文字サイズ : < <  
 

照屋勇賢オーラル・ヒストリー 2008年9月28日

ニューヨーク、ブルックリン 照屋勇賢のスタジオにて
インタヴュアー:手塚美和子、由本みどり
書き起こし:渡邉亜由美
公開日:2010年2月28日
 
照屋勇賢(てるや・ゆうけん 1973年〜)
美術家(立体、インスタレーション)
沖縄県出身。1998年以降、アメリカを活動拠点としながら世界各地で多くの展覧会に参加。ファスト・フード店の紙袋、トイレット・ペーパーの芯、高級ブランド・ブティックの使い捨てショッピング・バッグなどを使用した、現代の消費社会を浮き彫りにする作品群がよく知られる。また、沖縄の歴史的背景やアメリカとの関係を地政学的に検証しつつウィットを利かせたインスタレーションや紅型職人の協力を得て制作されるテキスタイルを取り入れた作品は評価が高い。このインタヴューでは、2007年のアジア・ソサエティ美術館での個展を担当した手塚美和子が聞き手となり、照屋が故郷沖縄の美術と美術による地域活性化の活動にさらに力を入れるなか、国際的なアーティストの立ち位置を確立するまでの経緯を語ってもらった。

手塚:まず最初にお伺いしたいのは、出身地と、それからファミリー・バックグラウンドみたいなことなんですけど。出身は沖縄でいらっしゃいますよね。

照屋:はい。沖縄です。

手塚:沖縄では、ご両親の職業が何かアートに関係することだったりしたんですか。

照屋:関係はないですね、ほとんど。ただ母親側の家族は面白い人たちがいっぱいいます。

手塚:どういった意味で面白いんですか(笑)。

照屋:そうですね。実は母親側の妹、僕のおばさんに当たる人が、かつて美大生を目指したことがあったり。みんなマンガ好きですね。

手塚:マンガ好き。

照屋:マンガ好きで、いつも話の内容がおもしろい母親。それに対して父親側っていうのはいつもこうシリアスに「生活をどうするんだ」とか。

手塚:現実的な考え方。

照屋:そうですね、現実的。

手塚:じゃあお母さまのほうが結構文化的というか、芸術的にオープンな。

照屋:そうですね。オープンな人だった。

手塚:お生まれになった年が1973年ですよね。そのころ沖縄っていうのはどういう感じでしたか。

照屋:73年の沖縄。これは原風景としてはなんかね、まだバラックのような建物があった気がします。まだこう、殺風景な雰囲気がなんとなく記憶に残っていますけど。

手塚:沖縄の市とか、名前を教えていただいても、場所的には分からないかもしれないですけど、どのあたり?

照屋:僕は沖縄の、島尻郡南風原(はえばる)町、津嘉山(つかやま)っていう部落。那覇から車で10分くらい南のほうに。

手塚:那覇から南に車で10分。他に原風景で何か覚えているといったら。

照屋:あの時、生まれたちっちゃい頃は……

手塚:結構多感な少年時代とか過ごされてたりとかしたのかしら。アートに興味をもたれるっていうようなセンシティヴィティーをその当時から持っていらしたとか。

照屋:絵を描くのが好きだったことはあります。鉛筆と紙さえあれば、何かもうふかふかのソファにいるような感じでした。それで充分みたいなところで。

手塚:じゃあ小さい頃からよく絵を描いて。

照屋:はい。絵を描くことと、あと虫が好きだったこともあります。

手塚:虫?

照屋:何かいつもバッタの絵を描いてたって、前に幼稚園の先生から聞きました。バッタの観察とかをしてたんです。

手塚:生物学者的な感じですけど(笑)。じゃあそのころから、やっぱり描くほうがメインで? 別にものを作るとかそういうことではなく。

照屋:逆に、作るのは苦手意識があったような気がします。基本的に絵を描く環境は自分のうちで鉛筆を見つければいいとか、学校で先生から与えられるものだったと思うんですけれども。だいたい絵が主流だったような気がする。描くことが。その中で1度、木をカッターナイフで削って、何かを作るっていう工作があったんですけど、結局できなかった。上手にできずにそのおばさんが僕を助けて切ってた(笑)。助けてくれたっていうか、僕はこういうふうにしたいとかアイディアを伝えて、おばさんが彫ってたっていうことは、ちょっと記憶にあります。

手塚:えー。じゃあ立体よりは描くほうが良かった。

照屋:そうです。ちょっと今の制作の仕方と似てるかもしれないです。

由本:ふーん、それはアイディアを伝えて。

照屋:アイディアを伝えて職人さんに作ってもらう。

手塚:そうですね。じゃあ結構、後の制作の方法に関わってくるような感じもありますけど。でも絵でバッタの絵を描いたりしていたっていうことは、やっぱり自然を観察してそれを描く、抽象というよりは、何かを見て描くっていうような姿勢だったんですか、その頃は。今も結構、自然環境とかを観察されて作品にされているので。

照屋:その時はあんまり。その小学校、中学校まで特に風景がいいとか、人物がいいとか別にあんまり制限してなかったです。ただ何か「自分は絵を描くことが好きなんだ」っていう自覚が少しずつ出てきて、それをちゃんと分かってくれる先生たちに恵まれていたかもしれない。

手塚:じゃあそれはもう小学校の時?

照屋:はい。何か、中学校か小学校か、ちょっとうまく思い出せないんですけど、何か絵のコンクールがあって絵を終わらせたい、でも時間がないっていうときに、ある時間、掃除の時間とかを省いて僕に絵を描く時間を作ってくれたり。「終わらせたい」っていう気持ちをちゃんとくんでくれた先生が何人かいましたね。そういう周りの協力がさらに、何ですかね、自信というか、「やりきろう」っていう気持を支えてくれたんじゃないかなと思う。

手塚:そのころじゃあコンクールで何か賞を取られたりとかは。

照屋:そうですね。地元の小さな、沖縄県の本島の南部のまた更にちっちゃいコンクールで、一応賞はもらえてた。

手塚:じゃあ、アートっていうもの自体を意識したのは結構小さい頃からっていうことなんでしょうか。

照屋:まずはお絵かきですね。ただ、「絵は描ける。他の生徒よりもオレ真剣に描いてるぞ」っていう意識だけはちゃんとあった気がします。

手塚:結構プロの意識ですね、その時から。じゃあ「アーティスト」になりたいって実際に思ったのはどのくらいの年齢の時でしょう。

照屋:ずっとアーティストになりたいっていうよりか、「アーティストって何だ」っていうのをずっと考えてたと思うんです。

手塚:もうその当時から。

照屋:まぁ中学入ってからですけど。「芸術家」って言葉があるじゃないですか。で、「芸術家」と「絵描き」の違いは何なんだとか。あと単純に、何で食えないのに芸術家ってあるんだろうとか。でも芸術家って絵描きより何かもっと広い活動をする人たちなんだろうな、とか。芸術家って、漠然とですけど、憧れが少しあったような気がしますね。

手塚:特定して誰とかいうイメージってありました? 芸術家だったらこんな人、絵描きだったらこんな人とか。

照屋:いや、ないですね。まあ、漠然とダ・ヴィンチとか想像はしてたと思うんですけど。

手塚:じゃあ学校の美術の時間に見た画集とか。こういう人たちが絵描きでいて、とか。

照屋:そうだと思います。だから、具体的に絵描きとか絵の方に意識が集中する環境にいきなり追い込まれたのは、高校に入ってからだと思います。いわゆる大学受験っていうのが。高校受験もそうでしたけど。美術コースのある進学高校に入ったので。

手塚:じゃあ沖縄の。

照屋:沖縄の。その準備で徹底してデッサンをしなきゃいけなくて。その後に徹底してデッサンを中心に何か専門を決めて大学を選んで、目指すじゃないですか。そこでもう芸術家って何だっていうのがどんどん削ぎ落とされて、もっとプラクティカルな部分に入っていく部分も増えてきました。それでも、その時油絵科をとりあえず選んだんですけど、油絵科で無事に美大入ったとして、その後どうするんだっていう、油絵科でそれでいいのか、とかう疑問は、何となくうっすらとありましたね。

手塚:じゃあ油絵だけで満たされなかったらどうするの、みたいなそういう感じ?

照屋:それもあるし、本当にそれがしたいことなのかってちょっと思ってたのかもしれない。それもいつの間にか消えて、それよりも大学入んないといけないだろうみたいな感じになって。でもやっぱりそれがこう、浮き沈みしていました。大学入らないといけない、入りたい。でも入った後、それで人生終わるわけじゃない。それから先ずっと続くから、そういった意味で大学の位置づけって何なんだとか。本当に美大でいいのかとか(笑)。

手塚:じゃあやっぱり美大に行くか、普通の大学行くかでも葛藤があって。

照屋:そうです。本当は美大で、美術の専門なんだけれどちゃんとその後の生活も組んだプログラムが入ってる美大が理想的なんだろうなと、漠然と考えていました。

手塚:ありましたか、そんな美大。

照屋:その時、漠然と筑波大なのかなぁと思ったんです。美術家のコースもあるし、教育学校としてもよく知られている大学だっていう印象があったので。バランスいいんじゃないかと思ったんですけど。でもそれも高校1年のくらいの時で。そのあとたまたま上京して、東京の予備校に夏期講習に参加したら、みんな(東京)藝大一本で。みんな絵だけ描いてれば藝大に、っていうか藝大に行くには絵をもうずっと描かなきゃ間に合わないっていう世界を見てしまって。それに憧れちゃったんですよ。

手塚:あ、その雰囲気に。

照屋:何ていうんですか、「絵一本だけ」っていう、その一途な世界にどっぷり一夏浸ってしまって。何の理由もなく藝大に行ってみたい、ああいう人たちが集まる場所なんだ、っていう漠然とした憧れがあって。それからどんどん勉強しなくなった(笑)。言い訳かもしれないけど。

