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谷川晃一オーラル・ヒストリー 2017年6月22日前半

伊豆高原の谷川晃一さん自宅内アトリエにて
インタヴュアー:池上裕子、宮田有香
書き起こし:大瀬友美
公開日:2019年10月29日
 
谷川晃一(たにかわ・こういち 1938年〜)
画家、エッセイスト
1938年東京生まれ。独学で絵画を学び、様々な職に就きながら1963年に読売アンデパンダン展に出品、同世代の前衛作家たちの多くと交流した。1964年の初個展以降、毎年新作を発表し続けている。主な展覧会に2011年「谷川晃一展 南の庭のアトリエより」三鷹市美術ギャラリー、2016年「陽光礼賛 谷川晃一・宮迫千鶴展」神奈川県立近代美術館葉山など。1968年からは美術批評やエッセイなどの文筆活動を始め、絵本を含む著作も多数刊行。なかでも『アール・ポップの時代』(1979年)、『視線はいつもB級センス:脱意味の美術1979-1981』(1981年)、『今日の美術とサブカルチャー』(1984年)では、戦後のアメリカン・ポップカルチャーの影響を宮迫千鶴氏と独自に調査し、鋭い視点で美術の領域を越えた文化論を展開した。1988年に伊豆高原に移住してからは、「暮らしのなかのアート」の魅力を絵画やエッセイで発信し、講演会やテレビ番組なども通じて「描くことの喜び」を多くの人に伝え続けている。1993年には地域に根ざしたアートイベントの先駆けとなった「伊豆高原アート・フェスティバル」を立ち上げ、25年間携わった。
今回の聴き取りでは前半に幼少期の横浜での戦争体験や美術との出会い、1960-70年代の交流を、後半では同時期の制作の背景から1979年「アール・ポップ」展(池袋パルコ他)、1980年「チャイナタウン・ファンタジア」展(ラフォーレ原宿)、1981年「Art Pop Japan Tokyo Today」展(ICA, ロンドン)の企画までを伺った。

宮田:オーラル・ヒストリーはみなさんにこちらからの質問を用意しています。覚えておられることをこの場でうかがって、その語り自体を残そうという活動です。語っていただいたものを書き起こして、いろんな人たちが谷川さんの語りを共有できるように公開という形を取っています。

池上:今日はアール・ポップに至るまでのところを中心にお聞きできたらと思っています。アール・ポップから遡ってお聞きしていくのがお話しやすいか、関係のあるところを生い立ちからお聞きしていくのがいいか、どのように進めるのがいいでしょうか。

谷川:書いてある通りがいいんじゃないかな。

池上:では、上からいきますか。お生まれのところもお聞きして、終戦後の経験についてうかがいましょうか。

谷川:そうですね。うちはね、靴屋だったんですよ。祖父がサンフランシスコまで修行に行って。千葉県の佐倉藩の人間と大勢で靴を作るという修行を。ほら、日本では、靴がなかったでしょ。靴を作ることを目的に行って、祖父はハイヒールの作り方を習ってきたらしいです。

池上:サンフランシスコで。

谷川:サンフランシスコで、だそうです。それで帰ってきてから靴屋をやったわけですね。靴屋をやって、それで横浜で住まいと靴の工場が一緒にありまして、そこで靴を作っていた。それが祖父の時代で職人もたくさんいたんですが、僕の父親はそういうふうな靴を作れなかったわけです。職人になる体質じゃなかったみたいですね。それで東京に支社っていうか、工場の支工場みたいなのを作って。それで東京へ引っ越してきて、間もなく私が生まれたんです。引っ越しでもって、母親がお腹が大きかったんで、無理しちゃって、多少早めに生まれたらしいです。

宮田:それが1938年。

谷川:1938年ですね。2月16日です。それで生まれたのが隅田川のほとりの浜町(はまちょう)っていうところです。中央区日本橋浜町3丁目2の1だったかな……。記憶が曖昧だけど2の1だと思いましたね。

宮田:ど真ん中だったんですね。

谷川:ど真ん中っていうか、隅田川の辺ですよね。これどういうところかっていうとね、だいたいあそこらへんは明治座が近かったんで、役者とかね、それから何というかな、花柳界の人間(がいた)。芸者さんのことはよく覚えてないけど、太鼓持ちっていうのか、幇間っていうのかな、そんな人たちがうろうろしてましたね。それで新内流しを練習してましたね、あちこちで。だから粋だと言えば、粋なんでしょうね。でも、粋か、野暮かなんてそういう比較は子どもの自分ができるわけがないので。また、そこら辺は瀬戸物屋さんが多かったね。うちだけが靴屋で。前も隣も大きな瀬戸物屋だったですね。
それで、生まれて最初の記憶があってね、赤い大きな金魚みたいな、鯉みたいなものが記憶に残ってると言っていたと、母親に聞いたことがある。それは窓の外にね、「やげん堀」という唐辛子屋があって、その大きな看板があって、それを僕は、まだ生まれて間もなく見ていたらしいんだけれど、その記憶は赤い大きな金魚みたいな形で(残っている)。つまり長屋の唐辛子屋さんの唐辛子の大きな看板があったと。それは記憶にあるらしいんですよ。

池上:それは本当に唐辛子の形をしていたんですか。

谷川:そうそう。

池上:それが鯉みたいに見えた。

谷川:それが金魚だと思ったんですね、後から思い出してね。それが最初の記憶だし、最初の記憶は赤だったなぁ、と思ってね。

宮田:ご兄弟はおられたんですか。

谷川:いません。一人っ子でした。兄弟欲しかったですね、子どもの頃は。

宮田:ご親戚とかはお近くにおられたんですか。

谷川:母親の方のお祖父さん、お祖母さんがいました。洗い張り屋をやってました。着物をほどいて、洗って、糊貼って、干して、また縫うのかな。

池上:今でいうクリーニング屋さんのような。

谷川:そうですね、すぐ近くに。僕はしょっちゅう遊びに行ってました。

宮田:お父様のご出身は横浜ですか?

谷川:そうです。父親は横浜生まれでしたね。それで革でできた靴を、日本橋の三越に納めていたのかな。私の母親は三越の着物売り場の、何ていうの、マネキンと言ってましたかね。

池上:売り子さん?

谷川:売り子さんでね。

宮田:幼いときからデパートに普通に行ってたんですか。

谷川:僕は行ってませんけどね。そういう話でした。それで三越で(父と母が)知り合って。

池上:お母様はもともとそちらの方のご出身で、お父様が靴屋をされてて、知り合った。

谷川:着物の着方がうまかったんでね。呉服売り場にいたらしいんですね。

池上:お生まれになられたときには、もう日中戦争の時代で。

谷川:始まっていましたね。

池上:1941年からは太平洋戦争っていうことですけど。

谷川:そうなんだけど、うちにも靴職人がいたんだけど、一人、二人と戦地に行かざるをえなくて、だんだんいなくなっていったわけですよ。だんだん職人がいなくなると同時に、空襲なんかも始まったわけですね。

池上:小さいながらにそういう不穏な戦況っていうのは記憶にもありますか。

谷川:ありましたね。最初に母親系のお祖父さん、お祖母さんたちね。お祖父さんのほうが埼玉県の吉川町って、今は大変な大きな街だけど、その頃は田園地帯だったですね。そこの出身だったんで、最初にそこに疎開に行きましたね。一方で父親の方は、お祖母さんはいなかったんだけど、お祖父さんは頑固にね、横浜の自分のうちは焼けないだろうと。根拠はないんだけど、絶対に焼けないだろうと、だからいるのだ、と言って。それで3か所に家族が分かれるわけですよ、東京と横浜と埼玉。僕はそこら辺をあっちこっちと行ったり来たりするわけですよ。だから入学すると思ったら転校でね、転校するとまたこっちの。

宮田:小学校を?

谷川:そうそう、転々としてました。その前は日本橋の浜町にある、浜町幼稚園っていうのがあって、そこに行ってた。だから。卒業までいなかったのかな、戦争が激しくなってきて。

池上:空襲も実際に経験しておられるんですよね。

谷川:もちろん、何遍も。東京より横浜で経験しましたね。それから、一番実感としてすごかったのはね、東京から吉川町に行くのに、金町ってところがあるんですよ、葛飾区のね。金町通りに行って、金町からバスに乗る。それで、利根川の土手の上をずっと走っていくわけ。もう空襲が始ってましたからね。なぜか父親がそういうときに敏感で、わりとバスの入口近くにいたんです。そしたら空襲が来て。何か「キューーン」って音がしたんですね。つまり飛行機が急降下してくるわけ。もう制空権はアメリカだったからね、日本の迎撃機なんかいないわけですよ。好き放題に爆弾落としたり、撃ったりしてるわけ。(飛行機が)降りてきたとき、「バス降りろ!」って、運転手が言ったのか分からないけど、とにかく僕も突き落とされるようにバスから飛び降りて、さらに父親が僕を突き飛ばして、土手の下に転がり落ちた。で、そのうち、「ダダダッ」って音がして煙が上がったんですね。しばらくじっとしてて、それから上に上がっていったら、バスが燃えてる。さっきまでバスに乗ってた人たちがたくさん死んでるんですね。そんなことがありましたね。
それから、アメリカ兵を見たのも吉川町だったですね。アメリカ兵が来るんだっていうことでね、子どもだから、警察署の前まで走っていったわけです。そしたら、ソーセージみたいな人間が歩いてくるんですね。滅多に当たらないんだけど、たまに珍しくね、高射砲が当たるらしいんですよ、アメリカのB-29にね。それで(米兵が)パラシュートで降りてきた。降りてきた途端にそのパラシュートを被せられて、ハムみたいな形にさせられて、それが歩いて連れてこられたんですね。それでみんな、非難みたいな何かしてましたね。無理もないと思うんですよ。自分の息子なんか殺されてるわけですから。だから母親なんか気が狂ったように、僕の母親じゃないですよ、石なんか投げてましたね、米兵に。僕は何かね、妙な気持ちになりましたね。よく分からないですね。アメリカ兵が憎いという気持ちはあるけども、何かね、それがこんなことになっちゃってね、どうなっちゃうのかなぁ、と思って。たぶん殺されたと思うんですけどね、どっか連れていかれて。だから、アメリカ兵を見たんだけど、顔を見てないんですよね。

