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平出利恵子、辰野剛、平出七菜、平出加菜子オーラル・ヒストリー(前半)2017年11月11日

東京・杉並、辰野登恵子アトリエにて
インタヴュアー:大浦周、鏑木あづさ
書き起こし:船木菜穂子
公開日:2018年12月27日
更新日:2019年3月22日
 
辰野登恵子(1950-2014)
画家

長野県岡谷市生まれ。東京藝術大学大学院在学中の1970年代より、罫線や原稿用紙をモチーフにしたシルクスクリーンの独創的な表現が注目される。80年代以降は日常のうちに得られた様々な形象を、豊かな色彩で大胆に描いた作品によって絵画の可能性を追求し、「辰野登恵子 1986-1995」展(東京国立近代美術館、1995年)や「与えられた形象―辰野登恵子/柴田敏雄」展(国立新美術館、2012年) は高い評価を得た。2014年逝去。

ここでは「辰野登恵子 オン・ペーパーズ A Retrospective 1969-2012」展(2018-2019)を準備中の埼玉県立近代美術館学芸員、大浦周氏を聞き手に迎え、姉の利恵子(1947-)、弟の剛(1955-)、姪の七菜(1972-)、加菜子(1983-)各氏へお話をうかがった。前半はご姉弟より共に過ごした幼少期から学生時代を中心に、後半は主に姪のおふたりから身近に見てきた制作の様子や、海外でのエピソード等をお聞きした。同時期に取材された『辰野登恵子アトリエ』(三上豊編著、桜井ただひさ撮影、せりか書房、2018年)も併せてご覧いただきたい。

なおインタヴューに先立ち2017年10月、辰野の母校である長野県諏訪二葉高等学校と、恩師の二木六徳氏(ふたつぎ・むつのり、元イルフ童画館館長。1934-)を訪問し、お話を参考とさせていただいた。また今回あまり触れられなかった関西時代については名古屋市美術館学芸員、清家三智氏による「[備忘録]名古屋の辰野登恵子について」『辰野登恵子 オン・ペーパーズ A Retrospective 1969-2012』(青幻舎、2018年)を参照されたい。

鏑木:本日はお時間をいただきまして、ありがとうございます。これからお話をおうかがいしますのは、辰野登恵子さんのお姉様の平出利恵子さん、弟様の辰野剛さん、姪御さんの平出七菜さんと平出加菜子さんです。利恵子さんは、ピアニスト……。

利恵子:音大を出て、近所の小さい子を教えているという感じです。

七菜:声楽をやっていたのよね。

利恵子:音羽ゆりかご会ってありますよね、小さな子どもたちが歌っている。大学のときはアルバイトで、そこの伴奏をしていました。

鏑木:剛さんは、お医者様。

剛:はい。

鏑木:七菜さんはベルギーで、ヴァイオリニストをされているそうですね。

七菜:ええ、ベルギーのアントワープのロイヤル・フィル・ハーモニーで弾いています。新しく名前が変わって現在、アントワープ・シンフォニー・オーケストラになりました。

鏑木:加菜子さんは、お仕事は。

加菜子:私は、都内の広告代理店に勤務しています。

鏑木:ありがとうございます。まず、登恵子さんのお父様とお母様についてお聞きしたいのですが、もともと(辰野登恵子の郷里である)長野県岡谷市の方だったのでしょうか。

剛:長野県なんですけれども、北信っていう地域の小県郡(ちいさがたぐん)、そちらの出です。

利恵子:母は女学校のときは山形だったり、杉並の片倉製糸工業で仕事をしていたり。

剛:祖父は賢造っていうんですけれども、片倉工業に勤めていました。杉並にも高円寺の辺りに家があったんです。でも空襲で焼けちゃって、結局はなくなっちゃったんですけれども。

利恵子:今も青梅街道にありますよね、片倉製糸工場の跡地って。

鏑木:お父様とお母様は、お仕事はなにをされていたのでしょうか。

剛:父親はサラリーマンをしていたんですけれども、昭和33年に精密機械の会社を立ち上げて、経営していました。戦後、岡谷は製糸産業から精密機械産業へ転換し、父の起業もその中にあったと思います。カメラメーカーの下請けを中心にやっていた。

鏑木:お母様も、そちらでお仕事をされていたんですか。

剛:一部、経理を手伝っていました。

利恵子:製品を運ぶのにすごく重たいので、自分でも免許を取るって言って、岡谷市で女性初のドライバーになったんです(注:母が免許を取得したのは登恵子が小学校2年生の時、1958年か59年。後述の新美術新聞「旬 蕗の薹」に言及あり)。

剛:当時は女性ドライバーが少なかったので、珍しかったと思います。松本まで一時間くらいかけて、教習所に通っていました。根性のある、ガッツの人です。

利恵子:父の仕事を、内助の功で助けていましたよね。それまでは取引先に行くのに、下諏訪までバスで行ったり大変でしたものね。

鏑木:お母様は活動的で、元気な方だったんですね。登恵子さんがお生まれになったのは1950年で戦争が終わって間もなくですが、当時の岡谷はどんな感じだったんでしょうか。

剛:特に岡谷は高度経済成長の頃に発展し、「東洋のスイス」と言われていた。
以前は片倉製糸を中心とした製糸工場だったんですけれども、戦後復興してそこから転換して精密機械をやるようになった。姉が何歳のときだったかな。7、8歳か、僕が幼稚園の頃。結構小さい(会社を)2、3人ではじめて、徐々に大きくなって。

鏑木:そうですか。今回、事前に大浦さんと私で岡谷に行って、諏訪二葉高校や二木先生を訪問したり、街の雰囲気を見たりしてきました。こぢんまりした、住みやすそうな雰囲気という印象だったんですが、当時は今と比べるとどうでしたか。

利恵子:今は景気もよくないそうです。

剛:人口も5万人くらいで、ずっと変わってない感じですよ。こぢんまりとした。昨今はバブル崩壊やリーマンショックもあり、厳しい状況が続いているようです。

利恵子:私が大学のときの方が、まだ賑やかだったわね。

七菜:私の時代はまた少し違うんですけれど、子どものときは夏休みも冬休みも、幼稚園なら秋も春も、よく行っていたんですね。とにかく自然がきれいで、四季が変わるつど、見せる色が様々なんです。春に行けばツツジがきれいに咲いていたり、夏は緑いっぱいで、秋は紅葉がきれいだとか、とにかく四季がはっきりしていて、叔母はこういう色を見て育ったんだろうなと思いました。だから岡谷は街というよりも、私にとっては自然のあるところ。でも私の幼少時代は、小さなお店がいくつかありました。そしてその後、駅ビルができたりして。

鏑木:岡谷は自然に恵まれていますね。山がすごくきれいですよね。

利恵子:私たちが小さい頃は、自然に恵まれすぎて(笑)。ストーブもなければ暖房もおコタ(こたつ)しかないので、すごく寒かった覚えがあります。鍵盤が冷たいときの感覚を、今でも覚えている。それくらい寒かったんですよ。

七菜:温暖化で少し暖かくなっているけれども、昔は今より寒かったみたいです。

利恵子:寒い、寒い、もう。

大浦:雪もたくさん。

利恵子:はい。牛乳(配達)を取っていたんですけど、牛乳が凍って蓋が上に上がるくらい。

一同:(笑)。

利恵子:「アイスだ」って喜んでいた。そういう気候。

七菜:叔母が言っていたんですけれど、「この景色を見て、この色を見て、こういう景色を見て育ったから、今の私の色彩感覚が生まれているのかもしれないわ」って。

剛:近くに諏訪湖があって、そこの景色なんかも好きだったと思う。水の色も、四季で変わっていくし。

鏑木:そういえば、そのようにお話されている記事を見ました(辰野登恵子談「旬 蕗の薹」新美術新聞 第759号、1996年3月1日、第5面)。

大浦:ありましたね。

鏑木:お母様は積極的に車で皆さんを連れて、季節を楽しみに行かれていたそうですね。

七菜:ちょっと話が逸れてしまうんですが、私の娘が5年前に生まれたんです。そのとき叔母に、「トコちゃん(注:登恵子のこと)にとって、お母さんってどんな人だったの」と聞いたら、「すごく正直で、思ったことは言葉に出すし、表情にも出すし、きれいなものを見るときは絶対に連れて行ってくれるし、『きれいな花があったから、登恵子おいで』と、よく連れて行ってもらった」と言っていましたね。

