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出光真子オーラル・ヒストリー 2018年3月21日

東京 スタジオ・イデミツにて
インタヴュイー:出光真子
インタヴュアー:中嶋泉、小勝禮子、鏑木あづさ、宮川緑
書き起こし:尾形万里子
公開日:2021年9月17日
 
出光真子(いでみつ・まこ 1940年〜)映像作家
1940年、出光興産創業者・出光佐三の四女に生まれる。早稲田大学第一文学部卒業後ニューヨークへ留学し、帰国後執筆活動を行なっていたが、再びカリフォルニアに渡米し、美術家のサム・フランシスと結婚する。結婚、育児生活を送る中で表現意欲を募らせ、二児をかかえて映像作品制作を開始する。《At Santa Monica 1》(1973)といった心象風景を繊細に映し出すフィルム作品を制作するいっぽうで、ジュディ・シカゴらによるWomen houseを撮影した《Woman’s house》(1972・16mm・13分40秒、《おんなのさくひん》(1973年・ビデオ・10分50秒)、《主婦の一日》(1977・ビデオ・9分50秒)など、1970年代初期から、女性や家庭の主婦の視点を映し出す画期的映像表現を次々と打ち出した。聴き取り第一日目となる今回のインタヴューでは、生い立ちから、制作活動を開始し、初期作品を制作する頃までの話を伺った。なお出光氏は、著書『ホワット・ア・うーまんめいど─ある映像作家の自伝』(岩波書店、2003)にて自己の自伝的背景について語っており、本インタヴューも部分的にその記述を参照しながら行われた。

中嶋:本日は3月の雪の日です。3月21日スタジオ・イデミツにて、出光真子さんのインタヴューの第1回目を行わせていただきます。インタヴュアーは、小勝禮子さん、鏑木あづささんと、宮川緑さんと、私、中嶋で、よろしくお願い致します。
出光真子さんは、日本とアメリカ両方で活動され、また映像作家として重要な功績を為された方で、ずっとインタヴューをさせていただきたいと思っておりました。ただ、私が美術の専門で、映像や映画に詳しくなかったので、躊躇しておりました。この度機会をいただきどうもありがとうございます。

出光:こちらこそよろしくお願いします。

中嶋:ご著書で自伝のようなものを語られていることもありますので、重なってしまうこともあるとは思うのですが、なるべく詳しくお聞きしたいと思います。それではまず生い立ちの頃からお伺いしたいのですが。生い立ち、いつ、どこでお生まれになったかということを。

出光:1940年、高輪北町って言いまして、品川駅を出ると、右側、あれ、北になるのかな、だから北町だと思う。ちょうど高輪警察っていうのが坂の上にあって、そこをずっと出ていったところの左側の小さな借家で生まれました。だから今もうそれは誰かの家になって、壊れちゃって、マンションかなんかになっているのかな。

中嶋:東京にいらしたんですか?

出光:父が下関で旗揚げして、そして軌道に乗って、それで上の子供3人を作ってから、それ昭和10年頃だったと思うんですけど、それで東京に出てきたんですね。で、もう子供作る予定じゃなかったんですけど、産めよ増やせよ(という時代で)。

中嶋:昭和10年頃までは、それではご家族は下関の方にいらして、お引越しされてから、真子さんがお生まれになったということで。

出光:その前に、すぐ上の2歳違いの姉が、昭和13年に生まれたんですね。で、私が15年に生まれて、その年かな、真珠湾が始まったのは。

中嶋:そうですね。

出光:ね、その12月ですよね、真珠湾は。(注:日本軍による真珠湾攻撃は、1941年/昭和16年)

中嶋:今、お父様のお話が出ましたけれども、お父様は有名な出光興産の創業者の方で。お父様のことについてもちょっとお伺いしたいんです。どのようなお方だったか。

小勝:話せば長くなる……

出光:話せば長くなる、恨み節……(笑)

中嶋:出光さんがお生まれになった頃の、お父様の会社の状況というのは、もう東京に拡大して……

出光:下関で始めて、それで事業がうまくいって。彼は満州で、「日本軍が行くか、出光が行くか」ぐらいに言ってたんです。満州ですごいうまく事業がいってたから、東京に出たんですよ。

中嶋:満州での事業というのは。

出光:日本が満州国って傀儡国を作ったじゃないですか、その時に父は満州鉄道に、冬になっても凍らないっていう車軸を売り込んだんですよ。それで彼はすごく事業が上手くいって。それまでは父は大きな、なんていうのかしら、ガスでも送る……そういうところに属してなかったんですよね。なんていうんだっけ、そういう風なみんなが集まるみたいな。彼は一人でやろうとしてて、なかなかできなくて、で、『海賊と呼ばれた男』っていう本(注:出光佐三をモデルにした百田尚樹による小説。2012年)が、あの時彼は海賊みたいに陸地では油の売買はできないけど、海に出ればそこは治外法権だから、売買できると、海で売買してたのね。それ以来、彼は「海賊」という呼ばれ方をしてたみたいです。

中嶋:そうなんですね。お父様は何年生まれでいらっしゃいますか。

出光:父はね、明治18年。(注:西暦1885年)

中嶋:明治18年。

出光:1885年ぐらい?

中嶋:そうすると出光さんがお生まれになった頃は。

出光:55歳か。

中嶋:そうなんですね。その頃は、じゃあもう随分お立場が確立されていたということですよね。

出光:そうですね、その戦前に彼は上がって、一回敗戦とともに、落っこっているんですけど、戦前の頃は一番伸びてて、それで東京に出てきたっていう感じだと思いますけど。

中嶋:お母様は、どのようなお方で。

出光:母はね、あれなんです、すごい複雑な人で。母はね、土佐に山内容堂っていますよね。あの山内家の一員なんですよ。その容堂とどう関係しているか知らないけど。

中嶋:では、やはり大きいお家の……

出光:そういうので。あれもどうせ明治維新と共に潰れちゃって、彼女自身すごく食べていくのに大変だったっていうことを聞いていますけど。まあとにかく名前だけは山内っていうの、で父親がくまやごろうって、あそこ(スタジオの壁)に私が写真、ベターって貼っているんですけど、あの人が萩の出身なんですよ。山口県のね、商家の息子だったらしいんですけど……

小勝:くまやごろうってどういう字ですか?

出光:ごろうもよくある

小勝:普通の、五郎。くまやの方は?

出光:くまは普通の熊に、谷です。

小勝:そうですか。

中嶋:ご両親とも南の方のご出身なんですね。

出光:考えてみればそうですね。でも、萩ってちょっと南って感じはしないですよね。暗ーいところですよね。

小勝:その萩の熊谷五郎さんとお母様との関係は(注:熊谷五郎は、母の父。出光真子の母方の祖父)

出光:あのね、あれは何なんだろう、あの二人が会ったのは、よく知りません(注:これは、出光さんの母と父・出光佐三の出会いについて)。誰かがあの当時だからお見合いで引き合わせたんだと思いますけど。母はだけどね、その前に一回結婚してるんですね。でもその相手がね、関東大震災で死んじゃってるんです。

中嶋:じゃあ、一度東京の方にいらしていた。

出光:ずっとね、彼女は東京に生まれたんじゃないかな。山内っていう血は、結局明治維新でどうってことなくなっちゃって、それで東京に出てきて、母の母、私の祖母っていうのが、誰かと結婚して、二回位結婚してらっしゃる。当時はだって、結婚しないと食べていけないみたいな感じじゃないですか。二回位結婚してて、その二回目の方が、あ、違う、最初の方の結婚の娘だ。

中嶋:かなり複雑な家なんですね。

出光:そうですね、複雑ですね。

中嶋:追跡するのが難しいですね。

出光:ね。で、それをうっかり書いたら。私が書いたの、ご存知ないですか。『新潮45』って雑誌があって、それに「みっつの家族」っていって、父のお妾さんのこと書いたんですよ。そうしたら私、(出光家から)縁を切られちゃって(出光真子「みっつの家族 『海賊』と呼ばれた出光佐三の光と影」『新潮45』34巻3-4号、2015年3-4月に掲載)。

小勝:こちらの自伝を書かれたときもそうだったんじゃないですか?(注:『ホワット・ア・うーまんめいど』岩波書店、2003年)

出光:これはまあね、OK(笑)。この時もみんな怒ったんですが、まあOK。父のお妾さんのことを書いたら、本気でみんな怒りましたね。

中嶋:ではこれは『新潮45』を拝見してもうちょっと勉強させていただきます。 出光さんは、お姉様が美術家でいらっしゃいますし、お父様は出光美術館を作られたので、もともと美術とは深い関わりがおありだったのかと思ったんですけれども、ご家族や親族の方で、美術に関係するお仕事をなさった方というのはいらっしゃったんでしょうか。

出光:出光孝子、という絵描き、東野芳明って美術評論家と結婚してたんですけど。私は彼女を絵描きと呼びたいけど、どうなんでしょうね。絵描きですよね? 一生その絵を描くということに捧げた、それが売れたとか、売れないっていう問題じゃなくて、彼女の人生は全部その絵を描くこと、絵描きであるっていうこと、であったから、絵描きだと私は思うんですけど。

小勝:一番上のお姉さんですか?

出光:ええ、一番上の姉です。

中嶋:はい、(「前衛の女性」展図録を見て)この作品よく存じ上げてます。出光孝子さんが美術家になられた、絵描きになられたのも、その…… (注:「前衛の女性1950‐1975」展、栃木県立美術館、2005年。小勝によるキュレーションで、出光孝子氏の作品が展示された。出光真子氏の映像作品も出品した。)

出光:東野芳明と結婚して、東野芳明っていうのは美術評論家なんですよ。で、ある時期、結構評論家として力のあった人みたいね。

中嶋:とても著名な美術批評家の方です。

出光:彼と結婚して。彼と二人でヨーロッパに行っていました。50年代だから、あんまりみんなそんなにヨーロッパなんか見て歩けないっていう時に、父が二人を外国にやらせたっていうのかな。

中嶋:お父様が……

出光:お金がかかる話じゃないですか。

中嶋:(渡航費用を)どうしてたのかなって思ってました。

鏑木:お姉様と東野さんのご結婚は、何年位ですか?

