来てくれない?」っていうんで、4年制の立ち上げと同時に、僕が粟津さんに代わって大学に行ったんですよ。

宮田:どういうことを教えてほしいと。

田名網:その時は情報デザイン学科というのは決まってて、デザインの新しい教育というのをこれから目指していこうという大学づくりだったんです。

池上:それまで教えることっていうのは興味ありましたか。

田名網:それまではねえ、単発で武蔵美とかいろいろ行ったことはあったけど、ずっと教えるというのは全然考えてなかった。

池上:引き受けた理由というのは。

田名網:それはもう粟津さんと松本さんに言われたんで。それに「嫌だったらすぐ辞めていいよ」という、それが条件だったんで。じゃあいいや、嫌だったらすぐ辞めていいんなら、ということで始めたんですよ。

池上:週に1回京都に通われたんですか。

田名網:うん、毎週。

池上:何泊かされて。

田名網:いや、一泊で。

宮田:大学に入ると大学の人間関係とかいろいろあると思うんですけど、何か印象に残ることはありますか(笑)。

田名網:それはいろいろあるけども。大学ってやっぱりそれは付きものものよね、人間関係は。

宮田:やりたいことをするために戦うというか(笑)。

田名網:僕はね、そういうのはすごく嫌だったから、僕がとにかくいいと思う人を全部入れちゃって、それでやろうと思ってたの。まず宇川(直宏)くんを教授にして、それから藤本由紀夫さんね、それから伊藤桂司くんでしょ、面白い人材に声をかけたんです。

池上:推薦したら実際に入れてあげられるという決定権が。

田名網:僕がその頃学科長だったから。

池上:すごいですね(笑)。

田名網:あと榎本了壱。『ビックリハウス』編集やPARCOの展覧会とかやってた人。

池上:藤本由紀夫さんはどういう関係でお知り合いなんですか。

田名網:藤本さんはもともと講師で来てたんですよ。この機会に教授としてやってもらうというので、大阪まで僕が頼みに行ったら「じゃあやります」ということで、それで先生になったの。あ、それから束芋も教授にしたしね。

池上:教え子でいらっしゃいますよね。

宮田:総入れ替えの時期は2000年より後ぐらい?

田名網:そうですね。ちょっと後ね。

宮田:1990年代入ってすぐに造形大に来られた頃って、『100米(メートル)の観光』(稲田雅子との共著、筑摩書房、1996年)という本、教科書にもなるようなものを。私は教科書として使っていたんですけど。授業をつくるということに初めの頃はすごく集中されたと思うのですが、どういう授業なりカリキュラムを実現しようと思われたのですか。

田名網:「ないもの」を思い浮かべる不思議な能力、「想像力」。それを考えることが授業最大のテーマです。「想像力」はものを作り出すだけでなく、あらゆる人間の営みに深く関係しているし、時には破壊的な力を発揮することもあるわけです。これまで「想像力」は、実証的な研究対象として重要視されることがとても少なかったわけです。「記憶力」こそが、学校教育の中枢にあったからです。僕の授業では、「想像力」とは何か、でスタートしました。研究テーマは「記憶のモンタージュ」、「100米の観光」、「迷宮の設計図」、「夢見る装置」などですが、僕自身が興味を持っているテーマだけに絞りましたね。

宮田:かなりの参考文献もあがってますし、実践するとかなり濃厚なんですけど、実際あれを授業でもされていたわけですね。

田名網:そう。でもね、学生も結構面白かったらしくて、それなりに変わった個性的な生徒が出てきたよね。

池上:その代表的な存在って、やっぱり束芋さんになるんでしょうか。

田名網:束芋が一番優秀というか、とにかくほかの生徒とは段違いなの。頭も良かったし。

池上:彼女がどこかで言っていたと思うんですけど、卒業制作の《にっぽんの台所》(1999年)までは全然うまくいかなくて、あれがだめだったら辞めるつもりだったみたいなことを読んだんですけど。でも田名網さんからご覧になると、その前からもう優秀だったということですか。

田名網:そうそう。もう入った時から他の生徒とはレベルが全然違ってたね。僕が出した課題に対しての理解力がすごかったし、必ず僕の期待を超えるほどの球を投げ返してきましたよね。

