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前山忠・堀川紀夫(新潟現代美術家集団GUN)オーラル・ヒストリー 2011年6月30日

新潟県上越市、前山忠 氏自宅にて
インタヴュアー:高晟|、宮田有香
書き起こし:宮田有香
公開日:2019年2月11日
 

参考文献:
2日目のインタヴューでは『新潟現代美術家集団GUNの軌跡 1967-1975』(編著・発行: 前山忠、堀川紀夫、2008年/以下[軌跡]と記す)と『GUN group: Event to Change the Image of Snow (Snow Happening at the Shinano River 1970, Feb. 11/15)』(GUN Group 市橋哲夫、堀川紀夫、前山忠、2009年)を参照しながらお話を伺った。書き起こしでは、その後開催された展覧会『GUN 新潟に前衛(アヴァンギャルド)があった頃』(新潟県立近代美術館、2012)のカタログ(以下[カタログ]と記す)の掲載箇所を追加で補足する。


宮田:今日は2日目のインタヴューということで、GUN結成の時期からお話を伺えればと思います。石子順造さんのお話が昨日出ましたが、石子さんの印象、初めてお会いされた頃のお話から再度伺えればと思います。

前山:確かね、1966(昭和41)年かな。ルナミ画廊(東京)での私の個展の時に初めてお会いしたと思う。彼独特の眼光が鋭い目と早い語り口、そういうのが非常に印象に残っていて。一旦しゃべり出すと止まらないところがありますよね。彼の持論を展開したり、それから……あまり遠慮がないというか率直にものを語るっていう意味では、良い悪い、好き嫌いが非常にはっきりしていたと思いますし、ストレートに伝わってくるところがあります。彼は66年の時に彼の地元、出身地の静岡の「幻触」グループをいろいろとしていたと思うのですけど、新潟でも、「骨のあるのはいないのか」とよく発破をかけられた記憶があります。一個人だけじゃなくて、現代美術を試行している仲間を結成して、その当時の言葉としては「美術運動」みたいなエネルギーが、全国至る所に、地方のなかで沸き上がっていた時で、僕らもその時流に乗り遅れないように、という気もありましたよね。

高:『現代美術』(サン・プロダクション発行、1965年1月創刊、不定期刊行)という雑誌に書かれていたのですよね?

前山:そうですね。昨日話に出た赤塚行雄さん、石子順造さん、それからそれまでにもけっこう論文を書かれておられた大岡信さんとか……。

高:『現代美術』のような雑誌というものは、このあたりの上越や長岡では普通に本屋さんで買えたのですか?

前山:いえいえ、全然なかったと思います。私は東京に行って手に入れましたね。

堀川:後半さ、私が買ったのは地元だから。最初は東京でしか手に入らなかったけれど、後半はこちらにもまわってきたと思います。私は3分の1程度しか持っていないと思うんですけど。

前山:私は一応、第1巻から10巻まで持っていて。

堀川:そうね、全巻持っている。

前山:このあいだ「赤塚行雄さんを偲ぶ会」があったのですが。

堀川:「偲ぶ会展」(2011年4月11-23日、藍画廊、東京)。

前山:「会展」ね。その時に、ほかの方もお持ちだったのですがボロボロということで、私が持っているものを展示しました。

高:10号(1967年5月終刊)で終わっているのですよね。

前山:そうですね。ほんの2、3年の間だったと思います。太田三吉さんの独自の編集方針で立ち上げたのだと思いますけど。その当時の新進気鋭の評論家たちの評論活動の場になったという意味では、本当に貴重だし、その当時の現代美術の紹介を非常に精力的に行われて、いわゆる作家論が展開されたというのは『現代美術』という雑誌の独特のところで、僕らもずいぶん影響を受けたと思います。

高:影響があったのは『美術手帖』や『現代美術』ですかね。

前山:そうですね。

宮田:堀川さんは石子さんや赤塚さんとお会いされた時の印象は?

堀川:直接東京でお会いして出会ったという感じではないので。前山さんが最初口を利いたというか、連れてきてくれた。赤塚さんが66年の11月に来られたのですね。高田の駅までみんなで迎えに出たのは覚えていますね。グループ展をやる予定で、そこでお話を聞くということで来ていただいた(注:「大島画廊企画 5人展」同時企画「講演と公開討論会 赤塚行雄『現代美術 ローシェンバーグ以後』[*ママ]、大島画廊、高田市、1966年11月23日/案内によれば前山、堀川も出品; [軌跡]p. 12; [カタログ]p. 74)。『現代美術』に載っていた論文で、三木富雄論や多田美波論とかを書かれていたので、かっこの良い美術評論家の姿だと思いましたね。雑誌に書いていた方だし、私はすぐに質問をぶつけるようなタイプではなく、話も下手だったので、いつも末子根性でグループの中にいました。僕と亡くなった小栗(強司)君が僕らの学年で、グループのあとの3人は前山さんの学年なんですよね。くっついていた、みたいなものですわ。石子さんと最初に会ったのは長岡に来られた時なので、67年でした。それ以前にはお会いしていません。68年か69年の春頃に前山さんについて行って、中野区のアパート。新宿の中野だっけ?

前山:うーん。

堀川:アパートの狭い部屋で話を聞いて。話以上に、高松次郎の「点シリーズ」のオブジェがあったり。丹羽勝次さんのオーラル・ヒストリーで本阿弥さんが聞き出してくれているのですが、僕が書いたものに丹羽さんの作品を見てね、「変形平面というか立体を平面にくしゃっとしたような形の作品がメールアート仕立てで送られてきたのが壁に掛けられていた」と。記憶があるのですね。でも丹羽さんははっきりそうだったというお話をされていなかったようですが、僕の記憶のなかではそういう像としてあって。
(注:丹羽勝次オーラル・ヒストリー 2010年10月31日
http://www.oralarthistory.org/archives/niwa_katsuji/interview_01.php
インタヴュアー:本阿弥清・加治屋健司、参照:2018年3月30日/丹羽氏は静岡市で活動した美術家のグループ「幻触」(1966-71年)の中心的メンバー。インタヴューでは1968年末から69年前半の、石子順造を軸に、地方在住の作家達の間接的な交流の様子が詳しく知れる。)
そのあたりからメールアートの発想も深まったようなところがありましてね。石子さんは早口ですごくアジテーターみたいだなと。まぁ最後は石子さんをギャフンと言わせるような作品をつくりたいものだなと思ったくらいですね(笑)。だから直接影響受けたというより……、前山さんが動き出したところについて行ったわけだから、影響を受けたと言えば受けたのだけども。彼は本当にそういう(前衛美術を志す)若い人たちにいろいろとオルガナイザーとして声をかけていた。ほかの人に聞いても「かなり早口であおられた」みたいな言い方をする人が2、3人いましたね。

【1967年、GUN結成、旗揚げ展】

宮田:1967年に「新潟現代美術家集団GUN結成集会」というものを開いて、ここで結成ということなのでしょうか。

前山:10月(6日)でしたかね。即2ヵ月後の12月に旗揚げ展を長岡(「GUN展」長岡文化会館、12月9、10日)と東京(「GUN展」ギャラリー新宿、12月21-28日)でほぼ同時期に連続してやる。あの当時は自分たちが居住している新潟で発表することと中央に打って出ること、同時展開の重要性を非常に感じていて。その当時の中央と地方の関係というのは、やっぱり既成の画壇の構図ピラミッド。そのミニピラミッドが新潟県のなかにもあると。その中央の何々会の会員が地方のピラミッドの頂点に居る。そういう構図に反発してね。昨日話したように私は初めの1、2年は二紀会に出していましたが、転向して抽象になってからは発表の場は個展、ギャラリーが中心になっていって。シェル賞のような登竜門など既成の画壇ではないものも生まれてきて、現代美術の息吹はそっちにあると直感したのだと思います。

高:シンポジウムの時のパネラーの人選で、丸山正三さん(1912-2012)がおられますよね。ちょっと意外というか、画壇系の人ですよね(注:前出の長岡での「GUN展」時に開催されたシンポジウム。テーマ「芸術運動はどうあるべきか―GUNのゆくえ―」。パネラーは石子順造、木村恒久、刀根康尚、松本百司、鈴木慶則、丸山正三、前山忠、以上7名/事前記事、記録写真、参加者による報告は[軌跡]pp. 16-19; [カタログ]pp. 75-77に掲載)。

前山:長岡現代美術館の入口に茶店があって、そこで集まって意見交流や作品合評をやっていたのですよ。そういう関係で長岡現代美術館っていうものはやっぱり僕らの憧れの的のひとつでもあったわけです。芳名録を見ていても東京から来る人が圧倒的に多くて、地元の人は少ない。地元の公募団体、既成の画壇に出品しているような作家は(長岡現代美術館に対して)全部そっぽを向いたのですよね……。何となくわかりますよね。田舎の古い体質のなかに……。

堀川:そっぽを向いたとか、そういう言い方ではないと思うね。

前山:うーんまぁ。

堀川:そんなにほら親しみを持てなかったというか、まぁ理解を……。

前山:いや、反発するんだよね。

堀川:うん。理解を越えているということだから、馴染まないということなのでしょう。丸山正三さんはあの頃はすごくモダンなイメージの絵で、『朝日ジャーナル』か何かの表紙にもなっているのですよね。県内の作家では一番、現代美術的な人だなと思った記憶がありますよ。今でもそうですけども。新制作(協会)であの当時既に会員ですからね。すばらしい感じで。ほかの人たちはいわゆる風景画とか人物画とかで。外国のイメージみたいなものにつながるような作品じゃないですか。