出光:あれはね、私はっきり覚えてないんですけど、1950年代の前半じゃないかな、

鏑木:そうすると東野さんが批評家として世に出て、割とすぐですね(注:東野が活動を始めたのは1954年)。

出光:だから東野さんがまだ美術評論家になって、間もない頃ですよね。

中嶋:そういうことなんですか。

出光:で、当時あんまりみんな外国なんか出て行けなかった頃だから、帰ってきて見てきたことを本にして『グロッタの画家』っていうのを出したのね。(注: 『グロッタの画家』美術出版社、1957年)

鏑木:それが最初の本ですね。

出光:そうやって評論家になったんですね。

鏑木:そうだったんですね。私は逆に、批評家になられてから、お姉様と出会われたのかと思ってました。

出光:そうじゃなく、それで東野さんってのは、本当に女癖の悪い人なんですよ。とにかく姉は離婚しましたね。

鏑木:はい。

小勝:(年譜を見ながら)1958年結婚となってますね。

鏑木:1958年ですか。

小勝:(「前衛の女性」展図録の)あの履歴……

出光:じゃあ、それくらいかもしれない。

小勝:お姉様はあれですよね。戯曲とか、文筆の方を最初にやってらしたんですよね。

出光:そう、やってたんですよね。

中嶋:出光真子さんも小説を書かれていましたし、やっぱり美術的な活動をする家風というか、雰囲気がお家にあったということなんでしょうか。

出光:というか、家は父が…… これは私自身だけの解釈なんですけど、父がほとんど家にいなかった人で、だから本当に、家族としてはある意味では崩壊してた家族だったと思うんですよね。だから、心理学用語でいうとアダルトチルドレンという言い方があって、ほとんど家族として機能してない家の子供たちのことをアダルトチルドレンって言うんだけど、まあ、家族としてほとんど機能してない、父はとにかく週末はお妾さんとゴルフ、それで家族は、父が夜帰って来るのは、お妾さんとご飯食べた9時頃で、もう帰ってきて寝ちゃう。寝にだけ帰って来てた。だからもう、家族としては機能していなかった、そういう家族だったんですね。だからやっぱり何かしないと、そういう家族で育った人間とは、非常に生きづらい、何かしないとやっていけないってところにあって、姉は詩を書いたり、戯曲を書いたりしてて、そして私もなんかぐじゃぐじゃやってて、すぐ上の姉はフィギュアスケートをずっとやってたんですね。もう大学にも行かないで、高校卒業と共にフィギュアスケート。だからあの世界では、結構知られてる人なんですね。で、そのすぐ上の姉だけが、父の言うようなお見合い結婚をきちんとして、という。

小勝:お姉様が、何人いらっしゃるんでしたっけ。

出光:三人。

小勝:三人、はい。一番上が孝子さんで……

出光:次がすごい父の娘、父の娘……(笑)

小勝:お父さんが望むような……

出光:そんな、人生を生きた人。お見合いで結婚して。

小勝:で、三番目の方がフィギュアスケート。孝子さんの絵画を所蔵してらしたのは、純子さんでしたっけ。

出光:いや、みんな一つずつ持ってるんです。それで最後、姉が死んで全部持ってっちゃったのが、兄なんですよ。だからその兄が持ってる作品を全部出せば大きな展覧会が開かれると思って、一時動いたんですけど、いろいろ邪魔ものが入って、出来ませんでしたね。

小勝:残念ですよね。

出光:ねぇ。

中嶋:お兄様は、お父様のお仕事を引き継がれた……

小勝:年齢的には、お兄様が一番上なんですか?

出光:一番上ですね。兄は昭和2年かなんかに生まれて、だから昭介。あの頃みんなそうなんですね。昭和の昭ね。

中嶋:お父様が美術館をおつくりになったのは、どのようなきっかけだったんでしょうか?

出光:知りません。詳しいところは知らないけど、私が想像するには、やっぱりある程度名を成した人間っていうのはそういうものを作ってみたいんじゃないかな。仙pっていう、あそこのあれ(スタジオの壁に掛けられているカレンダーの絵を指しながら)あの絵を描いた人が福岡の出身なんですね。それで父が福岡の出身だから、そういうことで、彼の絵を集めたのが始まりだと思う。それで私の前の夫だったサム・フランシスと会った時に、なんか仙pと共通する余白があるって感嘆したっていうから、そういうところから現代の作品に入っていったんじゃないかな。

中嶋:なるほど。最初は九州でそのコレクションを美術館にされて、その後東京で出光美術館を……

出光:そうですね。その九州の美術館が先か、東京の美術館が先か、それはよく知りませんけど。

中嶋:東京に来た時には、東野さんとの関係で現代美術の作家に会うようになったっていう形なんでしょうか?

出光:そうですね。

中嶋:じゃあ東野さんの紹介で現代美術の色々な作家に会うようになった……

出光:まあ、色んな作家に会ったかどうかわからないんですけど、東野さんの紹介で、南画廊っていうのが日本橋にあったんですけど、そこでサムの展覧会をやると必ず、父が見に行ってましたね。

中嶋:なるほど。

小勝:孝子さんと離婚後も東野さんとは、お付き合いは……お父さんと(続いていたんでしょうか?)

出光:父は、どうなんだろう、そのあたりは。でも、そうだそうだ、そうそうそう、《Sam,are you listening?》(1974年、ビデオ、60分)っていう作品を作った時に、私が父にインタヴュアーとしてたずねるのは、とてもできないからって東野さんに頼んだんですよ。そしたら、父は快く引き受けてくれたから、やっぱり東野さんと交流があったんじゃないでしょうかね。(注:この作品についての話は、後のインタヴューに続く。日本にいるサム・フランシスの関係者に彼の印象を聞いていくという形式の作品)

中嶋:その話にまた戻るかもしれないんですけども、年代順に戻ってちょっとお聞きしたいのですが。戦争中、あるいは戦後の生活について何かご記憶のことがあれば。

出光:戦争中、父は、今考えてみれば、満州で日本軍と一緒に大いにやってたわけじゃないですか。ですから、小さな貸家から、戦争中に大きな赤坂の家に移ったんですよ。ということは、父の仕事がすごく上手くいってたと思います。戦争がひどくなって、空襲が始まるっていう、そういう情報は全部父のところに入ってきたはずですよ。

中嶋:軍から情報が流れてくる……

出光:軍から。やっぱり軍の仕事をしてたわけで、満鉄なんてのは全部軍のですから。それで、私たちを空襲に遭わないようにもうちゃんと疎開させてました。

中嶋:そうなんですね。疎開はどちらになさったんですか?

出光:栃木のね、マツダっていうとこです。

小勝:どのあたりですか?

出光:どこなんだろう?地図みるとなんか真ん中あたりにこうあって……

小勝:マツダ・……(注:栃木県足利市に、松田町というところがある。)

出光:マツダ、本当にねえ……

小勝:ちょっと聞いたことが(ないんですが)……それは何か縁があったんですか?どちらかに?

出光:それはわからないけど、とにかく農家しかないっていうとこだったから……

中嶋:ご兄姉みんなで。

出光:いや、兄と、孝子っていう姉は、もう、なんていうんですか、女学生は勤労奉仕の年齢でしたから、彼女は学校でどっかに行ってましたね。

小勝:《直前の過去》(2004、ビデオ・インスタレーション、7分)、「アジア女性アーティスト展」にご出品いただいた、あれがまさにその戦時中の記念写真ですよね、あれは。(注:「アジアをつなぐ―境界を生きる女たち1984-2012」展 福岡アジア美術館、沖縄県立博物館・美術館、栃木県立美術館、三重県立美術館を巡回、2012-13年)

出光:そう、だから1941年頃です。

小勝:41年頃。

出光:ちょうど日本がわーっといってた頃で。

小勝:真子さんが赤ちゃんで。

出光:私がまだちょっとこう座れるくらいのね。

小勝:あれを見ると本当にいかにも出光財閥の、豊かなご一家という感じで。

出光:一番、父としては上手くいってた頃だと思いますよ。

小勝:だからもうしばらく前から大金持ちだったのかな、と思いましたけど、今伺ったら、本当にトントン拍子で、戦争中に豊かになられたという……

出光:そうみたいですね。だから、あんな写真、恥ずかしげもなく(笑)、よくあんな写真を撮って、残しておくんじゃないですか。(笑)

小勝:華族様みたいな感じですよね。

出光:夢です、夢だったんですよね、彼にとってはね。

中嶋:まだとても幼くていらしたと思うんですけども、終戦の時の事は覚えていらっしゃいますか?

出光:終戦は覚えてます。疎開して、それで帰ってきたのが高輪。白金小学校っていうところがあって、今、二本榎って呼ばれてるところで、明治学院の近くですね。あそこにまず帰ってきました。

中嶋:その時に、ご自宅はそちらにあったんですね。

出光:それは貸家だったみたいで。

小勝:それは何月頃とかわかりますか?

出光:何月?

小勝:ええ、45年8月に終戦で。

出光:ちょっと覚えてないんです。でも、私はまだ小学校に入ってなかったんですね。で、小学校に入ったのが、そこの学校から白金小学校に入ったんだから、その家から入ったんだから、8月に終戦で、だから9月、10月とかじゃないですか?

中嶋:結構すぐに。

出光:すぐでしたね。結構早く、だと思います。

中嶋:その頃の生活について何か覚えていらっしゃることや、ご記憶にあることありますか?

出光:ありますよ、まずシラミ。もうシラミとDDT、体中にこうDDTを吹き付けられる、それとあと駐留軍がジープに乗ってきて、ギブミー・チョコレートって、それが私が最初に覚えた英語なんですね。

小勝:実際に。

出光:ええ、実際に行って「ギブミー・チョコレート」って。

小勝:実際にやったんですか!

出光:うわーって、取りっこしてね(笑)。

中嶋:そうなんですか。

出光:そうでしたね。

小勝:それ、お姉様とかもご一緒に戻って、同じ家にいらしたんですか?

出光:いや、最初に戻った二本榎の家は、次女の哥代子と三女の純子と私と母、四人だけでしたね。孝子はどこ行ってたんだろう?私わからないんですけど、それで兄と父は、また別のところにいたっていう感じでしたね。

中嶋:その頃、一度お父様のお仕事が結構大変になる。

出光:もうだめになったんですよね。

中嶋:そのあとまた何かをきっかけに立て直されていくわけですね。

出光:そうなんですよね。

中嶋:そのあとにまたお引越しされる。

出光:そう、だから家の大きさが父の仕事の規模になっていくわけです。そこは高輪の二本榎っていう明治学院に近いところで、そこから高輪南町って品川駅に近いところに行って、

中嶋:お生まれになったところのお近くですか?