池上:それは、考える力もあるし。

田名網:考える力も表現する力も。まあ頭が良かったということよね。

池上:《にっぽんの台所》というデビュー作からして衝撃的で。

田名網:あれは卒業制作に50万ぐらい使ってるんだよ。卒業制作に50万使う学生なんかいないもん。

池上:そんなお金ないですよね、まず。

田名網:借りてきたのかどうか分からないけど、とにかくそのぐらいのお金をつぎ込んで作ったんだよね。

池上:プロになるつもりで。

田名網:と、思うのよね。

池上:彼女のアニメの作り方も、指導はされていたんですか。

田名網:アニメーションは指導する専門の先生がいたんです。ただ、アニメーションと立体とを併用してやる段階では、色々アドバイスしましたね。

池上:アニメーションも、田名網さんの作品を見てから束芋さんの作品を見ると、ちょっとテイストが似ているなと思うんですけど。

宮田:京都の土地は特殊な場所だと思うんですけど、大学に通われていて印象は通う前までと変化しましたか。

田名網:京都はやっぱり面白いよね、街の構造というか、佇まいというか、建築もね。例えばどこかでご飯食べたとしても、六本木とかだったら、外に出たら車がどんどん走ってるけど、外に出た時も余韻があるもんね。京都の場合はそれが一体化してるじゃないですか。それがすごいよね。伝統的なものが依然残ってるし、それからお寺とかお庭とかも面白いし、古本屋さんとかも、やっぱり京都の本屋さんは面白いもんね、置いてあるものがね。京都の路地って好きなんですよ。北野天満宮の近くにある花街、上七軒は今でも暗い路地がいっぱいあるんです。大学帰りにたまに食事に行くんだけど、黄昏時、コポコポとおこぼの音をさせてお座敷に急ぐ舞妓の姿なんていいですよ。日常と隔絶した別世界は人間の本能を刺激する何かがありますよね。迷路に迷い込むことは自己の内部をのぞき込むことですよね。

宮田:1泊2日の中で結構回られてたんですか、そういうお寺とか。

田名網:最初の頃は結構行ってたけどね。今あんまり行かなくなっちゃったけど。

宮田:古本屋さんだとどの辺り。

田名網:古本屋さんはね、結構点々とだけどいっぱいあるのよね。大学の近くの北白川通りにもあるし、一乗寺商店街にもある。

宮田:くまなく回ってたんですか。

田名網:うん。古本屋さんも結構親切なの。京都は。だいたいいつも買う系統って本屋さんが知ってるから、次に行く時にちゃんと用意しといてくれるの、お盆に乗っけて。

池上:お盆に(笑)。こんなの入りましたよって。どういう系統のものを京都ではよく買われましたか。

田名網:いろんなの買うんだけど、植物図鑑とか誰だか分からない家族のアルバムとかね。吉祥寺とか下北沢とかにも行くんだけど、古本屋の書棚をながめている時ほどの幸せって他にないね。

宮田:青山ブックセンターとかによく行かれるという話を聞いたことがあるんですけど、新旧問わず回られて。

田名網:まあ頻繁に行くよね。

宮田:そういう時って片っ端から見るんですか。

田名網:そんなに細かく見ないんだけどね。本のカバーを見てるだけでも、時代って分かるじゃない、タイトルとかね。電車なんかでも、中吊り見てるだけで時代の状況って分かるよね。その日によって色々な楽しみ方をするんです。

宮田:大学で教えるようになられてから、学生が使う機材も大きく変化したと思うんですけど、田名網先生は制作の中でコンピューターを使い始める時期はいつだったんですか。

田名網:10年以上前かな。僕の場合は、昔は印刷の入稿は色指定です。デザインしたものにDICの色見本を貼って、印刷所に渡すんです。ところが今はそれをコンピューターで仕上げなきゃならないわけよね、1つ工程が増えるわけじゃない。そのことによって逆に、今までやれなかったもっと多様な手法というのが使えるようになる。それはすごくプラスになったと思うのよ。だけどやっている行程というか作り方自体は、昔の僕がやっていた方法と全然変わってないわけだよね。要するに手で作って、そこに色指定を貼って、色鉛筆で指定してという、方法は変わりない。

池上:1990年代の後半の方ですかね、ちょっと展覧会が少ない時期があるような印象を、履歴を見てそういう印象を受けたんですけれども、制作のペースが落ちた時期というのはあったのでしょうか。

田名網:それはたぶんデザインの仕事が忙しくて。

池上:大学にも1990年代ずっと行かれてますし。

田名網:そう、大学にも行かなきゃいけないし、そんなことしてるうちにだんだん年取っちゃって、これじゃまずいんじゃないかと気が付いたのが10年前ぐらいですね。

池上:社会的にそういうふうに求められるんだけども、それに全部応えていると制作の時間がなくなっちゃうという。

田名網:まぁ、仕事の領域を広げ過ぎたこともあるんだけど、なかなか自分では縮小できないんですよ。1960年代とか1980年代の作品の要望が多くなったり、出版物の以来も増えてきたので、スケジュール管理ももっときちっとしなきゃと思ってるんですよ。

池上:造形大を退官されるのは何年になるんですか。

田名網:いや、退官はまだしてないんですよ。

池上:あ、そうなんですか。失礼しました。

田名網:今年で辞めるとは一応大学に言ってあるんだけど、大学院生が結構来ちゃうんですよ。だから大学院だけにしてもらおうかなとか今思ってるんだけど。

池上:今は週1も行かない?