前山:今でもね。今年で99歳なんですよ。

堀川:丸山さんを選んだのはそういう意味があったと思います。ほかの作家じゃ、まさか風景画で現代美術関係の話をというわけにはいかんし。現代美術の話も出来る人なんじゃないかと思ったんだと思います。

前山:結局地元のなかでね、さっき言った……言い方はいろいろあるけどね(笑)、理解してくれている人は丸山さんぐらいじゃないかと思ったんですよね。

堀川:そういうことですよね。この前、ちょうどその時期の作品を観ましたけどね。黒人問題、黒人が殺されたり死んだことをテーマにしたような。

前山:キング牧師のね。

堀川:うん。……キング牧師じゃないな。その頃差別で色んなところで若い黒人がさかんに。

前山:60年代はさかんに発起するからね。

堀川:殺されたりして社会問題になったようなことをテーマにしていたと思いますよね。

前山:壁画的な作品も彼はけっこう沢山つくっていて。あの当時としてはかなりセンスのある、今もそうだと思いますけど。

堀川:今、彼に匹敵するような作風を持っている方は県内にはいない、技術的な作家ですよね。

前山:さっきね「そっぽを向く」と言ったけども、地元の既成団体の画家というのは、私は非常に反発したと思う。というのは自分たちが地元でね、ある一定の地位なり表現活動の場を置いているのに、そこに外部から土足でばーんと頭ごしに現代美術が導入されたみたいな。だいたい似たような現象はどこにでもあって、「大地の芸術祭」でも十日町を中心にはじまった時に、やっぱり地元の作家から随分反発があったわけですよね。議会でもそういうのを代表して発言も批判もあったわけです。何となくわかります。自分達の古い……って言っちゃ語弊があるのかも知れないけれど、そういう体質が、基盤がある種浸食されるわけです。そういうことに対する危機感が画家には直感的に働くのだろうと僕は思うんですよね。先を見通して「前へ進もう」と考えているのは限られた人で、丸山さんはその一人だったと思います。長岡現代美術館の企画とか公開審査について地元紙にけっこう紹介記事を書かれているんです。良い意味でよき理解者であったということは間違いなく。

堀川:そうだね。

前山:GUNの活動を理解してくれる人だということで、考え方を突き合わせてどうこうではなく、シンポジウムで大いに論争しようと思って呼んだんです。

高:その当時でも(丸山さんは)50代くらいですよね。

堀川:そうですよね。55くらいじゃないですか?

前山:風貌は全然今と変わらない感じですよね。若々しくて。

宮田:パネラーのお話が挙がったので、ほかに刀根さんや木村さん、「幻触」の鈴木さん、松本さんのお名前がありますが、さきほどの現代美術館の芳名録や、いらしてる方をチェックされてパネラーとして呼ばれたのですか。

前山:何人かは石子さんからの紹介もあります。木村恒久さんは石子さんの紹介でした。あの当時の新しいデザインの旗手でもありましたし。刀根さんはね、北村皆雄(みなお)さんという映像作家が当時いたのですね。彼を通じて、刀根さんが友達だということで。あの頃僕らもいろいろなハプニングに興味を持ち始めた時で、一緒にやったこともあります。新宿の西口広場かな。それから松本百司さん(注:「ROZO群」結成メンバー10人のうちの一人)は、「あ」という記号である種コミュニケーションをずらすというか、空洞化させるような作品をつくっていた作家です。ルナミ画廊で、

堀川:松本さんとはルナミ画廊で会ったわけ?

前山:うん。ルナミ画廊で彼が個展をやった時に僕が話かけて知り合いになったんですね。鈴木慶則さんは石子さんを通じてね。さっきちょっと話に出ましたけど、彼のアパートに行って。四畳半くらいかな、狭いところ。三方が天井まで本棚で、冬は真ん中にこたつがあると二人入るともう満杯。入口の靴も5、6足置けばもう満杯というふうなそういうところで。昼夜逆転生活で(笑)、朝11時頃起きて茶店で飯を食って……夕方まで少し計画して夕方になるとバッと画廊へ向って出歩くと。そして明け方の4時頃まで自分は執筆するんだと、そういうサイクルですから。何だか少し憧れますよね。これが評論家というものか、とね。畑違いの人たちもいるのだけども、こと現代美術に関しては自分の理論を持っている方で。自分は何を言ったか覚えていないけれど情熱だけをぶちまけたような気もします。シンポジウムは熱気があって、1時間半か2時間くらいで60人くらいかな、参加されたと思います。

宮田:多いですね。この時の結成集会の後の「GUN展」で、([軌跡]を参照しながら)こちらが出品者になるようなのですが、メンバーのみなさんはどのように集ったのかと、グループの名前を「GUN」とされた経緯を教えてください(注:結成当初は15名ほどのメンバーで、長岡展では14名、東京展では7名が出品。)

【マニュフェスト、メンバー】

前山:この本のなかに私が書いたGUN結成のマニュフェストがあるんですけども([軌跡]p. 15; [カタログ]p. 74)。おぎくぼ画廊の『眼』(第26号 1967年10月15日)という機関誌に紹介されていますけども。(取り出しながら)今見てもね、まぁあまり具体的なことを何も言っていないというか(笑)。

一同:(笑)。

前山:ただただ現代の状況のなかで自分たちは何かをしなくちゃならんと、体を張ってやらなきゃいけないということをアピールしているわけですよね。

高:やっぱりどこかに、マニュフェストというものを書かなくてはいけないと思われて?

前山:一つの結集軸をね、旗印を明確にしないと、集まらない……。

堀川:GUNだけではなくて、64年くらいからの数年、3、4年間の全国的な風潮というか。岐阜の「(現代美術の祭典)アンデパンダン・アート・フェスティバル」(1965年)があったり、「アート21(トゥエンティーワン)」という、いつの間にか名簿みたいなものが出来て、「ああ、そういうのもある」と(どんなグループが各地にいるのか、存在を知ることができる発行物が)何種類かあったのですよね。「ROZO群」(注:茨城県水戸市を拠点として1955年に結成された美術集団)とか茨城の話も出たし。(たいていのグループが)必ず、こういうマニュフェスト的なものがついているという。僕らは書けないから、とにかく彼が驚異的な勢いでどうやって書いたかも知れないのだけど(笑)。これは活字になっているけども、ガリ版でちゃんと印刷したものも配られたのですよね。几帳面だから字もきちっと整っているのですよ。それはすごい実践力だったと思っています。

宮田:どれくらい刷られたのですか?

前山:県下で現代美術に誘って来そうだっていう人はまだまだ限られていたので、せいぜい30枚、50枚の範囲だったと思います。郵送したり直接会ってね。さっき言った合評会のようなかたちで会って練り上げていったものだと思います。これで最初の展覧会では十数名参加したわけですけども、公募団体に見切りをつけて僕らは「一人、一匹狼だ!」っていう感じで現代美術に行くべきだと思っていた者と、大学終わってまだ若い青年が5年か6年目で二紀会に出しているとか、自由美術に出しているとか、いろいろそういう公募団体に出している作家がいて。今も会員の前に会友というのがあるんですが、会友一歩手前という人とかね。そういう人たちは1、2年の間に賞をもらって会友、その数年後にはもう会員になれるという一つの道筋が公募団体にはあるのですよ。そういう人にも呼びかけて「こちらの方が新しくて面白そうだ」と言って駆けつけた人が何人かいるわけですね。最初はそういう状況のなかで「やろう!」という熱気だったのですが、2、3年のうちに急速に変化するのは、公募団体から集まってきた人たちはやっぱり古巣に戻るのですよ。現代美術のあまりのテンポの早さや、お金もね、すごく……まぁ僕ら、あの頃新卒間もなくて、月2万円程度の月給ですよね。それの何倍もの金を注ぎ込んで展覧会やったり、作品や作家を調整したりしてましたから。そういうなかで経済的にやっぱり大変だと辞めていった人も含めてね、離れていく。その代わり次々と新しいメンバーが。

堀川:いや、そんなに次々と来なかったでしょう(笑)。

一同:(笑)。

前山:そんなに何十人っていう単位ではないけど(笑)。何人か来るんですよ。

堀川:立派なリーダーシップじゃないんですよ。ついて行く者はついて行っただけで。今考えると滅茶苦茶ですよ。だって3万円とか負担ですよ。1ヵ月の給与ですよ。そんなものよくもまぁ。「それでもついて行かないといかんな」と思ったから俺はついて行っただけで。普通の人は考えりゃさぁ、新聞でばーと取りあげられるわけでもなし、後になれば何も残らないのですよ。そういうのについて行った方が珍しいんで(笑)、結局尻つぼみになる。そんなにね、すごい大義名分がそこにあったかというと、僕はそうは思えないですね、今思うにね。ただ計算もなく、とにかく突き進んだというところだけですよね。実際にもう行き詰まるもん。採用されたばっかりだったからね、借金だって1ヵ月かそれくらいしかできないんですよ。何十年か勤めると給料の何倍、5倍とか6倍とかね。

高:職場から借りられるのですね。

堀川:そう。借りられるのだけども、まだ採用半年とか(笑)、1年未満だと少なかったんで。でもあの時に借金した記憶あります。

前山:うん。

堀川:借金できるぎりぎりの範囲でね。でもそれが終わればもう何も残らないわけだから。後でそこでは自分でどう思うか。参加したなと思うくらいで。

前山:だからメンバーの入れ替わりは結構激しかった。というか、初期の頃の方で抜けられ離れて行った方と、それから佐藤秀治君のように70年代に入ってからGUNの名前を色んなところで聞いて、こっちに連絡をしてきて入ったり。関根(哲男)さんもセンスが合うということで入ってきたり。

堀川:それは「雪のイベント」(「雪のイメージを変えるイベント」十日町市信濃川原、1970年2月11,15日/[軌跡]pp. 30-32; [カタログ]pp. 45-50)が終わってからですから。それは運良くね、全国発信できたところからなんですよね。僕も偶然、ビエンナーレ(「第10回日本国際美術展 人間と物質(東京ビエンナーレ)」東京都美術館 1970年5月10-30日/[軌跡]p. 34; [カタログ]p. 42)に出るのですけども。それでばーと何かに出て、そういうのを具体的に知ってから入って来るというか。彼(前山)が2校目で面白い実践をする。連絡がつく学校に居てそれに関心を持ってコンタクトを取ってきたというかたちなんだと思いますね。

【結成時、それぞれの状況】

宮田:前山さんは67年の大学を卒業される頃にルナミ画廊で個展をされていますが、就職というのはどのタイミングで? 1967年の4月に?