剛:母親はちょっと特異な人というか、そういう意味ではおもしろい、妥協のない人。ストレートで、そしてすごく身内主義。自己主張が強いためか、周囲とうまくいかない部分もあった。父親はその逆で、和を重んじて配慮的、会社も円滑に運営できる。姉はそういう両方の部分をひきついでいるかな、と良きにつけ悪しきにつけ思います(笑)。

鏑木:そういったご両親の性格を受け継いでいると。

剛:孤高の芸術家というよりは、どっちかと言うと家とか墓とか先祖とか、ルーツを大事にするところが強い。一般的に芸術家というと、自分の内面に向かって、家とか関係ないと思っちゃうけれども。

七菜:そういうところもありましたね。ものすごく強い。

剛:母親もそうだったんだけれども、姉も母親代わりになって、指摘がかなり強い。バシッバシッと(笑)。

鏑木:剛さんは、お年が離れていますもんね。

剛:私は5つ離れている。

鏑木:利恵子さんはふたつ違いで、仲の良い姉妹だったとうかがいました。

利恵子:そうですね。

鏑木:そういえば、お祖父様が骨董品を集めていらして、それを見ながら育ったそうですね。実際にどんな物を集められていたんですか。

剛:掛軸とか古伊万里とか、あと陶器(辰野が1966年、高校1年の時に焼き物の水差しを描いた油彩画《黄瀬戸》(F10)が残っている)。姉は祖父のそのようなところを、リスペクトしていました。

利恵子:茶器よね。

剛:あとネズミの置物があったじゃない。

利恵子:文鎮みたいな形の。登恵子の部屋に、今も置いてあります。

剛:姉がすごく好きだった。あとは、横山大観の贋作とか(笑)。

利恵子:残念でしたけどね。

剛:調べてもらったことがあるんです。海北友松という人がいますよね。あの人の作品かなと思ったけど、その弟子だったものがある。本物なんだけど(笑)。本当にお宝というようなものはないですね。

利恵子:床の間にいつも飾ってありました。だからお座敷で飛んだり跳ねたりすると、よく怒られましたね(笑)。

鏑木:お姉さんは、お転婆さんだったんですね(笑)。そういう感じで常に、お家にそういう物が置かれていた。

剛:辰野家には、芸術家っていうのはいないんだよね。絵を描くとか。

七菜:そうですね。ただ祖母、叔母にとってのお母さんは、音楽がすごく好きでクラシックだけに関わらず、幼少時は蓄音機で民謡とかもよく聞いていたみたい。

剛:お琴もやっていたしね。

七菜:お琴をやっていて、お琴も飾られていました。

剛:3人ともやっていたんでしょう、三姉妹で。真ん中だったんですね。母親が、跡を継ぐような形。上に3人男の子がいたんだけど、みんな早く亡くなっちゃった。本当は六人だった。

利恵子:昔だから、医療がちゃんとしてないからね。

鏑木:教室はされていなかったんですか。

利恵子:母はただ弾くのが好きでした。岡谷市のお琴の会に入っていて、岡谷市民会館で演奏しました。

加菜子:第九もやっていたんだよね。

剛:晩年は第九をやっていた(笑)。

利恵子:最後はドイツ語でベートーヴェンの第9番「合唱」を歌いましたね。

七菜:私が高校くらいのときに、岡谷市で合唱団を募っていたんです。「私、できるかしら」と言いながら、一所懸命ドイツ語をカタカナで書いて覚えて、コンサートに出て、見事に歌っていましたよ。

利恵子:最初、歌詞に「フロイデ(Freunde)」っていう言葉が出てくるんですけどね、「『ヒライデ』って歌ってみたわ」と冗談を言っていました(笑)。

一同:(笑)。

鏑木:ご姉弟みなさんが、お母様の影響で音楽をされていたんですか。

利恵子:弟もやっていたんですよ。

剛:僕は全然。全く(笑)。

鏑木:お母様はやっぱり、3人とも音楽の道に進んで欲しかったんですか。

剛:あのね、母親は本当は医者になりたかった。米沢の高等女学校を出て、大学に行きたいって言ったんだけれども、当時のことなので行けなくて。

七菜:なんか聞いた事ある。

利恵子:すごく行きたかったのよね。

剛:それで、子どもをふたり産んだ後に「医者になりたい」って親戚に相談したんだけれども結局、「あんたの子どもをさせなさい」って言われて、それで私が(医者に)なった(笑)。

大浦:それもすごい行動力ですね。

剛:そこら辺が、姉とそっくりですよ。

鏑木:そうですか。小さいときはおふたりとも、いろいろな習い事をされていたそうですね。

利恵子:そうなんです。ピアノの他にも、登恵子と一緒にお絵描き教室へ行きました。バレエも一緒に行っていて、私は途中で辞めたんですが、登恵子はずっとやっていました。かなり好きで、高1くらいまで。

加菜子:踊るのが好きなんだよね、トコちゃん。

一同:(笑)。

加菜子:大好きです。

鏑木:皆さん3人ともピアノを習っていた。

剛:私はすぐに辞めた(笑)。

鏑木:そうですか(笑)。で、お姉さんとふたりでバレエとお絵描き教室。

利恵子:お絵描き教室はバスに乗って行って、小学校の低学年だと思いますけどね。それが楽しかったんですね。私が習い事に行くと、いつもついてくるんですよ(笑)。

大浦:じゃあ、始められるタイミングは一緒くらい。

利恵子:同時くらい。どうしてもついてくるんですよね。私が入学するときも、「幼稚園は嫌だ、学校に行きたい」と言って。そうしたら、母が先生に頼むんですよ、妹を座らせてもいいかと。先生も理解があったんですね、「静かならそばにいていい」って(笑)。

一同:(笑)。

利恵子:どうしても行きたいって言って、聞かないの。

剛:幼稚園より、学校の方がよかったんだな。

大浦:実際に小学校に行ったんですか。

利恵子:そうなんです。岡谷市の小学校に行きました。給食が始まるまでの期間だと思います。

大浦:それはすごいですね(笑)。

利恵子:先生も許してくれるっていうのが、寛大ですね。クラスの友だちからも嫌がられずに、隣に座っていました。

大浦:(笑)。

剛:おもしろいね。

鏑木:お姉さんが大好きで、いつも一緒に(笑)。

利恵子:そう。どうしても一緒で、幼稚園は行かないって(笑)。

鏑木:意思がはっきりしていますね。ところで2年生の頃からお絵描き教室に行かれていたんですよね。具体的に、どんなことをされていたんですか。

利恵子:例えば(ティーカップを指して)、こういう静物画ですよね。

大浦:それは岡谷にあったんですか。

利恵子:バスに乗らないと行けない距離ですね。岡谷市内にあったんですが。

大浦:そうなんですね。

利恵子:でも妹は途中でバスに酔うこと、度々でした。それで、好きな色を塗っちゃうと、先生が「この通りに描いていないから、もう一回描きなさい」って言うんです。でも登恵子は「これでいい」って言って聞かないの。

剛:真っ赤に塗る。

利恵子:私は早く帰りたいから、適当に直して(笑)。

一同:(笑)。

七菜:怒らなかった?

利恵子:登恵子? うーん、怒ったかもしれないけれど、とにかく仕上がらないと帰れないから。

剛:最初からマティスみたいだった(笑)。

鏑木:子どもに好きに描かせるような絵画教室とは、ちょっと違う感じなんですね。辰野さんに、小学校5年のときにお絵描き教室で模写の課題があって、いくつかある中でマティスの《赤のハーモニー》(1908年)を選んだというお話がありました。これが初めて模写した絵だそうです。やっぱり色がすごく好きだったし、平面的な絵なので、きっと子どもでも難しくなく描けるだろうと思ったそうです(辰野登恵子「マチスと私(3)」読売新聞 1981年4月9日夕刊、第9面など)。

七菜:(《赤のハーモニー》を見ながら)この絵がすごく好きだと言って、昔カードをプレゼントしてくれたことがあったわ。

大浦:この絵を。

七菜:中高生の頃。

剛:(絵画教室には)ずっと行っていたんだっけ。

利恵子:かなり行っていましたね。

鏑木:何年生くらいまで通っていたんですか。

利恵子:私はたくさん通っていたかどうかあんまり記憶にないんだけども、とにかく楽しかったですね。日曜日に。

大浦:毎週日曜日だったんですね。

利恵子:バスに乗って。

鏑木:じゃあちょっと楽しみに行く感じ。

利恵子:そうなんです。

鏑木:習い事以外にも、他にどんな遊びをしたり、どんな漫画を見ていたりしたんですか。

七菜:フィリックスちゃん?