田名網:いや、規則なので週1は一応行ってるんですよ。行ってるんだけど、だんだんもう結構厳しくなってきて。

池上:ちょっと大変ですよね。

田名網:そうなんですよ。行くとね、結局2日ダメでしょ。1泊しちゃうから、翌日帰ってくるといっても夕方ぐらいになっちゃうじゃない。だから丸2日になっちゃうんですね。

池上:体力的にもちょっとね。

田名網:体力的な問題と、2日とられちゃうからいろんな問題が出てきたんですよ。

池上:そうですか。ではちょっとそっちをセーブして制作とか発表の方に力をシフトさせてという。

田名網:そうなんですよ。

宮田:2000年からアニメーションの制作をまた再開されますよね。

田名網:それはね、大学に相原(信洋)くんという、もう亡くなっちゃったんだけど(2011年没)、アニメーション作家がいてね、彼とは昔からの知り合いだったんですよ、大学入る前から。相原くんとはすごく仲良しで、大学で再会したわけよ。それで一緒にやろうよということになって、相原くんと一緒に作ることになったんですよ。結局、20本ぐらい作りましたよ。一番最初、すごく面白かったのが、相原くんはあんまり理詰めでものを考える人じゃないんですよ。非常に感覚的な人なの。ストーリーを決めるとか、どういう方向のものを考えようとかよりも、まず何でもいいから描いて見せ合うということにしたんですね。
 ある日僕が大学の研究室に行ったらね、アニメーションの線画用紙というのがあるんですよ、穴が空いてる。それが置いてあるんですよ、100枚ぐらいね。こういうのを作ってますって。それで僕は「これは面白い」と思って、次の週に相原くんの机に僕の描いた返信をバンと置いておくんですよ。そうすると相原くんがそれにまた重ねてくるの。どんどんエスカレートしていって相原くんの絵の上に僕が描いちゃったり、どんどんコラージュしていったわけですよ。そうすると最初のイメージとはまったく違うものになるじゃないですか。それを撮影したんです。
 それでね、次はどうしようかといった時に、もっと感覚的に「落下と浮遊」というテーマで作ろうということになったんです。1枚の絵を全部二人で描いていくというね。僕が描いたものを彼が消しちゃう、で、もう一回また上に描く、それから今度僕がまた描く、ある程度やったら2枚目にいく。二人でバトルするんですね。そういうアニメーションも作ったりね。毎回テーマを変えたんですよ。

宮田:2000年に相原先生と一緒に制作された時には学内で発表されたと思うんですけど、学内で見せるというのは。外に出すというよりは身近な人たちに見せるというのは。

田名網:学内は学生が見たいということでやっただけだから。

池上:宮田さんもそれを見てたんですか。

宮田:はい。卒業してたんですけど見に行ったんですよ(笑)。すごく印象に残ってます。

池上:前回のお話ですと、1960年代だったらすごくお客さん来てたというふうにおっしゃってたんですけど、今はそういう実験的なものが、たとえアニメであってもなかなか…… 

田名網:現在の状況はどうなっているのかわからないですね。僕の場合は、海外の映画祭での上映は続けているんだけど、それと同時に、アート作品として美術館やコレクターに販売しています。版画と同じようにシリアル・ナンバーをつけて、パッケージに入れるんです。世界的に映像作品の需要が増えているんですよ。

池上:相原さんとのコラボレーションもその中では特別な位置付けというか。

田名網:共作だから販売の対象にならないんです。パリの岡本さんのところで、DVDを作る時に入れたり、映画祭で上映したり。

池上:だいぶ個性の違うお二人だと思うんですけども、共同作業というのは、ぶつかったりは全然しなかったんですか。

田名網:全然もう。相原くんは理屈っぽくないんですよ。アニメーションの内容に関する話ってほとんどしない人なんです。とにかく感覚的に作る人なんで、今でも生きてやってると思うんだけど、楽しかったですよ。

池上:キャッチボールという感じで。

田名網:そうそう。

宮田:いつできたのか分からないんですけど、造形大のデザイン学科の中に「アナログアニメーション工房」という名前の工房ができるのは、2000年に入ってからですか。

田名網:それは、相原くんが短大の先生だったんですよ、それを僕が4年制の情報デザイン学科に引っ張ったんです。それで彼が「デジタルじゃなくてやっぱりアナログで勉強しなきゃいけない」ということで、相原くんを中心に立ち上げた学科なのね。

宮田:デジタルと分ける必要があったんですね。

田名網:ちょっと信じられないんだけど、最近の美大生はね、簡単なスケッチ程度のものが描けないんですよ。手を動かして描くことは、脳を刺激するんですよ。表現にとって最も必要な「脳と痛みを感じる手」の関係がまったく機能してないんです。