出光:生まれたのは北で、今度は南なんですね。引越すたびに家が大きくなって、それで最後に父が本当にもう大成功したなっていうのが…… 私が小学校1年の時に高輪南町に行って、それで高校卒業するまでだから何年かな、12年間ですか、その間は南町で、父が仕事を立て直すのを待ってたっていうか。もうほとんど家に帰ってこなかったから、「もう帰ってこない」くらいな感じで、やってましたね。いつもいつも疲れてて、本当に人は疲れるとああいう風になんのかっていうぐらい、イライラしてました。

中嶋:あまりこう親しく交流するっていう(感じではない)……

出光:そんな……(笑)そう聞いただけで、なんかドキドキしちゃうくらい。だから、私、父に抱かれたことって一回もないですよ。とにかく、こわい人だと思って、父が一年に二回位ご飯食べに帰ってくるんですよ、それでその時は、すき焼きのお肉を持ってきて、すき焼きを食べるんですけど、帰ってくるって言ったら、私本当にどっか逃げちゃおうかと思うくらい(笑)。こわかった。

中嶋:怒られるんですか?

出光:すごい、すごい、こうやって。父は自分でもある種の神経の病だって言ってたけど、本当に神経がどっかおかしくなきゃ、ああいう怒り方は、子供にはしないと思う。

小勝:やっぱりその仕事が大変で、神経が張り詰めてたんでしょうかね。

出光:そうなんですよね。そうだと思いますね。

中嶋:緊張感のあるご家庭だったんですね。

出光:緊張どころか……(笑)

小勝:でも、いわゆるDV的な、暴力は……

出光:それはないんですよね。それはなかったですね。

小勝:まあ、でも心理的虐待ではあるわけですよね。

出光:心理的虐待ですよね(笑)。

小勝:お母様とかも、だから恐れてこう逆らわないで……

出光:母は、父がご飯食べる時は、茶釜の端に出ちゃって、台所に通るほとんど廊下のところにいて。で、お手伝いさんがなんか持ってくると、そこで受け取って、それをまた次の姉に渡して、姉が今度は向こうに行く、っていう(笑)。母ももう完璧に父を避けてましたね。

中嶋:お母様もお父様が恐ろしかったっていうことですか。

出光:それはもう恐ろしいなんて超えてたんじゃないですか。でもね、それでも母は、父のご機嫌を取って、食べていかなきゃいけない。当時は食べてかなきゃいけないことが第一だから、とにかく父を怒らすと生活ができなくなるよっていうことを、うちの母が暗にいつも言ってましたね。

中嶋:そこからもうやはり逆らってはいけない存在だという……

出光:もちろん、怒らしてもいけない。それと怒らすと、怒った時は、本当怖いんですよ。皆さんにちょっと体験してもらいたいくらい(笑)。

小勝:体験したくないです(笑)! ひいては男性全般に対してそういうこう恐怖的なもの?

出光:そうそう、私もすごい恐怖あるし……、姉全員もあるんじゃないですかね。

中嶋:ちょっとお話し戻りますけれども、小学校はその白金の方に行かれていた?何小学校?

出光:今で言う白金小学校ですね。

中嶋:中学校や高校はどちらに?

出光:小学校は、1年は白金に行って。2年からはお茶の水女子大の付属小学校が、2年からでも取るようになったんですね、あの時。

中嶋:そうなんですね。そうすると、生活はがらっと変わりましたか?

出光:いやー、やっぱり。その時はそうですね。戦後の、今も混んでるけど、混んだ山手線を品川から大塚まで、朝の混んだ時に。あれはちょっと辛かったし。

小勝:山手線で通学。

出光:うーん。それで、ランドセルからお弁当を盗まれるんですよ、当時は。お弁当盗まれないように、満員電車で通うっていうのは(笑)、結構大変なことでしたよ。

中嶋:お一人で通ってらしたんですか?

出光:すぐ上の姉と二人で。

小勝:二人ともお茶大付属に入られたんですね。

中嶋:それは大変でしたね。

出光:あれはね、ちょっと今の混むっていうのとはまた別で。お弁当を守りながら混む電車に乗るってのは独特でした(笑)。

小勝:それは1940年代の後半なわけですよね。

出光:戦後すぐですよね。

中嶋:通勤の大人たちに囲まれて、

出光:そしてそのうちの誰かがこうやって、ランドセルを開けてお弁当をつまんで持って行くんですよね。何回もやられました。

小勝:それでもわざわざ、そのお茶の水付属に通ったっていうのは、やっぱりいい学校に入れたいっていうことだったんでしょうか。

出光:後になって発見したんですけど、この熊谷五郎さん、あの人が、ドイツに留学してたんですね。それでね、ドイツに文部省の留学生で行っていて、それで文部省となんか揉め事起こして。帰ってきた時に、本来ならばお茶の水みたいなああいう国立の学校で教えられたのが、教えることが出来なくなっちゃった。その文部省とバタバタやったばかりに。それだから、母の中にそれがあったんじゃないかって気がする。だから娘たちを是非とも国立の学校に入れたかったって。それは最近になって熊谷さんのことを色々調べてみて、ああ、そういうことで、あの満員電車に無理に詰め込まれて(笑)、通わされたんだ―と思いましたね。

中嶋:結構距離がありますもんね。

出光:本当。品川から大塚って、今でも田町、浜松町って、私全部言えるんですけど。

小勝:大塚からも結構ありますよね。そこは……

出光:都電でした。最初は。

小勝:ああ、都電ね、そうですね。

中嶋:じゃあずっと女子の学校で、高校まで過ごされたわけですか?

出光:いや、お茶の水は中学いっぱいまで、男女共学だったんです。高校だけ女子。

中嶋:ああ、そうなんですか。今もそうですね。

出光:はい。中学は、3つ組があって「蘭組」っていうのが女だけだったんです。あと2つあって、その2つが共学だったんです。

中嶋:何か好きな教科や楽しい授業などありましたか?

出光:好きな教科、好きな男の子がいたけど(笑)、だからやっぱり共学だってはっきり覚えてますよ。

小勝:なるほど、わかりました。

中嶋:学校は楽しいところだった?

出光:うーん、ないですね。

小勝:あの、これ(年譜?)に書いてある、卓球部だったていうのは、中学?

出光:それは中学からですね。

小勝:じゃあ、それは男の子と卓球をやってたんですか?

出光:いや、それとは関係ないですね、卓球部は。でもなんか好きな学科、勉強ですか?

中嶋:はい。小中高。

出光:うん……、ないです。

中嶋:その頃、どんな授業をやっていたのかもよくわからないですけども、美術の授業はありましたか?

出光:美術の授業は、絵描きになれなかった男の先生が、「なんで僕はこんなことしてるんだろう」って(笑)。わかるでしょう?(笑)

小勝:ええ。致し方なく、(という感じ)……(笑)。

出光:ね。致し方なく、こんなことを教えてるって、いう感じでしたよね(笑)。

小勝:あれ、高校は?高校もありました?付属って。

出光:付属は小学校から中学、高校まであった、大学から全部女になるんですよ、あそこは。(注:お茶の水女子大学付属高校から女子高になる。)

中嶋:大学は受験をなさった。

出光:で、早稲田に私は行きました。

中嶋:すごいですよね。なかなか大学に女子学生が進むことはなかった……

出光:なかったから、そうですね。

中嶋:それはご家庭の方針で、大学まで。

出光:まさか(笑)。親の無関心のおかげで行けました。親は私が何をしてるか全然気にもしてなかったから、私が早稲田を受けようと思って、一生懸命受験勉強してたってこと、全然気がついてなかったんですよ。

中嶋:ああ、そうなんですか。

出光:それで、受かっちゃって……。そうだ、受かる前に母に、受験するからお金を下さいって言ったら、母が「どこを受験するの」って言うから、早稲田大学って言ったけど、母は早稲田大学って言われたって、どんな大学かわかんないわけですよね。でも、「男も行くの?」とか言って、変な顔してたのだけは覚えてますね。

小勝:上のお姉様たちがみんな女子大だったんですよね。

出光:上の姉はね、上が日本女子大で、次が東京女子大、で三番目はもう大学やめてスケート。

中嶋:早稲田を選ばれたのには何か理由がありますか?

出光:ものすごい単純で、卓球やってたら、そのコーチが早稲田だったから。

小勝:そうなんですか。やっぱり卓球にすごく熱中してらしたんですか?

出光:熱中してましたね。

小勝:高校まで。

出光:ええ、高校に入ってもやってましたね。

中嶋:早稲田の史学部ですね。

出光:ええ。

中嶋:文学部の……

小勝:日本史?

出光:国史科っていうところ。

中嶋:国史科、その歴史を選ばれたのにも何か理由があるのでしょうか。

出光:それはすごい単純で、歴史の授業の評価が、点数がよかったんです。高校時代。

中嶋:歴史がお得意だったんですね。これは多分どこかでお書きになってたと思うんですけれども、この頃、早稲田の教授が「女子大生亡国論」を言っていた頃だったと思うんですけれども、その早稲田で女子学生をしているというのは、どのような感じでしたか?

出光:うーん、あんまりそういうあれは、なかったですね。

小勝:女子の人数は、どのくらい? 割合とかは?

出光:50人に3人か4人ですかね。

小勝:そんなに少なかったんですか。

出光:ただ私が一番に嫌だったのは、出光っていう名前を聞いたら、そのクラスの子が図書館に駆け込んで調べあげてきたの。もうそれが本当に何よりも嫌でしたね。

中嶋:もう有名だったんですね。

出光:その頃、もう知られてたみたいですね。

中嶋:出光という苗字が珍しいですね。

出光:珍しいし、それがガソリンスタンドなんかにベタベタ貼ってあるわけじゃないですか。

中嶋:その頃、もう既にガソリンスタンドの出光というのが、ロゴが知れ渡ってる頃なんですね。それでは、あまりお父様やご家族の話は、外ではなさらなかった。

出光:もちろんしません。だから、私は今でも出光っていう名前を、表現する時に使ってますでしょ。「そんなに嫌なら、なんで使うんだ」って、聞かれることあるんですけど、私が始めたのはアメリカだったんですよ。だから、アメリカで出光ってわめいたって、誰も(知らない)……(笑)。だから、まさかと思ってアメリカで使い出して、日本に帰ってきたら、ああこういう現実があったんだっていう。うーん、でももう変えられないなと思って、そのままずっと。

中嶋:アメリカにいらした時は、結婚された姓ではなく、出光……

出光:うん、ちょうど、フェミニズム運動が始まって、「女はもうとにかく自分の名前を使え」っていう、ことを刷り込まれた頃、私はちょうど表現を始めた頃だったんで、じゃあってことで出光っていう名前を使い出した。

中嶋:それは意味のあることですよね。

出光:意味のあることですね。ただ、一番最初に作った8ミリの、もう今ね、紛失しちゃったんですが、8ミリの作品(注:《You Can’t Get What You Want》1970年。後述)があるんですけど、それだけMako Francisになってますね。(注:結婚相手のSam Francisの姓)

中嶋:あ、そうなんですか。

小勝:それは女性がこう裸で踊って、ていうやつですか?

