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榎忠オーラル・ヒストリー 2012年2月10日

神戸市西区の榎忠アトリエにて
インタヴュアー:江上ゆか、池上裕子
書き起こし:永田典子
公開日:2013年8月19日
更新日:2013年10月6日
 
榎忠(えのき・ちゅう 1944年〜)
美術家(彫刻、インスタレーション、パフォーマンス)
金属加工会社に勤務しながら、旋盤工としての技術を活かして鉄の廃材を利用して制作した作品や、半身の体毛を全てそり落としたハンガリの身体表現、バーのマダムに扮したBAR ROSE CHUなどで知られる。2011年の兵庫県立美術館での個展を担当した江上ゆか氏を聞き手に迎え、1回目の聞き取りでは香川での生い立ちから神戸での就職、1970年のグループZEROの結成と活動について、2回目では身体を使った表現活動とグループZERO脱退後の活動、3回目では廃材を使った制作や、近年の活動について語っていただいた。

池上:今日は榎忠さんにお話を伺います。よろしくお願いします。

榎:どういうとこから?

江上:できたら、すごいさかのぼって、生まれた時から(笑)。

榎:生まれた時から?

江上:子どもの時から。順番にね、年代を追って話をちょっと。

榎:年代とか、分からへんわなあ。小っちゃいときのこと。

池上:一応お生まれの年からお聞きしていきたいんですけども、1944年の7月11日にお生まれということで。

榎:そうそう。セブン・イレブンね。コンビニや、誕生日(笑)。

池上:私、実は同じ誕生日で。

榎:誰が!

池上:私です。勝手に親近感を感じてたんですけど(笑)。

江上:そうなんですか。私の兄も一緒なんです。

榎:ほんま。へえ。そんなことあるんや。

池上:それで、香川県の善通寺のお生まれなんですけども、この辺りっていうのはだいたいどういう雰囲気の町ですか。

榎:もうほんとに田舎でね。善通寺という町があって、そこはまあお寺さんいうんか、弘法大師が生まれたところで。大きいお寺があるんよ、五重の塔があったりなんかしてね。そのすぐ近くに自衛隊とかの、基地があって。昔の陸軍の、第11師団か何か知らんけど、そういうとこで。裏側というか南側の方に金毘羅山いうて、船の神さんというのか、そういうのがあって。その間にある、ほんまに田舎で、何にもない、田んぼとか山とかそういうところで。学校も南部小学校いうてね、ほんとに山にある学校で。その時の思い出いうかな、やっぱり学校行っとったら面白いのは、山やったから、山で遊ぶとか。学校のすぐ裏が山やから、だから家庭科の時間とか、飯盒炊さんなんかかまどから作っていくわけ、山の中で。

池上:かまどそのものを作るんですか。

榎:だから1時間か2時間、家庭科の時間があったら、最初の週はかまどを作るところから始まってくわけ。それで、焚き木取ったりなんかして、そこで次の週にはかまど作って、次の週はカレーを作ったりとか、いろんなことを山でするわけ。そういうとこで、その辺の食材は、みんな農家やから持ってきたりなんかして、いろんなことやるんやけどね。
 そしてまあ田舎やから、農繁期があるんや。春と秋に麦刈りと稲刈りとか。そういう時は1週間ぐらい学校休んで。「非農家」いうて農家やってないとこは学校へ出て、自習とか、いろんな遊びとかして。僕らんとこは山やったから、木の上に登って本を読み合いっこしたりとか。そういう授業というか、遊びやなあ。それがいまだに面白かったなあと思って。遊び相手いうたら鳥とかね、その辺の動物とか、そんなのと遊んだ。掃除なんかでも、講堂なんかにいっぱいスズメが集まっとるわけ、僕らが昼間授業しとる間に。で、掃除の時間に行ったら、日向ぼっこみたいに、寒い時に、スズメがいっぱいその講堂の中におるわけ。僕らはまず入ったら、窓をばーっと閉めてしまうわけ。スズメがもう逃げようとするけども、窓閉められてしもて逃げられへんわけ。それを追っかけて捕まえたりとか、そんなんして遊んどったなあ。

池上:結構残酷そうですけども(笑)。

榎:そういう、ほんまに自然いうんか、僕らの子どもの時分は遊び道具もないし、探検に行ったり、山に行って、秋になったらキノコ採りに行ったりとか。カラスウリいうて、アケビみたいなのがあって、そんなの採りに行ったりとか。いろんな小鳥を捕まえる、「おとり」いうてね、そういう木の実を潰して接着剤みたいなそういうのを作ったりして。ほんま自然と遊んでた。そういう中で僕らは、もちろん戦争終わった後やから、昔の防空壕とか、昔の軍隊がおったから、そういう施設がいっぱいあるわけ、そういうとこへ探検に行ったりとかね。だから深い洞穴とか行って、コウモリを捕りに行くとか、そういう探検やったりとか。

池上:そういうものは結構いろいろ残ってた。

榎:残っとったねえ。今はもう封鎖されてしもてね、入れなくなってるけど。そういうとこに自衛隊の基地みたいなのがあってね。自衛隊いうたら公務員やから、僕ら日曜日とかそんな休みの時を狙って、弾を(取りにいった)。本当は取りに行ったらあかんわけ。

池上:ですよねえ。

榎:危険いうことでね。それを僕らは友だちと潜り込んでね。弾が土の中へ埋まっとるわけ、弾頭とかそんなんが。それを取りに行ったりなんかして。僕ら小遣いとかそんなんもらえないから、そういう銅とか鉄とか、金属を種類分けに分解して、弾を鍋に入れてね、熱するわけ。そしたら鉛とか銅とかそういうのに分解できるわけ。それを僕らは鉄砲の弾とか弾頭やと分からないように潰して、よそへ売りに行くわけ。で、それを小遣いにしとった。そんで僕の好きな漫画の本とかを買う、小遣いにして。

池上:よくそんなのご存じでしたね、熱したら分かれるとか。

榎:それはやっぱり、僕らの遊びって、みんな兄貴がおるわけ、村に何人か。いつもリーダーみたいなのがおって、いろんな遊びを教えてくれるわけ。

江上:小学校ぐらいの時ですか。

榎:そう、もう小学時分から。まあ結構昔は兄弟が多かったから、兄貴とか、兄貴の近所の友だちなんかが、そういういろんな遊びを教えてくれるわけ。だから山へ、小鳥を捕りに行くんでもね、そういう人がいろんなこと教えてくれる。トリモチみたいの作るわけ、自然のやつを。時期によっては川遊びとか、水遊びとか、魚を捕りに行くとか、カニを捕りに行くとか、そういう名人がおるわけ、その兄貴分にね。そういう人がみんな教えてくれた。で、僕らが高学年になったら、今度は下の子に、弟とか若い子に教えていく、そういうことを。だからいつも5人から10人ぐらいがぞろぞろとそんな遊びやってた。

池上:自然に学んでいくという感じですね。

榎:そうそう。

池上:何人兄弟でいらっしゃいましたっけ。

榎:僕んとこは5人かな。だいたいその頃は5人とか7人とかね。

池上:榎さんは何番目?

榎:僕は上から3番目、4番目か。下に弟がいて。その間にも二人程おったらしいけど、戦争とかそんなで、ああいう時代やったから、亡くなったとか。そんなんは聞いたりしたことあるんだけど。

池上:お家はじゃあ農家をされていたんですか。

榎:農家やっとったんやけどね、うちの親父がなんか、「農家イヤや」いうてね。

池上:そうですか(笑)。

榎:田んぼあったんやけど、なんか売ってしもてね。自分で、なんか豆腐屋みたいのをやり始めてね。豆腐とか揚げとか、どう言ったらいいか、コンニャクみたいなんとか。

池上:お豆腐屋さんですね。

榎:うちの親父は、ところてんとか、そういうもん作るのが好きでね。だからそういう、甘酒とか麹とか、海藻をものすごく大量に仕入れて、夏になったらところてん作ったり羊羹作ったりして。もう田んぼは売ってしもて、そういうことやっとったんだけど、戦争で、そういう機械類とか金属類を全部没収されたんや。供出というのか。それでもう商売はできなくなってしまって、近くにある農事試験場いうてね、農林省の試験場へ勤めに行き出したらしいんやけどね。
 戦争の時も軍隊がおったから、そこへ憲兵隊として軍隊の方へ手伝いに行っとった。だから戦地には行ってないわけ。四国にも捕虜とかいて、徳島とかで、保護なのか捕まえとったのかどうか知らないけど、捕虜を収容してた。そういう施設の面倒みとって、それで戦争は免れたいうのは聞いたな。だから最後に、戦争が激しくなって、日本がもう負けそうになった時、ほんとにもう終戦前に召集があったんかな。横浜の方に行ったらしいんやけど。そこから沖縄とかああいうとこへ本当は行くはずだったんだけど、行く船がないんや。それで結局は行かずじまいで、戦争が終わってしまった。

池上:そういう中で終戦を迎えられた。

榎:そうらしい。そういう話を聞いたんやけどね。だからよっぽど、全滅するぐらいの覚悟でやっとったような感じでね。だけども物資もないし、行く船がないんや、戦いに行く。最後の方、むちゃくちゃな戦闘になってもうたんや。特攻隊とか行っても、帰りのガソリンがないとか、行くだけ行ってね。そんなひどい戦争しとった時代。そらもう負けるんは当然やと思うわ。後からそんなことを親父に聞いたりしたんだけど。そういう中で、戦争の時は、そういうとこに勤めとったから、みんなは食べ物がないとか言いながらね、親父が軍隊の方からわりと食料を持って帰ってきよった。僕は赤ちゃんやから知らないんやけど、缶詰とか何かそういうのが配給されて、兄貴なんかはいいもん食べたらしい。だけどまあ周りは大変やった、というのは聞いたことあるけど。そういう時代で、戦争のこと知らないんだけど、結構そういうことをいろんな人が教えてくれるわけ。こういうことがあった、どこどこの人が亡くなった、どこどこで亡くなったとかいうて。
 だから僕ら子どもの時分は、やっぱりね、アメリカに仕返しをしようと思とったわけ。それだけもうめちゃくちゃにされてね、こういう貧しい国になって、生活が大変で。大きくなったらみんな兵隊になるか警察になるかとか、なんか国のために役に立つような仕事をしようと。僕は小さい時から絵が好きで、漫画も好きやったし、いっぱい描いとったんだけど、子ども時分によく学校からアンケートで、「大人になったら何になりたい」とかあるわけ。本当は僕、漫画家とか挿絵画家とか、そんなんになりたいんやけど、そんなの書かれへんの。というのは、みんなは、警察になるとか、軍隊に行くとか、やっぱり日本のためにという感じで、職業なんかでも選んどった時代やった。だから漫画家とかそんなの書かれへんの。だから、何かの運転手になりたいとか、船に乗りたいとか、そういうことしか書けなかったんやけど。

池上:漫画家とか書くと、不真面目と思われる。

榎:不真面目。そんなのあかんねん。だからやっぱり国のため、みんなのために働くような仕事がいいというか。

池上:戦争が終わってからは、お父様はまた別な仕事をされたんですか。

榎:その公務員というのか、試験場の方へ行って。

池上:じゃあ、その続きというか。

榎:うん。うちの近くにその農事試験場があって、大きい土地で山の半分ぐらいは国の持ち物やったから。森林関係とか、動物とか家畜とか、田んぼの農作物とか果樹とか、そういういろんな分担があるんだけど。うちの親父は果樹部で、ミカンとかモモとかブドウとかそういうのを育てていく。だからそこへ時々遊びに行ってね、馬に乗ったり牛に乗ったり、豚に乗ったりして遊んどったな。山ん中で、ばーっとものすごい広いところで、豚の背中に乗って走りまくったりとか、子どもはできるわけ。それで、家で飼ってもいいの。試験場で飼うんでなしに、「家で飼わないか?」いうて、子どもをもらえるわけ。それで豚なんかずーっと世話して、一年、二年とどんどんものすごい大きくなる。でもある日、大事に飼いよった豚が亡くなったんよ、病気かなんかで。そうしたら、一応うちで好きなようにしていいんだけど、試験場から、やっぱり研究のために、なぜ死んだかを調べに来るわけ。それで白衣着た人が5人ぐらい来てね、ばーっと解剖してね、なんで病気になったか調べるわけ。まあ僕ら何年も飼ってたやつやからね、もう泣きながら見てて。病気調べてくれるんから、解剖したりなんかするのかわいそうやけど許して、見守っとったわけ。それはいいんやけど、終わった後ね、その豚をみんなで食べるんよ。

二人:(笑)。

榎:それでもうものすごく怒ってね。「大人ってもう、すごくひどい」って。そのおっさんらに石か泥みたいの投げつけて。「ヤメーッ!」言うてね。でもみんな一杯飲んでね、なんかやっとるわけ。もう腹立って、腹立って。

池上:本当に研究に来たのかな(笑)。

榎:それから僕、肉食べられへんようになってもうてね。田舎のサラリーマンやから肉食べるっていっても、月に一回、月給日か何かの時にほんまに少し、100グラムかなんか買うてきてすき焼きにするとかやけど。あとは自分とこの鳥の肉とか。だから肉なんかあんまり食べたことないからね、みんな喜んで食べとるわけ、大人は。こっちはね、大事に育てて、病気で亡くなったから、もう泣きながら見守ってんのに、みんなでわいわい言いながら食べて。それで肉がもう食べられなくなってもうて。

池上:解剖の動機があやしいですね(笑)。

榎:そんなことあったなあ。

池上:そうでしたか。お母様はどういう方だったんですか。

榎:お母さんは、おとなしい人でね。畑に行ったり、田んぼして、よう仕事する人やったなあ。でも結構、口うるさいのな。親父はわりとニコニコしてね、ほんまに怒ることもないし、おとなしい。いろんなものができたら、近所の人に配ったりとか。珍しいもん作るんよ。さっき言ったように、あんまり田舎にないようなところてんとか、そんなん作って、近所に配ったりなんかして。だから結構うちはね、農家をやめて商売やっとったから、納屋とかいろんな広いところがあるんだけど、日曜日とかは休みやし、普段何もやってないわけ。ただ、家で食べるぐらいの米とか野菜なんかは作ってるんだけど、そんなんも近所からもらったりとか、あげたりしながらやってた。だからあんまりお金はないんだけど、食べたりなんかするのは、僕らそんなに(苦労したと)思わなかったかなあ。

池上:自然環境が豊かで。

榎:うん、そういう中で、うちのお袋もそんなんやけど、ごっつう人がええいうのか。周りはみんな農家やねん。だから仕事の合間とかに話をしに来るんや、うちの家へ。いっつも来とんの。朝はね、年いった、もう80とかそんなお婆さんが来てね、姑とか嫁の悪口を言いに来るんよ。そんで午後からは、そこの娘さんが姑の今度は悪口を言いに来るんよ。それの聞き役ばっかり、うちで。なんか子ども時分のそんなんが記憶にずっとあるなあ。

池上:でも慕われてた。

榎:うん、何か知らんけどね、いつも人が集まっとった。子どもなんかでも、うちへいっぱい集まってね。とにかくみんな言うんよ、「榎へ遊びに行け」いうてね。あそこは何もしてないから、みたいな感じで(笑)。

江上:うちは農作業やるからって。

榎:みんな忙しいからね、「榎のとこで遊んどけ」いうて。一日中、夏休みとか休みの時やったら、朝からいっつも十何人家の中でゴロゴロして。

池上:楽しいですねえ。

榎:そしてさっき言うた兄貴とかは、魚を捕まえたりとか鳥を捕まえたりがものすごく名人で。僕は後を引き継いだ時、何をするかいうたら、僕は絵が好きやったから、漫画の本読んだりとか、仲間で組み合わせて四コマ漫画を作ったりして。僕は探検とか冒険が好きで山へ。うちの近場は結構、いろんな遺跡いうか古墳がいっぱいあるんよ。縄文時代とか、縄文時代より弥生の中期から後期ぐらいのものが、いっぱい山にボコボコあんの。それが昔、何でそんな大きい石をね、どうやって人間の力で石を運んでこんなの作ったんかなあと思うて、不思議で不思議で、いっつもそういうとこを探検に行ったりして。山の方へ畑仕事に行ったら、畑の中にそういう古墳がぽんとあるわけ。で、昼飯とか、弁当持って行ってるから、農作業の後にそこで、石室いうんか、石棺の中やね、石を組んだ中で弁当食べたりなんかするわけ。そこが結構冬は暖かいしね、夏は涼しいんよ。