由本:絵のみに集中するようになって(笑)。

照屋:最初は冷静に考えてた目的がどんどんなくなってしまって。

手塚:逆にじゃあどんどん情熱的に、「絵描きになる!」みたいになった。逆パターンと言えば逆パターンなんでしょうね、普通の作家さんと。大学に入ってから、「入ったけどこの後どうしよう」みたいな現実に目覚める人って多いですけど、逆にもともと結構先のことを考えつつ、「アーティストになったらどうそこにつなぐか」みたいなことを考えていたっていう感じですか。

照屋:父親の存在がおっきいと思うんですよ。まず、さっきも言ったように父親は本人も相当苦労してるんですけど、家族は生活に相当苦労してる。その中で育ってきて、生き方も、多分彼自身行きたい方向があったと思うんですけど、それよりももっと現実的に職を探すためにこの専門を選ぶとか、それを優先した生き方をしてきたんじゃないかと思うんです。そこで僕が美術のコースのある高校に行くって言ったときに、やっぱり真っ先に「お前どうやって食っていくんだ」とか、「美術はいったい何の役に立つんだ」っていうのを、ずっと聞いてきたんですよ。絵で賞を取って来ても、母親は手放しで喜んで「もっとやれ、もっと才能を伸ばせ」みたいな感じなんですけど、父親はすごく冷やかでした。その父親から直接ほめられた記憶があまりない。

手塚:今でもですか。

照屋:…… 

手塚:厳しいですか。

照屋:今はやはり僕の生き方を見てきて、「大丈夫なんだ」とか、すごくストレートな言い方ですけど、「食えるんだ」っていう意識は正直新しく生まれたんでしょうね。でもやっぱり、ずっと小学校から高校にかけてその葛藤がありましたね、父親との。でもお金を出すのは父親じゃないですか。だからどうやって説得して美術のある高校、大学に行くのかっていうのが、どっかで頭にあったんだと思う。それで分かりやすい方法としては、進学校を選ぶ。たまたま進学校には美術コースもあるし、名前で、別の部分で売り込んでいく。知ってる高校とか。

手塚:何ていう高校だったんですか、ちなみに。

照屋:開邦っていう高校。初めての県立の進学校だったんです。

手塚:沖縄県立開邦高校。

照屋:僕は4期ですごい最初のころだった。沖縄県が頑張って、本土に追い付こうとして作った学校(笑)。

手塚:でも画期的ですね、アートのクラス。

照屋:初めてでした。同時に沖縄県立芸術大学ができる時期でもあったんですよ。だからそれを意識したと思います。

手塚:大学を選ぶ段階ではじゃあ、沖縄県立のその美術大学は視野には入っていたんですか。それともやっぱり東京?

照屋:そうですね、父親を説得するためにはやっぱり東京の大学行ったほうがいいんじゃないかと思いました。

手塚:それで筑波とかも考えてたし。最終的に行かれるのは多摩美なわけですけど、他にはどこか色々受けられたとこは。

照屋:やっぱり藝大。武蔵野美術大学もちょっと視野に入れていたと思います。客観的に言って、自分なりに筑波大を選んでいったのは父親の存在があって、「ただ絵を描き続けていきたい」って思えない環境にあったっていうのがあるかもしれないです。やはり父親が、一種の美術大学、美術科のある高校から卒業した後が全く分からない、怖い世界の代表みたいな感じで。だいたい彼をどういう風に説得するかと、どういう美術の位置づけを父親に見せるかっていうのが、家に帰ってからの大きな課題だった。だから、その時は何かコンクールに出すにしても、ただ風景画を描けないなぁと思った。風景画を描く理由を、それを親に伝えなきゃいけないなぁっていうのが何となくあって。だからある種硬い考え方になりつつあったんですけども。

手塚:最初から意味付けしなきゃいけないみたいな感じになっちゃった。

照屋:そうですね。お巡りさんがいたり、消防隊がいて弁護士がいたり、じゃあ何で美術家が社会にいるのかってことを基本的に親に言わなきゃいけない。説得しなきゃいけない。

手塚:その社会的なファンクションは何なのかみたいな感じで。

照屋:今言ったほど、まだ具体的に考えてなかったですけど、やっぱりそういう会話にならざるを得ない状況はよくありましたよ。だからその時、ほんとに漠然とですけど、僕なりにいつも模索するんです。どうやって美術を社会に浸透させるか。結構一生懸命、その時問題になってることを取り上げて。何かこう環境問題とか一生懸命美術の表現に取り入れてみたりとか。コンクール出す時は、社会とか自分の身の回りでちょっと問題になってることを何とかこう美術表現に取り入れてみようとか。そういうことは高校時代からもうやってました。

手塚:じゃあそのバックグラウンドは当時から結構あったんですね。

照屋:ほんと模索ですけど。手探りですけど。でもそれをまた後押ししてくれる環境もあったんです、実は。翁長(おなが)直樹(注:インタヴュー時は沖縄県立博物館・美術館の学芸員)っていう講師がいて、その人もやっぱりずっと「現代美術は社会的な問題をどんどん取り入れていくものが今の主流だ」っていうことも言っていたし、「今活躍している現代美術の作家で、美術がバックグラウンドのやつはほとんどいない」とか、そういうことも言ってたし(笑)。結構こう客観的にさらっと言ってたんで。

手塚:じゃあ現実世界を知った人こそが芸術家になるみたいな。

照屋:そうですね。それを何となく高校時代から聞いてたので。

手塚:翁長直樹さんは今は沖縄の県立美術館のキュレーター? 館長さんでしたっけ。

照屋:今は学芸員です。一応主任なんですかね。でも沖縄ではちゃんと美術展や美術史などを総合的にできる人は翁長先生だけだと思いますけどね。

手塚:じゃあ彼と出会われたのは。

照屋:高校時代。入学試験の面接が初めてです。

手塚:そうなんですか。

照屋:それもいろんな要素がこう何となく集まって来て。表現と今生きてる社会とか環境との接点みたいなのは探そうとしていた。そういう意味では受験で静物画とかに没頭するのが、全く対極にあるような感じで、逆に憧れてたんですよね。何も考えず、いや何も考えずってわけでもないですけど、何ていうか表現そのものに没頭できるっていうのはずっと憧れていました。それがずっと抑制されるような生活を結果的に選んできていたような気がするので、生活の中で。

手塚:でもその表現自体に集中する期間っていうのは、やっぱり自分のデッサンであり何であり、そのテクニックを伸ばすという意味では重要な時期でしたか。

照屋:デッサンと表現って、似ているようで自分の中でちょっと違うところもあるんですけど。むしろ表現の部分は今ちょっとやり始めているのかなと思います。今少し意識し始めているかなって。もしかしたら成長していく段階の中で色んな表現の解釈があるのかもしれないですけど。今は本当にファッションとかいうものを、どのように、自分のファッションって何だろうかって考え始めるようになった。今まではずっとデッサンに近かったかもしれないですね。

手塚:今まではそんなに分けて考えるというのではなく、表現は何を画面に残すかみたいなそういう感じですか。

照屋:もちろんそれは表現なんですけど、それよりもまず観察して、何かを発見して、それをどのように伝えるために、どういう手続きをとるかっていうことの選択が基本的に表現になった。でも今は、そういう手続きなしで自分の中の何を表現をするか。できるか、できないか、何がしたいんだとかっていうのは、最近になって少しやっと意識できるようになってきたかもしれない。分かんないですけど。明日になったら違うこと言ってるかもしれないけど、ここ1、2年はそういう印象。

手塚:それは何かきっかけがあったりしたんですか。それとも自然にそういう方向に考えるようになったのでしょうか。

照屋:うーん……

手塚:でもまだ1年くらいだと、ちょっと引いて「あれがきっかけだったかも」っていうのは分かりにくいかもしれないですけど。でもそういう何かこう、一つの段階が今変わる部分に来ているっていうような意識は、結構あるという感じですか。

照屋:はい、あんまり分けて考えなくていいだろうなとは思いますけど。というよりは、前よりは自分がもっと出てくるような表現って何だろうかっていうことを、もう少し意識するようになったのかなっていう気がします。結果的に今までやってきたのも表現だと思うんです。自分の部分もちゃんとあると思うし。観察して何を選んでくるかっていう部分は結局自分が決めて来ているので。やっぱりその部分っていうのは自分らしさが出てくると思うんですけど。

手塚:勇賢さんにとって観察する場っていうのは色々あって。沖縄出身で、その次東京に出てこられて、その次アメリカに来てっていうように、場が変わっていきますよね。それはそれぞれその段階を経ていくごとに、やっぱり自分なりのアイデンティティというか、そういうものは意識的に変わってきたんですか。東京に出た時には沖縄出身のっていう風に思われることはあったんでしょうし、その後にやっぱり今度東京からアメリカに出てきたら日本出身のっていう風になるわけですよね。それをどういう経験として今は振り返られますか。

照屋:大いにこう、自分の立ち位置を変えて展示会に参加した時はあったと思うんですけど。何て言うんですかね、それは展示会の内容だったり。例えば東京での展示会は結構意識的に沖縄の方に持っていったと思うんです。やはり沖縄のことを持ってくると、つい極端に政治的になったり、またそれを(展示の企画者から)避けられるような傾向があったと思います。避けられるような経験はあんまりたくさんないですけど、展示会での経験はあったので。それにちょっと抵抗するようなかたちで沖縄っていうのを持ってきたりとか。それを作品に変えて、展示会のテーマの中で、また東京っていう環境の中で、どう沖縄を持っていくかっていうのを考えていて。その制約がむしろキーワードになることはありましたよ。

手塚:それは東京に出てから経験された展覧会?