加菜子:でもレコードが好きで。音楽が、ジャズとか。

利恵子:それはかなり大きくなってから。

加菜子:大きくなってからか。

剛:あと、フィリックス・ザ・キャット。

七菜:あの黒い猫の漫画、「なんで今やらないんだろう」って言っていた。歌も歌ってくれて。

利恵子:あれはかなり経ってからかもしれない。

剛:「ひょっこりひょうたん島」が中学か(1964-1969年にNHKで放映された人形劇)。その前は「チロリン村(とくるみの木)」(1956-1964年にNHKで放映された人形劇)だったもんね。

利恵子:テレビでね、一番好きだったのが「夢であいましょう」(1961-1966年にNHKで放映された生放送のバラエティ番組)。司会の方が「こんばんは、中嶋弘子です」ってね。その時間が夜だったんですけれどもね、母と妹と私と、3人で見ました。司会の方がファッションデザイナーで、その話し方とかね。本当に都会的な方で、いつもきれいな洋服を着てきて、デザインもするのかな。「こういう洋服がいい」とか言って、ササササーって描くような感じ。

鏑木:その「夢であいましょう」っていうのは、音楽番組ですか。

利恵子:品の良いバラエティ番組のように思います。

加菜子:あの有名な人の歌だよね。

利恵子:「ゆーめでーあいまーしょう♪」

一同:(笑)。

剛:洋楽はあれだったっけ。中学以降かな、ビートルズとか。

利恵子:そうね、「ルート66」(1962年からNHKなどで放映)とか。

剛:あとラジオだと「9500万人のポピュラーリクエスト」(1963年からNHKラジオで放送)っていうのを覚えている。まだ(日本の人口が)9,500万人しかいなかった時代。

一同:(笑)。

鏑木:音楽は当時、ラジオですか。

剛:ラジオも流行っていましたね。

利恵子:そうだ、あと黒柳徹子のね、「ヤン坊ニン坊トン坊」(1954-1957年にNHKラジオで放送されたラジオドラマ)。

剛:黒柳徹子だった? あれ。

利恵子:黒柳徹子よね。「やんぼうにんぼうとんぼう〜♪」。

鏑木:三匹の子豚的な……?

加菜子:あ、それも言っていたかもしれない。

利恵子:「ブーフーウー」はテレビ(1960-1967年までNHKで放映された着ぐるみによる人形劇)。

一同:(笑)。

鏑木:「夢であいましょう」は何年生くらいなんですか。

利恵子:はっきり覚えていないのですが、中学生の頃かしらね。

剛:おじいちゃんが亡くなるまで入れちゃだめだって。「賢造さんが嫌だって」って。そんなに贅沢するな、みたいな。亡くなった後、すぐ買ったんだ(笑)。

利恵子:ひいおばあちゃんは、テレビを見てたんだもんね。

鏑木:じゃあ小さいときは、テレビはないんですね。

七菜:でもラジオを聴いてたって。

加菜子:(フィリックスを調べて)1963年にやっていたみたい。

鏑木:すみません、ありがとうございます(笑)。じゃあ中学生ですね。

七菜:そうですね。

鏑木:当時流行っていたんですか、フィリックスって。

利恵子:そうですね。小さいときはとにかく、おとなしい子ども。なんでも言うこと聞いてくれた(笑)。昔、カール人形っていうのが流行っていて、それを買ってもらうってときもね。ピンクと赤があると、私がいつもピンクを取るので、妹はいつも赤だったんです。セーターもね、「私もピンクが欲しい」と言われても、絶対譲らなかった。だからいっつも、なんでも言うことを聞いてくれた。

七菜:かわいそう(笑)。

利恵子:そう、かわいそうだった。今、反省してる(笑)。

七菜:中学校の試験がありますよね。すごく真面目だったらしいので、すごく勉強していたみたいです。途中で(利恵子が)やめちゃうと、「お姉ちゃん、もっと」とよく怒っていたそうですよ。

利恵子:私は楽天家で、「これぐらいできればいいわ」って寝ちゃうんですけれど、妹は本当によくやっていましたね。真面目です。

七菜:叔母はすごい努力家。

鏑木:そういえば今日、岡谷から写真をお持ちくださったんですよね。

剛:(家族で写っている写真を見せながら)これは、もうちょっと大きくなってからかな。僕は小学校で、これが母親。小学生か。これがリコちゃん(利恵子)で、これは登恵子。

大浦:何年生くらいでしょうね。

剛:小学校6年くらいだからね、これ。

大浦:剛さんが小学生くらいだから。

利恵子:私は高校だわね。

鏑木:そうか、じゃあ登恵子さんは中学生くらいですか。

剛:こういうおかっぱの頭だった。あの写真、どこにいっちゃったかね。写真家になられた友人(柴田敏雄のこと。後述)とのショートカットの写真が、国立新美術館でのカタログにあります。

利恵子:おかっぱのはね。大学に入ってからもおかっぱよね。

剛:(別の写真を見ながら)これは田舎。駅に近い方に家があったんですね。そこが工場になって、自宅は二木先生の家のそばに引っ越した。彼女が小学校6年のときに、僕が1年生。一緒に登校して、冬場だとこんなにでっかいつららができるんですよ。それをずっと鼻水を垂らしながら、彫刻刀で何か彫っていたのを覚えています。「体が冷えちゃうじゃないか」って、母親に叱られていた。すぐ溶けちゃうのに、それをこうずっと何か、何時間も。

利恵子:氷を彫っているの?

七菜:彫刻みたいな?

剛:今考えてみると、オブジェにも関心あったのかなと。何を作っていたかな。動物だったみたいだけど、ちょっとはっきりはわからない。

鏑木:すごいですね、氷を彫るって(笑)。先日の二木先生のお話にあったのですが、高校の最初の授業で、画用紙に鉛筆でデッサンをさせようとしたら、登恵子さんが「木炭紙に木炭でデッサンしたい」と言うので、びっくりされたそうです。「ひょっとしたら中学生のときに、お絵描き教室でそういった事をすでにやっていたのかな」とおっしゃっていました。

七菜:でしょうね。結構難しいですよね、木炭で描くの。

鏑木:難しいですね。確かに初心者がいきなり言わないかな、と思います。

剛:中学のときの絵の先生……なんていうお名前だっけ。

利恵子:林先生っていう、美術クラブの先生なんですけどね。小学校の高学年のときに受け持って下さった保科先生という方が、「君は中学に行ったら、絶対に美術クラブに入りなさい」って言ってくれた。それで妹は絵も好きだし美術クラブに入って、その林先生がすごくいいって言ってくれて。

大浦:それは中学校の学校の美術クラブなんですか。

利恵子:ええ、そうなんです。

鏑木:お絵描き教室とはまた別?