出光:そうそう、そんな格好(笑)。

中嶋:早稲田のことをもうちょっとお伺いしたいんですけれども、早稲田にいらした頃、勉強しながら執筆活動をされていたと。自伝の中で「現代文学会」についてお話しになっているんですけれども、その時に小説を書き始められたということですか?

出光:まあ、小説といえば小説なる何かを書いてましたね。

中嶋:どのような……

出光:忘れちゃいました。

小勝:それは後のこの自伝とか、あるいはあの『ホワイト・エレファント』とかに繋がるっていうわけではないんですか?

出光:ないんですね。間が空きすぎてて、うーん。

鏑木:小説を書かれるということは、後の映像での表現にも結びつくことだと思うんですけれども、小説で影響を受けたものや、当時好きだったものというのは、どんなものだったんでしょうか。

出光:どういう小説が好きだったっていう?

鏑木:そうです。

出光:どうなんだろう。思い出せない(笑)。でも、そうですよね、トルストイがすごい好きだったっていうのは、一つ覚えてますね。それと宮本百合子が好きでしたね。

中嶋:現代文学会は、作品をみんなで読んだりとかそういうことではなくて、創作をするためのサークルのようなものでしたか?

出光:本来はね。でもやっぱり入ってみたら、みんなで集まって飲む方が先行してましたね。それでもう嫌になって。

中嶋:やはり男性が多かったですか?

出光:そうですね、男の人が圧倒的に多かったですね。それで当時はまだ、手ぬぐいをこっから(腰から)ぶら下げているような(笑)。『人生劇場』って小説ご存知ですか?尾崎士郎が書いた、いわゆるバンカラってやつ。

小勝:下駄履きで。

出光:ね、下駄履き、ああいう雰囲気がまだ残ってましたね。

小勝:早稲田はまさにバンカラがね、ずーっと残ってましたよね。

中嶋:そうすると、ご家庭の周りにいた男性とはだいぶ違う感じの男の人達が大学にいた。

出光:そうですよね。まあ、家庭に兄しかいなかったですけどね。

中嶋:そうですけれども、こう、割と文化が違うところだったんじゃないかと。

出光:それは随分違いましたね。

小勝:お兄さんとはいくつ離れてらっしゃるんですか?

出光:兄とはね、14歳か、5歳、それくらいです。

小勝:じゃあ、ご家庭で一緒って言っても、なんかこう……

出光:ほとんどいなかったですね。私が物心ついた時は。

小勝:お兄様は、最初からそのお父様の会社でもう働かれたんですか?

出光:兄はね、よそに勤めたってことはなかったですね。ただ、あんまり嬉しく働いてたみたいじゃない(笑)。男一人しかいないから、しょうがないっていう感じでしたね。

中嶋:早稲田の話を続けたいんですけども、卒業論文を禅僧についてお書きになったとどこかでお話しになってたと思うんですけども、それは誰について?

出光:あの仙pって、父が(作品を)集めた禅僧なんです。

小勝:仙pについてですか。

出光:なんでそれにしたかって言うと、だって資料がいっぱいあるじゃないですか。

小勝:なるほど。

中嶋:それはそうですね。立派なものが書けそうですね。

出光:書けそうですよね(笑)。

小勝:昔は美術史を学ぶ人は、お家のお蔵に美術品がたくさんある人が、そういうのを調べて書いたっていう、そういう時代ですよね。

出光:そういう時代なんですよね。

中嶋:そうなんですね。ただ卒業論文を書かれて、無事に、というか立派に修了された一方で、この頃、学生運動も、1960年安保があるわけですよね、それは全く関わりは……

出光:行きました。安保。でも、樺(美智子)さんが亡くなった日は行かなかったけど。ちょうどだからあの日は行かなかったなあ、たまたま休んだなあ、っていう感じで行ってましたね。

中嶋:本当にしょっちゅう行っていらしたんですね。

出光:もう、しょっちゅう行ってましたね。

小勝:それは女子学生の友人ていうか、そういう人も一緒にですか?

出光:そうですね。ただなんかに書いたと思うんですけど、そこに座ってたら言われたんですよ、「出光さん、あなたは将来この中の人と結婚するようになりますよ」って。「この日のことは思い出に残りますね」と。本当に、頭にきた(笑)。

中嶋:ひどい嫌味ですね。

出光:嫌味ですよね。本当に嫌味。

中嶋:やっぱりそういう世間の目というのは常にある。

出光:常にありましたね。常にありました。

中嶋:結婚するっていうのも嫌ですね。そういう言い方が。

出光:ねえ(笑)。

中嶋:あなた奥さんになりますよ、っていう話みたい。

出光:でもその頃は、まあ1960年代の始めだから、あんまり意識の中にはなかったんですね。私の中にね。だけど、その……「この中の人」?! だけど戻って、懐かしく思うなんて(笑)。本当に腹が立つ!!

中嶋:なんとなく、どのようなお立場だったか想像できるようになりました。

小勝:まあ、やっかみですよね。

出光:やっかみですよね。だからその人に今度なんかで会ったりしたら、連れてきますから、みんなでいじめてくれますか(笑)。

中嶋:なんでそんなこと言ったんだ、全然違うじゃないか!

出光:問い詰めて欲しいです(笑)。

中嶋:そうですよね。アーティストですって、言いたいですよね。本当に。もう少し美術との関わりについてお伺いできればと思うんですけれど。やはりサム・フランシスさんとお会いになったのは、お父様がコレクターにおなりになったからということが、どこかで書かれているんですけれども、1950年代、60年代の日本の美術界との関連というのは、出光真子さんご自身はあったんでしょうか。

出光:いえ、私個人はないですね。

中嶋:そうですか。

出光:ただ、あの孝子が東野さんと結婚した、っていうことだけで、南画廊にちょいちょい遊びに行ったんで、あそこに遊びに行くと、ご馳走してくれるんですよ。

中嶋:そうなんですね。

出光:だから、よく行ってました。そしたら同じようにご馳走してくれるってんで行ってた人が、今の夫です(笑)。

小勝:そうなんですか。

中嶋:お聞きしてもよろしいですか?

出光:はい。

中嶋:今の?

出光:だから、私はサムと結婚して、離婚して、今の夫と再婚したんです。

中嶋:今の夫の方は?

出光:はい、日本人。

中嶋:美術の関係のお仕事ですか。

出光:いやいや、全然。商社マンでした。

中嶋:そうなんですか。

鏑木:じゃあ当時、パートナーの方が南画廊によく行かれていたというのは。

出光:というのは、彼のお父様がコレクターだったんですよ。

小勝:じゃあ、アメリカに行かれる前からお知り合いでもあったんですか? 今の旦那さん?

出光:いいえ、帰ってきてからです。

小勝:帰ってきてからですよね。

中嶋:そうなんですね。南画廊の展覧会でご記憶に残っていられるものとかありますか? その頃は本当に南画廊を通じてみんな近代美術に出会っていったという感じだと思うんですけれども。

出光:いっぱいありましたね。福島秀子さんなんかすごい印象に残ってますね。

中嶋:そうですか。福島さんとはお知り合いでしたか?

出光:そうですね。やっぱり南画廊に行った時に、お会いするっていうことが、多かったですね。

中嶋:その頃、サム・フランシスさんもそうだと思うんですけども、アンフォルメルという形で、日本の美術家や海外の美術家が、ある種の抽象的な絵画に注目していた頃だと思うんですけれども、アンフォルメルという運動自体はご存知でしたか?

出光:私、あんまりそういう方からは入っていかなかったから。ただあの父が何の理由か知らないけど、今井俊満の絵を買って、家の玄関入ったところに、こう掛けてあったんですね。だから嫌でも見ましたね。それで、アンフォルメルはああいうものだってことで。あと、堂本(尚郎)さんですか、彼なんかもう、常に持ってくるタイプじゃないですか。

中嶋:そうなんですね。

出光:だから、結構、堂本さんの絵は、見てました。

中嶋:お父様のところに持っていらしてた。

出光:ていうか、美術館に番頭さんみたいな人がいて、それでね。

中嶋:それで重要なコレクションが出来上がったわけですよね、そのようにして。

出光:そうですね。だから、私達が初めて姉と一緒にパリに行ったのは1960年なんですけど、その時に、堂本さんが、なんていうのかしら、色々案内してくださったり、通訳くださったり、っていう。

小勝:なるほど、ちょうどパリにいらしたんですね。

出光:パリにいらして。

中嶋:ミシェル・タピエにはお会いになりましたか?

出光:ちらーっとくらい。

中嶋:ああ、そうですか。堂本さんと親しかったと思うんですけど。

出光:みたいですね。

中嶋:それは本当に歴史的的な(場所におられましたね)。

小勝:そうですね。

出光;やっぱり一番あれだった人、ほら私名前が出てこないんだけど、女性のアメリカの作家で、パリにずーっと住んでた人いたじゃないですか、ものすごい力の強い人、

小勝;女性の画家ですか?

出光:画家で。

中嶋:パリにいた人?

出光:ミシェル・タピエじゃない誰かとフランスで結婚して、その人が、私確かこれに書いたんだけど、「私が男だったらサム・フランシスになったわ」って言ったの。

中嶋:ジョアン・ミッチェル(1926-1992)。

出光:ジョアン・ミッチェル、そうそう。

中嶋:確かに。男だったらサム・フランシスに……

出光:なってた!(笑)

中嶋:お会いになりました?

出光:そう、会った時に、彼女にそう言われて、私、なるほど、本当にそうなんだなと思って、目を開かされるというか、そんな思いをしましたね。

中嶋:それは1960年に行った時に、お会いになったのですか。

出光:いや、そうじゃなくて、それはもうサムと結婚した後ですから、1960年代後半ですね。で、彼女、誰か男の作家と結婚してましたね、なんとかっていう。

中嶋:ちょっと今わからないですけど、調べておきます。(注:夫は画家のジャン=ポール・リオペル、1923-2002)そうですよね。この頃は、画家は男性の仕事っていう傾向が強くて、大画面で、大きく手を振りながら描く人が多かったのかな。

小勝:まあね、ヘレン・フランケンサーラー(1928-2011)がいましたけどね。

中嶋:そうですね。

出光:そうですね。ニキ・ド・サンファル(1930-2002)なんかはどうなんですか?