池上:造形大というのは、学科長でいらしたのである程度裁量があったということもあるかと思いますけど、自由なことができる大学だったんですか。

田名網:今は分からないけど、僕が学科長やってた頃はわりと自由にやりましたよね。まだ大学として過渡期だったので。

池上:四年制の大学になって。

田名網:それでこれからどうしようかという時だったんで、結構自由にできたんだと思うのね。

池上:私も、今は分からないんですけど、一時期は非常に、グングンきてるなという感じの大学だと思ってたんで(笑)。

田名網:僕が学科長の頃はどんどん新しい先生を入れて、結構話題にもなってたし、宇川くんの授業なんかいろいろメディアに取り上げられたりして、結構面白い大学だというので評判にはなったんですよ。

宮田:2000年の、大学院ができた時期だと思うんですけど、それ以降は大学の方針とか、生徒の人数がかなり増えて大きく変化していく時に、何か戸惑いというか。その前まではわりと生徒は少なかったと思うんですけど、大学が大きくなって学科が増えたりとか、新しい先生が入ってきて活発になることに対しては特に。

田名網:学科も少ないし人数も少なかった時は、ある一人の個性で学校を動かすことができたけど、今みたいなああいうマンモス大学になったら、先生一人の個性で動かないじゃないですか。何かを決める時にも多数決になる。だから平均的な大学になっちゃうのよね。

池上:組織として安定させないといけないので、ある程度は避けられないことなのかもしれないですけどね。

田名網:大学の先生というのはね、自分より優れた人材を入れたがらないのよ。

池上:教員としてですか。

田名網:うん。だって自分が目立たなくなっちゃうから。

池上:分かりますねえ、なんだかそれは(笑)。宮田さんは学生として京都造形大におられて、田名網先生は直接の指導教官ではなかったんですか。

宮田:コースが違ったんですけど、まだその頃短大の影響もあって自由に授業がとれたんですね。そういう意味では藤本さんの授業とか、自分の専門のコースではなかったですけど、好きなように行きました。

池上:内科画廊の展覧会(「内科画廊 '60年代の前衛」、2000年)をしたいというので、田名網さんから助言を受けて。

宮田:それが、きっかけで。

田名網:そうそう、あの時も結構面白かったよね。

宮田:田名網先生のことは、篠原さんが「田名網くんに会いに行きなさい」というふうに電話をくださって。(専攻していた)芸術学とか文化財のコースから、情デってちょっと華やかだったので。

池上:情報デザインは情デと言うんだ(笑)。

宮田:情デの研究室を訪ねるのはちょっと勇気がいることだったので、アポなしで訪ねていったんですけど、すぐに「内科画廊の話なの?」という感じで。授業が始まってるにも関わらず、先生が私の話を聞いてくださったのがすごくうれしかったです。

池上:それがその展覧会にもつながっていったという感じですか。

宮田:はい。2回ぐらい授業受けさせてもらいました、情デの学生と混ざって。すごく面白かったです。

田名網:そうだよね。

池上:文化財の先生よりもむしろ田名網先生の方が理解してくださったと、前に宮田さんおっしゃっていたので。

宮田:それぞれのコースの先生がもちろん反応してくださったんですけど、当時(の内科画廊)を知っている先生の一言は、教授会で、学校で展覧会をする審査の中では大きかったというふうに。

池上:展覧会やるのに教授会を通さなきゃいけないんだ。私も今大学にいるので分かりますが、美大ですらそうなんだというのがちょっと意外ですけど(笑)。

宮田:プレゼンを。なかなか少なかったんですかね、学生の企画というのが。

田名網:そうかもね。

池上:やりたい人全部ができるわけじゃないから、ということかもしれないですね。

田名網:だって束芋を僕が教授にするって言った時も反対する人はいたからね。

池上:すごく若いし。

田名網:だって27ぐらいだもん。

宮田:最年少とかって騒がれましたもんね。

田名網:反対する人はもちろんいましたよ。

池上:助教授とか准教授じゃなくて教授ですか。

田名網:うん。そのぐらいしないとインパクトがないなと思って。

池上:それはそうですよね。

田名網:だって助教授だったら普通じゃない。

池上:普通です(笑)。でもそれで彼女が教え始められて、反対してた先生たちと摩擦になったりとかは。

田名網:いや、でも彼女の実力が群を抜いてすごかったからね。だから何も言えなくなっちゃったというのが本当のところ。

池上:だからこそほんとは入れたくなかったという人もいるんでしょうね(笑)。

田名網:そうそう。比較されるしね。宇川くんの時だって相当反対あったからね。

池上:そうですか。作家さんはその点、本当にはっきりしちゃいますものね、光があたる人とそうじゃない人と。

田名網:そうそう。それで学生がみんなそっち行っちゃうからね、どうしても。

池上:それはあこがれますよね。

田名網:だから面白くないという先生が出てきちゃうわけよね。

池上:そろそろ質問も終盤かと思いますけども。お話をお聞きしていて、本当に長い年月にわたって制作を続けておられるんですけども、ずっとノンストップでこられているのか、それとも、スランプみたいな時期というのは、先生はないんですか。

