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安永幸一オーラル・ヒストリー 2016年2月6日

福岡アジア美術館にて
インタヴュアー:黒田雷児、中嶋泉
書き起こし:京都データサービス
公開日:2016年10月10日
 
安永幸一(やすなが・こういち 1939年〜)
美術史家
福岡県生まれ。1963年に九州大学文学部卒業後、山一證券勤務を経て1969年より長崎県立美術博物館学芸員。1974年より福岡市美術館建設準備に携わり、1979年の開館より同館学芸課長、副館長を歴任した。1999年の開館の福岡アジア美術館開設にも尽力し、初代館長、顧問を経て2015年に退任。吉田博研究でも知られ、著書に『山と水の画家 吉田博』(弦書房、2009年)ほかがある。インタヴューでは、福岡アジア美術館運営部長(学芸課長兼務)の黒田雷児氏に聞き手をお願いし、前半に幼少期や大学時代の美術研究の思い出を、後半に長崎県立美術館での活動、福岡市美術館建設準備や初期アジア美術展開催の取り組み、福岡アジア美術館設立などについてお話しいただいた。


黒田:定番の質問からさせていただきます。1939年に福岡生まれということですけども、どういうところで生まれて、子どもの頃どんな育ち方をされたのでしょうか。

安永:1939年ってのは、昭和14年ですよね。戦前、支那事変(注:1937年、日中戦争の初期)が始まった頃かな。福岡市の現在は城南区になるかな、鳥飼というところです。

黒田:鳥飼にいらしたんでしたっけ。

安永:うん。鳥飼というところがあるんですけど、そこで生まれたんですね。で、そこはもちろん仮の住まいというわけじゃないけれど、親父の本籍は福岡県。昔は福岡県宗像郡池野村大字田野瀬戸という、そこが安永家の原籍の場所で、江戸時代は名字帯刀を許された大地主だったみたいだな。だから「ヤマセ」という屋号もあったり、それから安永という名前ももう江戸時代から使われてたみたい。ちっちゃい頃、よくこの一帯は、とにかくうちの田んぼや畑ばっかりで、人の土地を歩むことはなかったって聞いた。一帯の大地主だったみたいだな、山もあったみたいで。もちろん僕は1939年に生まれて、昭和20年、1945年の6月の福岡大空襲に遭ったんですよね。福岡大空襲に遭って、家が全焼して仕方なく親父の里に引っ込んだのが、僕の少年時代でもあるわけね。大空襲の時は焼夷弾の雨のように降る中を走って逃げたんだ。おふくろに手を引っ張ってもらって、防空壕から防空壕へ逃げ惑って、九死に一生を得んだけど。実際に焼夷弾がばばばばって落ちてくる、もうそういう中を走りながら、よく焼夷弾で直撃されなかったなと思うぐらいだけど、周りで直撃を受けてもう亡くなった人もごろごろいたしね。大変でした。鳥飼の辺は、もう西新から鳥飼あたりや大濠公園まではもう丸焼けだったんだね。全焼して、本当に、全焼して。九死に一生を得たというか。

黒田:その空襲で亡くなったご家族の人はいなかったのですか。

安永:家族は全部元気でした。僕とすぐ下、1歳下に弟がいて、それから三つ下に妹がいたんだけど、妹は生まれたばっかりで、背中におぶさって、昭和17年生まれだったから、まだ三つぐらいだった。おふくろの背中におぶさって。僕と弟はおふくろが両手でつないで。もう逃げ惑って、畑ん中走ったりなんかして逃げ惑った、それは覚えてるね。最後は今川橋のあの何だっけ、あの川のふちのところの橋の下に行って、そこにあった防空壕に逃げ込んで助かったんだよね。あの頃はみんな家のすぐ近くに、みんな自分の家用の防空壕を掘ったもんだけど、わが家も家のすぐ横に大きな防空壕あったんだけど、そこはもう焼夷弾が入って全焼した。だから最初はそこにいたんだけど、ここは危ないっていうようなことを誰かが言い出して、それでみんな移動したんだけど、それがよかったんだよね。幼稚園は鳥飼の何とかっていうお寺がやってる幼稚園に行ったんだよね。で、幼稚園の上級組のときに空襲に遭って、で、宗像郡の田舎に引っ込んで。小学校はそこの池野小学校っていうところに上がって。中学校までは池野にいた、池野から通って……

黒田:池野って、普通の「池」と……

安永:普通の「野」。現在はもう池野村って名前はなくて、現在は宗像市田野瀬戸っていうのかな。大字田野、小字瀬戸って、昔はそう言ってたんだけど。田野瀬戸っていう、今はもう合併、合併で、池野村がのちに玄海町になって、で、玄海町が宗像市に合併されて、今、宗像市になってしまったね、みんなあの一帯は。で、池野村っていうのは、隣が鐘崎っていう有名な漁港なんだ。フグやなんかがよく取れる、大きな漁港。あの一帯の中でも一番大きな漁港なんですけど、そこの隣の村だったから、子どもの頃は魚なんかもよく食べましたね。食うものがなかったけど、魚だけはたくさんあって。特にイワシなんかはもうあの頃は、トロ箱1杯、今の値段で言えば100円ぐらいで買えたぐらい(笑)。とにかくイワシが獲れて獲れて、もう本当に食べきれないから、最後はみんな肥料にしたりしたけど。イワシ大漁時代ですね。イワシは焼いたり、煮たり、はらわた出して、みりん干しにしたり、いろんな食い方をしてイワシはよく食ったなあ。僕の健康の源は多分、イワシにあるんだと思ってますけど。肉なんかはめったに食えない。1年に1遍食えるか食えないかという感じだったけど、イワシはよく食った。それからサバ、青物の魚はよく食ったなあ。イワシはもう本当に嫌というほど。イワシとイモだな、サツマイモ。もともとはそりゃ池野の大きな庄屋さんというか地主の家だったけど、親父の代の頃はもう全く田んぼも何にもなかったから、食糧がなくてね。疎開はしたけど、戦後すぐの頃は食糧がなくてコメなんかも手に入らないから、あの頃、国が奨励して林やなんかを開墾して畑を作ったりしたんだけど、そういうことも子どもの頃やりましたよね。親父の手伝いをして、親父とおふくろの。で、おふくろも戦後そういう無理がたたって、僕が小学校3年か4年の頃に結核にかかったんだよね。あの頃はよく結核にかかったんだけど。それで、寝込んでしまって。だからおふくろがやってた家事やなんか、親父も一生懸命やったけど、子どももみんな仕事を分担させられて、ご飯の煮炊きから後片づけ、そういうことももう僕やったもんね。おふくろから教えられて。ご飯炊いたり。あの頃は田舎だから釜があって。

黒田:薪で炊く?

安永:うん、薪で炊いて。初めちょろちょろ中ぱっぱってあの方式でご飯炊いたり、それからおかず作ったり。戦後すぐに4番目の妹、4人きょうだいの一番下の妹が生まれて、それを背中に背負って子守しながらそんなこともやったり。結構ちっちゃい頃は食い物の苦労というか、すごく覚えてるな、やっぱり。食べ盛りなんだけど食い物がなくて、開墾した畑にはイモを植えて、イモばっかり。コメの代わりにイモばっかり食ってたと思うよ。

黒田:まだ田舎だったから(食糧事情は)かえってよかったかもしれないですね。

安永:田舎だったからね。田舎だったから何とかかんとか。おふくろの里がやっぱり宗像のほうの、今、宗像市になってるけど、そこの百姓の出だったから、そちらから時々はお米を恵んでもらったりして。でも、麦7、お米3ぐらいの麦飯が主流だったもんね。

黒田:池野のときに一緒に住んでいた人で、お祖父さん、お祖母さんは、まだご健在だったのですね。

安永:おじいさん、おばあさん、まだ元気だった。おじいさんは学校の先生だったんだよね。最後は大島っていう鐘崎から船でちょっと渡ったところに大島っていう島があるけど、そこの小学校の校長かなんかで定年を迎えたような人で、ある種のインテリでもあったんですね。おばあちゃんは最初のおばあちゃんが亡くなって後妻のおばあちゃんだったよね。花柳界から来たような感じのしゃれたおばあちゃんだったけど。その親父のお父さん、つまり、おじいちゃんの子どもってのは親父も含めて6人か7人か男ばっかり、女の子は1人いたのかな。みんなインテリだったし、おじいちゃんもそういう学問をすすめたから、みんな東京とか、長崎とか鹿児島とか、大学にみんな行ったんだよね。特に、最初の男の子と、2番目の男の子までは東京の一橋大学とか。東大は行ってなかったかもしれないけど、慶應(義塾大学)とか、とにかく大学にやったんですよ。それでそれまで父祖伝来残ってた田んぼとか山とかはどんどん、それで売ってしまって、学資に充てたんだよね。ところがそうやって勉強した子どもたちがみんな結核で亡くなってしまった。結核で亡くなってしまって、最後に残ったのは3人だけかな。4人亡くなったか。4人亡くなって3人だけ残ったんだよね。3人残った中の一番上が、これはお医者さんになった。鹿児島医大かなんかを卒業して、産婦人科の医者になったんだけど、これが一番で、3人残ったうちの2番目がうちの親父。とにかくその時代になるとおじいちゃんがもう学問はさせないと言い出した。学問なんぞしても死んでしまうから、何もならんっと言って、おまえは兵隊になれって言われて、親父は本当は学問したかったみたいだけど、泣く泣く海軍に入ったんですよ。で、呉の海軍兵学校かな、少年兵としてそこに入って、そこで3年間か何か教練を受けた。呉、知ってるでしょ、広島だから(注:正確には江田島)。呉の海軍兵学校だったと思うけど……。そこに入って職業軍人になると、ある種のエリートなのかな、僕もよく知らんけど、割と早い段階で昇進して、僕が知ってる頃はもう軍尉っていうか、少尉・中尉・大尉の、大尉か何かで、もう結構いいところだったんだよね、僕が生まれて知ってる頃は。で、海軍で主には通信兵っていうか、通信技術がすごく高かった。うちの親父は非常に工学系の父で……

黒田:工学系。理系なんですね。

安永:理系なんだ。みんな理系なんですよ。

黒田:そうなんですか。叔父さんもお医者さんでしたね。

安永:だから僕が美術やるって言ったときみんな驚いたもんね。家系にそんな文系がおるのかみたいなこと言われてね。みんな理系で。親父も理系で。親父はそういう、何か機械に詳しくて、たとえば、戦後、田舎に疎開していた時、近所の人がよくラジオを持ち込んできてたもんね。ラジオが壊れたから直してくださいと言われた。親父がわかったって言って、ぱぱぱってね、一晩ぐらいやるとすぐ直るんだよね。

黒田:通信やってたから。

安永:すごくメカに強くて。そういう能力を生かして海軍では通信兵で、いわば前線に立ってドンパチやるほうじゃなくて、後ろのほうでツーツー、ツーツーいわせながら本部と連絡したりなんか、そういう役目だったから、それで命が永らえたんだ。で、終戦間際に病気したんだよね。とにかくきょうだいがみんな肺病で亡くなってるから、肺病が非常に心配で、肺病の気もあったのかもしれないけど、それで病気してしばらく郷里に帰って、で、僕が知ってる頃はもう鳥飼の家に、終戦間際、昭和18年か、18年の終わりか19年の頭ぐらいにはもう自宅で寝たり起きたりしてたから。それでちょっとよくなってから働きに出るっと言って、雁ノ巣に飛行場があったんだけど、そこの何か整備係か何かに招集されて、そこに朝早く起きて通ってたのね。だから終戦で空襲に遭った頃も、その雁ノ巣に勤めているときだった。本人は早く戦場に復帰したいとか言ってたらしいんだけど。当時は健康でそうやって働いている若い男性が兵隊も行かずにというので白い目で随分見られたらしいんだけど。本当は(戦艦)武蔵か何かに乗る予定だったらしいんだけど病気になって下船してるわけよね。だからそれもやっぱり運命といえば運命で、よくそんな話をしていたなあ。(戦艦)大和にも乗ったとか言っていた。

黒田:そういう話は戦争マニアには受けるでしょうね。

安永:だから要するに大きな軍艦に乗って通信兵としてあちこちに行ったようですね。

黒田:かなり有能だったんでしょうね。

安永:そうやって親父が海軍にいてあちこち軍艦で行ってて、思い出話をいろいろ聞いてるから、アジアに対する目も小さい頃からちょっとあったのかもしれないなと思ったりね、今にして思えば。上海の話とかよくしてましたよ。他にはシンガポールとか。要するに大きな港は大体軍艦で寄ってるわけよね。それであちこち行ったけど、やっぱり上海が一番楽しかったとかいう話をしてた。それから上海のお土産の布袋様の焼き物とか、そういうものが、まだ(家に)ちゃんと残ってますよ。親父がいつ何年に行ったときのお土産とか書いてあるけど。とにかく親父はそうやってあちこちアジアの軍港は行ってるわけよね。アジアしか行ってないというか。

黒田:船で行けるようなところ。

安永:欧米は行ってない。日本海軍が掌握しているところを回ってるんだよね。

黒田:フィリピンとかマレーシアとか……

安永:ルソンとか。ルソンとかって話もしてた。ルソンってのはフィリピンか。

黒田:ルソンとはフィリピンのマニラのある島です。インドネシアの話とかは? そこまで行ってないか。

安永:インドネシアの話はあんまりしてなかったな。シンガポールの話してたな。シンガポール、ルソン、上海、台湾とか。

黒田:いきなりかなり意外な話をうかがいました。次の質問に移りますと、お父さんのお仕事をうかがったんですけど、両親含めた、きょうだいとか含めて、美術とか何か文化に興味を持つっていう人はどなたにもいない?

安永:僕だけやな。

黒田:そういう人結構多いと思うんだけど。

安永:親父は結局、終戦になって職業軍人だったから公職追放になったんだよね。公の職には就けなくなって。僕が知ってる限りでは3年ぐらいは何にもせず無職だったかな。浪人してたよね。

黒田:そのあとはどこかで就職?

安永:結局、誰か世話する人がいて、池野村の役場でちょっと手伝ってくれといわれて、それでのアルバイトで役場に行くようになった。勤めぶりが認められたのかどうかわからないけど、後に役場の雇員に、雇員っていうか正式の職員になった。だから池野村の役場に2、3年いってたよね。そしたら誰かから認められて、桜井(孝身、〈九州派〉の作家)さんの住んでるあの辺が東郷っていうんだけど、そこがあの地域の一番にぎやかな街だったんだけど、そこに福岡県の地方事務所っていうのが、今あるかな、県庁の宗像支所みたな感じだな。地方事務所と昔はいってたけど。そこに引っ張られていったんだよね。そしてそれから最後は県庁に引っ張りあげられたのかな。だから、僕が高校に入る頃は県庁に行っていた。昔、軍人だったからっていうんで県庁の援護課っていうところで働いていた。これは戦没軍人の遺族やなんかを支援する課なんです。

黒田:そんなのがあったんだ。

安永:軍人恩給だとかなんかも含めて、要するに軍人だった人の遺族の面倒を見る課が。今でもまだあると思うんだけど、そこの援護課の課長か何かに最後はなって。そういう、やっぱり軍人だったときの経歴を生かしながら仕事してたような気がするな。

黒田:技術を生かした専門職とかじゃなくて一般事務職?

安永:そうだね、多分ね。だから僕のきょうだいも誰も美術には関心はない、僕だけで、弟は銀行員になって最後は銀行辞めて独立して今自営業やってるし、妹が2人いて、妹2人とも別に美術の関係じゃなくて運動部、卓球とかバレーとかしてたんだけど、卒業して普通に勤めて職場結婚して今でも元気にやっているっていう感じだから。誰も美術はいない。僕に娘が1人いるんだけど、こいつだけが僕の血を引いたのか、美術絡みの仕事をしてます。美術じゃないけど。コンピューターのソフトを作る仕事をしてるんだけど、カメラ、写真が好きだったりするんだけど。まあ、それが。息子が1人いるけど、息子も全然美術と関係ない。

黒田:じゃあ何で美術の道を選ばれたのかますます不思議ですね。

安永:とにかく3人生き残った親父のきょうだいの2番目が親父で、一番下に叔父さんがいるんだけど、その人はおじいちゃんの2番目の奥さんから生まれた1人だけの子どもだったんだけど、その人も結局、今の福岡工業高校、昔の福岡工業中学校かな、その建築科か何かを出て、もちろん兵隊に取られて兵隊に行ったんだけど、生きて帰ってきて竹中工務店に入ったんだよね。だからこの叔父さんが設計士になったから、まあ美術の仕事をしたといってもいいかな。

黒田:子どものときから、一番に美術に接する機会って、雑誌だったり…

安永:僕は大体絵が好きで。

黒田:描くのが?

安永:描くほうも結構うまかったの。小学校もそうだったけど幼稚園の頃から僕はよく友達から何々の絵を描いてくれと、しょっちゅう言われててね。飛行機の絵を描いたり、戦車の絵を描いたりね、そういうのをしょっちゅう頼まれて、僕はしょっちゅう描いてたんだよね。で、うまいうまいってみんなに人気があって。小学校のときも学校の何処かに壁画を描くということになって、僕は一生懸命描いてね、壁画を、大きな壁画を描いて、それもすごく出来がよくて、ずっと残ってたもんね、学校の壁画。だから僕は絵は得意だというのがどっかあったんだね。

黒田:幼稚園からだったらそういう気になるでしょうね。

安永:絵を描くのが好きだったし、割と上手に描けたから、得意だという気持ちがあって。

中嶋:壁画では何の絵を描かれたんですか。

安永:みんなと遊んでいるところとか何かだった。、結構大きな、2m×3mぐらいの大きな画面に。

中嶋:大作ですね。

安永:クレヨンと水彩で描いた。小学校3年のときだったかな。

黒田:壁画は長く残っていたんですよね。あったのは屋内?

安永:講堂に行く手前のとこに大きな壁があって、そこに貼ってあって、卒業してからもずっとあったし、今はもうその小学校は廃校になってなくなったんだけど、随分長い間かけてあった。

黒田:小学校で2m×3m描くってすごいと思いませんか(笑)。

中嶋:うん、すごいですね。

安永:僕もかなり一生懸命描いたし、割と緻密で、出来がよかったんじゃないかと思うんだけど。中学校のときも、僕は絵が好きだったから美術部に入って、運動部は野球部だったんだけど、美術も好きで美術部に入った。で、九州交通安全ポスターの募集があったんだな。中学2年のときだったかな。九州各県の管轄の警察が各地の小中学校の生徒の交通安全ポスターを募集して、1等賞とか2等賞とかを決める。で、僕は全九州で2等賞になったんですよ。

中嶋:すごい。

安永:銀賞だった。で、当時の宗像警察署の署長さんがわざわざ中学校まで来て賞品と賞状の授与式をやりましたよ、全校生徒集めて。

黒田:それはすごい。

安永:だから、九州を代表する(笑)絵描きになるんじゃないかと思うぐらい。そのときの中学校の美術の先生、楠先生っていって、この人もなかなかいい先生だったんだけど、その人がいろいろと水彩の手ほどき、その人は水彩画家だったんだけど、水彩の手ほどきしてくれて、非常に新しい世界に目覚めたりして。高校は、最初はそういう田舎に住んでいたから田舎の高校にいこうと思って、宗像高校という県立高校があるんですけど、そこに1年いったんですよね。で、親父が県庁に転勤になったから、それで家も全部福岡に移るから、おまえも高校を転校したらどうかと言われて、で、福岡高校というところに2年だったときに転校したんですよ、転校試験を受けて。これもかなり狭き門だったみたいだけど、一応とおって。だからそこから福高(福岡高校)なんだけど。とにかく宗高(宗像高校)の最初の1年間っていうのは、美術が好きだったから美術部に入って絵を描いてたんですね。で、飯岡さんってのが先生だったけど、この人もなかなかいい先生だった。上級生に甲斐巳八郎さん(日本画家)の息子、甲斐大策さん(洋画家・小説家)が美術部の、僕が1年生のときの3年生だったけど。だから、割と美術的な環境の中で1年間は過ごして、2年生のときにそうやって親父が県庁に転勤になったから、それで福岡市の福岡高校というところに転校して、そこでまた美術部に入ったんですよね。そのときの先生が熊野礼夫(のりお)さんっていう、これは光風会の会員で、中村研一(洋画家)の一番弟子を任じていた人なんだけど、この人が非常にいい先生で、いい先生っていうか、先生としてはよかったんだけど、大酒飲みで。その人のもとで一生懸命木炭デッサンやったり油絵やったりなんかして、福高入ってすぐの秋の県展に応募したら、いきなり入選して(注:「腕を組む女」、第13回福岡県美術展、1957年)。あとで聞いたら賞候補だったという、高校2年で。で、校内新聞で取り上げられたり、西日本新聞もちらっと小さく出てたけど、だから才能あるんじゃないかと思って(笑)。で、木炭デッサンも割と上達して上手だったりしたんで、自然に何かこう東京芸大にいきたいなっていうふうに思い始めて、美術で身を立てようという気持ちになってたんだよね。最終的には東京芸大は断念したんだけど、断念をした理由は二つある。ひとつはやっぱり経済的な問題ですよね。うちの親父も県庁マンになったけど、当時の公務員の給料ってものすごい低かったしね。それは一般の企業の半分とはいわないけれど、半分近いぐらいの。公務員の給料ってのは本当に低い時代で、それに子どもが4人いて、結核になった母親を抱えて。うちの母親は、結局、結核にかかったけど命は助かった。それはうちの親父のすぐ上のお医者さんになった一番上の叔父がいて、その人が当時日本に輸入されたばかりのストレプトマイシンっていうのを手に入れるのに有利な立場にあったわけよね。だからこっそり割当以上のストレプトマイシンを手に入れておふくろにそれを与えてたんだよね。それがやっぱり命を助けてくれた大きな要因だったんだけど。そういうふうなことで、貧しかったから、とても東京の大学にやれるだけのお金がない。親父も僕が行いきたいと言うもんだから、いろいろと考えてはくれたみたいだったけど。

黒田:一応理解は示してくれたんですか。

安永:理解は示してくれたの。おまえがやりたいと言うならそれは仕方ないと言って。で、いろいろ自分なりに経済的なこともあって調べてみたみたいだね。そしたら東京芸大は2年生までは一切学生のアルバイトを認めません、とか言われたらしいんだよね。

中嶋:そうなんですか。

安永:僕も今はどうなってるか知りませんよ。でもあの当時は、一生懸命勉強しなきゃいけない時期にアルバイトはしない、させないというんでしょうね。アルバイトせずに仕送りを続けることはできんと親父が言って、断念してくれと言う。で、経済的な問題は一番大きいからしょうがないかなと思った。ふたつ目の理由は、そういうときに、その熊野礼夫というその光風会の先生が、この人は東京美術学校時代の卒業成績が一番だったというのが自慢で、すごい優秀な、本当に優秀なんだけど、その人が僕の木炭デッサン見てて、ずっと見てくれてて、美術部は男3人いたんだけど、3人とも非常にうまかったんだけど、一番うまいのが、僕よりもうまいのがいて、そいつ(川島正義)はKBC(九州朝日放送)に行ったけど。

黒田:テレビ局ですか。

安永:そいつと比べるとおまえはもうひとつ足りないって言われてね。美術部の先輩で新制作協会の会員になった松浦(安弘)さんっていう人がいて、この人は絵描きになった人だけど、その人と比べるととにかくまだまだだって言うわけね。全体を100とすればおまえは99のところまでは来ていると。よく努力したと。ただ、最後に絵で生きるとすればこの1%を超すか超さないか、これが一番大きいと言うわけね。だからちょっと才能のある人間は頑張れば99までは来れる。だけどそれを超して100になる、この1%を超すか超さないかが絵描きとして生きる能力があるかないかの差だって言われてね。おまえはその1%が足りんと。それは頑張れば芸大ぐらいは入るかもしれんけど、一生絵描きで暮らすというのはどうかなとか何とかって言われて、で、もう経済的な理由とそれからそういう才能の問題もあって、もう断念したんですよね。だから、芸大に入るつもりだったから、全然受験勉強も何もしてなかったんだけど、急遽切り替えて、じゃあ地元の九大(九州大学)に入ろうということで受験勉強に切り替えて、1年間浪人して、福高の付設の予備校があってそこに1年通った。福高研修部といったんだけど。

黒田:高校卒業したときにはどこも大学受けなくて、それから1年間受験勉強したんですか。

安永:いや、一応、練習のつもりでと親父から言われて、練習だから受けてこいと言われて九大は受けるのは受けたんだけど……

黒田:受けたんですか。

安永:もちろん落ちて。

黒田:勉強してないから。

安永:それで、とにかく九大だけ受けて。練習。本当に練習。で1年間必死で、一生のうちであの浪人時代の1年ぐらい勉強したことないな、本当にヒイヒイいって勉強して。成績も、クラスで、50人ぐらいのクラスで37番目とか38番目とか、ケツを争う成績だったんですよ。芸大なんか全然学科は関係ないからね。だから全然そういうのは勉強してなかったんだけど。

黒田:今は学科あるんじゃない?