利恵子:お絵描き教室はもう、小学校高学年くらいで終わったかもしれないですね。小学校5、6年のときの美術クラブの保科先生が、絵の才能を見出してくださいました。「中学に行っても美術部に入ったらいいよ」と言われたそうです。

大浦:本当に子ども向けの教室だったんですね。

利恵子:中学、高校、大人の方も来ていたように思います。中学校は林先生。それで(諏訪)二葉高校に行ったら二木先生がいらして。

剛:男子高があるのは、諏訪清陵高校。

大浦:坂の上と下で。

剛:ほぼ男子。女子もたまにいるくらいの感じ。

利恵子:昔はいなかったけどね。今は共学みたいな感じで。

剛:今はみんな共学になっちゃっているから。(卒業生に)平林たい子さんがいます。有名ですよね、プロレタリア文学の人。

鏑木:そうそう、茅野のカタログに高校の入学式で、お母様が二木先生に「この子は芸大を考えています。よろしくお願いします」と挨拶をされたエピソードがありました(太田智子「この土地に生まれて 辰野登恵子と諏訪」『在る表現 その文脈と諏訪 松澤宥・辰野登恵子・宮坂了作・根岸芳郎』茅野市美術館、2016年)。高校の入学式で芸大に行こうと思っていたということは、その前から絵の道に進むことを考えていたと思いますが、そういったことについてご家族はお聞きになっていましたか。

剛:漠然と。母親が芸大芸大って言っていたんじゃないかな、たぶん。音楽にしても美術にしても。

利恵子:『美術手帖』なんかを見たりね。

鏑木:中学校の頃ですか。

利恵子:高校のときは、取っていたけどね。『美術手帖』があるかわからないけど。

剛:『セブンティーン』とか。英語の雑誌だっけ。あれは高校かなぁ。

大浦:『セブンティーン』は、アメリカのものを購読されていたんですか。

利恵子:そうなんです。たぶん中学くらい。

剛:取り寄せて。何ヶ月かかかってくるわけですよね。

七菜:すごいね。

利恵子:本屋さんからよく電話がかかってきてね。

大浦:本屋さんは、近くに取り次ぎをしてくれる書店さんが。

利恵子:だから、お年玉をもらうと本屋さんに買いに行くんです。『なかよし』とかそういう、漫画系のものを買ったり。

鏑木:じゃあなんとなく、中学生くらいのときから芸大を。

剛:いつ決意したとかいうのは、ちょっとわからないけれど。

七菜:私が知っているのは、高校に入ったときに朝、学校の授業が始まる前に行って、用務員さんが見かねて、寒いから暖房をつけてもらって描いていたと聞いたことがありますね。授業の前に行ってそこまで一所懸命やるというのは、もうそのときすでにその道を志していたんじゃないかなと。

剛:高校に入るときは本当に、母親の言った通り、芸大芸大って最初からたぶんあったと思う。

鏑木:じゃあなんとなくご家族の皆さんも、大学は芸大なんだろうなと。

剛:でも雲の上の大学だから、無理じゃないかなと思って私は見ていました(笑)。

利恵子:あの子のがんばりって、すごいんですよね。夜中まで煌々と電気をつけて、目が開かなくなるまでやるとか。父はあんまり心配しないんだけど、健康のことをよく心配していましたね。

大浦:お母様は全面的にバックアップされていたんですか。

利恵子:そうですね(笑)。

剛:よく画材を買いに行くのに母親が一緒で、「これは買わなくていいの?」とか。そういうところがあるんですよ、なんでも。教育費に関しては惜しまないところがありました。

鏑木:お母様は、心から芸大に行って欲しいと思っていらっしゃったんですね。何をお聞きしたいかというと、アーティストになる事をご家族が必ずしも歓迎しないお家もあるんです。そういった意味ではむしろ、ご家族はすごく応援している。

七菜:応援している方だと思います。

利恵子:自分の洋服なんかは買わなくても、そちらの方にまわしていましたね。

鏑木:利恵子さんも音楽の道に進まれましたけど、そういった点では皆さん、積極的に行きたい道に行かれたんですね。

利恵子:そうですね。

鏑木:お父様も、特に反対はされず。

剛:その辺は、母親にまかせっきり。ちょうど会社もまぁ、軌道に乗っていたんです。すいどーばた(美術学院。東京・池袋にある芸大美大受験予備校)に行くのもね、学費がかかるじゃないですか。交通費とか。夏休み、冬休みとかしょっちゅう。

利恵子:まぁ、泊まるところは私の下宿に泊まったり、母の妹の叔母のところに泊まったりしていたので、宿泊費はタダかもしれないけれど。

剛:(合格発表の時の写真を見ながら)これは合格発表のとき。皆で喜びました。

七菜:見てもいですか。(写真を見ながら)これ、名前も載るんだ。

鏑木:今は番号だけですよね。

利恵子:芸大って一次二次三次ってあるじゃないですか。私の大学の友だちも、皆で応援してくれました。

剛:芸大受験に向けてデッサンに力を入れていて、石膏像がいくつか家にありました。

鏑木:実は今日、その事をお聞きしたくって(笑)。

剛:どうしてかっていうとね、たぶん、デッサンが一番自信がなかった。

利恵子:そう。デッサンが通れば、たぶん油画で通るという感じだったんです。

鏑木:一次がデッサンだから。

剛:色にはね、ものすごい自信があったんですよ。色と色使い。

利恵子:だからデッサンさえクリアすれば。

剛:傾向と対策じゃないけどね。石膏像って毎年(出題される像が)違うんですって、あれ。何が出るかわからないので。

七菜:岡谷の上のお部屋に、2体。

剛:(笑)。

鏑木:お家で石膏像を何体も持っている人というのは、なかなかいないと思います。

利恵子:母の友だちが欲しいって言って、ひとつもらって。いくつあったかな。

七菜:私は確実に2体、子どものときからずっと見ていた。なんだろう、白い……。

鏑木:大きいでしょう。

七菜:(手を広げて)これくらいのが2個(笑)。

大浦:本当の石膏像ですね。

鏑木:大浦さんとそのお話を二木先生からお聞きして、びっくりしました(二木への聞き取りでは、辰野が石膏像を諏訪二葉高校へ寄贈したという話があった)。

剛:変わっているでしょう。

七菜:それが普通かと思っていました。

利恵子:(木炭を)消すのに、食パンを使うみたいなんですよね。二葉って昔、寮があったらしいんですよ。それを聞いたのはいつだったかな。岡谷の追悼展(「辰野登恵子追悼展」市立岡谷美術考古館、2015年3月6日-5月10日)のときに二葉の美術の方が来ていてね、「辰野さんから、パンをもらったの」って(笑)。

大浦・鏑木:(笑)。

鏑木:岡谷の駅前に画材屋さんがあったんですね。

剛:岩谷画材。

鏑木:二木先生が、そこで買っていたとおっしゃっていました。お母様と一緒に行って、絵具や石膏を。

利恵子:そんなにも裕福じゃないんだけれど、どういうわけだか母がね。そういうところだけお金を使う。私も松本までピアノを習いに行かせてもらったし。

剛:そうそう。

鏑木:あと辰野さんが、ご自分にとっては自然に囲まれていたことが大切で、当時岡谷に美術館はなかったけれど、想像力が育ったということをお話されていました。

七菜:私も直接聞きました。

鏑木:当時ご家族で展覧会に行くというのは、あまりなかったんですか。

利恵子:そうですね。

鏑木:ひとつだけ、(長野県)信濃美術館ができてすぐの頃、65年かな。お母様と池田満寿夫展に行ったときのお話がありまして(「池田満寿夫 版画展」長野県信濃美術館、1966年11月3日-11月28日)。

剛:何かしゃべってきなさいって言われて、しゃべったんだって。うちの母親ならやりそうだよね。

利恵子:そうですね(笑)。

鏑木:そうなんですね。たまたま池田満寿夫さんがいて、お母様が「この子は芸大を目指しているんです」ってお話してサインをもらったっていう。

剛:それ、聞いたことあるな。

利恵子:とにかく、家にいろんな全集がありましたね。ゴッホだセザンヌだなんだと、もう何十冊って。こんなに。

剛:(アトリエの書架を見ながら)今も置いてある。

利恵子:(両手でサイズを示しながら)これくらいのなんですけどね。

鏑木:みすずから出ていたものかな。シリーズでこれくらいの、結構がっちりした感じの本ですよね(注:1950年代後半、みすず書房から出版されていた『原色版美術ライブラリー』シリーズのことか?)。

利恵子:そう、がっちりしていて、厚いね。あれはよく見ていましたね。セザンヌ、ゴーギャン、あとマティスとか。

鏑木:他にも美術関係の本はお家にありましたか。

利恵子:あったかもしれないわね。横山大観が好きだったからきっと。そういう日本の美術の本も見ていたかもしれない。

大浦:全集はお祖父様が買われていたんですか。それとも登恵子さんが。

利恵子:いえ、全集は登恵子が欲しいと言って。

鏑木:『美術手帖』を毎月熱心にご覧になっていたというお話もありましたが、それはやっぱり高校に入ってからですか。

剛:中学からじゃない?