小勝:ニキ・ド・サンファルも、そろそろ(描き)始めてたんですかね。射撃絵画なんかやってた頃ですかね(笑)。(注:ニキ・ド・サンファルは1961年に射撃絵画を発表。その後立体作品に移行し、1965年から「ナナ」のシリーズを発表する)

中嶋:1960年代の後半ですね。随分沢山の作家の方とお会いになっているようで。自伝では、デュシャンとも会われたとお話しになっています。

出光;あれはすごい印象に残ってる(笑)。

小勝:ヨーロッパでお会いになったんですか?

出光:そうなんです。ヨーロッパのカダケスっていう、スペインの保養地で、たまたまニューヨークでもう全く関係ない人から、ニューヨークの画廊の人がそこに別荘を持っているから寄ってごらんって言われて、行ったんです。そこに、デュシャンが現れた。

中嶋:でもその頃はデュシャンはご存知なかった、

出光:デュシャンのデュの字も知らない。でもすごい印象の残る人でしたね。それで東野芳明だ、堂本尚郎だって、わーわーわーわー彼が名前言うから、私全員知ってます、I know them.なんて(笑)。変な格好して、変な顔して、こんなバカなこと、なんで言うんだって、顔してましたね。

中嶋:そうなんですね。なるほど。印象に残る展覧会や、美術のイベント等、その頃はありましたか?

出光:私その頃だから、お恥ずかしいんですけど、全然行ってないんです。だから、パリに行って美術館に行こうってことを全然してなくって。

中嶋:あまり美術自体には、ご関心はなかった。

出光:うん、美術より、なんか人間の方が興味があって。

中嶋:そのようですよね。人物の観察は、出光真子さんの優れた能力であるという風に思えます。先程福島秀子さんのお話でてきましたけども、女性の美術家や、作り手ですね、文学者とか音楽家等で、その頃、興味を持たれた方とか、ご存知だった方とかいらっしゃいますか?

出光:日本人でですか?

中嶋:まあ、じゃあまず日本人で。

出光:美術家とか作家とか、前から質問を聞いておけばよかったですね。急に出てこないのよ。

中嶋:そうですね。質問は、では今度は事前にご用意しましょう。

出光:記憶、ちょっと待ってください。だから、榎本和子さん、あの東野さんと一時結婚してられた榎本和子さんとか、あと誰なんだろう。

小勝:例えば、これ(「前衛の女性」展図録を見せながら)に出てた人なんかは、ご存知の方は…、まあ榎本さんも出てましたけど、まあ、福島(秀子)さんですね。こういう榎本さんの、こういう作品(《断面(1)》1951年、《記憶の〈時〉》1951年など)はご覧になってました?

出光:見たと思いますけど、あんまり覚えてないですね。

中嶋:お姉様の孝子さんは、特に他の女性の画家達とお付き合いはなかったんですか?

出光:なかったみたいですね。

鏑木:意外ですね。

出光:うん、だから福島さんとは、ちょっと会ったりしてたんじゃないかな、と思います。でも、彼女、誰かと付き合う、特に女性と付き合うタイプじゃないんですよね。

中嶋:そうなんですね。

出光:うん。

中嶋:その頃、女性の画家は、女流画家協会とか、あとは瀧口修造さんの周りや、阿部展也さんの周りに、こうなんていうか集まったり、付き合いをしたり、交流したりすることが多かったと思うんですけども。

出光:彼女はね、中原佑介さんを頼りにして。

鏑木:そうでしたか。中原さんは南画廊のカタログに書いてらっしゃいますね(『出光孝子』南画廊、1972年)。

出光:そうですね。

中嶋:中原佑介さんも、お知り合いでしたか。

出光:私は、だから本当にちらーっとぐらいです。

小勝:その時は、ご自身が美術家になるっていうお気持ちはね、まだなかった?

出光:なかったですね。ただ東野さんやなんかに比べたら、すごくすきっと、なんて言うのかしら、嫌味のない人だなと思った。

小勝:あ、中原さんが、

出光:中原さん。うーん、でもわかんないですよね、人ってね。

中嶋:そうですか。輝かしい面々とお付き合いがあったんだなって、びっくりするんですけれども。

小勝:針生さんとは?

出光:針生さんはね、サムと結婚してた頃、サンタモニカの家に、パーティーの時に来て、後ろで針生さんがパタパタ話をしてさ、話してるのを、私はそれとなく聞いてたの。そしたら、ここのサム・フランシスの妻っていうのはね、出光興産の娘でさー、って(笑)。それ聞いたらもう嫌になっちゃって(笑)。

中嶋:針生さん、言いそうですね(笑)。その辺りで、現代美術との話は。この後、渡米してからのお話なんですけども。よろしいですか?大学を卒業してからすぐアメリカに行かれたと思うんですけども、一度ニューヨークに行かれたわけですよね。その時は、お姉様がいらしたから、ニューヨークに行ったということでした?

出光:いえ、そうじゃなくって。その1960年の時に、父の会社の取引先が、私達を招待してくれたんです。アメリカに来なさいって。

中嶋:1960年。

小勝:じゃあ、パリにいらしてから、そのままニューヨークへいらしたんですか?

出光:そうですね。どっちか先かは忘れちゃったけど。あ、ロサンゼルスに姉夫婦がいて、それでロスに行ってからパリに行って、それでニューヨークに行ったんだ。

中嶋:そうなんですね。

出光:ロスに行って、パリに行って、あー遠いなと思ったのを覚えている。それからニューヨークに行って、で、ニューヨークがいいよ、ロスよりも、パリよりも、何よりもニューヨークがいいなと思って、帰ってきたんですね。

小勝:それはどのあたりが良かったんですか?

出光:すごい、活気があるじゃないですか、今のニューヨークって無くなったのかもしれないけど。ものすごい活気があって、二十歳の娘には、嬉しいことでしたよね。こんな活気のあるところに暮らせたらいいなと思った。

中嶋:ニューヨークではどちらに滞在されたんでしょうか?

出光:その時はウォルドルフ・アストリアです。すごいですよね(笑)。

中嶋:すごいですね、本当に。

出光:すごいっていうのは、ウォルドルフ・アストリアホテルに泊まって、姉と二人でひょーっと抜け出して、ちょっと歩いたところに、ジャズのレコード売ってるところがあって、二人でこうやってウィンドウ越しに見てたんですね。そうしたら中から黒人の男性が出てきて、入んなさい、入んなさいって。それで言葉がわからないから、なんだかんだって。それで、どこにいるかって、彼は家を聞いてきたから、私達は「アストリア、アストリア」。それで「ジャズが好きか?」って聞くから、「好きだ」って言ったら、じゃあ今夜ジャズに連れてってあげようって言うんで。で、その日の夜、彼が車で迎えに来てくれたんですよ。その時も絶対アストリアの前には出ない、脇に止まって、見えないように、見えないように停まってて。で、私達はそれに乗って、フォルクスワーゲンなの、覚えてる。で、ブルックリンに行って……

中嶋:ブルックリンに行ったんですか?

出光:それでね、入ったら、誰かピアノ弾いてんです。それがセロニアス・モンクです。彼とセロニアス・モンクはよく知ってる仲だった。それで初めてその時セロニアス・モンクって人、聴いたし、会って。あれはすごい印象に残ってる。

小勝;素晴らしいですね!

中嶋:すごい体験ですね。ジャズは日本にいる時からお好きだったんですか?

出光:好きでした。すごく好きでしたね。

中嶋:ああ、そうなんですか。そういう意味でもニューヨークはすごくいいところですよね。

出光:いいですよね。

中嶋:ロサンゼルスは、そんなに印象に。

出光:ロサンゼルスは、ジャズなんかなかったし、つまんないとこですよね。

中嶋:ニューヨークでも美術館には、あんまり行かれなかった。

出光:学生の頃、ジャズクラブにはもう本当に行きましたけど、

中嶋:ジャズクラブにはたくさん行かれました?

出光:うん、でも美術館は…… メトロポリタンから歩いて1分のところに住んでたんですよ、70thストリートのイースト。(メトロポリタン美術館が)82ndストリートで、本当に目の前に住んでたけど、一回も行かなかったんです(笑)。最後になって、やっぱり行こうか、と思って行ったくらいです。

中嶋:そして、この時のニューヨークがすごく印象深くて、また戻られる。

出光:そうですね。だからやっぱあのジャズ騒動がすごく楽しくって、また色んないいことがあるだろうと思って、行きました。

中嶋:それで大学を卒業されてから、またニューヨークに戻られるわけですよね。それが、何年でしたっけ?

出光:1962年です。

中嶋:その時は、留学という形で、行かれたという風に書かれてますけれども。ニューヨークでの、大学のお話をお聞きしてもよろしいでしょうか?

出光:話すことないくらい、大学には行ってません。

中嶋:あ、行かなかったんですね。

出光:最初にコネチカットの、コネチカット・カレッジ・フォー・ウーマンっていう、女子大の寄宿舎に入れられたんですね。

中嶋:寄宿舎だったんですね。

出光:あそこじゃなきゃいけないって言われて、一応入ったんですけど、週末は金曜日の授業が終わる前にもう電車の方に向かって、それでニューヨークに行って、帰って来るのは月曜の朝っていう。ずーっと、だから大学のことなんか全然覚えてないんですね(笑)。

中嶋:あ、そうなんですね。コネチカット・カレッジ・フォー・ウーマンっていうのは?

出光:今はもうなんか共学になったみたいですけど、ニューロンドンっていうところにあって。

中嶋:じゃあ、シティからはちょっと離れてる。

出光:そうですね。1時間半か、そんなもんじゃなかったかな。

中嶋:ニューヨークの、マンハッタンですよね。遊びに行かれるときはどこで滞在されていたんですか?

出光:友達の家に泊まってましたね。

中嶋:そうなんですね。ご友人がたくさんいらした?

出光:いや、そんなに大勢はいなかったけど、なんだかんだと。

小勝:それは大学の友達ではなく……?

出光:大学の友達もいたし、それから昔ニューヨークに行った時に知り合った人のところにも行ったし、泊まったし。

中嶋:どのあたりですか?ダウタウンの方ですか?

出光:そのコネチカット・カレッジ・フォー・ウーマンに行ってた人の家っていうのは、例えばパーク・アベニューの49thとかいう、そういうすごいところなんですよ、みんな。

中嶋:みんなお金持ちなんですね。

出光:みんなああいうカレッジに子供をやるっていうのはお金持ちですね。

中嶋:そうなんですね。

出光:それで、あともうどうでもいい人達は、どうでもいいというか、いわゆる社会的な世間はどうでもいいっていう友達ってのが一人いまして、その友達はブルックリンに住んでましたね。

中嶋:そうですか。

出光:当時はブルックリンは、今みたいにきちんとしてなかった。うん。

中嶋:どういうところでしたか?