池上:(パラシュートで)グルグル巻きになってた。

谷川:グルグル巻きだからね、ええ。たぶんあの調子だとリンチにあったんじゃないかと思いますね。

池上:本当だったら捕虜収容所とかに連れていくはずですけども、そうならなかったかもしれないですね。

谷川:うん。それは無理もないと思うね。やっぱり自分の息子、子どもや家族を殺されてるわけだから。(アメリカ兵の)機銃掃射っていうのはね、本当は遊び半分にやるわけです。迎撃される心配がないから、帰りがけに爆弾落として、急降下してきて、そこら辺の非戦闘員を撃つわけですね。僕も一瞬でそれを免れることがあって。これは横浜での話だけど、友達と沼で釣りをしてた。ちょうどお昼になったんで、「お昼だから帰るよ」って先に帰って、友達はまだ釣れるもんだから「釣ってる」って言って、それでお昼食べて戻ってきたら、もう死んでました。

池上:そうですか。子どもでも……。

谷川:子どもながら死体をいっぱい見ました、いろいろね。もちろん、それから空襲になって、もっともっとたくさんの死体見ましたけどね。

宮田:終戦はどこで迎えられたんですか。

谷川:終戦は吉川町ですね。でも、その前に大空襲をいろいろ、あっちこっちで。横浜の空襲は「大空襲」とその前の空襲があってね。一番の大空襲のときはいなかったんだけど、前の空襲、何回か遭いましたね。その時も父親がいてね。防空壕なんかあちこちたくさん掘ってあったんですよ。防空壕っていっても、簡単な防空壕なんですよ。穴掘って、布団被せて、その上にまた砂かけらしてね。でね、「ドーン!」と音がして、爆弾っていうか焼夷弾ですね。焼夷弾って知ってます? (両腕で円をつくって)このくらいの太いやつで、長さが1メートルあって、そのまわりに小さい爆弾がずーっと繋がってるんですよ。それが空中でもってバラバラになる。それは油だからね、そうすると空中に火が点くんですよ。空気が煉瓦色になるの。怖いですよ。

池上:空中で既に燃え出すんですね。

谷川:燃え出すわけですね。

池上:それで、燃えたまま落ちてくる。

谷川:空気が熱い空気になってね、そこら中が煉瓦色になるわけですよ。そいつが一発、僕のすぐ近くに落ちてきて、不発で地面にドーンと落ちてきたね。不発じゃなかったら死んで、もういないですね、とっくに。それは横浜での話です。だから東京でも、横浜でも、その途中でも、いっぱいあって、ちょっと記憶が混乱しているけども。どこでどうしてたのか。

池上:「うちは燃えないのだ」とおっしゃっていた横浜のお家は?

谷川:もちろん燃えましたよ。

池上:そうですよね。

谷川:横浜の家も燃えたし、それから父親の兄弟は8人いたんだけど、男は2人いたのね。うちの父親は戦争に行かなかったけれど、専修大学の学生だった弟の善之(よしゆき)さん、っていうんだけど、特攻隊に志願しましたね。しなくてもいいんだけど、やっぱり、何ていうのかな、卑怯者と思われたくないという。それで結局、特攻隊、予科練っていうんだけど、最後に僕が見たのは、うちの母親のところに白い布(きれ)をもらいに来ましたね。「義姉さん、白い布をください」って言って。それでそれを振りながらね、落ちていきたいという。叔父なんだけど、大学生でしたね。やっぱり特攻隊で輸送船に突っ込むことになった。なぜわかったかというと、二人乗りなんですよ、飛行機。一人は操縦してる、操縦士。もう一人は爆弾を落とす。爆弾を落とす方は生きて帰ってきたんですよ。僕の叔父貴はね、輸送船に激突した、と思ってたんだけど、実は岩礁だった。ただ岩に。レーダーも何もないボロボロ飛行機ですからね。だから無駄死になんだけど。それも、死に方がわかったのは、後ろに乗ってた男が帰ってきたから。

宮田:じゃあ、伝えに来てくれたんですか。

谷川:そうそう、伝えに来た。(祖父は)それを聞いてね、自分の家が燃えちゃったのと、それから最愛の息子が死んじまったので、何というのかな、二重のショックでね、気が狂いました。戦後は、もうね、発狂状態がずっと続いて大変でした。

池上:お父様は招集されなかったっていうのは、単に順番がそこまで来なかった?

谷川:というより、順番じゃなくて検査なんですね、体の。甲種合格とか、乙とかってあるらしいんですよ。それで、腎臓かどこかがおかしかったんで、役に立たんということで、帰れと言われたらしい。だから、まぁ、良かったですね。あとは全部、女のきょうだいですからね。だから戦争とか、従軍とかはしなかったわけですね。

池上:戦争が終わってからもお父様は靴屋を続けられて。

谷川:まぁ、そうですけどね。その前に統制組合っていうのがあって、全部組合ですからね。全ての物は組合と配給なんですね。だから革も何でも配給。その組合に頼みましたね。

池上:それが回ってこないと靴も作れない。

谷川:そう。そういうとこ、ありましたね。で、横浜が焼け野原になって。横浜知ってるかな、どういうところか。あまり知らない? 吉野町っていうとこね、吉野町からもうちょっと先へ行くと蒔田っていうところがあるんだけど、その蒔田の辺は焼けなかったんですよね。絨毯爆撃して、もう隅から隅まで焼くつもりが、風だか何だかでずれたんですね。ずれて、余った分で、海が燃えましたね。だから海が悲惨だったんですよ。海が火の海なのね、もう熱いわけですよ。そこへ飛び込んじゃってね、全部焼け死んだみたい。横浜って、今でもあるんだけど、山にトンネル掘ってあるの、長いトンネル。そこでも随分、死にましたね。爆撃っていうのはね、落っこって来たときはサッと避けてね、防空壕からすぐ出ないと、今度は中で煙で窒息しちゃうんですよ。だから「入れー!」って言われたり、「出ろー!」って言われたりね。そんなのは覚えてますね。「出ろー!」って、グズグズしてたら窒息しちゃうからね。だから随分、幼くして、人の死というか、人が死ぬようなところにいましたね。

池上:まだ6歳とか7歳の頃ですよね。

谷川:そうですね。

池上:終わったなって感じたのはどういうときでしたか。

谷川:いや、それは安堵感はすごいですよ。

池上:いわゆる玉音放送は聞かれたんですか。

谷川:聞きましたよ。聞いたけどね、そんなことよりも、玉音放送はいいんだよ、わかんないけども。とにかく戦争が終わったんだっていうことでね。あぁ、良かった、と思いましたね。しょっちゅう怖かったですからね。

宮田:そのときのご両親の反応というか、戦争が終わった雰囲気っていうのは子どもながらにすごく伝わってきましたか?

谷川:嘆いてはいませんでしたね。もう終わったんだ、負けたんだ、ということでね。わかってたわけですよ、勝ち目なんかないのは。馬鹿々々しいくらいね。子どもでもわかってましたよ。それで、アメリカは何から何まで知っていて、占領した後にどこに占領軍が陣を張るかとかね、GHQはどこのビルに入るかとかね、全部決めてたのね。そういう情報は全くわかんないからさ。情報があれば、京都に行けば一番安全だったわけです。そういう空襲がないところに。でもそんなことわかりませんからね、一般の人間には。上層部にはわかってたかもしれないけど。

宮田:終戦を迎えられて、住まいが落ち着かれたのは?

谷川:焼け跡になってね、戦争が終わって、まだお祖父さんは横浜にいるわけですよ。しょうがないから横浜の親戚のうちの物置きみたいなところにいたのね。バラックっていうのかな。それで、そこでもってある程度の暮らしをした。でも、とにかく食べるものがなかったの、今度は。食べるものはないけどね、空襲よりはましだっていう感じはありました。それから、食べるもの探さなきゃっていうことでね。もちろん、何度も配給があるんですよ、少しだけね。同じものばっかり食べなきゃいけない。そうすると、バラエティに富んでるもの食べたいじゃないですか。そういうの駄目なの。短麺っていってこれくらいの(指で5センチ程度を示して)短い、蕎麦だか、素?だかわかんないようなのくれる。塩もない、何もない。ただ水があって、それを茹でて、食べるんですよ。おかずもない。このまずさっていったらない。とにかく飲み込んでるわけです。それで、何かないかなぁ、と思って。でも、アメリカ軍が来始めてね、横浜はキャンプばっかりがこう、ずーっとできるわけですね。アメリカ兵がウロウロしてる。それで、誰が始めたか知らないけど、子どもたちがみんな兵隊について歩いて、それで「ギブ・ミー、ギブ・ミー」やってる。じゃあ、あれやろう、と思って、僕も追っかけていって、「プリーズ・ギブ・ミー・キャンディー!」とかね。「プリーズ、プリーズ!」やってるわけです。すると、まとわりついて面倒くさいもんだから、ポケットに入ってるもの放っぽり投げてくれる。あるとき、「煙草をもらった!」って叫んだ奴がいるのね。