照屋:どちらかといえばアメリカに来てからの経験です。

手塚:アメリカに来てある程度アーティストとしてこちらで制作をされて、今日本でやる展覧会ということですよね。

照屋:僕がアメリカに行く前、96年に東京ビックサイトっていう所で「アトピックサイト」っていう展示会があったんですけど、その時は沖縄っていう場所をひとつキーワードとして展示会のコンセプトに位置づけようという年だったんです。台湾と沖縄が一緒だったと思うんですけど。その時に、普通に僕は沖縄をテーマにした作品を持っていこうとしたらすごい色々な質問されてしまって。「どういった作品なんだ、どういう展示をするんだ」と。その実行委員会側もちょっとピリピリしてて。「作品をまだ見せるな、違う形で見せろ」とか。政治的な問題が少しでもあると、もう上が(ダメを出す)。その時東京都のお金で運営されていた展示会なんで、東京都の税金で沖縄の問題を出されると問題が起こるとか言って。分かるような、分からないような(笑)。

手塚:うーん(笑)。分かるような、分からないような感じですね。

照屋:すごい全体的にピリピリしてて。ちょうどあの時、美術展での検閲のことがよく『美術手帖』とかで、取り上げられていたと思いますね。振り返ると。そういった経験もあったので、逆に遊べないかなぁと思ったんです。そのピリピリする雰囲気の中で。

手塚:逆にその中で。

照屋:何とかこう沖縄の基地の問題とかを取り上げる。もっとできるだけ生の状態で東京に持っていく。でも生っていっても、それを何とか面白く見せられたらなって思って。受け入れられやすい状況で。

手塚:実際どういう作品だったんですか。

照屋:どれですか。

手塚:その時の作品。

照屋:ビックサイトの時の展示は、沖縄で観光客に人気のあるお店があって、それがアメリカ軍の払い下げの服とか箱とか日用品、そしてそこのオリジナル商品としてTシャツを売ってたんですけど、そこではネイビーとか、マリーンとか、アメリカ軍のアイコンをTシャツとして売ってた。それをどんどん作って人気商品として売っていながらも、とりあえず世間的には基地はなくしたほうがいいとか、それを批判する動きとかあって。でもこういう基地のイメージにはやっぱり魅力もあるんだっていう。それを展示会の中では、沖縄にある観光地としての基地のイメージを、そのTシャツをいっぱい持っていって、干し物竿にカラフルなTシャツをいっぱい並べるんですけども、後ろの背中のほうに全部日本語訳をした。「マリーン」だと「海兵隊」とか全部訳して、日本語に全部置き換えていった。文章的な言葉も全部日本語に訳しましたし、今考えたらちょっときつい、ストレートすぎるかなという言葉も。例えば「沖縄の海や沖縄の人のためじゃなくて、基地を守るために私たちはいるんだ」とか。後は、「殺人を訓練された我々」とか。なんかそういうちょっときついことを。

手塚:まぁミリタリーのフレーズですよね。でも訳すとこう逆にエッジィな部分が、本当の意味が出てきてしまうというか。英語だとアクセプトしてしまうカルチャーって結構日本にはあるじゃないですか。それが逆に露出されるみたいな感じですか。

照屋:そうそう。それがやっぱスタートでした。「こういうTシャツを着てるって分かっているのか」とか。「アメリカ屋」っていうお店だったんですけども、沖縄の人たちにも、「アメリカ屋のTシャツとニュースで言ってることと(両方あって)、あなたたちは自分たちの中で居場所をどうつけるんだ」とか。その展示中、Tシャツをザーっと並べて。でもちょうど夏だったので、見に来た人たちと「Tシャツ交換しようよ」って始めたんです。それで、来てる人達の服が飾られていって、僕の服を着てもらって、持って帰ってもらった。そこで「着れるか?」っていう問題、意識もあったんです。「着れるの?」っていう。でもみんな喜んで着てって(笑)。すごいから。「ああ、アートとして回収されてしまったな」って思って(笑)。

手塚:すごいですね(笑)。それはコマーシャリズムが勝ってしまったみたいな感じですかね。

照屋:まぁそれもあるし。自分がアイディア出して作って、どうなるかわかんないけど起こっている現象を、とりあえず受け入れるっていうか。それをまず受け入れてみようっていうこと。どこがアートの部分だったのかっていうのはちょっと分からないですね。その時は美術展っていう場があって、そこに沖縄のこういう部分、ちょっと挑戦する部分を何とか忍び込ませるっていうところがどちらかというと焦点でした。「でもこれは決して政治的な発言ではないはずだ」っていうことは自分でも意識していた。それじゃ政治的なものにならないための部分って、部分(Tシャツ)が交換していくことかなぁと。

手塚:政治よりはコマースというか、経済みたいな感じですね、交換って。

照屋:そうですね、その辺は。そのTシャツの中には割り切った発言もあったんです。あのオレンジ色の光、基地の。オレンジ色のライトがついているんですけど、「魅力的」とか「美しい」とか(笑)。割り切って実際の正直な部分を書いてみたり。発言が一方向だけにならないことはやっぱりすごい意識はしました。それが、多摩美卒業して翌年ですけど。

手塚:じゃあ卒業が95年でその展覧会が96年。多摩美を卒業してじゃあこれからどうしようと思ったときに、もうすでにアメリカっていう目指す方向は決まってたんですか。

照屋:はい。僕は大学院はもうアメリカに行きたいって決めてましたね。ですから大学卒業して1ヶ月後には沖縄に帰って準備。英語の勉強とか、何とかお金作んなきゃなぁとか。とりあえず実家に帰ってなんかしようって、帰ってました。アメリカに行くきっかけは、大学3年の時にニューヨークに1か月間旅行したんですけど。何年ですかね、93年か2年だと思うんですけど。

手塚:93年か2年くらい。

照屋:その時の経験がやっぱり非常に良かった。大きかったと思います。

手塚:1か月。

照屋:1か月いたと思います。その時、ほとんどニューヨークでだらだら過ごしたり、(ワシントン)DCのスミソニアンの展示も見に行きましたけど。DCとニューヨークだけだったのかな。

手塚:お友達か誰かを訪ねて。

照屋:はい。実は、僕は親戚がニューヨークにいたんです。今もですけど。実はお婆ちゃんはハワイで生まれたんです。母方の僕の祖父母は2世なんです。その家族がハワイを中心にいるんです。それで一部は50年代にニューヨークに来てて。その家族が一つあったんで、その人をつてにニューヨークに行って。でもほとんど日本語喋れない人たちで。アパートで初めて会った人たちだったんですけど、ブロードウェイの80ストリートあたりだったと思うんですけど。

手塚:ブロードウェイの。

照屋:80か90くらいのアパートをひとつ探してくれて。1か月間だけ泊まれる。

手塚:へえ。じゃあひとりでそこに。

照屋:そうなんです。アパート見つけて手続きを一緒にしたら、「Good luck!」とか言っていなくなっちゃって(笑)。

手塚:アメリカンですね(笑)。

照屋:僕は基本的にここに来るまでもずっと付いていってたので。自分で来てたらね、少しはそれまでの経験で何となく大丈夫だと思うんだろうけど、ここまでずっと付いていっていきなりこう手放されちゃったので、すごい唖然としたのを今でも覚えてますけど(笑)。でもなんとか、それなりに。程よくホームシックも体験して(笑)。それより周りの、なんて言うんですかね。やっぱ今と違うと思うんですけどね。もっとラフな印象があります。まあ初めてのアメリカだったし、それが余計強調だけされたのかもしれないですけど。

手塚:当時92、3年というと、20歳?

照屋:21になったくらい。確か21。

手塚:ラフなニューヨークを体験し。でもそれが良い経験だったわけでしょ?

照屋:良かったですよ。タイムズ・スクエアなんかもまだまだ。

手塚:きれいになる前だったの?

照屋:はい。のぞき屋さんとか。

手塚:トリプル・エックスのお店があって。(注:「XXX」と表記される、ポルノ映画専門の映画館なども含む風俗系の娯楽施設のこと。また、広義に「いかがわしい風俗」を意味する。)

照屋:そうそう、トリプルエックスばっかりで。でもトリプル・エックスも体験できたし(笑)。

手塚:そういうのもちゃんと経験してたんだ(笑)。

照屋:すごい全部オープンだから普通に入っちゃったんですよ。

手塚:知らずに(笑)。

照屋:でもそれもすごい良かったと思う。

手塚:IDチェックとか無しに?

照屋:されなかったですね。もう金落としてくれるんだったらみたいな。せいぜい落としても5ドルくらいでしたけどね。でもその時にタイムズ・スクエアでアート・イベントもあったの。名前忘れましたけど。ほとんど潰れた映画館ばっかりだったんですけど、その入り口でナム・ジュン・パイク (Nam June Paik)や、あの影絵の作品を作る……

手塚:影絵の作品。カラ・ウォーカー(Kara Walker)とか?

照屋:ポーリッシュでした。ユダヤ系……

由本:クシュシトフ・ウディチコ(Krzysztof Wodiczko)ですか。映像の作家。ビルに映像を映す人ですか?

照屋:違う、もう少し年がいってる。なんで忘れたんだろ。ユダヤ博物館とかに関わってる人だと思うんですけど。衣類とか集めて。

手塚:ボルタンスキー(Christian Boltanski)?

照屋:ボルタンスキー。ボルタンスキーが影の作品を作ったりとか。結構僕にとってはすごく刺激的な展示会が。本当にすごくただボンって置いてあったりしただけだったと思うんですけど。潰れた映画館の中とか、チケット売り場っぽい空間とか。ブロードウェイのシアターって入ったら少し空間があるんですけど、ロビーが。そこに影絵があったりとか。そのラフさに非常に好感を持ったんじゃないかなと思うんですけどね。

手塚:日本ではなかなかそういう感じの展示は、当時は(なかった)。今はね、色々と廃校使ったりとかやりますけど、その当時はまだあまりなかった。

照屋:はい。風俗系の店に挟まれて、その同じ並びで美術作品の展示があったり。何て言うんですか、同じくらいのエナジーが出てて、それも良かったし。雑でもいいんだっていう。それまでは、日本では丁寧につくらないといけないとか。あと僕が作品を作るたびに、「ひねれ!」って言われてたんです。ちょっとひねらなきゃいけないとか。

手塚:ストレートではなく?