利恵子:どうだろうねぇ。

鏑木:剛さんは、登恵子さんが高校生のときは、岡谷のお家で一緒に暮らしていたんですよね。

剛:高校生のときに、えーとね。

利恵子:高2のときは中3ですもんね。

剛:違う違う。

利恵子:中学生だから。

剛:中1だ。

利恵子:あ、そうか。

鏑木:利恵子さんは高校生のときはもう、東京にお住まい。

利恵子:そうなんです。

鏑木:じゃあ高校生のときは、岡谷で直接一緒には……。

利恵子:一緒には(暮らしてい)ないんです。

剛:高校の頃の話?

鏑木:そうですね、登恵子さんだけ岡谷で高校に通われていて、剛さんも……。

剛:高校は、僕は東京へ。

鏑木:東京なんですよね。だから登恵子さんの高校時代に一緒に暮らしてらしたのは、剛さん。

剛:僕、一番下で。ビートルズを聴いたり、『ウエストサイド物語』(1961年)っていう映画を何回も見ました。ジョージ・チャキリス、知ってる?

七菜:好き。

利恵子:「バーンスタインはいいわ」って言って聴いてた。

剛:岡谷にスカラ座っていう映画館があって、そこに何度も通っていました。それ以降、ジョージ・チャキリスが踊っていたのはなんだっけ、絵を描いていた。それもどっかにいっちゃったかもしれないけど。そういう思い出がありますね。洋楽ははじめは、ビートルズが好きだったと思うんだよね。

利恵子:そうだ。岡谷には展覧会はなかったかもしれないけれど、小学校のときには、母が洋画を見せに連れて行ってくれていましたね。昔、田舎の小中学校って、映画館に行ってはいけなかったんですよ。

大浦:禁止だったんですか。

利恵子:そうなんです。だから夜、こっそり行ったり(笑)。

剛:親と一緒ならいいのかな。

利恵子:それもね、本当はいけないんだと思う。ディズニーの映画なんかも見に行った。

剛:『サウンド・オブ・ミュージック』(1965年)とかね。高校のときは、デッサン。当時、裸婦のデッサンをやってたみたいで。

利恵子:すいどーばたじゃないの?

剛:すいどーばたじゃなくて、岡谷で。宮坂(了作)先生が、姉の絵は当時からすごく洗練されていたって。すいどーばたに行っていたのも、その影響を受けてっていうか。そういう、ちょっと都会風だったっていうことを言っていました。

鏑木:裸婦のデッサンを岡谷でっていうのは、学校じゃなくて。

剛:学校じゃなくて、社会人から高校生までの、そういう会のようなものがあったらしいです。裸婦を描くなんていうのは、あまりないじゃなですか。

大浦:諏訪の教育会館で、諏訪市の美術会の主催で裸婦デッサンの会があったっていう(宮坂了作「美術と私」『在る表現 その文脈と諏訪』)。

剛:私は小学生か中学生の頃、「そんなことをやって、すごいなぁ」って思って聞いていたのを覚えています。

鏑木:高校生の頃、芸大の講習やどばた(すいどーばた)に通っていたときのことを詳しく教えて頂きたいと思います。いつ頃からですか。

剛:すいどーばたには、二木先生の紹介じゃないけど……。

鏑木:二木先生によれば、先生の芸大の同期の坂本一道さんがどばたで先生をされていたこともあったようですね。でも二木先生は、「辰野が『美術手帖』で見つけて来た」ともおっしゃっていました(辰野登恵子、柴田敏雄 談「偶然と必然、選択と創作」『与えられた形象』国立新美術館、2012年では、「美術の先生がすいどーばた美術学院を紹介してくれたので、時間を見つけては上京して作品を見てもらった」とあり)。

剛:1年生か、2年生か。

利恵子:高1で私が高3。高3のときは、私がまだ国立の方の下宿にいましたね。

剛:多摩美の先生が(すいどーばたで)一緒だったって言ってたよね、お葬式のとき。

利恵子:ああ、室越(健美)先生。多摩美の教授。今年定年された。

剛:どばたに入ったときミニスカートをはいていて、すごく素行が目立ったと言っていた。そんな格好で、高校生の頃から目立っていてね。高校生のときから、いろいろ。なんだっけ、「氷点」っていうテレビドラマ(1966年放映)があって、それに出てくる内藤洋子っていう女優に似てるっていう評判があったりして(笑)。

一同:(笑)。

剛:で、清陵の男の子が待ってたりとかしてね。

利恵子:「何時の電車に乗ると行き会う」とか言われていたらしいですよ(笑)。

鏑木:マドンナですね。

剛:どばたにいるときに、ボーイフレンドができて。名古屋の、やっぱりその子も洗練されてるって言っていたのを覚えてる。しばらく文通をしていたんだけど、その子は落ちちゃって。淡い、そういう感じの(笑)。楽しそうに、我々や母親に話すくらいだからね、たいしたあれじゃない。

大浦:お家でそんな話題があったんですね。長い休みになると一夏、夏期講習のときなどは、お姉様の下宿でって話がありましたけれど。

利恵子:私は逆に、知子叔母さんのところに。

剛:(合格発表のときの写真を差して)この叔母さん。花小金井にいた。

利恵子:母の妹ですね。一番末っ子。でもね、高1のときに来たときはまだ知子叔母さんは中落合かなんかの建設会社の社宅にいたのでね。そこから通っていましたね。それが中学かもしれない。中3くらいから行っていた。

剛:行ってないよ。

利恵子:たぶん知子叔母さんの家が、そんなに早く花小金井にできなかったもの。

剛:違うと思うけど。

利恵子:本当? 高1かもしれないけど。

鏑木:では、高校1年生くらいから受験のための勉強で東京に来ていて。

剛:二葉祭のポスターがあるでしょう。銀色とピンクと紺色の、登恵子カラーと言われた。あのとき、二木先生が東京(銀座・櫟画廊)で個展をやって彼女が見に行って、「先生、これをぜひ二葉祭でやってください」と言っていたんです。先生は最初は断ったんだけれども、押しの強さに負けて展示したっていう。水を張って(壁面に展示された作品を水面に)投影して、インスタレーションですよね。

鏑木:大浦さんと二木先生のところにお邪魔したとき、「たまたまそのときの作品が出てきたよ」って、見せていただきました。

剛:(指で波線を描く仕草)こういうのね、“ミーコ”っていう。

七菜:(鏑木の持っている岡谷で撮影した写真を見ながら)これ、トコちゃんが描いたの?

鏑木:これは二木先生の作品で、諏訪二葉高校の応接室にかけてあったものを撮影させて頂きました。この不思議な形を先生が“ミーコ”と呼んでいて、櫟画廊でもこれを布で立体的に縫って綿を入れたような……。

大浦:オブジェにしたものを、土台に大量に貼ってある作品です。66年ですね。

剛:66年か。そのときの斬新なポスターに、今の作風が出ていますよね。

鏑木:今見ても、かっこいいポスターですよね。そのときは先生が個展をしているからというのもあると思いますが、当時どばたに行くために東京に出て、展覧会をいろいろ見ていたんでしょうか。

剛:そうだと思うんだけどね。何を見てたのか、ちょっとその辺は。銀座に行っていたかどうかですよね。

利恵子:先生のを見たいから、二葉でやって欲しいっていうのも聞いたような気がするんだけどね。

大浦:その頃の美術コースの同級生のお話の中に、「週末、金曜日の放課後は私は家に帰るために中央線の下りに乗って、登恵子さんは東京に作品を見てもらうために行って、帰ってくると、そのときに教わった事や見た展示をいろいろと話して聞かせてくれるのがお決まりになっていた」というようなお話がありました(「土曜の授業が終わるとトコは登りの電車で東京へ。私は下りの電車で家路に…。」美術コースの仲間だった浜育子さんの思い出。諏訪二葉高校同窓会会報『ふたば』第34号、2016年、特集「辰野登恵子」座談会、p.12。同じ座談会の記事内に、他にも類似の言及あり)。そうすると、長い休みの講習だけじゃなくて足繁く東京へ作品を見せに行ったり、展覧会を回ったりっていうことがあったのかと想像していたんですけれども。