池上:子どもにくれたんですか。

谷川:そう、3本くらいくれたんですよ。ラッキーストライクです。「お、格好いいじゃん」とか言って(笑)。マッチ持ってる奴がいてね、ピャッとこすると点くやつね。「吸ってみよう」ってなって。だけど、ギャンギャンにむせてね、苦しかったです(笑)。

池上:子どもにあげちゃ駄目ですよね(笑)。

谷川:それが初めての喫煙の経験でした。でも、とにかくお菓子はくれるんですよね。お菓子はお腹いっぱいにならないんだけれど。ガムとかね。ガムなんか、初めは食べるもんだと思って、飲んじゃったりして。

宮田:そうですよね、わかんないですもんね。

谷川:うん、わかんないですよ。

池上:それがやっぱり、「最初に触れたアメリカ」っていう。

谷川:「アメリカ」でしたね、ええ。そのときに僕がびっくりしたのがね、キャンディーとかチョコレートのパッケージの美しさね。美しさっていうか「ポップ・アート」ですよね。とにかく、何ていうのかな、なんでこんなに色彩が鮮やかなんだんろう、と。つまり、焼け跡っていうのは赤錆びているわけですよ。たちまち雨が降るからね。赤錆びてきて。草は生えますね。そういう中で、やっぱり鮮やかな人工的な色なんですよ。普通の子どもはパッケージなんか興味ないわけですよ。食べたら捨てちゃう。僕は急いでそれを拾って、こう伸ばして(くしゃくしゃになった紙をのばす仕草をして)、持ってましたね。

池上:ラベルとかロゴとか、そういうデザインもやっぱり素敵でした?

谷川:そうですね、ええ。アメリカのデザインっていうのは…… (当時は)「デザイン」って言葉も知りませんよ。ただね、アメリカの兵隊で横浜にいたのは、第8軍っていう陸軍と、それから第7騎兵隊っていうのがいたんですよ。それは後でわかったんだけどね、8軍っていうのは八角形の赤いフェルトの地の上に白い十文字の形が。それが第8軍で、陸軍だったと思います。それから第7騎兵隊っていうのは黄色の馬蹄形の中に黒い馬がいる。黒いシルエットなんです。その2つの軍隊が大量にいましたね。

宮田:「アメリカ兵に会ったよ」っていうのを家で話したりすると、ご家族に怒られたりしました?

谷川:いやいや、家族もアメリカ兵見てるもん。そこら中で歩いてる。

池上:別に「お菓子もらっちゃ駄目」とか、そういうことは言われなかった。

谷川:言われませんし、言わないし。とにかく毎日、キャンプに行ってました。有刺鉄線の向こう側を見てるわけです。隙があったら何かもらおうと思ってるんだけど。隙が無くてもおもしろい。比較文化論やってましたね、わからないながらも。なぜここまで違うのかな、と。つまり、僕らはしょっちゅう躾けられていたでしょ。だから、食事中、「ごはん食べているときはしゃべるな」、「歩きながら食べるな」。それがさ、アメリカ人はガム噛みながら門番してるわけじゃないですか、ゲートのね。将校が来ればこうやって(敬礼をする仕草をして)やってるわけだけど、それも行っちゃったらすぐにガムをガーって口に入れる。こっちの方ではね、休憩中の米兵が真っ裸になって日光浴しているわけ。反対の隅じゃあ、いわゆるパンパンガールですよ。日本人の娼婦と接吻している。なんかね、訳がわからない風景が展開しているわけですよ。自分が見てきた日本人の暮らしとは全く違う風景がね。こっちは、「ふーーん」ってなもんですよ(笑)。

池上:日本的に言うとお行儀が悪いっていう。

谷川:行儀が悪いっていうか、随分違うんだなぁ、と。

宮田:そこから小学校に通われたのはすぐですか。

谷川:そうだけど、小学校は行きませんよ。小学校なんか行ってもお腹の足しになりませんからね。だから、そういうところ行って、何かもらえるチャンスを待つ。そうこうするうちに、チャイナタウンに行くようになったんですよ。

宮田:どれくらいかかるんですか、お家から。

谷川:結構かかりましたね。でも歩いてなんか行きません。その頃、オート三輪ってね、リヤカーにモーターが付いたやつがそこら中、走ってるわけ。アメリカはみんなジープですよね。日本人が乗ってるのはオート三輪。それをね、後ろから忍び寄って飛び乗るんですよ。

宮田・池上:(笑)。

池上:誰かが運転しているやつに。

宮田:ばれないんですか。

谷川:ばれたらすぐ飛び降りる。

宮田・池上:(笑)。

谷川:すばしっこかった。

池上:たくましい(笑)。

谷川:なんとなく方向を(見極めて)。たぶん自分の知恵じゃないと思う。聞いた話だと思うんだけどね。その頃、チャイナタウン、って言わない。南京町って言うんですよ。「南京町には食べ物があるんだ」と。そうかと。

池上:ありました?

谷川:ありましたよ。それで、行くとね、やっぱり華僑の子どもが遊んでるわけ。そのいろんな遊びを見てるとね、仲間に入れてくれる。入れてくれてね。覚えてますよ。今でも聘珍楼(中華料理店)ってあるでしょ。聘珍楼の、もうとっくに死んじゃっていないけど、その頃おばあちゃんがいましてね。おばあちゃんがチャーハンか何かを握り飯にしてくれるんですよ。それがうまかったねぇ。

池上:嬉しいですね。

宮田:おいしそうですね、それは。

谷川:味しめてね。それがね、なかなか遠いんですよね。数時間かからなきゃ到着しないですね。でも、お腹空いてるから。どうせうちへ帰ってもさ、おいしいものないわけでしょ。

宮田:結構、通われたんですか。

谷川:通いましたね。その日によって成り行きでさ。キャンプに行っちゃうときもあるし。

宮田:それは何人かお友達と?

谷川:いや、ひとりでした。

宮田:ひとりで、すごい。

池上:勇気がある。

宮田:冒険ですね。

谷川:冒険ですよね。楽しかったのはね、ジュライ・フォース(7月4日)ですよ。アメリカの建国記念日。キャンプに入れてくれるんですよ、子どもたちを。

池上:そこでサービスというか、いろいろな催しがあったり?

谷川:そうですよね。戦車なんか乗っけてくれましたよ。「おお、格好いい、格好いい」なんて(笑)。喜んで戦車に乗ってね。別に動かないけど、戦車の中、見ましたよ。

池上:キャンプがそばにある一方で、いわゆる大衆文化もどんどん入ってきますよね。漫画だったり、映画だったり。

谷川:そう、そう。映画は観なかったけどね、漫画はよかったね、やっぱりね。

池上:漫画はどんなものがお好きでしたか。

谷川:好きとか、嫌いとかないですよ。もう、あるものしかない。記憶にあるのは『ブロンディ』(チック・ヤング/Chic Young)ですよ。

池上:あの金髪の奥さんの。

谷川:大人の漫画ですよ、あれね。

宮田:どういうふうに手に入るんですか。

谷川:くれるんです、ポーンと。

宮田:読み終わったのをポーンと。

谷川:放り投げてくれるからね。タックルしてひったくるわけです(笑)。

池上:やっぱり取り合いですか、周りの子どもと(笑)。

谷川:そう、そう。

池上:『ブロンディ』はどんなところが魅力的でした?

谷川:やっぱり冷蔵庫ですよ。冷蔵庫の中にびっしりハムなんかが入ってて、何てすごいんだろう、と思って。

池上:宝の山ですよね。

谷川:すごいですよ。宝というか、夢の世界ですよね。アメリカの格段上の文化っていうか、違い。貧富の違いっていうのかな。それをやっぱり、ダイレクトに見れたね、横浜は。地方にいたんじゃ、それはわかんないと思うんですよ、ジワーッと戦後が来て。プラスチックに変わったわけですから、世界が。

池上:映画もたくさん上映はされてたと思うんですけども、谷川さんは特に?

谷川:映画は、映画館ができるのはね、もっとずっと後ですよ。マッカーサー劇場(注:マックアーサー劇場、横浜)とかいろいろありましたけどね。

池上:それは終戦直後ではなくて、1950年代に入ってからですか。

谷川:そうですね。かなり経たないと、映画館なんかちゃんとできませんよ。

池上:映画館ができてからは映画もご覧になってました?

谷川:観ましたよ。

池上:どういう映画を?

谷川:海賊の映画、多かったなぁ。

池上:海賊? アメリカの映画ですか。

谷川:アメリカの映画です、もちろん。日本映画なんかやってなかった。

池上:そうですか。

谷川:何だかよくわからなかったけどね。それはたぶん、かなり後になってからかもわかんない、映画はね。映画館なんてなかったからなぁ。

池上:もっと中学生や高校生になってからですか。

谷川:そうね、かなり経ってからだと思うね。中学生にはなってなかったと思うけど。そんなことやってるうちにだんだん食生活もよくなってきて、学校も行くようになって。

宮田:学校に行くようになったのは何年生くらいだったんですか。

谷川:行ってないけど、就学はしてましたよ。

宮田:子どものときに、学校が中心になってきた時期っていうのは? 