前山:1967年の4月に。昨日もちらっと話に出ましたけど、大学の4年の頃って、それまでは教員になる準備も心構えも全くなくって、ただただ自分たちのやりたい表現をやっていたわけですが、先輩が教員になっていくのを見て、また自分の今の仕事を続けていける保障っていうのはもう美術教師しかないと思いました。長男ですから県外はもちろん受けさせてもらえなくて、県内唯一、採用試験を受けました。高校を受けたのだけど、高校はもう満杯で、先輩でだいたい埋まっていましたから。それで中学校を受けて、面接の時にはね「中学校がなければ小学校でも良いですか?」と言われたくらいでね。

堀川:よく覚えているね(笑)。

前山:小学校の専科というのは当時まだ珍しかったけれど、あったので。中学校の代わり小学校に行けば美術だけで全校生徒を教えられる。

高:なるほど。

前山:そういう道もあったという。就職先がなければ小学校もやむを得ざるという考えだったと思いますわ。たまたま中学校に入ったわけですけどね。

宮田:GUNの活動との両立って大変だったと思うのですが。

前山:大変と言えば大変だったかも知れないけれど、自分の授業と自分のやっている仕事っていうのはほとんど差がないわけですよ。

一同:(笑)。

前山:自分の頭の中ではね(笑)。だから、よくまぁ教科書と関係ないあんなことをやれたな、と今思うくらいにね。あの当時流行のサイケデリックな、紙粘土でオブジェをつくってそこに蛍光カラーを塗りたくったり。

一同:(笑)。

前山:暗室を作って、もう文化祭ですよね。だいたい1クラス単位でしたから。自分たちで何をテーマにしてやろうかと話合ってね。新卒の学校2年間、2校目は須原中(学校)でしたけど、そこで6年いましたが、庭園の部屋をつくったとか暗室をつくったとか、色んなことを。現代美術をもろに持ち込んで展開したところがありましたね。子どもっていうのは感覚的にはね古いものを引きずっていない分、受入が早いっていうかね。大人顔負けの仕事をやる生徒も出てくるわけですよ。だからそんなに矛盾……、自分のなかで苦労して両立していたとかそういうのはなかったですね。

宮田:ご家族の反応はいかがでしたか。グループ結成でワーと盛り上がっているのに対して。

前山:親父は軍隊の経験もありましたから、非常に厳格なね、俺に言わせると頭が固いというか。ですから大学時代もよく実習室に来て。何やらわけのわからんこんなのにね(笑)、自分の給料の一部が学費や絵具代にまわるわけですから「こんなの描いているのは無駄だ。なんで妙高山を描かんのか」と言ってものすごく怒ってましたね。言ったから聴くわけじゃないから。口癖みたいになっているところがあって。唯一……。

堀川:妙高山は越後富士と呼ばれている、(背後の大きな窓の外を指しながら)そこに見える山です。

前山:普通、一般の画家を目指すのだったら地元の売れ筋を描けってやつですよ。

堀川:日展系や芸術院会員クラスの方たちも妙高(山)はかなり描いておられます。

前山:額を外しちゃったけども、親父は妙高山を描いてもらった(笑)。

堀川:違う人にね(笑)。(振り返りながら)あそこにある。

前山:あそこにちょっとありますね。

宮田:本当だ。

堀川:良い山ですよね。

前山:そんなことからね、あまり……(笑)何というか理解があったというわけではないのですが、母は中身はわからないけれども、借金とか色んな事で俺が苦しんでいた時に援助してくれた。親父の給料だって3、4万の範囲だったと思いますよね。よくコツコツとね、親父にこっそり(笑)、私に「汽車賃もないのだろう」と言って。

堀川:大事な跡取り息子ですからね。

前山:そうやって少し援助してもらった記憶がありますね。そのおかげか、ある程度定着して、給与の方も安定してくれば制作の方にエネルギーを注げたわけですけどね。

宮田:堀川さんは結成当時、まだ大学4年生、ですよね。

堀川:はい。

宮田:大学3年生の時に「新潟県美術展覧会」で賞を受賞されて、GUN結成当時大学に居ながら関わるということで変化などはあったのでしょうか。

堀川:そうですね。昨日の話でね、しゃべれなかったのは、2年生の時に抽象画を始めて県展に入選するんですけども、その時に同じ学年の小栗強司君がいきなり県展賞をとるんですよね。審査員が斎藤義重さんだったんです。現代美術で斎藤義重といえばもうスーパースターで良く知っていたので。(審査員は)必ず抽象的な人と具象的な人と二人来るんですよね。その次の夏頃に糸魚川市展で大岡信が、前山さんに市展賞を決めた。こういう人たちに認めてもらえるようなものができればね。同級生がいきなり県展賞とったので、ちょっと頑張って良い作品をつくろうと2年生の時は試行錯誤するんですけども。それから1年後ぐらいにイメージがひらめいてね、県展に出したらたまたまその時に私は奨励賞をとって、小栗君も奨励賞をとったのですよ。その時にほかの現代美術をしている人たちも受賞したりしてね、後になってみると「あの時に居たんだね」と話題にした人が2、3人いましたわ。その時は岡本太郎と木下なんとかって……二紀会の具象の方です。岡本太郎に一応認められたなと思ったの(笑)。それから買ったのかその前に買ったのか(笑)、『今日の芸術』なんかをぺらぺらと見て、「上手くあってはならない」とか「美しくあってはならない」とかね、「心地よくあってはならない」みたいなことを頭に入れて、納得というか、俺もようやく少し認められたかなと思ったりしました。そのスタイルのものは10枚か20枚くらいは描いたのですが、その後に冴えた作品っていうものは、ちょっとした色を新しくするような良い展開はできませんでしたね。県展は春、5月だから、その頃に……3年生の後半に前山さんが「ここらへんで何かやらんかね」と。新潟県で新しい情報を発信しようと、赤塚さんを呼んでやろうという企画でオルグされる。話を聞くと面白そうだし、赤塚さんは雑誌にも書いているし、こういう人が来るのかと関心を持つんですよ。そんなことから入って行ったということが正直なところです。

【グループ名について】

前山:さきほど質問があった「GUN」という名前がどうやってできたかということに触れますと……結成の前に名前をそれぞれ考えて来ようという。

一同:笑。

前山:なかなか良いのが思い浮かばないで。「新潟現代美術家集団」というと、新潟という言葉を入れているのは、これはこだわっているんですよね。つまり新潟で旗揚げをするのだと。土着的な、地域に足を置いて表現していくっていうのと、「現代美術」という言葉はその当時としては前衛美術とほぼ並んで一般的に使われはじめた時だったと思うので。「前衛美術」となるとちょっと抵抗があったのか、一般的には現代美術の受けが良かったのか、現代美術を使ったと思うのですよね。それから集団のGUNは四文字(漢字)だけの固い長ったらしいのに対してはインパクトがないと、もっと「ガーン!!とくるものがないのか!」と長岡行きの汽車のなかで話している時に、何もなくてみんな行き詰まった時に「そのガン!っていうのが良いんじゃないか」と。カタカナの「ガン」じゃね、意味がピンとこないからやっぱり横文字だろうということで。偶然にピストルの「GUN」と文字は一致したけれども、別にピストルと特別結びつけたわけじゃなくて、ただ言葉の響きからヒントを得たというかね。

堀川:そういう意味もあるから面白いな、ということになったんですよ。

前山:それでみんなで討論のなかでそういう風に決まったというか落ち着いた。

堀川:そこのところは間違いない。そんな感じのいきさつで。最後にどこか茶店での会合で決まったようです。僕のテキストの中に書いてますけど、「グループ・ウルトラ・ニイガタ」(Group Ultra Niigata = GUN)と言ったのは羽永(光利)さんです。

宮田:羽永さん!