照屋:「ストレートすぎるぞ、お前のは。ちょっとこうひねってさぁ」とか言われて(笑)。そういう気を使う世界がない。後はやっぱり生活のレベルで言ったら、これも何度も言ってることなんですけど、東京にいると前置きがすごいたくさんあったんですよ。「美大生の沖縄出身の照屋」とか。すごい前置きがいっぱいあって。その後みんな決まった言葉で「沖縄の人って優しいよね」とか(笑)。こっちは何も言ってないのに。初めて会う人なのに。

手塚:すでにイメージができ上がってるみたいな。

照屋:そうです。どんどん自分から遠のいていって、イメージの世界と肩書きの世界が自分の前に何層もあって。それに毎回関わらなきゃいけない。それに対してニューヨークにいたらみんな気にしないんです。もういきなり「ユーケン」になって。「ユーケン、お前何ができる?」って。それがやっぱ良かったと思います。すごい気持ち良かったし。ニューヨーク行く前は「高い服着るなよ」とか「日本人っぽい格好するなよ」とか、「ちょっとでもいい格好してたらお金とられちゃうぞ」とか、「騙されるぞ」とか言われたんですけど、実際ニューヨークに行ったら、そうじゃなくて「ちゃんと自分がしっかりしていたらいいんだな」って思ったんです。「自分の好きな服を着ればいいんだ」と。わざと変な格好するんじゃなくて、「俺はこれが好きなんだ」、「これが俺のスタイルなんだ」っていうのが一番何よりも自分を守るし、しっかりしてるっていう主張にもなるんだな、ってことがわかったし。それもやっぱり自分の中で良かった経験かな。自分1人になれるし、責任を持たなきゃいけないし。でも、自分は何かできるかもしれないっていう環境としてニューヨークは映った。それが良かった。プラス、「アジアの人たちの1人なんだな」ってやっと実感できた。それまでは日本・沖縄っていう対立の中でしか自分はいなかったんだけども、ニューヨークに来たらそんなこと言ってられない。自分はもう韓国人にも間違えられるし。下手したらメキシコ人、フィリピン人に間違えられるんだけれども、でも僕としてはやっぱり韓国人や中国人の存在が印象的だった。似たような顔やかたちをしているけれども違う言葉をしゃべってる、明らかにバックグラウンドが違う。それがすごい印象的で。更にデイリーとか行くと(彼らは)24時間働いている。誰よりも働いている印象を受けたの。だから「すごい偉い」と思って(笑)。「アジアの人たちは偉い。自分も彼らみたいに頑張ればもしかしたら何かやれるかもしれない」って。それが何の保証もないですけど、漠然とした希望みたいなもので。逆に厳しいっていうか守られていないからこそ、そういうのを見ようとするんじゃないですかね、本能的に。その辺がどんどん印象として残っていった。

手塚:その1ヶ月間でどなたかに出会われたとかは? 出会いとかはあったんですか。それよりもやっぱり街全体を経験したっていう。

照屋:街全体。もちろん普通の生活の中でソーホーにあるアートブック・センターの人と友達になったり、そこで同じアパートに住んでて知り合った日本人とちょっと買い物に行ったりして、それぞれの生き方は見た。それも良い経験だったと思いますけど。

手塚:普通の観光客の経験とは違った、もっと地に着いた、人の生活する土地としてのニューヨークを見たという感じ?

照屋:うん。観光客としての印象としては、メトロポリタン(美術館)のオープンな印象はとても良かったです。

手塚:スペースが、っていう意味?

照屋:スペースも大きいですし、誰でも入れるというようなその環境。ここに行けば何にでも出会えるっていう様なものがひとつドンってあるのが、やっぱり豊かな国だなって思いましたし。今まで考えてた、抱えていたことが全部取っ払われて、ある種シンプルに色んなものが見えてくるようになったんですよ。あの気持ちよさはやっぱり良かったなと思います。ギャラリーとかはあんまり。夏だったんでほとんど閉まってて、見れなかったんですけど。あの時はソーホーは本当にまだまだ、今と比べてずっと倉庫街っていう印象がありますね。ひとつだけカフェがあったような印象でしたけど。

手塚:まだギャラリーとかもあった時代。

照屋:うん。

手塚:それで1ヶ月ニューヨークを経験して、また東京に帰る訳ですよね、その時は。

照屋:はい。

手塚:で帰って、やっぱりその経験があったからこそ卒業後に(アメリカに)。他の場所は考えなかったの、ニューヨーク以外に。パリとか、ほかの国外は考えなかったの?

照屋:考えなかったですね。やっぱり単純にニューヨークしか経験してないっていうのはあったと思いますけど。親戚がいるっていうこともあって、漠然とニューヨークに行きたいなぁとはずっと思ってた。それもあると思うし。

由本:でもこれメリーランドになってますけど。このメリーランド・インスティテュート(Maryland Institute College of Art)っていうのは。

照屋:実際に大学受けたときに、メリーランド、MICAしか入学許可をくれなかったの。だから最初はメリーランド。

手塚:それが1998年。

照屋:そこでまずとにかく大学に入らないと英語力も伸びないだろうし、先に進めないと思って。こっちもそんなによく話せないし、マズいって。その時は、大学院の中ではあるんですけど、ディグリー(学位)は貰えない、ポスト・バチェラーと呼ばれるプログラムだったんですけど。何ですか日本でいうと。研究生っていうんですかね。

手塚:うーん、名前あるのかしらね。でも結構研究員として残られる方がいますよね、日本の大学だと。

照屋:僕はでもツー・セメスター(2学期制)のプログラムで。毎週毎週(授業があって)。それでもう1回大学院受け直して。SVA(School of Visual Arts)行ったんですけど。でもメリーランド、MICAでの経験は非常に良かったです。伝統のある大学だったので敷地も広くって。ゆとりがありましたね、大学自体に。すごく僕には合ってた大学だったと思います。そこの大学院も2つ受かったんですけど、ニューヨークに行くことを決めたのは、条件としては一番ニューヨークの大学が悪かったんです、SVAは。スタジオも狭いし、大学の授業料も比較的高かったし、他の大学院より。別の大学院は奨学金も出すっていう環境すらあったんですけども、SVAに行ったのは、まずこの世界で勝負するんならニューヨークは無視できないだろうなぁと、避けて通れないだろうなと思ったんです。それをもう2年ちゃんと大学院として行くのであれば、それで食っていけるかどうかをちゃんと試す覚悟で行った方がいいなって思ったんです。だったらもうさっさとニューヨーク行ってしまおうと思って。それで、駄目だったら駄目で、別のことで決めてしまおうって。「後でいつかニューヨークに行くさ」とか、「メリーランドで大学院卒業して、その後でニューヨークに行こう」って言ってられない、さっさとニューヨーク行こうって。でも、MICAの学校側が大反対して、「ニューヨークに行ったらコマーシャリズムに完全に影響されて自分の表現ができなくなるぞ」とか、散々言われたんですけど。でもいずれニューヨークに行くだろうと思ったし、そうなるんだったらもうさっさとこの1年になってしまいたいって。

手塚:MICAの方はカリキュラムは実際にはどういうクラスを取ったんですか。

照屋:ポスト・バチェラーのプログラムで、それは大学院のクラスも取れるし、学部のクラスも取れる。基本的にスタジオ・プログラムなので、各セメスターで大きなクリティークが後半にあって。結果的には大きな1つの作品を各セメスターで作る。更に別の単位のために別のクラスを取るので、そこのクラスで作んなきゃいけないものがあればそれは作るし。そのサポートもとりあえずは自分のいるスタジオ・プログラムでもやってくれる。基本的に作るスタジオ・プログラムでした。でも同時に、ディグリーのない人たちなので大学院受けるための準備のサポートもしてくれて。

手塚:結構良いですね。

照屋:とても良かったです。少人数っていうことも良かった。13人くらいのプログラムでした。

手塚:それは各国から来てるんですか。

照屋:そうです。その時もアジアの人たちや韓国の人たちがいて。その13名のうち4人くらいが韓国人なんです。留学生で。それにもやはり影響されましたね。頑張ってたので。

手塚:じゃその当時はどういった作品を作ってたんですか。

照屋:その時に袋の作品を基本的に。あのトイレットペーパーの芯の作品を始めたり、もう少し発展させてったり。

手塚:そのトイレットペーパーを作るきっかけになった話をしていただけますか。

照屋:トイレットペーパーの芯は、今の生活を支えてくれている紙袋の元になった作品ですけど、それはただの冗談から作った作品で。アメリカに行く直前に東京の友達の家に滞在させてもらってた時に、トイレに入って出ようとしたら空になった芯が捨てられずにそのまま置かれていたんです。流しというか、便器の上に置かれていたんです。アパートの主が留守だったので、いない間にちょっとジョークを作っちゃおうと思って。テーブルの上に持っていって何ができるかなって見てたら、なぜかキツツキが頭に出てきて。キツツキがこう木に突いている状況がいきなり。沖縄だとノグチゲラが木に突いているイメージがいきなり頭から出てきたから、鉛筆でノグチゲラの横の姿を描いて。もう本当に目の前にあったカッターで適当に切り抜きを入れて外側にクッって出しただけだった。その時にいきなりトイレットペーパーの芯が木の幹の一部になったんです。キツツキが突いているだけで。それが非常に印象的で。そのとき初めて「あっ、何か魔法っぽいものがつくれたなぁ」って嬉しくて、そのままトイレに戻して(笑)。「見つけてくれるかなぁ」って。それがやっぱりきっかけで、ひとつのアイコンが日常のものを変えてしまう。でもそのアイコンもどこかから持ってきたんじゃなくて、モノから出てきたらもっと楽しいと思って。それそのものは基本的に変わってないんですけど、印象はもう全然違うものに変わってしまう。だけど何となく、例えば紙の筒から木の幹、でも何となく木の幹を感じることで、紙の木だったんだなってことも思い出せるし。その繋がりの輪っかというか、サイクルができたことが、自分にとってすごく良かった。自分の手でできたことが、「じゃあ次に何ができるかなぁ、まだ何かあるはずだ」とかいう励みになった。