谷川:2年生過ぎてからかなぁ。

宮田:その頃、同じクラスの人数ってどれくらいだったんですか。

谷川:結構、多かったよ。

宮田:わんさかいる感じですか。

谷川:わんさかいたね。汚い連中が。俺も汚かった。

一同:(笑)。

宮田:その頃、普通に教科があったんですか。国語とか、算数とか。

谷川:あったような気がするなぁ。それから、教科書に墨が塗ってあったことがあったなぁ。戦後の新しい教科書ができる前ね。

池上:戦前の教科書なんだけど、ちょっとよろしくないというところに線が引かれてあるという。

谷川:そう、そう。もう本当に、グルッと変化しましたからね。(戦時中は)学校への入り方もさ、まず入ると、すぐ右側と左側に天皇の写真が飾ってあるところがあってね。それに最敬礼する。それから入れるわけですよね。

池上:それが終戦後はそうではなくなって。

谷川:終戦後は、というより敗戦後だけど、全然、変わって。そこら辺の記憶はよく覚えてないなぁ。

宮田:その頃、絵を描いたりされてたんですか。

谷川:絵はね、焼け跡で…… つまり焼け跡の方が建ってる家よりもずっと多かった。焼け跡で遊んでたんですよ。焼け跡っていうのはね、これも何回かエッセイに書いてるんだけど、おもちゃの宝庫なんだよ。おもちゃっていっても、いわゆる子どものおもちゃじゃなくて、何か見立てにするんですよ。壊れたりなんかの道具がいっぱいある。変なものがたくさん。それを犬に見立てたりね。例えば、壊れたミシンを見つけて、そこに縄付けて引っ張って歩いてました。名前付けたりして。

池上:「ごっこ」をされてたっていう。

谷川:そう。わけのわからないものもあってね、じーっと見て、何かにしたりね。それがね、これも後になってこじつけ的なんだけど、最初の「オブジェ感覚」だったかなぁ、と。だから、アメリカがくれたパッケージや何かがポップ・アートというか、色彩のひとつの原型だったのかなぁ、と思ったりしたのと、焼け跡で見つけた、焼け跡から出てきた壊れた道具が、何となくオブジェの…… 「オブジェ」っていう言葉なんかなかったけれどね。(参考:著書「オブジェクトからサブジェクトへ―今日のオブジェ概念―」(1978年10月)『アール・ポップの時代』皓星社、1979年、pp. 295-299)

宮田:ひとり遊びが多かったんですか。

谷川:いや、2、3人いましたよ。

池上:ものを作ったり、絵を描いたりするのが好きだという自覚はありましたか、当時。

谷川:ありません。でも、僕、焼け跡でもってね、鉛筆の芯の塊を見つけたんですよ。こんなに(片手を広げて)ガバッと。たぶん、机の引き出しか何かに鉛筆がたくさん入っていて、それが燃えちゃって、芯だけが残ったんだと思う。

池上:炭化した部分が。

谷川:うん。紙も多少はあったのかな、どっかにね。それから芯を友達に配ってね、いい顔になって。

一同:(笑)。

谷川:何か描いてた。

宮田:描く喜びみたいなのは、やっぱりあったんですか。

谷川:喜びっていうか、筆記用具なんかないからね。だから、「道具を見つけた!」というかね。描く喜びとか、そういうものじゃないんだね。とにかく、「生きている証」みたいなもんだねぇ。

池上:じゃあ、絵の世界や美術みたいなものに最初の触れたときっていうのは、どういうものだったか記憶にありますか。

谷川:だからアメリカのコミックスですよ。美術という概念はないけれど。

池上:表現された世界。

谷川:表現、そう、そう。

宮田:モノクロだったんですか、当時。

谷川:いや、カラーです。

宮田:カラーでしたか。じゃあ、結構、強烈ですね。

谷川:僕はうちに日本画があったのは覚えてますよ。でも、それは何だか、ちっとも惹かれなかったけどね。後で親父に聞いたら、伊東深水とか何とか言ってましたけど。よくわからない。

宮田:ご家族で美術に関わるっていうよりは、職人さんというか、ものづくりのほうに関わってる方が多かった?

谷川:もちろん、そうですね。美術の気(け)なんかなかったですよ、うちに。だから、絵描きになるって言ったときに、突然変異みたいな感じだった。僕だけだな。いないですから。誰もその気は。

池上:中学でしたか、高校でしたか、美術部に入られたんですよね。

谷川:中学のときですね。

池上:じゃあ、それまで、全くそういう世界との関わりがなかったけれども、美術部に入ろうと思われたのは?

谷川:好きだったからですね、やっぱり。

宮田:美術に出会ったのは中学生くらいのときなんですね。

谷川:そうですね。田舎の吉川町と横浜の両方なんだけど、両方から引き揚げてきて、船橋の下総中山っていうところに家を買ったんですよ。これはどうして買ったかっていうとね、戦後に、親父が空襲の最中に助けた、助けたっていうか焼けないようにした革がたくさんあったんですね。靴の革。それを売ったらしいんですよ、どうもね。

宮田:それで家が買えちゃうくらいの。

谷川:買えるくらいの。

宮田・池上:すごいですね。

谷川:すごいですよね。闇市か何かで売ったのかなぁ。よくわからないけど。それで家を買ったんで、疎開から引き揚げてきて、初めて下総中山というところに行ったんです。なぜ行ったかというと、うちの親父がギャンブラーだったからです。競馬場が近い。

池上:そういう場所なんですね。

谷川:お祖父さんも好きだったのかな。お祖父さんが気が狂ってから、競馬なんか復活してないのにね、うちの親父が宗之(ムネユキ)っていうんだけど、お祖父さんが「宗之、競馬に行く!」とか言って。逆らえないわけですよ、頭おかしいからね。「じゃあ、行きましょう」って行くわけです。でね、どこかわかんないけど、アメリカの関係のキャンプにはバッテンの看板が付いてるところがあるわけ。それで、「お父さん、今日は休みですよ」って言って帰ってくるんだけどね。

池上:わざとそういう違うところに連れて行って。

谷川:そう。それでね、一番最初の、先代の鳩山一郎か何かの後援会に加わったらしいんですよ、お祖父さんがね。それで、趣味が組閣なのよ。子どもながら、また始まった、と思ってたんだけど、「宗之、紙と筆、持ってこい!」。自分は座っているわけですね。それで、「総理大臣、鳩山一郎!」って。それで、あと何かよくわからないんだけど。あとはそこら辺にいる人間になっちゃうわけです、一通りね。

池上:大臣を任命していくっていうような。

谷川:そう、そう。親戚とかね、職人とかね、知ってる人からみんな。で、「終わった。よし!」って。それだけ。それがね、わりと頻繁にそういうことするんです。

一同:(笑)。

谷川:変な感じだったなぁ。頭おかしいからしょうがない。

宮田:千葉で小学校に転校されたんですか。船橋にお住まいのときに……。

谷川:そう。だから船橋にいたときは、もう小学校4年生のときだったかな。4年から来て、下総中山だから、学校は市川市だったけども、家の住所はギリギリの船橋市だったね。

池上:それからまた目黒の方に引っ越して。

谷川:そうなんですね。それが全部、親父のギャンブルのせいなんだけどね。中山競馬場っていうのがあってね、そこでもって、なぜか知らないけれど、騎手と知り合ってね。その頃、喫茶店がなかったしね、コーヒーが必要だったんですよ。なぜか親父がパーコレーターを持っていて、朝、ポコポコ、コーヒー沸かしてね。それで、外から馬の蹄の音がするわけです。タカッ、タカッ。何だろうと思ってると、庭に竹の垣根があって、その垣根の向こう側に馬の首が3つくらい並んでいる。競馬場の近くだから、馬を調教するために乗ってくる。で、うちへ来て、降りる。それはコーヒーを飲みに来てるわけ、騎手が。すると親父が赤と青の鉛筆を舐めながら、(競馬の結果の)予想を聞いてるの。

池上:騎手本人から(笑)。すごいですね、コーヒー一杯で聞けたら。

谷川:すごいですよ。

宮田:おもしろい(笑)。馬の顔が並んで。

池上:それと目黒に越されたっていうのと関係してくるんですか。

谷川:そうそう、博打でもって夢中になってるうちに、せっかく家も買ったし、小岩に靴の工場も作ったんだけど、だんだん失うわけです。それで目黒に移った頃ね、僕は攻玉社(高等学校)っていう、小杉(武久)と同じ高校に入るの。うちの靴は日本橋の丸善で売ってたんですよ。丸善の靴の売り場に一応、権利みたいなのがあったのかな。そこで注文を取ってね、うちの工場(こうば)で作って、ということなんだけど。工場なんてとっくにない。あるふりをしてるわけです。注文を取るとね、うちの親父がどうも駄目なので、お袋に頼まれて僕がいろいろ情報を聞いて。浅草の聖天町あたりに独立して靴を作ってる職人がいるんですよ。そういうところに行って、頼んでくるわけです。

宮田:高校生のときに?

谷川:そうです。

宮田:仲介というか。

谷川:だから、もう学校も半分くらいにして。親父が丸善にいるからね、注文を取ったものを、足型とかいろいろ測ってから浅草へ行って注文して。その往復のときに、初めて美術というものを知ったわけです。そのおもしろさ。これは覚えてますよ。丸ビルの廊下で展覧会してるのを観た。これが駒井哲郎だったんです。駒井哲郎のエッチングの展覧会だった。画廊じゃないの。廊下。あぁ、おもしろいものがあるってね。駒井哲郎の四角い形が、ちょっと歪んだ形が重なってるやつを、なんとなく春めいた感じがしたのね。つまり、それは実際の外部の春よりも、自分の中にこういう世界が、春が来た、みたいなね。それがわりと強い記憶になりましたね。だから駒井哲郎が好きとかそんなことじゃなくて、あ、いいものだなぁ、という感じがね(注:東京駅前丸ビルヂングは地上9階、地下1階。2階にあった中央公論社画廊では1953年9月に駒井哲郎が出品した「創作版画5人展」が開催された)。

池上:作品に触れたっていうのは、それがほぼ初めてのような感じですか。

谷川:そうですね、自覚的に触れたのはそうですよね。

宮田:中学生のときに美術部に入っていた、絵はもう描かれてた?