堀川:「おぅ、それで読めるじゃないか」って。新潟の急進主義者たち、という意味ですから、まさに合っているわけね。それから、僕らも長ったらしいから「GUN」になったり「新潟GUN」になったり。

前山:名前もけっこう変わっているんだよね。フルネームは最初これだけども。

堀川:うん。変わっているというより、意味づけをまた勝手に加えていくという感じでしたね。

前山:2、3年たつともう……。

堀川:今でもこれ長ったらしくてね(笑)。

前山:アルファベットの「NIIGATA GUN」と、さらにNIIGATAが取れて最後はGUNだけで表現していたと思うんですよね。

【ハプニング】

宮田:シンポジウム以外にデモンストレーションやハプニングといった作品展示だけではなく、色んなことをされていてすごく盛り沢山ですけども、メンバーのなかで役割分担のようなものはあったのですか。

前山:いや、依然として平面にこだわっている人もいますし、もちろん立体や、私なんかは鏡を使っていたので半立体的なものが多かったんですが。いわゆる作品発表とか展示というかたちの発表が一方である反面、関心はもうハプニングとかアースワーク的なものとか、いろんなその当時のね……。

堀川:アースワークはまだありません(笑)。

前山:その後だね。その当時としてはハプニングが大きかったね。

堀川:ハプニングだね(笑)。

前山:展覧会(「GUN展」1967年12月9、10日)の期間中にね、彼が路上でね。

堀川:計画的じゃなくて、繰り出すというところだけしかないのだけど。成りゆきでそうなったというか(笑)。道路交通法違反でちょっとね。歩道に寝っころがって、GUN展のポスターをこう持ってこういう風に(B2サイズ程度のポスターの上端両角を両手で持って、上半身を隠すように仰向けになって道路に横たわって)やっていたらね、2、3分もしないうちに(警察に)起こされてね(笑)(注:その様子は芸術運動「ハプニング」として『新潟日報』で紹介される。1967年12月10日/[カタログ]p. 76)。

前山:私は、うまくすり抜けてね(笑)。

堀川:ほかの連中はね、誰も言わないんだもん(笑)。(警官が)来たのわかったから。

一同:(笑)。

堀川:俺だけ駅前交番まで行ってね、10分か15分くらい説教されて帰ってきましたよ。

前山:結成前後にね、1967年10月25日の案内がここにありますが、新潟県で初めてだと思いますが、大島画廊でハプニングをやるわけです(HAPPENING「甘い包帯」/[軌跡]p. 14)。

堀川:俺もハーフカメラで一応撮っていたからね。

前山:残っていたね。

堀川:紙焼き(コンタクトプリント)だけが残っていたの。

宮田:すごく貴重な。

堀川:これはね([軌跡]掲載の写真を指しながら)、ハプニングをやらなきゃいけないという、前衛意識を持ってやるんですよ。

宮田:「ハプニング」のほかに当時「イベント」という言い方のものもあったと思うのですけども。

堀川:「イベント」はね、馴染みがない言葉でしたね。

前山:言葉としてはまだ「ハプニング」で。ちょっとどちらかと言うと得体の知れない、アートとは言うけれど何をやるかのかわからないという意味合いが多いと思う。

堀川:私が初めて(ハプニングを)見たのはね、地元の大島画廊で彼が数時間だけ借りてやったタイミングなのですよ。

前山:20人くらいは集まったよね。観客の方を薄暗くして、こっちはライトアップして。モデル、半裸の状態から頭から全部包帯を巻いていって、包帯人間をつくるわけですね。

堀川:何をやっているのか全然わかりませんでしたけどね(笑)。

前山:みんなもね、何が起きるかわからないという感じでね。私は薬、錠剤をみんなに配って「最後に飲んで下さい」と言って飲んでもらったと思うんですね。

宮田:得体の知れないもの、恐いですね(笑)。

前山:「実はこれは2、3時間以内に眠くなる」というようなことを言ったら、みんな血相を変えて帰っていきましたよ(笑)。実際にはアリナミンみたいなビタミン剤だったと思いますよ。そういったおまけ付きで。

堀川:おまけって(笑)。

前山:みんなでね、「ハプニングってこんなものかな」と漠然とテレビとか雑誌か何かで見るのではなくて、目の前で体験できた場面ではなかったかなと。その後のテレビのBSN(新潟放送)のハプニングみたいなものに繋がって([軌跡]p. 22)。現在の時間のなかで行動と経過が一致していくというところ、時間というのはある意味未知数なところがありますから。瞬時にどんどん過去になっていくという、そういう現在の真っ只中に居るという意味のワクワク感っていうのは我々アートをする側からしてもすごくありましたね。

高:BSNでテレビ出演されるじゃないですか? これって当時、鈴木力さんが博報堂かどこかに勤めてられていた……。

前山:勤めていましたね。

高:やっぱり鈴木力さんの関係だったのですか?

堀川:それは(鈴木さんは)新潟で、僕たちが出たのは上越なんですよ。鈴木さんとは直接関係なかったと思いますけど。

前山:だいたい学生仲間が多かったかね。あの当時は。

堀川:何でBSNでやることになったのかは良く覚えてないのですが、何でこんなのをやったのかも今でもちょっと良くわからないんですけどもね(笑)。彼(前山)がとにかく「やらなきゃいけない」と。すぐに「ここでやる」とか「(次は)ここでやる」とか決めてくる。GUNの結成展をやって、ギャラリー新宿(「GUN展」1967年12月21-28日、同時期に発言誌『GUN』1号発行/[軌跡]p.16; [カタログ]p. 35)で東京進出展をするのですよ。同じ新宿の、西口の地下広場でテレビ中継のイベントがあったりしてね。あの頃まだフリーじゃないですか。フォーク集会みたいなことをやっていたり。そこで変なイベントを見て、「こういうことが流行っているんだ」とそう思いました。帰ってきてから、新潟「街頭ハプニング」が先かいね? これ(BSN「ハプニング・ショー」)が後かいね?

前山:そう新潟が先。

堀川:新潟でやって、次にこのBSN「ハプニング・ショー」をやるんですよ。

宮田:(新潟の)GUNハプニングは……。

前山:1月15日。

堀川:何でこういうことをやらなきゃいけなかったのか、意味がわからないのですけどね(笑)。

宮田:(年表「新潟現代美術家集団GUNの歩み」[軌跡]pp. 8-9を見ながら)ハプニングが続きますね。

前山:やっぱりね、美術表現というだけでなくて、時代のメッセージを自分の身体を通して表現しているというのが、絵とかそういうものとは全然違うわけですよね。現場に自分が今、生きて立ち会っている、体験しているというのがあるから、すごく魅せられたと思うんですよね。

堀川:?ーん(笑)。

宮田:この時期GUNの発表や活動が続きます。東京でのGUN展もありますが、同時に行き来されながら、ほかの作家さん達の作品を観に行くということもあったのですか?

前山:そうですね。敏感になっていましたから、欠かさず行くということはありましたよね。

堀川:俺はね、前山さんみたいにそんなに理屈っぽくね、ハプニングを捉えていたわけでもないし、今でもそうなのですけども。何だったかな。藤田嗣治がね、パリで認められるきっかけになったハプニング。というか、ストリーキングみたいなことで走って、「おっ、あれは誰だ?」と言ったら藤田嗣治で、「俺を見てくれ」みたいなことがあったり。1966年に篠原有司男さんの『前衛の道』がBTに連載されるのですよね(注:「前衛への道 篠原有司男自伝」1-11最終回、『美術手帖』263-276号、美術出版社、1966年2月-12月。同社より1968年に書籍化『前衛の道』、2006年にギュウチャン・エクスプロージョン! プロジェクト実行委員会より復刻)。そこで例のボクシング・ペインティングだとかタピエとの出会いとか書かれていて。面白い裸踊りとかをやるじゃないですか、ホワイトハウスで。そんな話が出ていたりして。消化器を振りまして描くとか、飛躍するためには何かそういうことが必要だと、一歩自分の殻を破るためにそこに、舞台に出ていくような意識だったと思うので。今彼が言ったような立派な理屈なんて僕にはなかったですね。あの頃そんな立派なこと考えていたのか僕は疑わしいですよね。今ね。立派な言葉聞いて、正直。

高・宮田:(笑)。

前山:いやぁ、その時全部そう思ったかどうかは別にしてもね。

堀川:今はね、そう言えるかも知れないけどね。

前山:なぜああいう風にね、やっぱり。

宮田:魅かれたのか。

前山:ねぇ。熱中したのかというと、さっき話したようなことしか考えられなくて。繰り返しになるけれども、直接性っていうのはね、身体を通した直接性とか、それから時間と共に歩むから生成しつつ消滅しているという、そういう魅力っていうのは、若者であればコツコツと絵を描くのとはまた別の喜びがあるから、けっこう俺没頭したんだと思うんですよね。

堀川:喜び、ね。僕はさ、そんな感じるような余裕なんかなかったですよ。

一同:(笑)。

堀川:本当にそんなに喜びがあるならね、今だってやってますよ、うん。

一同:(笑)。

堀川:それでろくな結果を生まないんだから。ただ、たまたまね、「雪のイベント」では、それがヴィジュアルな美しさのもとに展開されて、良い結果を生んだので。(1968年)4月に高田公園(花見会場)でのハプニングでこの手のハプニングは終わるんです。8月にもやるのだけども、わけわからんうちに終わってしまった。そこまでに4回くらいね。

前山:けっこう写真が残っているんですよ。

宮田:カラー写真もあるんですね([軌跡]pp. 24-25)。ちょうど1968年3月に(堀川さんは)大学を卒業されましたよね。

堀川:そうそう。

【個人の活動、グループでの活動】

宮田:さきほど前山さんにも伺いましたが、就職だとか、その時の家族の反応などを教えていただけますか。

堀川:僕はね、GUNに入って、大事な時期をこんな前衛運動にかまけていたので、就職試験も「おっ」と思ったらもう間近になっていてね、あまり良い成績も取れなかったみたいだったんですよね。でも正採用になったと言われてのこのこと行ったのが……のこのこというか、浪人しなくて良かったなと思って行ったのが、十日町の中条中(学校)というところだった。そこがまぁ、偶然というか運命というか、その後の現代美術での自分の表現に役立ったというか、そこで見つけたというか、元になった。あそこで就職しなければ、歴史は逆転はできないのだけども、もちろんどこかに就職していればそれなりの何かをしていたかも知れないけれど仮定にはならないですよね。そこで運命が決まったというところですかね。どうやったら面白い表現ができるか、とか。それから教育に関してはね、彼(前山)がいろいろ面白いことをやっているっていうから、俺もじゃぁやろうと。美術で教えるのと現代美術で自分の表現を追求するのと、いろいろと重なり合うようなかたちで展開してきましたね。美術教師をやっている三十数年間は基本的に、そういう姿勢でやってきましたね。

前山:うん。

堀川:そこが作品を生み出すきっかけになったのです。その場所が。もう少し話をして良いですか? その家は屋根板金の作業所があって、樋口さんという親方の家だったんです。その作業所の2階を間借りしたわけだ。わりと新しく造られたので部屋が住めるようになっていて。もう一人の採用者は普通の住宅の部屋を借りて。俺だけなぜか、美術だから作業所の2階が良いだろうと(笑)。そこで就職する時に少し発注芸術をやったんです。([軌跡]p. 23を広げながら)これは記念碑的な作品なんですけども。最初は、タイトルはこんなに立派ではなかったのですよ。まだタイトルの付け方とか良くわからなくて。

宮田:これは卒業してから?