池上:古墳ってそう言いますよね。

榎:そうそう。そこでいつも昼休みに昼寝したり、弁当食べたりなんかしてね。何でこんな石を積んだんかなとか想像しながらね。で、いっぱい苔が生えとんの。古くて大きい石に苔がいっぱい生えてて、それが何とも言えん世界いうんか。そこでいっつも見る夢があってね。そこで寝たら必ず夢見るんよ、なんか不思議な夢をね。磁石みたいな感じの部屋がいつも出てきてね。神さんが磁石みたいな世界を作ってね、なんかじりじりする、そういう中で、水とか、石棺みたいなの置いたところがあって、そこはいっつも雨水が落ちてくるの。そこに何とも不思議な窪みがあって、周りに苔とかそんなのがあってね。もう不思議な世界で。いつもそこで、そんな変な、不思議な世界の夢見たり。何の夢見たんかよう憶えてないんやけど。鳥居とか神社行ったら、手洗いがあるやん。水がいっぱいあって、手洗ったりうがいしたりとか。ああいう感じの、すごい世界があんの。じりじりした中に水がばーっといつも溢れとってね。何か不思議な世界で、いつも夢見んの。そこがまた楽しみでね。怖いんだけどね、その夢が。

池上:なんか神秘的ですね。

榎:何かそういうことあった。そういうのがね、今の作品につながってるのが結構多いの。そういう世界、何の世界か言えないんやけど、じりじりする、磁石が痺れるような、チクチクするような痺れがね。なんかそういうものがずっといまだに残ってる。それが何か言われへんし、どういう光景やったんか忘れたんやけど。

池上:原体験というか、原風景みたいな感じですか。

榎:そうそう。僕らは石棺なんかをね、このぐらいの石棺を見つけたこともあるの。子どもの時分で。僕らのいた学校で、小さな山やねん。海抜100メーターあるかな。もっとあるかも分からんけど。長さは1キロぐらいはあるんだけど、前方後円墳みたいな感じの山やねん。いつも僕らがチャンバラごっことかそんな遊びをやってるところに、砂山があってね。周りは木があるんだけどそこだけ砂山みたいになってて、いつもその上にピコッと、水が溜まってるんよ。ちっさい時は分からなかった、みんなも。「いつもこれ水があんなー」いうて、みんなで。ちょっと高学年になって、やっぱりみんな気になるから、「いっぺん掘ってみよう」いうことになってん。そしたら掘ったらね、石棺出てきてね。このぐらいの幅かな。1メーター70か60、ちょうど人が入るくらいの。それでもちょっと小さめ。そこにね、くにゅっとした、このぐらいの大きさかな、ちょうど頭置くような感じで、首のへんがクッと曲がってるんや。ちょうど頭置くような感じになってるの。「ウヮー!!」言うてね。「何やろ」て。校長先生はそんなん好きやったんよ。うちの近くは、さっき言うたように、昔からそういう古墳があったりして、ちょっと穴掘ったら磁器が出て。陶器が出てくるの、昔の。それを持っていったら、校長先生が好きでね、そんなん。褒めてくれるんよ。「どこで見つけた」いうから、先生連れて行って、「ここにあった」って。そこでまた調査やるんやけど。割れたやつでもいいわけ、校長先生暇やから。校長室で、セメダインかなんか知らんけど、接着剤で復元するんよ。そういうの知とったから、「あっ、これ、校長先生言うたら喜ぶかもわからん」いうて。

池上:大発見じゃないですか。

榎:うん。それで僕らが、陶器なんかは学校の資料室に「発見は榎忠」とかね、榎忠(えのきただし)になっとるわけ。どこどこで発見したいうて。そんで、僕らも喜んで。校長先生は、持ってったら褒めてくれてノートとか鉛筆くれるわけ。「また見つかったら言えよ」いうて。でもその石棺のことを言うた時はね、校長先生に、「先生、あれどこ行ったん?」言うたら、「あれは市のほうがね、持って帰ってしもうた」って。それで僕らの遊び場がもう封鎖されてしもてね、その辺掘ってしまう、いうてね。立ち入り禁止になって遊べなくなってしもたんや。「先生、あれどうなったん」言うたら、「いや、あれは市のほうへ行ってしもた」いうて、「そんなん、教えてくれなあかんやん」いうて。行ってみたらそれが校長先生の発見になっとるわけ。「先生、あかんわー!」って、「卑怯や」いうてね(笑)。

池上:手柄を取られちゃいましたね(笑)。

榎:発見者、日笠校長先生いうたけどね、いまだに名前憶えてるわ。

池上:豊かな環境で育っておられると思うんですけど、お絵かきはずっと好きで、その中で美術というものを意識されたことっていうのは。

榎:ない。全然ない。

池上:漫画とかお絵かきと美術というのはまた別というか。

榎:そんな環境も全然なかったなあ。

池上:そういうものがあるっていうことも。

榎:知らない。油絵具も知らなかったもん。中学になってね、僕の先生が、彫刻のほうやっとったらしいんやけど。速水史朗(1927—)っていう彫刻家で。

池上:ああ、はい。

榎:その人が、1年生の時やったかな、中学の担任になってね。その先生との出会いがおもろかったんやけどね。先生はその頃、焼き物でお化けみたいの作ったりしてて。僕らの子どもの時分はもっと違った、彫刻らしい彫刻作っとったわけ。石膏で作ったりとか。で、僕が行った中学が、新しい校舎ができた時やったんや。合併してね、今まで行っとった学校と分かれて、新しい東中学校っていうのを作った。その時校舎に、クラブ活動とかのレリーフを作るいうて。高さ3メーターか4メーターで、横が10数メーターの大きいレリーフ。それを先生が担当してやっとったわけ。レリーフ作るのに、まず粘土で型を作って、野球とか柔道とかいろんなスポーツのクラブ活動を、いろんな形で立体的にやっていくわけ。レリーフやからまあ、半分ぐらいな感じやけど。それをやるのに、寒い時に講堂でね、大きい板に粘土をひっ付けていくわけ、ずっと。野球やったらバット構えてたりとか投げてるとか、そんなんをずっと作っていく。それを何か月も手伝わされたの。寒い時にね、粘土練ってね。
 学校でなぜそれをやらされるかいうたら、学校で悪いことしたらね、先生の言うこと聞かなかったり、宿題していかなかったり、学校で禁止されとることを隠れてやったりして見つかったりして、先生に怒られるやん。罰としてそれをやらせるねん。粘土練らされたりね。

池上:榎さん、じゃあ悪いことばっかりしてたんですか(笑)。

榎:ようやっとったんや。人がしたらいけないこととかな。弾拾いに行くんでも、したらいけないことやん。禁止されとるわけ。そんなん見つかるわけ。そんな時にそういうことを罰としてやらされるわけ。それも学校の授業終わってからやからね。そうすると、学校から帰るのが遅いんよ、やっぱり。いつもだいたい3時か4時に学校から帰っとんのに。その頃、家に帰ったらいつも子どもは手伝いがあんの、家の。洗いものするとか、用意せなあかんわけ。そういう仕事がいっぱいあるわけ、家帰っても。勉強よりかまず手伝いせなあかんの。それから勉強とかやって、食事になるいう感じやった。それがもう学校に残されとるからね、帰ってけえへんから怒られるわけ、「何しとったんや」いうて。で、「先生に怒られて手伝いしとる」って言われへんから、黙って「いや、ちょっと友だちと何とか」いうてごまかしたりするんやけど、それが続くからごっつう怒られてね。「先生に言いに行く」いうてね(笑)。先生はそんなこと知らんと手伝わしとったから。

池上:手伝っていたのは主に榎さんばっかりだったんですか。

榎:そういう悪い友だちがね(笑)。ほかで悪いことやったやつとかね。

池上:悪ガキたちが(笑)。

榎:悪ガキたちが粘土こねたりね、やってるわけ。でも、僕はそういうの好きやったから、わりと苦にならんかったわけ。

江上:罰になってない(笑)。

榎:焼き物とかそんなのが専門的な先生やったから、大きい釜を作るいうてね、耐火煉瓦を作って。煉瓦から作っていくの。

江上、池上:へーえ!

榎:粘土とそれと組み合わせて、壺とか、大きい釜を作るわけ。そんなんやらされたりね。そんな時に、隣の中学の先生は、大久保先生かなんかいうて、大坪やったかな、油絵描いとる人でね。それで僕らの速水先生は彫刻で、市民会館みたいなとこで展覧会やっとるいうてね、その時初めてそれを見に行ったんかな。先生の彫刻はまあ学校に置いたりしててちょっとは見とってんけど、大きな作品は見たことなかったんよ。でも彫刻の方は、先生の見とったからあんまり衝撃なかったけど、油絵みたいのは初めてやったんや。

池上:隣の中学校の先生の油絵も一緒に展示されてて。

榎:二人展みたいなのやっとったわけ。その頃は小さい町やから、そういうギャラリーとか、美術をやってるところなんて全然なかったし、あったとしても知らなかったわけ。ほんで、そんなんやっとるからいうて初めて見に行ったらすごい絵やねん。50号か100号か知らんけどね、「こんな大きな絵があるんや」と思ってびっくりして。それで、「わー、絵ってこんな世界があるんやな」と思って。それからかな。

池上:その時に、美術というよりは絵っていう感じで。

榎:絵というか、美術と絵と、あまり別々にも思ってなかったし。そういうのがあるいうことを知らんかったもん。それで学校では教科書とかで、いろんな歴史的な、昔の有名な絵を見たりするんやけど、それはあんまり絵描きとかそういうのに結びつかなかったわけ、なかなか。

池上:そっちはお勉強という感じで。

榎:うん、勉強。

池上:一応美術の授業ってあったんですか。

榎:あったよ、もちろん。美術いうのも、2時間ぐらいあったんかなあ。それでまあそういうのを知って、どんどん。僕も一応美術クラブに入っとった。僕は結構クラブいっぱい入っとったんや。子どもの時分ねえ、小学2年の時に病気してね。肋膜いう病気でね。何の病気かよう分からんかったんやけど、とにかくええもん食べて、動いたらあかんねん。

池上:いい病気ですね(笑)。

榎:うん。だけどね、時々熱が出るの。40℃近い熱が出てね。ばーって寝汗いうんか、それで大変な時期もあったんやけど。そういうのんで、調べたら肋膜いうて、その頃は不治の病で、治らないって。それで1年間ぐらいは学校へほとんど行ってなかった。友だちがいろんな勉強のことを伝えに来てくれたり、その頃給食が出始めた頃やったんかな、パンなんか持ってきてくれたり。そんなんがあって、病気が一応治って、3、4年ぐらいから学校に行き出したんかな。でも行ったって、体操もできないわけ。だからみんなの、体操服の番やねん。みんなの服なんかを置いて、そこで風で飛ばないようにとか留守番するぐらいで、体操できなかった。何もできなかった。
 それで、一応中学入ってから元気になったんかな。元気は元気なんよ。でも止められとるんよ、医者から。学校に言われてた、急にきついこととか、そんなんはやらしたらあかんって。でも中学入って、一応そういうことも解禁になったんや、体操とか。それでクラブにいっぱい入ったんや。水泳部入る、卓球部入る、珠算部入る、美術部入るね。それでもう思いっきりやった。

池上:忙しいですね。

榎:忙しい、もう。僕は小さい時からものすごい元気やったんや。アホなこと言うて人を笑わしたりね、勉強いうてもあんまりでけへんしね。だけど結構友だちはいた。だいたい学校って三つぐらいに分かれるんよ。勉強できる子と、勉強できない子と、何にもできない、どっちにもつかなくてジーっとしとる子と、三つぐらいに分かれんの。僕は結構暴れん坊で、勉強もできるわけでもないし、できないわけでもないんやけど、だから、先生に怒られてしたら勉強できるぐらいの感じやったんかな。だから自分でもいつも、「本当の僕って何かな」と思いながら。まあ賢い子と賢くない子と、悪い奴とに分かれるわけ。悪い奴も僕を誘いにくるわけ、「一緒に遊ぼう」いうて。「おまえがおったらおもろいから」いう感じで。そういう賢いクラスの連中も僕を誘いにくるわけ、「一緒に面白い遊びつくってくれへんか」とか。文化祭とかあれば、「こんなんやりたいんやけど考えてくれへんか」とか。僕は絵を描くんが得意やったから、年表とかね、そういういろんな絵を描いたりして、歴史的な絵とか、そんなの描いたりするんが得意やったし、好きやったんよ。だからみんなも「榎、やろうや」いうて一緒に来てくれるわけ。だから僕はいつもね、小さい時から、本当にどっちかなあいうて。そういうとこで、ものすごく自分はいい加減ていうのか、中途半端でね。悪くもないし、ええこともないしね。なんかそういうとこでいつも宙ぶらりんみたいなとこにおって、何かなあ、いうのがずっとどっかにあって。そういうように過ごしとったんかな。遊びにしたって、勉強にしたって。

池上:美術部というのは当時何をされてたんですか。

榎:何しとったんかなあ。(笑)

池上:顧問は速水史朗先生ですね。

榎:もちろんそう。あまり記憶ないなあ。あまり憶えてないのは、行かなかったからね。僕ら田舎の方の小学校と、町の小学校とか、なんぼかの学校が集まって中学になってるわけ。僕らは南部いうんやけど、中央とか、東部とか西部とかの小学校が集まって、そこの中学校に来るわけ。で、中央いうんは町のヤツやねん。町のヤツいうたらおかしいけど(笑)。そしたらやっぱりね、油絵具持っとるやつが多いんよ。

江上 へー、中学生で?