谷川:描いてましたね。中学校のときはそうでしたね。中学校のときに美術の先生がいたわけですよ。村尾っていう先生だったんだけど、「モタオ、モタオ」って言われてね。本当になんかモタモタしてるわけですよ。

一同:(笑)。

谷川:変なんですよ。プールで泳いでるところ見てもね、普通、男の海水パンツじゃなくて、ほら、ワンピースの着てね、なんかおかしいんです。止めてほしいのに。

一同:(笑)。

谷川:一向に頓着がない。あぁ、これが絵描きってものかぁ、と思った。美術部の控室っていう狭ーい部屋があったんですよ。そこに中綴じの『美術手帖』(美術出版社)なんかあったのね。中綴じの頃です。エコール・ド・パリなんかあったかな。

池上:特集を見た。

谷川:福島繁太郎(美術評論家)のエコール・ド・パリとか、印象派時代とか、一連の、そういう本が初めて出回った頃にね。

宮田:そういうのって中学生で読んでわかる感じでした?

谷川:絶望的になりましたよ。だってさ、モディリアーニとかユトリロとかさ、みんな、ものすごい貧乏じゃないですか。駄目だ、こりゃ、と思った。

一同:(笑)。

谷川:飢え死にするほどのさ。

池上:そういうのを興味あって読んでる中学生も珍しい時代ですよね、おそらく。

谷川:それはあったから、そこにね。

池上:同好の士というか、それを一緒に見るお友達とかは特にはいなかったんですか。

谷川:あぁ、いたんですよ。ひとりね、渡辺君っていって、死んじゃいましたけどね。ここ(伊豆の自宅)に来たことあります。その人は絵描きを志向しなかったですけどね。だけど、仲が良かったですね。どうもね、成功談を読んでなかったんですよね。成功した話がないわけです。

一同:(笑)。

谷川:なぜ、こうみんなね…… とにかく、エコール・ド・パリを観たのがいけないですね。

宮田:中学生のときには、絵はどういう絵を描いたんですか。水彩画ですか。

谷川:水彩ですね。水彩とか、コンテで描いたりなんかしてましたね。デッサンみたいなね。

池上:学校の発表会で発表したりとか、そういうこともありましたか。

谷川:そういうのはなかったですね、発表会なんてね。でも、そのモタオさんが好きでね。モタオのうちに遊びに行ったりなんかしてましたね。

池上:その先生が褒めてくださったりとか。

谷川:褒めてくれるんだか、よくわからないんだけど。なんとなくね、彼が発散してるものが好きだったんです。ちょっと間が抜けてるような。

宮田:モタオ先生はどういう絵を描いていたんですか。

谷川:普通の風景画だけど、それがなかなかね、よかったかな。それでね、目黒に住んでた話したっけ。目黒に住んでたときに、それは叔母さんの家なんだけど、半分借りてうちの一家が住んでた。で、窓の外に二間くらい土地が下がって低い道があった。そこに古い家が建ってて、桃の花が咲いていて。絵が好きだから、それを僕は描いてたわけですよ。そしたら、禿げたおじいさんが帽子被ってきてね、「コーちゃん」って呼ぶんです。「コーちゃん、絵好きなのか」って。「うん」ってったら、「うん、そうか。いいもの見せてあげるから遊びにおいで」って言ってくれたんですね。行ったら、よくわからなかったんだけど、石膏像みたいなのがあるわけですね、いろいろ。パルテノンのレリーフとか言ってましたけど、子どもにはよくわからないわけです。なんだかわからないものがあるなぁ、と思って見て。それでときどき、おじいさんが叫んで呼ぶわけですよ。「桃に袋かけるから手伝ってくれ」とかって。「はい」って言って、よく手伝ってたね。あるとき、渡辺君っていう友達と2人でもって手伝って。そしたら、「やぁ、今日はありがとう。お菓子を食べよう」って言ってね、家に入れてくれた。そしたら、何か描いてるわけ。鉛筆画のデッサンみたいなね、裏に描いてある。大隅為三っていう人だった。この人は古渡更紗っていうんだけど、古く渡ってきた更紗。古渡更紗の研究家だった。それでパリに行ったことがある。絵は、エドガー・ドガの弟子だった。

池上:へー、すごい人がご近所に。

宮田:さすが目黒。

谷川:そうそう。そんなのわからないわけ、我々はね。そうしてるうちにデッサンもらったんです。それが(山本)芳翠のデッサンでね、今、神奈川県立近代美術館にありますよ、僕が寄贈したの(注:《馬頭街》制作年不詳、鉛筆、昭和60年度寄贈、『神奈川県立近代美術館所蔵品目録 1982-1991』1991年、cat. no. 116, p. 160[図版掲載なし])。

池上:えー!

宮田:ずっと持ってたんですか。すごい!

谷川:ずっと持っててね。あるとき、酒井(忠康)さんに「芳翠ないの?」って言ったら、「ない」って言うからね。「デッサンもない?」って言ったら、「ない」って。「俺、持ってるよ」なんて言ったら、「えー!」ってなんて言うからね、「寄贈しようか」って言ったら、「本当か?」なんてね。それでね、その頃、まだ学芸員だった水沢(勉)が飛んできてね、「これ(書類)書いて」って、慌ててさ。

池上:気が変わらないうちにもらっちゃおうとか(笑)。

谷川:そう、そう。そんなのもありますよ。

池上:すごいですね。

谷川:そうなの。その価値がよくわからないわけですね。それは僕も一枚。渡辺君はどうしたかわからないけどね。

池上:いいものをもらいましたね(笑)。

谷川:いいものもらったっていうことは全然、理解できないわけよ。ただそれを引き出しの奥にしまっといてね。かなり大きくなってからね、また見つけたわけですよ。で、裏に「大隅為三」って為書きがあったんでね、これは大したもんじゃないかな、と。だからちょっと余分があったんですよ。(デッサンは)鉛筆なのに、筆で描いてる。真っ黒々とね。裏表に絵を描いてあるのに、半分、それで駄目になっちゃってるわけ。

一同:(笑)。

池上:それはちょっと残念ですね。でも描いた本人は立派な人である。

谷川:中国のスケッチだったですね。で、そこにじいさんたちがいろいろ遊びに来ているわけです。後で知ったんだけど、それが(洋画家の)和田三造とか、山下新太郎とか、そうそうたる連中だったんですよね。

宮田:よくそのお家には行かれたんですか、その後も。

谷川:その価値はわかんないからね、呼ばれれば行くわけです。「手伝え」とか言われれば手伝う。

宮田:谷川さんが描かれている絵を見て、指導みたいなこともあったんですか?

谷川:近くにいたからね。そしたら、「コーちゃん、ちゃんと習ったほうがいい」って言うわけです。ちゃんと習うって意味がわからないわけですよ。「うちにカイヒトヨという人が来るから、教えてもらいなさい」。渡辺君に「行くか?」って言ったら、「行く」って言うんですね。池袋モンパルナスってあったでしょ。あれと同じような作りが桜台(練馬区)にもあったんです。そこの一室に住んでたんですね。甲斐仁代(1902-1963)っていう。

池上:カイヒトヨさん。どういう漢字ですか。

谷川:これは(東京)国立近代美術館にも作品ありますよ。カイっていうのは甲斐の国の「甲斐」ですね。それからヒトヨは「仁(ジン)」・「代(ヨ)」って書きます。僕、この間、……(谷川さん、席を立ち作品を取りに行く。箱から絵を出す)。

宮田:絵を持っているんですか。

池上:わぁ、すごい。作品が出てくるとは!

宮田:絵はもらったんですか。

谷川:これは去年くらいに買ったんです。

池上:1952年って書いてありますね。

谷川:これ買ったの。古本屋が出してるカタログってあるでしょ。あれ見てたらね、これが載ってたんだよ。

宮田:載ってたんですか、へー!

池上:1952年に谷川さんがこの方に絵を習って、この絵自体は1961年って書いてありますね。

宮田:わざわざ思い出のために。

谷川:いい絵でしょ。

宮田:本当だ、優しい。

池上:素敵ですね。

谷川:目黒の自然公園、今、(目黒区)美術館がありますよね。あの裏に町医者が住んでたんですよ。杉浦先生っていってね。うちの母親が頭痛持ちだったの。強烈な頭痛なんで、もう始まると、すぐに呼んでくるんですよ。呼んできて、注射打ってもらうと治まるんだけど。その頃、電話がなかったもんで、僕が飛んでいって。その先生が僕にスキラ判の画集見せてくれた。「絵が好きだろ」って言うからさ、「これも見てもいい」なんつってね。あぁ、いいもんだなぁ、と思って見てた。

池上:それは、画家としてはどういう?