堀川:卒業記念に背広を作ってもらって、そのままの型紙でね、業者に作ってもらった。今はだいぶ煤けたみたいになってますけど(《日記-出発1968.4.1》1968年、キャンバス地, ボタン、53.0×85.0×13.0cm/[カタログ]p. 38)。

宮田:今も残っているんですね。

堀川:そう。これ(《収束》1968年、鏡面ステンレス、183.0×28.0×26.0cm/[カタログ]p. 38)が8月の「GUN展」のために。たぶん就職して2ヵ月後くらいに思いついたのだと思う。6月後半くらいにもう出来ていましたから。板金の作業所にね、きれーいなステンレスがあったので、前山君はほら鏡をやっているからステンレスも良いんじゃないかと思ったの(笑)。

前山:笑。

堀川:普通に加工というか、折り曲げたりして出来るので。服を作ったから、じゃぁ次は似たようなものでネクタイが出来そうかなと思ってね、作ってみたら出来たので。(図版ページをめくりながら)これがその次の作品ですね。

宮田:1968年の7月と書いてあります。

堀川:その後いろいろとやるのですけど。みんなそこ(屋根板金の作業所の2階)での2年間で。

宮田:前山さんは1968年にシロタ画廊で個展をされていますが、個人の活動とグループでの活動と、何か棲み分けはあったのでしょうか。

前山:グループはまぁグループでね、発表の機会も色んな交流・討論もあったのだけども。自分の制作というのはそこだけでじゃなくてね、やっぱり色々な表現をどんどんやってみたいというのがありましたから。今考えると珍しいのだけど、68年頃は公募展的なものにも、「現代日本美術展」とか「日本国際美術展」、そういうものにも出品していましたからね。その頃はコンセプチャル・アートの方にかなり傾いていて、1年の間に次々と変わっていったところがありましたね……。

堀川:68年の個展はね、やっぱりすばらしかった。

前山:鏡中心だったかね。

堀川:すごい評判を取った作品だったのだけども、鏡だから作品の写真の撮り方が難しくて。

宮田:そうですよね。

堀川:このハーフミラーを使ったのはね、きれいに撮れるんですよ。

宮田:([軌跡])13ページに載っている。

堀川:次の個展は薄暗い中に浮かび上がるような、蛍光塗料を使ったような美しい作品だった。会場の雰囲気を撮るのは非常に難しかったですね(《MIRROR IN MIRROR》1968年、鏡, ブラックライト, カービング、50.0×61.0×10.0cm/[カタログ]p. 34)。

前山:反対側の壁の作品が鏡を通して映ってしまうんですね。そうすると本物がなかなかわかりにくいと言うか。シロタ画廊の時は『芸術生活』の人が取材に来て。

堀川:表紙になるって期待していたのですが、

前山:表紙になるって撮ってくれたのですが、反対側の作品が映ってしまって、最後はやっぱりダメだということになったんだけどね。

堀川:あれが出ていればまた違っていたかも知れない。

前山:笑。

堀川:と私は思いましたけどね。

前山:あの頃は完全に鏡中心でしたね。その前は鏡というよりガラスとかプラスチックとか。そいうのはルナミの2回目の個展でしたけど。シロタ画廊は完全に鏡と暗室で、それにちょっとブラックライトを使って、蛍光カラーも使っていましたから、浮かび上がるようにしたりして幻想的な部屋になりましたね。

【『発言誌 GUN』、シンポジウム・上映会の企画】

宮田:結成直後から『発言誌 GUN』というものを発行されていますが、作品を発表しながら同時に冊子も作って外に知らせるという意識が。さきほどから「伝えていく」ということが重視されていたと思うんですけど、その発言誌についてどのように作られていたのか教えていただけますか。

前山:最初の頃はガリ版とか、ちょっと金をかけるのであれば印刷所に出したものもありますけど。自分達の、表現への色んな思いというか、いわゆる作品紹介というのじゃなくてね、「今、今日、この時代に自分はなぜこれを、表現に立ち向かうのか」というそういう意味の状況と、自分の表現論みたいなものをやっぱり大事にすべきだという、私固有のこだわりがあったのかも知れないけれども。みんなに声をかけてね、発言誌を出すべきだと。ところが中には「俺は絵をこつこつ表現する。言葉には出す必要は一切ない」と言う作家もいるわけですよね。そういう人は2、3行とか、本当に短い文章の場合もありましたしね。なかなか全国に撃って出るような、そういう発言誌には成り得なかったと思いますけどね。現物が残っていますので、今もその当時の息吹を感じることができます。

堀川:だからね、今発言誌を読むと、まともな文章になっているのは前山君だけでね、俺の文章なんてまったく恥ずかしくて出したくないですね。率直に言って(笑)。ただ、みんな作品をつくって書いているじゃないですか。高松次郎だって文章がすごい上手いとかね、赤瀬川(原平)さんは『漫画主義』に書いていたりして、すごい文章だし。みんなすごいなと思ってね。今でもみんな難しい文章なのだけども、そういうのに一歩でも近づくためには書かなきゃ近づけないからと思っただけでね(笑)、僕なんか中身のあるような文章になったのは20年後くらいですよ。あの当時書いたことは書いたけども、ろくでもないと。今でも。たいしてほら、認識が甘いわけだから。率直にね。あの頃の稚拙な自分を想い出すだけですよ。

高:これはどれくらいの範囲まで配布されたのでしょうか。

堀川:部数は少なかったですよ。

前山:うん、そんなに。ほんとに数十部の範囲だったと思います。

堀川:数百部なんて刷らないですよ。

前山:自分たち作家仲間と、それから石子さんら評論家で知り合いの方には送ったりしたと思いますけどね。

堀川:彼(前山)もまたね68年の個展以降、さっきも言ったけど目まぐるしく変わるのね(笑)。

前山:さっき現代美術の雑誌の話が出ましたけど、作家論とか現代の表現論というのが評論として成り立っていた時代なんですよね。宮川淳なんかはその当時をリードした一人です。画廊で会った時の語り口というのはぼそぼそと小さな声で、言葉少なめに語るのですが深いんですよ。聞きながらさかんに背伸びをして自分の思いを言ったと思うんですけど。ああいうなかで今残っているのは、存在論とか意味論とかね、その当時の世界的な。特にフランスを中心にした思想界の、あるいは哲学界のそういうものとアートとのつながりが非常に密接に語られた時で、それがまた作家にもすごく影響を与えた。「ただ自分の感情が趣くままに作品ができましたというのではだめなんだ!」というのがあったんですよね。理屈をこねると言うんですけど。これこれこういう論とこういう根拠に従って俺はここをポイントに、テーマにして表現していると、作家自身が語れる時代にもなったし、また語らなくてはならない、そういうのもありましたよね。だから私もどちらかというと、表現は表現物で、その表現をするのだけども、それをまた論として展開したいという気持ちもすごくあって。何と言うか、全く理屈のない作品はないというコンセプチャルなところがありましたよね。

宮田:68年(8月8日-11日)に「長岡アート・フェスティバル『存在への思考』」展、長岡文化会館の時にパプニングやシンポジウムのほかに映画の上映が入ってくるのですが、映像への興味も? (映画:金坂健二, 宮井陸郎. ハプニング:Gun,その他. シンポジウム「『何が可能か』存在へのアプローチ」講師:岡田隆彦, 宮井陸郎, 赤瀬川原平, 小島信明, 関根伸夫, 田中信太郎, 野中ユリ. 美術評論家の岡田氏以外は展覧会にも特別出品/[カタログ]p. 79)

前山:さきほどちょっと言った北村皆雄さんという映像作家と知り合いだったこともあって、刀根康尚さんともつながって。ちょうどニューヨークに行っていた金坂健二、映像作家がいますよね。彼が日本に帰ってきたのでパーティーをやると。だからおまえも参加しないかと、俺がたまたま東京に出ていた時に声がかかったので一緒に参加した記憶があるんですね。今で言うと何だろうな? あの当時ハッシシとか言ってまぁ薬の一種ですよね。ああいうのを回し飲みするとかね、表にあまり出ないアングラ的な雰囲気のパーティーでしたが。どこの部屋か家だったのか、今はわからないけど(笑)。暗っぽいところでみんなぼそぼそ語ったりしていた記憶があるんです。金坂さんの映像はすごく関心があって観たり、上映の機会があったと思いますよね。

宮田:当時の映画上映をしてどのような反応があったか覚えてらっしゃいますか。

前山:(堀川に向かって)イヴ・クラインか何かの映像も大嶋(画廊)でもやったことがあるよね? 雑誌とかね何かで見たり聞いたりするのとは全然違った。現場に立ち会えないとなると映像が最も近いわけでしょう。だからあの当時のメディアとしては非常に新しくて、現場にこう立ち会うかのような興奮を持って観ていたと思うんですよね。非常に貴重な映像だったと思いますよね。色んなものが。