出光:もう本当に、黒人がいっぱいいて、日本人の駐在員なんか絶対行かないとこでしたね。

中嶋:日本人の駐在員はマンハッタンのアップタウンの方に住んでる。

出光:そうですよね。今だったら、どうでしょう、ブルックリンは。

中嶋:今、ブルックリンは非常にヒップなところみたいですね。

出光:もうきちんと、ね。

中嶋:あの、自伝を拝読しててもちょっとよくわからないのが、こう何も怖くなかったのかなと思って。

出光:本当に何もこう、誰かの歌にありましたよね。「何も怖くなかった〜」とか。ああ、私だと(笑)。

小勝:なるほど、怖いもの知らずっていうか。

出光:全く怖いもの知らず。

小勝:知らないので、っていう感じですかね。世間知らず的な。

出光:世間知らず的なんでしょうね。うん。

中嶋:その、レコード店の店主の車に乗って行ったという話が……

出光:そう、店主だった大男のアフリカ系アメリカ人の人がたまたまいい人だったからいいけど、そうじゃなかったら、アフリカかなんかに売られてたってしょうがないですよね。

中嶋:今とはだいぶ違って東洋人や、日本人も少ないですよね。想像するに。

出光:そうですよね。

鏑木:一つ教えていただきたいんですけれども、ニューヨークの話で、吉村益信さんにお会いになった時に、吉村さんのパートナーの……

出光:翠さん。

鏑木:翠さんとのエピソードを読みました。吉村さんから翠さんにあまり変なことを教えないで、と言われたという。(「出光真子インタビュー 『ウーマンハウス』から『加恵、女の子でしょ』まで」聞き手 三木草子『表現する女たち』三木草子、レベッカ・ジェニスン編、第三書館、2009年)。

出光:そうそうそう。「翠に変なことを教えてもらいたくないから、付き合って欲しくない」。

鏑木:ひどいですね。

出光:すごいひどいですよ。ほら、当時の男の作家って、みんな奥さんを日本食レストランで働かせてたじゃないですか。

中嶋:え、知らないです。

出光:翠さんもそうですよね。みんな働いてましたよ。

中嶋:それは例えばどなたですか?

出光:だから吉村さんもそうだし、翠さんが着物着て、日本食のレストランでウエイトレスして、そういう風にして生活を支えてたわけですよ。それでいて、自分がそういうことをする、っていうのは信じられない。

中嶋:そうですね。

鏑木:そうでしたか。当時、すでに日本から何人かニューヨークに行っているアーティストがいたと思いますが、他に吉村さんの他にそういった方達とのおつきあいはありましたか。

出光:荒川修作さん。でも荒川さんは、割ときちんとしてて。他の人に聞くと、あんないい加減な男はいないっていうけど。その女性関係に関して、私に関しては、昔、荒川さんとうちの姉が付き合っていたんで、そういうこともあるのかな。

小勝:それは孝子さんとは、違う?

出光:孝子さんと。

小勝:孝子さんですか、はい。

出光:だから、そういうことなかったし。あと河原温さんなんかもね、だけど全然そういうあれはなかったですよ。

鏑木:そうですか。でも、まあそういった方達とも少し交流は少しおありで……

出光:私はあんまり交流なかったです。その絵描きさん、アーティストの方々とは。

鏑木:さっきのパリのときのように、ちらっとお会いしたとか、それくらいの感じの交流ですか。

出光:そうですね。

鏑木:それはやっぱりお姉様や、東野さんとのお付き合いがきっかけですか。

出光:そうなんですよね。

小勝:この頃ですと、草間彌生さんもね、もうバリバリ発表してたわけですけど。

出光:そうですよね。

小勝:ご存知はなかったですか?

出光:ないですよね。

鏑木:今うかがうとすごく意外ですけれども、当時はそうだったんですね。

中嶋:この後にまたちょっと話が戻りますけれども、日本に戻られて、またニューヨークに行って、留学をして、それで、一度帰国されるわけですよね。コネチカット・カレッジ・フォー・ウーマンにいたけれども、一度帰国される?

出光:いや、そうじゃなくて、一回ニューヨークにも出て、で、ニューヨークにそれから1年半位いて、でビザが切れちゃうんですよ。

中嶋:ビザが切れるんですね。

出光:うん、それでヨーロッパへ出て、戻ろうと思ったんですけど、戻れなくて、それで帰国して。

中嶋:ああ、そうなんですね。ヨーロッパからアメリカに戻ろうとしたけどできなくて、帰国してしまったんですね。で、帰国した後の日本て、どのように目に映りましたか?

出光:地獄(笑)。

小勝:いかにニューヨークが楽しかったか。

出光:楽しいっていうか……(笑)

中嶋:その頃、戻られたご自宅というのは、どちらの?

出光:渋谷に。

中嶋:その頃は、渋谷なんですね。

出光:渋谷の、本当にもう牢獄みたいな家でした。だって鉄の門があるんですよ。だからもし外から見たら、ここは何の牢獄だろうかって、思うみたい。中にあるのがコンクリの家。

中嶋:とてもモダンなデザインだったんですか。

出光:そう、モダンだと、作った人は思ったんでしょうね。でも、本当に人間が住むような家じゃなかったですね。

中嶋:建築家の方が設計されたものだったんでしょうか?

出光:みたいですね。

中嶋:そこに戻られて、でも日本はやはり自分には合わないという風に感じられたわけですよね。じゃあ、ちょっと中断して、一回お休みを。

(中断)

中嶋:再開しますね。ビザが切れて日本に戻っていらして、またなんとかアメリカに戻りたいと思ったわけですよね。それは色んなところでお書きになっているとは思うんですけども、戻るまでの経緯についてお話しいただけないでしょうか?

出光:その頃ね、サム(・フランシス)と付き合ってたんですよ。

中嶋:それは、日本に帰国する前から?

出光:前から。彼がニューヨークに来てて、それで相互の付き合いが始まって、カリフォルニアに遊びに行ったりなんだりしてて。

中嶋:そうなんですね。

出光:それで、ロサンゼルスに戻る切符は彼が用立てしてくれて、出してくれる。自分じゃ行けませんよね。

中嶋:サム・フランシスさんが、戻って来い、戻って来い、という風におっしゃってたということですか。

出光:まあね。

中嶋:その前に、日本でサム・フランシスさんが残されていたスペースをお使いになっていたという。

出光:ええ。

中嶋:それは一時帰国の時に?

出光:サムが日本に来ていたときが何度かありましたが、ホテルは色々うるさいじゃないですか。あったんですよ、そういう1週間、2週間と滞在のできるアパートメントみたいなのが。そこに彼が部屋をずっと借りてたんで、サムが帰ってる時は、そこに(滞在していました)。(私は)家からもう離れたいと、あの家には帰りたくないと思って、そこ使わせてもらってました。

中嶋:そこで小説を書いたり。

出光:そうですね。書きましたね。

中嶋:どのようなものを書かれていたんでしょうか?

出光:忘れちゃいました(笑)。本当にどういうもの書いてたのか。どうせくだらないことでしたよ。

中嶋:残念ですね。最近のご著書から思うと「くだらないもの」ではなかったと思いますけども。

出光:ありがとうございます(笑)。

中嶋:小説は継続してずっと書かれてたわけですよね。

出光:そうですね。でも1970年代に入って、本格的に映像始めてからは、もう全く書かなくなりました。

中嶋:そうなんですね。

出光:ええ。

中嶋:アメリカに戻るのは、サム・フランシスさんが切符を送ってくれて、ご家族には、お知らせにならないで……

出光:もちろん、もちろん(笑)。

小勝:駆け落ちみたいなもんですよね。

出光:駆け落ちって聞くと、かっこいいですね(笑)。

中嶋:もう全く日本や、日本の家族には未練がなかったんですか?

出光:ないですね。

中嶋:ああ、そうですか。

出光:みなさんあります?

小勝:まあ、そういう時って、ないでしょうね。

出光:ないですよね(笑)。

中嶋:でもその時はニューヨークではなく、カリフォルニアに行くっていうことだったんですね。サム・フランシスさんは、ニューヨークではなく、カリフォルニアを基盤にして活動されていたんですね。

出光:彼はあんまり健康が良くなかったから、特に気管支に問題があったので、それでカリフォルニアにずっと住み始めたみたいです。

中嶋:彼は元々フランスの出身ですか。

出光:いや、元々はカリフォルニアの、サンマテオって、サンフランシスコの郊外の出身なんですよ。

中嶋:そのあとパリにいた時期があったということなんですね。

出光:パリに行って、パリで作家としてちょっと頭が出たっていう。

中嶋:サム・フランシスさんの話になってしまいますけども、パリにはもう彼には住みたくはないという風に思っていたんですか?

出光:そうみたいですね。だから、あの、お医者さん、いつだったかな…… 彼、本当に体を悪くして、スイスで入院して、その後スイスからカリフォルニアに移ったんです。その時に、カリフォルニアの気候だったら、オーケーだって。

小勝:なるほど。

中嶋:ちょっと立ち入ったことではあるんですけども、サム・フランシスさんてだいぶ……

出光:色んな女がいたとか?(笑)

小勝:何回も結婚をされてるんですよね。

出光:4回。

小勝:4回ですか、うん。

中嶋:で、まあだいぶ年上でもあられる。何も不安やそのようなものは感じなかったんですか?

出光:ないですね。なんか皆さん感じます? そんな相手の年なんかって(笑)。 

小勝:それは関係ないですよね。

出光:ねー(笑)。

中嶋:そうですよね。そうです。ただすごくもう著名な作家で、なんというか相手は既に立場が決まっている人で、自分の方はこれから色々やっていこうという時に、かなり意識の差があるんじゃないかなという風には思いましたけれども。

出光:そうです。ただね、(コミュニケーションが)英語なんですよね。日本語だったらもうちょっとそういうものが明確に出てきたかもしれないけど、英語だと、なんか常にこっちが劣ってるわけですよ。

中嶋:わかります。

出光:わかります?(笑)

中嶋:私もサンフランシスコにいて、その感覚はちょっと。

出光:ねえ、そうすると、今更っていう感じですよね。

中嶋:前提が。

出光:ね。

中嶋:では、ある意味では、なんていうかちょっと言い方は違うかもしれないですけども、保護者のような。

出光:そうですね、うん。

中嶋:優しい方だったということですよね。

小勝:その日本でのお暮らしが、こわーいお父さんの元で生きていくためにはね、怖いお父さんの娘でいないといけない、ということからの解放みたいな感じでしょうかね。

出光:そうですね。それはありましたね。怖いお父さんていうより、お父さんがいないって言った方がむしろ、正しいぐらいで、本当に父はいなかったんですよ、家に。

中嶋:じゃあ、一般的な父親像とは全く違う存在で。

出光:全く違いましたね。

中嶋:そうすると、結婚というものもイメージするのが難しそうですね。

出光:だからああいう結婚したんですよ。本当に、結婚てどういうものか全然知らなかったですね。

中嶋:結婚される時にも、いろいろと顛末がおありだったんですよね。

出光:あ、父とですか?