利恵子:そうそう、ときどき来たかもしれない。岡谷のお菓子を持って来たりしていて、私も楽しみで待っていたから。そんなに回数は多くなくてもね。

大浦:そうなんですね。

鏑木:ちょっと教えて頂きたかったのは、辰野さんのお話の中で受験勉強について「どばた」と「講習」とふたつの言い方が出てくるんです。「芸大の講習」というのは、芸大が受験生向けにそういう事をやっていたのかとも思ったんですけれども、どばたの講習の事なんでしょうか。

剛:芸大の講習……ちょっとそこまでは(笑)。

鏑木:そうですか。とにかくどばたで受験勉強のために、夏期講習や冬期講習の間はずっとお姉さんと一緒に生活されていた。

剛:谷(新)さんと大石(一義。作家、グラフィックデザイナーで辰野の友人)さんが宇都宮で対談したとき(「辰野登恵子 愛でられた抽象 宇都宮美術館コレクション展特集展示」宇都宮美術館、2016年7月31日-9月4日)、セザンヌの《キューピッドのある静物》の模写について書いてくれましたよね(谷新「辰野登恵子/天に魅入られた絵画―主義、概念を超えて「表現の起源」に降り立つ―」『辰野登恵子 愛でられた抽象』宇都宮美術館、2016年)。実は、(辰野の)セザンヌの模写ってコップが中心に置いてあるんですね。(宇都宮のカタログを見ながら)あぁ、それそれ。それ、まだあるんですよ。後で見せますね。

大浦:ありがとうございます。

剛:そういうのをやっていたんだな、と。

大浦:67年ですね。

剛:そういえば、家にそういうものを持って帰って来ていたような気がするな。あとは家で描いたりして。それは家で描いた絵でしょうからね。行ったり来たりしていたと思う。

鏑木:そうなんですね。さっき話した坂本一道さんのお話で、どばたで登恵子さんが話題になっていたそうです。予備校で初めて皆と一緒にデッサンをすると、皆上手いから萎縮しちゃう子も多いけれど……。

利恵子:そうなんですか。

剛:あぁ、意識しちゃう。

鏑木:登恵子さんは常に堂々としていて、それが講師の間で話題になっていたそうです(笑)。坂本さんがおっしゃっていたと、二木先生からうかがいました。

剛:だいぶ目立っていたみたいですよ。

利恵子:室越先生が、そのような話をしていましたね。

鏑木:「まるでプロみたいだ」と、予備校の先生同士で話していたそうです。先ほども、デッサンを結構やっていたということでしたけど、それは……。

利恵子:とにかく必死でやっていたので、たぶん自信をつけたんでしょうね。そのくらいの感じで、きっと東京に行ったんだと思いますね。登恵子らしいです。みんなの前では堂々と描こうと思っていたでしょうね。すごいですよ、とにかくバイタリティで。全てに対してそうよね。

剛:姉弟の面倒とかすごいんですよ、全部。

利恵子:子どもたちにも、いろいろとアドバイスが。

剛:ちょっと話が飛ぶかもしれないけど、私は名古屋で結婚式をやったんですね。そのときも姉が布池教会っていうところを紹介してくれて。

七菜:あぁ、トコちゃんの紹介だったんだ。

剛:そういうのとかね。なぜかいろいろ、よくやってくれる。診療所を開業するときも、物件も一緒に見てくれたりとかして。

利恵子:そうだ。「だめだめ、あんなところは」って言ってね。

剛:もうね、うるさいの(笑)。

一同:(笑)。

剛:母親っぽいよね。似てるのよ。

七菜:似てるよね。

利恵子:似てるよね。

大浦:七菜さん、加菜子さんが印象に残っていることや、親身になってもらったこと、すごく厳しいアドバイスなど、覚えていることはありますか。

七菜:分野は違っても同じ芸術なので、言葉でもアドバイスはたくさんあったのですけれども……。
私が物心ついた頃から、トコちゃんはいつも絵と向き合い描いている、という印象を持っていました。だから、これくらいやらなきゃプロにはなれないんだ、というのは見せてくれていた。あとは私も音楽高校、大学に入って、その頃から厳しいだけじゃなくて、すごく優しい言葉もかけてくれて、どんなにだめなときでも支えてくれる。「大丈夫、あなたにはこういうのがあるから大丈夫。だからやりなさい」って。励ましてくれていた。
昔のアトリエは、ここがオープンだったんです。あっちにはキッチンがあってね(旧アトリエは現在と同じ場所。2006年に改築して現在の建物になった)。私は頻繁にこのアトリエに来て、よく絵の前で(ヴァイオリンの)練習をしたりしました。叔父も一緒だった。度胸試しじゃないけれども、試験の前とかコンサートの前には、必ずここに来て弾いていました。そういうときはそんなに厳しくなくて、とにかく自信をつけてくれる言葉をいっぱい。もともと自分は自信がない方だから、それですごく助かりました。
あとは大学で海外に行ったときにも、「努力なくして、何も成功はないから」って。トコちゃんが高校のときの話も聞いていたから、私も朝練に行ったし、門が開いたら入るような影響も、叔母から受けました。あとは、「プロになっても、努力は惜しまずどんどん行け」って。厳しいっていうか、なんだろう。がんばりましょうって、波に乗せてくれる人。最後までずっと。

大浦:ここで演奏されてたりもしたんですね。

七菜:演奏っていうか、よく練習していました。「この部屋は24時間大丈夫だから、夜中もいいよ」って。

鏑木:懐の広い、オープンな感じがしますね。

七菜:そうですね。

鏑木:加菜子さんはいかがですか。

加菜子:私はもう本当に実の母親より厳しい感じがあって、その当時つきあっている友だちのことで怒られたり。「そういう人とつきあっちゃだめ」とか。

剛:(笑)。

加菜子:本当に厳しくて。それでけんかをしたこともありますし、でも自分の世界を広げてくれた人でもあるし、それが音楽だったりもちろん絵のこともいろいろ教えてくれたり、いろんな所に連れて行ってくれたり。本当に知らないことをたくさん教えてくれたので、今の私の好きな事もトコちゃんの影響がすごく絡んでいたり。

鏑木:そうなんですね。小さいときは、おとなしいお子さんだったそうですが。

利恵子:そうなんです。

鏑木:それがいつのまにか、頼もしく。

利恵子:そうですね。小学校高学年からかな。

加菜子:性格が変わったの(笑)。

七菜:でも子どものときって、言葉に出ないじゃないですか。きっとどんどん言葉に表現できるようになってから、出たんじゃないかと。思っていることは、小さかったときもあったんじゃないかな。じゃないと、ああいう強い気持ちでどんどん勉強できないと思うんです。私の勝手な想像。

鏑木:そうかもしれないですね。お母様譲りの。

利恵子:そうですね。私は長女ですけれども、頼りにしてました(笑)。

剛:辰野家の仕切り屋だったもんな(笑)。中心的、どっちかって言うと父権というか父親的なタイプだったと思う。母親もそうだったんだよね。親父がわりと穏やかでひっそりとしている感じ。ちょっとこう、違うんだよね。

七菜:岡谷の家に遊びに行ったときのことですが、朝起きてキッチンに行くと、すでにテーブルの上に素敵なお花が活けてあるんです。トコちゃんがすごく感心して、朝ご飯を食べながら「これ、お父さんが摘んできて活けたの?」って。すごく感心して、「私のこの色彩感覚は、もしかしたらお父さんから受け継いだのかしら」って、何度も言っていたわ。本当に美しいんですよ。

剛:あぁ、言っていたね。

七菜:だからおじいちゃんも、間接的に影響を与えていたのかなって。

利恵子:父もね、会社を辞めてから自由な時間がいっぱいあるじゃないですか。庭の端でトマトやキュウリを作ったり、お花植えたりして。そういうのを採ってきて、食卓に飾るのが父だったんです。それ見て、登恵子が感心して「お父さん、これすごくいい」って褒めていた。晩年はそんな感じでしたね。父がね、もう喜んじゃって。ナツメの木があるんですけれど、それも採って飾っていたので、信濃毎日新聞の挿絵にナツメの作品があります(2006年、信濃毎日新聞に1年間連載された辻井喬「漂流の時代に 辻井喬思索日記」のために描かれた挿絵のこと。後述)。茶色い、つぶつぶの。それで七菜に話したのは、月にかかる電線が岡谷の月で……。