堀川:あの時さ、全然記憶が……どういう映画をやったのか、映画をやったかどうかも記憶がないのだけど。8月のやつは。宮井さんが来たことは覚えているよね。

前山:宮井陸郎さんも映像作家だったからね。

堀川:どんな映画をやったかすら、ちょっと覚えていないですね。

前山:うーん、まぁアングラ。あの当時の松本……

宮田:俊夫さんですね。

前山:とかね映像作家も色々いたから。アングラ系だったという記憶くらいね。

堀川:記憶にないものは存在しないようなものだから(笑)。

宮田:この時のパネラーで小島信明さん、関根伸夫さん、田中信太郎さん、岡田隆彦さん、今登場した宮井陸郎さんが入っておられますが、どういう風にお声がけと言いますか交流があったのですか。

前山:この時には……えーと、金坂君と宮井さんは映像でしたね。岡田隆彦さんは昨日話題に出た糸魚川市展の審査員で来たことがあって。で、その時はかなり自分はね、ちょっと個人的な話になるけども、かなり意気込んでシェル賞で落選した作品を。

堀川:(笑)。

前山:トランプをベニヤ大ぐらいに拡大したものを出して、自信作で乗り込んだものでね。ところが岡田氏は全然見向きもしなかったというか、ほかの作品を受賞させたのでだいぶ喰ってかかったと思うのね(笑)。彼もまだ僕らと年齢的にはあまり離れていない。まぁむこうからみれば「なに青二才が言っているか」と思っていたのかも知れないけど。でも「現代美術をわかっていない!」って喰ってかかったと思うんですよね(笑)。小島信明さんは長岡現代美術館賞(注:1966年「第7回現代日本美術展」コンクール部門で受賞)。

堀川:長岡現代美術館賞展の3人ね。

前山:そういう関係で、直接それまで知り合えていたか私も今記憶がはっきりしないのですが、「声かけてやるよ」って石子さんあたりから言ってもらったと思うんですよ。田中信太郎さんもその当時の先鋭の作家でしたから。

堀川:若手で。

前山:スターですよね。

堀川:「現代(日本美術)展」なんかで賞を取ったスターたちなんだよね。関根(伸夫)さんのこの時の作品はまだスライドした立体の、こう飛び出るような作品。

前山:完全立体じゃなかったですね。壁から少しせり上がってきて。

堀川:この次にすごい飛躍するんだよね。

【「トリックス・アンド・ビジョン」展や「現代美術野外フェスティバル」への参加】

宮田:この頃から「トリックス・アンド・ビジョン」展などグループ展に声がかかりはじめていますよね。

前山:個展を契機にして、声がかかったのがこれは60……。

宮田:68年の4月……。

前山:(資料を探しながら)68年の……。

堀川:(GUNの活動年表を広げていたので)ここにはGUNじゃないから(載っていない)。

前山:私の経歴のところにあると思いますが、横浜市民ギャラリーで毎年「今日の作家展」というのをやっていて。

堀川:68年ですよ。

前山:68年ね。そこに出品要請があったということと、それから……さきほど出たのはもう一つ何でしたかね。

堀川:「トリックス・アンド・ビジョン」展は何年ですか。

宮田:68年の4月に東京画廊と村松画廊で。石子さんと中原(佑介)さんが選定ということになっています。

前山:お聞きになったかも知れないけれども、今年の12月頃だと思いますが府中市美術館で「石子順造展」が計画されているのですね。「トリックス・アンド・ビジョン」の再現部屋をつくろうと。(注:「石子順造的世界 美術発・マンガ経由・キッチュ行」府中市美術館、2011年12月10日-2012年2月26日)

高・宮田:すごい。

前山:私も(作品が)1点は残っていたんですが。ちょうどシロタ画廊で個展をやっていた時で記憶が断片的でね。後からそうじゃなかったとわかったのですが、最初、出品作家に選ばれていなかったと自分では思っていたんです。石子さんが見に来てね「おっ、これは面白い」って言って小さな作品を「これちょっと借りるよ」とか言って持って行ったので、単なる思いつきじゃないけどね、今ちょうど企画して展示を始めようとしていた時に「じゃぁおまえも参加するか」みたいな感じかと受けとめていたら。後から、本当にね、去年初めて見たのですが、東京画廊の招待状があったんですね。こういう企画で「トリックス・アンド・ビジョン」をやるので出品依頼ということでその名簿が下に載っていたんです。そこに私の名前もちゃんと入っていたから。その文章ね、ぜんっぜん記憶にないんですよね。自分でもらったというね。残ってもいないし。そういうことでそっちにも出すことになって。どちらも鏡中心の発表でしたね。横浜の方はベニヤよりちょっと大きめの鏡に、5ミリ幅の横線一本真ん中にアクリル絵具の蛍光グリーンを塗り込んで、それを5枚ぐらい継いだかな。9メーター幅の高さが1メーターだったと思いますけど。結構大作でした。ブラックライトで部屋を暗くして展示して。「トリックス・アンド・ビジョン」の方は、5、6センチ角のボックス型でブラックライトを下から入れて、永遠に抜けていくのを窓から覗けるような、そういう作品を2点出品しました(注:前出の《MIRROR IN MIRROR》1968年)。

宮田:会場は村松画廊と東京画廊とどちらだったかって?

前山:村松……。あぁ失礼、東京画廊の方に。写真が残っていて、私の手元にはないんですけども、この間送ってもらって見たのですが、正面に高松次郎のカーテンを仕組んだ影の作品と、左側に私のが映っていたから、2点は、こちらに出していたのかとわかったのです。村松の方は小品か何かを展示したのでしょうかね。だから小さい方はそちらなのか、それは見ていないので私にはわからないです。

堀川:見に行った記憶は?

前山:ないわけね。っというのはね、個展でずうっとぎりぎりまで休みを、1週間くらい取って東京にいたから、もう帰れなければ休みがアウトだっていうそういう時でね。現物を見れなかったんですよね。

宮田:そうだったんですか。

前山:今考えると悔しい。

堀川:この年はね、(前山さんは)GUNの最初からどんどん進化していって、すごく活躍したんですけど。東京に出て行けたら個展は見に行きましたけど、ほかは全然見ることができなかったですね。そういう行動の余裕もなかったと思うので。

宮田:翌年の69年に、現代日本美術展の公開審査を求める訴えなどを起こされているのですけども。

堀川:(前山を指しながら)みんなこっちのルートです(笑)。

宮田:(笑)。

前山:まぁ全部会合を持って「これやりましょう」という決め方じゃなくて、どんどん「これをやらなきゃいけない!」と思ったら何かの名前でね。

堀川:それはさぁ、きっかけは横浜の「野外アート・フェスティバル」。

前山:「こどもの国」かな(「現代美術野外フェスティバル」こどもの国、横浜市、1970年4月1日-5月31日)。

堀川:そういうふうなので何回か会合をやるのですよ。彼が個展つながりで益々色んな人たちと知り合って、向こうでの動きを伝えてくるというか。それじゃぁGUNもやりましょうと言ってね。

前山:池田龍雄さんもそこで知り合ったのだと思います。

堀川:うん。

前山:彼らも表現の自由という問題で、「こどもの国」を借りるにあたって、子どもに危害とか危険性がないようにと色々な条件が付いたのだと思いますね。でも作家はあまりそういうこと関係なく色んなものを出すから、主催者側は作家なのだけども、結局板ばさみになっちゃったんですね。作家からは突き上げられる、園からは約束が違うとなりますので。だから公開討論会をやってかなり揉めたこともありましたよね。

堀川:68年に関根(伸夫)さんがコンクール賞をもらったのがあって。

前山:須磨かな?

宮田:はい須磨。

堀川:いや、それは後。「現代展」でかなり作家たちが出ましたよね。小島信明さんもその「現代展」で賞を取った時があるのですよね(注:関根伸夫は1968年に「第8回現代日本美術展コンクール賞」東京都美術館、「第1回現代彫刻展」神戸須磨離宮公園、「第5回長岡現代美術館賞展大賞」の3つを受賞)。

宮田:「現代日本美術展」ですね。

堀川:次の年もそういうことがあるので。何でそういう風な動きが出たのか私は知らないんですけども、そういうことがあるからと言ってGUNも加わったというか。

前山:いややっぱりね、大きいのは「長岡現代美術館賞展」の公開審査なんですよね。

堀川:あーなるほどね。

前山:「あの審査員と知り合いだ」とかそういうしがらみを一切排して、みんなの、公衆の面前で評論家が激論交わすと。「俺はこの作品を一押し、こっちを押す」というなかで賞が決まっていくスリリングな面と、ある種の真実性というか、本当に自分が考える表現論を展開して作品が取る賞が決まっていくという、そういうものに対しての信頼度があって。それに比べると既存の公募団体は軒並み委員とか審査員にかなり絡んでいるから、事前に観てもらうとか絶えなかったわけですよね。それから一般的な公募の展覧会も大なり小なりそういうしがらみがついてまわった。そういうのからもうちょっと自由になろうと。「現代展」というのはすごく現代美術を標榜しているわけだから「公開審査にせい」という気運は、新しい動きのなかで当然あったと私は思うんですよね。だから我々GUNが出しただけでなく、ほかの団体(グループ)も出しているんですよね。

【1968年9月、第2回GUN展、東京】

宮田:今色々な作家さんとの交流が出ましたが、68年(9月7-12日)に椿近代(画廊)でGUN展をされますが、前年のギャラリー新宿との違いはありましたか。東京での発表のなかで反応なり何か。