谷川:画家としてはロートレックとかさ。

池上:いろんなシリーズで出てるんですよね。

谷川:いろんなシリーズです。スキラ判のね。その頃、みんな貼ってあるやつだね。

池上:そうですよね、(図版が)ペタってなってるやつですよね。

谷川:貼ってあるんです、絵(の図版)がね。

宮田:周りの人がいろいろと、美術の道に導いてくれて。

谷川:そう、そう。その杉浦先生が、裏にいる大隅先生がどういう人かっていうのを説明して、そういう人がいるんだ、と思って。その甲斐先生っていう先生のところに習いに行ったんですよ。「習いに行け」って言うからね。でも、やってるうちに、風景画描いてたら、「コーちゃん、駄目よ」って言うのね。「絵と筆、貸してごらん」って言う。渡すと直すわけね。なんで直しちゃうんだ。全然、自分の絵と違ってくる。それが嫌でさ。どうしよう、と思ったんですね。で、一週間考えてね、「先生。僕、絵描かなくても見てるだけでいいから」って言ったんですよ、先生の後ろでね。それもおもしろかったんでね。それでいいっていうことになって。直されて、絵が変わっちゃうのは嫌だと思ったんだね。

池上:でも、それをそのまま言うのは少し言いづらいですもんね。

谷川:うん。でも、半分子どもだから、すぐ言ったんだろうね。ちょっと、どうもなぁって感じでね。

池上:じゃあ、「直されるのが嫌なんです」ってふうにおっしゃったんですか。

谷川:そう、そう。そしたら「うーん」って言ってね、そうこうするうちに……。僕、(本の)最後に書いたんですよ、「甲斐仁代先生の思い出」というのを(「付録 甲斐先生の思い出」『毒曜日のギャラリー』リブロポート、1985年、pp. 187-192)。甲斐さんは、たまに(公募団体展に出すために)100号くらいの描くんですよね。それで一水会に出すのとか、日展に出すのがいいって言うからね、「権威主義的な公募展なんかくだらないから、止めるべきです」って言ったらさ、最後に、怒っちゃってね。

池上:谷川さんがおっしゃったんですか。

谷川:うん。

池上:そのときから日展はくだらないと思ってらした。

谷川:そう。だから、「日展とか、一水会とか、くだらないのやめなさいよ」って言って。せっかくいい絵、描いてるのに。そしたら「あなたは新しい時代の人なのね」って言うんだよね。「私は私の好きなようにやりますから、あなたはあなたで好きなようにいきなさい」って。それ絶交の言葉だったんですね。

宮田:どのくらい通われたんですか。長く通われた?

谷川:いや、1年通わなかったですね。

宮田:中学生のときですか。

谷川:高校に入ってからですね。それで絶交されて。

宮田:ショックでしたか。

谷川:しょうがないと思った。それっきり。翌朝になってから後悔したんです。それ(『毒曜日のギャラリー』)にも書いたけどね。謝ればよかった、と思ってね。

宮田:でも、高校生だったらわからないかもしれないですね。

谷川:申し訳ないことしたと思って、謝る機会もなく死んじゃったけどね。

池上:でも、その頃から既に方向性の違いがあったということですよね。

谷川:それで、僕は以前、名古屋の河合塾に教えに行ってたんですよ。版画教室だったんで、ひとりじゃできないから、山本容子さんを呼んだんですよ。まだ売れてなかったからね。彼女と一緒にやってたんだけど、彼女が技法、テクニックをやって、僕は専ら美術に関してあれこれしゃべってたんだけど。それで名古屋のホテルに泊まったんです、ビジネスホテルみたいなとこに。朝、そこで朝ごはん食べてたんですね。山本さんはまだ来なかったから、僕は食べていて。そしたら何となく懐かしい色合いが目に飛び込んできたのね。見たら、甲斐さんの大きな絵だったんですよ。もう2、30号のね。おぉ、先生の絵か、と思って観てね。

池上:ホテルのレストランにあったんですね。

谷川:ホテルにあったんです。それもずーっと後年ですよ。でも、その頃はもう死んじゃって、いなかったんです。

宮田:でも、そうやって一目でわかるものなんですね。

谷川:すぐわかる。すぐわかりました。

池上:再会したような感じで。

谷川:すぐわかりましたね。懐かしいオレンジ色を使ってましたね。そういう絵が売れたんです、わりとね。売り絵じゃなくて、これ(購入した作品)を、小さい大きさでたくさん描いてましたね。なかなかいい絵ですよ。

池上:確かに、暖色がすごく素敵です。

谷川:こんなのが大好きだったんですね。

宮田:中学生から高校生に上がるときは、その地域の学校に行くのが普通という感じで?  それとも、わざわざその学校がいいと思って高校選ばれたんですか。

谷川:いや、勉強ができないからね、一番入りやすいとこに行ったのね(笑)。すぐ近くにあったんでね。その頃はさ、駄目なやつが行く学校だったの。駄目なやつが行くはずなのに小杉がいたのよね。小杉も駄目なやつだったんだ、きっと。(参考:「小杉武久」(1982年10月)『毒曜日のギャラリー』pp. 28-34)

一同:(笑)。

谷川:懐かしいんです、甲斐先生は。おかっぱでね、女の先生だから。おかっぱで、酒飲みで。

池上:酒飲みなんですね(笑)。

谷川:そう。で、震えてくるんですよ、アル中で。

宮田・池上:えー!

池上:こんな穏やかな、温かみのある絵を描いているのに。

谷川:小説家の林芙美子と吉屋信子と仲良かったんですね。旦那がいたんですよ。旦那が不実でね、女中さんに孕ましちゃったらしくて、酔っぱらってくるとその話を何度聞いたかわからない。酔っぱらうとそれが始まるわけですよ。

池上:うーん、恨んでるんですね。

谷川:恨んでるわけですよね。

宮田:高校生のときに(笑)。

池上:いろんなことを(笑)。

谷川:そう、そう。「コーちゃん、お酒!」って言うから、僕がひとりで焼酎を買ってくるわけですよ。

池上:お酌まで(笑)。

谷川:焼酎買ってくるとね、キュウリ揉み作ってるわけです。猫がいっぱいいるんですよ、その辺。きゅうり揉みはいいんだけど、猫の毛が入ってるんだよ。

一同:(笑)。

谷川:食べながら愚痴を聞いて。

池上:高校でも美術部に入られたんですか。

谷川:高校で美術部に入ろうとしたんだけど、先生があんまりひどい先生だったんで。絵を観たらね、なんじゃ、こりゃあって思って。

宮田:じゃあ、入らなかったんですか。

谷川:辞めたの。

宮田:美術の授業はあったんですか。

谷川:ないです。

池上:じゃあ、その後は独学じゃないですけども、ご自分で好きなように。

谷川:そう、そう。(鉛筆を持ってモチーフを測る仕草をして)これやっても、と思って。それで(東京)藝大に入ろうと思ったんだけど、自分でこうやって、手のデッサンをたくさん描いたんだけど、僕はまったく受験校(予備校)みたいなものに行かなかったのに、受験っていうのはどういうデッサンがいいのかっていうのを知らないまま受けたわけですから、全然間に合わない。出来上がらないうちに時間がきちゃって。まぁ、駄目だ、これは、と思って。小杉も同時に、その一回は落っこちたのかな。小杉は浪人したけど、うちはもう浪人している経済的余裕がないからやめて。やめようと思った。で、働こうと。

池上:受けられたのは東京藝大ですか?

谷川:藝大だけです。

池上:じゃあ、おうちの家計を助けるためにまずは働いて。

谷川:そうですね。とにかく、そのとき思ったんですが、右手で絵描いて、左手でもって稼ぐ仕事を何かやろうと思った。何できるかな、と思ったけど。その頃ね、新聞見ると、「ナントカ募集」っていうのいっぱい書いてあったんですよ。今と違ってね、溢れるほど募集広告が出てる。その中で見ていると、職種のベーシックなやつがいいなと思ってね。僕はわりと料理が好きだったんで、これはやってみようと思って。それでまず、料理人になろうと思って。

池上:フランス料理のところでも修行されたっていうふうに略歴で見ましたけども。

谷川:そう。最初は普通の食堂で。洋食の食堂ですよね。それを親父が勤めてた会社にそういうレストランがあって、そこのマネージャーみたいな人のとこ行ってね、どこか紹介してくれって言って、紹介してもらったところに行ったわけです。で、有楽町の「エーワン」っていうレストランがあって、そこに入って初めて、料理始めたんですね。そしたら料理はおもしろいんだけど、ものすごい長時間労働なんですよ。朝7時頃から夜の10時半くらいかなぁ。

池上:大変ですね。

谷川:そう。で、休みは毎週なくてね。これは大変だなぁ、と思って。でも、料理そのものは見てておもしろかったですね。これじゃあちょっと、もう限界だなぁ、と思って、もうちょっとしっかりした料理を習いたいと思って、それで八重洲口にホテル国際観光っていうのが古くからありました。椿山荘の系列会社だったかな。そこが経営している、そこがフランス料理だったんです。

宮田:コックさん以外にもお仕事されたんですか。

谷川:やりました。コックやってるときはね、働けばいいと思ったけど、しまった、と思うことがあったんです。これは大変な誤算だと思ったのは、絵を描くことに対しては、別に教わらなくても、ひとりで十分だと思ってたんだけど、大学行かないってことは、つまり、仲間がいないってことなんです。とにかく何の情報も入ってこないわけです。だから休みの日は目一杯、小杉に会ってもらうことにして、小杉からいろいろ情報を聞くわけですよ。それで、自由美術(協会)の鶴岡政男が好きでね、自由美術に憧れて、それで展覧会に出してみたら、入選したわけですよ。で、「自由美術に入った」って小杉に言ったらね、「そんなことやってるようじゃ駄目だ」と。「今は読売アンデパンダンの時代だ。読売アンデパンダンに出せ」と。それで「俺が赤瀬川(原平)とか、中西(夏之)とか、刀根康尚とか紹介するから、そんなのやめろ」と。やめろって言ったって、会員に入ったわけじゃないから、次の年から出品しなければ良いだけなのね。小杉のお蔭ですよ、そういう意味では。方向性が決まったのは。