手塚:またそういう魔法みたいなものを作り出せるという自信になったんでしょうか。

照屋:そうですね。

手塚:ではMICAにいたときにその時のことを思い出したりとか。

照屋:そうです。何週間か寝かすっていうか、忘れてた時があったんだけども、アメリカに行った時に近くのスーパーに入ったら、大量生産されるパッケージっていうのがすごく目に入った。よく考えたら日本でも同じように大量生産されているパッケージは見ているはずなんですけども、ニューヨークのスーパーだとそれが非常に印象的に目に入ってきて。それはやっぱりシリアルだけでひとつの廊下ができたり、牛乳パックだけで壁ができたり、そういうのを目の当たりにするからかもしれないです。商品も並んでる棚が一点透視図法にずらーって並んでて、その辺を一点人がポツンてカートかなんかを押している世界に見えるたんです、全てが。そこでパッケージに何が入ってるかわかんないんだけれども、箱がいっぱい並んでる姿が面白くもあったので、買って持ち帰ってくる箱とか捨てられずにずっと持ってたんですよ。そして紙のパッケージっていうのが非常に印象に残ってた。でも貧乏学生なので特に新しく素材を買うこともできずに、結果的にはその素材に戻って、「何かできないかな」って作り始めた。それで少しずつ始めていったのが紙製品のカットアウトの作品。その時に漠然とアンディ・ウォーホルの、キャンベルスープとかブリロの作品への僕なりのアプローチの仕方が、ふっとこう剥がれ落ちるっていうか、分かった様な気がする。これは日本では生まれないだろうなって思ったし、日本でアンディ・ウォーホルの作品のことを一生懸命考えるのは非常に難しいことだったかもしれないなって思った。アメリカで生活をした時に、ウォーホルの作品はもっと生活の経験と一緒に伝わってくるもんなんじゃないかなって、そのとき思いました。

手塚:本当に自分の経験から出てきて、自分の以前に経験されたミラクルみたいなものとちょうど重なって、パッケージを使う様な作品になったんですか。

照屋:うん。

由本:日本ではそのトイレットペーパーの元祖の作品っていうのは、ジョークとして作り出しただけで、そのまま進めることなく、しばらく忘れていらっしゃったんですか。

照屋:あれはでもアメリカに行く直前でした。本当に何日か前に作られたものでした。

由本:日本ではじゃあそういった紙細工的な作品は、大学でも作ってらっしゃらなかったんですか。

照屋:似たようなコンセプトでは作ってなかったですね。

由本:技術的には?

照屋:技術的にも切り抜きというのは基本的にしなかったですね。紙はもちろん使ってましたけど、もう少し造形の部分で、実際に何か作る、無いものから具体的に形を手で作っていく方が多かった気がしますね。

由本:立体でですか。何か粘度とか。

照屋:はい、紙粘土とか。でも全部結果的に半立体の、少し壁がベースの作品が多かったと思うんですけど。ひとつ今思い出せるので言うと、沖縄のことをテーマにして作った作品だったんですけど。沖縄では亀甲墓(かめこうばか)っていって、お墓が家みたいな形で作られてて、そこに遺骨が納められるんですけれども。それは石屋さんとかが建物を造っていて。もっと簡易なお墓も売ってるんですけどね。その(亀甲墓の)表の門の部分を、紙で張りぼてで作った時があって。その時に学校にあるトイレのタイルに和紙を敷いて。すごい懐かしいですね(笑)。和紙をのりで塗って剥ぐと、トイレのタイルの形がつきます。で、取った紙は基本的にタイルが反転した形なんですけど、それを表にして門を作ったんです。僕としては非常に個人的な作品で、お墓の存在がある種、沖縄と自分の関わり方の、ゲート(門)という位置づけとして考えてたんです。お墓の中に入ってもう一回お墓を振り向いたときに、その門がもしかしたら表面が反転した形になっているんじゃないかなって。結構大きな墓をモデルにしたゲートで、表面は反転したタイル。実際沖縄のお墓はタイルじゃないんですけども、反転したタイルを用いることで、裏返った建築物なんだって、自分なりに意識するためにタイルを用いたんですけど。

由本:それは白いままで、色はつけずに。

照屋:はい。

由本:レイチェル・ホワイトリード(Rachel Whiteread)みたいな感じも少ししますけど。

照屋:あぁそうですね。それに近いですね。でもそれも講評がつらくて、酷評で。まず沖縄を持ってくる時点で受け入れられなかったんですよね。沖縄のお墓を見せたら教授が二人で「十字架の方がかっこ良くないか?」とか言って(笑)。「こういう感じのが(手で十字を描きながら)造形的にかっこいいんじゃないか」って。僕はもう言葉を失ってしまって。

由本:「かっこいい」という言葉で(笑)。

照屋:「僕は沖縄出身だから、お墓が大切なんだ」って、「お墓を持ってくることが僕にとって大切なんだ」って言っても、何かぽかーんって聞いているだけで。「でもここは東京だからなぁ」みたいな感じになってしまって(笑)。

手塚:だいぶ日本での経験とアメリカに来てからの経験でかなり格差がありますね。美術大学という環境の中での経験に。

照屋:そうですね。僕もテーマの持っていき方がすごく大雑把だったなとは思います。でも「若いから許してよ」って言いたいところもあるんですけど。自分なりに手探りで高校の時の延長線で、美術と社会とのかかわりを一生懸命探していたんです。だからどうしても環境問題とか沖縄の問題とか持ってくる。そうすると教授からは攻撃される的になっていく。「お前神様になったつもりかー!」とか。「こんなことやっても何も変わんないんだよ、世界は」とか。まさに親父がそこにいたんですけども。やっぱり所詮僕は負ける側だったんです。対応できない。「作る、頑張ってやる意味があるんだよ」って言うんだけれども、結局つぶされてしまう。そこでいつもへこたれて行く場所が多摩美の資料館。今美術館になってると思うんですけど、そこに仙人さんっていう新潟出身の学芸員の人がいて、その人がいつも励ましてくれて。教授はヨーロッパ的なものやイメージを持ってきたりするけども、「セザンヌ見てみろよ。セザンヌは自分の近所しか描いてないぞ」って。

手塚・由本:あはははは(笑)。すごい。

照屋:「だからお前がやってるのは自然でいいんだよ、続けろ」とか言ってくれたんで。ただ、「お前は環境問題とか作品にしてるけれども、怒るなよ」って。「怒ることが基本的なベースになってるかもしれないけれども、怒ったらだれも聞かないよ」って。「これを、軽く自分を道化師にして、笑わせられるものにできたらいいよね、簡単じゃないけどね」って言ってくれたんです。その言葉だけを信じてっていうか。大きいですね。今も思い出しますし。その通りだと思うこともあるし。

手塚:MICAとSVAでその言葉を後押ししてくれたような先生がいらっしゃるんですか。

照屋:うーん、その延長線上で出てくる先生は残念ながらいないんですけども、でも全体的に支えてくれた印象はありますね。日本とアメリカの大学院では、先生と生徒の関係も違うじゃないですか。もう少しアメリカの先生は近いですよね、位置が。MICAでも良い先生いましたけど、SVAで良かったのは(先生が)自分のスタジオを見せてくれるんですよ。自分の仕事場を見せてくれる。これはやっぱり良かったですね。「ああ、一緒なんだ」って思えたし。そこで知恵とかも見せてくれる。こんな風に作品まとめるんだよ、とか。だからほんとに現場を持っている人たちっていうことも良い経験だった。日本の場合は、たまたま僕の教えてもらってた先生がかつてヨーロッパとかで活動してきた方達でしたけど、今の仕事はやっぱり見せてくれなかった。もちろんちゃんと立派な経験をしてきたり、賞歴とかもあるけれど、「今」が見えなかったからこっちとしてもリアリティがなかなか持てなかった。でも逆に生徒側としても、「あるはずだ」っていうのをもう少し想像するっていうか、「先生も家に帰ったら何かやってるんだろうな」っていうのを想像する余裕をもっと持ってても良かったかな。そしたらもう少し先生と仲良くなれたかな、っていう反省も同時に生まれましたけど。

手塚:アメリカでの先生との関係のあり方っていうのを通して、実際にアーティストとして成り立っている人たちの現場を見たわけですよね、その時に。自分がその場にたどり着いたって意識したのはいつくらいなんですか。自分もアーティストとして立てるようになったって実際に感じたのは、卒業後とか、何かの展覧会の後とか、思い出せる時はありますか。

照屋:やっぱり作品が売れてからじゃないですか。作品が売れるようになってから、自分のやってることと社会の金の動きの中での位置づけを、まず身体でもって経験するじゃないですか。それはやっぱり大きかったと思います。

手塚:それは何年くらいなんでしょうか。

照屋:それは、SVAの大学院を卒業して2年とか3年とか。でもうっすらとですよ。2003年とか…… でも分かんないです、具体的に言えないです。今もじゃあ地位があるかっていうと、あると思うときと、「どうしようないよ、作んなきゃ」って思うときもありますし。これは最終的には経験なのかな、と思います。もっと経験を積んだ時に生まれるものかな。でもお金で作品が売れるっていうのはやっぱり確実に大きな自分の位置づけを作ってくれるきっかけになってくれると思います。