田名網:それはねえ、あったのかもしれないけど、今までに自覚したことがないのよ。まあ基本的にはこの仕事が好きだから、嫌と思ったことがないから、だからスランプはないのかなと思う。それとね、立体作ったり平面作ったりアニメーション作ったりするんで、逃げ場というか、新たな気持ちを呼び起こすのかもしれない。絵だけ描いてたら、やっぱりイヤになると思うんですよね。

池上:いわゆる作家的な制作とは別に、常にデザインのお仕事もあるからというので、2つは少なくとも常にあるということですよね。

田名網:それから会う職種というか、全然違うじゃないですか。アーティストとメディアの人では、考え方もまったく違う。そういう意味での、煮詰まっちゃった状態というのはないですよね。

池上:途切れなく来られているということで、じゃあこれから何がやりたいですかということをお聞きしたいんですけど。

田名網:これからもねえ、特別何がやりたいということはないんだけど、今までやってこなかったことをこれから続けていきたいなと思って。あんまり集中的にやる時期がなかったので。精々ここ10年ぐらいじゃないですか。だから今の仕事を続けられる限り続ける、ということがやっぱり第一だな。

池上:その作家としての仕事を。

田名網:ええ。でも今の方が若い時よりやってるかもしれないんですよ。

池上:そんな印象も受けます(笑)。

田名網:もう遊びたいとも思わないしね。煩悩に悩むこともなくなったし、余計なことを考えることもない。仕事だけに集中できるんですよ。時間を無駄にすることもなくなったしね。若い時の何倍も仕事してるよ。

池上:今の方が楽しいですか。

田名網:楽しいっていうか、疲れるっていうか。

池上:やっぱり産みの苦しみも。

田名網:いや、産みの苦しみはない。創造してて苦しいというのはないんだけど、なんか楽しくてしょうがないっていうのはないですよね。やっぱり感覚がね、年取ってくると鈍ってくるんじゃない? きっと。

池上:そうなんでしょうかね。

田名網:若い時ってちょっとしたことでもうれしいじゃないですか。それが年取ってくるとあんまり感激したり、感動したりしなくなるのよ。

池上:じゃあ今うれしいことって何ですか。変な質問ですけど(笑)。

田名網:今うれしいことって何だろうなあ。今うれしいことって、考えたらあんまりないんだよな。

池上:こういうことがあるとうれしいっていう。特になければもちろん結構なんですが(笑)。

田名網:好きなおつまみでビールとか飲んでる時、うれしいですね。

池上:そういう日常の。

田名網:そういうちょっとした、それがなんかうれしいですよ。

宮田:2000年代から制作とかまた発表の場がかなり増えてきたりというなかで、奥さまは、活動の変化に対して何かおっしゃったりされますか。

田名網:まあ一番近くでみているから、何を考えてるか分かるんですよ。仕事のことも結構しゃべりますよ。

宮田:一緒に海外にもお出かけになったりされる。

田名網:ベルリンの個展も一緒に行きましたよ。まったく偶然なんだけど、同じ時期にギュウチャンも個展してたんです、近くのギャラリーで。一緒にあちこち行きましたよ。昔から妻も、ギュウチャンは仲が良かったので、結構心配してるんです。

池上:田名網さんのことについては、「昔の作品もいま光があたって評価されてよかったわね」とかそういうことは。

田名網:いや、それはあんまりない。

池上:そうですか(笑)。

宮田:こういうものが出てきて懐かしいわねとか、そういう話は。

田名網:そういうのはない。だって昔の作品は、みんな知ってるから。昔は自宅で描いてたから。

宮田:だからこそ懐かしいとかいうのは特にないんですね。

池上:貼るのを手伝ってもらったりとか、そういうのはなかったんですか。

田名網:色塗るとかありましたよ。ギュウチャンの『前衛の道』の時は手伝ってたけどね、盛んに、スクリーントーン貼ったりして。

池上:あれは大変ですもんね。じゃあわりと距離を、クールな感じで見ておられるんですかね。

田名網:そうですねえ。今は(自宅とアトリエが)分かれてるけど、昔は一緒だったから。お客さんが来ても、話とかも全部、小っちゃい家だから聞こえちゃうじゃないですか。だから全部筒抜けなの。でもねえ、帰るとその日の報告はしますね。誰が来たとか。

宮田:わざわざ伝えたりしなくてもという。

田名網:そうそう。

宮田:夢日記だったり記憶の日記だったり、今日はこんなすごい夢を見たとかいうことを奥さまに伝えたりとかもない?