榎:中学生で。うちなんて言うたって怒られるぐらいで、買ってもくれないし、言えないしね。へーと思って。絵具なんかでもね、ちゃんと水彩の絵具を持ってるやつもおるし。そんなものなかなか買ってくれとも言えないような時代やった。だからあんまり行ってなかった。何しに行っとったんかな。美術部に籍は置いとったんやけどなあ。行ったんがあんまり記憶にない。一人ね、すごく賢いやつで大久保いうてね。親父が警察とか自衛隊に剣道教えに行っててね、その辺ですごい強い人やねん。そこの息子が大久保いうて、勉強もようできるの。そいつが美術部やねん。そいつがおったから余計やらなかったんかもわからん。そいつが油絵具持っとんや。そんで、いろいろ話が飛ぶけど、僕も美術の高校みたいのに行きたくて、普通の高校は行きたくなかったわけ。でも、もうみんな就職やねん。その頃は半分ぐらいは就職やね。

池上:皆さん、地元で就職されるんですか。

榎:まあ県外行ったりとか、その頃はよっぽどできる子とかそんなんじゃなかったら進学しなかった。ほとんどは集団就職で。

池上:そういう時代ですよね。

榎:で、長男とかそんなんは残って、学校へ行く子とかもおるんやけど。うちみたいに三男とか四男いうたら、みなどっか行ってしまう。で、少し金があるとこは、高校行ったり。大学なんてとんでもない、いう感じやな。それで僕も高松工芸(香川県立高松工芸高等学校)いうて、普通の高校ではないんやけど、そういう工芸学校みたいなのがあって、そこ行きたかったんやけど、やっぱりそこはクラスに5番以内にいなかったら通らないようなところやったわけ。

池上:結構難しかったんですね。

榎:難しかったんや。僕も頑張れば行けるいうんは、速水先生にもね、「おまえは勉強したらできるんけど、せんだけや」言われて、「したら行けるんやから、頑張ってみるか」って。「いや、僕は頑張るんは嫌や」いうて。その大久保いうのが行くからね(笑)。あいつはクラスでも級長とか、委員になったりなんかする。あいつは通ると思うとった。だから「あいつがおるんなら行かん」いう感じで。本当は行きたかったんやけどね。頑張って行こうかな、という感じもあったんやけど。

池上:「行きたい」と言えば行かせてくれる感じではあったんですか。

榎:ない。うちはそういうお金はなかった。うちの兄貴は、勉強いうんかそんなの好きで、高校の時分から自分でバイトしながら高松の方へ行って、英語が達者やったん。それでバイトで、高松に栗林公園いうのがあるんやけど、そこに外国の人が来たら通訳で案内するとか、そういうのをしながら大学入ったわけ。親戚から学費を半分送ってもらったり、そういう感じで。僕はそんなに勉強できないからそういうことも言えないし。で、僕は神戸の方に行った。会社をやってる親戚がいて。そっから仕送りなんかしてくれよったわけ、兄貴なんかは。でも僕はそれほど学校行って勉強するのは何もなかったし。

池上:ちょっと高松工芸高校も行きたいなっていうのは。

榎:あったんよ。だけど行かんと決めたのは大久保が行ったから(笑)。

池上:親御さんに遠慮されたわけじゃないんですか。

榎:遠慮というか、もう分かってんの、うちは大変やって。絵具にしたってね、「買うてくれ」言うたら、無理言うたら買うてくれるかも分からんけど、そんなん言えるような状態ちゃうから。うちが貧乏いうの知らなかったわけ。みんなが貧乏やったんで、その時代。ただそういう判断して、周りがそんなんやから、友だちとか見て、「ああうちはお金ないんやな」とか、「こういう無理なこと言うたらあかんな」とか。親が働いてるのもね、なんであれだけがむしゃらに働くんかなあと思うたら、やっぱり子ども多いから食べさしていかなあかんやん? そういうとこあるやん? 子どもの時分は分からんけど、何となく「うちはこんなんやなあ」と思て。だから貧乏やからいうて、そんな意識はなかったな。ただ親に無理なこと言えない、いうのは分かっとった。そういうのんで、悶々しながら。

池上:それで卒業されて、神戸に出て来られるのが、16歳。1960年。

榎:15の終わりやったかなあ。その時、まあ親戚の会社やし、絵の勉強したいんやったら働きながらでも、都会というか、神戸やったらできるから、いうて。

池上:親戚の方から声をかけてくださった。

榎:そうそう。神戸の会社ではデザインやってる人もいるから、その人に付いて習いながら、もし時間があれば、行く気があるんやったらそういう学校へ習いに行ってもいいんちゃうか、ということで。先生も、「それやったら実体験や社会の勉強もできるし、そういうのがいいんちゃうか」いうて。「べつに無理して工芸学校行かんでもええんちゃうか」って。「じゃあそうするわ」、いうことで。

池上:神戸に出てこられて、最初はどこに住まわれたんですか。

榎:そこの親戚のうちに、居候したわけ。そこの会社やってるから。結構最初はよかったんよ。小さな会社やったけど200人ぐらい使ってて。

池上:決して小さくはないですよ。

榎:もう朝晩送り迎え、社長はね。で、僕も社長と一緒に(笑)。迎えに来るんよ、車が。それに乗って出勤(笑)。

池上:ついでだから。

榎:そんな感じがね、半年も続かなかったかな。

池上:その会社はなんていう会社だったんですか。名前といいますか。

榎:会社の名前はね、「松葉工業」やったかな、何かそんなん。須磨の方にあったんよ。鷹取駅の近くやけどね。

池上:社長と一緒に出勤されて、そこでは何をしてたんですか。

榎:うちの会社は、ケミカルシューズいうてね、ゴムの靴なんかの輸出もんをずっとやっとったわけ。それで従業員とか下請けとか入れたらかなりの仕事やっとったわけ。

池上:まさに神戸の地場産業ですね。

榎:そうそう。それでそこの靴のデザインとか。

池上:それでデザインが関わってくるんですね。

榎:そう。僕はデザインって何のことかよう分からんかったんやけど、いろんな靴の絵を描いたりとか。おもろい靴とか。ほとんど最初は靴のサンプルとか、そんなの作るのに絵を描いたり。絵は描くの得意やったから、結構、デザインの先生より俺の方が、見た目にはちゃんと描けるような感じやった。そしたら発表会とか、そんな時にイラストみたいの載せたりとか、そういうの添えるやっとったかな。そしてデザインは、ただ絵を描くだけでなしに、それを分解して、組んで、いろんな型をとって、それを組んだりとか、縫っていったりとか、貼りつけたりとか、型取りしたりして、そんなん全部やってくわけ。
 仕事は面白かったなあ。それはよかったんだけど。ちょうどその頃、60年安保か何かでアイゼンハワーが来るいうて、その時ものすごい反対か何かあって。その時、うちの貿易関係のが、それに関わったのか何か分からないんだけど、貿易がストップしてしまったの。それで、今まで作ったやつとか全部出荷できなかったのかどうか知らんけどね、そんな状態。それで、まあ言うたら倒産いうんか。

池上:そうですか。

榎:その時、弟が専務やっとったんやけど、その人がちょっとええ加減にやっとったとこが後で分かったんやけどね。まあそういう状態になって。それで大変な世界を見てしまったわけや。

池上:ちょっと16歳の少年には厳しいですね。

榎:うん。もうあの時に何億の負債いうんか。そしたらもういろんな下請けから、うちの会社だけでなしにいろんなとこがあるから、取り立てすごいよ。もうヤクザとかそんなん。それで僕は家へ帰ったって――社長はもう裁判終わるまで家へ帰って来れないから、秘密のホテルかどこかに泊ってるんだけど――その間は僕がそこの家族を見て。子どもが小さかったんよ、社長の子どもが。まだ小学校とか幼稚園の子やったし。寝たきりのお母さんがおって、その人を社長の奥さんが面倒みたりしよったから。もう、怖いのいっぱい来るんよ。家まで来るんよ、会社だけでなしに。だから戸締りして、雨戸閉めて、何かあったらすぐ近くの交番所へ。家にも入ってくるんは入ってくるんやけど、暴力とか、なんかそれ以上のことをしたら警察に連絡するようにして、それが僕の係になって。それがずっと続くし。電話の音でもうびくっとしたり、ものすごく怖い世界。会社もたまに様子見に行ったりなんかしたら、来るんや、やっぱりそういう人が。オートバイとかで乗りつけてきてね。もうこんなね、事務のいろんな書類をめちゃくちゃにして。ボンボーンって上がってきてね。映画みたいや、もう。グワーンって。

池上:怖いですねえ。

榎:それでもっと怖かったのはね、人間が信じられなくなった。今まで調子のいい時は、会社、下請けとかそういうとこと、みんな社長と一緒に毎晩ぐらい飲みに行くぐらいね、親戚以上の付き合いみたいのしとるわけよ。いろんなもん持ってきてくれたり、いろんな面倒みてくれたり。でもそうなったらパーンと分かれてしまうの。そんな人が鬼みたいになってしまう。信じられへん。あんなようしてくれた人がなんでかな、いうぐらいね。そらみんな生活があるから。そこにもやっぱり家族とか従業員がおるから。

池上:取り立てないと、今度は自分がね。

榎:そうそう。そういうものすごい怖い世界やったなあ。それでもう人間とか大人とか社会とかお金とか、そういうことがものすごい嫌になったんやな。それでそういうことが長いこと続いて、1年後くらいに一応裁判で、そういう借金の払い方とかそんなのがみんな決まったんやろね。だからまた再開せないうことで、社長は今まで車の送り迎えとかそんな感じで会社やってたのに、その人がまた会社を立ち上げて。これから借金返さなあかんから。それにはもういっぺん会社立て直すと。で、その時は、ケミカルシューズ、靴の方は止めて、工業用の新しい仕事、その社長も関わったことない新しい仕事やるいうて。やっぱり神戸は、ゴムとかそういうのがわりと入りやすい。原料として入ってくるいうのがあったし。その頃時代はちょっと変わりだして、合成ゴムとかパッキン類とか、そういうものが入り出したわけ、合成樹脂とかプラスチックとかね。そういう中で、靴は、神戸にこれだけたくさんあるしね、無理やと見切ったんかな、新しいことをやっていくいうて。それがたまたま、社長の昔からの知り合いでそういう関係の人がおったわけ。それでその仕事始めるのにやり始めたわけ。その社長の姿が、今まで蝶ネクタイして、料亭行ったり、お客さん来ていろんなとこへ連れまわしたりしとったんが、ほんまに泥だらけになってね、真っ黒になって働くんや。この人、ほんまに仕事とか会社とか好きなんやなあ思て。この人とやったら一緒にまた、もういっぺんやってもいいかなと思って。
 このあいだ、機械なんか拾ってきてやったやん?(注:2011年の榎個展「榎忠展 美術館を野生化する」2011年10月12日—11月27日、兵庫県立美術館)あんな泥だらけの機械を安く買ってね、それを錆から落として。機械、動かないんよ。それを修繕して、きれいにして、動けるような機械にして、仕事し始めたわけ。そういうとこから僕らずっと手伝っていって。その人やったら、どれだけいろいろあってもやってけるというか。で、徐々に、機械1台とか2台とか、新しい機械入れたりしてやってくんやけど。その頃は新しい仕事やったから、仕事もいっぱい来出したわけ。それも最初はよその仕事の下請けみたいな感じでやりよったわけ。大きい会社やから、元請けのところは小さいことできないわけ。そういう実験的なことや、難しい仕事はうちへ来るわけ。だから初めての仕事ばっかりがくるわけ。その時、向こうの技術者が来て教えてくれたりするんやけど。だからもう毎晩徹夜とかね。その頃まだ市電があったんや、神戸に。もうギリギリまで仕事やって、バッと飛んで帰って、また朝早くから来るんやけどね。もうそんなのずっと繰り返し。
 その時、仕事は新しい仕事ばっかりやし、次々仕事が変わって。自分で作ってく仕事やから、自分が考えたりいうんでなしに、図面が来たりして、今度こういうのやってくれいうて、それを型を作って。元からやるわけ。金属から掘り起こしてやる。そういうとこからやっていくから、できた品物も見れるしね。だからその辺のね、仕事をやったうれしさいうんか、楽しみとかいうのは、自分がやったいいとこも悪いとこも、実際現れて見えてくるから、そういう楽しみがあったから、仕事も面白かったんだけど。
 だけど毎晩(仕事)。月に1回休みがあるかどうか、最初は月に2回ぐらい、日曜日が休みやったけど、それもなくなるような感じ。毎晩遅いわけ。だんだんそれが3年とかそんなになってきよったら。なんでね、こんな一所懸命働いて、まあたしかに給料もらえるけど、それも親戚に全部渡して。まあ貯金してくれてるんやと思うんやけど。小遣いもろて、映画が好きやったから映画行ったりするんやけど。なんかどっか自分の気持ちいうんか、「ほんとに働くって何かな」とかね。子どもの時分、勉強しとる時もそうやった。何のために勉強しとるんか。結果も何も見えないし。見えたって、テストの結果だけやん。そんなんで、「勉強って何かな」とかそういうとこで。仕事もそう。何のために仕事してるん。給料もらうだけでね。何かなと思て。小遣いもろうて、ただそれだけかなと思て。なんかそれがおかしいなあと思うて。なんか中途半端いうんか。
 それで、機械とかオートバイみたいなのが好きで、友だちなんかも乗っとったし、その時オートバイにはまってしまったというか。休みとか夜にバーッと、カミナリ族いうんか、音出して飛ばしまくっとったわけ。

池上:六甲山の方とか行かれるんですか。

榎:六甲行ってね、知らん人と。下に集まって来るとこあんの。須磨とか須磨浦公園とか、そういうとこに。どこの誰か分からんやつがね、ヘルメットかぶって、覆面みたいなのしとんのがいつも集まって来るの。そこに僕らも、知らんもん同士ばっかりが集まって、いろんな競争するの。今度どこに行こうとかね。六甲もそう。六甲の摩耶山とかに集まって、再度山の麓とか。そういうやつと競争しようとか。何分で上がって降りてくるかとか、賭けをやるわけ。これがもう命懸けのレースでね。別にお金賭けてるとかそんなんちゃう。そういうので、命懸けた遊びみたいのやっとったな。今みたいに道路はアスファルトじゃないから、砂道やねん、山なんか。ごっつうクニャクニャ曲がってるやん、六甲山なんか。だからドーッと滑るんよ、ドーッズズズッって。変なとこで滑ったらもう谷やん。今みたいに柵とかないから。そういうスリルを味わってたんかな。自分でケガするとか、そういうのはようあったけど。

池上:バイクはお給料で買われたんですか。

榎:うん。買ったやつもあるし、もらったやつとか、そんなんでやってたかな。会社のオートバイもあったわけ。それでまあ通勤してたんやけど。そういう時代に、オートバイで、何か悶々した(ものを晴らそうとしていた)…… まあ言うたら無茶するんや、僕は。そういうのやり出したら。三宮センター街でもね、みんな買い物とかで人がいっぱいおるやん。今みたいに広うなかったんよ、センター街。で、今はスポーツセンターか何かになっとんかな、突き当たりが。そこまで人がいっぱいいたの、ぎっしり。その時もオートバイでね、みんなが買い物とかでセンター街にいっぱいなのを、オートバイで飛ばしていくの。ワーッて。

江上・池上:危な〜い。

榎:みんなまさかね、こんなとこオートバイ入ってくると思わへんやん。安心してそういうとこ行っとるやん。だから「安心するな」いうこと伝えたかったわけ。腹立つの、僕、ああいうの。もういつ何が起こるか分からんのに、悠々と買いものしたり、ダベってね。そういうのをバッと行って脅してやろうとかね、どっかにそういう気持ちがあったんやと思う。そういういたずらとか悪いことしよったな。

池上:捕まって怒られたりは?