安永:今は共通一次(注:大学共通第1次学力試験、現在の大学入試センター試験)通らないととだめなんだもんね。

黒田:芸大もそうか。

中嶋:うん、国立大学は。

安永:うん、芸大も一緒よ。最低、共通一次通らないといけない。

黒田:素朴な疑問なんですけど、別に芸大じゃなくても、当時、同世代の人は、たとえば多摩美(術大学)に行った人もいますし……

安永:芸大じゃなくとももちろんムサビ(武蔵野美術大学)とか多摩美もあったんだけど。

黒田:でも結局東京に行くと同じようにお金がかかりますよね。

安永:それに私立はとても……さらに学費が高いから。

黒田:プラス東京の生活費だから。それなら最初から難しかったわけですね。

安永:どうしても大学に行きたいなら地元で通える国立大学だったらといいと(親父に言われた)。

黒田:なるほどね。

安永:僕の4人のうちのきょうだいで大学行ったの僕だけだもんな。みんな高校でやめちゃった。

黒田:でも当時すでに福岡に近い佐賀大学特設美術科もありましたよね。

安永:佐賀大特設美術科の線もあったの。そこにも福高の美術部の先輩がいたんで、そこはどうかってだいぶ誘われたけど、やっぱり芸大に行きたいというのがあって。芸大に行けないんだったらいいやっていって。で、もう、とにかく美術はあきらめようと思って、普通のサラリーマンになろうかなと思って、それで九大も経済学部を目指して受験したんですよ。もう経済学部に行って普通のサラリーマンになろうと思って。美術は趣味でやろうかなと思って。第1志望はもちろん経済学部で、第2志望まで書く。昔はそんな制度があった。で、第2志望を文学部にしたんだよね。第1志望よりもちょっと低いっていう。試験はできたかなとは思ってたんだけど、最後に蓋を開けてみたら文学部の合格になってたんだね。多分、経済学部の、恐らく不合格ラインのところの一番上というか、要するに合格ラインよりもちょっと一点か二点足りない残念組の中にいたんだと思う。で、そういう中で第2志望を書いてた人で、たとえば文学部だったら文学部の合格ラインからすれば僕の点数は上位に位置したんだと僕は思うんだよね。それで第2志望が生かされて文学部に回されたんじゃないかと思う。あの当時は、大学の合格発表なんて深夜の午前0時に行われていて、校門にばーっと貼り出される。僕が見に行ったら、経済学部にはない。これはひょっとしたらと思って文学部見たら文学部にあって、親父は、まあいいじゃないか、文学部でもって言って。何か不思議な縁で文学部に回されたんですよね。文学部でも、とにかくサラリーマンになろうという気持ちがあったから、文学部の中でサラリーマンになりやすい学科っていったら社会学科とか、心理学科とか、そういうところなんですよ。普通の英文とか仏文とかあるいは国史とか西洋史とか、その辺はあの頃は学校の先生以外に道がなかったもんね。だから文学部でもとにかく普通のサラリーマンになるのにはどこがいいかなと思って、そしたら社会学とか心理学とかその辺がよかったから、一応そういうところに第1志望、第2志望と出して。で、教養部が1年半あって、教養部が終わる頃に、学校から呼び出しがあった。僕は大学に入って浪人時代がきつかったし、もう美術はいいやと思っていたから、野球部にいて、中学校のときも野球部にいたんだけど、高校は受験があるからっていうんで運動はしなくて、美術部1本で。で、大学に入って野球部に入ったんだ。硬式野球部。野球やってて、九州六大学というリーグ戦があるんだけど、それで北九州の2校が、六大学の中に入ってるんだけど、そこで遠征やってたら呼び出しがあって、大学に出てこいって言われた。事務局に行ったら、おまえ第1志望社会学、第2志望心理学しか書いてないけど、おまえの点数じゃだめだ、入らないぞと言われて、おまえの成績じゃ入れないと。第3志望書いてないけどどうするんだ、浪人するのかと言われて。いや、浪人するわけいきませんと言うと、では何か第3志望書けって言われて。それで、じゃあ、まあ、美術かなって思って美学美術史(笑)。

黒田:一応美術が好きだったということで、そうなったのか(笑)。

安永:本当に何か不思議な縁で美術。運命的なものを感じたなあ。

黒田:全然、必ずしも望んでない方向にいって、なのに結果的に美術やって…。

安永:最終的にこの道しかないと思っていったわけじゃなくて。

中嶋:そうなんですね。

安永:まあ、やっぱり美術が好きだったということはもちろんありますよ、ずっと一貫して。何かそういうふうに不思議な運命というかね。何かそういうのがありましてね、で、美学美術史(学科)に行ったんです。当時はとにかく美学美術史なんていうのはもう就職には全くメリットも何もないから、ほとんど志望するやつがいなくて、僕とそれから菊竹くんと……

黒田:淳一か。

安永:うん、淳一。

黒田:のちの九大教授。東洋美術が専門の。

安永:のちに九大の美学美術史の主任教授になった。それと河野さんっていう女の人の3人しかいないんですよ。で、1年上には今田さんっていう人がたった1人いて、で、そのもうひと上のクラスもやっぱり3人。八尋(和泉、仏教美術史)さんとか。だから、3人、1人、3人、合計7人の学生しかいないのに教授がいて、助教授がいて、それから助手がいて、それからドクター(博士課程)に2人いた。5人ぐらい先生みたいな人がいて、7人の生徒で、もうほとんどマンツーマンなんだな。マンツーマンの感じだった。とにかく箸の上げ下ろしから何からっていう感じで、勉強の仕方から参考書の指導から、特に助手は平田(寛[ゆたか])さんだったからね。

黒田:あの平田さんですか。のちの九大教授の。

安永:やかましかったんだ、生徒に対してはね。僕は野球しながらのあれだったから、どうしてもサボりがちになる。すると、よく呼び出しがかかって出てこいって言われて出て行って。でもやっぱりそれがよかったですよね。先生は谷口鉄雄さんていうのが主任教授で、この人は仏教美術の権威でもあるし、それから中国の画論の権威でもあった。それから助教授が前川誠郎さん。この人はのちに東大の教授になって最後は国立西洋美術館の館長から新潟県立近代美術館の館長になった。前川誠郎さんって、デューラーの権威だったけど、そういうところが教授、助教授でいたわけですよ。だからすごい鍛えられて、特に谷口さんは仏教美術だけではなく、中国の画論、特に唐代の画論なんかの勉強は本当につらかったな。画論って、絵画論だよね、中国の。張彦遠とか何とかいろんな人が、絵画の六法とか、いろんなこと書いていて。

黒田:『芥子園画伝』とか。全然覚えてないけど(笑)。

安永:そうそう。それがもう要するに漢文の句読点も返り点もない白文で、それをコピーしてもらって、それを読んでこいって言われて、それを読んで演習の時間に発表するんだけど、もうそれが大変でね。諸橋(轍次)さんの大漢和辞典を図書館に行って引っ張りながら、たった1ページのそういう白文を読むのにもうヒイヒイいって。それが必ずみんな当たるから1週間必死でやってさ。

黒田:(学生の)人数少ないから(笑)。

安永:1ページやるのに1週間かかるのに、その演習の2時間の間に7ページも8ページも進んでね。 もうヒイヒイいわされたよ。それから前川さんがやってたのはドイツ語で、ドイツ語で原文解読という、これも、英語のパノフスキーなんかはまだよかったけど、とにかくよく鍛えられました。で、卒論も先生方の指導があって、僕はピカソが好きだったから、卒論にはピカソがやりたかった。もとをただせば、さっきちらっと話出たけど、子どもの頃に親父が『世界文化画報』か何かそういう割と大判の写真の雑誌があって、それを定期購読していたんですよ。それに毎号美術のページがあるのね。世界の名品紹介、あるいは画家紹介みたいな感じで、そこにたとえばゴッホだとか、それからピカソだとか、とにかく当時人気があったそういう人たちの作品がカラーで出てて、それにいろんな解説がついてて、それがすごい楽しくて僕は大好きだった。

黒田:カラーだったんですか。

安永:その『世界文化画報』か何かっていうのはカラーの雑誌なんですよ。小学校の3、4年ぐらいだったかなあ、割と高学年だったかもしれないけど。僕らの世代の漫画雑誌は『少年クラブ』とか『少年』で、『少年』は親父が毎月買ってくれて読んでいた。『鉄腕アトム』が初めて出た雑誌だけど、そういうのが好きで美術は楽しみに見てて、その(大判カラー雑誌の)中でピカソの作品が何回か紹介されたことがあって、それでピカソはすごく好きだった。高校2年のとき、僕、初めて女の子とデートしたんだけど、そのときに映画を見に行ったんだけど、あれはピカソの、タイトルは何だったっけ、(アンリ・ジョルジュ・)クルーゾーの……。

黒田:『天才の秘密』(1956年、日本公開は翌年)とかそんなじゃないですか。

安永:ピカソが描いた絵の裏側から撮影した場面のある。撮影してて、ピカソの絵の進行具合や何かをドキュメントで見せるやつがあって、それを見に行って、すっごい感動してね。それでその女の子をモデルにしてピカソ風な絵を描いて県展に出したんですよ。そしたらそれが入賞候補になったという、ピカソばりの。だからピカソが好きで、もともとずっと好きで、大学の卒論もピカソにしたいと言ったら、馬鹿もんと言われて(笑)。そんな現存作家のものなんかを大学の卒論でやるべきではないって言われて。大学の卒論なんていうのは新しい説を出すためのもんじゃなくて、学問の方法を学ぶためのひとつのメソッドであるって言われて。ああそうですか、しかし古いところは僕はあまり知識がありませんけどって言ったら、前川先生がじゃあお前は、フランスのプッサンをやれと。これはフランスの古典主義の父と言われながら日本ではほとんど知られていない、誰も研究した者がいないと。だからそういう先鞭をつける意味もあって、お前やってみろって言われたんですよ。僕は、プッサンていえば、(横山泰三の)漫画の『プーサン』しか知らなかった。プッサンですかって言ったら、ここに本があるからひとつ見てみろって、ドイツ語の本を渡された。

黒田:ドイツ語ですか。

安永:うん、ドイツ語だった。まあいいかって思って、仕方ないかと思って、やることにした。ところが文献がね、昔の大学だから、もうドイツ語の文献ばっかりでね。英語の文献が1冊ぐらい、あとは(プッサンは)フランス(の画家)だからフランス語(の文献)が何冊かあったんだけど。僕は第二外国語はフランス語だったからまあフランス語(の文献)だったらよかったけど。九大にある文献はもうドイツ語ばっかりで、ドイツ語をヒイヒイいいながら自分で勉強して、卒論書きましたよ。卒論が仕上がった頃に、ああ、美術史の勉強っておもしろいなと思うようになってね。で、美術の世界でもう一度生き直すことにしようかなという気持ちになったんですね。しかし、結局僕らが卒業するころ、昭和38年の卒業、1963年の卒業かな。その頃はまだ美術館なんてほとんどなかった。九州でいえば、その当時、美術館といわれるものは石橋美術館しかなかったよ。

黒田:石橋美術館はありましたよね(1956年に開館)。

安永:石橋美術館っていうのは僕らが高校2年のときに開館をして、本当にあこがれの美術館という感じで、ずーっと石橋美術館に展覧会があるたびに通ってましたよ、久留米まで。

中嶋:高校生のときから?

安永:高校の2年のときから。美術部だったから。熊野先生が今度石橋美術館ができたからみんなで見に行こうって引率して連れてってくれた。開館記念式があった次の日か次の次の日ぐらいに。もうすごい人がごった返してたんだけど、見に行って。そのときもピカソなんだ。例のブリヂストン美術館が持っているピカソの、新古典派時代のピカソの絵があるんだけど、顔だけの。あれがポスターになってて、あの作品ももちろん来てたんだけど、すごく感動して。ピカソのことは何か好きだったんですよね、よくわかんなかったけど。

黒田:ものすごくいろんな作風があるんだけど、特にどの辺のピカソが好きだったんですか。

安永:やっぱりブリヂストン美術館所蔵の新古典派時代。僕にとって新古典派が最初のピカソっていう感じかな、印象からいえば。でもずっとピカソを知っていく中で、やっぱり青の時代ですよね。青の時代がやっぱり、あの当時の世相とマッチしてるのかなあ、すごく心に響いてきて、青の時代はすごい感動しましたね。

黒田:さっき彼女をピカソ風に描いたとおっしゃったので、キュビズム風に描いたらふられるだろうなって思ったんだけれど(笑)、そうじゃなくて、新古典派ですか。

安永:キュビズムの時代も好きだけど、もう晩年のピカソは、クルーゾーがやった映画の時代はもうそういうキュビズム風でもなかったし、どっちかっていうとやや甘いキュビズム風っていうか。顔の正面と横と一緒に合成したような、ああいう時代ですよね。

黒田:論文で鍛えられることで美術に目覚めたということでしたね。

安永:目覚めたけれども、いざ就職ということになったときに、僕は野球やってたから野球部の先輩後輩のつながりが非常に強くて、僕の先輩で証券会社に入った人がいて、1年先輩でキャプテンだった人が当時の山一證券、今はないけど、山一證券に入ってて、その人が何かのときに福岡に来てて、「おい、安永、来い」って僕は呼ばれて、俺は今就職あっせん係じゃないけど就職する学生を集めろと言われてるんで、おまえは入らんでもいいから面接だけ受けてくれって言われた。旅費出すから東京に来て、面接だけは受けろって言われて。まあ東京に行けるならいいなと思って、面接だけは受けようと思って、先輩から言われたから。面接受けたら、もちろんすぐ合格。あの頃、山一證券といえば、山一、野村、日興、大和という四大証券の親玉と言われていた。一番の老舗は山一證券で、山一證券が一番証券界のボスでもあったんですよね。野村証券はその山一に追いつけ追い越せで頑張ってるというようなそういう時代で。山一だから名前も知れてるしっていうんで、受けるだけは受けて、いく気は全くなかったんだけど。帰ってきたら合格通知はすぐに追っかけてやってきて。そしたら、親父がそれ見て、こうやってちゃんと合格通知が来てる、誰でも知ってる大証券会社だから、断ってはいけないのではないか、と親父が言うわけよ。先輩から断っていいって言われてるから、行く気はない。できたら僕は美術館にいきたいと思ってる。美術館も今はまだそんなにないから、すぐにその仕事につけるかどうかはわからんけど、まだ今の福岡県立美術館ももちろんない時代だし、とにかく美術館に行きたいと思っているって(親父に言った)。そしたら、美術館がそんな状況だったら(就職が)いつになるかわからん、卒業したらすぐ働かなきゃいかんとかって言われて。そしたら西日本新聞かなんか、新聞社の文化部か何かに行くかなあと思ったりして。新聞社を受けたい、受けてもいいと思ってるけどって。新聞はあの当時は3月頃に試験だったんですよね、卒業間際の。通らなかったらもう浪人しなきゃいけないと。通ればいいけど通らなかったら。当時すごい倍率でなかなかなれるような状況じゃなかったし。なれる可能性もあったけど、100%じゃなかったから。

黒田:リスクは当然あったわけですね。

安永:どうしようかなあ、学校の先生になる手もあるかなあと思って。大学院に残ろうかなっていう気持ちもあったんだけど、親父がなるだけ残らずに就職してくれと言うし、よしんば残るにしても2年だけだとかって言われて。そしたら谷口鉄雄先生がお前の成績じゃ大学院はだめだとか言われてさ、で菊竹が残ったんだよね、三人の中の。菊竹は親父(注:菊竹六鼓、軍部批判で知られるジャーナリスト)の威光があって、谷口さんと仲よかったんだよな。そういうこともあって、とにかく大学院も残れなかったから、まあいいや、めんどくさいし山一證券行くかみたいな感じで、もう最後はめんどくさいやと思って山一に行くことにしたんですよ。で、山一證券に入ったんですよね。普通のサラリーマン、最初の目標どおりにサラリーマンになったからいいかななんて思って。で、山一證券に入った。そしたらやっぱり、聞きしに勝るハードな仕事で、もうノルマがすごいし朝は7時から夜の10時まで、本当にもう大変でした。東京で1か月研修があって、すぐ配属が決まって岡山支店に配属になったんですよ。岡山支店で、それこそ証券会社のいろはをたたき込まれた。ノルマがすごいんですよね。株式売買手数料のノルマとか、投資信託の販売のノルマとかね。債権の、あの頃は国債はなかったけど、いろんな債権があって、債権の販売目標とかね。とにかく5日に一遍ぐらいいろんな締め切りが来るんですよ。それに数字上げなきゃいけないしね。もう僕は全く口も下手だし、とにかくできない。新入社員だから支店長からいろんなパンフレットが入ったかばんを持たされて、おい、このかばんを持ってどこでもいいから大きな家があったら飛び込んでこいとか言われてね。飛び込みしましたよ。大きな、お金持ちじゃないかなと思えるような大きな邸宅に行って、こんにちは、山一證券の安永ですって言って。とにかく、こういう性格だから、成績は上がらなくて、いつもケツから数えたほうが早い(笑)。本当にぎりぎりのところにいたんだけど、就職した以上ここで頑張んなきゃいけないと思って。そしたら昭和38年に入って2年目の昭和40年に、山一證券が倒産の危機に陥ったことがあるんですよ。証券界も、昭和39年だったかな、ケネディが亡くなったんですよ、突然ね。暗殺されて(昭和38年11月)。ケネディ・ショックで株が大暴落したことがあるの。僕は38年に入って39年にケネディ・ショックで株が大暴落して、お客さんもみんな大損して、僕も随分、責められたことがあるけど。それがひとつの大きなマイナスになって、昭和40年に山一證券が倒産しそうになったんですよね。ところがやっぱり四大証券のひとつで、なおかつ歴史がある証券会社をつぶすわけにはいかんということで、国が特別に融資をして、山一證券は生き残ったんですよ。すごい大きな話題になって全国ニュースにもなったんだけど。で、昭和40年にそういうことがあった時に、谷口鉄雄先生が突然、僕のところに電話して来られて、おい、安永君、山一證券がこういうことになってるけど、お前大丈夫かって。もし、山一證券を辞めなきゃいけなようなことがあったら、あるいは辞めたいと思ったら、いつでも帰って来いって。俺が美術館を世話してやるって。

黒田:めちゃくちゃいい先生。

安永:どういうところですかって聞いたら、八幡市美術工芸館があるって言われた。八幡市美術工芸館がその頃、できたばっかりか何かで(注:1958年開館、のち五市合併により1963年に「北九州市立八幡美術館」と改称、1974年に北九州市立美術館の開館に伴い「八幡市民会館美術展示室」となり、2016年に閉館)、副島三喜男さんっていう、のちに福岡市美術館の館長になった、その人が九大の美学美術史の出身者として初めて八幡美術館の学芸員になってたんだよね。その人が鎌倉(の神奈川県立近代美術館)に異動するから空きがあるから、そこでよければ話をするぞと。それから鎌倉の神奈川県立近代美術館も俺は(館長の)土方(定一)さんと仲がいいから、もしおまえがそういう気があるならそこも口を利いてやると。だから帰って来いと言うわけよ。昭和40年の頃ね。だいぶ考えたけれども、自分の会社が危機になって国の援助を受けて立ち直ろうとしていたときにもう嫌ですから辞めますっていうのも男として何か恥ずかしいっていうか、いくじがないっていうか、ここはひとつ頑張って乗り切るために俺も頑張ろうなんて、変な男気出してね。そのときは、ありがとうございます、もうしばらくここで頑張ってみますと言ったんだよね。だから、そうかって言って谷口先生もそれで。あとで、お前、あのとき何で辞めなかったのかってだいぶ言われたけど。とにかく断って、山一に残ったんですよ。その昭和40年の秋に女房と結婚をしたんですよ。山一證券にいた女子社員だったんだ。社内結婚なんだけど。それもあったかもしれないんだけど。でも仕事は相変わらずで、特にやっぱり倒産をしたような会社だからよりノルマが厳しくなって、本当に仕事は生きるか死ぬか。とにかくお客さんに随分損させたし、山一證券の玄関で首つって死ぬとかね。そんな話ばっかりでね。金がないから払えないというお客さんの家へ夜討ち朝駆けで回ったりね。とにかく悲惨な生活だった。そうしたら昭和43年の夏だったかに僕の九大の美学美術史の1年後輩で来てた兼重(護)さんという人がいて、後輩なんだけど歳は三つぐらい上だったかな、その人が、もともとは九大の農学部を卒業して、永大産業という建築関係の会社に就職してたんだけど、やっぱりどうも自分は仕事が合わないっていうんで、(九大の)美学美術史(学科)に入り直して、あれは学士入学というのかな、途中、2年生から入り直してきた人がいたんだけど、その兼重さんが結局最後は大学院まで残って、長崎県立美術博物館の学芸員になってたんですよ(副島と同時に1965年より)。長崎県立美術博物館は昭和39年に開館して、最初に副島三喜男さんていうさっきの八幡にいた人が長崎に移って、それでその副島さんが鎌倉に行くっていうんで(1967年)、その後任に兼重さんが入ったのかな。

黒田:玉突きに。

安永:それでその兼重さんが長崎県立美術博物館の学芸員として3年やったあとに、今度は長崎大学に来ないかという話があったんで行くことにして(1969年)、後任に僕を指名してくれたわけよ。僕は辞めるんだけどあとに君来ないかという。試験じゃなくて選考採用だから俺が推薦するから来ないかと言われて。それはもう願ってもない話で、ぜひ行きますって言って。その年の夏に一遍長崎に行って当時の館長に会っていろいろ話しして。こいつだったらよさそうだっていうんで、一応採用になって、昭和44年の4月1日から長崎県立美術博物館の学芸課勤務ということになったんですね。まだ学芸員の資格持ってなかったから、学芸課勤務っていうんで。学芸課に入って、で、学芸員の資格はその翌年の3月に試験を受けて取りました。国家試験で。

中嶋:学芸員資格はもうあった時代なんですね。

安永:資格自体はもうありましたよ。もっと前からあったんじゃないかな。僕もよく知らないけど。昔は学芸員資格はなくても学芸課に3年か4年か勤めればそれがひとつの実績として認められて、試験を受けなくても学芸員の資格をもらえたりしたみたいなんだけど、僕は長崎県から試験でちゃんと資格取ってこいっていわれて、3月の試験を受けたんですよ。あれは7科目ぐらい試験があったかな。

黒田:結構ありますね。

安永:僕は美術史だけ受験免除になって、あとは全部試験受けたような気がするな。視聴覚教育とか博物館法とかね。あの頃は100人受けて40人ぐらいしか通らないといわれたぐらい、何だかすごい難しい試験だったんだよね。本当にヒイヒイいって一夜漬けもいいところで勉強して。資格は取りました、その年に。

黒田:じゃあ大学での資格はない?

安永:大学は全然、無資格。

黒田:ないですよね。博物館学なんてない。

安永:資格を取るような制度もなかったんじゃないかな。

黒田:多分ないでしょうね。

安永:九大はずっとだいぶん後までなかったよね。大学時代に資格は取れなかった。で、今、博物館学の講座をやるようになって取れるようになったのかな。

黒田:割と最近なんだ。

安永:随分長い間、在学中には資格は取れなかったように思うな。山一證券から長崎県立美術博物館に来たときは給料は半減しましたもんね。

黒田:それはそうかもしれない。

安永:女房がいまだに言うのは、それ。
黒田・
中嶋:(笑)

安永:本当にもう完璧に半分になったな。だから、證券会社は仕事はきつかったけど、給料はやっぱりよかったんだよね。もう女房はこの給料では暮らしていけませんって言って随分泣きましたよ。泣いたり怒ったり、本当に。子どもが1人できてて。とにかく、給料が最初聞いたときびっくりしたんだけど、あまりにも安いんで。これじゃ、もう普通のアパートでは暮らしてはいけませんって言って、官舎に必ず入れてくださいって言って、長崎県の職員公舎に入れてもらった。

黒田:そのほかに学芸員って誰かいたんですか。

安永:そのときいたのがSと越中という2人の学芸員が、僕よりも1年前に入ったのがいた。歳は僕のほうが上だったけど。

黒田:越中さんって、今の長崎歴史文化博物館にいる人?

安永:そう、越中勇。越中哲也さんってのが一番上のお兄さんで、長崎学の権威として有名なんだけど。越中勇さんって、越中きょうだい、8人きょうだいの一番末っ子が、長崎県立美術博物館にいた。龍谷大学出身で。Sはどうだったかな、あれは。國學院(大学)かな。考古学。

黒田:そうか、美術博物館だから考古の人もいた。

安永:越中さんは歴史だったもんね。だから美術は僕だけ。

黒田:美術がほかにいないわけですね。

安永:希望に燃えて、本当に。給料はもちろん半減したけど、希望に燃えて。4月に入ってすぐに、6月にはもう展覧会をやったんだ。実は6月に1カ月ばかりやる予定だった展覧会がどたキャンになって展示室が完全に空いてしまったんで、代わりの展覧会を急いで探してやらなきゃいけないという、そんな話になって。何かないですかねなんていう話になった。課長は、当時は学校の先生上がりの人だったけど。会議でそんな話で。副島さんを知ってるから鎌倉にちょっと相談に行ってきますって言ったら、行ってきてくれって言う。副島三喜男さんっていう人はわれわれの、九大の美学美術史の15年ぐらい先輩なんだよね。

黒田:そんな古いんですか。

安永:長いことマスターからドクターまで大学にいて、仕事がなくて困ってたのに、八幡市美術工芸館ができたんで学芸員の第一号で行ったわけですよ。九大の美学美術史の卒業追い出しコンパや何かにも、ちょこちょこ副島さん顔出してて、僕らも顔知ってたし話もしたことあって、知ってたんだけど。その副島さんが当時、神奈川県立近代美術館の学芸員をしていたわけね。当時は匠(秀夫)さんとか、もちろん土方定一館長で、上が匠さんとか、それから弦田(平八郎)さんとか、朝日晃さんとか。それから下には酒井忠康さんとか。酒井さんと僕はほとんど同級生か、1級ぐらい僕が上かもしれないけど、同年代で、一番若手でいた。で、副島さんのところに行って、こういう状況で、何かちょっとしたセットになったような簡単にできる展覧会ありませんかって言ったら、おお、そうか、って言って、ちょっと待てよとか言って、たまたま朝日さんがいたんだよ。朝日くん、ちょっとちょっとって言って、こんな話だけど、あなたいくつもネタ持ってるけど何かない?とか言ったら、そしたら、セットになったのでひとつおもしろいのがありますよって言って。何ですかって聞いたら、竹久夢二だと言う。へえ、それは大正期のあれだけど、セットになってるんだったら簡単にできそうですね、よろしくお願いします言って、で、竹久夢二のコレクションを持ってるコレクターのところに朝日さんが連れてってくれたわけよ。この人は下関出身の河村幸次郎という人で大コレクターだった。で、向こうでポスターをもらって折ろうとしたら、馬鹿もんとか言われて、ポスター折っちゃいかん、丸めて持ってけとかね。細かいことをいろいろ言われながらも何くれとなく聞いてくれて、手伝ってやるからやれとか言われて。で、竹久夢二の、彼のシリーズの中で長崎物っていうのがあったりしたので、それもあったりして、「竹久夢二展」というのをやったんですよ(注:1969年7月19日〜 8月10日 以下、長崎時代のデータは長崎県立美術博物館編・発行の「長崎県立美術博物館閉館記念誌」[2002年]による)。当時は竹久夢二、誰も関心がなくて……

中嶋:そうですか。

安永:まだ昭和44年の頃だからね。

中嶋:そうなんですか。

安永:大正期の人気作家だった人で、僕はあまり関心なかったんだけど、僕も竹久夢二の名前ぐらいは知ってたので、こんなもんでもいいのかなって思ったけど、わかりやすい絵でもあるし、大正ロマンのにおいもするし、いいかなと思ってやったんだ。ところが、やったらよく(客が)入ってね、本当に。よく入ったんです、これが、意外とね(2,755人)。夢二って人気あるんだなと思った。それで、何となく僕の存在が認められたりしたんだけど。それ以後、いろんな展覧会をやるようになった。その年の暮れに、クレーの展覧会をやったんですね(「パウル・クレー展」、1969年11月22日〜12月14日)。西日本新聞が主催をして、長崎の県立美術博物館でやったんだけど、クレー財団のクレー。これもすごくいい展覧会で、今でもクレーの展覧会の中で一番よかったんじゃないかと思うんだけど、クレー財団の名品がほとんど来たかな。

中嶋:クレー財団ってのは……

安永:スイスにある……

中嶋:ベルン。

安永:ベルンですかね。福岡では石橋美術館でやったんですね。石橋美術館でやったあと長崎に巡回をしたんだ。

黒田:もう巡回システムがあった。

安永:僕もその担当になって、初めて新聞に作品解説、10回連載ぐらいの新聞記事を書いたりした思い出の展覧会なんだけど。そこで美術館の仕事っておもしろいなというふうに思ってきて。その翌年に、一番思い出に残ってるんだけど、「松方コレクション展」っていうのをやったんですよ(注:「国立西洋美術館所蔵 松方コレクション展」、1970年10月18日〜11月15日)。松方コレクションというのはもちろん国立西洋美術館の創立のきっかけになったコレクションですよね。当時は非常に話題になったコレクションで、印象派の名品がいっぱいあるもんだから、各地方美術館ではコレクションを貸してくださいと、展覧会したいという話がいっぱいあって、最初の頃は春と秋に1カ月ずつぐらい、コレクションを100点ぐらいにして地方巡回してたんですよね。ある時期からはもう年に1回になったんだけど、その年1回の「松方コレクション展」を僕が入った長崎県立美術博物館が、昭和45年にやる権利を獲得していたのね。で、僕は昭和44年の春に福岡で美術史学会全国大会があったときに、高階(秀爾)さんと会ったんですね。それでそのときに、君、長崎県立美術博物館の学芸員?とか言われて、はい、そうですって言ったら、今度、秋に下見に行くからよろしくねなんて言われて、何ですかって言ったら、いや、松方コレクションの巡回だって言って。それで、わかりましたって言って。それで、その高階さんと親しくなった。高階さんはまだ当時は国立西洋美術館の駆け出しともいえる学芸員だったな。入って2〜3年ばかりのね。黒江(光彦)さんとかもいたけど。高階さんはその下だった。で、来られましたよ、長崎に。秋にね。で、僕は自分が担当だと思ってたんで一生懸命世話をして、それ以来、高階さんとは随分長いおつき合いになるんですけど、かわいがってもらった。で、その翌年の秋にやったんですね、「松方コレクション展」。これは当時はとにかく人気展覧会で、しかもやる美術館がどこも最低でも10万は入れないと恥ずかしいっていう。どこも10万以上入ってるの。多いところは20万、30万と入ってる。長崎も10万は入れんと恥ずかしいとか言ってね。僕はいろんな解説などを新聞に書きながら、今度は広報も担当して、チラシをいっぱい作って、長崎市内の全自治会に持っていって、各戸にチラシを配ってもらうように斡旋したり。それから、今度は長崎県下を全部を回ったりね。公用車があって、僕は車運転できるから、公用車で庶務の人と一緒に宣伝活動して回りましたよ。ヒイヒイいって、とにかく10万入れなきゃいけないと。もちろん作品もいいのが来たんだけど。それに、とにかく、山一證券時代の根性もあったし。

黒田:ああ、役に立ったんじゃないでしょうかね。

安永:役に立ったよね。役に立って、朝から晩まで、長崎県下をあちこち泊まりがけてずっと回った。本当に大変だった。そしたら、考古学をやってた、先輩でいたS、これがもう全然、自分の専門外だし、もう知らん顔して何もせんわけ。それでもう日頃からむかむかしてた。こいつ何にもしないで俺にばかりさせやがってと思ってむかむかしてたんだけど、何かのときに、おまえも少しはしろよって、僕が言ったら、「何い」とか言うんだもんね。日頃の不満が鬱屈してるもんだから売り言葉に買い言葉で、最後、殴り合いになってね。彼は柔道をしてたらしいんだけど、くんずほぐれつ、部屋ん中で大げんかになってね。越中さんが周りで、やめてください、やめてくださいって周りをうろうろしよったんだけど、とにかく、最後、僕がぐんと投げつけて、で、相手がどこかケガをして、それで終わったんだけど。そのとき僕が投げたときに相手の靴が壁にぐーって、ベニヤの壁だったけど、靴の跡がぶわーっとついて。いつまでもついてたのを思い出すんだけど。とにかく取っ組み合いの大げんかで、すごい話題になった。

黒田:話題になった(笑)。

安永:話題になった。ものすごく話題になった。県庁からも呼び出し受けて怒られた。でも、とにかくそうやって「松方コレクション展」に取り組んで、とにかく10万超したんですよね。10万ちょっと。10万3千人か4千人か(前出の記念誌にによれば90,573人)。とにかくすごい人気だった、この記録はその後も破られていないはずですよ。グッズも売れて売れて……。

中嶋:グッズがあったんですか。

安永:グッズはあります。絵はがきとか、それからカタログもあったし、それから何だったかな。

黒田:ポスターとか額絵?