田名網:そういうのはないよ。だって夢なんて、人の夢の話ぐらいつまらないものないよ。

宮田:ラジオはずっとつけっぱなしなんですか。

田名網:ラジオはチャンネルとか回すのめんどくさいじゃない。だからJ-WAVEしか聴いてないの、ずっともう何十年も。

池上:音が流れてる方がリラックスできるというか。

田名網:そうそう。何を聴きたいということはないんだけど、ただ音が鳴ってればいいという。

宮田:最新情報は全部入ってきてるということですね、ラジオから。

田名網: J-WAVEはあんまり情報ないのよ。ニュースだってJ-WAVEって短いもん、ほかのラジオ局に比べて。

宮田:アシスタントさんの話を少しお聞きしましょうか。

田名網:はなちゃん、お話し何かしてくれって。僕、向こうに行ってるから。

池上:一緒にいてくださっても全然(笑)。

田名網:僕は向こうに行ってるから。

池上:分かりました。最後に一度戻ってきてください。すいません、突然、お仕事中に。普段メールを代わりにくださっている、上田華子さんでよろしいんでしょうか。

上田:はい。

池上:アシスタントはいつ頃からされているんですか。アシスタントという呼び方でいいんですか。

上田:はい、アシスタントです。2008年ぐらいだったと思います。

池上:それはどういう関係で。

上田:全然関係なくて、私は多摩美の夜間部卒業、2008年の卒業なんですよ。その時に一斉メールみたいなのが回ってきて、先生のところの面接があるから、受けたい人は、みたいなのがあって。それで15、6人集まって、面接がNANZUKAであって。で、現在に至るって感じで。

池上:じゃあそのたくさん集まった方の中から1人が選ばれた。

上田:そうですね、本当はもう一人いましたけど、現在は1人です。

池上:普段はどういうことをされているんですか。あちらで絵を描かれているのは眼には入ってるんですが。

上田:あれと、iMacがこっちにあるんですけど、あれでデジタル作業ですね。先生が色指定までやったものをデジタルデータに起こすとか、あとはデータのやり取りですね。

池上:ああいう大きめの絵というのはデジタルである程度、デザインというか、決まったものを大きくして色をつけていかれる。

上田:はい。

宮田:多摩美の時は絵の制作をされていたんですか。

上田:いや、私はデジタル科だったんですよ。ここも最初は絵のアシスタントだって聞いてたんですけど、ものは試しだと思って受けたんです(笑)。そしたらデジタルの仕事もあるからって話で。

宮田:田名網先生のことは、受ける時にはもちろんご存知だったんですか。

上田:なんかぼんやりとなんですけど。何だっけ、SUPERCARのCD(《ANSWER》キューンレコード、2004年)のベスト版のジャケットは知ってたぐらいですね。

宮田:そんなに前情報もなく、やってみたいと。

上田:はい。そんなに前情報はなかったですね。

宮田:実際始められる前と始めてからで何か考えたり、変化ってありますか。

上田:変化ですか。いや、それは照れくさくて(笑)。

宮田:公表する、しないは一回聞きますので。

上田:先生がですね、お話にもありましたけど、あれだけ休みなくずーっと、ライフワークでいろんなことをやってるというのが、やろうという感覚じゃなくて、もう気がついたらやってるみたいな方じゃないですか。そういうのは見習おうっていうことは思いますね。

宮田:今ご自分の作品も作られているんですか、同時並行で。

上田:そうですね。家に帰ったら作業するということはしています。

池上:ここは毎日ですか。

上田:ここは週5ですね。

池上:月〜金?