榎:捕まったこともあったよ。それがよう分かったんはね、長田の方の山へオートバイで行った時ね、ドーッと、さっき言うた砂道でこけたんよ。こけた時、足が挟まって、オートバイは重たいから、起こされへんわけ。その時、娘さんとおばさん、お母さんと思うんやけど、ちょうど下りてきて。助けてもらおうと思たんやけど、その人ら知っとったわけ、僕がむちゃくちゃ走っとったいうの。だから助けてくれないの(笑)。

池上:「あの無茶ばっかりしてる子や」と。

榎:そんでもう、これは自分でやったことやから人に頼んだらあかんと思て。僕はその時助けを呼ばなかったんや。見たら分かるやん、オートバイひっくり返っとるの。助けてとも起こしてとも言わなかったわけ。その時に、こんなことしとったらこういうバチが当たるいうたらおかしいけど、ああそうやなあ、と自分でも思って。足はどうなってもええと思って引きずり出して。とにかく帰らなあかんから。その時に、「ああ、こんなことしとったらこういうことになるんやな」と思った。自分がケガするのに、懲りずにまだガンガン乗っとったんやから。
 ある日、そういう時に、おじいさんをはねて。はねたというか、僕の風圧を怖がって自分でひっくり返ったんやけどね。長田の尻池いうところから、川崎重工へ向かう坂道があるんの。そこは下る時に、スピードがよう出るんよ。バーッと尻池を上がっていったらスピード出るから、ドーッと行って。ちょっと雨が降っとったんだけど、その時、夕方頃やったんか、ちょっと薄暗い時やった。ちらっと黒いこうもり傘を差した人が見えたんや。その時ドーンとその人がひっくり返ったのが分かったし、僕も反射的にオートバイを切った。その時は100キロ近く出とったんかな。それで飛ばされて。僕もドーンと、一回目に地面に落ちた時はどっかにメガネが飛んでいった。スローモーションみたいや。ワーンて飛んでいってね。その一回目はドーンとメガネが飛んでいって、ちょっと起き上がろうとしても起きられへんで、ズーッと滑ってきよる、僕はボーンと流されていきよるわけ。オートバイだけドーッとひとりで走っていきよるわけ。その時顔がダーッとやられてしまって。
 それでそのおじいさんどうなったかなと思って振り返ったら、後ろの方に白いのが見えとるから、僕も右半分やられとったけど、そこまで走って。雨降っとって、そのおじいさんは白いワイシャツ着とったの。何月頃やったかなあ、5月か6月頃。そしたらもう血の海。雨と白いワイシャツやから。「ウォーッ」いうてゆすったって、全然、ガクーンなってしもうて。「うわー死んだ」と思って。その間に人が集まって来て、その人らが、たまたま走ってたパトカーを止めて、とにかく病院へ運んだ。僕は死んだと思って、どうしようかも分からへんで。とにかく警察にだいたいの状況を話して、僕もたぶん病院にパトカーで行ったんやと思う。
 そして、おじいさんを運んだ1時間か2時間後に、もっと後やったんかな、行った時に、いっぱいおじいさんの家族が集まっててね。お孫さんとか子どもさんとかばーっとみんな泣いてるわけ。その時、そのおじいさんが退職やったんやって。誕生日で、会社の川崎重工の定年退職で、田舎で娘さんや孫が集まってお祝いで、ケーキか何かごちそう作って待っとったんやって。今みたいに電話がない時代やから、垂水の方の交番所から警察がそこへ行って、おじいさんが神戸で事故起こして入院しとるいうこと聞いて、みんな家族が来て泣いてるわけ。そういうとこへ僕が行ったわけ。もうどうしていいか分からなくなってしまって。
 まあその人は案外軽かったの。自分でこけて、頭打って、脳しんとう起こして意識がなかったいうんか。だからグッタリして、全然ウンともスンとも言わなかった。僕は、死んだと思とったから。で、僕の方がひどくて、1か月ぐらい入院しとったんかな。おじいさんは2日か3日ぐらいで帰ったらしい。2、3針縫うかたかなんかで。僕は1か月ぐらい入院して、よくなってからそのおじいさんとこへ訪ねて行って。謝りに行って。それで、いろいろ話した。
 その人はわりと温厚なひとで。僕はまだ19か、20歳になる前やったかな。話したら、「そら好きなことやるんはいいからな、エネルギーが有り余っとんやろう」って。「だけどやっぱり人に迷惑かけたらあかん」いうてな、何するのでもいいから。「ほかに何か好きなことないんか、映画とか、そういう趣味ないんか」って。で、「小さい時は漫画とか絵が好きやった」って言うたら、「そんならなんでその好きなことやらへんの」って。僕もその時ふと「なんでかな」と思うて。なんでそんなにオートバイにはまったんか分からなかったんやけど。絵をするために行ったのに、どこか変なところで、大人の世界というのか、社会というのか、会社にいるうちに、なんか知らん間に絵のこと忘れとったんやなあ。なんかそういうので気がつかなかったいうんか。その人に言われてから、「ああそうやな」と思って。で、そのおじいさんにいろいろお礼を言って、謝って。
 それから、どうやってそういうのを始めたらいいんか分からなかったんやけど、その時もまだ親戚の家にずっと居候しとったわけ。そこへ、毎月お寺さんが来るわけ。命日かなんか知らんけど、月に一回か、何か月かに一回来て、お祈りしていつも帰るんよ。その人が、たまたま僕が絵が好きやいうのを聞いて、話し出したんかな。家の人が、絵の勉強についてその人に聞いて。その人は絵描きさんやってね。絵描きになりたかったわけ。親父が死んで後を継がなあかんようになって、嫌々やってる坊主やったんや(笑)。その人がすごい面白いというか、不思議な人でね。日本美術院で日本画やってる人で、すごい絵がうまいの。デッサンでもすっごいデッサンするしね。
 それからかな、「描いた絵とかあれば持って来い」って。その人が来るのはだいたい決まってるから、いつ来るて分かったら、僕がその辺でデッサンしたのとか、ちょっと絵を描いたやつを置いておったら、その人が巻紙にダーッと批評を書いてくれてるわけ。この絵はこう、この色の使い方はどう、だけどなんとか、っていろんなこと書いてくれとるわけ。これはモノを見て、写真を見たりして書いた絵や、それはダメや、いうて。実際の、本物を見て描かなあかん、いうて。そういうとこから、一から、ものを見るいうことから勉強せなあかんいうて。で、「うちへ来い」いうて、お寺さんへ。「描いたものを持って来い」いうて、おる時に。その時は給料もらってるから、その時初めて油絵具を買って。もうドキドキしながら、今でも覚えとるけど、日本額縁っていうとこへ買いに行ったんよ。何を買っていいんか分からへん。だけどセットを買って。それでちょこちょこ、その辺の船を描いたりとか、家の中にあるものを描いとったんやけど。風景でも、写真見たり、いい写真を見て描いとったんやけど、さっき言ったように、描いて持って行ったら、「これは写真見て描いとるからダメや」とかいうてね。そんなのを何回か繰り返して。
 そこの家がまたすごいとこでね。ボロボロのお寺やねん。お寺いうても普通の家の大きいとこでね。そこに仏さんとかあって。檀家の人が来るから、家は広いんよ。障子なんてボロボロで、穴が空いて、猫が、捨て猫がいっぱい来るんやって。またそんな人やから、猫をほかしに来るんよ、そのお寺へ。だから猫が、話しとる間でもいっぱい来てね、もうウロウロしとるわけ。障子の穴から出てきたり。
 畳でもね、きったない畳や。これはね、普通の人や檀家さんが来たら、「この畳汚れとる」って言うわけよ、「きたない」とか。「お寺やったらもっときれいにせなあかん」って言われるんやけど、「でも私にはこれが全部模様に見えるんや」いうて。だから汚いとかそんなの、今までのものの見方であって、私なんかこの模様がなぜこうなったんか、こういう模様はなぜついたんか、そういうとこがあって素晴らしいと思う、いうて(笑)。ああ面白い言い方もあるなと思てね。
 さっきの猫でもね、入ってくるけどね、「穴があるから入ってくるのであって、あれをふさいどいたら入ってけえへん」いうて。「それでいいのか」って。「もっと猫のこと考えてやらなあかん」とか、ものすごい発想が面白いんや、とにかく。時々、いろんな檀家さんが来て、お酒なんか仏さんの飲んどるわけ、いっぱい、一升瓶で。普段その人お酒飲まないんだけど、僕が行ったら飲ましてくれるわけ。コップにボーン持って来てね。私は酒飲まんのやけど。僕もあまり飲まないからいうことで。オートバイで行っとったんかな、オートバイで行ってるからあまり飲まない。でもちょっとぐらいは。その頃は少々酒飲んだってどうっちゅうことなかったんや。僕もコップに半分入れてもうたりして。僕は「弱いから」いうてちょっと飲んで。お酒なんか、僕は弱いと思うから飲まんけど、水みたいに飲むの、その人。カプーッって。何杯も。「お酒やと思うから酔うんであって、お酒と思わなかったら酔わへん」って。そんな感じの人やねん。

池上:すごい面白い人ですね。

榎:すごい面白いの(笑)。そんなのがずっと続いてね。太山寺(たいさんじ)いうてね、古い寺がこの近くにあるんよ。原生林があってね。「そこへよくスケッチに行くから、今度一緒に行くか」いうて。「ほな一緒に連れていってください」って。時間待ち合わせしてね。僕はオートバイで行くわけよ。その人、長田から歩いてくんの。ゲタ履いて。すごいよ。

池上:すごいですね。何時間かかるんでしょうね。

榎:何時間かかるんか知らんけど、時間までには来るわけ。檀家回るんで普段から歩き慣れとるのは分かってるけど。ゲタ履いてね。寒い時でも足袋はかないしね。その人の言い方一日聞いとったら、もう信じられんような、もう仙人みたいな感じ。で、そこの原生林でずっとスケッチとか、ものの見方とか、根気とかね。どういうふうに見つめるとか、なぜ見つめるのかということとか、いろんなことを。小さい虫を描くのでもね、虫の生活とかそんなのを想像して描くとかね。木の枝はなんでこういうような感じになったとか、そこまで深く見なあかん、いうて。それを想像しながら描かなあかん、いうて。そしたらその木が生きた木になるいうて。なんかそういう教え方かな。

池上:それが、初めて本格的に絵を描く勉強というか、勉強じゃないですけど。それが初めてですかね。

榎:うん、それはまあ、絵の勉強かどうか知らんけど、その人がすごいからね。それでその人に聞いたのが、街にそういう研究所があるはずや、いうて。街へ行ったらギャラリーみたいな展覧会やってるとこがあるから、そういうとこも見たほうがええいうて。

池上:普通のお絵かきの勉強とは全然違いますよね。もっと本質的というか。

榎:人間性いうんか、ものの見方、根性みたいなもんね。で、手を動かす。ただ思うだけじゃなくて、動かす。

池上:ただのテクニックとちょっと違うことを教えてくれたんですね。

榎:それはすごく、しこまれた。

池上:それで街のギャラリーに。

榎:ギャラリーを最初見たのが、大丸の前に末積画廊ってあったんよ。画廊というか、額縁屋やけど、ほんとに幅が狭いギャラリーがあったわけ。そこに初めて行った時にけったいな絵があって。縄使ったり、絵具のチューブの蓋とか、その辺のビールの栓に描いたようなやつとか、変なんがあるわけ。これ展覧会かなと思て。額縁屋の横やし、「画廊」って書いてるし、展覧会やなと思て。そんな中にヘンなおっさんがおるわけよ。その人は高橋ノブオいうて、ニコヨン画家で暴れん坊の絵描きやったんや(注:ニコヨンとは、日雇い労働者の意。1949年に日雇い労働者の日給が240円に定められたことに由来する)。そんなん知らんから、「わー、これも絵かな」と思って。それでそのおっさんと話しよったら、ものすごいおっさんでね。汚ったない袋の中からいっぱい、食べもんは出てくるわ、絵具は出てくるわで。いつもリュック持ってね、中身がいっぱい出てくんの。それで、研究所なら美専堂いうのが加納町にあるから、そこへ行ったら、二紀会の人とか、年寄りが絵を教えるとか、デッサンとか人体デッサンとかそういうのがあるんちゃうか、いうて。

池上:その高橋ノブオさんという人が教えてくれた。

榎:教えてくれた。そういうとこへ行ったらデッサンの勉強できるからって。それで訪ねて行ったのが美専堂の2階、3階やったかな。寒い時やったから、モデルさん寒いから、もう薪ストーブに薪をくべて、暖房して、そこでヌードデッサンしとったんかな。それで行った時に、二紀会ってあるんやけど、そこの青木一夫(1907—1978)いう先生にデッサンを教えてもらった。その人のデッサンは、もうほんまにアカデミックというんか、ものすごく素直で、的確ないうんか。ちゃんとていねいに教えてくれるし。

池上:じゃあ今度は技術的な勉強というか。

榎:うん、デッサンの、絵の描き方みたいなのをね。木炭の使い方とか鉛筆から。

池上:お坊さんのほうは、なんか心構えみたいなことを教えられて。

榎:そうそう。デッサンは、結構その時も10人か15人ぐらい、ほかにも習いに来てる人もいて、それでやってたんだけど、なんかねえ、なんかおもろないねん(笑)。たしかに自分でも分かるんよ。うまく描ける描き方いうのがあってね、あれも。こういうところに置いて、反対の斜めの線を入れるとか。そういう、理屈というたらおかしいけど、うまくなってるのか知らないけど、そういう描き方したらうまく見えるんよ、立体的に。筋肉とかそういうのも。なんかそういうので描いとったら、たしかに自分でも「ああ、うまく描けてるな」いうのが分かるし。

池上:上達はしていくわけですね。

榎:他の人を見たら、なかなかうまくならない人もおるし、うまくなる人はうまいんよ。なんかそういう人もおるし。時々、なかにすごいやつが来るわけよ。ものすごいうまいやつが来んの。六三(ろくさん)、山本六三(1940—2001)いうて。

江上:ああ、六三(むつみ)さん。

榎:あいつはうまかった。こうやって髪長うして、黒い服着てな、黙々と。ものすごく速いの。僕らがイーゼルでやってるのとちがう。シャーッと、こう、すごいの。

池上:結果が断然うまいんですか。

榎:僕らがやってるデッサンと違うの。その人はデッサンを習いに来るのでなしに、自分の手をならしに来るいうか、勉強しに来るいうのか。勉強いうたって僕らが勉強するのと違う。そういう感覚をつかむために。裸婦とか、そういうモデルさんってなかなか(見つけるのが)難しいやん。それで来てたんやと思う。その人なんかと、帰りに飲みに行ったりしたんだけど、うまい人はおるわけ。そうしとるうちに若い子が、松井憲作(1947—)いうのが入ってきて。丹下(幸男)とか、若い連中が入ってきて。青木先生も時々展覧会をやるので、そういうのを見に行ったりするんやけど、なんか僕らが思うてるのと違って、おとなしいというか。もっと面白い世界やと思とったんや、絵の世界って。それが全然。たしかにうまくなっていくけど、理屈みたいなものばっかり覚えていく感じで。絵はこう描かないかんとか、こういう感じやなかったらあかんとか。どこの展覧会見に行ったって、そんな絵ばっかり。ほとんど具象的で、その中に抽象的な絵がポチポチ出だした頃やったかな。そんな時河口(龍夫、1940—)さんがやってるグループ「位」とか「具体」(具体美術協会)のことを聞いて、大阪のほうに見に行って、「ああ、こんな世界もあるんか」って。

池上:二紀会の人たちはそういうのは興味がなかったんですかね。具体を見に行くとか。

榎:ないない。

池上:ないですよね。

榎:僕らも、先生は二紀会やったから、二紀会のほうに出品し出したいうのか。

池上:ちょっと違うなと最初から思いつつも。

榎:うん、知らないからね。展覧会いうの知らないし。二紀会って、本展は東京であるんだけど、そこで通った作品は関西展いうて関西へ来る。そしてまた関西展が終わったら神戸展があるわけ。二紀会って結構大きかった。

池上:全国的に。

榎:全国的にも多かったわけ。で、昔から神戸で田村孝之介(1903—1986)とかそういう有名な人もおったわけ。鴨居玲(1928—1985)もおって、後から出会うんやけどね。そういう中で僕らはそういう展覧会に入選するために――展覧会に出す以上入選せなあかんわけ――いろんな先輩とか審査員になってる人が近所にもおったし、そんな人の話を聞きに行ったり、絵を見て回ったりするわけ。いろんな先生がおって、特にそういう展覧会の在り方とか、展覧会に入選するために――まず入選せなあかんわけ、そうしないと飾ってくれないから――どういう絵を描かなあかんとかね。二紀会はこういう芸風とか、具象でもこういう具象が好きやとか、通りやすいとか。そういうことを教えてくれるわけ。
 で、僕の友だちで、今も絵描いてるんやけど、そいつがそういうことをよう知っとって。僕はもう全然知らないから、一から教えてもらって、展覧会に入選するために取り組むわけ。彼はアトリエを持っとって、展覧会のために泊まり込みで僕は絵を描きに行くわけ。こういう絵にせなあかん、そういう絵描いとったらあかん、とか、この色の使い方は、ここに色置いたら見る人はこういうとこから見ていく、とかな。なんかそういう、ほんとに「展覧会に通るための絵」というもんを教え込まれるわけ。それはものすごくありがたかったけど、大変やった。
 僕は昼間、働いとるわけ。彼はふらふらしとってね。週に1回か2回子どもに絵を教えたり。僕が帰ってきたら、うちの親戚の家でそいつが待っとるんや、家で。「おっ、帰ってきたか」いうて。僕が働いて帰ってきたら。そこの親戚の家で、そいつもご飯食べて、一緒にそいつと絵をやりに行くいうんか。飲みに行くのでも、その日に子ども教えたら、500円やったんかな、月謝が。それを持って、「おっ、今日は月謝が入ったから飲みに行こう」とか「食べに行こう」という感じで、ずっとつきおうとった。展覧会でも、そいつはアトリエ持っとるから、今度はアトリエ合宿や、泊まり込んで絵を描くわけ。そんで僕は昼間働いとるやん。あいつはふらふら昼間寝とってね、僕が帰ってくるのを待っとって制作を始めるわけ。そんなのが1週間ぐらい続いたかな。もうフラフラ。

池上:大変ですね(笑)。

榎:全然寝えへんの。もう寝んと絵描いて、フラフラになって、何描いとんのか分からへん、3日ぐらいしたら。ぼーっと描いとるだけ。そいつは「おっ、このぼーっとしたとこがええんや」いうてね。そいつがうまいこと言うんや。あまり頭で描くんでなしに。「だからおまえは一生懸命昼間働け」いうて。夜うち来て描けいうて。

江上:疲れてるぐらいがええって(笑)。

榎:僕が働いた小遣いが入ったら、飲みに行こういう感じで、うまいこと言うやつでな。で、最初展覧会に入選したんや。まあ東京まで見に行って。

池上:それは初めて応募して、それで同時に入選した(1965年)。

榎:うん、入選した。なかなかやっぱり難しかってな、その頃入選するのは。

池上:それはどんな絵だったかというのは覚えてらっしゃいますか。

榎:どう言うたらええんやろ。僕は結構細かい絵描くんが得意やったんやけど、そいつは、そんな絵描いとったらアカンいうてな。なんかわけのわからん心象風景みたいな。抽象でもないんやけど。

池上:1点だけ出されたんですか。

榎:2点出して、1点通ったんかな。自分でも、こんなんでええんかなと思ったけど。僕はもう一個のほうが、ちょっと形があるような、何の形か分からんけど、ボリュームのあるような感じのものにしとって。あとは自然いうんか、宇宙いうんか、動物みたいの中にガーッとあるような感じでな。

江上:形というのは、わりと抽象的なイメージみたいな?