安永:絵はがき、額絵、カタログ、その辺ですね。それがグッズで、もうこれは売れて売れて売れて。最後はもう何にも売るものがなくなって。何もありませんけどって言ったら、じゃあ、ポスターが少し残ってるだろうと。宣伝用のポスターが500枚ぐらい残ってたのかな、たくさん増し刷りしてたから。で、よし、ポスター売れって、いくらでもいいよって、200円とか300円とかってポスターを売って。これはもちろん最初から売る対象にしてなかったから、そのぶんは全部余禄ですよね。それも売り切れてね。

中嶋:でも突然、学芸員になって展覧会をするときに大変なことはなかったんですか。

安永:あんまり、そんなに、困ったことはなかったな。

中嶋:展示とか。展示もご自分でなさったんですか。

安永:もちろん。その頃は梱包から開梱、展示作業は、全部、学芸員がしましたからね。あの頃は。今は違いますが、あの頃はとにかく美術品は運送会社にじかにさわらしちゃいかんっていう時代だった。美術品は全部、学芸員しかさわれない。運送会社の人は外箱を作るとか、作った箱を運ぶとか、そういうことは運送会社の人でいいけど、作品をさわること自体は全部学芸員がやるっていう。

黒田:そうだったんだ。

安永:だから、重いものはやっぱり運送会社の人が支えたりはしてくれたけど、基本的にはすべて。梱包も学芸員がやるということだったから、僕らはもう梱包の技術なんかも随分あの頃は一生懸命やりましたよ。で、身につきました、完璧に。のちにはもちろん日通やヤマトさんの作業員を指導するようになりましたけど、仕方がわかってるから、こうしなさい、ああしなさいって言って。あの頃はまだ日通もヤマトもそんなに美術専門というのはたくさんはいなかったから、みんなアマチュアみたいなもんだったから、われわれがああしなさい、こうしなさいと指導することで次第に成長したんだけど。そういう作業なんかも、そんなには僕、苦にならなかったし、そんなに違和感もなかったし。

黒田:(美術館の)先輩の人か誰かが教えてくれたり指導してくれたりしなかったんですか。

安永:僕が長崎に入ったときにはSとか越中とかが1年は先輩だったから、彼らのほうがちょっとベテランだったから、彼らにも教わりましたよ。日通とかヤマトにも、全社の中で1人か2人か、そういう専門家がいる。

黒田:一応いるんだ。

安永:いたんですよ。そういう人が作業員にいろいろ研修をしたりして教えたりしたんだけど、ベテランの人たちが僕らにもいろいろ教えてくれたりしましたよね、若い駆け出しのものはね。あとは大体先輩がやってるもの見たりなんかして学ぶ。

黒田:時代的には1970年……

安永:あの頃はみんなトラックも一緒に乗ったんですよ。作品と一緒にね。作品と一緒にトラックに乗ってどこへでも行った。

黒田:昔は今みたいな箱型じゃなくて、幌つきの車に乗ってたとか聞きました。

安永:うん。幌つきの車。まだ今みたいな美専車(美術品専用車)みたいなものはなかったからさ。幌つきの車で。それから、引っ越し用のああいうバンタイプの車になったかな。引っ越しと美術品の輸送を兼ねたトラックに、日通さんなんかは。だから、運転席の後ろに仮眠室があったりしてね。全国をそれで回るという。仮眠室で寝て行きましたよ。今はもう本当に完璧になっちゃったんだろうけど。でも、そんなに苦労とは思わなかった。展覧会もやっぱりすごくおもしろくて、一生懸命やりましたね。竹久夢二もおもしろかったし。それから、「松方コレクション展」もすごく楽しかった。

黒田:やっぱり長崎時代で一番印象的な展覧会っていったら松方(コレクション展)になりますか。

安永:あの頃、西洋美術館の人が、とにかく会期中はずっと常駐でいて。長崎は僕と同い年で八重樫(春樹)さんっていう人が来ていた。あの人も東大だと思うんだけど、あの頃は一番の若手だった。今は浮世絵商か版画商か何かになったかな。

黒田:みたいですね。

安永:高階さんが担当でよく来られたし。黒江さんも。黒江光彦さんって、のちに修復家になった。佐々木(英也)さんもよく来られた。佐々木さんはのちに岩手県立美術館の館長になったかな。みんな西洋美術館の人と仲よくなって。

黒田:美術担当っていうと基本的には近代美術の担当であって、古い方は扱ってないんですか。

安永:やっぱり僕は古いところは、あまり……。もちろん九大の美学美術史にいたころは、授業も古い時代の授業もあったし、全く無関心ではなかったけど、僕はやっぱり近代のものに関心があるというか、やっぱり20世紀の絵画みたいな。九大にいるときに前川先生が、君は現代美術が好きみたいだから、こういう雑誌を取ったらどうかとか言われて、フランス発行の現代美術の雑誌があって、何ちゅう雑誌だったか覚えてないけど、それを薦めてくれて、丸善からその雑誌を取って定期購読してたことがあるんだけど。ちょうど、フランスだとスーラージュだとか、あの辺が全盛時代だよね。

中嶋:『aujourd'hui』とかですかね。

黒田:aujourd'huiって、todayですよね。『aujourd'hui』って雑誌あったみたいですけど。

安永:平面抽象みたいな。筆の跡がこういう… だからやっぱり近代が中心でやったかな。展覧会も大体近代で。僕は長崎に丸々5年いたんだけど、5年目のときに、5年目(注:1972年なら4年目)の夏に福岡市から僕んとこに青木という人(注:青木崇[たかし]、当時福岡市教育委員会文化部長。安永氏によれば「美術館建設の下ごしらえをした人」で、埋蔵文化財の部署を作るなど、福岡市の文化施策の功労者)がやってきて、実は福岡市で今度新しい美術館を作ろうと思うけど、あなた、学芸員として手伝ってもらえませんかという話だった。誰が私を推薦したんですかって言ったら、何かあまり言わなかったけど、あとでいろいろ聞いたら、どうも副島さんが推薦したらしいんだけど。どうですかっていう話で。親父もおふくろと2人だけで、俺たちも年取ったからもう福岡に帰って来いよって親父も言うもんだから、福岡だったらいいかなって思って。一応、じゃあ行きましょうって言ったら、すぐ来てくれって言う。すぐはだめですと言った。その翌年の3月に「長崎県近代100人展」(注:「長崎の物故画家100人展」、1973年2月23日〜3月24日)というのを僕が企画して、明治以降の長崎の日本画、洋画、彫刻なんかの美術家の展覧会をこの際、一遍まとめておきたいと思って、福岡に移るなんて全然考えてなかったから、将来の自分のあれにもなるだろうと思って。で、そういう話をしたら、みんながおもしろい、一遍やってみようってことになって、僕が、担当して、長崎県下もうあちこち走り回って、いろいろと長崎県が産んだ郷土作家の事績を調べたり作品の所在も調べたりしてたんで、僕がいなくなると展覧会ができないから、それで3月の展覧会が終わってからにしてくださいって言って、3月まで引っ張って。でも、早く来てくれ、早く来てくれって、もう土地決まってるからすぐ来てくれって話で。とにかく。長崎県立美術博物館在任中もちょこちょこ福岡へ呼ばれて、手伝ってくれと言われた。美術館建設の計画書であるとか意見書であるとか。「意見書」っていうのがあって、これは4人の先生方が1年間あちこち見て回ったり、あるいは美術館はどうあるべきかっていうのを協議して、提言としてまとめたものなんだけど、それの草案を書けとか言われて、草案書いたりね。4人の先生っていうのは、河北倫明と土方定一と谷口鉄雄と小池新二という、そうそうたるメンバーが4名、美術館建設専門委員会だかって。それの会議録を全部見せられて、会議録からひとつの文章に意見書としてまとめてくれって言われて、その原稿を僕が書いて。ちょこちょこ呼ばれちゃホテルに缶詰になって、ホテルじゃない、旅館に缶詰になって、草稿書いたりして。もう既に福岡の仕事してたんだけど、一応、身分的には長崎にいて、最後、その100人展やって、これが、自分で言うのもおかしいけど、いまだに長崎県の近代美術の原資料になってるんだよね。本当にヒイヒイいっていろんな調査をしたもんね。壱岐、対馬、大村なんか何度も足を運んだ。長崎では他に、彭城貞徳という、明治の初めの頃の、九州の洋画家の最先端をいった人なんだけど、あんまり知られてないんだけど、その人のことを調べたり、それから横手貞美なんていう人のこと調べたりした。

黒田:横手?

安永:横手貞美って、これは佐伯祐三を訪ねて、山口長男とかと一緒にフランスに渡って、佐伯祐三と一緒に制作活動をしながら佐伯祐三がパリで死んだと同じように、やっぱり肺病にかかってパリで死んだ画家がいるんですよ。

黒田:はあ。全く知らないです。

安永:最近また脚光を浴びてるけど。そういう人の作品や経歴を調べたり、展覧会をやったりね。彭城貞徳の展覧会もやったしね。それから日本の写実の絵画の原点になったんではないかという観点から、長崎に来泊した中国の画家の展覧会をやったりね。沈南蘋(注:「第4期常設展 沈南蘋派絵画を中心として」、1971年11月18日〜12月19日か)。

黒田:長崎に滞在した中国の画家ですか。

安永:うん、中国から、幕府に呼ばれて来たんじゃないかと思うんだけど、2年、長崎にいたんですよ。写実の人。中国風写実、西洋人のマテオ・リッチという、マルコ・ポーロぐらいの時代に来て、中国に西洋画を残した人がいるんだけど、その人の影響を受けて、特に中国の浙江省を中心として、そういうひとつの写実の手法が流行したことがあるんですよ。それの中心画家だった人が、なぜか幕府から呼ばれて長崎に来てて、結局長崎に2年いて、そのまま帰ってしまうんだけど、その人の影響で、たとえば、円山応挙などの京都の日本の写実風の作風が生まれたといわれてるんだけど。そういう人の展覧会をやったり、論文書いたり、色々したんだけど。やっぱりそういう近代のことに視点があったんだね。展覧会は、僕は大体近代を中心にやって。古いものは、長崎県立美術博物館じゃ、長崎派の展覧会ぐらいかな。長崎派ってみんないうんだけど、長崎は江戸時代の唯一の開港場だったから、長崎を中心に生まれた南蛮文化みたいなものがあるんですね。南蛮美術。そういうものの展覧会は割とよくやりましたけど。仏教美術とかそういうのはやったことないな。あと、須磨コレクションの世話。これが最後の仕事かな。

黒田:スペイン美術コレクションですね。

安永:うん。スペイン美術。須磨弥吉郎さんという人がいて、その人が全権公使か何かでスペインにいた頃に収集したスペイン美術。で、スペインにいて、フランコ政権の頃だけど、フランコ政権に荒らし回られたスペイン国内のいろんなところに行って、放置されている路端の、昔で言えば石地蔵様みたいな、キリスト教関係の、そういうものを集めたり、戦乱期に集めたスペイン美術のコレクションがあるんですよ。その須磨弥吉郎さんって人はスペインだけじゃなくて中国でも同じ手法で収集した中国美術品も持ってたんだけど。その須磨弥吉郎さんが集めたスペインコレクションの展覧会を、あれは読売新聞か何かがたまたまやったのかな、長崎で(注:「長崎開港400年記念 スペイン美術巨匠展 須磨彌吉郎スペイン美術コレクション」、1970年4月1日〜19日)。で、僕が担当になったからいろいろ世話をして、展覧会も一生懸命やったんだけど。その人が最後に、スペインと長崎は昔は古いつき合いがあったんだから、長崎こそこのコレクションの最終の地としてふさわしいと思うので、これ全部寄贈しますって話になった。そのときに展覧会に出たものをそのままそっくり寄贈してくれたんですよね。約100点ぐらいあったかな。それを受け入れて、当時の県知事も喜んでくれて。しかし、もらったのはいいんだけど、グレコだとかベラスケスだとか、とにかくビッグネームがいっぱいあって、みんなおかしいと言うの。それでいろいろ、新聞や何かで、偽物と思われるものをもらってどうすんだとかね。もちろん、そうじゃない、当世代のものとか、あるいはそういうキリスト教の導師の地蔵さんみたいな、要するに道端に、あるいは教会のどっかにあったみたいな……

黒田:イコン(礼拝用の聖画像)?

安永:イコンみたいな。大体、木で作られたもの多いんだけど。そういうものはもちろん本物だけど、ベラスケスやゴヤだと言っているものはどうするんだと言われて、でも、それは今後の調査を待たなきゃいけない、だけど貴重なものだからもらっておくのがいいとか……。

黒田:一括で寄贈を受けるのがいいと。

安永:と言ってから僕は必死で新聞に書いたりなんかして抵抗しながら、とにかく受け入れたんですよね。随分、作品も傷んでたから、それで、黒江光彦さんに頼んで修復をしてもらったりなんかして、とにかく何とか受け入れて、コレクションとして形あるものにしたんだけど、それが今、長崎県美術館の主要コレクションのひとつだよね。

黒田:ですね。

安永:そのあと長崎はいろいろ買い足したり何かして、コレクションを膨らませてるし、それから須磨家からもそのあと長崎のときに展示しなかったものなんかも何点かもらったりして。僕のあとは、(1974年から)僕の後任になった徳山(光)くんっていうのが引き継いで、彼が一生懸命頑張ってくれたみたいだけど。グレコやベラスケス、ゴヤなどの処理も適切にやって……。とにかくその須磨コレクションの仕事が僕は最後になった。この件については福岡に移ってから、長崎新聞から問い合わせがあったことがあるけど。とにかく須磨コレクションが最後の仕事になりましたね、長崎での。

黒田:さっき展覧会の話はうかがったんですけど、寄贈された須磨コレクション以外に長崎県美術館は収集をしていたのですか?

安永:してた。あの頃、購入したのが2000万(円分)ぐらいあったかな。

黒田:結構(予算が)あったんですね。

安永:2000万ぐらいあったんだと思う、確か。

黒田:当時の2000万っていったら結構な額。

安永:いや、2000万はなかったか。一千何百万か。でも結構ありましたよ。集めていた中心はやっぱり長崎物というか南蛮美術とか、何かそういうものが多かった。僕が入ったときに館長だったのは平山(多馬喜)さんっていう人だったんだけど、これは高校の校長先生から来た館長さんで、その人のときに僕が来る1年前か何かに、南蛮屏風を買ったんですよ。南蛮屏風を。これは六曲一双の立派な屏風でなかなかいいもので、今は長崎歴史文化博物館かな、あっち側に移ったんだけど、とてもいい出来の作品なんだけど、これを当時のお金で、僕が覚えてる限りでは6000万というお金で買った。

中嶋:すごい。

安永:6000万。当時のお金で。

黒田:当時にしたらすごいですね。

黒田:採用のときと、ずっと同じ館長さん?

安永:うん。採用の前の面接もその館長がしてくれて。何か、いろんな嫌な質問をされた覚えがある。大学の卒論は何だったんだとか。プッサンてどんなだったという説明。大体、現物を見たことがあるのかって言われて。プッサンは見たこともないのに、卒論で書いたんですよね。プッサンて日本に一点もないから。で、当時はフランスに行って現物を見なければ、などと考えもしなかった。今はみんなそういう作家でもフランスに行って見るわけでしょ。でも、当時は全然そういうことも考えもしなかったから。全部図版で勉強して。九大の卒論なんてそんなもんかとかって言われて、がっくりきた覚えがある。平山さんてのは……だからそういうこともあって、畜生という気持ちもあったけど、館長でもあるし。本当ね。その入った年が長崎国体の年で(第24回国民体育大会は1969年9〜10月)。国体に向けて美術館もいろんな協力をした。特別展もやった。ちょうど皇太子殿下、美智子妃殿下が結婚されて、皇太子が1人お生まれになった頃だったけど(注:皇太子徳仁親王は1960年生まれ。第二男子の文仁親王が1965年生まれ。第三子で第一女子の紀宮清子内親王が1969年4月18日生まれなので、紀宮清子内親王の生誕のことか)、すごい美智子ブームがまだ続いててね。皇太子、美智子両殿下が来られるっていうんで大騒ぎして。長崎県立美術博物館にもお見えになったんですけど、もう大変だったな。美智子さんを一目見ようと思って、うわーって黒山の人だかりで。僕は群集整理係だったからちらっと見ただけだけど。

黒田:会場整理係?

安永:うん、大変だった。だからそのときに、平山館長も大感激して、説明役かな。僕もアジア美術館で何遍もやったけど、その役目になって。それで、歯並びが悪いとか言って、総入れ歯にしてさ。そのためにわざわざ。そういう人だったの、平山さんて。

黒田:結構な時間ですけど、長崎でかなり充実した仕事をされてて、それでかなりまあいろいろあったけど、ご自分ではかなり成果を上げたという感じを受けたんですけども……

安永:うん。

黒田:それでもやっぱり、福岡市からの誘いを断らなかったっていうのは、ある程度、もう長崎ではやれることやっちゃったとか、あるいは何かいろいろ嫌なことがあったとか、そういうことではないですか。

安永:そういうことではない。けんかはしたりしたけど。

黒田:その後、そのけんかどうなったかが気になるんだけども、それは置いといて(笑)。

安永:その後はもう仲直りして。仲よくしたんだけど。

黒田:そうでしょうね(笑)。

安永:やっぱり最後は生まれ故郷の福岡に戻ったほうがいい、親父も、両親もいるしと思って。

黒田:なるほど、そっちのほうか。

安永:おふくろもあまり頑健ではなかったし。だからそれもあったのはあったんだけど。やっぱり新しい美術館をこれから作るっていうのは、ひとつの夢があるから。で、それで、「意見書」の段階から関わってるし。で、場所ももうほとんど決まってるから、すぐ来てくれ、すぐ来てくれって言われてて。で、その翌年の4月に主査っていう、福岡市で言えば係長ですけど、係長で迎え入れてくれたから、そういう意味ではうれしかったし。それから何よりも学芸員第1号で。

黒田:1人しかいなかった?

安永:僕しか。僕は最初だし。僕のいろんな意見を尊重して、いろいろやってくれたから、僕はそういう意味では非常に来てよかったなと思ってますけどね。

黒田:準備室って言ってたんですかね。

安永:とにかくすぐ来てくれ、すぐ来てくれって言われて、土地が決まってるって言われたけど、来てみたら決まってなくてさ。
黒田・
中嶋:(笑)

安永:結局、土地を決めるまでに、本当に約3年、悪戦苦闘しましたよ。だから途中でもう僕はできないんじゃないかという気も一瞬したぐらいだね。「意見書」ってさっき言った、河北倫明、土方定一、それから、谷口鉄雄、小池新二の4氏が1年間討議して、討論して、場所もある程度、理想っていうか、この辺がいいだろうっていうのを意見書の中に書いてるんだけど、その場所が、大濠公園一帯なんですよ。「大濠公園一帯」という言葉になってて。本当は福岡市側はもう既にその中でもここって決めてる場所があって、それが……今、児童公園があるよね。大濠公園入ってすぐに。

黒田:(地下鉄大濠公園)駅の近くの一番北側のところですね。

安永:入って左側のところに児童公園があるの。その向こう側に今(現・舞鶴公園の)「桜の園」か何かになってるんだけど、あそこに北九州財務局という、国の、北九州の出先機関があったの。今は博多駅の裏に移ってるけど。それが建ってて、それが博多駅に移転するというのが決まってて。で、そこの移転した跡地に美術館を建てようというのが福岡市の甘い考えだったわけね。で、大濠公園は管轄が二つに分かれていて、池がある大濠公園サイドと、それから、福岡城址サイドっていうお城があったほう。だから、池を中心とした周囲の境界線があるんだけど、そこが県が管轄をしてる。それが大濠公園という。で、これはいわゆる普通の公園法に定められた公園なんだけど、福岡市が管理している福岡城跡、福岡城址っていうか、福岡城跡地のほうは、これは文化財区域なんですよ。国の特別史跡に指定されていて。だから法的なことをいえば、文化財史跡の中には一切、建物は建てちゃいかんという。で、公園法のほうは、公園の敷地面積の許容範囲で建物は自由に建てていいんだけど、特別史跡の中は一切の関係ない建物は排除しなさいという。で、当時は福岡城跡、つまり舞鶴城跡の中にはいっぱい建物が残っていたんだけど、その舞鶴城址のほうは福岡市が管轄してる。で、大濠のほうは県が管轄してる。だから、県と市の管轄が別々になってて。で、福岡市は自分のところが管轄してる福岡城址の中だから自由になると思ってたんですね。で、そこに美術館を作ろうというわけ。たまたま北九州財局が立ちのいたから、その跡地があるからと。ところが、そこに新しいものを作るについては、文化財専門委員会という、福岡市が持ってる文化財専門委員会、その上は県が持ってる文化財専門委員会、最後は国が持ってる文化財専門委員会。それらの、文化財専門委員会の許可を得なければ建てられないわけですよ。それで、まず福岡市文化財専門委員会にかけ合おうっていうんであたってみたら、これがもうしょっぱなから福岡市文化財専門委員会が大反対で。なかなか進まないわけですね。当時はまだ福岡城跡の文化財址跡内のいろんな建物が残っていた。今度、福岡市美術館が改装するときに、事務局になるらしいけど、舞鶴中学校。あれは(市の)教育委員会が作ったものだけど、あれも本当はいけない。それから、当時は、国家公務員の官舎があそこにあったんですよ。それから、城内(町)住宅。これもだいぶん今は整備されてるけど。戦後の引揚者住宅の名残りがあそこにたくさんあったり。それから、国立(中央)病院があったり、それから、(九州)英数学館(予備校)があったり、英数学館の夜間校があったんです。それから、福大(福岡大学)の夜間部もあったかな。それから、自衛隊(福岡地方連絡部)もあったり。とにかくいろんなものが福岡城内にあった。

黒田:そんなにいっぱいあったんですね(笑)。

安永:いっぱいあって、これはもう一刻も早く立ちのかなければならない。一番最たるものは平和台野球場だったんだけど。陸上競技場もある。とにかくありとあらゆるものがここに残ってて、おかしいと。そういうものを撤去しないと絶対に許可できませんよって福岡市文化財専門委員会の先生方は言うわけ。で、因縁話として、あそこに国立(中央)病院があったけど、もう今はなくなったけど、国立病院を作るときも文化財専門委員会の打診があって、われわれは総反対したんだけど、国が強引に作ってしまったと。で、そのときに文化財専門委員を辞めた人がいっぱいいるとか。それから、そのあと、地方裁判所(福岡高等裁判所)もまたそこに、国が作ったんですね。そのときも諮問があって大反対したけど、結局国が強引にやってしまったと。そのときはもう総辞職したっていうわけです。それをまた地元の福岡市がやろうとは何たることかっていって。とにかくすごい反対でね。それで何遍会議やっても、料亭に招待していろいろ御馳走しても、うんともすんともいかん。一番強硬だったのは、埋蔵文化財関係の先生方で、これも夜討ち朝駆けでいろいろやったけど、全部だめで。完全に暗礁に乗り上げて。で、これにも書いてるんだけど(注:安永幸一「小池新二先生と福岡市美術館および福岡アジア美術館」、『Arting』[特集 九州芸術工科大学初代学長小池新二のロマン!]、2013年12月、花書院)、小池先生はちょうど当時は九州芸術工科大学っていってたけど、その学長を辞められた直後で、そのまま福岡市美術館の館長にお願いしますっていって、福岡市のほうで頼んでた人だったんだけど、その人も、もう安永くん、これはこの調子ではできんよって。これでは福岡市美術館は難しい、もうできんって。俺ももう降りるよって。だから自分はもう館長になる気はないっていう。で、僕もこれはもうだめかなと一瞬思った。とにかくいろんなことをやって、大濠公園の全体の将来図面を書いたり、本当にいろんなことをやったけど、どうしてもだめで。僕もこれはもう無理かな、これできないかなというふうに思っていたら、最後に進藤一馬市長がその辺もくんでくれたのか、福岡県知事と直談判してくれて。で、最後は大濠公園側の県有地、県が管理してるところに草野球場があったんだけど、その野球場の敷地を県から市に貸しましょうと。寄贈するんじゃなくて、貸しましょうと。だから、ここに建てなさいっていってくれたみたいね、知事が。それで建設地がやっと決まって、ようやくスタートした。だから、いまだに福岡市美術館は県から土地を借りて、10年契約で10年ごとに更新をしてるみたいですね。

黒田:市は県にお金は払ってるんですか、県からただで借りてるんですか。

安永:もうそれは福岡市美術館が建てるときに、ただで。

黒田:それはそうですよね(笑)。

安永:ただで貸すということになった。その代わり、随分いろんなことを県から市に頼んできましたよ。
大濠公園の土手の修復とか、溝の修復とか、とにかく本当は県がやらなきゃいけない土木工事を、金がないから、全部それを、この際福岡市にやらせろっていうので、もう福岡市が随分受けてやりましたよ。美術館の、裏側に土手があって、そこがひとつの文化財と大濠公園の仕切りの区域なんだけど、あの土手も荒れ放題だったの。きれいに直したりね。側溝が全くなかったから側溝作ったりね。

黒田:ありますね。

安永:他にもいろいろしたんですよ。あそこに食堂とか、ラーメン屋さんとかが2軒ぐらいあったやつを、立ちのきの交渉とか、いろんなことやらされたみたい。当時、庶務係長だった笠(りゅう是清)さんがぼやいてた。

黒田:それが笠さんか。
安永とにかくそうやって、一応、美術館の建設が決まって。で、設計も小池先生の盟友である前川國男さんに……。

黒田:前川國男を選んだのは小池さん?