手塚:じゃあ2003年くらいの段階ですでにギャラリーが付いていたということですか。

照屋:ギャラリーでは実は大学院2年生の時からもう売ってました。

由本:どのギャラリーですか。ムラタ(Murata and Friends Gallery)ですか。

照屋:いや、ショシャーナ・ウェイン(Shoshana Wayne Gallery)。実は大学院2年生の時に選抜展があって、その時たまたま入ることができて。当時大学院はソーホーに小さなギャラリーをもっていたんです。そこでグループ展に参加したんです。その時に、偶然ですけど色んな人たちがニューヨークに集まってる時期だったんです。なぜかっていうと、ガゴーシアン(Gagosian Gallery)でダミアン・ハースト(Damien Hirst)が展示会やってたんです。ダミアン・ハーストを見るために色んな人がニューヨークに来てて、そのおこぼれが僕のギャラリーに入ってきて。そのうち3人くらいがコンタクトをとってきたんですよ。そのうち1人がショシャーナ。もう一人がオールドリッチ美術館(Aldrich Contemporary Art Museum)。もう1人は作品買ってくれた人なんですけども、個人の方。でも面白いのが、ワーナー・ブロスのチェックで(笑)。(注:私費ではなく、会社の小切手で購入したという意味。)ショシャーナも、ハリー・フィルブリック(Harry Philbrick)っていうオールドリッチのディレクターのディレクターも、当時「間違えて入った」って言い渡されて(笑)。「そこに入るつもりはなかったのに、たまたま足を踏み入れてしまっただけなんだ」って意地悪言うんですけども。そこで僕の作品を見て、ショシャーナは「連絡を取ろう」って思ってくれて。ハリーは「ひとつ展示会を思い付いた」って、連絡がちょっと後に来ることになった。ショシャーナは「まずギャラリーに作品をいくつか置かせてくれ、それでクライアントの反応を見てみる」って。

手塚:その時にはもうショッピング・バッグやペーパー・バッグの作品を作られていたの?

照屋:はい。

手塚:じゃあそれはSVAの時に。

照屋:SVAの時に結構かたちになったんですよね。やはりタダで作られているものっていうのが印象的だったんです、ダミアン・ハーストと比べて。(ハーストは)すごいプロダクション・コストで、そのお金の部分がすごい話題になったじゃないですか。それで「タダで作るやつがいる」ってう(笑)。それがいいタイミングで、弱い者の強さが出てきたというか。

手塚:それでその時にオールドリッチの美術館のハリーに会われて、その後に展覧会の話。それでエマージング・アーティスト(注:The Aldrich Emerging Artist Awardのこと)の賞を受けられて。

照屋:そうですね、繋がる。本当にニューヨークらしい経験をしてると思います。

手塚:そうですね。人が集まっているところだからこそ、みたいな感じですね。

由本:そのオールドリッチの賞が、ブレイクスルー(breakthrough、飛躍)みたいな気持ちはありますか。

照屋:もちろん自信にはなりましたね。

手塚:美術館の展覧会は初めて?

照屋:初めてだと思います。何となく漠然とですけど、良い展示会をしている美術館だってことは感じましたし。

手塚:個展ですよね。

照屋:いや、最初はグループ展でした。最初に呼ばれたのは「Model World」というグループ展で。あの作品がきっかけになったって言ってくれてましたね、学生の展示会で見た時の。だからやっぱり時間がありましたね。大学院卒業してからようやく2年経とうというときに展示会の連絡が来ました。

手塚:じゃあそのオールドリッチでは《結ーい 結ーい》(2002年)の作品を出された。

照屋:そうです、オールドリッチのグループ展決まって作品出したときに、僕は東京の「VOCA展」っていう展示会の準備をしていたんですね。その時の着物の作品のアイディアを見せたんです、オールドリッチに。こんなことを今やっていますって。結果的にそれを見てくれたおかげで、新人賞もらえることになったのかなって思うんですけど、まぁ袋の作品もありますし。オールドリッチはすごく助けてくれて、押してくれましたね、色々と。着物は勿論「VOCA」のために作ってたんですけども、逆にその時に個展の機会をもらえたので、個展はすべての作品をもう少しまとめなきゃいけなかったり。何となく漠然と頭に作りたかったものがあって。その時旗の作品(《color the world》 2002年)を初めて作ったんですけども。旗の作品は基本的にオールドリッチのために作りました。

由本:じゃあ全部でどれくらいの作品を。

照屋:オールドリッチの個展ですか。個展は着物、手染めの旗、それとやっぱり着物のパターンの違うヴァージョンのインスタレーションと、袋。その4つですかね。

手塚:とにかく自分の作品のヴァラエティーをそこで展示できて、重要な経験ではあった。

照屋:うん、とにかくそうだと思う。

由本:先ほどアメリカでは前提をあまり置かなくていいという話だったんですけど、でもリサイクルの作品と沖縄の文脈を持ってきた作品の両方を展示するときに、やはり沖縄の説明をしなくちゃいけないような気がするんですけど。そういう意味では前提が長くなるんじゃないでしょうか。

照屋:ほんとにそれ以外の作品があんまりないっていうのもあったんですけど。心配でしたよ、やっぱり。いきなり沖縄のローカルなものをコネチカットで見せるわけじゃないですか。「これっていいの」って思ったし。「ちゃんと文脈考えてくれるのかな」とか。でもプエルトリコの話が出てきたり、アメリカの基地のイメージが入っている着物だったので、沖縄まで話がいかなくてもアメリカという国の中で基地が入ってる島の話になったり。逆に「沖縄にはこういう話があるんだよ」とか、「この作家は沖縄出身だよ」とかいう紹介になるんです。結果的に着物がそういった位置付けとして美術館の中でなっていったと思う。面白いです。あれは本当にもう紅型という伝統に救われたところがあると思う。やっぱり最初は「着物=日本」っていう印象でみんな来て、でも入ってきたら実際(着物の柄に)パラシュートがあって、それに驚く。一体それはどういう意味付けなんだっていうことよりも、単純にその違いに驚いたところもあったかもしれない。同時に旗の作品があったんです。旗の作品は世界の国の旗が隣り合わせに配置されて1つの旗を構成しているっていう作品なんですけど、あれは9・11の事件の1ヶ月後に僕タイムズ・スクエアに立ってた時に、完全に星条旗であの一角が埋まってた時の経験をもとに作った作品です。アフガニスタンとか中東の国への不安っていうのは、基本的に見えない部分から来るところが多いじゃないですか。何が見せなくしてるかっていうと、みんな星条旗ばっかり見て国への一体感とか求めるのは大切なんだけども、1つの国に簡単に固執することで、どんどん他の旗に対しての違和感みたいなのが拡がっていくんじゃないかと。だったら世界中の旗が1つの旗になって、アメリカも見える、まだあなたは星条旗を見ることができる。でも同時に隣の国を伝っていったらアフガニスタンにも到達できるよ、そうすると今漠然と抱えている不安から解放されるんじゃないかって。同時に、周りの国の旗の中で自分の国の旗を見つけることで、周りの国から自分の旗がどう見られているんだろうかっていうことも感じるきっかけになるんじゃないかっていう意味で旗を作った。それがあったので、沖縄のことだけをテーマにした着物もあるんだけれど、もう少し世界を見るようなきっかけの旗の作品があったことが、もしかして良いバランスを作ってたのかもしれないですけどね。

手塚:じゃあ逆に言うと、9・11がきっかけになったのかわからないですけど、そこからグローバルな視野にばーっと拡がっていったみたいな感じでしょうか。

照屋:あの旗はやっぱり意識したと思います。少なくとも旗の持つ強い部分や、その強さがもたらす怖い部分はちょっと感じることができたし。

手塚:結構全作品を通して、モノのアイコンとしての在り方みたいなものに常に興味を持たれているのかなというイメージが私はあるんですけど。

照屋:うん、あると思います。標識の作品を作ったことがあるんですけど。それは基本的にアイコン・マークが使えたらなって思ったし。

手塚:ショッピング・バックにしてもそうですよね。ブランドのアイコンとしての在り方とか、コマースというシステムの中でのアイコンの在り方とかっていう位置づけもできますけど。

照屋:うん。

由本:実際問題としては、9・11の年が大学院卒業の年と重なっているんですけど。アメリカに居づらくなったとか、経済的なこと、ビザの問題とかそういうのはなかったんですか。

照屋:不安はありましたよ。やっぱりどんどん日本に帰っていく人たちもいましたし、作品も売れなくなるんじゃないかって。実際にそうなったときに考えようと思いました。身の回りの経験から言うと、逆に「頑張ろうよ」っていう動くメンバーもいたんですけどね。

手塚:それはアーティストさん?

照屋:アーティスト。ちょっと今はカナダ(に移る)とかあんまり考えないでおこうと。カナダのマップは開かないで(笑)、もう少し頑張ろうっていう人たちもいたし、実際に残ってる友達もいた。更に2002年に初めてショシャーナのところで個展をした時に、たまたま買ってくれた方が、当時11歳の女の子だったんです。

手塚:へぇ!