剛:あぁ、そうそう。

七菜:岡谷の家には行かれましたか。

大浦:近くまで行ったんですけれども、真っ暗になってしまって。

七菜:(信濃毎日新聞の挿絵のファイルを見ながら)これですね。満月の日にアトリエに一緒に行ったときに、「あ、満月! 七菜ちゃん、ちょっと来てみて」って言われて、「これを描いたんだよ」って、そのモデルとなった場所を教えてくれたんです。

利恵子:アトリエと母屋が、ちょっと庭を通らなきゃいけないような感じでね。アトリエと言ったって、そんなに立派じゃないけど。そこで描いていたとき。

七菜:お庭なんですけれど、門を入ってすぐに大きな石があって、そこから天竜川沿いに見たときのアングルがそれ。

利恵子:あと、ナツメっていうのは黒いので……。(ファイルから探しながら)黒くて実がいっぱいなるので、ひとつぶひとつぶが……。

加菜子:(ファイルを見ながら)これが岡谷の山だよね。

鏑木:1回、ここでお休みしましょうか。

(休憩)

大浦:(ファイルを見ながら)本当に日常的な器とか(笑)。

七菜:割れた器の話、聞きました?

大浦:うかがってないです。

七菜:一緒に笠間に行ったときだったかな。私がオーケストラに入団してすぐ、趣味で何かやりたくなって、夢だった美大の夜間に通って陶芸をやっていたんです。

大浦:そうなんですか。

七菜:トコちゃんがすごく喜んでくれたんです。まさか家族で美大に行く人がいるなんて思ってもみなかったと。私は「でもトコちゃん、これは夜間だから」とか、「趣味だから」とか言って。そのとき、日本に帰ってきたら窯元に行ってみようと、叔母の提案で2003年の夏に笠間の伊藤公象先生の窯元に行ったんです。叔母が先生と知り合いということで、このような機会がいただけたんです。そのときに、そのアトリエで見た、割れたお茶碗がすごく印象に残ったみたいで。瀬戸には2005年に(辰野の陶芸への関心については、「水と土の芸術祭」2018年で公開された「水土アーカイブ」内にある谷新のテキストに詳しい)。

大浦:そうなんですね。

鏑木:やっぱり割れた形とか、そういう何気ないところに目がいくんですね。

七菜:そうみたい。たぶん加菜ちゃんもそうだと思うけど、トコちゃんのおかげで一緒にいて視線や見るところ、見方が変わるっていうか。ボタンでも……ああ、そう。後でボタンの話をしようかな。なんだろうか。普通の物なんだけれど、叔母の目を通すと特別な物に変わって見えていたり。

剛:「不毛なもの」っていう言葉、後で出てくるかもしれません。その辺りの話。そういうものをこう、組み合わせる(注:辰野は初期の作品のモチーフとしたタイルや原稿用紙のマス目、ノートの罫線などを「不毛なもの」と呼んだ)。

鏑木:今日お持ちくださったスケッチブックは、岡谷のお家に長いこと……。

剛:そうなんです、けっこうゴミの中に入っていて(笑)。誰も住んでいないのでちょっと探しました。インタヴューもあるので、何かないかなと思って見たら、写真とかこれも出てきて。ずっと置いてあったんです。

鏑木:ありがとうございます。この写真はびっくりしました。名前が出ていて良かったですね。(合格発表に掲示された名前と)一緒に撮影ができるっていうのは、今はないから。

剛:そうですよね。番号だけだと、つまんないですよね。それでね、犬を飼っていたんです。(犬の写真を見せながら)この犬がね、ポール・マッカートニーのポールって言う。

鏑木:かわいい名前!

剛:かわいいでしょう。

鏑木:(合格発表の写真を見ている大浦に)他に誰かいますか?

大浦:柴田(敏雄)さんが同じ壁に。231番。

七菜:えーすごい! 見せて。

大浦:同級生だから。

剛:鎌谷(伸一)さん、写ってないかなぁ。

大浦:探したんですけど、鎌谷さんはなかったなぁ。

剛:(別の写真を見ながら)それはね、岡谷。駅のすぐ近くに工場があってね、今はもうないんですけど。

大浦:後ろに建物が見えている……。

剛:これが自宅だったんです。ちょっとはっきりしてないけど。こっち側に工場がある。昭和33年に僕が4歳のときかな、工場を始めたので。

大浦:じゃあご自宅のすぐ、敷地内に。

剛:隣がすぐ工場だったんです。

大浦:白い花、なんだろう。コデマリとかかな。

剛:皆、ここで産まれたんですよ。昔はお産婆さんだから、病院には行かないで。

鏑木:今回、写真がたくさん見つかったんですね。

利恵子:この前とは違う写真(注:以前、大浦と鏑木がアトリエを訪問した際も写真を拝見した)。

鏑木:ええ、ええ。

利恵子:(別の写真を見ながら)これは大阪(在住)のとき。

鏑木:「絵画の問題展」(西武美術館、1980年。後述)のカタログの別カットみたいな感じ。これ、制作中ですね。

利恵子:(別の写真を見ながら)これは(東京国立)近代美術館のオープニングのときのですよね。

剛:いいね、それ。

鏑木:ご自分でも描きながら、(作品を)撮ったりしていたんでしょうか。

利恵子:も、していたんですね。きっとね。それか、もしかして写真家が撮ってくれたかもしれない。

剛:これは写真家っぽいな。

七菜:あのね、本人はあんまり撮らなくって。

鏑木:あ、そうですか。

七菜:「私、写真撮れないから撮って」って言われたことがよくある。

大浦:これは大阪のお宅ですか。

利恵子:そうなんです。結婚して、大阪に行っていたので。

大浦:広いですね。

利恵子:ね。アトリエが一応あるくらいなので。

大浦:すごい。

加菜子:広いね。

利恵子:(別の写真を見ながら)これが大学のときの古美術研究? 奈良の。

鏑木:じゃあ3年生ですね。このコート、他のシーンでも出てきますね(笑)。

大浦:(笑)。

利恵子:(別の写真を見ながら)これ(写真)はちょっと大きくしたのね、岡谷で。追悼展のときに使いたいって言われて。そう、大阪ですねここもやっぱり。

加菜子、:それいいよね、写真。

鏑木:いいですね。(写っている作品を指して)これ、200号くらいですか? 大きいよね。

大浦:そうですね、200号くらい。これは取材でしょうね。

剛:(別の写真を見ながら)これ、二葉の修学旅行かなぁ。

鏑木:鹿と一緒に(笑)。

七菜:あぁ、かわいい。

大浦:(笑)。

剛:これは芸大時代。

七菜:着ている洋服がおしゃれですよね。『セブンティーン』というのを見ていたから、その影響があるのかな。

大浦:(おどけたポーズの写真を見ながら)あははは!

鏑木:辰野さんって、ユーモアのセンスがある方ですね(笑)。

利恵子:そう、おもしろい(笑)。

剛:これは(犬の)ポール。

加菜子:これ、ポール?

七菜:かわいい。スヌーピーみたい。

利恵子:私がもらってきた犬だったんです。

七菜:もらってきたの?

剛:トコちゃんが「ポール」ってつけたんだよね。猫も「ビル」っていう。

利恵子:お母さんか登恵子が。

剛:(別の写真を見ながら)これはどこだろう。手をつないでいるこの女の子、誰だったかなぁ。名前がちょっと出てこないけど、うちによく遊びに来てた。

利恵子:どれどれ?