池上:前衛的なほうに導かれていくというか。

谷川:そう、そう。それもやっぱり小杉がいたから。いなかったらたぶん、自由美術か何かの階段に上ってたのかも(笑)。

宮田:美術以外に映画とか観始めている頃ですか。

谷川:映画はそんなに観ないですね。とにかく時間がなかったですね。

池上:働いて、絵も描いてっていう。

宮田:どういう時間に絵を描いてたんですか。

谷川:休みの日ですよ。

池上:じゃあ、時間もないし、1960年のいわゆる安保闘争があると思うんですけど、そういうものも参加はされずですか。

谷川:1960年は参加してる暇もなかった。

池上:1969年のほうのときはちょっと関わったりされましたか。

谷川:ええ、関わりました。とにかく30歳まで、いろいろ仕事してたわけですよ。コックやったり、ディスプレイやったり。これがまたいろんな話があるんだけれども。で、衣食住、全部やろうと思って、ディスプレイをやって、いろんなことやりましたよ。絵のほうはそんなにやらなかったけれども、下着の、トリンプの仕事してましたよ。

宮田:そうなんですか。どんな仕事なんですか。

谷川:ファッション・ショーの仕事。ショーの舞台を作ってね。ひとり、ドイツから来たモデルさんがいて、その人がハイヒールのピンでもってね、回転するわけですよ。こう歩いてきて、戻るときに。そのときに、スポッと板が抜けちゃったんですよ、シナベニヤの。

池上:あら。

谷川:結局、足をくじいちゃってね、その責任を取らされて、僕はクビになりましたけど。だからイ(衣食住の衣)は短かったですけどね。あとでファッションの定点観測とかちょっとやってみて、よくわかんなかったけど。

池上:それで、小杉さんからのお誘いとかもあって、1963年の読売アンデパンダン展に出された。結局、最後の回ってことになりますよね。

谷川:そう、最後のアンパン。それまでアンデパンダン観てないから、アンパンの作品の傾向っていうのを知らないわけですよ。

池上:1962年のも観てないわけですか。

谷川:観てない。全然、観てないわけです。だから観てればね、もうちょっと違う作品を、単なるタブローで終わるようなものを出さなくて、もう少し何か考えてやったと思うんですよね。それから、内科画廊なんかでやろうと思ったんだけど。内科画廊の始まりっていうのはね、堤第二ビル(現JR新橋駅西口前)の上に、同じ高校の、小杉と僕と同じ教室にいた由水幸平という男がいて、これが『笑の泉』(白鴎社)というカストリ雑誌の編集をやってた。そこに遊びに行ってるとね、何か隣の部屋でガタガタ、ガタガタ音がしている。変な男が何か借りに来るわけです。「ちょっと、すみませんけど、脚立を貸してください」とか言ってね。そうするとね、由水が「また来たぞ」とか言うわけ。それが誰であろう、中西夏之だったんです。(参考:二人の交流については次の著書参照。「中西夏之」(1982年11月, 追記1985年7月)『毒曜日のギャラリー』pp. 35-41; 「全感的な絵画 中西夏之」『草色のギャラリー』みすず書房、2010年、pp. 66-71)

池上:あぁ、そうなんですね。

谷川:手作りでさ、ペンキ塗ってみたりね、脚立で何かたててみたり。

池上:内科画廊で内装をしている。

谷川:そう、作ったわけです。だから内科画廊は中西夏之が作って、ただの一度も個展しないんだけどもね。ただ作ったんですね。

池上:開廊の準備をしたっていうことですね。

谷川:だけどさ、その因縁でしょ。そこの会社、『笑の泉』にいた由水幸平が、後に生け花の、…… 小原流、の雑誌(『小原流挿花』)の編集長になりました。そんな男がいたんです。その由水と仲良かったんでね。今でもときどき遊びに来ますけど。小杉と由水幸平も仲良かったです。だから、勉強はできなかったけれどね、そういう芸術的な連中がいたわけです。

池上:だんだん似たような人たちが知り合って、集まってきたというか。

谷川:どうなんだろうね。そんな意識はなかったけれど、なんとなく、結果的にはそうかなぁ。内科画廊やってるときに、とにかく申し込んだ方がいいと思って行ってみたら、偶然、宮田さんがいたわけです。あ、知ってるわ、と思ったら、(インタヴュアー宮田の)お父さんが。申し込んで、初めての、1回目の展覧会をやったの(個展会期1964年2月3−8日)。中西は宮田さんのことを「ドクちゃん」って呼んでたね(注:当時、宮田は医大生だった)。

宮田:作品載ってますよね。

池上:≪希望的な絵画≫(1964年)っていう。

谷川:そう、そう(『谷川晃一展 南の庭のアトリエより カタログ』三鷹市美術ギャラリー、2011年、pp. 41を広げながら。以下、カタログと表記)。

池上:このあたりですか。

谷川:そう、そう、これ。(カタログpp. 42-45をめくって)あと(内科画廊での2回目の出品作は)これですね。その大きいのだけね。1点か2点か、こうくっつけたら繋がってしまうようなね、画面が繋がるような絵を描いて。中西が来て、「ジョイント式だな」って。中西の奥さんがちょうど手伝ってたのかな。画廊の受付番をしてたんですね。

宮田:初個展ですぐに、2か月後の『美術手帖』に展評が載るという。(三木多聞、日向あき子「作品合評 個展・グループ展から 1月後半〜2月前半」『美術手帖』1964年4月号、234号、pp. 129-130)。

谷川:その頃内科画廊は、わりと新しい美術のメッカだったんです。日向あき子とか、大岡信とか、宮川淳とか、みんな来るわけです。僕は、これ(1回目)じゃなくてね、もうちょっと(フリードリヒ・シュレーダー・)ゾンネンシュターン(Friedrich Schröder-Sonnenstern)みたいな絵を描いてるときに、よく売れたんですよ。で、大岡さんは買ってくれる、宮川淳は買ってくれる。で、残ったやつは全部、東京画廊で買ってくれたわけ。

池上:その当時、作品が売れる作家さんっていうのはほとんどいなかったと思うんですけど。

谷川:そうらしいのね。

池上:すごいことですよね。

谷川:すごいと言われましたよ。

池上:これをいくつも並べて大きくしていく?

谷川:そう、そう。

池上:この大きくしていく作品は今もありますか?

谷川:ない、それ(カタログに載っている作品)しかない。もう壊しちゃいましたね。

池上:コンセプトもおもしろいですよね。

谷川:でも、この時期をもって僕は、これでいいのかという方向に引き裂かれていくわけ。迷いもありますし。着物の絵(≪炎の標的)1965年、グワッシュ, 紙パネル、120.0×180.0cm、高松市美術館蔵、/カタログp. 44)があったでしょ。着物の絵をやってから、絵が変わるんですね。

池上:初個展をされて、その後、すぐにゾンネンシュターンの絵に出会ったのですか。

谷川:そうでしたね。それと、ゾンネンシュターンに出会うと同時に、神田で春日井建っていう短歌の人に会ったんですよ。それで短詩系文学の世界にグーッと強い関心を持ちました。

池上:詩の方でも絵の方でも、大きな変化が。

谷川:詩は書かないですけど、何ていうかな。僕は短歌っていうのは、それまで老人の世界のものと思ってたんだけど、それが意外に、同じ世代の、同世代の若者が表現してもまったく違和感のない表現の形態だってことがわかって。それで寺山修司なんかも読むようになったんだけども。

宮田:神田ではどういう出会いだったんですか。

谷川:それはラドリオってね、明治(大学)の仏文科の学生たちが集まってる喫茶店。何回か行って。たまたまひとりで行って時間潰してたら、隣りにいた男に、僕がちょっと話しかけたらいろいろな話をしてきて、で、何やってるか聞いたら、「短歌を作ってる」と。で、本をくれるわけです。そしたら、もう驚くような、瑞々しい短歌。

宮田:その後もずっと交流があったんですか。

谷川:死ぬまで。僕は、彼が「NHK歌壇」という短歌の添削やってる番組に最後に出た(2002年)。彼が病気でもって、「最後に出るから、ゲストで出てくれ」って言われて、「短歌の解説するの?」って聞いたら、「そうだ」って言う。(短歌には詳しくないけれど)でも、まぁ、いいか、と思って、出て。

池上:解説をされたんですね。

谷川:なんとなくね(笑)。(参考:「駿足のペガサス 春日井建」(2004年8月)『草色のギャラリー』pp. 121-124)

宮田:すごい出会いですね。

谷川:そうですね。その頃、春日井建が加納光於論を書いて、『みずゑ』に(「加納光於の世界 聖霊降臨の影絵」、『みずゑ』1962年7月)。

宮田:この前、加納さんのお話を聞きに行かれてましたね(注:「加納光於―揺らめく色の穂先に」CCGA現代グラフィックアートセンター、2017年6月17日—9月10日、加納光於と馬場駿吉によるギャラリートーク: 6月17日)。

谷川:春日井建は三島由紀夫に「天才の……、(われわれは一人の若い定家を持ったのである)」と言われた (注:1950年に二十歳で出版した『未青年』に三島由紀夫が序文を書いている/参考:谷川晃一「二人のKの間で 小杉武久・春日井建」『戦後風景と美術—傷ついた地平線』風媒社、1995年、p.27)。