照屋:それで、その子の家でインタヴューをしたんですけど。「11歳の女の子が作品を買うんだ」って日本に紹介するために、ヴィデオ・インタヴューにして。その時にその女の子の家族の人たちとも会う機会があったんです。そしたらお父さんはもともとニューヨークで仕事をしてた人なんですけど、テロの事件があったその週に、家族で「作品を買おう」って決めたって言ってたんです。それはちょっとした抵抗だったって。そういう壊すものに対して、アート作品を、作るものを買ってそれを希望に変えていくっていう。「だから作品を買ったんだ」って言ってました。だから逆にそれを買う人もいるし、だからこそ続けなきゃいけないところがあるのかもしれないなって思いました。でも本当にあの事件が起きた日、それから1カ月間か何ヶ月間かは、もう「無力だ」と思いましたね。「アーティストは何もできないんだ」って思いましたよ。もう事件が起こったらみんな殺到して、現場にね。ボランティアで「俺は重機を動かせるぞ」とか、お医者さんだ、精神科医だ、「だから早く助けさせてくれ」って。でも現場では、当時のニュースでは、「もういっぱいだから。ありがとう来てくれて、でも足りてるから」っていう状況だったみたいですけど。そこでやっぱり僕1人だけ取り残されたみたいな気分になったんです。「何もできないな」って思って。すごく落ち込みましたね、単純に。

手塚:結構アートの世界の人たちはその段階を経た人が多いと思いますよ。私も大学院だったけど、アート・ヒストリーやってる人間に何ができるだろうっていうのはあったしね、逆に。アート・ヒストリーなんて、手で何かするわけじゃないし。

照屋:まぁそれからの色んな経験で少しずつ克服されてきたような気はしますけど。まだうまく言葉にできないですけど。まず、でも少なくともとりあえず認めるのは、プラクティカルなところで強くはないっていう。

手塚:ははは(笑)

照屋:今すぐ生きる意味では今すぐ使えるものではない。でも、話がすごく飛ぶかもしれないけど、アサヒビールの加藤種男さんが言った言葉があって、「無駄なものは大切なんだ。無駄なものこそ大切な時期がある、タイミングがある」って言ってたんです。やはり完全に合理的で、生きていくものだけが揃っていて、それが本当に必要な時はあるけども、それだけでも人は生活できないから。それだけでは成り立たないんだよっていうのを加藤さんと色々交流していくうちに聞いたと思っているし。その部分が僕は、あの時の経験から克服するようなキーワードになっていると思っているんですけど。
あと、居酒屋で食事してたら茄子が出てきて。「茄子って栄養ないんですよねー」って誰かがぽそって言ったら、ずっとガッハッハって笑ってた人がいきなり「だからいいんだよ!」って。「無駄なもののほうがいいんだ、おいしいだろう?!」って(笑)。もう少し説得力を持って言ってたんですけど、その時は。ちょっとうまく言えないですけど、何か言ってましたね、すごくいいことを。茄子を通して。それもやっぱり、そこに目を向ける部分が大切で。そこに救われる人たちも多いんですよ。今すぐ痛いのを治す人じゃなくてまた別の所をっていう。痛いのを直接麻酔とかで治す人もいるけども、横で「痛いのは普通なんだよ」って言ってくれることで、少し克服できることもあるじゃないですか。そういうとぼけたことを言うのも、もしかしたら僕があの人たちかもしれないし。だからそれの探究みたいなのを今やってるのかもしれないですね。

手塚:何かある物事を全く違う、誰も思わないような方向から見てぽっと何か言う。それで「ああ、そういう見方もあったのか」って。

照屋:そうそう、入口を作ってあげてシェアする場所を作ってあげる。そういった意味ではアートは大切な仕事だと思う。今まで親父に対して、もっと具体的に、自然を守るためのメッセンジャーとしての美術があるとかそういう言い方をしたけど、今はだんだんどちらかというともう少し違うところで。もっと親父に対して説明するのが難しい領域なんですけど(笑)。無駄なことこそ、だからこそやる必要性があるというのは、無駄だから必要な部分はあるんじゃないかっていう自覚は身体でしてはいます。

由本:結構オノ・ヨーコも64年くらいに同じようなことを言ってる。「芸術に無駄なものを入れていくのが私の使命」みたいな。さっきのコレクターの方のインタヴューっていうのは系統だってしてらっしゃるんですか。それによって自分の作家としての社会との関係を確かめてみたりとか、そういう個人的なモチベーションですか。

照屋:その時は何で始めたんでしょうね。伝えたい気持ちでいっぱいだったと思うんですよ、日本の人たちに。

由本:日本の人たち向けなんですね、それは。

照屋:どちらかと言うと日本の人。やっぱ11歳の女の子が買うっていうのはショッキングでしたね。オープニングで、ちょっと質問したい人がいるからって別の部屋に通されたらバレリーナの格好した女の子がちょこんと立ってるんですよ。今レッスンから帰ってきたような感じの女の子が。で「いくつか質問がある」って言って。「この作品は何年もつんですか」とか(笑)。

手塚:結構すごい、ちゃんとコレクターの質問ですね(笑)。

照屋:「もつ作品なのか」、「もつことは大切なのか」、あと「どういった意味なのか」とか。びっくりしちゃって、それで。「これは大変なことになったぞ」と思って、それを伝えたい気持ちが最初にあって。結果的に5、6人の僕の作品を買ってくれた人たちをニューヨークでもう1回訪ねるっていう話だったんですけど、初めはその人たちがなぜコレクターとして作品を買うのかっていうのが焦点だったと思うんです。実際はうまく引き出せなかったですけど。同時に、どうやって作品と生活してるのか見せてもらう。だから訪ねて、どういったディスプレイで自分の作品がそこにあるのか、それをまずヴィジュアルに見せたいのと、高い高級バッグを変える値段で、なぜ作品やドローイングを買うのか。違いは何なんだとか。そして生活の中でどう変わっていくのかっていうのを話を聞いて。もちろん大体の人はとりあえずお金がある人達なんですけど、人によっては何とか奥さんをだまして(笑)、理由を作ってお金を持ってきたとか。「でもこれだときっと僕の奥さんも喜んでくれるに違いない!」って開き直ったりとか。11歳の子はミアちゃんていうユダヤ人の女の子だったんですけど、ユダヤ人の社会では12歳かなんかでお金が親せきから集められて回ってくるらしいんです。それである程度集まったらまとまったお金を、それで「将来に役立つものを何か買いなさい」って手渡される。沖縄にもあったんです、「十三祝い」って言って、12歳のころ。似たようなものかなって思うんですけど。そのお金で彼女は何を買おうかって思ったときにアートだと思った(笑)。アートを買いたい。それでギャラリー廻りをしていた。で幸運なことに僕の作品を買おうと決めた。

由本:(ショシャーナ・ウェイン・ギャラリーは)サンタモニカですよね。じゃあLAのころの。

照屋:お父さんは映画関係の仕事をされてる方で。何て言うんですか、プロダクション会社の了承を得て、役者を斡旋するというか。で、さらに驚くことは、僕の作品は初めてじゃなかった。6個目の作品だった。

手塚・由本:おぉー(笑)。

照屋:ミアちゃんの部屋にも行ったら色んな絵がいっぱい置いてあって、「これがいちばん最初に買った作品!」て(笑)。ストリート・アートだったんですけど。次にこれ買った、これ買ったって説明してくれて。説明するのが立派ですよね。「これはこういう作品」って。

手塚:ちゃんと理解して覚えていて。すごいですね。

照屋:だからそういうのを紹介して。日本でも僕の作品を買ってくれたおばちゃんとか、後は僕の作品は買ってないけれども、「私は娘の大学の卒業制作を買いました」っていうお母さんがいて。その人の話も是非って聞いて。要するに、やっぱ僕はマーケティングに支えられたから、沖縄や日本でもマーケティングで支えるときにコレクターをどんどんよいしょして、スター・コレクターみたいなのをもっと身近に作っていったらもっと売れるかな、って思ったんですけど。だけどもスター・コレクターはとりあえずいるので、同時にもう少し足元から。小物とか売れるわけじゃないですか。もう少しじゃあオリジナルの作品がこんな風に生活の場にあるって紹介できたら、「私も!」って思う人が出てくるかなって。だから僕なりのコネクションとしてこういう作品を買ってきた人たちがいるっていう思いがあるっていうことと、セットで始めた。アメリカの人たちだけじゃなくて日本の人たちも同じように扱うことで、「これはアメリカだけの話」って終わらせないようにしようと思って。それに関する話で2つくらい良い話があるからちょっと言わせてもらうと、大学院でSVA入ったときに最初オリエンテーションがあるじゃないですか。その時にそれぞれ自分が一体何者かを紹介するんですけど、その中で一人がSVA来る前に個展を1つやってきたと。みんな「おーすごい、大学院に入る前から個展してる!」って。その後誰かが「売れたのか、作品は?」って言ったら、「売れた。1点だけどね」とか言って。それで「うわーっ!」てなって(笑)。「売れた、売れた!」とか言ってたら「うちのお母さんが買った」って(笑)。

手塚・由本:あはははは(笑)。

照屋:でもその時に、「親は買ってくれるんだ」って思ったんです。その時点で僕の親は1つも僕の作品を買ってくれてなかった。ちょっと羨ましかった。「そうだよな、親は『頑張れ頑張れ』言うけど、そういや買ってくれてないな」って思った。僕の多摩美の大先輩の人がニューヨークにいるんですけど、写真家で比嘉良治さんっていう人で、もうロングアイランド・ユニバーシティー(Long Island University)の大学の先生を終わって、引退してるって聞いたんです。それで、母親とおばさんが僕を訪ねたときにみんなで会いに行ったの。そこで当然おばさんが褒めてくれたんです。「勇賢がんばってる」って言ったら、比嘉さんが言った言葉が「褒めないでいいです。買ってください」。

手塚・吉本:あはははは(笑)。

照屋:「買ってください。それでいいですよ」とか言って。それもすごく印象的だったから、日本で「私の娘の作品を買いました」ってはっきり言ったその方のインタヴューはどうしても取りたかった。その方の意見を聞きたかった。その人は母子家庭で娘さんを美大に送って卒制を買うんですけど、「これは私の勲章だ」みたいなこと言ってました。私はこんな作品を作れる娘を育てたっていう意味での位置づけで。でもこれは私の作品だから、他の展示会に出す時私の承諾が必要だし、サインは私がしなきゃいけないってはっきり言ってました。何かを持つ責任っていうのをその人が少し感じることができて。作家を育てたいならば、まず家族が最初に支える考え方は大切だなって。それも少し伝えられたらいいなって、っていう。

由本:じゃあ経済の状況だけじゃなくてそういう家族の関係とかそういったことにも、ミクロ的な視点がいった作品。これは作品なんですよね。作品ではないんですか。

照屋:いえ、ただやってただけなんです。

由本:作品として見せたことはないんですか。

照屋:ないですね。

手塚:プレゼンテーションとかはされた?