榎:今言うような抽象でなしに、ドローッと絵具が溶けたような、なんとなく精神的な世界いうんか。もっと分からないような世界を描いた。何か真ん中が抜けとって、クーッと向こうへ行くような感じで、周りに何かがあって。何かは分かんないんだけど。それが通って。あっちのほうが、僕は、描いたいう感じがしとったんやけど、あんなんが通らんで、こんなんが通るんかなとか。だから「展覧会ってこんなもんかな」と思って。でも何回か出したんかな。

池上:そのお友だちのほうはいかがだったんですか。

榎:彼も通ったんかな。彼はもう何回も通っとったから。だから要領知ってるいうんか。通らない時もあるんやけどね。それもいろいろ自分らで反省したり、展覧会について考えたりするんやけど。そうしてるうちに鴨居玲いう人がうちの研究所へ、デッサンをやりたいと言ってきて。さっきの六三ではないけど。彼はスペインとかフランスの方へ行っとって、いつも年に1〜2か月、年末に帰ってくんの。姉さん(鴨居羊子、1925—1991)が芦屋の方におってね。それで帰ってきたら、僕らの先輩で、研究所を立ち上げた古川(清)いう人がおってね。その人が芦屋の方の田中千代洋裁学校に丸本耕(1923—)さんいう人と一緒に教えに行ったりしとって、鴨居さんなんかと出会いがあって。鴨居さんが日本へ帰って来てる時に手を動かしたいいうんか、レッスンやりたいいうか、僕らのとこへ紹介されたわけ。なんかそういう場所つくってくれへんか、いうて。僕と松井君と、もう2、3人おったかな、そんな子らともう一個研究所つくったわけ。僕が行っとったんは青木教室いうんやけど、その研究所つくって、デッサン教室いうものをやって。そこで好きな人、誰でも来る。
 鴨居さんというのは男前で、カッコええやつでな、もう腹立つぐらいもてるんよ(笑)。芦屋の田中千代というのは洋裁学校で、もう一個子供服をやってるのがあったんよ、有名なとこ。そこの生徒なんかも来るわけ、デッサンを習いに。もういっぱい若い子が来んの。もうデッサンは50人とか、そんな感じ。僕らのとこは、月謝は一応払うんだけど、先生とかそういうな人に報酬はあげないの。その月謝とかを積み立てとってね。その時にZEROいうグループで「ゼロから始まろう」いうことでデッサンの研究所ZERO(「デッサン研究所ZERO」)いうのをつくってやり始めたんやけど。それは二紀会の人もだいぶ来とった。それで若い人でワイワイパーティやったり、ほとんど飲みに行ってばっかり。
 それで3、4年やった時になんかお金がたまってね、研究所の。40万ぐらい貯まったんかな。先生ったって、みんな上の人が下の者に指導してるので、先生っていないから、入会金とか月謝を全部積み立てとったんやな。「ZEROの活動に使おう」いうて。ZEROの研究所のデッサン展とかそういうのを企画したり。僕は鴨居さんにも二紀会、昔出しとったけどいっぺん中断しとったんよ。また二紀会の方に出して。その頃、鴨居さん、ものすごい賞もらって。安井賞ちゃうわ、何やった?

江上:安井賞。

榎:安井賞取ったり、昭和会賞取ったりして、結構絵がボンボン売れ出したんかな、その頃から(注:鴨居玲は、1969年に昭和会賞と安井賞を受賞した)。だから僕らは、飲みに行ったってみな鴨居さんのおごり。もう毎晩ぐらい宴会よ。そんなんで、僕はまだその時絵描いとったから。展覧会にも出しとった。東京では入選して、関西の方でも市長賞か知事賞かなんか、もらったんやけど。一番の最高賞は、二紀賞っていうのがあるんやな。それの候補にも挙がっとったんやって。僕はその頃は絵って、あんまりちゃんとした額縁に入れてない。木を黒く塗ったり、木を貼ったりしただけで。その時言われたんや、鴨居さんに。絵と額縁そんな粗末に扱ったらあかんて。鴨居さんは自分でカネ出して、額縁屋に頼んで、すごい額縁を作ってくれてね。

江上・池上:えーっ!

榎:これに入れ替えろ、いうてね。まあ間に合わんかったんやけど。だけども大切に入れ替えして。一応候補に挙がっとったしね。審査員も、やっぱり自分の教え子がそういうとこに、候補に挙がっておったら、まあ情があるし、どっかに欠陥があったらハネられてしまうわけ。例えば額縁とかね。額縁まで神経が行ってないとか。絵はいいんだけど、そういうのがあるとか教えてくれるわけ。

池上:なんか理由をつけるわけですね。

榎:そうそう。それでやっぱりそういう絵の展覧会とか賞の在り方とか見えてきて。やっぱり賞を取る人は先生にいろんな、おべっかとか、何かお供え物持って行くとか(笑)、上納金かなんか知らんけど持って行って機嫌とっとるのがほとんどや。見えるんや、そんなのが。やっぱりおべんちゃら言うて、うまいこと。僕はそんなの嫌いやねん。そんなまでして出したくないう感じ。そんなんが見えてくるし。
 で、さっき言ったように、東京展があって、関西展、神戸展。神戸展は、その頃「さんちかギャラリー」いうんが出来た頃やってん。神戸国際会館にもそういうギャラリーがあって。そういう大きな展示ができたんや。その時に手伝いで、いろんな設営とかパネルを作ったり、作品を運んだり、全部僕らがやるの。そうして、なんでみんな、そういう展覧会に関わってこないんかとかなと。自分たちの展覧会を見せるわけやん、みんなに見てもらうんやん。そんな大事なもの、なんでみんな興味ないんかなと。上から言うだけで。「同人」って中間の人もいて、幹事みたいに動いてくれるんやけど。そういう人は分かるんやけど、上の人は全然そういうもの、展示、展覧会とかに興味ないの。

池上:若い人にやらすだけみたいな感じで。

榎:やらすだけやらして。やらしてやっとるねん、みたいな感じで。だんだん展覧会とか、絵とか、「なぜ展覧会やるんか、あの人たちなぜ展覧会やってるんかな」とか、そういう自然な疑問が出てきて。なぜ絵描きになったんかとか、そういうの聞きたかったし。

池上:そういうことは話にはならない感じなんですか、二紀会の偉い人たちというのは。

榎:ならない。それはもう先生は先輩やし、飲みに行ったって、「いやあ先生の今回の絵、いい色でしたね」とかそんなうまいこと言うばっかりや(笑)。僕らはそんなん分からへんから、絵のことはあんまりうまく言えないし。ある程度やってる人やったらうまいこと言うわけやん。「いやあ、あの額縁は良かった」とか。アホなことばっかり言うとんや。そんなんもう嫌で嫌で。それでもうだんだん。鴨居さんもそういう人で、わりとそういうことを聞いてくれる人やったから。僕らの仲間でも二紀会に出したい、言う子もおるけど、どう出していいんか分かんない。僕らは何回か出しとるから、いっぺん二紀会の組織について聞いてみるいうて、質問状を作って。自分たちが疑問に思てることとか不思議と思てることを描き出してね、何十項目か。それで二紀会の人をみんな集めて、話し合いいうんか、討論した。

池上:それは神戸二紀。

榎:神戸二紀の人。それで向こうは嫌がっとったわけ。「おまえら、クソ生意気や」いうて。「おまえら生まれる前から絵描いとるんや」いうて。いちいちそんなこと言う必要ないっていう感じで、話にならんの。相手にしてくれないわけ。で、僕らは、組織として二紀会に対して質問をちゃんとしたいから、書類で回答してくれ、いうてね。こういうのをやりたいから集まってほしい、いうて。国際会館借りてね。もう向こうは70人ぐらい集まってくんの。80歳の人とかね。

池上:でも、ちゃんと来るのは来られたんですね。

榎:来た。向こうもね、何言うとんのか、いうて興味があったんかどうか知らんけど。全部が全部は来なかったけどね。

池上:若い子が何か言ってる、という。

榎:80人やったか、5、60人やったか忘れたけど、とにかくすごい。小笠原誠次(1927—)とか、そういう委員の人が前にずらっと並んでね。あとバーッと同人の人が並んで、一般の人もずらっとおってね。僕らは6人ぐらいおったんかな。

池上:榎さんはその代表みたいな感じで。

榎:僕は代表をさせられてもうてね。僕が質問を読み上げて。

池上:ちょっとこわくなかったですか。

榎:こわかったよぉ。ドキドキ。僕は普段もうきたない格好して、絵具がついたようなボロボロの服着とるのに、背広着て、ネクタイしめてね。書類持ってバッと読み上げて。僕らの仲間が5、6人おって。そんな中で読み上げて、質問して、回答してもらうんやけど。うーん、なかなか、向こうはバカにしたような感じの回答ばかりで。

池上:その場では話し合いにはならなかったんですか。

榎:そういうふうに回答はあるけど、あまり話できなかった。結局、向こうは、「こういうことはやめてほしい」っていう感じで。

池上:あまり真面目に取り合ってもらえなかった。

榎:僕はね、たしかに絵とか先輩はもちろんそれなりにいいものもあるし、尊敬してるけど、彼らは展覧会というもの、発表ということに対して、絵と発表、作品と発表をまた別に彼らは考えてるみたいなの。別に考えてるいうのか、考えないんよ、展覧会のことを。ただ入選して、通ったら、いう感じでやってる。

池上:絵を掛けるだけの場ですか。

榎:そう。展覧会ということを考えてないの。その辺は、僕はものすごく不思議やった。展覧会する以上は、見に来る人はみんなが絵の好きな人とか、絵描きになろうとする人ばっかりと違うんや。絵の知らない人も見に来るやん。なんかそんな人のことを思わないんかなと思うわけ。そういうとこがものすごく不思議やったし。

池上:二紀会の中で認められるということの方が目的になってる。

榎:うん。それはそれでね、そういう人たちにも、新制作とか行動美術とか、いろんな派があるんやけどね。なんか派で美術が分かれてるのは、僕はものすごう不思議やったわけ。だから絵はそれぞれ個性いうのか、個人的なもんだけど、それを発表するときには、狭いところで、個人個人のものの考えで絵が生まれてるいうのか。それで僕はちょっと、展覧会というのは、おかしいなと思ったわけ。それで、そんなこと言うたら怒られるしな。そしたら、僕らで一緒にそういうことを考えるデッサン教室を作ろういうてね。デッサン教室いうてんけど、ZERO研究所いう研究所、そういうことを考える場所にしよういうて。基本的にものを見るとか、絵を描くという手の修練とか、そんなんを大事にするいうことは、僕らもしとったわけ。そういうことをやりながら、実践的に社会の中で発表したり、行動していくことをやろういうことで。さっき言った松井君とか、先輩だった古川さんいう人が。古川さんいうのは武蔵美出た人でね。丸本耕いうて、その人は抽象的な彫刻とか、面白いものやってた。そういう人が一応僕らの先輩、顧問みたいになっていろんな話をしたりとか。ただデッサンでなしに、別の日に、そういう美術について、現代美術いうんか、「現代美術」いう言葉があったんかどうか知らんけどね。

池上:まだそういう感じじゃなかったかもしれないですね。

榎:そういうものについて話し合いをしたんかな。その時、丸本さんとか、絵描きの人でなしに、乾(由明、1927—)さんとか。

江上・池上:ああ。

榎:乾さんとか木村重信(1925—)とか、高橋亨(1927—)やったかな、大阪の方の人とか。そんな人たち呼んで。

池上:当時の若手の先生たちですね。

榎:それとか、僕がハンガリーへ行った時(1977年)、向山(毅)さんいうて、京都大学の物理学者で、原子核とかそういう研究しとる人がおって。そういう人を呼んで。数学者とかね、音楽家とか舞踏家とか。そういう人呼んで、週に1回とか。僕らの研究所からそういう人にお金を渡して、2時間ぐらい話して、あとみんなでワイワイ飲みに行ったり、勉強会をずっとやっとった。そういうなかでだんだん、そういう勉強だけでなしに、それをやっぱり実践していくんよ。そんで僕らはまた金出し合って、シンクタンクみたいな、事務所みたいなのを一人10万円ぐらい出して、6人ぐらいで。

池上:結構大金ですね、当時10万といったら。

榎:大金よ。まずそういうのに出して。そこで小さなレストランとかで油絵を先輩が教えて。僕は会社勤めしとるからできなかったんやけど。そういうとこでまた別な活動を始めて、だんだん外へ向かって表現していくのが、ハプニングというのか、街の中、都市の中で行動を起こしていくことに。

池上:ちょっとだけ話が戻るんですけど。そのちょっと前に個展をされていると思うんですけど、ギャラリー新光っていうんですかね(1968年5月18日—24日)。

榎:個展はねえ……

池上:個展「生成」っていう。

榎:そうそう。

池上:すごく面白い絵を出されていて、ちょっとそのお話もお聞きしたいなと思ってたんですけど。

榎:絵を描き始めた時かなあ。

池上:1968年ですよね。

榎:うんうん。

池上:こういう。

榎:だいたい最初ね、こういう感じがもっと分からない感じやったんかなあ。一番最初ね、二紀会の時、これやったかな。それが入選したんかな。

池上:(資料集を見せながら)これが二紀会に入選した作品ですか。(注:『Everyday Life/Art Enoki Chu 榎忠』、青幻社、2006年、10頁に掲載。)

榎:うん。それはね、宇宙みたいな中にね、胎児というか、なんか生命が生まれてくる。宇宙の中でそういうのが、生まれてくるという。

池上:これもさっきおっしゃってた作品と似てますね。

榎:そうそう、そういう感じ。

池上:わーっと向こうに抜けていくような。

榎:二回目はね、もっと、こんな形がなかったわけ。これはまだ形があるんやけどね。なんかそういう世界やった。だんだんこういう形が見えてくる世界になってくるんやけど。

池上:こちらのほうは、なんかちょっと終末的なというか。

榎:そうそう。これなんかは、いろんな地球の自然、そういうとこからずーっといろんな芽が吹き出して、成長して、水とかそういうのが生まれて、天に上がって、それがまた天に循環していく。そういうのをずーっとやっとったわけ。

池上:なんか生命の輪廻みたいな。

榎:うん。そういう中で原爆とか、世界大戦があったりして、いろんなとこで分かれていく。だけどいつかまたひっついて、ずーっと繰り返していく。なんか一つの花が生まれて、睡蓮の中から花が生まれてきたり。こっちとこっちはいがみ合ってるんやけどね。これは神さんというか、この花がひとつの何かを持っていて、そのいがみ合いを調整してるっていう。

池上:統合してるという。

榎:うん。それは、どこを見ても怪獣とかお化けがおったりね、なんか油断したらもうガーッと襲ってくるわけや。だから油断できん世界やねん。

池上:そういう世界なんですね。

榎:そういう世界。これもそうだけどね。

池上:この絵はこの写真をベースにしてらっしゃるんですか(『Everyday Life/Art Enoki Chu』、11頁)。

榎:この子にモデルになってやってもらったんやけどね。こういう、おんなじ絵を描くんだけどね。これはちょうど万博のマークやねん、これが。

池上:あー、ほんとだ!