上田:先生が大学に行くのが金曜なんで、金曜は休みます。

池上:10時〜5時とかそんな感じなんですか。

上田:そうですね、10時から6時半までいます。

池上:ボスとしては田名網さんはどんな感じなんですか。

上田:最初は、You Tubeでインタヴュー映像とか見てて、怖い人だったらどうしようとか思ってて。

宮田:そうですよねえ。

上田:モノとか投げてくる感じだったらどうしようとか思ったんですけど(笑)。そんなことは全然なくて、やさしい人ですよ。

宮田:色指定以外にも、実際に描き始めてからの変更とかもあったりするんですか。

上田:はい。

宮田:だいたい始めから決まっている。

上田:ほとんど、はい。途中経過見て、ここは別の色にしようみたいなこともたまにあります。

池上:働きやすいボスですか。

上田:はい。じゃないと、やっぱり5年もいるので。

宮田:5年って結構な長さですよね。

池上:田名網さんの仕事量を考えると、もっとアシスタントさんがたくさん、5、6人いてもおかしくないと思うんですけど。

上田:そうですよね。

池上:1人にされてるのって何かあるんですかね。

上田:うーん、どうなんでしょうねえ、それでもなんとかなってるから…… 

宮田:大型の時は違うところに外注したりとか。

上田:そうですね、立体は外注だし、映像も私は最初の絵コンテぐらいしか手伝わないので。

宮田:ペインティングが中心の。

上田:そうですね。

池上:1人でもまあなんとかなるという。

上田:今のとこなんとかなってますね。

池上:そんなにたくさんの人にワーッと囲まれたいタイプでもないんでしょうね。

上田:でもないと思いますね。

宮田:それは明らかですね(笑)。アシスタントとして続けていきたい気持ちは、また変化があるかもしれないけど。

上田:どうでしょうね、分からないですけど。

宮田:今は、続けたいという気持ちで。

上田:まあそうですね、はい。

池上:何を一番。手伝うだけじゃなくて、いろいろ勉強になると思うんですけど、何が一番勉強になりますか。

上田:うーん、技術的なことですかね。技術的なことは、PCの作業は自分で会得していかなきゃいけないので、あとはさっき言ったような姿勢とかそういう。

池上:制作姿勢みたいなところですか。

上田:はい。

池上:普段はどういう作品をされているんですか。

上田:私は漫画を描きます。全然ファインアートは関係ないですね。

宮田:ああ、そうなんですか。でもまあ私たちにしてみれば漫画も含めて同じように見ているので。

上田:先生も漫画大好きだっていうことなんで。

池上:ですよね。自分の漫画を先生に見せることはありますか。

上田:いや、それはないですね。

池上:なんでですか。

上田:ちょっと照れくさいので。最初は見せようかなと思ったんですけど、見せられなくなってきちゃいましたね。

池上:何系の漫画なんですか。

上田:それはちょっと(笑)。そこからしてもうあれなんで。

池上:商業ベースに乗せていきたいタイプのなのか、それとももうちょっとアヴァンギャルドな実験的なものもあるじゃないですか。

上田:アヴァンギャルドなのは描かないですね。だいたいまあいわゆるオタク向けなんで。

池上:BL的な感じ?

上田:BLじゃないんですけど。個人的趣味でやってたら仕事もちょこちょこ来るようになったというか、そういう感じです。

池上:あまり問い詰めてもかわいそうなので、この辺で(笑)。ぜひご自分の制作の方もがんばってください。じゃあ先生の電話が終わったらもう一言だけお願いしましょうか。

(田名網、電話が終わり戻ってくる)

池上:3回にわたって長々とお話を聞かせていただいて。

田名網:いやいや、とんでもないですよ、内容が薄くて。大丈夫ですかね。

池上:いえ、非常に濃い内容だったと思います。最後にこれは言っておきたいということがあれば、ぜひお話しいただければと思います。たくさんお聞きしたので。

田名網:あとは、他に書いたものから付け足してください。

池上:注で補うということで。(宮田に向かって)「伝研」の話聞いといた方がいいかな。

田名網:ああ、伝研? 伝研は面白いんだけど……

宮田:いろんなところで書かれているんですけど、あまりにも衝撃的なので生で聞きたい(笑)。

池上:伝染病研究所ですね。

田名網:今でもあるらしいですね。いや、伝研とは言わないんだけど。

池上:白金の。

田名網:白金のね、僕はあれから行ってないから分からないんだけど、あるらしいですよ。僕が白金に住んでた時は伝染病研究所といってた。今だったらそんなとこに子どもを絶対入れないじゃないですか、伝染病だもん。ところがその頃っていいかげんだったのかな、塀に穴が空いててね、そこから自由に入れるのね。中に伝染病に感染した牛とか馬がものすごい数いるんですよ。毛が全部抜けちゃったのとか、火膨れになっちゃってるやつとか、お尻に斑点ができてるのとかね、もう痩せちゃってガリガリになった…… でもね、病気だということが分かっているのか、すごく僕に懐くんですよ。悲しそうな目でね。つまり伝染病に感染してるんですよ。

池上:実験のために。

田名網:実験のために。だからもう全部病気なのよね。そういう馬とか牛が200頭ぐらいいるんですよ。普通の牛舎とかと違って薬品の匂いがすごいのよ。そこでね、もうこれはだめだという牛を連れ出して殺すわけですよ。そうすると鉄板の大きな丸い板が敷いてあって、そこに連れて来て、殺すんです。そうすると動物だから、鉄板の上に引っ張っていくとものすごく暴れるわけ。分かるんだよね。それで頭に黒い布をぱっと掛けるのよ。

池上:解体する人ですよね。

田名網:解体する人がパッとかけるの。そうするとね、静かになっちゃうの。その瞬間、このぐらいの鉄の棒でバーンと殴るんですよ。それで一撃で殺しちゃうわけ。その殺したのをすぐ横にある手術室のようなところに引っ張って行って、そこで皮を剥いで、当然伝染病に感染してるんで、臓器を細かく分けて研究材料にするわけね。ところがそこでね、僕が見てて一番面白かったのはね、運んでいって切断するとこもすごいんだけど、タイル貼りの部屋の正面が祭壇みたいに段になってるんですよ、タイルがね。牛だったらまず頭を外すでしょ、当然ね、解体するから。それをね、真ん中に置いて、その臓器を階段に順次分類して、たぶん研究材料のために分類するわけですよ、内臓とか、腸とか脳とか脚とかをね。それを祭壇にきれいに飾るんですよ。ピンク色の内蔵がピクンピクンと波打ったり、脚とかがピョンと跳ねるんだよね。それがすごい不気味なの。