安永:小池さんが、前から。多分、学生時代から前川さんとは交流があったみたいだもんね。で、前川くんに頼もうかなんて言ってたもんね。で、僕は土地が決まる前、暇だから、何かしましょうかって言ったら、じゃあとにかく設計者の選考に備えて、少し日本の設計者のことを調べといてって言われて。で、九大の建築に行って、あそこの資料を全部見せてもらって、で、ありとあらゆる資料の中から一応僕なりにベスト200を作って。で、資料もそろえた。分厚い資料。で、出しましたよ、事務局のほうに。その中にはもちろん前川さんが入ってたりするんだけど。で、とにかくかなりその資料が有効だった。土地が決まった後に市役所の中に設計者選考委員会っていうのができて。で、全部で200ぐらいあった中から50人に絞り込んだのかな。いろんな過去の経歴や何かから50人に絞り込んで。で、最後は市長が入った委員会があって、最後は2人まで絞り込んだって話しでしたね。で、そのうちの1人が前川さんで、もう一人は黒川紀章さんだった。

黒田:黒川か、そうだったんだ。

安永:あとで担当助役がこっそり教えてくれた。相手は誰だったんですかって聞いたら黒川紀章だよって。みんな、黒川さんの、そういうこと(売り込み)のうまさになびいて、黒川になりそうになったんだって。しかし、事務局のお前たちが前川さんだ、前川さんだって言うから、俺がもうどうしても前川さんでいきたいと言って、で、粘って前川さんになったんだって、あとで聞かされた。小池さんももう前川、前川って言ってて、で、前川の設計の建物をいくつも見に行きましたよ、いろいろ。この辺では熊本県立美術館が一番近いから、武田(隆輔)さんていう担当助役だったんだけど、武田さんと一緒に…….。で、見て帰りがけに飯でも食うて帰るかって言われたから、お願いしますって言った。で、熊本の菊池温泉か何かに行って。お風呂でも入ろうかって言われたから、武田助役と一緒に風呂に入って……裸のつき合いしてさ。何か気に入られていたみたいで……。で、まあそうやって一応福岡市美術館もでき上がって。

黒田:前川と黒川になって、最終的には最初の案の前川になったのですね。

安永:最後は武田さんという助役が頑張ってくれた。

黒田::それで前川案を何とかしてくれた。

安永:うん。黒川さんも結局福岡市美術館で負けたから、(福岡)県庁に転向したって言ってたもんな。

黒田:(笑)

安永:県庁をやったでしょ、黒川さん(注:1981年竣工)。

黒田:黒川のほうがだいぶ世代的には下だよね、多分(注:前川は1905年、黒川は1934年生まれ)。

中嶋:そうですね。

安永:うん、黒川さんのほうが長いことやってるし。

黒田:前川も戦前からのモダニストだから。

安永:国立西洋美術館だよね。前川さんも。あれ、コルビュジェがやったけど、実質的には前川さんがやったんだもんね。西洋美術館は。
(休憩)

黒田:また今(休憩中に)インドの話が出てきたんですけど。

安永:その前に、僕も福岡市美術館の建設時代の話をもうちょっとしておきたいんだけど、どうする?

黒田:はい。

安永:僕は福岡市に呼ばれて、その翌年にチャンスがあって、とにかく欧米の美術館を見てこいって言われた。米(アメリカ)は行けなかったんだけど、ヨーロッパだけは。で、昭和44年に(福岡市に)入って、45年だったか、社会教育主事研修旅行っていう、文部省の社会教育課が主催をしてるのがあった。それは社会教育関係の主事さんの欧米、特にヨーロッパが中心だったけど、社会教育施設の視察見学という、そういうツアーを毎年やってて。で、各都道府県からいろんな社会教育関係の人が参加する。それに僕を選んでくれたわけ、美術館の担当の部長さんが。で、おまえもヨーロッパの美術館の少し有名なところを見て、新しい美術館の建設に何とか役立ててくれということで。それが僕が初めて行ったヨーロッパ旅行だった。黒田くんが初めてヨーロッパに行ったとき、僕も一緒に行ったよね。とにかく、それが初めて。そのときは35日間だったかな。割と長期の視察旅行で、9カ国回りましたよ。主なところはほとんど回った。スウェーデン、イギリス、フランス、それからどこ行ったかな。

黒田:ドイツ?

安永:うん、ドイツ。

黒田:イタリア?

安永:うん、イタリアも。他にチェコスロバキアとか、スイスとか、スペインとか。あとは、帰りにバンコク、アジアはタイにひとつだけ寄ったんですけど。とにかく9カ国回って、35日。とにかく僕は初めてだったから、それは必死で有名な美術館は手当たり次第に見た。大体1カ国に3日ぐらいいるんだけど、1日がほぼ公式訪問の日程が決まってて、いろんな社会教育施設を見た。少年のための施設であったり、青少年のためのとか。いろんな社会教育施設を見学して、いろいろな話を聞いたりなんかして。それが1日あって、フリーの日が必ず1日はあったから、そのフリーの日を利用して、僕は美術館を朝から晩まで見て回ったんですよね。で、それがやっぱり将来の福岡市美術館の構想というか、理想っていうのか、そういうものに非常に大きく役立ちましたね。美術館はこうあるべきものだなと思って。それまでの日本の美術館っていうのは、どちらかというと東京国立博物館方式っていうのが常識だった。東京国立博物館っていうのは入り口のところでチケット買って、で、中に入んなきゃいけないですよね。入り口でチケットを買わないと中に入れない。けれど、ヨーロッパの美術館はそんなことはなくて、どこでも自由に入れて。たとえば、イギリスなんか無料でしたからね。今はどうか知らんけど、あの頃は無料だった。

中嶋:大英博物館は無料ですね。

安永:あ、本当。大英博物館は無料。じゃあテートなんかも。イギリスだけは無料だったんで、非常に驚いた覚えがある。とにかくそのいろんなところを見て回った。ある美術館の中には庭園があったり、あるいは展示の在り方だったり、いろんなところで堅苦しいものじゃないという実感があった。美術館が市民の生活に非常に密着してるっていうか、そういうのを見て回って実感としてずーっと。で、その時に小池さんの「リビングミュージアム構想」を思い出して、ああ、これだなとも思ったんだよね。だから福岡市美術館も、そういう開放された美術館でいきたいという大きなコンセプトが生まれた。そのためにチケット売り場なんかも別にしたり、いろいろ工夫をして、とにかく美術館にはもう自由に入っていいと。ロビーも自由に使っていいと。それから喫茶室も自由に使っていいと。それから図書室なんかも自由に使っていいと。そういう自分の家のリビングにいるような感じで美術館を気楽にご利用くださいという、そういうコンセプトで福岡市美術館は作ったんですけど。それがヨーロッパ9カ国を回った大きな成果のひとつかなと思うんですよね。随分回りましたよ。とにかく1日に大体3館ぐらい回ったかな、主なところは。最初は一人で動いてましたが、一緒に行った、30人ぐらいのツアーだったんですけど。やっぱり美術が好きな人が何人もいて、安永さん、今度どこに行くんですか、私も連れてってくださいとか言って来てね。後には4、5人で回ったりね。もちろん僕一人で回ったところもありますけど。とにかく主だったというか、有名なところはなるだけたくさん回るようにして。

黒田:国のプログラムなわけですよね。

安永:うん、国のプログラム。

黒田:すごいぜいたくな話ですよね(笑)。

安永:もちろん最後はレポートを出さなきゃいけないんだけど、レポートは正式訪問したところのものだけ書いて、あと自由時間のことは書かなくていい。
一同:(笑)

安永:出発する最初の日に結団式があって、文部省で社会教育局で。そのときに、その団長さんじゃないけど、社会教育局の責任者の人が、皆さん、あんまりきばらなくて結構ですよって。「視察」ですから。見て察すればいいんですよって言われて、ほっと気分が楽になったね、本当に。いいこと言う人だなと思ってさ。

黒田:今そんなこと許されない気がする(笑)。

安永:見て察すればいいんです、それがあなたたちの勉強です、とかって言われてさ。うれしかったな。だから、とにかくフリーの日はずーっと朝から晩まで美術館回ってましたね。

黒田:さっき休憩前に聞こうと思ってたことなんですけど、安永さんがどうやって同時代的な、いわゆる現代美術、当時モダンアートとかいってましたが、同時代的な芸術にどういうふうにふれてったか。多分欧米の当時の芸術家で、70年とかなってったらかなり現代アートが出てると思うんだけど、それ以前に……

安永:特に高校時代なんかはそうかな。高校時代はとにかく美術にも非常に関心があって、自分も絵描きになろうと思ってた時代だから。同時代美術っていうと、僕らの世代はもうほとんどが団体展ですよ。福岡には日展をはじめ、二科、独立それから……その他いろんな主要な団体展が、全部地方巡回で来てましたから。会場はもちろんすべてデパートだったんだけど。それはもうほとんど欠かさず見ましたね。だから地元の作家とか人気作家とかも割とよく知ってましたよ。で、そのほかに黒田くんには、何遍も言ったけど、九州派の展覧会が、僕が知ってるだけでも2回ぐらいあったかな。ひとつは岩田屋であった九州派の展覧会で、これは何年だろうかね。岩田屋でやったんですよ。で、桜井孝身とか、菊畑茂久馬とかオチオサムとかのビッグ3というか。その仲間の作品を見て、非常に衝撃を受けましたね。うわー、これが美術なのかと思ったよね。何とも言えないパワーというか、恐ろしいパワーというか。九州派は恐ろしいっていう感じがしたもんね、何か。九州派は恐ろしいなと思って。あの頃、風月なんていう喫茶店が、新天町じゃなくて、昔の西鉄街のあの辺、今、IMS(イムズ)があるところかな。

黒田:ソラリアじゃなくて?

安永:何だっけ。ソラリアの横の。

黒田:IMS側(渡辺通り東側)ですよね。

安永:うん、あの辺が昔は、西鉄商店街っていってたんだけど、要するに焼け跡にできたバラック建てのいろんな商店ががたっと固まってた一帯があるんだけど、そこに風月というしゃれた喫茶店があって。コーヒー飲みになんかでも高校生のくせに行ってたんだけど、そこは九州派のたまり場でもあって。九州派の人がよく来てた。で、僕は面識は全くないし、外から見てるだけだけど、オチさんとか桜井さんとか菊畑さんとかがわあわあ喫茶店の中で激論してたりするんですよ。何かけんか腰でやってる感じがしてね。それで恐ろしいなっていう感じもあって。

黒田:恐ろしい(笑)。

安永:で、僕は高校時代は美術部も熱心にやってて。その時に、修猷館(しゅうゆうかん)高校っていうのがあって、そこの美術部の部員で、田中瑛っていうのがいたんだけど、そいつがそのとき芸大を目指してて、熊野先生のとこによく石膏習いにきてたんだけど、そいつと仲よくなった。その頃は福岡市の各高校はもう学校ばらばらでやってるから、大同団結、一遍しようじゃないかっていう話になった。いいな、やろうやろうということになって、そいつと二人で、各学校の美術部をまわって、ひとつの連盟みたいなものを作ろうと思うけど、どうだろうって言ったら、みんな賛成だって言うから。それで福岡市高校美術連盟っていうのを16校で立ち上げたんですよね。僕が高校2年生のとき。で、そのときに、初代の会長は岩崎健八郎さんって、今は藤本健八(写真家)っていうんだけど、彼が中央高校の1年先輩で3年生。年はもうちょっと上だと思ったけど。彼は1年先輩だったから、彼を初代会長にして。僕は2代目の会長になったんだけど。とにかく一生懸命、各校の美術部の連携を取るように頑張って。合同展なんかも岩田屋でやった。で、その中のひとつに東福岡高校というのがあって、それは私立のできたばかりの高校だったんだけど、その美術部のメンバーの1人がクワトリ(鍬取)なんだけど、ミノル(稔、九州派ではカタカナ名)か。ね。

黒田:ええ。

安永:これが九州派に入ってたのかか、かわってたのかはよく知らんけど(注:1957年12月刊の九州派機関誌2号に会員として掲載)、彼が九州派の連中をよく知ってると言って自慢するわけ。さっきの風月なんかに行ったときに、やあやあとか何とか、九州派の人と話してて、へえと思って。彼も作品を出品してたけど。彼は福岡市の百道(ももち)っていうところに海水浴場があって、そこの海水浴場の海の家か何かのオーナーの息子だったんでしょ。

黒田:確かそうです。

安永:で、そこで九州派の人たちが何か展覧会をやってたんだよね。

黒田:そこ借りて、アトリエ、制作場所にしてた。

安永:そういうこともあって、九州派というのも、何か同時代的に、はあ、こういうものがあるのか、と。作品も筵に描いたりなんかしてね。

黒田:ああ、筵の、見ました?

安永:ああ、筵のがあったよ。

黒田:じゃあ、それはかなり最初期の九州派展、57くらいじゃないかな。岩田屋だったらその辺ですかね(注:九州派創立展である1957年8月の「グル−プQ18人展」か)。

安永:筵の作品があって、おお筵かと思ったりね。コールタールもそうだけど。すっごいコールタールのにおいがするんですよ、会場中。

黒田:(笑)

安永:本当にもうにおいがたまらんっていう。

黒田:2回見たっていうのは、1回が岩田屋で、もう1回はどこで?

安永:もう一回は、県庁横のあれを何か通りがかりに見た覚えがあるんだよね。

黒田:街頭展ですね(注:1957年11月の「グループQ・詩科アンフォルメル野外展」(第2回九州派街頭展)か、あるいは翌年11月の同じ場所での街頭展か)。

安永:こんなとこで街頭展やんのかなと思ったりしてね。それも何となく覚えがあるんですよね。もう一回はどっか、画廊か何かで、画廊じゃなかったかな。どっかで偶然通りかかったらやってて……九州派ってすごいなと思って。とにかく九州派っていう言葉がすごい印象に残ってて。で、そのあとのことは僕もあんまり知らないんだけど。大学時代は野球ばかりで。団体展はよく見に行ったけど。それから、いろんな展覧会をやっててね。デパートであった印象派の展覧会とか、いろいろ見に行きましたよ。

黒田:そんなにいろいろな展覧会が見れたんですね。

安永:うん。もうとにかくデパートだったからね、あの頃は。県立美術館もまだできてなくて。何でもかんでもデパートであった。

黒田:じゃあ、九州派以外で何かいわゆる現代美術にふれたことは……

安永:いや、いわゆる現代美術展っていうのは、あんまり覚えてないな。もうその団体展以外は。だから団体展のひとつの流行とか、傾向とかっていうものが現代美術の動向だと思ってた。

黒田:かつては公募展の作品が現代美術とされていたわけですが。九州派から何か影響を受けるっていうことはなかったですか。

安永:なかったなあ。

黒田:(笑)

安永:九州派には影響受けなかったな。すごいなと思ってはいたけど、こういうふうに描こうとか、あるいは作ろうというふうには思わなかったな。

黒田:団体展が起点だとしたら、やっぱり安永さん、基本的には具象の作品だと。

安永:やっぱり団体に所属して頑張ってる人たちに何となくみんな注目してたんじゃないかな。新聞の評なんかもそうだったし。福岡は結構絵描きさんが多い。特に二科、独立はね。

黒田:そうなんですね。

安永:独立は、児島善三郎なんていう福岡市出身の人がいて、彼を中心にいろんな会員がいたし、それから二科も坂本繁二郎さん、二科だったから、その関係で伊藤研之とか、二科の人もたくさんいたし、創元会とか光風会とか、とにかく主要な団体の人たちは結構いて。僕は直接は面識なかったけど、作品はよく覚えてて。で、のちにアジア美術展をやるときに、地元作家なんかがだいぶ選ばれましたけど、そのうちのほとんどは当時の団体展で覚えた名前の人たちでしたね。だから、それはやっぱり青木(秀)さんなり、谷口(治達)さんなりが選んでるから、当然そうなるわけですね。だから、やっぱり、あの当時の日本の現代美術の主流というのか、傾向というのか、そういうものは団体展だったんじゃないかな。九州派の連中でもみんな最初は団体展目指したわけでしょ。独立とか二科に最初は出してたりするよね。

黒田:みんなそうです、大体そうですね。県展とかもそうですね。

安永:二紀とか。で、そこから、団体が持ってるいろんな問題や弊害にみんな反発して、団体を離れて独立するようになったんだけど。

黒田:話がずっとまた元に戻りますが。アジア、福岡市美のそもそも、中身について、中身以前に建物どうするかっていう……

安永:結局、県から(土地を)借りてできることになったから。

黒田:一応、外箱の話まではきたわけで、中身の作り方、そもそも開館記念展とか、コレクションとか、そしてどうやってアジア展をやることになったかという、その辺も。

安永:まず、最初に収集方針を決めようということで、収集方針を決めたときに、まず一番はもちろん地元ゆかりの作家の収集。これも地元も福岡市に限定せずに、広く九州および山口あたりまでを範囲とした郷土作家にしようということにしたんですね。広く。これはどこでもやる収集方針で。それをただ範囲を狭くするか広くするかの問題なんで、それは大したことないんですけど。で2番目が要するに、現代美術を集めようという、これが大きな眼目だと思うんですね、福岡市美術館の。で、僕の1年後に尾野くんっていう、尾野正晴っていうのが、乾由明さんの紹介で西宮(市)大谷(記念)美術館を辞めて、福岡市美術館の建設事務所に来たんですけど、これが現代美術専門で。で、彼が乾さんあたりと何度も相談をした結果、やっぱりコンテンポラリーをやりましょうということになった。公立美術館でコンテンポラリーをやってるとこはどこもないんで、これはもう絶対今やっとけばいい作品が集まりますよって言うんで。僕もそれはそうだなと思って。それで現代美術を集めることになった。尾野くんと2人で、特に尾野くんが中心になって、現代美術の収集方針を作った。要するに、どういうムーブメント、あるいはイズムの流れの中からどういう人を選んでいくかっていう、そういう図形みたいなものを作りましたよ。

黒田:僕、見たことありました、それ。

安永:見たことあるだろ(笑)?

黒田:あります。

中嶋:図形ですか。

黒田:要するに、アルフレッド・バーみたいな、何とかイズムとか、それぞれの作家の名前書いてって……

安永:そうそう。

黒田:代表的な傾向を集めるっていう、そういうやつです。

中嶋:それは日本の現代美術?

安永:世界の。

黒田:いや、両方……

安永:欧米のっていうか、世界のっていうか。日本だけではない。もちろん日本も含みますけど、日本だけじゃなくて、とにかく世界の現代美術を収集しましょうっていう。

中嶋:その頃の現代美術っていうと、どのような。

安永:一応、起源として1945年っていうのを切ったんですよ。

中嶋:戦後なんですか。

安永:第2次世界大戦後の現代美術という。

黒田:すごい画期的な……(笑)。

安永:端的に言えば、ジャクソン・ポロックから始まるという。ジャクソン・ポロックから始めましょうっていう。

黒田:すごいですね。

安永:よく尾野くんもそう言ってた。だから、最初はポロックとかデ・クーニングの作品を随分探しましたよ。でも、結局いいのがなかったし、値段も高すぎてちょっと買えなかったりしたんだけど。で、そういうふうには始めた。少し時代はさかのぼって、もうちょっと前のものも対象にはしたけど、基本的には1945年以降のアメリカが舞台になった現代美術の世界の作品を集めましょうっていう。だから、日本も大体それに則したかたちで。僕もあんまり詳しくなかったんだけど、尾野くんが詳しかったから、尾野くんと乾さんでいろいろ案を作って。それでいろんなところに行った。乾さんのつてもあったりしたので。具体(美術協会)の吉原さんのところに行ったなんていうのも典型的な例かな。

黒田:ああ、具体買ってますよね。

安永:僕も具体ってあんまり知らなかったんだけど。抽象派の、あの時代の流れの中のひとつだろうというぐらいにしか思ってなかったんだけど。乾さんが具体の吉原さんと仲がよかったのな。

黒田:それは当然。

安永:乾さんの紹介で、尾野くんが吉原さんのとこ行って。まだ吉原さん、存命中だったかもしれない。。

黒田:いや、亡くなってます(注:吉原は1972年2月10日没)。

安永:もう亡くなってたかもしれんな。円の作品をもうほとんど残ってませんとかって言われたんだけど。一点だけいいのが残ってて。それを買ったりしましたよね。それから、その流れで白髪さんとか。それから、日本の抽象、現代美術系の作品を中心に欧米のものも一生懸命収集した。いろんな現代美術系の画廊を随分回りましたよね。僕も尾野くんと一緒に回ったけど、フジテレビギャラリーとか、南画廊、東京画廊とか。そういう現代美術を扱ってる画廊はみんな喜びましたよ。初めて公立美術館で現代美術を取り上げてくれるって、こんなうれしいことはないと言って。在庫を全部見せてくれた。とにかくあの頃はよりどりみどりで。値段もそんなに、高くなかったし、それから作品もいい作品がいっぱいあって。誰も見向きもしなかったから。それで随分いいコレクションができましたよ、あの頃は、本当に。開館前に購入予算がつき始めたから、で、最初2000万ついたのかな。で、最初の2000万はラファエル・コランを買ったんだよね。現代美術と言いながらなぜラファエル・コランかってあとで土方定一さんから随分怒られたことあるんだけど。あんなもの現代美術でも何でもないとか。でも、ラファエル・コランは郷土作家の、九州の黒田清輝とか岡田三郎助とか和田英作とかの師匠であり、要するに日本の近代の幕開けを促したひとつのきっかけになった作家でもあるし。もちろん最初からラファエル・コランを買おうと思ったわけじゃなくて、福岡市美術館ができたときに、フジカワ画廊っていう画廊が持ってた作品があって、それをどうですかって言ってきて、それが河北倫明さんあたりを通して、ちょっと検討しろっていう話になったから。あとでつけた理屈でもあるんだけど、ラファエル・コラン(注:当時の題は『海辺の舞踊』、のち『海辺にて』)を最初の2000万円で買って。大作ですよね。4×6メートルぐらい(正確には279×446cm)、すごい大作。まだ巻いたまま置いてあったんです。それを最初に買って、で、そのときに寄贈もあったんだけど、それが最初で。そのあとは2000万が3年ぐらい続いたかな。2年か3年ぐらい続いたかな。それで2000万で十分買えたんです、あの頃、現代美術が。もう一点が何十万っていうぐらいの。高くたって100万とかね。そりゃあもうジャンジャン買えましたね。だから今、福岡市美術館の収蔵庫に眠ってるもので、あんまり展示しないけどその頃買ったもの、いっぱいいいものがありますよ。オーナーが亡くなった、有名な現代美術の画廊……。

黒田:南画廊?

安永:ああ、南さんあたりがばりばりやってた頃。尾野くんと最初に南画廊に行ったときに、とにかく南さんはりきっちゃって、もういろいろ見せてくれて。それでオファーがあって、かなりの数を収集委員会にかけようっていうんで、福岡に運んだんだよね。だけど、収集審査会で蹴られて蹴られてね。あの頃の収集委員は河北倫明さんと乾由明さんと、岸田さん。岸田勉(ベン、つとむ)さん、地元の(注:九州芸術工科大学教授を務めたのち1978年から石橋美術館館長)。この3名でね。福岡市美術館に対する期待も大きかったし、いいものを集めようという気持ちも非常に強かったから、もうレベル以下のものはぼんぼん落とした。収集委員会で落ちるっていうのは、本当に僕はこんなことかとその時に思った。われわれはいいと思ってるのを、この作家はまだこんなもんじゃない、もっといいものがあるっていうんですね。もっといいものを探してこいっていわれて。で、落ちた。そしたらもう南さんとか、ほかの画廊もみんな、えっ落ちたんですかっとかって言ってね。ものすごく怒ったんですよ。特に南さんはかんかんになって怒ったな。これだけ一生懸命になって俺が世話したのにって。だって南さんがオファーしたもののうちの4割、落ちたもんね。だから、とにかく尾野くんが平謝り、僕も平謝りしたんだけど。で、それから2、3年後ぐらいから、事前審査じゃないけど、収集予定作品のリストを持って審査員の人たちを一軒一軒回って、こういうものはどうでしょうかっていって。その時にだめだって言われたものはもう最初からかけないようにして。なるだけ審査会で落ちるのを防ぐようにした覚えがあるな。

黒田:審査会だと現物持ってこなきゃいけないけど。その現物持ってくる前に写真か何かで見せて……。

安永:そうそう、写真で見せて、審査員の感触を探るっていうか。

黒田:落っこった作品ですごく残念だったやつとかありますか。

安永:やっぱりある、いっぱいありますよ。黒田清輝の、『赤小豆の簸分』なんていう、あれも落ちたんだよね。それから、岡田三郎助の名品ですけど、これも落ちたしね。値段も高かったけど、ああいうものが、今思えば何で落ちたんだろうと思うぐらいだけど。

黒田:高かったから?