榎:ちょうど僕がお腹にマーク入れた時ぐらいやったかな。

池上:でも68年ということは万博よりは前ですけど。

榎:これは個展ではない。個展はこの間ぐらいかな。これとこれの間ぐらい。

池上:ああそうですか。こっちはべつに個展に出てるわけではないんですね。

榎:個展に出たやつは全部なくなった。

池上:あー。このへんの女性の。

榎:これはもう最後の頃かなあ。

池上:この辺はまだ残ってるんですか、こういう絵は。

榎:これは残ってるかな。あるかどうか、ちょっと分からんな。

池上:でも、この背景にこっちの絵が描き込んであったりして。

榎:あるでしょ。外の風景がこういう風景で、風景画を飾ってるわけ。壁が厚いわけ、すごく。それは、世界はもう第三次世界大戦で、放射能が蔓延しとってね、出られへんわけ、家から。自給自足やねん。編みもんしとんの、この女の人。火をおこすとか、果物、自分で作っていくの。編み物も自分の食べ物も、自分で編んで作っていきよるわけ。

池上:それを食べて生き延びていくという設定なんですね。

榎:そうそう。外はそういう感じでね。外も出られない。外はそういう風景やから。こわいし、それに犯されてしまう。

池上:怖い設定ですね。

榎:後ろに大きい万博のマークのなにがあるんやけどね。これも生と死いうのか。なんかそういう中で滅びていくいうのか。

池上:この個展の反響というか、どういうふうに受け止められたかというのは。

榎:どうやったんかなあ。忘れてもうたけど。ちょっと変わった、細長い、1メートルの4メーターとか、すごく変形のカンヴァスにこういう世界をダーッと、放射能に犯された自然を描いとったんやけどね。いろんな花があるんだけどね。全部変形してて。

池上:テーマ的にはつながっているわけですよね、ずっと。

榎:ずっとつながってんの、うん。花も放射能で犯されてね、異形いうのか。そういうのが変形したとか、いままで小さいもんが大きく変形したりとか、そういう植物とかね。動物って、具体的には見えないの。動物なのか、植物なのか、石なのか、なんか分からんような世界かなあ。

池上:やっぱり原爆のこととか、第五福竜丸が被曝した事件(注:1954年、ビキニ環礁で第五福竜丸という漁船がアメリカ軍の水爆実験の放射能を浴びた事件)とか、そういうことについて考えて?

榎:あんまり僕は考えへんの。そういうことになったらどうなるんかないうことは、結構ずっと田舎でおって、何の世界か分からんような、ジリジリいうような世界って何かなというとこが、原爆とわりとひっつくとこがあるわけ。だから僕が小学校か中学校か忘れたけど、広島の原爆の映画とか、あんなん見て。すごい川の中で焼けただれて死んでいくとか、そういうの映画観たり。映画館に入ったら、演出かなんか知らんけど、消毒の、病院のにおいがするわけ、映画館で。

池上:えーっ?

榎:それは記憶に残ってんの。映画館でするはずないのにね。

池上:すごいですね。

榎:なんでかなと思てね。それから、暗い建物の中で、真っ黒になった建物の中で、看護婦さんが、死体がいっぱいあるところで手当とかやってる。なぜ川へ入るかというたら、熱いし、もうとにかく水が欲しくなるいうのか、そういう中でみんな川で死んでるわけ。なんかそういうすごい怖い映画を観た。そういうのがずっとどこかにあるんかな。べつに実際に広島の原爆の現場見に行ったんでもないし、福竜丸もただ新聞とかニュースで知ったぐらいで、あんまり深く興味はなかったんやけど、そういう映画観たら、子どもの時分に洞窟でそういうのを見た世界を思い出すわけ。

池上:なんかどっかでつながってるんですね。

榎:うん。想像するいうたら、体験した感じのもんしか想像できないから。知らないものは想像できないし、感じないから。だからそういうのがずっとつながってるんかなあ。だから絵にもそういうのが出てくるし、そういう世界ってなかなか描けないんよね。こんなんじゃないんやけど、これが近いかなとか。だから変形して描いたりするのも、こういうふうに変形するんかなとか。花は、いままではいろんな虫が来やすいような色やけど、それはやっぱり、この花は「危ないよ」とか、そういうサインを送るためにこういう変な色や形になったんじゃないかとか。「これを食べたらいけない」とか。「花粉を食べに来い」いうんでなしに、この花を食べたら、放射能が連鎖していく。だからこれは食べたらいけないとか、なんかそういう想像の仕方で作っていく。

池上:じゃあ具体的な、原爆に対する声明というのではなくて、なんでしょう、想像力のきっかけになるような感じ。

榎:僕もそう思うね。だいたいみんな、根っこにそういうもんがあるわけ。だからそれを作品にしようとか、展覧会へ出そうとかいうんは、僕は最初からイヤやったわけ。だからこの万博のマークとか、ああいうのやったけども、全然あの時の記録もないし、何もとってない。その頃はそういう写真を使った作品が多かったわけ。身体測定とかね。いろんな体を測定したりとか、身体を裸で見せたりとか、そういう行為を見せる作品で。写真の作品って、そういう作品が多かった。僕がやってるハプニングいうのは、作品とは違うわけ。僕は「ハプニング」というか、体を使った身体表現はものすごい大事やと思ってるわけ。単なる作品でなしに、やっぱり自分の体を晒して、いろんな人と出会って、その人の顔を見て何を思うか。そういうことをやってきた。
 たまたまあとになって、いろんな版画にしたやつとか、《ハンガリー国にハンガリ(半刈り)で行く》が「痕跡」展(「痕跡――戦後美術における身体と思考」(東京国立近代美術館、2005 年1月12日—2月27日/京都国立近代美術館、2004年11月9日—12月19日)とかああいうのに載ったりするんだけど。だから今になって、あとから作品に。まあ、作品は作品なんだけど、展覧会とかああいうのには僕は入れたくなかったわけ。そうすると見る人は作品と思って見てしまうでしょ。「あっ、これは面白い」「あっ、これでも美術か」「これが作品か」って、こういうことやっとったら美術やと思う。だけど僕はそういうのは。うん、それもあるよ、表現の仕方。写真とか、映像を使ってやるとか、いろんなの。今の新しいのを使ってやるのもいいと思うんだけど。だけどそう思ってしまってるわけ、みんな。「ああ現代美術ってこうか」って。

池上:その枠の中で理解しちゃうんですね。

榎:そう、枠の中でモノを見るやん。僕は、それは勘違いであるし、見る人もそういう見方したらいけない、ということで。僕は、大砲とか銃とかあんなんでも、ものすごく具象的にそのままのものを作るわけ。あれを抽象化して、「これは作品」みたいにデフォルメしたり、漫画チックにしたりするのは、僕はちょっと。見る人が見たら、「あ、これは芸術作品や」と思って見てしまうわけ。そしたら僕がやろうとするんと違うわけ。だから僕は、やっぱり怖いとか、重たい、冷たい、触ってみよう、というのがやっぱりやりたいわけ。そういう中で「美術」いうもんは、あとから考えてくれてもいいと思うの。そこで見た瞬間、「あっ、こいつはなるほど、版画にしてるな」とか、「あ、こういうのが身体表現か」とか。今やったら「そういう作品かな」って、そこで終わってしまうわけ。想像力とか、ものを見るとか、美術というものに対して。
 だけどほんとはそうではないんだけどね。もっと見る人はちゃんと見る、そういう見方とか想像力はあると思うんだけど、多くの人はそうなってしまう。特に美術を知らない人はそういうように思い込んでしまう。僕は、美術を知ってる人は、それぞれがやってる仕事やからいいと思うの。放っておいてもいいの。だけど僕がやろうとする美術は、子どもであろうが、現代美術を知らない人でも、美術いうもんに入ってほしいわけ、とっかかりいうのをね。それを知るにはどうしたらいいんかいうことを、やっぱり僕は考えるわけ。単なる作品作って、「これは彫刻です」とかいうのでは、なかなかそういう人は分からない。見に来にくいと思うの。だからよう言うやん、「現代美術分からん」とか。行ったって分からへん、何しよんか分からへん、何考えとんかな、と思う。それはたしかにそうや。僕もそうやもん、今の現代美術。みんな何やろうとしとるんかなって。作品は分かるよ。何をしようとか。何をしよるんか。なぜ美術でやってるんかなって。何を表現しようとしてるんかなと。

池上:根本的なこと。

榎:根本的なことがね。美術って何かなって、ずっと僕も探してるし。探しても、あるもんでないと思うんやけどね。作り出していくもんやと思うの。だから、不思議やから面白いんちゃうかなと思うわけ。全部そういうものに引っかかってくるから、行きつくところはどうしても、子どもの時感じたもんとか、怖かったもんとか。それは世の中知らなかったからものすごく怖かったわけ。だけど今やったらいろんな情報が入って、あるいはいろんな数字まで出てきて。何ミクロンとか、これ以上吸うたらあかんとか、そういう数字で判定してしまうやん。そういうことは僕は分からへんし、そんなんで信じられへんし。そういう数字を使う人は嘘つきやねん。要は学者とかそういう専門家は数字使わなやっていかれへんわけ。納得させられないわけ。だけど数字は正直なんよ、数字やから、ちゃんとしたもんやから。使う人がものすごく悪人やねん。悪人やから、嘘つきやから、それがみんなに伝わっていく。僕らはその数字しか判断できないんや。その数字がどんなもんか分かんないけど、ただそれしか分からないいうのがものすごい怖い世の中やねん。

池上:そうですね。被曝量がどれぐらいだとか言っても、その数字をどう使うか。

榎:なんかそういうとこが美術なんかにもあるんちゃうかなと思うわけ。だから僕はどうしたらいいかいうことをやっぱりやっていきたいなと思うわけ。この間ね、展覧会会期中に、田舎のね、小学校の同級生が10人ほど見に来てくれたんよ。薬莢とか銃弾とかあったわけ。「ああ、行ったなあ」いうて、「拾いに行ったなあ」いうてやな。

池上:昔の仲間はそういうふうに見てくれるわけですね。

榎:そういう子はね。

池上:「おまえ、まだ同じことやってんのか」みたいな。

榎:竹の大砲も置いとったわけ。そんなん一緒に遊んでおったわけよ。「へーっ、まだそんなことやっとるんか」いうて(笑)。

江上:「まだ」いうのがね。

榎:まだいうか、「鉄でやっとんか」いうて。

江上:「グレードアップしてんな」って。

池上:「それで仕事になってるんや」っていう(笑)。

榎:「そら仕事になっとったらいいんや。仕事にならんからもうおもろいんや」いうて。

池上:たしかに。先ほどおっしゃっていた、根本的なことまで考えて二紀会を結局は脱会されたわけですけども(注:1970年)、この後はもう油絵って全然描いてらっしゃらないんですか。

榎:描いてない。

池上:まったく?

榎:描いてない。

池上:なんかこう、描いてみたくなったり、油絵の感触が懐かしくなったりとかいうのもなかったですか。

榎:ない。僕は、さっき鴨居さんに会うて、研究所で積み立てとった言うたやん。その時は、目的があって貯めとったんでなかったわけ。それが貯まったわけ。その頃40万円ってごっついよ。

池上:すごいですよね。

榎:その頃、1960年代の終わり頃やったから。そうしたら、鴨居さんはやっぱり金沢の美大に行くのに、大学の時バイトしよったんやって。映画の看板描きやったりとか、苦労して大学行ったり勉強しとった。だから、若い人が一生懸命勉強して、こういうように貯まったんやから、そんな苦労せんとね、パーティ開いて、あみだくじで誰か洋行さそうって。ZEROから外国に派遣して、絵の勉強させようって。僕らまだその頃絵を描いとったから。

池上:いいものを見せてあげようという。

榎:うん。とにかく外国へ行くいうのが条件で、好きなように使っていいいうことで。それはあみだくじやったんよ。その時に、研究所に1年間以上在籍しとる人がそのあみだくじを引く権利があるわけ。僕はその時幹事をやっておったわけ、そのあみだくじの。それでいろいろ、最初は50人ぐらいおったんかなあ。

池上:そんなにいたんですか。

榎:それで20人に絞るわけ、第1回戦は。それで20人残って。僕も残っとったわけ。それで今度は10人選ぶわけ。その時、兵庫の原田の森(注:当時の兵庫県立近代美術館)でムンク展やっとった(1970年11月18日-1970年12月20日)。伊藤誠(1929—2012)という人が神戸新聞に勤めておって。あとで姫美(姫路市立美術館)に行った人やけど、その人がいっぱいチケット持ってきてね、20人残った人に入場券をくれるかなにかして。それでまあ進行していくわけ、あみだくじを。今度10人残るわけ。その時女の人が8人残ってね。僕も残っとってん。もう一人男の子、デザイナーかなんかが残っとって。男の人は「オレ仕事があるから、もし当たったら行かれへん」いうて辞退したわけ。それでもう一人男が入ったのかな。結局、あみだくじをまたダーッと、ワイワイ飲みながらやるわけ。「アーッ」とか言いながら。で、最後にね、僕が幹事やから、みんな残ったやつを僕がやるわけ。最後にパッと引いて。その時鴨居さんとか元町画廊の佐藤さんいう人がいて。その人はまあ言うたら立会人みたいなもんで。だんだん外れていって、僕に当たってもうてな(笑)。そんなみんなが「わー、これはイカサマや」言いよってな。

池上:幹事だから(笑)。

榎:幹事やからいうてね。

池上:でも最後に選んだんだから。

榎:最後に選んだ。それはいかさまも何もないんよ。みんなビックリしとるぐらいで。みんな「わっ、これは仕組まれたやつや」いうてね。僕が当たるように誰か仕向けたんちがうかいうて言う人もおったぐらい。

池上:だってみんな行きたいですよね。

榎:それは僕はね、会社もあるしね。そんなんべつに、このパーティが面白くなったらいいと思とったわけ。でも当たってもうてね。

江上:当たってもうて(笑)。

榎:「わー、どうしよう」と思て。まあいろんな行きつけの飲み屋とか、「デッサン」いう飲み屋行ったりなんかしよったんだけど、そういうところがカンパとか、いろんなところからカンパもらったりして、40〜50万にもなったのかな。

池上:会社は休めたんですか。

榎:うん。鴨居さんは「絵の勉強してこい」言うからね、僕も一応絵具いうか、簡単なスケッチするぐらいの道具を持って行ったんやけど。僕はその頃(ヨハネス・)フェルメール(Johannes Vermeer)とか(アルブレヒト・)デューラー(Albrecht Dürer)とか、結構確実に描く人がものすごい好きやったん。それでそういう美術館を訪ねていく、美術のツアーみたいなのがあってん、1か月ぐらいのツアー。それに、僕も初めての外国やから、そういうとこ行ったらいろんな美術館に連れていってくれるし、泊まることもちゃんとするし、結構自由行動もあるわけ。だいたい一つの国を1週間ぐらいの単位で行けるわけ。