池上:分類しているだけなんだけど祭壇に飾ってあるような。

田名網:そうそう。だけどタイル真っ白でしょ。そこに頭とか内臓とかを置いていくと、そこを伝って、もう大量の血が滝のようにザーッと落ちてくるわけ。

池上:ひえーっ。

田名網:ドイツのオットー・ミュール(Otto Muehl)とかがやってる……

池上:ウィーン・アクショニズムみたいな。

田名網:アクショニズム、まさに。あれのもっとすごいやつ。

池上:あんなの顔負けですよね(笑)。

田名網:パフォーマンスとは違うよね。実物の牛の解体だから迫力が違うんですよ。日によって2頭並べて解体することもあって、臓器の量がすごいんです。祭壇らしきものも2か所になって、牛の頭も2つある。引き裂かれ、内臓が摘出され、おびただしい血と臓物が、僕ののぞいてる窓ガラスにピタンピタンとあたるんです。複雑怪奇な祭壇はますます豪華になって、金具で吊るされた白い筒状の内臓があちこちに並んでいるわけです。それで僕が一番怖かったことがあるんです。皮を剥ぐと、細長い包丁で背中の肉を薄く切るのよ。刺身みたいにね。それをバケツの水でピチャピチャと洗って食べるんですよ。おいしそうにね。気持ちが悪くなって、本当見てられないんですよ。でも足がすくんで動けないんです。すると一人のおじさんがね、肉片をひらひらさせながら僕のほうに近づいてきて、「坊やたちも食べるかい」って言うんですよ。もう必死に逃げましたね。1701年にオランダのフレデリック・ロイス(Frederik Ruysc)が作った『人骨の盆景』ってあるんだけど、実物の臓器と骨で盆景を作った、言ってみれば、見世物なんですよ。これをモノクロの図版で見た時、僕が子供の時代に見た臓器の祭壇にそっくりだったんだよね。

池上:こわいよ〜(笑)。

田名網:そしたらもうダーッとみんな逃げるわけ。

池上:それ、病気になった牛なんですよね。

田名網:だけど食べても支障のない病気じゃないですか。

池上:それは選んでるんですかね。

田名網:もちろん病名は知ってるよ思うよ。今、思い出したんだけど、お刺身みたいな薄い肉片を食べ終わるとね、お弁当箱に詰めてるんですよ。きっと家に持って帰るんだろうね。おじさんたちは白衣を着てるんだけど、血飛沫で真っ赤なんですよ。そんな恐ろしい場面を長時間みてると、窓枠を握っている指がカチッと固まっちゃって、なかなか離れないわけよ。

池上:でもご馳走だったんでしょうねえ、牛肉なんてそんな食べられる時代じゃないじゃないですか。

田名網:だからすごいご馳走だったんだろうね。

池上:それで田名網さんは今も肉が食べられないという。

田名網:そうなんですよ。肉がまったく食べられなくなったの、伝研以来。肉売り場の前を通る時は息止めるからね。牛の解体を見ていた友達が4〜5人いたんだけど、だんだん減ってね。最後は僕一人になっちゃった。みんな親に怒られたんだろうね。

宮田:どれぐらいの期間見に行ってたんですか。

田名網:相当行きましたよ、僕は。

池上:田名網さんがまた飽きなさそうなんですよね(笑)。

田名網:相当しつこいから。

池上:何度でも見そうですよね。やっぱり幼少期の原体験というか、原風景みたいなものがいくつもあって、それが今でもかなり制作の一番根っこの部分に。

田名網:僕がいつも気になっているんだけど、目黒駅を中心として雅叙園があるでしょう。映画館の目黒キネマがすぐ近くにあって、それから伝染病研究所がある。このトライアングルが僕の幼少期の人間形成に深くかかわっているんですよ。原風景と言ってもいい。そこに戦争という暗い時代、それに関連する金魚幻想などが複雑に絡まり合って、僕という人間を形作ったんです。

池上:それが仕事をするにあたってもすごく核になってるんですよね。

田名網:子どもの時にそんな面白いものが周りにあるって、そうないもんね。

池上:ずいぶん面白いものに囲まれていらしたんだなと思いますが。本当に長くなってしまったので、最後にお一つだけ、肩書きはどうでもいいという考えもありますが、「今、ご自分は何ですか」と聞かれたら、どういうふうに。

田名網:今はもう「アーティスト」にしてるんですけど。

池上:もう、それでいこうかと。

田名網:うん。

池上:分かりました。ではこれからもアーティストとしての活動を楽しみにしております。本当に長時間ありがとうございました。