安永:高かったこともあると思う。けど、黒田清輝なんていうのは、本当はもっと代表的なものを買いたかったんだけど。黒田清輝、ほとんどN画廊経由でね。《洋燈と二児童》なんていう、フランス滞在中のすごい作品があったんだけど、当時は2億とかっていってたもんね。2億から始まると、いくら値切っても1億以下にはならないもんね。だから、H美術館がぽんと2億で買ったっていうんだもんな。それから、大川の清力美術館のものも全部逃したしな。あれは大変だった。清力美術館っていうのがあるんですよ。お酒の清力酒造のコレクション。

黒田:青木繁の『漁夫晩帰』を持っている美術館ですよね。

安永:そうそう、青木繁の。坂本繁二郎の牛はいい作品だったんだ。清力美術館が財政的な問題もあって、全部コレクションを売りたいっていう話が来て、間に県会議員さんが入っていろいろ世話してくれて。で、福岡市美術館に、どうですかっていうから、当時の館長、劔木(けんのき。亨弘[としひろ])さんって国会議員だった人だけど、ちょっと検討しろっていう話になったから、じゃあっていうんで、一応、評価委員会を作って評価しましょうっていうことで、評価委員会を作って評価したら、みんな評価が低かったんだよね、結構。それで、その価格だったらって提示したら、もう向こう側がうんと言わなくなってさ、で、結局話が壊れたんだけど。あれも残念だったな。僕は一番残念なのはピカソだね。ピカソはもう本当に腐るほど話がきたの。もういろいろ。で、帯に短したすきに長しじゃないけど、僕がさっきも言ったように、青の時代がどうしても好きだったんで、青の時代を買おうよっていって。で、青の時代を随分探したんだけど、やっぱりみんな青の時代が好きで。青の時代、高いんだよね。手が出なかった。で、青の時代じゃなくてもいいから、もう少し後の戦後のものでもいいものがあったらって考え始めていたんだ。結構、戦後のものだったらまあまあっていうものがいくつもオファーがあったけど。結局、やっぱりピカソ買うならせめて新古典主義の時代のものを何とかかんとかといって、新古典主義もだいぶオファーがあったり、あるいはこっちから話をしてみたり、いろいろしたけど、やっぱり最終的には値段が合わなかったね。当時でも2億、3億、4億っていったもんな。そうしたらピカソが亡くなったんだよね。で、亡くなったときに、ピカソは自分の手元にコレクションがたくさんあって、いずれこれが一挙に市場に出てくるから、ピカソの値段は必ず下がるから、もうちょっと待てってみんな言ってたの。画商さんも言ったし、専門家も言ったし、とにかくもうみんな。ピカソは自分が気に入ってた作品はほとんど手元に置いてて、それが百何十点あるって言うんですね。で、それはほとんど名作といってもいいようなものばかりで、相続税を遺族のほうは絶対に払えないから、それが一挙に市場に出てくるって言うわけよ。それまで待ちなさいって言うわけ。そん中にいいのが必ずあるし、値段も安く買えるからってみんな言うわけ。それじゃあ待っときましょうっていって待ったわけよ。そしたら、急転直下、みんなフランスの国が買うことになった。税金の代わりに国に納めることになったでしょ、あれ。

黒田:それで税金、要するに……

安永:ピカソ美術館になった。

黒田:物納っていうか、寄付すればいい。

安永:相続税を物納したわけ。だから、市場に出なくなったわけ、ピカソの個人コレクションが。で、みんなピカソ美術館におさまってしまったからさ。それで一挙に夢が壊れた。予想がはずれたんで、うわーっと値が上がってしまった。みんな待ってたのに、それがだめになったから、これからは市場に出てくるものしか手に入らないじゃないかっていうことになって。それで値段が一挙に上がった。2億、3億、4億っていった頃はまだ手が届いたの。あれだったら無理すれば買えたかなっていうのがあったんだけど。それがもう一挙に値段が7億、8億、10億ってなったから。もうピカソは買いたいと思うばかりで...…

黒田:もう絶対買えなくなっちゃった。

安永:うん、買えなくなって。あれだけ好きだったピカソがとうとう買えなかった。それも僕の予測の誤りっていうか。当時、みんなそう言ったからな。僕もそうだろうとも思ったんだけど。そのあとピカソ美術館を見に行って、うわー、すごいなあと感動した。ピカソ美術館、本当にすごいのがありますよね、ピカソが大事にしてたものばっかり。

黒田:じゃあ、それで、先ほどの、収集方針で、現代美術、乾、尾野ラインだったけど、一応現代美術をやるようになったっていうことで、それでアメリカ現代美術展を開館記念展でやることになったわけですが、そして……

安永:それはそのとおり。そうやって収集方針もそうだし、福岡市美術館の開館にふさわしい展覧会としては、アメリカの現代美術、特に戦後、1945年以降のアメリカの現代美術史をたどることが、そのまんま福岡市美術館の特色をアピールすることになるということで。それもちゃんと委員会に諮って。福岡市美術館を作ると決まったときに、福岡市美術館の建設委員会は、小ユニットでいこうっていうことになった。大委員会では平均的な意見に落ち着き、特色ある意見が採用されないという危惧があったからなんだけど。で、河北倫明さんと、待鳥喜久大さんと、小池新二さん。主には小池さんが中心になって待鳥さんが地元で支援する、河北さんが専門的なアドバイスをするっていう、そういう姿勢で、3人の委員会になったんですよ。この3人の委員会で年に4回も5回も委員会開いたんだけど、かなり細かくいろんな具体案を検討してもらって。で、そのときに開館記念展のことも提案して、じゃあアメリカの現代美術展でいこうっていうことで一応決まったわけ、専門委員会で。だから、尾野くんも安心してっていうか、よしやるぞっていう気になった。当時、福岡のアメリカ文化センターと仲がよかったから、アメリカ文化センターに尾野くんが駆け込んで、アメリカの主要な美術館を回って、開館記念展の作品貸出の件で交渉してきたいって言ったら、わかりましたと言って、アメリカン文化センターがアメリカの文化省か何かの関係責任者に手を回してくれて、じゃあ各美術館のアポイントと、それから通訳を全部アメリカ側で負担しますからと言ってくれた。

黒田:おお、すごい。

安永:もう全部負担します、という。旅費は負担しなかったけど、向こうでの通訳はもうずーっとマンツーマンで、尾野くんが行ってから、同じ人が通訳で全館一緒に回ってくれたらしいんだけど。で、アメリカの主な現代美術のコレクションのある美術館を全部で20館ぐらい回ったんじゃないかな。

中嶋:すごい。

安永:ほぼ1カ月近くかかって。それで、そのうちから少なくとも10館はOKがきてますって尾野くんが喜び勇んで電話してきた。もちろんMoMA(ニューヨーク近代美術館)とか、そういうところも含めて、主要な美術館、ほとんど入ってたもんね、シカゴとか。よかったよかったと僕も喜んで、これで何とかできるなといって喜んでいたのに、いきなりアジア美術展になった。尾野くんが帰ってくる直前か何かだもんね。

黒田:尾野さんに確認しました。帰ってきたら変わってたって(笑)。

安永:尾野くん帰ってくる直前か何かだったね。

黒田:ひでえ話ですけど。

安永:林さん、林満喜雄っていう当時の美術館のボスがいたんだけど、その人が僕のところに来て、いきなり小池さんがちょっと市長と話がしたいっていう話で来てるという。何事ですかって聞いたら、ちょっとお会いしたところで話すとか言ってて中味はわからない。で、実は河北さんも待鳥さんも一緒に来てると言う。ええ、何だろうって言って。みんな何だろうって言いながら。そんな大事な話とは思わなかったんだ。そしたら市長に、小池さんに会われたときに、小池さんから開館記念展としてアメリカ現代美術展というのを一応やろうということに内々決めたけれども、いろいろ考えてみると、福岡といえばやっぱり東京あたりから見ると、一番日本の中でもアジアに近いところでもあるし、歴史的に見ればアジアといろいろ交流があって、いわば日本におけるアジアの最先端の土地という印象が非常に強い。だから福岡で新しい美術館を作るとすればやっぱり開館はアジア絡みのものにすべきじゃないだろうかというような、そういう話だったらしいんだけど、そういうことを小池さんが新たに提案をして。で、河北さんがそれはぜひやるべきだ、それはいいって言って。そしたら待鳥さんも、福岡らしい美術館とか何とか言って。3人が3人とも市長を説得したみたいなんですね。で、市長はこれにも書いてあるけど、もともと福岡の地元にあった政治結社っていうのがあって……

黒田:玄洋社。

安永:玄洋社というのがあって。玄洋社っていうのは近代歴史の中では先鋭的な政治結社で、そこが思想的には大陸思考っていうか、特に当時の中国なんだけど、そういうところと手を結んで日本は勢力を伸ばしていくべきだとかっていう、そういう、今考えればある意味じゃあ先鋭的な大陸進出思想があったんだけど。それは先鋭的に言えばそういうことで。それで進藤(一馬)さん、当時の市長は進藤さんっていうんですけど、この人は玄洋社の一番最後の人で(注:1944〜46年に最後の玄洋社社長)、もう既にそういう時代ではなくなっていて、玄洋社とそれから中国大陸、あるいはアジアとの結びつきや交流の大切さみたいなものを常々うたい文句にしていたところもあるもんだから。それで進藤さん、当時の市長さんはそのアジア戦略について、非常に強い感銘を受けて賛成をされたようですね。で、進藤市長という人は非常に美術館建設に熱心で、もちろん自分も美術品が好きだし、自分の奥さんの里の兄が独立の創立会員の一人で有名な絵描きさん(鈴木亜夫)がいたりするんだけど。だから、そういうふうなこともあって美術は非常に好きで。この美術館建設専門委員会っていう、われわれはそう呼んでいたんだけど、この3人の委員会の会議には進藤市長は一遍も欠かさずに出席しましたもんね。

黒田:それすごいですね。

安永:本当に珍しいですよ、多忙な市長がね。でも出てきても何も言わないんですよ、市長。野次馬は余計なことは言わないという感じでただ黙って聞いてるだけだけど、とにかく1回も市長は欠席したことがない。年に4回も5回も会議やるのに、それでも。だからわれわれも最後のほうは会議をやるとき、市長の日程もまず聞いて、それであと調整するようにしてたんだけど。非常に熱心に。だから、当然、開館記念の展覧会のときも話を聞いてるわけ。だから「アメリカ現代美術展」の話知ってるんだけど、3人の先生方からそう言われてみるとなるほどと思ったのかもしれない。アジアにしましょうって、アジアで。何か当てがありますかとか何とかいう話があったらしいけど、小池先生が、いや、何とかなりますってことで終ったらしいんだよね。で、われわれもそういう話を後で聞いた。僕が林さんから呼ぼれて話を聞いた。ええって、そんな話、初めてじゃないですか。今まで調査やってきて、ここまできてるのにどうするんですかとか言って反抗したんだけど、市長がやるって言ってる。だからやれと言って。最後はもう怒ってね。最後はもうすごい剣幕で怒りましたよ。あんまり文句言うもんだから。

黒田:そっか、その林さんって……

安永:林満喜雄さん。

黒田:は、ポストは?

安永:当時は肩書きは参与。林参与、林参与って言ってたから(注:福岡市美開館時には福岡市美術館協会理事)。ラインじゃなくて、スタッフかな。美術館の建設専門参与みたいな感じ。ポストは局長級でしたよね。

黒田:要するに市長とつなぐ人ってことですよね。

安永:うん。行政の一番トップで。その下に福与(甲子夫)部長っていうのがいて、福与さんが実務畑のボスだった。部長だったけど。

黒田:安永さんが聞いたらそういうことなんだけど、その以前にそもそも最大の問題として、小池さんがなぜそんなとんでもないことを言い出したか。

安永:そうそう、ここにも(注:前出『Arting』)書いてあるけど、小池さんはもともとアジアに対するそういうある種の興味があったんだよね。戦前には中国にも行っているし(注: 小池は商工省工芸指導所時代に南方の工芸産業の調査を指揮し、大東亜省嘱託時代の1942年2月には中国で工芸事情調査をおこない、共栄圏内の文化交流のため中国・ビルマなどの工芸展をアジア各地で企画・開催。藤原惠洋「『汎美計画』の歴史的意義と課題」、『汎美計画』[森仁史監修『叢書・近代日本のデザイン』第67巻]、ゆまに書房、2015年による)。福岡市美術館の委員になる前に、千葉大学時代か何か、僕もよく知らないんだけど、デリー大学か、何か知らんけど、そこに集中講義を頼まれて、ニューデリーに3カ月ぐらい滞在したことがあるんだね。で、そのときにニューデリーとかインドの工芸とか、特にインドの工芸って非常に好きだったんだよね。染色関係の工芸が。で、そういうこともあって、アジアに関心がった。(岡倉)天心のこともよく勉強してあったし、アジアに対する考え方、あるいは「アジアはひとつ」という天心の主張に共鳴していた。第1回アジア美術展(注:「福岡市美術館開館記念 アジア美術展第1部近代アジアの美術〜インド・中国・日本〜」1979年11月3日〜12月2日)のカタログにも書いてあったけど、要するにアジアはひとつの運命共同体であるという、そのことが小池さんの非常にしっかりとした考え方の基盤だったと僕は思うんですよね。だから、日本だって欧米諸国の影響を受けて、明治維新になって新しい国になった。で、アジアのほかの国もみんな同じように欧米の影響を受けながら近代国家に衣替えをしていったわけで、そういう意味では一衣帯水っていうのか、アジアはひとつの運命共同体として同じ運命をたどっているんだということを、この際、開館記念展でうたいたいという。それで、そういうことをいきなりアジアの全部の国で証明するっていうか、展覧会としてやるっていうのは難しいだろうから、せめて日本と中国とインドという、アジアを代表する三つの国の近代化の足跡を比較検討することでアジアにおける西洋文明の受け入れと、それに伴う変容っていうか、そういうものを見て、アジアの現代美術、アジアが置かれている今の美術の状況を推測しようではないかというか、そういうふうなコンセプトだったように思いますね。小池さんがほかのアジアの国を、あっちこっち行かれたかどうか僕も詳しくは知らんけれども、インドは特に関心があったみたいですね。そのあと、これ(注:下記『甦れ、混沌! 甦れ、小池ロマン!』)に書いてあるけど、(日本)美術家連盟が主催をしたインド調査報告会か何かに呼ばれたんでしょ。僕もよく知らないんだけど。

黒田:これ(注:新井馨子・原内日出美編『甦れ、混沌! 甦れ、小池ロマン!』、「1123小池新二フォーラム横浜」開催推進委員会、1991年)に前田常作がそういうふうなこと書いてるんですけど(注:1977年4月頃、IAAの仕事で前田と画家のI、事務局のKによるインド・ネパール・スリランカ調査の報告会に小池が出席し、「我々はもっとアジアの現代美術に眼を向けなければならない」と話したとある。また日本美術家連盟『連盟ニュース』252号[1977年5月]によればIは石川滋彦、Kは同連盟の倉田平吉事務局長で、調査は1月17日〜2月18日、報告会は4月4日に美術家会館6階画廊で開催)。

安永:前田常作さんが声かけられたのかな。僕もよくわからんけど。で、僕らもあとで美術家連盟から呼ばれて、報告会を聞いたけど、アジアにもちゃんと現代美術作家はいるんだよとか言ってましたもんね。

黒田:それはあとの話なんですね。

安永:あとの話。アジア美術展をすることになったときにね。いろんな人が、小池さんに対してではないかもしれんけど、大体アジアに現代美術なんかあるのかっていうのがみんなの率直な疑問で。僕らもはっきり言えば、本当にアジアの美術って知らなかったんですよね。特に現代美術は全く知らなかった。お隣の韓国については少しは知ってましたよ。韓国は割と早い時期に韓国の作家の作品を買いましたからね(1977年に、キム・チャンヨル、キム・ファンギ、ユン・ヒョングン作品を購入)。これも別にアジアを視点にしたわけじゃなくて、欧米だけではなく、世界の現代美術の収集をするということで、要するにヨーロッパやアメリカと同じように韓国のものも日本国外のものとして収集をすると。特に韓国の人たちはエコール・ド・ソウルという、ヨーロッパに自分たちの存在をアピールした非常にユニークな意義あるグループがあって、それは買ったんですよね。だから、そういう韓国の作品はある程度知ってたけど、じゃあ中国はどうなのかとか。中国だって、福岡市アートギャラリーという秀巧社(ビル)のプレ・ミュージアム(注:1976年6月〜1979年9月)でやったのを見たのは見た。福岡市美術館の開館が土地の選定で遅れて、開館が当初の予定よりも3年ぐらい遅れて、市民から不平がいっぱい出たんだよ。何年の開館予定だのに何で遅れるんだよとか、いろいろ新聞でたたかれてね。じゃあ、とりあえず建設地策定のために遅れた3年間を少しカバーしようっていうんで、プレ・ミュージアム活動っていうことで、その秀巧社のギャラリーを借りることになった。そこで中国現代美術展みたいなものを、2回ぐらいしたもんね。

黒田:そうでしたっけ。

安永:うん、2回ぐらいしたよ。中国(注:「中国現代絵画展」、1979年1月10日〜28日 もう一回は確認できず)。

黒田:すいません、知らなかった。

安永:今の日中友好会館ではなくって、日中文化交流協会とか何か、あの頃中国と交流するいろんな団体があった。社会党だとか自民党だとか何かいろいろの政党によっていくつか団体があって、そのうちのひとつが招聘した美術展があった。それはまさしく社会主義リアリズム全盛時代ですよ。1960年代、70年代ぐらいまでかな。要するに毛沢東の思想に基づいて、労働する喜びであるとか、家庭の平和であるとか、そういうことをソ連から教わったリアリズムで表現をして、ひとつの国のスローガンに沿うものにしようという、そういう風潮が全盛期だった頃の中国絵画の展覧会。二遍くらいしてるから僕らも中国絵画は知ってたんだけど。それはもうPRのためのポスターみたいなもんだから、きれいではあるけれども、当時は面白くも何ともない。今はちょっと興味があるけど。韓国、中国はいい。そのほかの国は何も知らなかったもんね。はっきり言えば、インドでさえも知らなかった。だから、現代美術はあるのかというのは当然な疑問であったわけで。だから猛反対したんだけど。僕も係長だったし、一番先輩でもあるし、それじゃあ僕が中心になってやるしかないなと思って、で、僕もやることにしたんですよね。アジア美術展が決まってから、今のスタッフ、僕と尾野くんの2人だけじゃ絶対できませんよっていって、スタッフを増やしてくださいっていって。で、急遽、とりあえず2人まず増やそうっていってアジア美術展用に採用されたのが後小路雅弘くん(のち福岡アジア美術館学芸課長、現・九州大学教授)と、帯金章郎くん(のち朝日新聞事業部)っていう九大と東大の2人の学芸員が採用された(注:1978年)。この2人は4月に採用されて、もう10月には「行って来い」って言われて、タイとインドネシアに行ったんですよね(注:1978年12月)。まだ採用して半年目っていうのは試験採用期間で本当は海外出張なんかしちゃいけないんだけど、とにかく無理して行って来いって行かされて。2人とも、海外出張も初めてだったと思うんだけど、アジアなんていうのはどんな国かもわかんなくて。後小路くんなんかも水さかずきの別れじゃないけど、出発するときには家族がみんな来て。
黒田・
中嶋:(笑)

安永:もう最後は永遠の別れみたいな感じで。で、僕もその半年前にインドに行ったんですけど(注:1978年3月19日〜4月19日、小池新二を団長とする足立襄、寺田竹雄、安永、柴田勝則によるインド調査団、安永と柴田のみネパール、スリランカも訪問)、さっきも言ったように背中にできものができて、出発直前に切開して5針縫ったままで出発したり、あの頃はコレラの注射がしなきゃいけなくて。

黒田:僕だってしてましたよ。

安永:コレラ2回ね、注射。ああいうのも大変だし。それからインドはもう全然わかんないから、杉山龍丸さんっていう、インドで木を植える緑化運動をやっていた人を訪ねた。

黒田:夢野久作の息子だよね。

安永:その人のところに行って、インドでの暮らし方、過ごし方とか旅の仕方とか、いろいろ教わりましたよ。

黒田:それはすごいです。

安永:僕と柴田(勝則)くんと2人行って、暑さ対策とかね。水は飲んじゃいかんとか、どうしてものどが乾いたらリムカというレモンみたいなすっぱいやつあるから、あれをかじれとかね。

黒田:細かいですね。

安永:それから、帽子をかぶれって。帽子の後ろにタオルを垂らして、首のここを防げとか。それから人力車に乗るときはこうしろとか、微に入り細に入り、いろいろ教えてくれましたよ。とりあえず蚊取り線香は持っていけとかね。蚊取り線香はよかったね。
黒田・
中嶋:(笑)

安永:シャンティニケタンっていう(村に)、タゴールが作った(ヴィスヴァ・バーラティ)大学がカルカッタの奥のほうにあるんですけど、そこへ2泊3日で行った。インドの有名な美術大学だから。大学のゲストハウスしかホテルはないんですよね。それでそこに泊まったんだけど、そのときに蚊帳が一応あるんだけど、蚊が蚊帳の中に入ってくるかも知れないっていうんで、蚊帳の外で蚊取り線香をいっぱいたいて寝たら、朝起きたら床に真っ黒になって蚊が死んでるの。日本の蚊取り線香すごいなと思ったな。

黒田:輸出しなかったんですかね(笑)。

安永:とにかく、のどが乾いてのどが渇いてね。そのとき、杉山さんからのアドバイスを思い出した。リムカという、そこ、リムカを売ってるわけ。それでリムカを買ってきて、かじってもかじってものどが乾いて。砂漠の中の街だから、あそこは。行ったことないですか。

黒田:行ったことないです。

安永:砂漠の中の街だから、もうすごい乾燥してんですよ。あのときは小池さんが団長で僕と柴田くんがいて。で、絵描きさんの代表ということで、地元から足達襄さんていう、これは独立の会員の人と、英語ができる人ということで、寺田竹雄という二科の会員の人が一緒だった。

黒田:連盟の人ですか。じゃなくて?

安永:連盟の副理事長か何かでもあった(1979年時点では国際美術連盟日本委員会委員長、日本美術家連盟理事長)。全部で6名で。通訳が1人、小池さんの、これは姪御さんで、伊勢(桃代、国連大学事務室長)さんという人が一緒に行ってくれた。で、彼女がずーっと最初から最後まで通訳さんで。

黒田:そのときはどこに行って、誰に会うかとか、それは誰が?

安永:そのときは、IAA(International Association of Art、国際美術連盟)っていうのがあって、美術家連盟がその任に当たっているんだけど、要するにそこからインドに行くならこの人を尋ねなさいって言われて、IAAのインド支部の支部長さんを紹介されたわけ。で、IAAっていうのは日本は日本美術家連盟が持っているように、各国の組織はその国を網羅してますとか何とか言われてさ。それで、じゃあIAAを頼っていけばある程度その国がまとめられるかなというような気持ちもあって。それで、インドIAAのインド支部長さんっていうのを訪ねていったわけ。で、空港にもその人や仲間が迎えに来てくれてたんだけど。とにかくこの旅行は本当にトラブル続きで、ニューデリーに着いていきなり足達襄さんっていう一緒に行った絵描きさんがいきなり連行されていって、空港の監獄につながれて、それでもうそのまんま出てこないんだもんね。どうしたんだろう、おかしいねと言っていろいろ調べたら、あの頃はインドはまだビザが要る国だったわけですよね。普通はだからビザが要るんだけど、われわれみたいに初めてインドを訪問する人はファースト・パーミッションとか何とかいって、最初の入国だけはビザなしでもOKだった。

黒田:そうなんですか。

安永:3カ月だったかどうか知らんけど、短期間の観光目的の旅行であれば、ビザはなくてもいいという。初めての訪問であればね。だからわれわれは初めてだったから、ビザも何も取らずに行ったんだけど、足達さんは実は……

黒田:来てた?

安永:その前にパキスタンか何かに行って、帰りにニューデリーで乗り換えだったんだけど、そのパキスタンから出る飛行機が遅れて、ニューデリーで乗継便が既にもう出発したあとだったから、その次の便しかないっていうんで、それで時間が空いたから……

黒田:入国しちゃったんだ。

安永:ニューデリーに入って、ニューデリーで遊んでるわけよ。そしてその次の飛行機で帰ってきてるわけ。それを本人はころっと忘れていて、何も我々に言ってくれてないわけ。だから入国しているのにビザ取ってないからさ。それで空港で捕まってさ。で、どんなに頼んでも、もうだめ。頑としてだめって言われて。ニューデリーに着いたのは夜中の1時ぐらいだったもんね。それからすったもんだすったもんだしたけど、結局だめで、結局ホテルに入ったのが4時ぐらいだったかな、朝の。それで、とりあえずは明日のスケジュールもあるから寝ときましょうとか言って部屋に入ったんだけど、そしたら4時半か5時頃になって、電話が何遍もかかってくるんですよ、足達さんから。安永くん、何とかしてくれよ、もうたまらんぜよとかって言って、何遍もかかってくる。どうしたんですかって聞いたら、看守に袖の下をかませて電話をかけさせてもらったとか言って。で、小池先生に相談したら、とりあえず明日大使館に行って相談してみようっていうことになって、朝早く大使館に行って、実はこうだって言ったら、大使館もだめですと言う。それはだめです、それはインドの法律でそうなったことに対して何とかしてくれって頭を下げるのは日本としてはインドに借りを作ることになるから、そんなことはしたくありませんって大使は頑として言うわけ。で、参与という人がいたんだけど、その人がそれじゃあ困るだろうからと言ってくれて、じゃあ、私が知ってる旅行会社がありますから、旅行会社に相談しましょうと言ってくれた。で、そのニューデリーの旅行会社に相談してくれて、旅行会社の人が来た。で、その人がこれはこのままじゃらちが明きませんから、一旦インドから出ましょうって言って。で、ネパールに飛んでくださいって。ネパールでビザを取って、もう一度入ってくるようにしましょうって。その手続きが2、3日かかるから、次のカルカッタで待ち合わせしましょうっていうことにして、それでネパールに行ったんだよね。で、カルカッタで待ち合わせしましょうということになった。ニューデリーの次はカルカッタだったから。で、カルカッタに行ったら、また足達さんが、来ないじゃない。結局、ネパールでも、自分で言葉できないもんだから、もたもたして、1日遅れでやってきてさ。寺田さんが怒って怒って。寺田さんは足達さんと修猷館(高校)の先輩後輩で、寺田さんが修猷館の先輩だからもう、ものすごく怒って。帰れとか言って、おまえ帰れって怒ったけど、本人はけろっとしたもんでさ。本当。

黒田:よく、全然英語できないで一人で行きましたね(笑)。

安永:そういうこともあって、インドは最初からトラブル続き。結局IAAに頼ったけれども、実はインドのIAAの本部がニューデリーではなく、カルカッタにあって、しかもなおかつ、わずか100人もいない小さな地方グループで、とてもインドを代表してるわけじゃないというのがだんだんわかってきて。みんなとてもいい人たちだったんだけど。で、IAAの人と会ったあと、一緒にニューデリーの国立近代美術館があるんですけど、そこを訪ねてコレクション見ようっていう話になって。で、じゃあ館長知ってますからっていうんで、そのIAAの人に、館長さん紹介してもらって、館長を訪ねていったんですよね。で、会ったあと、夕食会か何かのときだったかな。館長、シハーレさん(Laxmi Sihare)っていうんだけど、シハーレさんが、おまえたち、何であんなやつらを頼ってきたんだって。あんなのは国も何も代表してないし、あんなのがいくら騒いだって、インドはびくとも動かないよって言って。だから、どうしてもインドに参加してもらいたいのなら、われわれと国の政府を動かさなきゃどうにもならない。だから、あの連中と手を切りなさいってシハーレさんが言うわけ。で、その時は、わかりました、検討しますって帰ってきたんだけど、2回目に行ったときはもう、最初からIAAの人とはあんまり会わないようにして。それでも三遍ぐらい会ったかな。もう、シハーレさん、国のライン一辺倒でいくようにしたんですよね。それがやっぱり、スリランカもそういう状態だった。スリランカは、IAAスリランカ委員会を訪ねていったんだけど、あの当時はもう、スリランカのIAAはわずか5人ぐらいしかいなかったもんね。何だっけ、スリランカ、昔の何とかいうグループね。

黒田:43(フォーティースリー)ですか。

安永:そうそう。

黒田:「グループ43」。

安永:その人たちの生き残りが、かろうじてIAAの代表権を持ってる。全然もう、その力も何もなくて。だからもう、結局、スリランカの文化省を頼ったんだよね。で、ネパールはNAFA (Nepal Association of Fine Art)って、ネパール王立美術協会(Royal Nepal Academy)、あの頃は王立だったから、ネパールは割と組織としてまとまってて。そこが代表権も持ってることは間違いなかったから、ネパールは問題なかったんだけど。だからやっぱり、インドにしろ、スリランカにしろ、そうやってIAAの組織だけでは、やっぱり通用しないっていうのがわかってきた。で、そのあと、後小路くんや帯金くんたちが東南アジアを回ることになったけど、彼らにも、まず、IAAは取っかかりとしてはいいけれども、最後はやっぱり、政府の文化省なりなんかを頼って、政府の協力が得られないとできないぞっていうのを言って。で、彼らもそれに従って。最初の頃はもう、みんな政府を頼っていったんですよ。今はそんなことしないけど、第1回目の頃は。だからみんな、政府、文化省あたりを中心に頼って調査したんですよね。

黒田:アーティスト同士の交流ってことだったら、別にIAAでいいんでしょうけど。

安永:そうそう。

黒田:展覧会をやるなら、ちゃんと政府機関で、しかも国を代表する作家を出すなんていったら、どうしても国とやることになるのでしょうね。

安永:特に、作品を送ったり返却したりする作業が、日本で考えてるよりも、はるかにアジアは大変ですよね。それはもう。通関のときも税金とかね。たとえば福岡に出品してもらって、今度は返すとき、向こうについたときに、税関で税金がかかったりなんかする。

黒田:そうですよ。今でもそうです。

安永:今でもある?