池上:結構いいですね。

榎:うん。それで最初、飛行機でオランダ行ったのかな。オランダ行って、最初はフェルメールとレンブラント(・ハルメンス・ファン・レイン、Rembrandt Harmensz. van Rijn)とか(フィンセント・ファン・)ゴッホ(Vincent van Gogh)とか、あの辺の美術館回って。フェルメールの絵とか見て。フェルメールの絵はね、小さかったんや、思とるより。大きい絵かと思とったんや。たしかに書いてるんやけど、大きさとか。でも、あれっと思うぐらい小さくてね。僕が見たかったのは、風景画、港みたいな。

池上:《デルフトの眺望》(View of Delft、1660–61年)ですね。

榎:うん、デルフトの。それ見て「わー、すごいな」と思って。それはまあまあ大きかった。で、やっぱりデルフトの街へ行きたいと思てね。ほかの連中はいろんなとこへ行って。スケッチが目的やねん、いろんな美術館見て。僕はほとんど絵も描かんと美術館を回って。フェルメールの生まれたとことアトリエがあるとこへ行こういうて、タクシーでね。

江上・池上:わーっ。

榎:ベンツのタクシーやねん。

池上:すごいですね。

江上:カッコいい。

榎:もう一人が名古屋のやつでね、友だちが。「オレも絵よりかそっちのほうがええ」いうて、「行こう」いうて二人でベンツに乗ってね。「ベンツのタクシーや」いうて二人で喜んで行ったんかなあ(笑)。その頃の一万ぐらい使ってタクシーで行ったんかな。デルフトへ行って。焼き物の街やったな。彼は名古屋の有名な焼き物の会社に勤めている人でね、タイルとかあんなのにいっぱい描くような。大きい会社で、あとから「ああ、すごい会社やな」と思って。その人とずっと回って、フェルメール見て。アトリエの中へは入らなかったけど、建物に行って、「ほう、こういうとこで描いとったんか」って。時代が全然違うしね。そういうことを想像しながら、ずーっと回っとった。いろんな教会とか遺跡に行ったり。特にすごかったのは、イタリアのいろんな遺跡とか、ポンペイなんかの地震で埋まってしまったとことか、ああいうとこ。いろんな教会でも、昔、何百年前に作ったような教会。今みたいに機械ないやん? なんであんな大きいに作れるのかなと思って、石で。

池上:石で積み上げてね。

榎:なんか人間ってすごいなと思って。今みたいな機械もない時代に。権力とかそういうのでやらしたんやと思うんやけどね、彫刻にしたって、石を彫っていくいうとこにものすごく感じた。人間ってすごいなって。やればできるんやなと思って。それもそういう権力とか、抑圧された力で無理矢理、奴隷みたいな感じでやらされたんかも分かんないけど、だけどそれでもできるいうのが、途轍もない、人間ってすごいなって。それで僕は、こういうとこへ旅しに来て、絵をやるというのは「何なのかな」と思てね。僕はまだその時25、6歳やったかな。そんなに元気いっぱいあんのにね、絵を描くとか、アタマでそんなことばっかり思って、何しようとしてんのかな、と分かんなくなって。これではもう絵で表現とか、そんなのは僕はできない。うまい人っていっぱいおるわけ。フェルメールとか有名な、あの時代にすごい的確に、精密に描く絵描きっておるんだけど、日本に入ってくるのってごく一部やん。全然名前も知らん人がいっぱい、もうそんなんがものすごいあるわけ、とにかく。もう疲れるぐらいあんの。

池上:ねえ。みんなそれぞれすごくうまいんですよね。

榎:すっごいの。日本でうまいとか下手いう単位ちゃうの。「わー、すごいな」と思て。僕が絵を描こうとしても、そういう絵も、もう何百年も昔にこんな人がやってるやんって。今さらなんぼ僕が勉強して、頑張って修業してやったってね、そこまで行くかどうか分からんわけ。そんな僕も根気もないし、そこまでやろうとする気持ちもないしね。そうしたら何をしたらいいんかということを、ものすごく考えさせられたいうか。

池上:絵の勉強に一応派遣されたはずなんですけど、反面教師に(笑)。

榎:そうや。どっかで鴨居さんに報告せなあかんわけよ。鴨居さんはその時スペインにおったから、最後には鴨居さんに会いに行かなあかんわけ、スペインへ。

池上:写真がありましたね、一緒にカフェで写ってる。

榎:そうそう。それで全然絵も描かんとそういうとこばっかり行ってね。で、もう自分はどんどん、もう絵はできないって。

池上:鴨居さんに伝えたんですか。

榎:いや、その時はまだ。行くまでにいろんな遺跡とか昔の建造物を見て、人間ってすごいな、自然ってすごいなと思って。僕らは美術とか思てて、「ほんとバカみたいなこと思とったんやな」って。それでやっぱり信じられるものは何かっていうたら、やっぱり自分の体しかないんや。汗とか、血が出る。殴ったら血い出るとか。僕、空手ちょっとやっとってね。いろんなとこで、日本人言うたら珍しがってね、田舎行ったら、すぐ「空手やれ」言うんよ。「忍者できるか」とか(笑)。僕ちょっと空手やっとったから、結構真似とかできるわけ。

池上:やって見せてあげて。

榎:そんなら石持ってきて、「これ割ってくれ」とか。いや、だいたい空手はほんまに割るんでなしに、相手を攻撃しないで済む、止めるまでの修練が大事なんや、とか理屈言うて石割るのを避けるんやけど。「型でもやってくれ」言うわけよ、石持ってきて。みんな、割るかと思って、一応僕も格好して、パッと上着脱いで、フンドシになるねん、いつも。フンドシになって割る真似するねん。ほなみんなジーッと見とるわけや。いつ割れるかと思って。ほんでこうやって、止めるやろ、何回も。最後にやっぱりバンと止めるんやけど、あんまりみんなの目がすごいんでな、ちょっとは石にも当てなあかんかなと思ったら、ゴーンって当たってもうて。青紫に腫れてもうてな、もう手が動かなくなって。みんなが「わー、すごい!」いうて(笑)。もう青紫のとこから血が出るわけよ。みんな「手当せなあかん」とか「冷やさなあかん」って手当してくれるの。「やっぱり空手はすごい」いうて。

江上:なんかまちがってる(笑)。

榎:隠して、「いやこんなのたいしたことない、痛くない」言うて。「いや、そんな腫れとったら冷やさなあかん」とかいうて。そんなアホみたいな旅ばっかりしよったんよ。飲み屋、ほとんどもう。美術館か遺跡行っとるか、飲み屋行って、そんな話ししとったんよ。変な人と、知らん人と話したり。

池上:それで帰ってきて、二紀会を脱会されたんですか。

榎:うん。僕は鴨居さんとこへ、空港へ行ったわけ。でもなんか飛行機の都合で一日ずれたんや。ほんとはフランスかどっかから、いっぺん戻ってまたスペインへ入る飛行機やったんやけど、それをイギリスに行かなあかんようになったんや、ロンドンへ。ロンドン経由のマドリッド行きなんやけど。鴨居さんは飛行機がそういうようになったんを知らんから、僕が前に、何日に行くって時間もだいたい言うとったわけ。飛行機のスケジュール全部載っとるから。そんでトミさんいうて、鴨居さんの、向こうでおったカメラマンの彼女とマドリッドの空港で待っとんのに「榎が来ん」いうてね、「あいつカネ持って逃げたんちゃうか」いうて(笑)。それがね、彼女と鴨居さんだけが来とるんとちがうねん。その村の友だちに言うとるわけ。神戸でこういう企画やって、あみだくじいうて面白いゲームをやって、俺の教え子が来るんや、いうてみんなに伝えとるわけや。そんで言い訳ができないわけよ、来えへんから。みんな、「どうしたんや、カネを持ち逃げしたんとちがうか」とか、「事故に遭ったんか」いうていろいろ心配しとった。で、まあ一日遅れて入った時には、もちろん鴨居さんはおらんし、電話も通じないし、分からへんし。電話機がスペイン語やん。仲介の人がおるから直接伝わらないし。しゃあないから、トンちゃん(東仲一矩)というてフラメンコをやってる人がちょうど留学しとったんや、スペインへ。そいつのとこ訪ねて行って、それから鴨居さんに電話入れてもらって、事情言うて。したら、怒っとったけど、「今度は来い」いうて。

池上:榎さんのせいじゃないしね(笑)。

榎:僕のせいちゃう。でも向こうはみんなに言うとるわけよ。

池上:恥をかいたと思われたんですね。

榎:またあの人な、俺はこういうの企画したとかいろんな人に言うてね、みんなに言いふらしとるわけ。

池上:自慢してたんですね。

榎:自慢しとるんよ。それが来えへんかったからな、「あいつは持ち逃げしたんちゃうか」いうて、いらん心配ばっかりして。それでまあなんとか行って。で、鴨居さんの手伝いみたいなのをして。だけどもう僕はその時、もう絵はできない。けど鴨居さんはやれ、やれ、言うてね。

池上:一応できないって伝えたけれども。

榎:伝えてはないよ。でも僕はそういうように決めて鴨居さんのとこへ行った。

池上:心に思って。

榎:鴨居さんに悪いとかそんなんじゃなしに、僕はその時もう決めてたから。で、帰って。1971年に旅行したから、行く前は、まだ絵でやるいうんはどっかにあったわけ。

江上:絵も描いてたし、万博のやったのも1970年ですね。

榎:そうそう。質問状の時も、抗議しながら絵も描いとったわけ。だけどそういう中で、自分もいろんな矛盾がある中で、たまたまあみだくじに当たって行った。そういう出合いやね。

池上:旅行から帰ってきてからは一切描かなくなったということなんですね。

榎:描かなくなったな。それから今度は、ZEROの研究所のほうに力を入れ出した。ZEROの中でもグループで発表をやり出した。最初に、一応ZEROの代表で、4人でまずやろういうて、外部的にね。今まで街中とか山の中とか、そういうとこのいたずらみたいなパフォーマンスをやりよったわけ。

池上:いたずら(笑)。

榎:いたずら。街の中でな。センター街の中とか。

池上:バイクでずっと行ってた時と変わらないとか(笑)。

榎:そんな悪さはしない。

池上:いや、スピリットが似てるのかなと思って。

榎:まあ言うたらそういう感じ。ハプニングいうたらそういうもんやねん。人をびっくりさせる。突如そういうのの中にモノとか人が現れてくるいう感じやった。それがだんだん、「ハプニング」という形式の作品になってしまった。形式だけになってしまった。シュールいう一つの形式で、絵でもシュール的な絵とかいうて、すぐ形式になってしまうんやね。だからそういうのでない、ひとつのハプニングというか、身体を使うとか、そういうのを僕らは実践的にやっていくのをやり始めたんや。

池上:デッサン研究所ZEROというのはまた別に、「グループZERO」というのを立ち上げられたんですよね(注:グループZEROの結成は1970年)。

榎:そうそう。

池上:そのデッサン研究所ZEROの人たちが、こっちに移ってきたわけじゃなくて?

榎:うん、違う。その中で、展覧会とかやりたい人にはいつも言うわけ。やりたいことがあればこっちの方へ言うてくれって。そうしたら半分ぐらいは費用を出すって。画廊でやりたいと思ったらそういうのを否定もしない。べつに画廊でやってもいい。ちゃんとそのやり方、どういう趣旨でやるかとかは一応聞くけど、批判とか、やめとけとは言わない。画廊は信濃橋画廊とかが多かったんやけど、画廊を借りるのに10万円かかるんやったら5万円はZEROのほうから負担する。全部は出さない。5人でやるんやったら、5人が1万ずつ出して、あとは研究所が出す、そういうやり方。だから研究所は変わらないよ。
 でもだんだん、鴨居さんとか年いった人は排除されていく。だんだん僕らの行動が過激になっていくから、絵を描いてる人らは、付いていけなくなったきたわけ。だから「やめてくれ」いうんでなしに、やめていかざるを得ない、引いていくわけ。自分らがやっていることはちょっと彼らと違うと。まあ反省したのかどうか知らんけど、「ああ、これは違うな」いう感じを受けとったんちがうかな。そして僕らのZEROいうメンバーのものになってしまったんやな。

江上:だんだんZEROのメンバーになって活動していく人が残っていく、みたいな感じですね。

榎:そうそう。

池上:デッサン研究所ZEROがコアなメンバーになった。

榎:でも人数はどんどんふくれてもいくし。その頃、僕らがやってる活動は面白いとかで、今度は街中でこういうイベントやるいうたら、いろんなのに声かけるわけ。神戸大学とか甲南大学とかそういうとこで音楽やってる若い子に。その頃ロックとか、フォークとかが流行ってたんだけど、そういう連中にいろんなチラシを渡して、「今度こういうパフォーマンスあるんやけど、一緒にやらないか」とか言って、人を集めるわけ。やりたい学生が集まって、音楽の舞台をつくったり、建築やってる人は建築やったり、デザインやってる人はデザインを担当したりなんかして、街の中でいろんなハプニングを起こしていくわけ。そういうふうにして増える時もあるし、10人ぐらいでやる時もあるし、2、3人でやる時もあるし。1そういういろんな街の人を呼び込んで、学生と一緒にやったりして、150人とかすごい人数になる場合もあるし。

池上:すいません、まだちゃんと分かってないかもしれないんですけど、グループZEROとデッサン研究所ZEROは、基本的には全然別のグループということでいいんでしょうか。

榎:いや、一緒。

江上:最初研究所をしてはって、そこのメンバーでだんだん付いていかれへん人はいなくなって、新しい人は入ってくる。

榎:だんだん前からおった二紀会の人や絵描きさん連中は、もう僕らのほうは動きがすごいから。ドォーッと街中でやるし、怒られるし、警察沙汰になるし。「もうそんなんのと一緒にやっておられん」という感じで。

池上:それで彼らが出ていって、それでその同じ組織を、名前を変えたという。

榎:名前は変えたよ。JAPAN.KOBE.ZEROとかね。最初はグループZEROとかね。何回か変わっとる。

池上:同じ組織が再組織されていったという感じなんですかね。

江上:やる時に名前をそれぞれつけて、名前が変わっていってるんですよね。

榎:そうそう。

江上:それでそのたびにメンバーが増えたり減ったりしてるという感じ。

池上:だんだん分かってきました。すいません、ちょっと混乱して。

江上:よう「グループZEROいつできた?」ってみな聞かはるねん。

榎:僕にとったらね、ずっと最初は青木教室とかから始まって、先生も排除していくというか(笑)。そんで若い人が残ってやっとる時に、鴨居さんとかそういう人が「そういう研究所つくらないか?」って言ってきて。最初は、僕ら「青木教室」の名前は残してやっとったんよ。でも僕はもうZEROのほうが忙しくなってね、あんまり青木教室に行けなくなった。あと松井君いうのが青木教室に残って、ZEROと両方やりよったんやけど、彼は彼はやっぱり絵のほうが。だからどうしても僕らのハプニングとは、どっか続かない、やっていけないとこがあったんかな。自分のやりたいことがあったんちゃうかな。だからやめていくとか、そういうのはべつに否定も肯定もしないし。

池上:だんだんそういう実験的な、先鋭的なことをやっていく人たちに収斂していった。

榎:時代もそうやったんか知らんけど、そういう現代美術のグループが関東のほうでも、そういう連中が出始めたわけ。その時に神戸とよく似たのが、横浜の連中。横浜には作家いっぱいおるわけ。いろんな若い連中が、やりたいやつがおる。だけどみんな発表は東京でほとんどやるわけ。だから神奈川県ってほとんど何もないんよ、ギャラリーとかそんなの。神戸も一緒やけど、まあ多少は古いのがあるんだけど。その頃、神奈川県民ギャラリーが出来たんや、山下公園に。その年にそこの学芸員になった人が、なんかそういうのに理解があったわけ。それで関西の連中と横浜の連中と一緒にやらないか、ZEROも一緒にやらないかいうて。意見交換とか討論会やったりして。それで横浜のそういう連中とやり始めた。
 関西には「具体」とか「位」いうグループがあって、「(THE)PLAY」いうグループも集団でやる。関東の連中はものすごく、なんで集団でそういうことができるんかって。関東にもグループで展覧会やるいうのはいっぱいあったわけ。だけど集団で、個人の名前使ってないの、PLAYなんかは。位でもそう。位は多少個人の名前も使ってたけど。ZEROも発表は、作品でも全部JAPAN.KOBE.ZEROで、誰がやっとんか分からへんわけ。関西でなぜそういうのができるんかということは、関東の連中は不思議がっとったわけ。