中嶋:えー、サム・フランシスさんと結婚する時に……

出光:サムは前の奥さんとまだ離婚してなかった。その離婚が本当に大変でしたね。

中嶋:それで、お父様にも許可というか、お知らせするのも大変だしということで。

出光:まあ、でも父に関しては、私あんまり意識の中になかったんですね。というのは、父はいなかったわけだから。

中嶋:ああ、そうか。

出光:だから、別になんとも思ってない。父がどうこうとか、なんとかってなかったんです。

小勝:でも、やはり知られると、勘当っていう形で。

出光:うん、知られたら、勘当でしたね。

中嶋:サム・フランシスさんのところに最初に行った時には、それはサンタモニカですか? サンタモニカはどのような印象でしたか。

出光:土地全般ですか? それともサムの住んでるところですか?

中嶋:両方お聞きしたいですね。

出光:そうですね。サンタモニカっていうのは、ほら、カリフォルニアでもサンフランシスコとは全く違って、とにかく日がさんさんとする。

中嶋:暖かいところですよね。

出光:暖かい、それで彼の家が、海まで歩いて2、3分っていうところで、すごくそういう意味で住み心地のいい家でしたよね。それから、まあ、サムは優しくしてくれるじゃないですか。初めはねえ、誰でもそうだけど。すごくいい印象で居心地良くって。でもね、結婚する時はあんまり私は乗り気じゃなかったんですよ。それでも、なんとなく。それが私の悪いところで、引っ張られるとそのまま引っ張られてしまう。皆さん、いかがなんでしょうね(笑)。

中嶋:じゃあ、サム・フランシスさんの方が、積極的に結婚なさりたかったということですか?

出光:うん、だから、サムは積極的に結婚しよう、と言ったんですけど、でも今、落ち着いて考えてみると、落ち着かなくても考えてみると、サムはね、父に対するあれで、結婚したんじゃないかなって最近思うようになって。

小勝:父に対する?

出光:私の父、出光佐三ってね、サムにとってみれば大きな借りがあるわけじゃないですか、その人をちょっとこう、その人の弱いところを叩いてみよう、って(笑)。父親にしてみれば、もうすごい弱いですよ、娘をあれされたら。それをサムはやったんじゃないかなって気が、最近になってしますね。色々と私も年取って、考えてくると。

中嶋:でも親しくされていたわけですよね、お父様とは。

出光:それはあんまり関係ないですよ。そんな人と親しくしてたとか、してないとか。親しいと余計ちょっとこう、つついてやろうか、みたいな。

中嶋:お父様は、サム・フランシスの一番のコレクターだった。

出光:みたいですね、当時はね。

中嶋:じゃあ、そこにも複雑な関係が、心理的なドラマが……

出光:それがサムの、そのちょっとひねくれた性格にマッチしたんじゃない?

小勝:ちょっとこう鼻を明かしてやるみたいな。

出光:そうそう(笑)。鼻を明かしてやるようなね。本当にそう思います。

小勝:ご著書の中に、別の人ともまだ付き合ってる時に、ビジネスディナーに付き合ってやって、やれやれみたいな、そういう描写がありましたけれど。そうやって一応その大コレクターの言う事は聞かなくちゃいけないけど、こう一発逆転で、その娘を妻にしてしまうみたいな、そういう意味ですかね。

出光:ねえ。やっぱり男の気持ちってのはね、想像でしか、ちょっとわからないんだけども。

中嶋:ご結婚なさったのは、1965年ですかね。

出光:そうですね。

中嶋:渡米してすぐですよね。

出光: 1965年の末くらいでしたかね。

中嶋:間も無く妊娠されて、出産されるわけですね。その頃のお気持ちをちょっとお伺いしたいんですけれども。

出光:国会答弁よりもかたい(笑)。

中嶋:ちょっと漠然としてるかもしれないんですが。ずっと小説家になりたいとか、表現をしたいという風に思ってきて、大学も卒業されている女性というのが、そんなに日本では、あまりいなかった時代のように思えるんですよね。それで、ただアメリカに行って、とても有名な作家とご結婚して、妊娠するっていうことが、やっぱりただでは色々通り過ぎることができないような、気持ちの動きや、葛藤とかそういうものがあるのかなという風に思いまして。

出光;葛藤はあるかないかっていうことに関しては、葛藤がないんですよね、私って。そういうことに対して葛藤がもうちょっとあったら、サムと結婚してなかったと思います。うーん。

中嶋:結婚しないで、付き合っていて、ていう……

出光:で、日本に帰っちゃってると思うんですよね。ただ一つ、自伝に書いたかもしれないけど、帰ろうと思ってた時に、サムは、私が帰るかもしれないっていうんで、何をやったのか忘れちゃったけど、とにかく、帰れないようなことをした。

中嶋:帰るんだったら、お父さんに、僕と暮らしていたということを伝えるぞっていう。

出光:あ、そうか、そうそう、伝えるって。恐ろしい、

中嶋:そういう脅しが。そちらの方が恐ろしいわけですよね。

出光:だから、父の方が恐ろしいんですよ。

中嶋:それはちょっと特殊かもしれないと思いました。

出光:そうですか。

中嶋:こんなにアメリカと日本離れてるのに、知られると怖いっていうのは、やはり余程の。

出光:父のなんなんでしょうね、それは。

小勝:やっぱり社会的な名声ももちろんあるでしょうし、それから個人のキャラクターとしてその非常にこう。

出光:怖い。

小勝:ものすごく怖いみたいな……

出光:怖い。

小勝:ところでしょうか。

出光:ね。結局そういうことなんでしょうね。

中嶋:でも、もし結婚しなかったとしても、サンタモニカでの生活というのは、日本よりかは楽しいというか、自分に合っているという風に思えたんでしょうか?

出光:そうですね…… 英語ねえ。あれはすごい、やっぱり合ってなかったですね、私には。

中嶋:これまで書かれてるもので、語学でお困りになったということはあまり書かれてないんですよね。で、それもニューヨークでのさっきのお話と同じで、大丈夫だったんだろうかって思ってしまう(笑)。

出光:そうじゃなくって、やっぱりそこはもう諦めの境地だったのかもしれない。ニューヨークにいた頃の自分っていうのは、私のわかる範囲の中での友人関係だったですから。サムとの友人は、とにかく皆さん頭いいんですよ。

中嶋:そうですよね。

出光:それで話すことっていったら、なんだかよく分からない。日本語でしゃべられても分かんないような事をみんなしゃべってるわけじゃないですか。だから、その辺りの大きな違いがあるんじゃないかな。

中嶋:それはとても孤独なように感じますよね。

出光:孤独ですよね。

中嶋:とても暖かい気候の、光が注ぐ中で。

出光:感覚で寂しい、うん。

中嶋:日本人のご友人はあまりいらっしゃらなかったですか?

出光:うん、いなかったんですね、行ったばかりの頃はね。それである人に紹介されたんですけど、その人が結構トリッキーな人で、利用されちゃったっていうところありましたね。だからそれくらい私は絶望的になってたのかもしれない。で、その人がちょっとおかしな人だなってのは感じてても、とにかく日本語が喋りたい、とにかくそれ一点だったんですよ。その人に紹介された時は。

小勝:それは行かれて、すぐくらいの話ですか?

出光:行って、しばらくずっといて、それで子供が生まれて、それでもう本当に日本語が喋りたい、もうただそれしかなかった。それもおしゃべりがしたいと思って。それでその人を紹介してもらって、それで本当におしゃべりをすごい聞いてくれて、色々したけど、やっぱりそれだけじゃ済まないなんかがあって。それでああ、利用されたんだなっていうのはわかったんですね。

小勝:利用されたっていうのは、その出光さんの……

出光:サムの方。

小勝:ああ。

出光:サムの方、だから最終的に彼女は画廊を開いたんですけどね。

小勝:ああ、なるほど。あの、ちょっとさっき始める前にお話した、その『南加文芸』の人達とのお付き合いっていうのは?(注:『南加文芸』。アメリカ、ロサンゼルスで出版された日本語による文芸同人誌。1965年から1985年まで続いた。)

出光:ほとんどない。

小勝:なかった。

出光:うん、とにかくほら行ったら、ヒッピーとか、ビートルズでね、ちょっと違うなーと(笑)。

小勝:なるほどね。やっぱり年齢が真子さんより上の(世代の)人達だからですかね、中心になってる方が。

出光:そうですね。それとやっぱりその彼らの世界だけの人達だったんですよ。

中嶋:でも、カリフォルニアのアーティストのコミュニティのもう真ん中にいらしたという感じですよね。

出光:そうですね。でも、それは本当にあの白人のアーティスト、その真ん中ですね。

中嶋:サンタモニカは、あまりその白人以外のヒスパニックや、東洋人や、アフリカ系の方はいらっしゃらなかったですか?

出光:アフリカ系の方はほとんど会ってないですよね。ヒスパニックもほとんど会ってないですね。そしてほら、考えてみれば、白人ばっかりだったっていうことですよね、うん。

中嶋:この頃、先ほどちょっとお伺いしんたですけれども、日本人のコミュニティもなくはなかった、ですよね。

出光:うん、ただ日本人のコミュニティがあって、それは一つあって、そこを通して、ホキ徳田と会って、ヘンリー・ミラー、そしてそのヘンリーのところにずっと住み込んでた三千代っていう日本人の。

中嶋:三千代?(注:1960年代末よりヘンリー・ミラーに日本語を教えていたMichiyo Watanabe)

出光:三千代はね、表に出て来ないけど、ヘンリーを語る上では、非常に重要な人物だと私は思ってる。ヘンリーの家の、いわゆるスクールガールをやってたんですよ。住み込んで、色々お手伝いをして、ご飯の用意したりとか、三千代はやってて。だからホキなんかよりも、ヘンリーと過ごした時間は長いと思う。

中嶋:ヘンリー・ミラーって言えば、篠田守男さんも、その頃のカリフォルニア(にいましたよね)。

出光:篠田さんはね、こういう言い方したくないけど、結局それを、日本に帰ってきた時の話題にしたかったんじゃないかなと思う。

中嶋:カリフォルニアでの生活をってことですか?