黒田:今でもあります。ただそれ、輸出入の資格を持ってるところだったら払わなくていいんですけど。一般は払うから、多分。

安永:何か、そんなふうなことで。インドネシアなんか、返却したけど結局、そういう税金が払えないからっていうんで、いつまでも空港の倉庫に止まってたりなんていうことがあったんだよね。だから、日本で考えてるよりははるかにそういう作品の送り出し、あるいは受け取りなんかは非常に難しいってのがだんだんわかってきた。

黒田:いろいろ大変なご苦労がいっぱいあったわけですけど。たとえば最初の調査で、インド、スリランカ、ネパールとか行かれたとき、現地で見た作品とか、あるいは会った作家とかで、特に印象に残る人とかいますか。

安永:やっぱり、インドは最初行ったときに、福岡市美術館で初めてインド作家の作品を第1号で買った人がいるんだけど、名前はちょっと度忘れした(注:後出のシャンティ・ダヴェ)。その人はもう、インドを代表する近代画家っていうか、現代作家っていうのか、なんだけど、アトリエも本当に貧しくて、何か、掘っ立て小屋みたいなところでやっててね。作品はすばらしいんだけど、こういう劣悪な環境の中でやってるんだなっていうのがわかってね。

黒田:誰だろう。これ、こっちじゃなくてこっちですかね(注:「アジア美術展第1部 近代アジアの美術 インド・中国・日本」(1979年)と「アジア美術展第2部アジア現代美術展」(1980年)の図録でインド作家のページを見る)。

安永:こっちかな。

黒田:シャンティ・ダヴェ(Shanti Dave)ってことないですよね、違いますよね。これ(1980年展)だと、インドからすごく多くの作家が出品している。

安永:シャンティ・ダヴェ。

黒田:画家ですよね。

安永:うん、画家。まだ生きてるかな(注:2016年現在存命)。

黒田:インドの近代作家っていっぱいいるから別の人かもしれない。

安永:うん。でも、この辺はすごい。とにかく、作家のアトリエを回る暇があんまりなかった。あなたたちみたいに、今のように、どんどん作家のアトリエを回ったりは、僕はあんまりしなかったな。僕は大体なまけもんだからね。

黒田:当時では無理だと思います。

安永:あんまり作家のアトリエは行けない。むしろ、時間が空いたらちょっと息抜きに観光しようかって(笑)。タージ・マハルに行った。

黒田:(笑)。タージ・マハルって私一遍も行ってないです。

中嶋:(笑)

安永:そうだろ。

黒田:もう一生行かないかも。

安永:でも、最初にタージ・マハル行ったときは、もう、決死の覚悟で行ったよ。一緒に行った、連れてってくれた人、拳銃を持ってたもんね。何で拳銃持ってんのって聞いたら、途中、強盗がよく出るとか言ってね。車で行ったんだ。

黒田:インドとその周りの南アジアで、印象に残った作品はあまりなかった?

安永:あまりないな。近代美術館で見た作品は印象に残ってますよ。。

黒田:ナショナル・ギャラリー(国立近代美術館)の……

安永:うん。シハーレさんのところで作品は散々見たから、作品はよく覚えてます、いろんな作品はね。だから、この辺は全部知ってる人たちばっかりなんだけど。でも、実際に会ったりなんかはあんまりしてないな。

中嶋:このとき、既に現代作家に限定して見ていたんですか。

安永:そうです。で、アジア美術展も二つに分けたんですよね。第1部と第2部と(注:第1回アジア美術展と総称される展覧会は「福岡市美術館開館記念 アジア美術展第1部 近代アジアの美術 インド・中国・日本」(1979年11月3日〜12月2日)、「福岡市美術館開館1周年記念特別展 アジア美術展第2部アジア現代美術展」(1980年11月1日〜11月30日)の二部構成になっていた。通常アジア美術展の第1回とされるのは1980年展のほう)。

黒田:(上記の展覧会の図録を見て)これとこれ?

安永:ええ。さっきちらっと話したのは、インド、中国、日本の、アジアを代表する国の近代美術の足跡をたどろうということでやったのが第1部で。で、第2部は現代美術展という名称にして、現代作家の作品を網羅しようということで。で、そのときに、どういう基準で選考するかというのはもちろん話題になったし、何か基準を作らないといけないんじゃないかといろいろ議論したけど、最後はもう、こちらは何も知らないんだから、いくら基準を作ったところで選びようがないから、もう選択は全部、関係国それぞれの国にお任せしようということにして。で、一カ国あたりのスペースというか、展示壁面の広さだけを提示して、その中に飾れるだけの点数を送ってくださいということにした。今考えれば非常に乱暴なやり方だけど。こっちが何も知らないもんだから選びようがないしということもあって。その代わり、現存作家でお願いしますと言ったんですよ。そしたら、各国がそれぞれ、自分たちで工夫を凝らして、今の、現代の自分たちの国を代表するという美術品を送ってきてくれたんですよね。

黒田:統一的な基準がなかったわけなんで、だからすごくばらばらなものが出たわけなんですけど。

安永:だから非常にばらばら。これがその第1回の展覧会だけど。

黒田:このときで、ほかの全体の中で特に印象に残ってる国とか傾向とかってありますか。

安永:やっぱりそれは、インドかな。インドは印象に残ってる。それから中国、韓国。その辺。

黒田:やっぱりその辺ですか。

安永:うん。そういうところが印象に残ってますよ。

黒田:言い換えれば、それ以外はちょっといまいちという感じで……

安永:うん。やっぱりね。ネパールとかは弱いよね。タイも思ったほどじゃなかった印象があるな。

黒田:あと実際、この中はいっぱいうちの所蔵品になってるんだけどね。

安永:でも、今から見るとすごい人が出てるんだよね。

黒田:今見たらそうなんですけど。近代美術の巨匠から、もう何か、美術史の重要作家がごろごろ出てます。

安永:そうそう。

中嶋:それは、その当時から近現代美術っていうものに対する基準が各国にあったっていうことなんですかね。

安永:このときは各国に、それぞれの基準があったんだと思いますね。

黒田:ということになりますね。

中嶋:それは、アカデミズムを中心とするものだったんですか。

安永:いや、そうでもないみたいですよ。中国はややそういう傾向がありましたけどね。ほかの国はそうでもない。割と自由な表現。ただ、われわれの目から見るとちょっと未熟だなっていう感じのものが随分あったり。それから、この第1回目の出品者の、かなりの多くの人は欧米で勉強して、欧米のスタイルを身につけていた作家というか、そういう人が多かった。日本の美術界でもそうやって、欧米で勉強して帰ってきた人たちが新しい美術をおこしていくわけだけど。そういう、パイオニアっていうか、そういう人たちの作品が多かったんで。われわれは、もう少しアジアの独自色、あるいはアジアの固有色みたいなものを期待してたんだけど、それが思ったほどではないなっていうのが僕の第一印象で。欧米の影響が強いなっていう。でもそれは今考えると、そういう大事な人たちの作品がいっぱい出てたわけで、このときに買っとけばよかったなと思うものが随分あったんだけど。

黒田:じゃああんまり、期待したほどはアジア独自の現代美術っていった感じではなかったと。

安永:うん。何か、思ったほどではなかったね。第1回目はね。

中嶋:その頃は、伝統芸術の領域から現代美術作家として認められる作家とはあんまりいなかった?

安永:あんまりそれはいなかったみたいですね。

中嶋:あるいは、現代作家の中で伝統芸術とのかかわりを重視している作家。

安永:それは多分、スリランカなんかは割とそういう傾向が強かったのかもしれないですよね。

黒田:何しろこれ(注:1980年展図録掲載のディアス・ウィーラシンゲ『仏陀立像』)ですからね(笑)。

中嶋:仏像ですから。

安永:スリランカは最初に行ったときから非常に大きな問題があって。第2回目(注:「第2回アジア美術展」1985年11月2日〜12月1日)のときにそれがもう、沸騰したんだけど。要するに伝統作家っていうか、あそこは仏教がまだ大変に強い国で。たとえば仏画とか、あるいは涅槃仏。実際に彫刻で、寝ている涅槃仏。

黒田:ええ、あります。ばかでかいのが。

安永:涅槃仏を作ることだとか、お寺を作ることとか、仏画を描くこととか。そういう、仏教にかかわる伝統的な芸術がもう、厳然として残ってて。それはとても大きな勢力なんですね。スリランカの美術家の半分ぐらいはそういうものにかかわっている人たちで。だから、非常に固有色のあるというか、そういう意味では。で、スリランカの中では大きな勢力を占めている仏教美術作家群がいて、それに対して、欧米の影響を受けながら、そうじゃないものを作ってる人たちが半分ぐらいいて。で、第2回目にわれわれが訪問したときに、その時は最初からもう、文化省を頼っていったんだけど、その文化省の人が行く前に手紙をくれたんだけど、とにかく、そういう人の代表を集めておきますと。ホテルで。そこで福岡のプランを発表してください。その上でどういう人たちが代表になればいいか、みんなで協議しましょうっていう内容だった。そして、行ったらそういう場を作ってくれたわけ。で、ホテルの大きな広間に集まって、全国から100名ぐらいの美術家が集まってたかな。そしたらもう、その伝統派と現代派ががんがん言い合うわけ。どっちが主流か、どっちが代表になるべきか。もうとにかくけんけんがくがくでさ。もう、すごかった。結局そのときは結論は出なかったんだけど。それからもう、われわれのホテルにも夜討ち朝駆けで、われわれの作品見に来てくれって言うわけ。僕と柴田くんと、当時は副館長、財津(永次)さんって人だったけど、3人で朝早くから夜遅くまで引っ張り回されて、いろんな人のアトリエ見に行って。でも、われわれが決定するわけにはいかないからね。あんたたちで決定しなさいって言ってるんだから。で、わかりましたと言って。とにかく、決定はわれわれがするわけじゃないっていう話をして。で、来たのがこういう作品で。やっぱりそういう、けんけんがくがくで意見が二分した、そういう現実が割と出てますよね。

黒田:出てますね。その反映、結果として。

中嶋:両方から。

安永:うん。

黒田:でも、それって、特にスリランカに顕著ですね。ほかのとこではあんまりそういうのはなかった気がするんですけど……

安永:ほかのところはあんまりなかったね。ネパールなんかはものすごくもめるんじゃないかと思ったけど、ネパールは全然もめなかったな。

黒田:意外にね。あとポーバ(注:ネパールの伝統的宗教画)とか、そういうのなかったですかね。現代派がバンデル派(注:ネパールの近代美術のパイオニア作家Lain Sigh Bangdelの影響を受けた抽象絵画)とか……

安永:後小路くんの話聞くと、タイは随分もめたっていう話だね。タイは美術学校系とそうじゃない派の対立があったとか何か言ってたな。

黒田:タイでは伝統派、いわゆるネオトラ(ネオ・トラディショナル)系の人と、現代アートと、両方ありますからね。

安永:そうだよな。いずれにしろ、タイは随分もめて。もうとにかく、そんなことならもう参加しないとか何とかっていうぐらいまでもめたとかって言ってたな、後(小路)くんが。

黒田:あれ、でも、結局両方出てるんじゃないですか、これ。

安永:あ、本当?

黒田:じゃないかと思うんですよね。。

安永:いや、僕もその頃、結論までは聞いてないけど。だからインドネシアなんかもシラパコン大学一辺倒になったんじゃないか。

黒田:いや、(シラパコン大学は)タイの話。タイですよね。

安永:タイじゃなく、ああ、シラパコンはタイだな。いや、シラパコンじゃなくてインドネシアの、何だっけ。

黒田:いや、インドネシアはバンドンとジョグジャカルタと……

安永:バンドン、バンドン。バンドン工科大学一辺倒になったんだと思うよ。

黒田:ああ、そうか。

安永:うん。バンドン工科大学に話に行ったっていったら、そしたらバンドンが二つ返事で引き受けてくれたとか何とかって。で、もう、実際に来たものを見れば、バンドン工科大学の先生たち、およびその生徒たちとか、そのグループの人たちとかということだったんじゃないかな。だから、割とインドネシアは、内容的にはすっきりしてたような気がするけど。

黒田:実際に私たちがインドネシアに、バンドン系のモダニズムとジョグジャ系のアンチモダニズム、そういう、欧米派と独立派みたいな、そういうのがあるということを知ったのはずっとあとの話で(笑)。

安永:今はみんなそういうこと知ってるかもしれないけど、あの頃はバンドンのこともあまり知らなかった。

黒田:だから、一見して、ほとんど、いわゆるモダニズムですよね。バンドン系ですよね。そうじゃない人もいるけどね。

安永:ただ、韓国だってもう、基本的にはエコール・ド・ソウルのグループが主流だった。

黒田:最近美術市場ですごく高くなっている。

安永:最近はね。

黒田:(韓国では)単色絵画っていうんだけど。

安永:エコール・ド・ソウルの人たちにみんな頼って。パク・ソボを始め。みんなその系統ですよね。

黒田:それで結局、結果的に、いろいろ各国の別々な基準で、ばらばらな、いろんな結果が出たわけですけど。学芸員のほかの、安永さん以外の学員がどう見たかどうか、あと、一般市民、マスコミの反応とかその辺は。まず、この1980年展の話でいいですけど。

安永:80年のときはもう、これまた大変だったんだ。第1部は3カ国だけでやったんだけど、80年の2部展のアジア現代美術展のときには、日本からもどれぐらい出すか、日本から誰を選ぶかというのが、これがもう、大問題になったんですね。で、アジアは今言ったように、こういう展示壁面、こんだけのスペースの中に何点入るかあなたたちのほうで判断して、その点数を送ってくださいっていうことにした。それは、開催をする前の年に参加国会議というのを計画して、とにかく、われわれが出かけていっていろいろ説明するよりも、いっそ来てもらって一気に説明したほうが、時間もないし手間も省けるだろうっていうんで。あの頃はお金もあったから。

黒田:あったんですよね。

安永:あったんだ(笑)。

黒田:今考えたらそうなんです。今ないですよね。

安永:参加国の責任者みんなを呼んで、福岡で会議やって。で、夜はごちそうして、旅費もかなりたっぷりあげて。

黒田:(笑)

安永:厚遇してやったんですよ。そして、そのときにそういう話をして、みんな、わかったって言って了解してくれた。作品の輸送方法とか、いろんな協議を個別に会議した後で全体会議やった。それぞれ各国の担当を決めてミーティングをやった。ところが、日本はそうじゃなくて。日本は誰が選ぶかは、選考委員会も何も作らなかったと覚えている、あのとき。それで、アジア美術委員会か何か作った。

黒田:これ(1980年展図録)に出てます。

安永:そういう名称の任意の委員会を立ち上げて、その人たちが作家を選ぶという話になった。

黒田:アジア美術委員会ってのがあるみたいです。これのメンバーがね、どこに書いてあるのか……(図録を見る)

安永:あれは、僕もいまだにわかんないんだけど。行政として必要だとか言われて…。

黒田:(図録を見て)展覧会全体の実行委員会の中にアジア美術委員会というのが入ってる。

安永:行政として、行政がアジアの現代美術展を直接やるのはどうもまずいとか何とかっていう話で。

黒田:え(笑)。んー?

安永:何かそういう話だった。何でそうなったか知らんけど。多分、民間の、九州を中心とした、そういう美術組織、美術団体が結束して、アジアの現代美術展を開催してくださいという要望を出してもらって、それを受けるかたちで開催をするというような話。僕もよくその辺の、なぜそうしたのかがよくわかんないんだ。福与さんが盛んにそんなこと言う。なぜですかって聞いても、いやいや、それが行政のやり方なんだ、とか何とか言って。よく僕もわからんけど。とにかく、そういうふうに、まず、アジア美術委員会という委員会を、九州を中心にして作って(注:常任委員は広瀬不可止、青木寿)、その人たちがアジアの現代美術展というものをぜひ開催していただきたいという要望を出してもらう。実際に要望書が出てるんですけど(1977年11月13日)。で、それを受けて、福岡市はアジア現代美術展を開催するということにしましょうというの。だから、そのアジア美術委員会が最終的には、地元日本の出品作家を選考するというかたちに、どうもなったみたいなんですね。僕も全然、その辺のいきさつを知らないんだけど。で、誰が素案を作ったのかって、あとでいろいろ聞いたら、どうも谷口(治達)さんが作ってるみたいで。このアジア現代美術展の担当は第2部会というのがやった。第2部会の会長は、青木秀さんっていう、西日本新聞の当時専務だった人が部会長になって、第2部会の展覧会の最高責任者になったんだ。その青木さんっていう人は、もともと文化記者だった人なんで、美術は詳しくて。自分も将来は福岡市美術館の館長になりたいと思ってた節もあるからいろいろ協力してくれたけど。その人が、自分の部下の谷口治達さんっていう、当時の西日本新聞の文化部長だった人に命じて、案を作らせたみたいなんですね。僕もよくわからんけど。まあ、昔の美術館の学員はそんなことはできんやろっていうこともあったのかもしれんけど。

黒田:じゃあ、民間団体とかいっても、実際には、実質的には青木、谷口ラインで作ったということに?

安永:何かそうらしいんだけど、それも絶対、今まで一言も公表してない。で、当時は桜井(孝身)さんを中心に反対派の急進的な人たちが盛んに文句を言ったのは、誰がこれを決めたんですかっていうこと。誰がこれを決めたんですかっていうのを、何遍も会議で追求したけど、もう、頑としてそれは言わなかったな。で、桜井さんたちも、谷口が作ってるっていうのは大体わかってたみたいだけど。

黒田:谷口、桜井って仲よかったんじゃないですかね(笑)。

安永:いやいや。

黒田:そうではない? そのときは違うんですか。

安永:昔は仲間だったんだろうけど、いや、よくわからん。

黒田:誰が作家を決めたかってこと。

安永:誰がってのはわからず仕舞。全部が全部納得する人選ではなかったんじゃないかな。僕も、今にして思えば、こんな人も入ってたのかって思うんだ。で、それに尾野くんがちょこちょこ横から口入れて、追加したり何かしたような感じがするな。だから、郷土じゃなくて、日本作家の分野は尾野くんのあれが、随分入っている。

黒田:当時の全国的に代表的な現代美術作家が結構入ってます。日本画の人とかもいますけど。(福岡以外の)現代美術系作家の選考は、谷口さんというより尾野さんがやったのでは。

安永:うん。尾野くんの意見が随分入ってるような気がするな。

黒田:結構、当時の(代表的な)現代美術とか入ってる。

安永:尾野くんから相談受けたことはないけど。

黒田:そうなんですか。

安永:うん。尾野くんが谷口さんとごちょごちょやり合ってたから。

黒田:じゃあ、多少は学芸員が選考に関与したってことになりますかね。

安永:うん。僕は課長じゃなかったし、まだ。

黒田:いや、だから安永さんだけでなく。

安永:ああ、多少、選考にね。でもそれは日本の作家の分野で。要するに郷土とは関係ない部分での関与しかないんじゃないかな。僕は地元作家に関して、一言ももの言ったことはないし。

中嶋:でも、委員には作家が入ってるんですよね。

安永:うん。だから、その委員会の委員は全部、作家ですよ。

中嶋:ここに出展してる作家も入ってる?

安永:地元は全部入ってますよ。

黒田:だったかな。

安永:地元は全部入ってる。

中嶋:そうですよね。

安永:ただ、九州も各県から何人も選んだわけじゃなくて、各県から1人か2人だから。

黒田:そうなんだ。

安永:うん。自分と自分の範囲内ぐらいじゃないかな、福岡以外は。問題は福岡だ。福岡がたくさん入ってて、それがもう、いまいち、どういう基準で選んだのかよくわからない部分があるんですよね。

黒田:結局じゃあ、公式に誰が選んだかとかっていう回答はしてないということですか。

安永:それはいまだにしてない。その時はもう、田中幸人さん(注:当時、毎日新聞記者)も随分追求したけど。青木さんにも少し言った。青木さんの意見も入ってるだろうと。誰が選んだか、なぜあいつが選ばれて俺が選ばれてないのかとか、すったもんだして。結局、選ばれても出品しなかったり。桜井さんなんかも変なもん出したり。とにかく足並みがそろわずに、その頃、地元の作家とこの実行委員会の主要メンバーと何遍も会議をやりましたけど、毎回、もの別れでけんけんがくがく。けんか別れもいいところで。

黒田:結局、その日本の作家選考会では、結局いろいろ議論があったにしても、ほぼその委員が出したとおりになってるわけですか。

安永:そのとおりになってる。

黒田:なってるんですか。何かそれは、批判されたりいろいろ……

安永:いや、クレームがついたからと言って変更になったのはひとつもないな。

黒田:ただ実際には結構おかしくて、〈九州派〉の人とか、結構前衛作家系が出てるけど、その中には多分オチ(オサム)さんも、桜井さんは何か出したんでしょうね。

安永:桜井さんは何か出したよ。変なもん。

黒田:(笑)オチさんは覚えてます?

安永:オチさんは何だっけかな。

黒田:名前は(図録に)出てるんですけど。

安永:うん。オチさんも何か変なもん出した。

黒田:(笑)実は何を出品したかの記録がありません、(写真を調べても)わからなかったんです。これへの批判っていうのがひとつは、選考にかかわる問題ですけど、もうひとつ別の……要するに針生一郎とかも絡んだ反対運動があったんじゃなかったでしたか……

安永:いや、針生一郎(が関わっていたこと)は知らない。

黒田:そうですか。このことは針生さんも書いているんですが。要するに、これは大東亜共栄圏の再来であって、日本がアジアに進出し支配する……

安永:それは、われわれを含めてアジア美術展実行委員会とか、その地元の反対派との集会でもよく出た発言だ。大東亜共栄圏の再来であるというのは、よく言われた。だから、昔は武器を取って、武器でアジアを服従させたけど、今度はおまえたちは、札びらを見せびらかしてアジアを服従させるのかとか何とかってね。武器は違うけど、精神は一緒だとかって言われて。

黒田:それは桜井さんじゃなくて別の人が言ってたんですか。

安永:いや、桜井さんたち一派の発言っていうか。小山正(画家)くんなんかもそんなこと言ってたけど。大体、あの人たち、反対をしてた人たちの発言趣旨はそういう感じだったな。当時は、こっちも予算もあったし。日本人が、金持ちぶって、金を見せびらかして、アジアのアーティストなんかを買収しようとしてる、踊らせようとしてるとか。それがアジア美術展に反対する趣旨で。(しかし)それが本流ではなくて、やっぱり最後は、なぜこういう人が選ばれたのか、なぜ俺が選ばれなかったのかというところに行きつく。みんな、あの頃はアジア美術展に出すっていえば、非常に大事なことに思っていたみたいだしね。

黒田:要するにアジア美術展ってのは、地元の作家にとって福岡市最初の大型美術展なわけですよ。

中嶋:ああ、そうでもあった。

黒田:最初の美術館ですよ。

安永:本格的な美術館ができて、その最初の展覧会に自分たちが最初に招待されるかされないかっての、非常に大きな問題だったんじゃないかな。

黒田:でも、これとは別に、たとえば「九州・現代美術の動向展」(1967年から71年まで福岡県文化会館で開かれた福岡の現代美術系作家のグループ展)とかあれば、そちらに出せるけど、福岡市美開館の頃はアジア展しかないわけだから、アジア展に出すしかないわけですよ。だから、かなり死活問題っていうか、とても大事な問題だったんじゃないかと思うんですけど。

中嶋:でも、オチさんも桜井さんも、図版ないですね、このカタログには。

黒田:ないですね。

安永:うん、ないでしょ。

安永:何か変なの出して、図録に写真なんか載せられないような……

黒田:その場で何か新しいものを、展覧会にあわせて作ったんじゃないですか。

安永:そうだった。

中嶋:じゃあ、出すことは出したんですね。

安永:出すことは出してくれた。最初は出さないって言ってたんだけど、われわれはもう、頼み込んだ。せっかく選ばれたんだから出してくださいって言ったら、よし、わかったって言って。で、最後は変な、お茶を濁すっていうか、参加したということだけを表すようなものを展示して。で、もう一遍も見にも来んで、という感じでしたね。

黒田:あと、作家ではなくて一般観客。一般市民とかマスコミとかの反応とかはどうですか。

安永:いや、これも惨憺たるものでしたね。福岡で待ちに待った、本格的な待望の美術館ができるっていうんで、みんな期待してたんだけど、開館記念がアジア美術展となった。第1部は日本と中国とインドで、なかでも日本の近代100年をたどった作品が結構代表的なものを出品したんで、それを見に来るという感じで、これは比較的入館者が多かった。8万6千ぐらい来たのかな(注:正確には89,194人)。でも本当は20万ぐらい来るんじゃないかという期待が我々にはあって、図録もたくさん刷ったんだけど、もう全然売れなくて。当て外れもいいとこなんですけど。当時、5年ぐらい前に北九州市立美術館が開館をして、その開館記念で漢唐壁画展っていう、中国の漢唐の時代に描かれた壁画の模写、レプリカの展覧会をやったんだ(注:「中華人民共和国漢唐壁画展」、1974年11月3日〜12月1日)。これが12万とか13万とかのお客さんが入ったんですよね(注:122,248人)。北九州市立美術館も待望の美術館でもあったんで。それよりも福岡市美術館は入るだろうというんで、20万ぐらいの予測をして図録もたくさん作ったら、1部は8万6千で、2部は5万なんぼ。5万は切ったかもしれない、4万8千ぐらいだったかもしれないけど(注:40,554人)。とにかく、当てはずれもいいところで、全然入んなくて。西日本新聞が共催だったから、西日本新聞は一生懸命紙面に書いてくれて、随分もう、異例とも言えるぐらいの取り組みしてくれたんだけど、お客さんは入んなかったですね、本当。それ以来、アジア美術展の第2回展(注:「第2回アジア美術展」、1985年11月2日〜12月1日)、第3回展(注:「福岡市美術館開館10周年記念 第3回アジア美術展―日常のなかの象徴性」、1989年7月6日〜8月13日)、第4回展(注:「福岡市美術館開館15周年記念 第4回アジア美術展―時代を見つめる眼」、1994年9月10日〜10月16日)とやったけど、どれもみんな、一生懸命頑張った割には、入館者は大したことなかった。ここの第1回トリエンナーレ(注:開館記念展「第1回福岡アジア美術トリエンナーレ1999(第5回アジア美術展)」、1999年3月6日〜6月6日)は何人だったんだっけ。

黒田:5万6千とか(注:57,630人)。

安永:5万、確かそんなもんだよね。だからアジアはなかなか、集客という点では苦戦しますよね。

黒田:市美時代のアジア展でもやっぱり、1回2万いったやつとか、2万、3万までいかなかったと思いますよね。やっぱ1万か2万台じゃ、多くても2万台じゃなかったかな。違ったかな(注:第2回展33,627人、第3回展17,891人、第4回展23,192人 第2・3回展は福岡市美術館年報に、第4回展は福岡市美術館ニュース『エスプラナード』1994年11月号の記事による)。