剛:これは高校、修学旅行。ショートカットのときもあるんだよね。

利恵子:(別の写真を見ながら)アメリカに行ったときに、とにかくこういうボブスタイルだった。

大浦:柴田さんと一緒に写っている写真は、ショートカットでした。

利恵子:1年のときですかね。

鏑木:そうですね。あ、違う。(写真に写っている刷り台を見て)これはシルク(スクリーン)じゃなくて、リト(グラフ)ですね。

剛:違うか、じゃあ。芸大じゃないですね。

鏑木:でも芸大かもしれません。

大浦:ぽいですね。

鏑木:うん。学校の中っぽいですね。

剛:ねぇ。中野(に住んでいた頃。後述)の写真がないかと思って、探したんだけどね。

鏑木:あぁ、なかったですか。残念。

剛:中野でもやっていたと思うんだけどねぇ。

利恵子:やっていましたよ。

剛:現像の機械とか、あの引き延ばし機とかね。(別の写真を見ながら)古色蒼然としていて。コスモス・ファクトリーの3人。

鏑木:これは新しいショットですね。見たことがないですね。

大浦:ないですね(笑)。

鏑木:あ、これ芸大ですね。

剛:芸大ですか、あぁ、そうなんだ。

大浦:わかる?

鏑木:うん。これ、芸大だよね。

大浦:あぁ、そうですね。後ろが(芸大の絵画棟)。

剛:まだ若いよね。高校のときの写真に混じっちゃっていて……。これ、誰の作品ですかね。一緒に出てきたんだけどさ。

鏑木:これ、銅板ですね。

大浦:あ、(版が)彫ってある。

利恵子:これ、ジェリー……。

剛:ジェリービーンズの作品。(別の写真を見ながら)これ、鎌谷さん。

鏑木:あ、本当だ。諏訪湖に3人で行かれたときの写真が、鎌谷さんの作品集の中にありました(『鎌谷伸一版画集 一九七五年-二〇〇九年』阿部出版、2011年)。

剛:あるの?

鏑木:(作品集を見せながら)そうなんです。だからコスモス・ファクトリーのお三方で、きっと岡谷の方までいらっしゃったのかなって。

剛:岡谷に来たかもしれないねぇ。

加菜子:あ、本当だ。

剛:あ、これ知ってる。

加菜子:これ、諏訪湖なの?

利恵子:そうよ、岡谷に来たのよ。

剛:あれ、これ柴田くん? 違う人みたい。南こうせつみたい。

一同:(笑)。

利恵子:柴田くんが、霧ヶ峰の運転が大変だったって。

剛:あぁ、そう。ひっくり返ったんだよね。

加菜子:えぇ! 事故ったの?

利恵子:ヘアピンカーブを。

剛:雪でしょ、あれ。

利恵子:なんだか知らないけどヘアピンカーブで、もうだめかと思ったって。

加菜子:トコちゃんも乗ってたの?

剛:乗ってたの、皆乗ってた。

鏑木:(別の写真を見ながら)女優さんみたいだね。前髪があるの、かわいい。

大浦:うん、かわいい。

剛:(別の写真を見ながら)これはコンサートに行ったとき。ブラッド・スウェット・アンド・ティアーズっていう。

加菜子:ブロック・スウェット・アンド・ティアーズ?

剛:ブラッド・スウェット・アンド・ティアーズ。ちょっとカントリーっぽい。3人で行ったんだっけな。俺も行ったんだよな、覚えてる。

大浦:これは客席から撮影したんですよね。柴田さんですか。

剛:どうだったのかな、鎌谷さんか。

加菜子:どこだろう、それ。武道館とか?

剛:どこだったかなぁ。映画でも、アメリカン・ニューシネマっていうのが好きだった。僕なんかはほら、ゴダールとかさ。ヌーヴェルヴァーグ。でも皆はあんまりそういうのは関心なくて、おもしろいなと思った。

鏑木:やっぱりアメリカなんですね。

大浦:そうですね、はっきりしてる。

剛:はっきりしてる。フランスはあんまりね、あの人は関係ないですから。

加菜子:やっぱりアメリカだもんね。(ブラッド・スウェット・アンド・ティアーズを調べて)71年に初来日して武道館でコンサートを行っている、だって。

剛:71年だ。

鏑木:へー、71年。4年生のときかな。

大浦:3年生。

七菜:私が産まれたときに4年生だったんだ。

剛:七菜ちゃんが中野に来たとき、覚えてる。一番小さいとき。階段を登ろうとして「危ない危ない」って。

七菜:「危ない危ない」って?

剛:「だびじょぶ、だびじょぶ」って。

一同:(笑)。

七菜:赤ちゃんのとき、柴田さんが写真を撮ってくれたんですよ。

大浦:すごい。

七菜:ねぇ!

鏑木:そうですか。その頃は、中野ですか。

七菜:千駄ヶ谷じゃない? 産まれたばっかりの頃。

剛:千駄ヶ谷にいたのよ。

七菜:で、遊びに中野に行ったんだ。

剛:中野に来たの。

鏑木:(アトリエの天井を見上げて)すごいですね。晴れているときにはきっと、あそこから陽の光が入ってくるんですね。

加菜子:けっこう明るいんですよ。

大浦:あ、上も窓が切ってあるんですね。

剛:ここもね、大変だったみたい。確か、女性の建築士だったよね。違ったっけ。

加菜子:そうなんだ。

七菜:そうだね、女性だった。

鏑木:へー、いいですね。確か二木先生が二葉高校の同窓会誌に、辰野さんについて書かれていましたね。辰野さんがお亡くなりになったとき、ここ(アトリエ)に泊まりに来ようとしたこと(二木六徳「主なきアトリエを訪ねて」諏訪二葉高校同窓会会報『ふたば』第34号、2016年)。

剛:先生が寝袋を持ってきたので、阻止したの(笑)。それで結局、杉並の私の家にお泊めしたんです。

七菜:ここで?(笑)

剛:ここでね、なんかこう、思いを感じたいっていうのがあったみたい。

七菜:そうだったんだ。

剛:むちゃくちゃいい先生だよね、あの先生は。

七菜:うん。それは、どういう話なんですか。

鏑木:二木先生はここに泊まって、辰野さんへの思いを巡らせたり、辰野さんを感じたりしたかったんだけれども、実際はそれが叶わなかった、と。それならせめて、ここで辰野さんの思考の断片が読み取れる、ノートやメモなどを見ることができれば、と考えたそうなんですが、そういったものはあまり遺されていなかったそうですね。

剛:結局亡くなる前はまだ、そういう自分がエンドステージにいるっていうのがあまりわからないという感じだったし、これからも描き続けたいというのがたぶん強くあったので、あまりそういうものは遺したいと思っていなかったのかもしれないね。そういう意味ですか?

七菜:入院中もデッサンをしたいから、母に「紙を持って来て」と言っていたの。その紙もなぜか見つからなかった。

利恵子:そうなんですよ。デッサンの手帳がね、どうして見つからないかねぇ。いっぱい描いていたのにねぇ。

剛:あ、そうなんだ。

利恵子:うーん。

七菜:病院のところで。

剛:どこで?

加菜子:慶應(義塾大学病院)。

剛:あ、慶應ね。慶應のときはなぁ。

七菜:でも元々なんか……わからない、間違ったことを言っちゃだめなんだけど、ずいぶん昔にトコちゃんとデッサンとかそんな話をしたときに、「一気にもうキャンバス(に描く)」って言っていた。「頭にもうあるから、一気に」と。

鏑木:じゃあそういう物は、元々あまりないかもしれないんですね。

七菜:少ないのかもしれないんですけど……(スケッチブックを見ながら)。

剛:(今回、持参されたスケッチブックを指して)これ全部、中野の時代だと思うんですよ。デッサン、クロッキーみたいのは、その前かもしれない。学生にしては上手いよね、あれ。学生じゃないんじゃないかなぁ。高校生じゃないんじゃないですかね。

七菜:ただそういう、下絵とか下書きみたいなアイデアのスケッチはパリではすごくしていたんですけれど、それがどこにあるのかはわからない(注:パリIDEMで制作した〈AIWIP〉シリーズの下絵やエスキースは、後日多数発見された。紙に油彩で描いたものをはじめ、工房での試刷りの裏紙やトレーシングペーパーに描いたものなど多様。インタヴュー時に準備中の「辰野登恵子 オン・ペーパーズ A Retrospective 1969-2012」展では、版画と一緒に展示予定)。

(インタヴュー後半に続く)