宮田:二十歳(はたち)で。

池上:早急に認められた。

谷川:そうそう、認められた。そのグループには浅井愼平がいてね、今でも付き合ってますけど。

宮田:そういう出会い方がすごいですね。

谷川:その頃、中西に、「手伝ってくれ」って言われて、土方巽の舞台美術を手伝うようになって、舞踏関係の人たちや、澁澤龍彦などの文学者とも知り合いになりました。一気にね(注:谷川が初めて関わった公演は「暗黒舞踏派提携公演 ガルメラ商会謹製『バラ色ダンス--A LA MAISON DE M. CIVEÇAWA』〔--澁澤さんの家の方へ〕日比谷公会堂、1965年11月27,28日」。

池上:やっぱり似たような方々が引き合ってる感じがしますね。

宮田:青木画廊(注:銀座3丁目)はよく行かれてたんですか。

谷川:青木画廊? よくってほどでもないけど行ってましたね。ゾンネンシュターン展を東京でやったっていう話もちょっと一波乱あって、それは短い話じゃないんで(笑)(1974年、西武百貨店/参考:「月の道徳芸術 ゾンネンシュターン」(1991年7月)『草色のギャラリー』pp. 20-29)。

池上:でも、最初に1960年代にご覧になったのは偶然と言いますか、青木画廊でやってたのをたまたまご覧になって(1964年3月24日-4月4日/参考:青木画廊編『一角獣の変身 青木画廊クロニクル1961〜2016』風濤社、2017年)。

谷川:そうですね。

池上:やっぱり衝撃的でしたか。それまでに観た何とも違う。

谷川:そうですね。ゾンネンシュターンを持ってきた女性がいまして、その人との関係も非常に。恋愛関係じゃありませんよ。

宮田・池上:(笑)。

谷川:今でも仲いいんだけど、池和田侑子っていってね、(フリーデンスライヒ・)フンデルトヴァッサー(Friedensreich Hundertwasser)の奥さんだった人です。

池上:ああ、なんとなく、ゾンネンシュターン観るときに、フンデルトヴァッサーに似てなくもないなっていう印象を受けてたんですけど。

谷川:フンデルトヴァッサーの奥さんが持ってきたの。

池上:そういうことですか。

宮田:おもしろい。そうなんですね。

谷川:大井町でね、中西も僕も2人ともプラプラしててね。

一同:(笑)。

谷川:よく僕も食べていけたなぁ、と思って。どうりで貧乏だと思って(笑)。

宮田:中西さん、そのとき大学は出てました?

谷川:卒業してたと思う。女学校かどこかで教えてたんだけどね。そのうち行かなくなっちゃったのかな。よく聞かなかったけど。そこに菊畑茂久馬も加わって(笑)。

宮田:3人でプラプラしてたんですか。

谷川:プラプラしてるうちにね、大井町で、「見ててごらん」「今ちょっとイカす女が来るから」とか言ってね。何かわからないから見てるわけです。そしたら、お風呂の道具持って通り過ぎていくわけね。それが池和田侑子だったんですね。あとから池和田郁子に話したら、「お風呂の道具を持って歩いたりしていない!」って言ってたけれど。

宮田:本当ですか、それ(笑)。

谷川:それが女子美(女子美術大学)かなんかで、ネオ・ダダにいたでしょ、ひとり女性が。

宮田:幸(みゆき)さんじゃなくて……。

池上:平岡弘子さん? 河原温のパートナーになった方ですか。

谷川:そうじゃないんだね。

宮田:岸本さん?

谷川:岸本清子じゃない。岸本清子と池和田侑子と、もう一人いたんですね、ネオ・ダダに。頭、坊主にしてた。

宮田:頭を坊主にしてたんですか。

谷川:突飛な人がいたんですね。その三人娘でね、女子美の。

宮田:ネオ・ダダ三人娘。

池上:初耳ですね。「ネオ・ダダ三人娘」ていうの。

谷川:初耳でした? ネオ・ダダじゃないけど、池和田侑子は女子美ですよ。それで、僕らは、フンデルトヴァッサーが日本に来てるときに、「池和田侑子をさらっていった」って言ってるんだけど。

池上:見染められて。

谷川:でも、結婚は長続きしなかったんですね。フンデルトヴァッサーが異常なナチュラリストだったんで、「野菜は煮ちゃいけない」とかね、「水は雨水を使え」とか。

池上:フンデルトヴァッサーが?

谷川:うん。

宮田:「水は雨水を使え」って結構、大変ですね(笑)。

池上:大変ですね、どうやって集めるんだろう(笑)。

谷川:なんか雨水を貯める装置も作ったらしいけどね、雨が降らなければ貯まらないし、とてもやってられないって言ってました。

池上:その女性がゾンネンシュターンを持ってきた。

谷川:そうです。

宮田:その方の持ち込み企画だったんですか、青木画廊で。

谷川:そうですね。で、これが大ヒットしたわけですね。澁澤龍彦が書いたりしてね。

宮田:当時の美術界に衝撃だったんですか。

谷川:そうですね。僕も騒いだし。

池上:それこそ、作品も売れたんですか。

谷川:売れたんですね。安かったですよ。20万くらいだったですかね、当時。

宮田:どういう人が買ったんですかね。

谷川:えーっとね、高橋睦郎がデッサン買ったのは知ってるけど、あと、草月会館の美術館(草月美術館)が買ったなぁ。

宮田:へー、すごいですね。

谷川:で、みんな売れちゃったみたいだね。

宮田:谷川さんは観たときに、どういう衝撃だったんですか。

谷川:だからそれはさ、ちょっと前置きがいるんだけどね……。つまり、前衛でもないし、クラシックな画壇美術でもないもの。結局のところ、ちょっと文学性があったわけだね。

宮田:揺れている中で……。

谷川:そう、揺れている中でね。

宮田:「もうひとつの」。(1964年の「ゾンネンシュターン」リーフレットを広げて)

谷川:そうですね。「もうひとつの」、何ていうかな。で、このパンフレットがすごくよかったのはね…… とにかく、これまでの美術とはまったく違うものを持ってるということに、瀧口修造も指摘していて。

宮田:「もうひとつの根源に接した思いがするだろう」(注:瀧口の序文より)というとこですか。

谷川:そう、そう。「もうひとつの根源」っていうのはいい言葉だなぁ、と思ってね。でも、今になって考えてみると、これ、ナイーブ・アートだね。

池上:ちょっとアウトサイダー的な。

谷川:うん、アウトサイダー・アート的なんだけど。僕は「アウトサイダー」よりも「ナイーブ」が好きですよ。アウトサイダーはね、やっぱり暮らしがみえない。ナイーブ・アートはそこに暮らしてるわけですよ。……だからここの「伊豆高原アートフェスティバル」はね、その暮らしの中でものを作るということが、最初のキュレーションとしてあったわけです。だからアマチュアリズムでも、暮らしの中でもってアマチュアリズムが立ち上がってくるという。それがだんだん崩れてきたからね。実は今回で(「伊豆高原アートフェスティバル」への参加は)辞めることにしたの。……今ではスタイルだけがあって、キュレーションがなくなったから(注:谷川は1988年に東京から伊豆高原に転居。「伊豆高原アートフェスティバル」は1993年よりスタート/参考:谷川晃一『伊豆高原アートフェスティバルの不思議』河合ブックレット38、2012年、河合文化教育研究所)。

池上:ゾンネンシュターンの作品に出会って、制作の手法そのものも、無意識にバーッと描いていくというスタイルを……。

谷川:無意識で、すごく似たやつ描いてますよね。それがだんだん変わっていって。それで、自分の絵の作品ができたときに2回目の個展、というより二人展か。このときに作品が全部売れてしまってね。(「谷川晃一・坪内一忠 2人展」内科画廊、1965年4月26日−5月8日/注:40号15点と小品5点を出品; 参考:「幾筋もの道 否定形と定形」カタログpp. 12-13)

池上:それもすごいですよね。

宮田:展評もたくさん載ったみたいですよね、カタログの文献歴見ると。

池上:坪内(一忠)さんのほうは、このときどういうものを出されたんですかね。

谷川:坪内一忠さんは酷かったんですよ。

池上:酷かった(笑)?

谷川:民放のテレビか何か来ることになっててね、彼はそのことに夢中になってしまってね、作品を持ってこないわけですよ。

宮田:作品がない(笑)。

谷川:「作品がないじゃないか。どうなってんだ」って言ってさ。で、当日になったら、ようやく2枚の大きなキャンバス持ってきてね。その間にキャベツを挟んでね、キャンバスに淡いピンク色の絵具をタラーッと流しているわけです。そこに、菊畑が入ってきてね。一忠さんってのは菊畑のなんていうかな、弟子みたいな、子分みたいなもんで。菊畑が「うーん」とか言いながら、偉そうな顔して観てるわけですよ。で、「一忠、やり過ぎるな!」なんて言ってね(笑)。

池上:指示が飛んでるんですね(笑)。

谷川:偉そうなこと言ってるわけよ。それで「やり過ぎるな」って。で、テレビが来て。テレビもね、そのときに撮影したやつを後で見たんだけどね、呆れたことに、美術の話は何もしてないわけですよ。

宮田・池上:(笑)。

谷川:パチンコの勝ち方について、いかにパチンコの玉がこういうふうに……。何を言ってるんだろうと思うんだけどね、全然違う話をしてるわけですよ。

一同:(笑)。

宮田:一生懸命、説明してた。パチンコについて(笑)。

谷川:唖然ですよ(笑)。

池上:坪内さんの作品もこのときは売れたんですか。

谷川:売れないです。

池上:キャベツがあると、ちょっとね(笑)。

一同:(笑)。

谷川:本当に生のキャベツがあってさ、両側に……。

池上:谷川さんの作品が全部売れて。

宮田:これが展評のリストみたいですけど。そうですね、かなり載ってますね。

(後半へ続く)