安永:第4回はよかったんじゃないの。第4回が、一番アジアがわーわーいってた頃。

黒田:あと、79年展と80年展について、福岡以外から全国、あるいは海外からの評価とか反応とか、覚えてますか。

安永:いや、僕、その頃あんまりそういうこと気にしてなかったんだけど。

黒田:(笑)

安永:少なくとも、外部からの評価のほうが、地元の評価よりよかったんじゃないかな。

黒田:それって今と一緒ですか、とかって(笑)。

安永:うん。たとえばあれ、誰だっけ。バングラデシュ・ビエンナーレ、あなたに行ってもらったバングラデシュ・ビエンナーレの前のバングラデシュ・ビエンナーレ(注:1981年、当時は「バングラデシュ・アジア美術展Asian Art Bangladesh」だが、のちビエンナーレ化してこれが第1回展とされる)にコミッショナーで行った瀬木(慎一)さんだったかな。で、彼がバングラデシュにいた時に、アジアのいろんな代表の人たちと話したら、福岡のことが話題になって。福岡が非常にすばらしい試みをやっているという。で、そのために日本の株が上がったっていうか、自分の立場が非常によくなったということを、感謝してるみたいな新聞記事を書いてくれた(瀬木慎一「福岡展は日本の面目 バングラデシュのアジア美術展を見て」、西日本新聞、1981年2月17日)。

黒田:そうなんですね。瀬木さんじゃないかな。

中嶋:瀬木さんですね。

黒田:うん。最初の(バングラデシュ・ビエンナーレ日本作家の)コミッショナー。

安永:それで、外部でこういう評価をしてくれる人がいてくれるんだなと思って、うれしかった覚えがある。とにかく、アジアの国々はもちろん、すごく評価してくれたし、日本の中でもやっぱり、東京とか大阪とか、外部での人たちはすごく評価してくれたんじゃないかな。アジア美術展のたびに購入していた作品が結構たまって、「アジア・コレクション」なんていうことになって、いろんなところで注目をされるようになったのも、地元からではなくて、外部の人が注目して、各地の美術館で展覧会をやったりして、それが地元に反映してきてるみたいな、そういうところがあるよね。だから福岡の人はほとんど評価してないんじゃないかと思う。福岡アジア美術館がやってる活動なんかも、福岡の人たちは正当に評価してくれてんのかなと思ったりするんだけどね。

黒田:あと、その流れで大事なのは、その最初の79・80(年のアジア展)ぐらいに対する行政、福岡市の評価っていうのがどういったものだったか。

安永:そうそう。それはもうひどいもんでしたよ。

黒田:そうですか(笑)。

安永:第1回展(アジア美術展)は第1部と2部に分かれてたけど、とにかく第1回展は、それは開館記念だし、進藤市長もぜひやりなさいって言ってたんだから、それは行政として支援しましょう、やっていいですよって。でも第2回展を実現するまでが大変だった。第1回展やったときに、アジア各国の代表者が来て口々に、こんなすばらしいことができるのは福岡しかないと言う。日本の中でも特に福岡しかできない。だから、ぜひこういう試みは、これからも続けてもらいたいっていう。代表者がみんなワン・ミニッツ・スピーチか何かして、しゃべる機会を作ったら、もうみんな立ってきて、そういう話をした。で、これはもう、「福岡スピリット」って彼らは言ったんだけど、こんなにすばらしい精神を持ってる福岡は大変称賛するし、ぜひこれは続けてもらいたい。まあ、毎年っていうわけにはいかないだろうけれども、せめて3年に一遍ぐらいやろうじゃありませんか、われわれも全面的に協力します。極端なことを言う人は、アジア美術連盟みたいな、今度展覧会に参加してる各国の代表者が寄り集まった、要するに委員会を作って、その事務局を福岡市美術館におきましょうっていうようなことを言ってる人もいて。この福岡市美術館を基点にしてアジアの現代美術をどんどん発展させていきたいという、そういう気持ちは随分みんなにあって。で、それがやっぱり、僕も関係した一人として、あるいは市長も、それはいいと感動していた。第2部会長だった青木(秀)さんなんかも、これはぜひ、こういう意見があるんだから、せめて3年に一遍ぐらいはやるような、トリエンナーレみたいなかたちでやることをしようじゃないかっていうことで、僕もそういう意見を受けて、その翌年から予算の要求を始めたんだけど、もう全然ダメ。そんな、お客さんも入らない、みんな関心もないもの、そんなもんやる必要ないとか、お金が。まあ、当時はやっぱり、ひとつのアジア美術展に、1億(円)はかかりましたからね。だから1億っていう予算は、そんな簡単には出せませんよって財政はいう。で、もう、すったもんだ、予算の要求のために。僕が課長だったから予算要求のたびに折衝に行くんだけど、なかなかわかってくれなくて。で、もう、トリエンナーレと思ってたから、それで80年にやって、83年にぜひやりたいと言って、83年を目指して随分やったんだけど、結局予算がつかなくて。で、84年だったかな、アジア……

黒田:(「アジア絵画との出会い」展の小冊子をさがしている)

安永:薄い冊子だからわかんないけど。

黒田:あ、これだ。これですね。

安永:うん、これこれ(注:「アジア絵画との出会い : 伝統と現代を考える 福岡市美術館開館5周年記念展」(1984年10月24日〜11月18日)小冊子を見ながら)。これは苦心の策ですよ、もう。アジア美術展ができないから代わりにこれをやろうっていうんで。

中嶋:それは83年ですか。

安永:これは福岡市美術館開館5周年記念。これは、アジア系の4つの展覧会を合体して、こういう「アジア絵画との出会い」という展覧会をやって、とにかく財政にアピールしようと。

中嶋:84年。(第2回)アジア美術展の前ですね。

安永:うん、第2回展の前ですね。
黒田   そうですね。この翌年に(第2回)アジア展ですよね。よく考えたら……(笑)これ、準備期間あまりなかったのかと。これ84でしょ。これ(第2回アジア美術展が)85ですからね。

安永:そうだよね。これがもう、苦心の策で。基本になったのは、(国際)交流基金(と毎日新聞社)がやってたインド。

黒田:ええ。巡回してたやつですよね。

安永:うん。インド現代美術展っていう。これ巡回展だったから、これをまず受けましょうっていって受けて。それから、(新潟の)ミティラー美術館にインドの(民俗絵画の)コレクションがあるっていうのと、それから、神奈川県立近代美術館が持ってる中国近現代木版画をわざわざ借りに行って、貸してもらって。そしたら何か、中国蘇州の年画展をどっかでやってるっていうんで(注:「中国蘇州年画展」、国際交流基金主催で、1984年3月〜11月に福岡の前に5会場巡回)、それも持ってきて4つのアジア並びっていうか、中国と日本と、インドの3カ国の展覧会をやった。もう全館使ったかな、あのときは。

黒田:じゃなかったかな。

安永:ね。全館使ったんじゃないかな。

黒田:じゃないかな。常設以外の。

安永:(特別展示室)A・Bだけかな。全館使ったような気がするけど……。

黒田:ひょっとすると、市民ギャラリーも使ったりしましたかね。

安永:市民ギャラリーも使ったっけ。

黒田:(小冊子を見て)いや、使ってない。A・Bだけでしたね。

安永:A・Bだけ?

黒田:でも、A・Bって(作品が全部)入るかな。

安永:入ったのかもしれないね。

黒田:かなりきつきつだったんじゃないか(笑)。

安永:中国の蘇州年画展はBだけだ。

黒田:版画は小さいからね。

中嶋:(アジア美術展に)予算がなかなかつかなかったのは、お客が入らないっていう理由だったんでしょうか。

安永:そうですね、ずっと。だから、アジア美術展に対しては冷たかったですね、進藤市長が引退されたあとは、特に冷たかったな。

中嶋:進藤市長、もういらっしゃらなかったんですよね(注:在任は1986年11月8日まで)。

安永:うん。で、桑原(敬一)市長になって、あの市長もアジアには最初はあんまり理解なかったな。で、第2回目をこうやってアピールして、とにかく、何とか前回の開催から5年後の、1985年に開催できた。開館6周年。で、そのときに5のつく数字の5周年、10週年、15周年という周年事業でやっていきましょうという話を財政にしたら、まあ、それぐらいだったらいいでしょうということになったの。

黒田:そうだったんですね。

安永:それで第3回も……

黒田:第3は89年。あれは(アジア太平洋)博覧会に合わせたから。

安永:博覧会だな、そっかそっか。とにかく、何とか第2回展ができたんですよね。第2回ができたということは、非常に大きいですよね。継続をするというひとつのレールが敷かれたということで。これができてなかったらもう、できてないですね、あれは。

黒田:第2回だって大してお客さんは入ってないと思うけど、やっぱりそういう周年事業で5年おきくらいだとしたら、次の第3回が何年にあるよとか、そのときはある程度、予算はすんなりとおったとか。

安永:いや、すんなりじゃなかったな。だいぶすったもんだして、結局、こちらが要求した額よりは削られてついたんじゃなかったかな。

黒田:でも、ついたわけですね。

安永:うん。それは第3回もそうですよね。担当助役から「予算はいくらでもつける」と言われたのに、現場サイドでは第3回ももう、本当に削られて削られて。結局予算が足りないから、それでワークショップを考えついたんだもんね、あれは。

黒田:あまり収益ないけど、このとき版画ワークショップってやってるんですよ。これが実は、のちのちの、今に続くアジ美の交流事業の原点みたいなやつなんです。

中嶋:ワークショップっていうのは、向こうの作家さんを呼んで?

安永:そうです。

黒田:制作のワークショップね。

中嶋:おもしろそうですね、版画で。

黒田:でもこれ、多分すごく大変だったと思うけど。

安永:全部の参加国から代表者を1人呼んで、1カ月、福岡に滞在してもらって。

中嶋:アーティスト・イン・レジデンスみたいな感じですか。

黒田:そうですね、ええ。

安永:うん。スタジオもみんな共同で使用して。三つぐらいスタジオを用意して。とにかく、各国に代表的な版画家を1人派遣してくれと頼んで。で、アジアからの13名と日本の作家5名の合計18名。で、たとえば福岡市美術館にも当時版画工房がありましたし、それから九州芸術工科大学も。

黒田:九州産業大学のほうでなく芸工大のほうのですか。

安永:あそこの版画工房はすごい充実してて。それに九州産業大学。ここもまた、すごい充実してる工房で、頼み込んで、そこで作業をしたりするんです。1カ月滞在して、その間に作品を一点作ってもらって、100部プリントするということにして。で、100セット作ったんですね、18点組の。その時、その作業のお手伝いに、東京芸大の当時の版画教室にいた学生さんたち、ドクターもマスターも含めて、それと多摩美かな。多摩美の人が3、4人来たのかな。とにかく、マンツーマンでやろうっていうんで、アジアの人は13名だから、13人呼んで、全部福岡で1カ月間滞在してもらって、アシスタントでやってもらったんですよね。そのとき、アシスタントをやってくれた芸大の学生さんの中でも、今一流の版画家になってる方、何人かいますけどね。で、とにかくそうやって、ヒイヒイいって版画を作って。で、最後にできあがったものを、1冊のポートフォリオにして。こんな大版のポートフォリオ。で、35万円の値段をつけたのかな。いろいろな経費を加算して、35万だったらペイするだろうっていうんで。35万の値段をつけて、100セット作って。そのうちの50セットは各作家と参加国に寄贈した。残りの50セットだけ販売しようっていうことで、僕が行商人になって、全国の美術館に売って回った。

黒田:さっきそういう話(山一證券時代の営業)を聞いたような気が(笑)。

安永:結構、美術館は買ってくれてね。で、完売したんですね。完売したんで、それで収益が随分上がって、何とか予算不足をカバーしたんですね。

中嶋:美術館以外にも買ったところっていうのは。

安永:僕もいろいろ声かけて、個人で買ってくれた人が10人ぐらいいるかな。10人ぐらいいますよ。当時の教育長とかね。

黒田:(笑)

安永:35万だから、しかも、作品もみんな、割といいものだし。

中嶋:でも、このワークショップをおこなうだけでかなりお金がかかりそうですけども。

安永:うん、作家の招待旅費だとか……

中嶋:滞在費と……

安永:印刷経費だとか、タトウを作る費用とか。

黒田:タトウ、立派なやつ。

安永:随分かかりましたけど。35万で50部売って、全部それが売れたんで、1800万ぐらい収益があったのかな。そうすると、かかった経費はそれの半分以下だったような気がするな。僕はちょっと、粗々のことしか覚えてないけど。

黒田:じゃあ、かなりプラスが出たということなんですね。

安永:うん。かなり、当時の美術館の経理担当だった稲富くんが喜んだんですよ。よかった、これでもう、何とか収支が辻褄が合うようになりましたって言って。

中嶋:すごくいい企画だったんですね。

安永:そうですね。そのあとはもう、そういうことをやってないからですね。今やってもおもしろいかなと思うんだけど。

黒田:第3回展の、それ以前との大きな違いってのは、ひとつつはこのワークショップなんですよ。要するに、シンポジウムをやめた。シンポジウムにすごい金かるけれど、あんまりおもしろくなかったから、2回もやったからもういいやって感じで。それともうひとつは、安永さんがどこまで覚えてるかわかりませんが、この第3回展の前に、学芸課内真っ二つに分かれた大激論があったのを、どんなふうに記憶されていますか。

安永:テーマの問題?

黒田:第3回展をやるときに、第2回と違うことをやろうということで、僕はかなり覚えていて、資料もあるんだけど。学芸課が真っ二つ……

安永:第2回、第3回がテーマ作るようになったのか。いや、違うか。第2回テーマはなかった。

黒田:それもそうなんだけど、先ほど出た最初のアジア展のときと大転換する、要するに作家をこちらで選ぼうということ。後小路さんが係長になって、その下に僕ともう1人、都築(現・岩永)悦子さんっていて。それで、87年に既に後小路さんがロベルト・フェレオ展っていうフィリピンの作家の個展を始めてたのね。で、その流れもあって、あとそれから、いろいろ流れあるんですけど。とにかく、次の第3回展は新しいやり方をしようというのに……

安永:それは覚えてますよ。

黒田:それに対して当時は安永課長で……

安永:もう課長だった。

黒田:もう課長以上、課長だったか、部長、もっと上だったかもしらんけど。それに猛反対されたんですよね。

安永:ふーん。

黒田:あ、あんまり覚えてないですか(笑)。そうですか(笑)。

安永:いや、それは、(福岡側で)選ぼうっていう話は覚えてるし、そのときになぜ反対したのかはちょっと、僕もいまいち覚えてないけど。まあ、何にしても、じゃあそこまで選ぶだけの力がこっちにあるのかっていうのが、僕は疑問だったんだよね。

黒田:ええ、その話、それもあったと思いますよ。

中嶋:そのときにはもう、後小路さんとか、その世代によって研究が蓄積されていたっていう感じですか。

安永:そうそう。

黒田:研究っていうとなんか違うけれど。

安永:とにかく、僕はそういう議論が起こったときに、怒ったり、あるいは弾圧しようとかっていうようなことじゃなくて、やっと若い人が、このアジア美術展に関心を持ってきてくれたんだなっていうのがわかって、すごくうれしかった覚えがあるんですよ。

黒田:そうですか(笑)。全然私の理解とちがうんですが……

安永:うん。だってそれまで、誰もしない。俺だけだよ、一生懸命にやってたのは。第1回展もそうだし、第2回展もそうだったけど。みんな、決まったからやりますぐらいの感じで、何の興味もないしっていう顔していた。

黒田:主体性もないという。

安永:うん。だからもう、僕は一人でやらざるを得ないみたいなところがあったりしてやったんだけど、第3回展のときにそうやって、選ぼうとか、もっと刷新しようとか、そう少しレベルの高いものを目指そうとか、いろいろ、若い人たちがいろいろ意見を言い始めて、ああ、やっと彼らがアジア美術展に関心を持つようになったんだなっていうことがわかって嬉しかった。特に後小路くんを中心としてそういう意見が次々と出てきて。で、そこからテーマの話になったりしたんで。それは僕も、そうなったら彼らに任す以外にないなっていう感じがあって。特に第4回展のときは作家が来ていろいろやったよね。

黒田:ええ。

安永:ね。

黒田:まあ、当時ワークショップでしたけどね。今だったら短期滞在制作。今、アジ美的にいったら交流プログラムとか。だから、確かに第3回展くらいから後小路さんがかなり、コンセプト、方向作りするようになったって感じはあって、僕がその係だったから、割とその方向に、そっち側にいったんだけど。

安永:そうそう。後小路くんとあなたが、もう。だから僕はもう、そのワークショップのほうに専念するだけのスペースもあったっていうか。

黒田:第3回展の?

安永:第3回展はね。

中嶋:第3回展の前に後小路さん、あ、後小路さんは最初からいらっしゃるんですもんね。

安永:そう。後小路くんと帯金くんっていうのがいて、帯金くんが辞めて朝日新聞に移ったあとに黒田くんが入ったんです。

黒田:そうです、その年に。だから、帯金さん、84に出たんだと思います。

安永:交代で入ったんじゃない。

黒田:僕は85から。

安永:だから、第3回からかかわったのか。

黒田:かかわったといったら第3回です。ただ、仕事は第2回にも、ちょっとしてます。すごい単純な作業しかしてない(笑)。

中嶋:じゃあ、この頃からもう、(アジア美術展は)美術館の事業として定着していった感じ……

安永:そうですね。第2回をやってから、第3回もある、第4回もあるって。

黒田:でも、たとえば、後小路さんはそうやって、すごく主体的な行動してたんだけど、結構、当初のメンバー、尾野さんは割と早く辞めてしまったし、帯金さんは途中から朝日新聞に行っちゃって、東京行っちゃってるし。安永さんはやっぱり、柴田(勝則)さんと割とよくこういう(アジア展の)仕事してたっていう感じですかね。

安永:柴田くんはある程度頼りにしながら、僕はやってたな。彼は割と僕の意をくんで、手足になってやってくれたりしたんだけど。だから柴田くんに僕は、ある意味じゃ期待もしとったんだけど。僕がインドに行ったとき一緒に行って、彼がいろいろ手足になって動いてくれたしね。非常に働きもんで、よく気もつくし。彼が辞めたのは残念だった。

黒田:ちなみに、第4回アジア展とかその辺になってく途中で、国際交流基金っていうのが、福岡のアジア展にかかわっていたわけですよね。どんなかかわりが?

安永:それは、僕はあんまり詳しくないんだよね。後小路くんが、国際交流基金は一手に引き受けてくれてる感じがして。後(小路)くんがやってることを国際交流基金が助けてる、あるいは逆になってるか知らんけど。国際交流基金は後(小路)くんというイメージが強い。僕が最初に国際交流基金に行ったときは、もうとにかく補助金もらいに最初に行って。

黒田:そうですよね、補助金もらってますよね。

安永:特に、あの頃は井関(正昭)さんなんていうのがいて、僕も旧知の人に接したもんだから、井関さんを頼って。事業部にいたのかな。それで、今度アジア美術展をやるのにお金足りないから補助金出してくださいって頼んだら、こんな、本当は国がやらなきゃいけないようなことを一地方美術館がやってくれるのはありがたい、満額出せるように頑張りますと言って、最初1000万円くれたんですよ、満額。国際交流基金の補助金として。第1回目展の時。

黒田:80年ってことですかね。

安永:80年。第2回展も1000万くれたように思いますね。

黒田:割と、その割には基金って、(第2、3回展では)単なる「後援」って書いてありますけどね。

安永:そうね。

黒田:これ、おかしいよね。普通だったら、今だったらこういう書き方しないよね。今だったら助成とか、そう書くことですよね(第4回展では「助成」)。

安永:うん。その頃はあんまり助成とか何とか……

黒田:あまりそういうのはなかったんですかね。

中嶋:基金は興味持ってたんですね。

安永:要するに、国際交流基金は、どちらかというと、アジアに対しての関心が強かったんですよね。だから、ある時期はアジアからの展覧会もたくさんこっちで引き受けたりしたんだけど。ある時期から向こうからくる展覧会の受け入れは、今はなくなってきてますよね。逆に、日本から随分出してるんでしょ、アジアのほうに。まあ、こちらは知らないけど。

黒田:ええ。

安永:昔はだから、そうじゃなかったから。留学生もたくさんアジアから来てましたし、アジアへの留学生もたくさん行ってたし。いろんなアジアの国々に、国際交流基金のブランチを増やしていってた時代でもあるから。国際交流基金は非常に援助してくれたんですけど。そのほかのことに関しては、国際交流基金の事業については後(小路)くんが一手に引き受けていたんじゃないかな。

黒田:そうか。じゃあ基金が自主的に、要するにサポートじゃなくて、自主的にアジアの仕事をするっていうのもずっとあとで、それも後小路さんがメインでやったりして。

安永:特に、何だっけ。中村さんたちと一緒に調査に行った。

黒田:中村英樹と谷新。

安永:うん、谷新さん。そうそう。

黒田:92年に……(「美術前線北上中 東南アジアのニュー・アート」展図録をみながら)

安永:それが最初じゃないかな。後くんが国際交流基金と一緒に仕事したのは。確か。

中嶋:(英語の展覧会名称は)New Art from Southeast Asia(注:1992年9月29日〜10月18日)。1992年。中村英樹さんと、そうですね、後小路さんが(テキストを)書いていらっしゃいます。

安永:今いる女性の……

黒田:古市(保子)さん。

安永:うん、古市さん。あの人が国際交流基金に来てから(1989年8月)おつき合いしたのが後(小路)くんで、僕は古市さん、あとのほうでしか知らない。

黒田:そうなんですか。

安永:うん。僕はだから、南條(史生)さんとかあの辺だよね、国際交流基金。南條さんとは、国際交流基金時代(1978〜86年)からおつき合いがあったり。

黒田:それ、何の仕事でしょうか。

安永:やっぱり、事業部にいたんですよ。南條さん、国際交流基金の。

黒田:でも、そのときはまだアジアの仕事とかしてないですよね。

安永:いや、アジアのことはやっていたはずだよ。でも、アジア美術展、助成や何かの関係をしてたんじゃないかな。僕が行ったのも、基本的にはすべて国際交流基金からの助成を貰うためにしか行ってないから。窓口に南條さんがいて、わかりましたとか言って。他に第2回展が、韓国の(果川に)開館したばかりの国立現代美術館に巡回した時(注:1986年8月26日〜12月25日)、そのお世話も南條さんがやってくれた。

黒田:そうか、それは当然。井関さんって基金の……

安永:井関さん。今、(東京都)庭園美術館の館長してる、あの井関さん。あの井関さんが国際交流基金の事業部課長か何かだったかな。僕が最初に行った頃は。もちろん、前からちょっとは知ってたんだけど。

(休憩)


安永:要するに、アジア美術館っていう構想も、割と早くからあったんだよね。福岡市美術館がアジア・コレクションとして、あるいはアジアの現代美術との取り組みとして有名になってくるにつれてコレクションも少しずつ増え始めたのに、展示する場がないっていうか、ときどきしか展示してないっていうか、そういうふうなこともあって。何かそういう、別館みたいなものが必要だなっていう話が前からあって。で、福岡市美術館の北側に、ちょっと広場があって。最初はそこに別館を建てようじゃないかということで、話が起こったんですよね。で、実際に別館を作るとすればっていうんで、仮の図面も引いてみたりなんかしたりしたんだけど。で、委員会も作って。1500平方メートルか2000平方メートルぐらいの、ちょっと小ぶりのアジアギャラリーっていうか、アジア特別ギャラリーっていうのか。そういうもので最初はスタートしたいということで始めたんだけど。実際は県から借りてる土地だから、県のほうに話しにいったら、もう、真っ向からだめと言われた。それは、土地は貸してますけど、上に建物建てちゃ困ります。もうこれ以上建蔽率を増やさないでくださいって言われて。公園は建蔽率の問題が常にあって、絶対に許可できませんって言われて、もう、だめ。で、北側じゃなくて、今度は南側に少し振って、もう一回図面を描き直してみましょうっていって、南側に振って。これだったら建て増しにはならない、美術館の今借りてるエリアの範囲内でやれるんだからっていうんで、図面を描いたことがあるんですよ。それも前川さんに頼んで。そして、それを市長に説明に行ったら市長が、始めは、そうか、そういう手があったかって言って、いいよって言ったけど、一晩考えてみたら、どうも、これができると、今度は、福岡市美術館の南側の景観が大きく損なわれて、今のよさがなくなってしまうっていうふうに思い始めたというんで、そういう電話がすぐにかかってきて、やっぱりあの案は、俺は承認しないとかっていうことになった。で、結局、その福岡市美術館周辺に建てるという案もボツになったんだよね。その後、アジア美術館を作りたいという話は、それから私は、財政のヒアリングや、あるいは教育委員会内部の意見交換会や何かの場では常に言ってたんですけど。その必要性はわかるし、建てる理由も納得できるけど、今の財政状況じゃそんなもんは無理だよって言われた。で、現在の段階で福岡市のハードを作る順番からいけば、一番ケツのほうだよ、30何番目だとかって言われて。もう、とてもじゃないけど、すごい順番待ち。東区のアイランドシティの中にでもどうかっていう話もあったりして、でもそれは、土地は何とか手当しますけど、お金は出せませんとかっていう話になって、それもだめになった。とにかく、アジア美術館として独立した建物はもう、(建設順番待ちをしている)ハードの順番から言えば30何番目で、とてもじゃないけど、いつできるかわからないっていう状態ですよって言われて、もうだめかと思ったら、ここの話が急に舞い込んできた。ここ(博多リバレイン)は実は再開発ビルですけど、これはもともと、斜め向かいに玉屋というデパートがあって。これが福岡の老舗中の老舗で、いわば、福岡の生んだデパートの最たるものなんですけど、そこが経営不振になったんで、その救済というのが裏の目的っていうか。玉屋を何とかしようというのが根っ子にあった。玉屋のほうをこっちのビルに移して、新しく新装開店をしてお客さんを呼ぼうという、そういうプランでこの再開発が始まったらしいんですね。いくつもあった小さい商店街を全部統合して、このビル建てて、で、そこに玉屋に入ってもらって、一大商業拠点にしたいと。そしたら、最後に玉屋が、いや、私たちはもう入りませんって言い出した。もう、新しく入ったところで、これから事業が好転するとは思いませんって社長が言ったみたいだけど。とにかく、せっかくのご厚意ですけども、玉屋は入りませんって言って、それで入らなくなったんですね。それでもう、いきなりプランが壊れて。急遽玉屋の代わりに、当時PARCOに声をかけたみたいなんだけど、PARCOも検討した結果、結局入りませんっていうことになった。