前山:椿の時は出品作家もけっこう在京の、つまり糸魚川とかそういう所から向こう(東京)で就職して作家活動している人たちの出品が増えたんじゃないかなと私は思います。メンバーをみると河合(止才光)君とかが入ってきますよね。

堀川:河合さんは糸魚川市展つながりなのですよ。

前山:この頃はもう東京に出ていたんじゃないかね。

堀川:坂本(昌紀)さんと鶴巻(俊郎)さんとかね。

前山:この人たちもこの頃新しく入ってきたんだね。

堀川:作家を固定していたわけじゃないから、その都度出品しますか? と。自己都合で。組める人と組んでやっているという感じだったのですよね。

宮田:東京での発表に対する関東での反応というか認知、GUNに対する出品者以外の反応のなかで何か印象的なことはありましたか。

前山:色んな人が見てくれたとは思うのだけど、その中央的な意味の画壇のなかで旋風を巻き起こすような着目ではなかったと思いますよね。

堀川:最初のギャラリー新宿の時には皮切りスタートというところで全国紙に前山さんの作品が、そこにあるように新聞に載っていますけど、2回目はそういう風な扱いはなかった。

【メールアートのはじまり】

宮田:堀川さん、69年の夏あたりからの、メールアートを始められるその経緯を教えていただけますか。

堀川:うん、68年に背広、ネクタイ作ったでしょう。その後に色々、まぁ特別大きな所で発表はしていないけれど十日町市展に作品を出したり。やっぱり繰り返さないということが、前衛の流儀みたいな変なものがあって、なかなか上手くいかないのですよね。次に69年の「現代展」(第9回現代日本美術展)に出す。彼も出すとかで、みんな狙っているのでさ。少しお金を借りて作品を作って出すんですけど落っこちるんですよ、僕は、現代展に勝負を賭けたような気持ちで出すんだけども、立体部門にも平面部門にも落っこちるんですよ(笑)。誰かに話を聞くと、立体部門は二次審査までは残っていたのだけど三次審査で、最後に落っこちたみたいと。その時にはわりと非芸術的な狗巻(賢二)さんの紐を使ったような四角の作品があったりね。俺も紐を付けて壁と壁を結んだような作品だったんですけどね。見事落っこちて残ったのは借金だけ。借金ったって5、6万の借金は給与が3、4万の時に大っきいんですよね。前山君はちゃんと入選して、バネの作品が(《無への解放》[軌跡]p. 28; [カタログ]p. 41)。鏡から色々とガチャガチャガチャっとあって(笑)、その時はバネになるんですけどね。じゃぁ次に何か考えなくちゃいけんなぁと思っていて、次にメールアートに行くのですけども。それがたまたま当たったということですね。

宮田:メールアートを選ばれたといいますか、その経緯というのは。

堀川:それはもうはっきりしているのですよ。石子さんの所でメールアートというもの、そりゃぁメールアート自体はフルクサスの話とか知っていたのだけども、実物を見た、実物的な話というのは石子さんから。幻触グループの人たちのメールアートがあったし。その時に会っていないのですけども、松澤宥さんの話が神秘化されて(笑)、称賛されてね。諏訪に居て発信するとか、ものすごくカリスマ的なものがあってね。

前山:あと河原温あたりもね。

堀川:もう河原温は「現代展」(第9回現代日本美術展)で例の絵葉書シリーズ(《Pictorial Diary》)で賞を取ったりしていたね。「あ、メールアートっていうのがあるな」と。メールアートは割りと良いだろう思ったことが一つ。その頃、思いついた色々なことをメモし続けていたんですけど、ある時ぽっと思ったんだな。それでね69年の最初の頃にアースワークの紹介がBTであるんですよ(注:「特集 新しい自然=エレメンタリズム<2>アースワーク」『美術手帖』315号, 1969年7月, pp.76-[90])。それから2月号か3月号に、高松次郎さんが石と数字を(使って)展覧会をやっているのを、石子さんがその事を書いていた。それの現場は見ていないけども。画廊の前のほら、歩道のところに石が並べてあって、良く見ると数字が書いてある(注:石子順造「今月の焦点 「高松次郎個展」の問題提起」『美術手帖』311号, 1969年4月, pp.12-13/東京画廊、1969年2月1日-22日のうち第3週目)。「おっ、石なら俺らの学校のすぐ近くにある!!」(笑)。普段遊んでいる河原に、信濃川の石がガーっと、手頃な大きさのがある。少し下流になると石が小さくなるのね。小千谷くらいになるとかなり小さいんだよ。行くと、適当に手で持ってもそんなに重たくない拳大から、2、3キロ程度のものが沢山あるようなところで。これでちょっとアースワークとメールアートを俺もここでやってみたら面白いかなと思ったことと、アポロ11号の動きとか、みんな重なっていたので思いついたのね。これ(《The Shinano River Plan》)は本当にやってみないとわからんなと思ってやったこと。結果的にはアートでこんなことやったのは初めてという評価を得たわけで。まぁ最初当たるなんて思ってなかったのですけど。

宮田:送付先について松澤さんや瀧口修造さんというお名前が過去のインタヴューで挙がっているのですが、ほかにどんな方に?

堀川:最初は自分も含めて11人だから、一番身近には前山さんに出したし、あと御三家の針生(一郎)、中原、東野(芳明)でしょう。それから石子、前田常作、郭仁植にも出したかな。関根伸夫にも出して。

前山:赤塚さんは出してない?

堀川:赤塚さんは最初は出していない。2回目に出したのね。この2回目は全部メモがあります。

前山:岡田さんは出してない?

堀川:それね、ちょっと待ってね(鞄の中の資料を探しながら)。

宮田:李禹煥さんは?

堀川:李さんは、あれはフィクションなんだよ。最初の書き方は。

高:『美術手帖』に載ったもの。

堀川:そう、あれは(編集長の)宮澤(壮佳)さんに出したものを、(李さんが)「私のところに送ってきた」というかたちで展開しているの。最初は一番見てもらいたい人というか自分をアピールしたい人に。(細かいメモを目で追いながら)当たったというような反応があったので(注:李のテキストには誰宛に届いたものかは明記していない。宮澤宛と承知したうえで、掲載されたモノクロ図版を見ると、うっすらと写っている荷札から宮澤宛であることが読み取れる/李禹煥「観念の芸術は可能か―オブジェ思想の正体とゆくえ」『美術手帖』319号, 1969年11月号, pp.70-79, 作品図版掲載p.71)。

宮田:それはどういう風に聞こえてきたのですか。

堀川:それは前山さんが第1回の国際彫刻展(「第1回現代国際彫刻展」箱根彫刻の森美術館開館記念展、1969年8月)で箱根に行くのですよ。入選して。それはメジャーの作品でね。

前山:うん。

堀川:それでオープニングにも行ったんですよね。「そこでおまえの作品の話がでたよ」と聞いたので。誰からそういう話が出たのか知らんけど。

前山:新潟だということで「おまえ、石を送る作家か?」と聞かれたんだと思うんだよね。「いや俺の友人の堀川だよ」って言ってさ。そういうことで、「いやぁ、あれは面白かった」みたいな話が出たんだと思う。

堀川:(送付先記録を見ながら)石子さん、郭(仁植)さん、関根(伸夫)、高松次郎だね。東野、針生、中原、前田常作、松澤宥、前山忠と。これが最初の11人だね。自分含めてね。

高:郭仁植さんに、というのは?

堀川:それはね、ギャラリー新宿で会ったんですよ。

高:そうなんですね。

堀川:ちょっと一言何か話をしてくれたんでね、送ったんだな。

高:郭さんも石を使われて、石ころに色を塗ったり。

堀川:その細かいことは後から知りましたけどね。その頃は紙の作品しか知らなかったかな。

宮田:郵便で送ったんですよね。石に荷札(紙片にハトメが一つあり、細い針金が留め具になる)を付けるだけで送れるものだったのですか。

堀川:うんそれはね、こけしを送る方法があるのですよ。

宮田:こけしを……。

堀川:こけしがあって、こうネジになっていて、中がパイプ状になっていて、こけしの胴が。そこに手紙を入れて観光地から500円くらいで送れる。それをどっかで見た記憶があって。今でもありますわ。この前、山形に観光で行ったらありましたね。だから物に荷札を付けて、重さの分払えば。

宮田:わりと送りやすい。

堀川:送れることを知っていたんでね。持って行ったら大丈夫だって言うから。

宮田:郵便局員を説得しなきゃいけなかったのかと思ってました(笑)。

前山:ねぇ、むき出しで送れるなんてね。やっぱり面白いね。

堀川:みんなビックリするけども、これを紙で包んで送っちゃね、面白くないしね。メール・ハプニングで行く感じになったのですよね。それで当たったと思ったので、次回また一月後くらいに、8月の休みに、赤塚さんとか東京画廊の山本(孝)さんとか、南画廊の志水(楠男)さんとかに送ったんです。そしたら志水さんからだけね、「石の小包一個受け取りました」と葉書で返事が来た。赤塚さんからもコンセプチャルな領収書を頂きましたよ([カタログ]p. 42)。これでそれなりにアートとして認めてくれたなと思ったんでね。そのうちに李さんがボコンと出してくれたので。宮澤編集長に送ったのは2回目なんですよ。([カタログ]p. 42)。それから何でそうなったのか(『美術手帖』に紹介してくれたのか)今でも全然わかりませんし、李さんと話をしたわけでもないし。今なら少し話を聞くことくらいならできるかなと思うくらいですわ。