由本:それはどこで行き当たったのかなぁ、私。

照屋:最終的に武蔵美の学生が使わせてくれ、ってことで。岡部あおみさんは直接関わってないないのかな。その時の会話みたいなのは文章で上げてもらってたんですけど、ウェブサイトで。その後学生に全部ビデオをお渡しして、ウェブサイトで紹介しました。で、今それがなぜかそこからTABでしたっけ、TOKYO ART BEATでセクション移動して、そこで少しその紹介がされてるみたいですけど。

手塚:インタヴューの。

照屋:インタヴューの。やっぱり僕も自分のレベル、僕ができる範囲での経験で。でも自分が経験していることはやっぱり強いですから。何て言うんだろう、やっぱり自分の中では強い経験なので、それから自信持って言えるんですよ。その世界から、その部分から日本に持って帰れる部分はどんどん持っていって。それが刺激になるんであれば刺激になってほしいし。そういう意識がすごくあったと思います。あの時まだ余裕があったんです。今はそんなことできないです(笑)。

手塚:そうなの(笑)。じゃあ今はどういう状況ですか。

照屋:今は締め切りに追われてて(笑)。

手塚:次の展覧会は。

由本:昨日気がついたらミュージアム・オブ・アーツ・アンド・デザイン(Museum of Arts and Design)の展覧会に入ってるんですね。

照屋:あっ、そうですね。明日じゃないですか、オープン。

由本:あの展示にはどの作品が入ってるんですか。

照屋:あれは紙袋です。紙袋ばっかりなんですけど。あれはウエスト・コレクション(WEST COLLECTION)というところに入っている作品を借りて持ってきたみたいです。

由本・手塚:ふーん。

照屋:あとやっぱりどうなんですかね。僕が関わる展示会っていうのは、やっぱり日常のものを作品にしている作家たちが呼ばれる展示会が多いですけども。

由本:「Second Lives」っていう(展覧会の)タイトルもね。

照屋:アーツ・アンド・デザインは「Second Lives」ですか。

由本:そういうタイトルの展覧会ですね。

照屋:やっぱりどうしても僕は当事者だからそういう展覧会がいっぱいあるような気がしてしまうんですけど、どうなんですかね。増えてるんですか。そういう、日常のものを取り上げる展覧会。

由本:それはすごくタイムリーだと思いました。してやられた、みたいな。まぁサラ・ジー(Sarah Sze)とか。ツェン・シェンチェン(Zheng Shengtian)とか。アジアン・ソサエティー(Asian Society and Museum)でも見てる作家はやっぱり多いんですよね、そういうの。何かリサイクルっていうか。

手塚:今まで全くなかったわけではないけれども。

由本:でもそうやって系統だててグループで見せる、っていうのは、こんなおっきいのは初めてなんじゃないかな。

照屋:しかもデザイン系の美術館でやる1番最初の展示会ですよね。思い切ったなと思いましたね。

由本:でもあそこはMoMA(Museum of Modern Art)の向かいにあったときに(注:America Craft Museumのこと)環境問題の展覧会をやったり、あと、サブヴァーシヴ・ニッティング(「Radical Lace & Subversive knitting」展、2007年)っていう、ニッティングとか縫物を使いながら社会批評をするような展覧会があったり。結構面白い展覧会があって注目してたんですけど。

手塚:今回は、してやられたっていう(笑)。

照屋:たくさん作家来てますよね。ヴォリュームのある展示会になるだろうなとは思ってます。

由本:それじゃあ、リサイクルっていうのがかえってメジャーになってしまったらどうでしょう。ちょっと自分としても作家としても方向性が変わってきたりするかもしれないですか。

照屋:うーん、どうですかね。

由本:これからのことなんでわかりませんよね。

照屋:紙袋も、もう8年作ってますね。でもまだ作って欲しい、って言う人たちがいますので。それはそれでありがたくその意見は受け止めて、作っていこうかとは思ってます。同時にやっぱり難しいところは、そこでやっぱり応えなきゃ生活成り立たないところもあって。でもそれだけじゃないという自分もあるので、別の作品も同時に作ろうとする。そのバランスがとても難しいです。単純に時間がなくなっちゃうんですよね、紙袋を作る時間がいるから。あと、ものはやっぱり機械的につくれないです。理由が必要なんですよ、自分の中で。ちょっとでもいいから袋のアイディアを発展させたり、新しい挑戦を自分の中で盛り込んでいったりしなきゃいけない。しないと、単純に次を作り続けられない。もちろんこれは良いチャレンジだと思ってますけども。後はそれにその紙袋のカッティングと加えてできた部分から、いかに自分を違うところに解放できるかっていうのも大きなテーマではあります。そういう意味では、日本の展示会は良いです。日本の学芸員は「とにかく新作を!」とか言ってくるんですよね(笑)。

手塚:え、こっちは違います? こっちはやっぱり紙袋?

照屋:こっちはあるものでどう位置付けをするか、っていうのが傾向として多いですよね。

由本:テーマがありますよね。

照屋:もちろんテーマはあるんですけど、もう少し離したところで。そういう意味でここはすごいかっちりした展示会を作っていく。ある種やりやすい部分ではあるんですけども。そういう意味で日本とアメリカでは違いがある。日本はそういう意味ではおっかないところもありますけども。とにかく新作。「これは作ってないですよね、見せてないですよね、他では」とか(笑)。

手塚:テーマも何もなく、とにかく新しいものを作ってくださいという感じで。

照屋:それだとまだ楽ですよね、はっきり言って。(大変なのは)こういうテーマがあって新作を作るとき。

手塚:ビールとか(笑)。そういうのはどうですか。(注:照屋は2006年にアサヒ・アート・コラボレーション主催で「照屋勇賢展―水に浮かぶ島」展を行っている)

照屋:ビールとか。アジアとか(笑)。

由本:アジアとか。水とか(笑)。漠然としたテーマで。

照屋:まず個人的な繋がりをつくらないといけないので。でないと何も出てこない。その辺僕は器用じゃないから、繋がりができないと。でもそれがあるから、作る、考えるきっかけが無理矢理でも出てくるし、結果的にはありがたいなと思ってます。そういう意味でも住友さんは(注:住友文彦。インタヴュー時は東京都現代美術館学芸員)結構押してくれるんです。住友さんとやるときの展示会、いつも大変ですけど。

由本:そうなんですか。

手塚:東京現美(東京現代美術館)やるなぁ。どういう仕事を。

照屋:南京(注:南京トリエンナーレ、2008年)も住友さんがやってましたし、「Rapt!」(注:「Rapt! 20 contemporary artists from Japan」、「2006年日豪交流年」の記念事業の一環として、オーストラリアの複数の都市で開催。照屋の作品はシドニーで展示された)も大変でしたし。(カメラを指しながら)カメラの前で言っちゃうとマズい(笑)。けど、大変です。

由本:そういうのは、コミッション・ワークということで買い上げにならないんですか。

照屋:だいたい日本の場合はならないケースが多いです。僕は買い上げになったケースは今のところ日本でないです。

由本:あっちで条件をつけておきながら。

照屋:途中から入ってくる展示ほど、本当に厳しい。お金がないのにどんどん要求してくるんです。それの葛藤がやっぱり大変ですね。だから最終的に今考えるのは難しい。それも今常に考えているのは、やっぱり闘う部分って必要だと思うんです。闘って、今までタダで働いていた部分から、作家の位置や存在を変えていく必要がある。でも同時に、そういう苦しい環境やお題とかは、むしろ買ってでも、それが得られた時、結果的に良いことがあるんじゃないかなと思うんです。でもそのバランスが難しいです。もっとアーティストたちの立ち位置をしっかりするべきだと思います、今後。もっと本当に、警察、消防隊、弁護士、そしてアーティストっていう位置づけがもう少しあったほうがいいと思う。でも、試験に通ってアーティストの証明書をもらったら意味がないんです。やっぱ意味がないところが大切なんで、その中で、社会の中でちゃんと位置づけが得られるような未来をやっぱり作らなきゃいけないんですけども、それはやっぱり僕も含めて1人1人の作家が良い仕事を作っていかなきゃいけないなぁ、と思いますね。そして、ただ作りっぱなしじゃなくて、やっぱり社会の人たちに認められなきゃいけない。社会はアーティストをサポートしなくちゃいけないんですけども、同時にアーティストは責任を持つ作品を作らなきゃいけないなって思う。逆に社会に対して何ができるか、っていうのを、「俺はこれができるよ」というのを何となくでもいいから、「例えばこの作品ではこれが社会にとって良いことだ」とか、漠然とでもいいからあってもいいんじゃないかなって。あの、持ちすぎると駄目ですよ。これはまた難しいところなんですけど(笑)。自由奔放にやって、本人も分かんないけど自由奔放にできて、よく分かんないんだけど、でもそれで救われる部分はあると思いますし。難しいですね、やっぱり。難しいとこなんですけども。でも僕が小さい頃持っていたような、漠然としたプロ意識のようなもの、こだわりですかね、作る人の。そういうのをやっぱり作家がちゃんと持ち続けることが最低ラインとして大切じゃないかと思って。

手塚:分かりました。何かすごくいいまとめのご意見を聞かせていただいて。これから将来もすごく楽しみな方向に行きましたね。今日は長い時間、お忙しい中割いて頂いてありがとうございました。