黒田:今(天神に)ありますけど(笑)。

安永:で、結局、空中分解して、もうどうしようもない。どうするかっていうんで、で、そういうことに詳しい、ビルの再生、ビルのそういう再開発に詳しい人に相談して、当時の責任者もいろいろ意見を言って、最後は、スーパーブランドシティということで、オープンしましょうっていうことになったのね。とにかく、いろんなスーパーブランドのお店をたくさんこの中に入れて。とにかく開館の日が決まってて、建物もできあがってるからこの案で進みましょうという話になったんだけど。しかし、それだけでは足りない。だから何か、公共の文化施設が入ってくれるとありがたいっていう話に、どうもなったみたいなんだ、その開発業者の中の意見として。当時の(福岡市の)文化部にその話がちらっときて、何かいい施設はありませんかっていう話があったらしいんですね。それを、稲富(義雄)くんって僕の古い友達、前にちょっと話した美術館の庶務課にいた人で、2度も美術館の庶務課にきた行政の人がいるんですけど、その人がたまたまその時、文化課の課長だったんだけど、僕のところに電話してきて、こういう話ですけど、何かいい文化施設はないですかね、ちょっと相談に乗ってくださいって言ってくるから、僕はピンときて。よし、この際、アジア美術館、ちょっとここで相談みようかと思って。で、稲富くんのところにいって、どうだ、このアジア美術館という案はって言ったら、いいですね、ちょっとやってみましょうかっていう話になった。それから僕は、すぐ教育長のところに行って、こういうことがあるから、ちょっと名乗りをあげようと思いますが、どうでしょうかって言ったら、いいな、やろうやろうって、教育長も二つ返事になって。で、教育長の決済で、教育委員会のプランとして財政にレールができた。僕はもちろん、市長の前でヒアリングのときに話したりなんか、いろいろしましたけど。とにかく、レールに乗るは乗ったんですね。そのあと、リバレインをオープンしなきゃいけないというのが至上命題だから、とにかくそのためには少々無理をしてもいいという、そういう空気もあって。最終的に、ここにアジア美術館を入れるということに大体決まって、担当助役も決まって。で、とにかく、あとはお金の問題。当時から福岡市は金がない、今もお金ないですけど、お金が142億かかる。ここはもともと商業ビルですから、天井もあまり高くないし、美術館仕様になってない。それで、美術館するためには3フロアぶんを2フロアで使いましょうということになって、天井高が取れないから。だから床の買い取りは3階ぶんを買い取ってるわけですね。

黒田:そうですね。

安永:だから(7階は天井が)ちょっと高くなってんだけど。その上に、いろんな美術館の特別仕様、たとえばフローリングの床であるとか、それから天井を高くしたときのいろんな空調の問題とか、家具だとか、あるいは特別にアトリウムガーデンから引っ張る階段を作ったりとか。美術館として特別に作らなきゃいけないものがいろいろあって、そういうものを全部入れて142億かな。で、もうそれが、金がなくてね。とにかくもう、わーわー財政とやり合って、最後は特別地方債か何か、財政が最後の手をひねくり出してくれたらしく、やっと決済なったんですね、作ることが決定して。で、僕はその当時、担当助役に7階とか8階とか、こんな上のほうじゃ人が来ないから1階に入れてくれって随分言ったんだけど、助役が、ここはもともと商業ビルで、商業ビルの1階に美術館なんか作ってどうするんじゃって怒られて。商業ビルの1階、2階はもう、お店の人にとって命のようなもので、そういうところに美術館なんか入れるかって言われて。せっかくアジア美術館を作ってやったんだから我慢しろとか言われて、それで7階、8階になったんですけどね。しかしとにかく、よくできましたよ。担当者、関係者みんな言いましたね。よくできたねって。アジア美術館は本当によくできたと。特に市の財政とかその辺の人たちは、よくできたなっていう話をくり返してましたね。だから、この商業ビルの中ではもう、アジア美術館は大歓迎されて。本当に今でもやっぱり、このビルの核になってますよね、このアジア美術館は。これが、やっぱりひとつの良心みたいなもので、このビルの。いろいろ苦労はありましたね。この案は議会にももちろんかかりましたから、議会でも随分言われた。ここは商業ビルの中の美術館だから、いわゆる文化財(国宝・重要文化財)指定作品は公開できないんですよね。文化庁が定める公開施設に認定されない。というのは、すぐ下が、今は違いますけど、昔はレストラン街だったんですよ。だから、火を使うフロアが下にあるような、そういう位置関係のビルの中の美術館には絶対に公開施設には適用されませんって、文化庁から言われた。僕は何度も文化庁に足を運んで、何とか公開施設としての美術館にしてもらいたいって、頭を下げにいったんだけど、どうしてもだめだった。だから、それのことをもう、議会でも随分たたかれた。その他議会でよく言われたのは、再開発の尻ぬぐいでアジア美術館はできたと言うこと。でもこれは当たっている。そのおかげと言ってもいいんです。これがなければ、アジア美術館はまだできてませんよ、きっと。また、福岡市美術館もアジア・コレクションが抜けたあと、何か独自性がなくなっちゃって、しょぼんとした感じがあるけど。今度、改修をして(注:2016年9月〜2019年3月にリニューアル休館)また生まれ変わるらしい、違うかたちになるんだろうけど。あまりにも開館以来、アジア、アジアで福岡市美術館もやってきたから、アジアの核が空然となくなってしまうと、何か、じゃあ、次に代わる特色、何か出そうと、随分会議をやったりしてきたけど、なかなかそんな簡単にはできない。

黒田:140億を使ってもうひとつ美術館を作るっていうことへの、議会からの反感はなかったんですか。

安永:そんなになかったな。

黒田:そうなんですか。

安永:それはなかった。

黒田:そうか、そういう問題じゃないのか。じゃあ、作ること自体は…….

安永:もちろん、一部の議員さん、そういうこともにおわせた反対は、もちろんあるんだけど。多くの市民の後押しはあった。大義として。

黒田:あと、この142億ってのは、国のお金とか入ってないんですか。全く、市の何かの特別な財源みたいなことなんですかね。

安永:国のお金が20億ぐらい入ってたんじゃないかな。

黒田:そうですか。

安永:こういう文化施設作る際に、国が必ず出してくれる補助金だったと思う。

黒田:そういうのがあるのかな。

安永:うん。僕もあまりお金の中身は知らないけど。

黒田:それと、割と早くからアジア美術館という考えがあったっていうんですけど、別館(の建設案が)常に市美の北とか南とかにいってたっていう話って、それ、いつぐらいの話? 何年ぐらいの話ですかね。

安永:副島さんが副館長になってからだね。

黒田:というと、ちょっと待って。

安永:何年ぐらいかな、あれ。

黒田:それって相当古いですよ。だって、僕が85年に来たときに、既に彼は副館長だったと思いますけど。

安永:副館長だった?

黒田:そこまで古くはないんじゃないかな。

安永:いや、でも、何にしても副島さんが来てから。

黒田:彼は副館長歴が長いから(注:1984〜1989年。1989〜1996年に館長)。そうか。

安永:来てから、何かアジア美術館、アジア美術館って言い始めた。

黒田:言い出したのは彼が言い出したんですか。そういうことじゃなくて?

安永:そうね。どっちかっていうと、副島さんが言い出したようなところもあるな。

黒田:そうなんですか。

安永:僕はそこまでは考えてな買ったし、とてもできるとは思ってなかった。別館ギャラリーがせいぜいですよ。

黒田:だから副島さんは、その前神奈川近美…….

安永:佐賀大学。

黒田:そうでした。神奈川いって佐賀大いって。

安永:神奈川県立近代美術館から、佐賀大学の特設美術科の教授で引き抜かれたよね。それで行ったんですよ。それで僕が副館長はどうかと言いにいって。当時、初代の副館長の財津さんが辞めたあと、次の副館長を誰にするかでいろいろ人選があって、何人かに当たって。で、みんな断られて。で、3人目が副島さん。で、僕が副島さんっていう人がいるけどって教育長に言ったら、おお、行ってこい、内々行って、ちょっと感触を探ってこいって言われて。で、会いに行った。そしたら感触よかったから、とんとん拍子に話が進んで副館長になってもらったんだけど。

黒田:そのときの館長って進藤(一馬)さんですかね。ちょっと、そもそも誰が言い出したかっていうことなんですけど。

安永:本当のことはわかんないけど。ただ、副島さんも、割とよく言ってたもんな。だから、最終的には誰が、アジア美術館って言い出したのか。少なくとも僕は言わなかった。僕はとてもできるとは思ってなかったし。せめてアジアギャラリーっていうか、美術館の隣に作るというのが僕はいいなと思ってたんで。

黒田:市美の増設みたいな感じですよね。

安永:うん。僕が一番気にしてたのが、独立した美術館を作っても、人が来るかなっていうこと。福岡市民は大体、あまりアジアに関心なさそうだし、やっぱり人が来ないんじゃないかっていうおそれがあった。独立する怖さみたいなものがあったんで、僕はあんまり積極的には発言しなかったんだけど。一遍、西日本新聞に大きく、そういう、アジア美術館構想みたいなのが出て(注:「アジア近代美術館新設 福岡市、芸術でも国際拠点に 市美術館隣接地に近く構想策定委」、西日本新聞、1992年6月26日)。

黒田:そうでしたっけ。

安永:で、市長もそういう感じの意向を受けて。桑原(敬一)市長自身にももアジア美術館を作ってもいいなっていう気持ちはあったみたいだけど。

黒田:桑原さんに?

安永:うん、桑原さん。

黒田:でも、作ってもいいな、くらいで…… 桑原さん時代に福岡市のアジア政策が急展開したわけじゃないですか。

安永:1989年のアジア太平洋博以来ね。桑原さんはどっちかっていうと、欧米志向だったと思うよ。

黒田:そうなんですか。

安永:そうそう。だからよかトピアの時だって。よかトピア自体はアジア太平洋展覧会って、アジアを視点に入れた博覧会だったけど、そのオープニング特別展はフランス美術展をやれって言ったぐらいだから。あんまりアジアには……

黒田:フランス展(注:博覧会の一部で行われた「フランス絵画の精華 ル・サロンの巨匠たち」、1989年3月17日〜5月25日、アジア太平洋博覧会テーマ館[のちの福岡市博物館])って桑原さんの意向なんですか。

安永:桑原さんの意向ですよ。フランス展っていうか、ルーブルをやりたい、桑原さんはルーブル、ルーブルって言ってたんで。

黒田:(笑)全然アジア太平洋じゃないってわけですね。

安永:ルーブル美術館も、2年がかりで行きましたよ、何度も。僕は本当に、館長に会いに。

黒田:今結果としてアジ美ができたっていうのは、博多リバレインに入れる市の施設としてアジア美術館がよかったからといういうことでしょうか。

安永:だから最初、稲富くんは、ギャラリーか何か、そういう、ちょっと人が寄りそうなギャラリーを考えていた。ポスターなどの、デザイン・ギャラリーみたいなものが構想にあるとか言ってたもんね。だからあの頃、デザイナーを支援する動きが福岡市にあって。デザイン・ギャラリーはどうですか、とかね。いくつか変わったタイプのギャラリーとかっていう発想しかなかったんだよね。

黒田:福岡市のアジア美術展が80年代から進んでいたわけで、評価もされてたんですけど、80年代後半から福岡市のアジアの交流拠点都市を目指すという政策(注:「福岡市基本構想」、1987年)はできてるんですけど。

安永:それは、よかトピア博覧会をやることになってからだもんね。

黒田:え、そうなんですか。何か逆みたいですけど。

安永:うん。どんな博覧会にするかはもちろん、最初は決まってなかったんだけど、市制100周年で博覧会をやる。特にあそこでやるっていうのは、新造成地の売り上げ促進っていうか、百道(ももち)のあそこの埋立場をいかに売るかが主眼だったわけだから。

黒田:PRとブランド化というものが。

安永:その売り上げを促進する意味も大きかったわけよね。だから、あそこで博覧会をやろうって。で、博覧会のテーマをどうするかは、それはもう、これからアジアの時代と言ってるからアジアになっただけの話で。桑原さんがアジア好きだったわけじゃないと思うよ。

黒田:そうなんだ。

安永:うん、そう思うよ。

黒田:結構衝撃的ですけど(笑)。

安永:で、まあ、アジアにして。

黒田:でももちろん、市の内部でのコンセンサスとか、経済の状況とか、それから国際的な状況とかがあったからで、市の大きな政策がないとできないですよね。

安永:それはもう、やっぱりアジアをターゲットにした博覧会の趣旨作りのときに、アジア美術展を福岡市美がやったときと同じ論法じゃないかな。福岡市の長い歴史、アジアとの交流とか。

中嶋:でももう80年代末は、アジアの現代美術に、日本だけじゃなくて欧米も関心を強めてた頃だと思うんですけども。

安永:そうでしょうね。何にしても21世紀はアジアの時代と言われた頃の、いわゆる真っ盛りですよね、1990年とかいう頃は。

中嶋:そういう風潮が後押しになったということは、特には?

安永:それはあると思いますね。だから、これからアジアの時代を迎えるという、そういう時勢も読んでアジア太平洋博覧会にしたということはあると思うんですけど。実際はもう、オープンしてみると、最初、入りが悪くてなかなか大変だったんですよ。で、途中でいろいろ手をつくして、で、入場者数860万人かな、大成功を収めたんですけど。最初は入りが悪くてね。もう、市長が頭にきて尻引っぱたいて、大変だった。

中嶋:そうなんですか。

黒田:だから、その博覧会のあとに、アジ美よりも早く…….

安永:その博覧会のときに、市長から僕、呼ばれてね。今度、その博覧会をアジア太平洋博覧会っていう名前にするんで、おまえたちがやってるアジア美術展は、これに合わせてぜひやれって言われてね。ぜひ、これに合わせてやれって言われて、金はいくらでもつけるとか言われてね。もう様変わりで、びっくりしたよ、本当。それで本当は1990年にやる予定だった第3回展の開催を1年前倒しにしたんだ。

黒田:まあ、バブルですね。

安永:で、僕もこの頃、そのよかトピアに向けて、いろいろシンポジウムとかワークショップとかが次々とあったんだけど、僕はよく引っ張り出されてね。アジアへの先見性とか何とかいってね。福岡市美術館のアジアへの先見的な取り組みを評価すべきであるとか何とか言って、話をしろとかね。アジアの美術の話をしろとか。とにかくよかトピアに引っかけて、僕は随分あちこちから呼ばれて、同じような話をしましたよ。

黒田:あちこちとは日本各地って意味ですか。それとも福岡で?

安永:いやいや、福岡市で。

黒田:それはそうか。

安永:福岡市でやるシンポジウムとか、そういうものね。

中嶋:じゃあ、それまでの取り組みが評価される方向に向いていったという。

安永:そうなんですね。だからアジアっていったっら、あら、福岡市の施設の中でアジアに早くから注目してるのがあるなって。福岡市美術館、もう20年も前からやってんのか、といって。で、何かみんな、特に東京や大阪から来た、その関係の評論家みたいな、そういう人たちが、福岡市美術館はそんな早い時期からアジアの取り組みやってる、すごいですねとか言って、評価してくれたみたい。で、福岡アジア文化賞なんていうのも、よかトピアの益金で誕生したんだけど、そのときの委員長、矢野(暢)さんなんていうのは、僕をすごく評価してくれて。で、そんな早い時期からアジアに取り組んでる人間は、福岡ではあいつしかいないとか言って。で、僕はそのアジア美術賞の選考委員に、矢野さんが推したっていうんですよね。その他の選考委員の先生方は錚々たる人達で、僕みたいな兵隊みたいなのが行っても本当おかしいんだけど。そういう、外部の人が、よかトピアの時代になって、ああ、福岡市美術館は早い時期にすごいことやったなっていう、そういう評価をしてくれるようになったみたいだな。

黒田:アジア美術展の、特に第4回展が、東京の世田谷とかに巡回して、そのときにすごい注目されたって感じなんですけど(注:第4回アジア美術展は、箱根・彫刻の森美術館[1995年1月1日〜2月12日]、秋田県総合生活文化会館[2月17日〜3月21日]、世田谷美術館[4月5日〜5月14日]に巡回)、そういう全国的な評価が、アジア美術館の後押しをしたという感じはあります? 福岡からの評価のほうがメインだったのか、あるいは、海外からとか、東京の評論家とかがアジア展を評価したことが、アジア美術館を進めるように貢献をしたのかどうか。

安永:まあ、そうね。そのへんは何とも言えんな。ただ、今の状況で言えば、やっぱりアジアにおける福岡アジア美術館の評価っていうのは、すごいものがあるもんね、やっぱりね。僕はアジア各国を知ってるわけじゃなくて、僕は最近中国によく行くから、中国はよくわかるんだけど。中国ではもう、福岡アジア美術館は絶対的な人気だもんね。すごく評価してて。とにかく福岡アジア美術館が中国の現代美術のああいう代表的な作品を早い時期から収集してるっていうのはすごいことだって、もうみんな、評価してて。とにかく、いろんな展覧会の話が僕をとおしてくるんだけど、福岡アジア美術館でやりたいっていうわけですよ。ほかのところはどうでもいい、福岡アジア美術館で今度何かしたいっていうのが、もう圧倒的に多いんですよね。その上に、中国の人が言うには、これは中国だけじゃないですよ、アジアのみんながそう言ってますよって言うから、僕も何となく信用してるとこあんだけど。とにかく、アジアにおける福岡アジア美術館の評価はすごいんじゃないかな。僕、あなたほどあちこち行ってないから。

黒田:いえいえ。アジア美術館が開館してもう16年……

安永:になるわけよね。

黒田:ですけど、その間に、外部の人じゃなくて、福岡の人のアジア美術館の認知とか評価とかが変わったと思いますか。

安永:いや、あまり変わってないな。僕、変わってないと思う。昔から冷淡で、開館したとき冷淡で、今でも冷淡じゃないかな。

黒田:なんですよ。先ほど中嶋さんはお昼食べているとき、アジ美は海外、東京からすごく評価されてるんだよと言ったら、私も今と同じこと言わざるを得なかったです。

中嶋:全然、そういうふうに思いませんでした。私は、このアジア美術館がオープンしたときに東京にいたんですけども、やっぱり、いろいろな積み重ねと歴史の末に、福岡でアジア美術館がオープンしたんだなっていうふうに、多分関東の人はみんな思ってたと思うんですよ。非常に先進的だし、時代の流れの結果としてできて、本当にすばらしいって、みんなが思ったと思うんですよ。

安永:なぜか、地元は評価しないんだよね。

黒田:しないですね(笑)。ちょっと福岡アジア美術館だけの問題じゃなくて、福岡の文化一般の問題があるような気がするんだけど、それはまた、今日の話とは別の問題ですけど。

安永:まだやっぱり、地方っていうか。いわゆる展覧会なんかも、(アジ美は)欧米のものをうちはしないから、一切。だから、それもあるんだと思うんですよね。だから、やっぱり欧米のものをやる福岡市美術館だったり、あるいは、最近は九州国立博物館だったり、あるいは、たまには福岡市博物館だったり。あちらのほうがいいものやってるという市民の印象があるんだよね。

中嶋:あと、現代美術っていうことですかね。

黒田:要するに、やっぱ現代アートの層が圧倒的に少ないわけですよ。人口って、やっぱ北九州と合わしたら200万人とかいうけど、やっぱりそれとは、東京圏とかで桁が違うというか。東京、関東圏ってやっぱり、横浜トリエンナーレに来る関東のエリアの人って、何千万人いますかって感じなのに。

中嶋:そうですよね。

黒田:だから東京行くと、これはよく言うんだけど、ソフィ・カル(Sophie Calle)の展覧会を原美術館でやるといっぱい人が来てる。あれ、絶対福岡ではありえないって。そういう認識を僕は持ってるんですけど。アジア美術館が開館した以降に、顧問になっておられた時点まででいいんですけど、一番こういうところが成果であったとか、こういうところが足りなかったとか、何か思うことは……

安永:ああ、アジア美術館?

黒田:アジア美術館として。トリエンナーレも含めて。

安永:そうね。成果はやっぱりトリエンナーレかな。トリエンナーレの盛り上がりっていうか、工夫っていうか、力の入れ方。それはもう、最初のアジア美術展やった頃に比べりゃもう、天と地の差がある。やっぱりその工夫とか取り組みとか、あるいはその中身の充実とかいうことで言えばもう、アジア美術館の第1回トリエンナーレ以降のトリエンナーレの取り組みはやっぱり、さすがというかね。これは様変わりだと、僕は思うな。

黒田:そのほかは……

安永:あとはそうね、やっぱりアジアだけではなくて、何とか美術館としての辻褄を合わせる努力をみんながきちんとやっているというかな。それが僕は非常にうれしいというか、よかったと思うんだけど。たとえば映像だとかアニメだとか、そういう、アジアではないものもお客さんを入れるために、少し我慢してやっているというか、そういうところですね。えてして先鋭化して、アジアのもの以外はしませんって言い出すんじゃないかって、僕は思ってたんだけど。

中嶋:(笑)

安永:そうならなかったところですね。

黒田:美術館としての努力っていうのもあるんですけど、要するに金がないんでね、はっきり言って。自力でやってく金も人手もないですからね。やりたくてもやれないから。

安永:それもあるかもしれないな。

中嶋:でも、その一方で、アジア美術、アジア文化の専門家の方も学芸員でたくさん入っていらっしゃるんですよね。

安永:それはもう、すごいことじゃないですかね。

黒田:そんなに専門家いないって(笑)。

安永:われわれが「アジア美術展」をやり始めた頃は誰も専門家はいなかった。そういう意味では最初に専門家になったのは後小路くんだろうし、その次は黒田くんだろうし、さらにはラワンチャイクンさんだろうし……。僕なんか、とても専門家と言えるような状況じゃないから。そういう意味では、今の人たちはみんな専門家としてすごい力があるし、偉いですよね。

黒田:あと、私が言うと言いづらいかもしれませんけど、もう締めに近い質問なんですけど。今後、アジア美術館に、どういうことを期待されますか。

安永:そうか。うーん。今のまま、みんなの気持ちが落ちなければ、僕は今のままでも、このまま続けばいいと思ってますけどね。今の気持ちっていうか。人間はだんだん変わってきますからね。変わってくれば、それぞれの人間の考え方で違ってくるかもしれないけど。

中嶋:私からもひとつお聞きしたいですけど、アジア美術展を始められたときは、特にそれをやりたいというふうに思ったわけではなかったけれども、始めたこと。いろいろな苦難と波乱の末、ずっと続けてくることができた、その、何というか、気持ちが保たれたというのは……

黒田:モチベーションとか。そう、それ聞こうか。

安永:まあ、言い古されてはいるけど、「継続は力なり」という。

黒田:(笑)

安永:僕はやっぱり、第2回展が実現したときに、「継続は力なり」っていうこの言葉を何とか本当のものにしていきたいなという気持ちがあって。だからやっぱり、アジアっていうとどうしても欧米の美術に比べて格下に見られたり、それから、あまり評価されてなかったりして。やったにしてもほとんど単発で。たとえば僕は、別府のアジア絵画ビエンナーレというのに委員長で呼ばれて、第1回から第4回までやったんですけど。なかなかいい作品が集まって、僕は内容的には充実してたと思うんだけど、やっぱり人気がなくて続かないんですよね。第4回でもう、終わってしまって。だからそういうふうなことから言えば、アジアのものを継続してやるというのは、やっぱりある程度継続していこうという気持ちが強くないと、いつでもぽんと切られてしまう恐れがあるし、それはもう、やっぱりアジアの現代美術全体のことから考えれば、これは決していいことではない。多分僕は、これは思い込みかもしれないけど、やっぱり福岡アジア美術館がやってるトリエンナーレに参加したり、トリエンナーレに出品したりできるようになりたいとアジアの人たち、現代美術家の人たちは思っているだろうし、また、このトリエンナーレをステップにして、もう一段上の世界に羽ばたいていく人も何人も出ていることから考えれば、やっぱりアジアの人たちにとって、この福岡アジア美術館およびトリエンナーレは、ひとつの目標になっているんではないかと、僕は今、思っているんですよね。だから、それはやっぱり、福岡アジア美術館が守っていかなくてはいけない砦のひとつかなというふうには思ってますね。

黒田:それに応えないといけないみたいな。

安永:うん、応えなきゃいけない。

黒田:期待に応えるというか。

安永:うん、期待に応えなきゃいけない。

黒田:あと、何か特に、たとえば岡倉天心とか、タゴールとか、そういう、歴史上の、日本や外国でアジアの文化、思想を大事にしたいっていう考えとか、あるいはさらに言うと、反植民地、反帝国主義、反人種差別とか、気持ちの上でいいんですけど、アジアの人たちをもっと大事にするべきじゃないかとか、何かそんな感じの……

安永:アジアの人に対して?

黒田:ええ。そういうお気持ちが、何か、安永さんの中に強くあったのかどうかなんですけど。

安永:いや、そんなに、欧米に対する対抗意識とかっていうことはなかったな。それは歴史をたどれば、確かに産業革命以来の欧米の進出みたいなものがアジアにいろんな悪影響与えてたり、経済的な搾取があったり、あるいはそれが近代化を進めたりするのが歴史的な事実ではあるけども。じゃあそれに対して、アジアの人が何か劣等意識持ってたり、反感持ってたりっていうことはそれほどないような気がするな。アジアの人はもっと自由にっていうか、われわれが思っているほど、欧米に対する、侵略の影響によってこうなったということは考えてないんじゃないかな。どうだろう、僕もよくわかんないけど。もっとあっけらかんとしている印象がある。

黒田:いや、でも、それはやっぱり、いろいろな状況がありますから。あと、それに関して、アジアの人たち、アジアのアーティストとか評論家とか、美術館人から、何か日本に対する日本の歴史とか、日本の政治家に対する批判とか、そういうもの、聞いたことあります?

安永:ないな。

黒田:ないんですか。

中嶋:あ、ないんですか。

安永:うん。ないな、あんまり。

黒田:僕が何でこれを聞いたかっていうと、僕がときどき日本の人から聞かれるんですよ。そのとき、ない、と言うしかないんですよ。立場があるんで、言っちゃ悪いけど、僕たちが招待する側じゃないですか。そういう人たちに対して直接言わないかなって感じはなくはないんですけど。ただ、多分ないんじゃないかと。

安永:僕、ないな。そんなに僕は、アジアあちこち行ったわけじゃないけど、今までの経験でいっても、あんまりそういうことはないな。

黒田:私よりも多分、安永さんのほうがはるかに中国に行ってると思うんですよ。

安永:中国はね。

黒田:ええ。僕は台湾に行くほうが多いんですが、台湾って親日の人が多いから、中国がもっとはるかに反日が強いはずなんですけど。

安永:いやいや、全くないな、それは。中国は。本当に、中国も何回行ってももう、日本から来てるって言っても、反日のこと言う人は一人もいないな。それは中国人のそういうマナーなのかもしれんけど。僕は南京も行ったけど、南京だって、僕は日本人だっていうことをわかってても、別にそんなこと、ひとつもないな。いろんなとこ行ったけど、みんなやっぱり大歓迎っていうか。とても温かく迎えてくれますよ。

中嶋:美術という現場ではあんまり批判し合うよりも、まだ協力し合ったほうがいいっていう感じなんですかね。

安永:そうだね。黒田くんたちもどうしてるのか知らないけど、たとえば、いろんな所に調査に行ったって、その国の悪口は言わないよね、やっぱりね。言う?言わないでしょ。

黒田:中嶋さん、大体いいですかね。

中嶋:安永さんの個人的なご研究の話もお聞きしたいんですけど、それが始まってしまうとまた長くなってしまうので、また別の機会にお願いすることができますか。

安永:できますよ。いいですよ、いつでも。どうせ暇ですから(笑)。

黒田:(笑)そうですね。じゃあ、とにかく、今日聞けなかったことで福岡市美のさまざまな展覧会のこととか、あと、本当だったら福岡のアートシーン、福岡の美術文化のこととか、長くなるから聞かなかったですけど。また機会があればお願いするかもしれません。

安永:やっぱり、展覧会の話なんかもあるしな。

黒田:多分その辺のやつが実は結構後々の人に役に立ったりするという。展覧会が多いというか(笑)。

中嶋:本当にお仕事の話はすごくおもしろかったですし、こんなに一生懸命お仕事されていたっていうふうに……

安永:思わなかった?

黒田:それはちょっと変だ(笑)。

中嶋:思わなかったっていうか、まあ、ご苦労あったと思ったんですけども。いつでも実現されているっていうことで、非常に感銘を受けました。どうもありがとうございました。

黒田:お疲れさまでした。