【「郵送芸術グループ・精神生理学研究所」への参加】

宮田:同じ年に「郵送芸術グループ・精神生理学研究所」の活動に参加されます。

堀川:前田常作さんが、自分の担当クラスの「稲(憲一郎)さんや竹田(潔)君が何か面白いことをやりそうなので会ってみてはいかがですか」と連絡をくれた。要するに私が送ったりして、前田先生にその前にも会っているので「一緒に活動してみないか」と僕のことを(彼らに)知らせたらしいんですよ。それで東京で会ったんです。で「精神生理学研究所」というのをやってみようということで、じゃぁ面白そうだからやりましょうと。

前山:前田さんとは糸魚川以来ね。

堀川:実際アトリエに連れて行ってもらったりね。

前山:私も単独に行ったり、(堀川さんと)一緒に行ったりしてお世話になりました。自分の制作は確固たるものがあるからこつこつ絵に向かっていましたけども。色々面白いことがあって、例えば私が鏡の作品を見てもらった時に、「おいおい私も鏡やってみたんだよ」とか言って。(部屋の隅を指しながら)現物あそこにありますけど、小さなものでね。スプレーか何かして鏡の部屋のようにして、ちょっと抜ける部分もあったのかな。

堀川:うん、実験的なことを。

前山:実験をやるんだよね。

堀川:だから教育者的だったと思うんですよ。若い人たちには非常に好意的な認める発言というか、サジェッションみたいなことをしてくれてね。

前山:それで造形大(東京造形大学)教授になるのかね。

堀川:それで教え子の稲さん達と、

前山:一緒にね、

堀川:やることなったんですよ。

宮田:グループはどれくらい続くのですか。

堀川:半年ですね。

宮田:早い。半年で終わる。

堀川:終わるんです。

前山:記録集(『精神生理学研究所』精神生理学研究所、1970年)が出ていますよ。ご存知ない?

宮田:はい、存じ上げなかったです。翌年ですか、前山さんも参加されている。

堀川:前山さんはね、2回目からですね。

高:年賀状のやつとか。

前山:とかね。

宮田:年賀状のやつ?

高:去年の年賀状に今年の年賀状刷ったんでしたっけ?

前山:あれは別のメールアートなのだけどね。生理学研究所のは、1ページに点線で葉書の大きさを描いて、そこに切手を。あの当時は7円くらいかな? を貼って、そのまま切り取れば葉書で使えますよ、というものとかね。その当時の買い物した時の領収書を送るとか。その日の日時の指定がありますから、その時に自分がハプニングしている時の手がかりを送る、みたいな。そういうのを集積して全国各地から寄せ集め、また再発信すると。まぁ言ってみれば同時多発じゃないけども、ゲリラ的な一つのハプニングって言っていいですよね。しかもそれが一つの記録として集積するというのが特徴なのですけどね。

宮田:メンバーはその4人以外にもおられたのですか? お二人と……。

堀川:それはね最終的には……

前山:10人くらいは間違いなくいましたね。

堀川:10人前後くらいじゃないですか? 途中ほら前田先生にも参加要請して。前田先生がちょうどインドに取材旅行に行かれた時に「ガンジス川で何とかを祈った」というメッセージが届いたり。東野さんも「その日は仮眠していました」とかそういうのがあったりね。「あなたも参加しませんか」って稲さんの方で(声をかけて)。

宮田:かなりの人数が。

堀川:松澤宥さんも二度参加してくれたり。ああいう高名な方がさ、一緒にやってくれて、何か生きがいを感じた。少しの間だけ。

前山:やっぱりコンセプチャル・アートの影響はすごくあったと思いますね。いわゆる「もの」じゃなくて、観念というか思考というか。ハプニングのような作品は消えちゃうわけだから、そういうものに焦点を当ててやる。画家とか作家でないと参加できないというものではないでしょう。そういう面での面白さもあったと思う。だから評論家も参加したわけですよね。

堀川:結果的に今だったらコンセプチュアルアートという形になりますけども。あの時コンセプチュアルアートと本当に自覚してやっている人は松澤さんとかね。

前山:うん。

【写真家・羽永光利氏との出会い】

堀川:結果的に僕らがやったのはコンセプチュアルな仕事になった。組み入れられて。まぁ「紙派」みたいな言い方をした人もいましたよね。「もの派」に対して、紙を使っているから紙派だと言ったりしましたけども。数回は非常に新鮮な表現だったように思いますね。その後にね、僕は(《The Shinano River Plan》の)1回目が当たったので、ニクソン大統領に石を送っちゃった。それがまた羽永さんを通して新聞社に伝わって、新聞記事になったり(「第三の若者 遊びハプニング」『読売新聞』1970年1月8日/[軌跡]p. 29; [カタログ]pp. 42, 80)。あの頃は李さんに(『美術手帖』に)取り挙げられて、「急に飛躍できた」みたいな幻想を持ちましたね。そして羽永さんと関わりを持ちながら。67年の12月に知り合って、東京に数回行く度に羽永さんの家に泊めてもらうと。

宮田:そういう間柄だったのですね。

堀川:土曜日に行って泊まって日曜日に(画廊などを)見てまわって帰ると。10年近く、結婚するまでの間は羽永さんのお宅が常宿みたいな感じで泊めてもらいましたね。(前山さんに向かって)1回泊まったよね?

前山:いや1回どころじゃなくて泊まった泊まった。

堀川:あ、何べんもね。

前山:記憶あるね。

堀川:内科画廊の頃が彼の、あの3、4年間くらいがアート写真家としてはピークで、いろいろな裏話とか美術情報を教えてもらいましたね。彼から。だから非常に恩人ですよ。

高:羽永さんとの出会いっていうのは、それはGUNの最初の時に?

堀川:ギャラリー新宿の時でたまたま私一人だったのですよ。彼(前山)もずっと常駐していたのだと思うけど。何か話しているうちにじゃあ泊まっていくかとなって(笑)、西荻窪のお宅に泊めてもらった。成田東とかいうところだった。それからの(つきあい)。彼も新潟に縁がある方で好意的にして頂いて。「雪のイベント」でも新潟との接点があるから一生懸命に仲介役をやってくれた。仲介役兼影のリーダーみたいな感じですね。

前山:舞踏関係でも結構写真を撮り続けていましたからね。

堀川:僕らは表に出る部隊で、下準備部隊はまた彼らがいろいろやってくれたわけだから、有難い存在でしたね。

【メールアートの実践】

前山:メールアートはさっきも出たように、金がなくなる時代、生活が苦しいという時に非常に手軽にやれて、コミュニケーションとして確実にマンツーマンで成立するでしょう。しかも自分の発信と受け手との間に、公的というべきか郵便制度とか郵送の機関を仲介しますよね。そういうところが普通の展覧会とまた違った身近な面というか直接性があって、僕らも結構のったのだと思う。こういうなかで表現の可能性を逆にすごく感じましたよね。

宮田:かなり反応があるというか、応えてくださる方も多かった。

前山:そうですね。私の記憶では赤塚さんに書いてもらった、取り挙げてもらったのですが。郵便屋さんには申し訳ないけども、宛先をデタラメな住所にしちゃうんですね。東京都なになに、でその名前に自分の名前・前山忠と書いて、差出人を正確に、例えば住所と赤塚行雄と書いて投函するわけ。

堀川:悪知恵なんだな(笑)。

前山:そうするといったんはデタラメな住所に行って、最後差出人のところに戻るわけ。だから相手は自分が出さない郵便物を自分が出したかのように確実に受け取るという。不在の一つの証明みたいな、そういうことで取り挙げられたと思うのですが。さっき出た河原温と同じように、自分が生存しているという証を刻み込むということがこのメールアートにあって。私も毎日自分に葉書を出すということを半年か一年くらいかな。同じ葉書を二度と出さない。手を替え品を替えてアイディアを考えてやるわけですね。授業でも結構取り上げたしね。

宮田:授業でも。

堀川:彼のね、(写真資料をひろげながら)この辺に載っているのはね、今でも作品だなと思うのと、ああもう惰性でお互いにやっちゃっているのと。自分が、どれだけどんなことをどういう風にやったかは相手の手元に残っているだけで、相手が残してないと今証明もできないわけだから。幾つか自分が意図的にやったようなのはね(取ってある)。私の、ここにあるのはね、これも違法的行為なのですけども。わざわざ不足料金で出すのですよ([軌跡]pp. 36-37; [カタログ]p. 43)。

高・宮田:(笑)。

堀川:7円のところ1円で出すと6円が不足でしょう。6円をその葉書を受け取る時に12円払うわけ。だから2円次払うと5円不足だから10円払わなければいけない。1から6までやった。

高:(資料図版を見ながら)これ零円切手に消印押してありますけど(笑)。

堀川:これね。

前山:これ完全に7円不足なわけ。

堀川:間違って押しちゃったの(笑)。

高・宮田:(笑)。

堀川:こういうのは今でも取ってありますけども。彼のところにも幾つか送って。彼が取ってるかどうかわかりませんけど。

前山:だいたい取ってあります。

堀川:私と佐藤(秀治)さんと前山さんと3人でやったのが一番(GUN)部内的には(活発で)。たまにその中の良いものを人に送ったりした記憶があります。それが最終的には私のなかで零円切手のかたちになった。やりとりがヒントになってこうなった。それと赤瀬川さんの零円札っていうのはもうその時には千円札裁判で有名だったから、それ(からの影響)もはっきりしているんですけど。これは「言葉とイメージ」展(ピナール画廊、1970年3月20日)で出したので。同じ「言葉とイメージ」展で彼は「反戦」のステッカーをやったんですよ([軌跡]p. 35, 37; [カタログ]pp. 52-53)。

前山:うん。

宮田:そろそろお昼になります。69年あたりの国際展、さきほどの箱根彫刻の森や「東京ビエンナーレ」のお話に入っていきたいのですが、その後「雪のイベント」まで続くので一旦ここで休憩にしようと思います。

―お昼休憩―