江上:榎さん自身は、位とかPLAYのことをいつどうやって知ったんですか、その人たちのことは。

榎:僕が絵を描きよった頃かなあ。

江上:まだ二紀会で描いてる時に、なんかそういう人らもいるらしい、みたいな。

榎:うん。そして近くに河口龍夫とかああいう先輩がおったから。彼は彫刻みたいなんやってて。河口さんの作品は、絵描きみたいなんと違って、わりと理屈というんか、クールというのか、そういうものの言い方いうんか。僕と肌は合わんのやけど、ものすごい魅力があって好きやったわけ。だから飲みに行ったりなんかしてな。僕ら、アホなパフォーマンスやったりなんかする時に、彼もちょうど海に板を並べたりとか、そういうワケの分からんことやっとったわけ。僕もちょうど東京で、銀座で警察に捕まったいうのがニュースで流れたわけや。新聞とかテレビやで。そういう出会いがあって。河口さんとはよう話して。知り合いでは奥田(善巳、1931—)さんとか木下佳通代(1939—1994)さんとか、ああいう人が身近におった。
 僕が一番気になっとったんが池水慶一(1937—)、PLAYをやってる。あの人はね、なんかものすごう興味があってね。どんな人かなと思て。ものすごうこわい存在の人やった。僕らもPLAYのようなのをつくりたいと思ってやったんじゃないんやけどね、どうしてもグループで社会に向かって何かやろうかと思ったら、やっぱり街の中とか山とか自然とか、そういうもんを問題にしなかったらやっていかれへん。自然とかね。行為いうたらどうしてもそういうのになってしまう。そうしたらどうしても似たような感じになるんや、作品が。考え方が。それも嫌やしな。そんなことやったら僕らやりたいことできないし。だからたえず池水さんはすごく意識する人やったなあ。怖い人やったし。だから展覧会で時々会ったんや。京都にもビエンナーレとかアンデパンダンとか。

池上:京都アンデパンダン(展、1964年)とか。

榎:アンデパンダンとか、関西で活動してるそういう人を集めてね、ビエンナーレいうのがあったんや、京都ビエンナーレいうのがね。その時活動してるグループとか個人もビエンナーレに出品できるわけ。その時に美術館は、市の美術館やけど、全部借りてやるとか、そういうのやっとった。そういう時にPLAYと一緒になるんや。そうしたらまたよう似た作品になるんよ(笑)。向こうは吊り橋みたいなやつでね(注:PLAYのメンバーは後でそれを木津川にかけに行った)。僕は布でね、上からゴーッと降りてきてね、空間をガーッと移動するような大きい作品やったりね。木を使った、向こうは丸太使って何かやったら、こっちは松の木を美術館に貫通するようにやったりね。やり方は違うんだけど、考え方はどうしてもそうなってしまう。だから美術館におってもね、彼らに会うたって知らん顔よ。(注:京都ビエンナーレは1972年、73年のみ開催で、選抜された作家による展覧会が1972年、集団による美術が1973年。榎らが出したのは1973年8月10日—19日)

池上:そうですか。

榎:ちょっとも、挨拶もしない。

池上:向こうも、じゃあちょっと意識してたんですね。

榎:向こうも知らん顔や。で、関東のほうから連中が来てね。PLAYとZEROの話が聞きたいいうてね。関東の連中からそういう話し合いの申し込みがあるわけ。京都の美術館の近くの、ボーリング屋の近くの喫茶店で集まって、そこで話したりなんかしてね。関東の連中は結構理屈とかね、言葉でね、そういうもんをやれなかったら作品いうのは信用できないとかいう。理屈で先鋭化していくいうのか、言葉で。

池上:それはどういう方たちですか。お名前とか覚えてらっしゃいますか。

榎:彦坂(尚嘉)とかね、あのへんの連中。(注:1973年の「集団による美術」の際、「五人組写真集編集委員会+5」の参加作家のひとりとして彦坂も出品していた)

江上:あー。

池上:あーって、出ましたね、いま(笑)。

榎:彦坂とかね、結構その頃。そんなら、カッコええねん、池水さん。「わしらそんな知らん」いうてね。「わしらやりたいことやっとるだけや」いうて、もう全然話にならない。向こうは話し合いに、討論しようとして来てるわけ。

池上:論争を。

榎:こっちはアホみたいにね、もう空気みたいなもんや。「いや、やりたいから」「おもろいからやってるんや」と。空気。「こうやってつばつけて、風が吹いてくる方に向かって歩くのになんの理屈がいるんや」いうてね。うん。ぼくらそんなんで、「歩いとったら気持ちええやんか」いうて(笑)。向こうは、「フワー」いうてね。

池上:ちょっと肩すかしをくらった感じですね。

榎:肩すかし。そんな感じやったかな。

池上:面白すぎる。

榎:その時に、「わー池水さん、やっぱカッコええなあ」と思てな。で、僕らは横浜でやったり、ビエンナーレとかに出して。わりと面白いいうて、ちょっと変わってるいうことで、新聞とか、『美術手帖』とか『みづゑ』に載ったりするわけや。そしたらやっぱり関西におる連中は、若い者はどういう方向に行っていいんか分かんないから、僕らのとこ訪ねてくるわけ。一応うちへ来たらデッサンとかやってみんな月謝払うわけ。そういうようにやりながらそういう展覧会を。

池上:デッサンもやってはいたんですね。

榎:やってるよ。だからものを見るとか、そういう手のことは身体的に埋め込まなあかんいうてね。そういう中で、ただ見たものを描くんでなしに、考えるデッサンいうか、それを手で、体で覚えこませなあかんということはやっていた。それは基本的な姿勢として持っとったわけ。

池上:それは研究所に入る前と姿勢は変わってないですね。

榎:変わってない。そういう中で美術を考えていく。そういうデッサンの仕方やった。だからデッサンって、写真を見てもなんでもいいし、写してもいいわけ、いろんな型を。それでもいいんだけど、なぜそういうことをやるかいうことを考えていく。そういうことを徹底的に。だから変な、タワー描いたから展覧会出すとか、そんなのは許さなかった。
 だからそういうようにだんだん、僕らのグループはユニークやいうことで若い人が集まってくるんだけど、彼らも、僕らがやり始めたころと気持ちが違うわけ。みんなは、関東から来たように、理屈いうか、理論でものを作る。特に現代美術は理論がなかったらあかん、とかいうとこで入ってくるわけ。でも僕らは理論でなしに、そういう修練をやらされるし、なんかそういうことやるにしたって、みんなでそういう考えでやる。で、自分の名前いうのが出ないわけ。そのグループで作品を作ったって。結構学生も多いんよ。武蔵美行って、休みの時帰ってきて、僕らのグループ入ってるやつもおるわけ。そういう人はやっぱり絵の方へ行くんやけどね。そういう人もおるから、ここでデッサンを表現にどうつなげていくんかいうことには、興味あるんやけど、「自分は自分」いうのを持って来るから、どうしてもその人らとやってるんと違ったら、やっぱりやめていくわけ。やっぱり言葉が欲しいわけ。「なぜそれをやるんか」という。
 ぼくらのグループも、最初にリーダーがおったわけ、僕の前に古川いう人が。その人がすごく理論的な、いろんな行為とか、現代美術とか、これからの美術をどうしていくのかいうことを、うまくしゃべれる人やねん。ものすごく口が立つ人で。その人は体がちょっと悪くてね。ぜんそくで年に2回ぐらい救急車で、ほんまに死ぬ目に遭うんやな。そんで、なんぼ彼も理論とか言葉で言うたって、作品にできないんよ。一応僕は、そういう制作の方の、展覧会の先頭に立って、リーダーになってやっとったんやけど。だんだんいろんな外部から展覧会の要請があったりとかする時に、一応僕は実際の現場で動いている人間で、彼はやっぱり病気も抱えてるから、どうしても自分が言葉で言うのと、実践的にやってるのと、つながらないわけ。口ばっかりになってしまうわけ。で、「自分はもうやめる」言い出して。僕は困ってもうてね。彼がそういうふうに新しい美術世界に向かって新しいことをやるから、僕は付いていくというか、一緒にやろうとしてやったわけ。
 おおかた10年近くデッサンとかやってきたんやけど、だんだんそうなったら若い子が、入ってくる人が違うわけ。関東から、そういうふうに理論武装しなかったら絵が描けないとか、作品なんかできないような連中になってきたわけ。そんなら僕は、「もう違うな」と思てね。僕はその子らを説得しようとも思わないし、説得したって、説得するものでないしね、こういう世界は。ほんで僕は、「おったらダメやな」と思ってね、この研究所に。だからまだまだやりたいことはいっぱいあったんよ。もっと可能性もあったわけ、集団でやるいうてね。だけど僕自身もいろんな問題にぶつかったりして。ほんとに自分たちがやっていくのが正しいかどうか分かんないしね。これはみんなに指導するようなもんでもないしね。僕はもう単身でやっていくしかないって、みんなに「やめるから」言うて。「みんな、やるんやったら続けてやってくれ」いうて僕はやめて。
 で、1年間ぐらい、何もしなかった。何していいんか分からへん。もちろん会社行っとうからね。その間はどうっちゅうことないんだけど。だけど、なんにもやってなかったら、会社の仕事も手に付かんいうか、おろそかになってしまうような感じで、これは良くないなと。ただ、何かやりたくてウズウズしてくるわけ。でも何やっていいんか分からへんわけ。今まで集団のことばっかりしか考えてなかったわけ、作品っていっても。だから何やっていいんか、どうしていいんか分からへん。何考えても分からへんわけ。
 僕は研究所やめて1年ぐらいした後に結婚したんや。働きながら、美術になんかひっかかりながら結婚して。何もやってないんだけど、「結婚して、まだこんな美術なんか続けていけるんかな」とか。生活は会社行っとうからどうっちゅうことないんやけど、それがずーっとあって。でも、結婚した時かな、もうそれがどんどん高まってもうてね。なんかもう、やりたくて仕方なくて。結婚したし、これから何かやるんやったらやっぱり基本的に食べていかなあかんし、人間やから稼がなあかんのやから、なんかそういう中でやろうと思たんが、家を改造して、家の生活を全部見せて、展示場も家の中でやろうかなと思て。
 その時に、展覧会やった時に頭を半刈りして。それは、どっかに頭の毛をやりたいいうのが前からあったんやけど、いつやってええんかも分からなかったし。前から牛ちゃん(篠原有司男、1932—)の半刈りとか、(マルセル・)デュシャン(Marcel Duchamp)の星型いうもんをすごくやりたいないうのがどっかにあったし。今度は自分でやる展覧会やから好きなことやっていいわけ。僕はあんまり美術とか意識しないでやるほうやから、何やってもいいんやから、ほな頭も。せっかく日常とか生活使うんだから、日常と家を使ったりとか、頭の毛とか、服装でもそうやけど、やっぱりそういうとこも作品にしたらいいんちゃうかなと思て。そんで一つのヘアスタイルを半分にするいうのか。
 いろんな人が見に来たり、近所の子が見に来たり、いろんな近所のガキがいっぱい来るわけや。「頭の毛半分の人が何かやっとる」いうてな。みな近所中に配って、案内状を。新聞の折り込みを近所に配った。それがね、安く配ってくれるんよ。1軒1軒訪問しよったら大変やん、僕ら。

池上:折り込みで。

榎:そういう折り込みで。朝刊はもういっぱい広告載っとるから、夕刊に入れてくれいうて新聞の販売所に頼んで、みんな近所に配った。したら子ども来るんや。「半刈りのヘンなおっさんが何か家でやっとる」いうて。それは僕の家だけでなしに、家のバス道とか、そんなとこに作品置いて、家へ導入するようにしとるわけ。

池上:その時お宅はもう須磨にあったんですか。

榎:その時は長田にあった。育英高校の近くやけどね。ちょっと山の方で、階段上がったりして。そういうの、「面白い展覧会や」いうて。近所の人がもうね、親なんかは、僕が絵描きやとか美術家やと思わないんやん? 宗教家かヤクザか。ヤクザにしてもおかしいし、宗教家でもないしな(笑)。なんかヘンな、「展覧会いうて何やっとんやろ」いうて、家を変なことして。子どもが「見たい」言うから、冒険心がある子が来るわけや、お母さんと一緒に。

池上:お母さん心配だから来るんですね(笑)。

榎:「見たい言うから」ってチラシ持って来とるわけ。「いやいや、入って見てください。お母さんも入って」「いや私はもう表で待ってますから」いうて。「子どもだけ見せて」とかいうて。子どもが入って、いろんな。その時に半刈りで街を歩いた映画とか、その頃作った映画とかそんなんを見せて。映画いうたって8ミリで撮ったやつやけどね。1室暗い部屋作って、映画をやったりして。いろんな差し入れとか、ケーキやいろんなのもらってるから、来た子どもにジュースとかあげて。

池上:それは嬉しいですね(笑)。

榎:子どもは緊張してドキドキしながら、映画観たり、いろんな作品観たりしとるわけ。また作品が面白いんや。家の中にトイレがあったりとか、6畳の部屋を2等分した畳があったりとかね。山からずっと管を引いて、家の外から山の音とか鳥の声とかを家の中に導入したり。海の音。南は海でね。船の音とか車の音が聞こえる。それを家の中に導入して、そんな部屋作ったりね。部屋の中にサボテンが1個あって。風とか水とかが植物へあたる、なんかそういう装置を作って。みんな子どもがごっつう喜んで。

池上:面白そうですね。

榎:須磨で採ってきた石とか砂を利用した作品とかね。子どもが見て、緊張して帰りよるわけ。お母さんが「どうやった?」いう感じで待っとるわけ(笑)。「面白かった」とか言うてな。それを学校で言うわけ、子どもが。

池上:どんどん来るんじゃないですか。

榎:来るんやねん、もう(笑)。ようけ来るんや、いっぺんに10人とか15人。

池上:お菓子足りないですね。

榎:お菓子ない。

江上:最初は豪華やけど(笑)。

榎:そう言うたいうてな。お菓子、ジュースくれたって。そんなん面白かったりしてな、すごく。その時に知り合いの絵描きさんが。向山さんいうて、さっき言った原子物理の学者さんの奥さんが絵描きさんやったんや。二紀会におった僕の先輩のとこへ奥さんが絵を習いに行っておってね。僕とその宮地(孝、1907—1991)さんいう絵描きさん、もう亡くなった人やけど、その人が僕とすごく付き合いがあった。その人もシュール的な絵を描く人でね。僕がこういう展覧会やっとるから見に行ったらええいうことで、その人も須磨やったから、うちへ来てくれたわけ。話しよったら、だんなさんがハンガリーへ、アカデミーの大学で物理学教えてるからいうて、「半刈りしとるんやから、どう?」いうて。「おお、行きたい!」いうて。「ほんないっぺん手紙書いてみるわ」いうて、奥さんが手紙書いてくれて。そんなら向こうの大学のほうから、ビザとかそんなのが取りやすいようなメッセージくれて、ぜひ大学に来てくれいう感じで。それでハンガリーに行くようになった(1977年)。だから、だんだんそういうので人とかといろんなんでつながって。

池上:ハンガリーまで来たところで、かなり長い間、お話を聞かせていただいて。お疲れだと思うので、次回、またぜひ続きを聞かせていただきたいと思います。