出光:ヘンリー・ミラーのこと。

中嶋:はい。

出光:でも、作家としてカリフォルニアで成功したとは言えないじゃないですか。名をなさなかったわけじゃない、思ったようには。結果的にやっぱ何かお土産話しというところで、篠田さんはヘンリーの話を持って帰ってきたような気が、私はするんですね。

中嶋:この頃、日本の九州派の画家もカリフォルニアに行ってるんですけど。

出光:いましたね。彼らはそのいわゆる『南加文芸』じゃないけど、そういう日本人の世界の中にいて、遊びに来て、おはぎができましたよ(笑)、みたいな社会だったんですよね。

中嶋:そういうのも、あったわけですね。

出光:ありましたね。でも、付き合うことはなかったです。

中嶋:アナイス・ニンさんとの出会いについて、とても印象的なお話をされてたことがあると思うんですけれども、アナイス・ニンさんとは、やはりとても特別な心の交流が。

出光:ありましたね。

中嶋:彼女はやっぱり出光さんに何か感じるところがあったということなんですかね。

出光:うん、なんか私の思い過ごしかもしれないけど、でもどっかで分かり合ってたんじゃないかなっていう、アナイスに関してはね。

小勝:やっぱり言葉の不自由さっていうものを常に感じてらしたっていうのも書いてらっしゃいますけど、アナイス・ニンに関しては、そういうことを超えたなんか心の深いつながりがあったっていう。

出光:そうですね。だから、いるじゃないですか。日本人同士だって会って、この人とは付き合えるっていうか。付き合うって言葉はむしろ合わないくらいで、こう感じ合える。アナイスは全くそうでしたね。会った瞬間に、「あっ」と私、勝手かもしれないけど思った。でもアナイスも後で「真子がホキみたいな人じゃなくて良かった」って言って(笑)。あー良かったよ。あーそうだなと思った。

中嶋:何回かお会いになったり……

出光:よく会いましたね。それからアナイスは、憂鬱になると電話して、英語でわかんないだけど、私の声を聞いただけでアナイスが、私がすごい落ち込んでるとか、そういうのわかってくれるんですよね。それで黙って、こう喋りなさいって言ってくれて、それで私がふにゃふにゃふにゃふにゃなんかわかんない英語でしゃべっていると、彼女がうーん?と向こうで聞いてくれてたっていうね。だから彼女が癌になったって聞いた時ね、私が喋り過ぎたかしらと思ったくらい。

小勝:ストレスを与えてる(笑)。

出光:ストレスを与えちゃったかしらね(笑)。

中嶋:このように生活をしていらっしゃる時、お子様が1966年と1969年に生まれるわけですけども、この頃の一日の生活がどのようなものだったかっていうことをお聞きしたいです。

出光:一日の生活ですか。だから私、おかしな話だけど、とにかく三ヶ月は授乳するっていう、あれを決めたんですよね。だからその三ヶ月は縛られましたね、完全に。

中嶋:生まれてから三ヶ月ですよね。

出光:うん、でもとにかくそばにいなきゃいけない。

中嶋:三ヶ月経ったら、もう授乳はやめて。

出光:そう。

中嶋:やめたんですね。

出光:やめたの。

中嶋:その頃も、やはり制作活動、執筆だと思うんですけども、それのための時間を作るように努力されていたということですよね。

出光:それはありましたね。

中嶋:それはやっぱり身の回りに、創作をしている人がいることで、それの大切さのようなものを……

出光:なんかに書いてたんですけど、とにかく創作してない人間は人間じゃないっていう、サムの周りって、そうなんですよ。だから、あなたは何?って言われて、わざわざハウスワイフと名乗ったら、もうそれでこうですよね。

中嶋:あ、そうなんですか。

出光:うん。

中嶋:なるほど。言ってみれば、創作してないと、女性であっても、ダメだということなんですよね。

出光:そうなんですよ。そうそうそうそう。

中嶋:例えば日本だったら、画家の妻とかそういうものは、創作者だという風には考えられないですよね。で、画家の妻というのは、社会的ステータスであるわけですよね。でもそうではなかったということですね。

出光:うん、だから特に、私はただ画家の妻、サムの妻である、というアイデンティティで満足してなかったから、常に私はなんかをやってる。やってなかったかもしれないけど、やってるという振りをしてたんですよね。

中嶋:それはとても重要なことですよね。つまり、今の話を聞いて、そのフェミニズムより前から、自分のアイデンティティっていうものが、女性の伝統的なものに縛られていなかったことの理由の一端のようなものが。

出光:そうですね。

中嶋:もちろん、ご自身が日本にいらっしゃった頃から、自立的に表現者になることを目指されていたのだと思いますけれども。

小勝:だけども、私、今回色々出光さんのインタヴューを読んでみて、こちらの森下(明彦)さんの「私がつくる。私をつくる。」のインタヴュー集なんかをもう一度再読して、参考になったというか、思ったんですけれど。それはあの、なんでしょう、真子さん自身、別の三木草子さんとの対談でもおっしゃってましたけれども、さっきもちょっとおっしゃった、自分がアダルトチルドレンだったんではないかっていう、そのいわゆる何かを表現してっていうのが、すごく特権的な偉い事としてあるわけではなく、むしろ問題を抱えているからこそ、表現せずにはいられないっていう、こんなすごく切実な事を、サム・フランシスの妻という環境に入る前からずっと抱えてらしたんじゃないかなっていう風に。(注:出光真子作品展プロジェクト「私がつくる。私をつくる。」カタログ、地水社、2002年)(注2「『ウーマンハウス』から『加恵、女の子でしょ』まで 出光真子インタビュー」聞き手 三木草子、三木草子、レベッカ・ジェニスン編『表現する女たち』、第三書館、2009年)

出光:それはそうです。

小勝:あの対談を読んで思ったんですよね。だからいわゆる普通のちょっと自立的な心を持った女性が、たまたまその芸術家の妻のサークルに入ったから、自分も表現したくなったというような、単純なことではないんじゃないかなと思ったんですよ。

出光:それはそうですね。

小勝:出光真子さんっていう特殊性のある人格(笑)。

出光:というか、ちょっと欠陥のある(笑)。

小勝:逆にそう。

出光:ある意味で欠陥があるんで、だから。

小勝:そう言ったら悪いですけど。

出光:(でも)そうなんですよ。だからそれとも向き合っていくっていうことなんですよね。

小勝:いわゆる普通の自立した女性だっていう単純なパターンじゃないと思いますよね。で、常に二つの価値観の中で分裂してしまったんじゃないかみたいに、森下さんはこの時言ってましたけれども。そのアメリカと日本、主婦とアーティスト、ブルジョワ家庭の経済力優先の家庭の中で育った人と、アーティスト達のお金にならないけれども、好きなことを表現したいみたいな、そういう二つの価値観のはざまで分裂しそうになり、その中で自分を取り戻したいみたいな、そういうところがやっぱりあったんじゃないでしょうか?

出光:そうですね。それはまあ、あったでしょうね。

小勝:だから本当にその出光さんがアーティストになるための最も基本的なところは、やはりその生い立ちのところからあるんだろうなという風に、私は今回思ったんですけれど。

出光:そうですね、生い立ちとか。家庭環境とか。父親や母親との関係とか、そういうもの全部含めての。

小勝:はい、ちょっと介入しちゃいましたけれども。

中嶋:表現活動を、小説という日本語で、まあ何か文章を書くことから、映像作品の方に移るそのきっかけについて、お話になってると思うんですけども、視覚的なものに関心が向かっていった。で、それがその言語的な環境の中から、そのように向かっていったということでした。

出光:そうです。

中嶋:英語で会話をしながら、日本語で考える。

出光:日本語で書いたって見せる人いないしね。

中嶋:そうですよね。英語で書くっていうことは、まあ。

出光:私、だめなんです。今でも英語でしゃべれないです、本当に(笑)。

中嶋:映画の作品を作るということのきっかけになったのは、特に映像作品に興味があったからということではない。

出光:ブルース・コナー(Bruce Conner)っていう作家がサンフランシスコにいて。彼が作った作品を、サムのところに持ってきちゃあ、見せてくれるんですよ。

中嶋:親しかったんですね。

出光:うん、すごく親しくって、サムとね。それで、彼の作品ていうのは、色んなところから、色んな映像を。当時は16mmですけど、そのプリントの端のところが、編集室に行くと、みんな切って捨ててあるじゃない、それを拾ってきて、コラージュして、それで作品作ってたんです。だからお金がいらないんですよね、撮影に(笑)。

中嶋:映画とは違うわけですね。

出光:うーん、だからいわゆる映画とは違う、でも映像作品で、その当時は16mmで出来てて。で、ものすごい迫力がある。

小勝:これを読んでて、私ちょっとあの《直前の過去》(2004)の、時事ニュースみたいな映像をコラージュされた作品を(思い出しました)。

出光:そうそう。

小勝:真子さんが作った。

出光:あれがまさに。

小勝:そうですよね。

出光:ブルースの作品が本当にね…… ケネディが殺されたじゃないですか。誰が殺したって、誰もまだわかんないわけ。(その時に)あの疑問をつきつけられるんですね。

中嶋:《レポート》(1967)という作品ですね。それもご自宅で、サム・フランシスさんのところで見たんですか?

出光:ブルースっていつも、サンフランシスコでそういう作品を作ると、まずサムに見せようと思って、ロサンゼルスまで持ってきて見せてたんです。

中嶋:そうなんですか。サム・フランシスさんていうのは、そういう批評家的な役割も……

出光:いや、批評じゃない。ただサムの全体のあれで、ブルースはなんか感じてたんじゃないかなと思う。言葉に出してどうこういう人じゃない。

中嶋:そういうのを見る部屋があったんですか?

出光:サムのスタジオがありました。

中嶋:そこが広いんですね。そこで見ているうちに、これなら……

出光:私でもできる、と思ったんですね。

中嶋:しかし最初に購入したのは、8mmのカメラ。

出光:そうですね。

中嶋:これが1969年のことですね。

出光:1969年頃ですね。

中嶋:1969年と(履歴に)書いてあるんですけれど、これだと、次男の方が生まれてすぐ、っていう。

出光:そうそう。だから子供とカメラと、一つ一つ、こう(持って)っていう。

小勝:一応、三ヶ月(の授乳期間が)終わって……(笑)

中嶋:そうなんですね。カメラはどこで買われたんですか。

出光:カメラね、ウエストウッド、UCLAがあるところのキャンパスのすぐ近くにカメラ屋がありまして、そこで購入した。

中嶋:この時は、もう8mmは、買えるような値段になっていたんですか?

出光:スーパー8は買えましたよ。

中嶋:スーパー8でしたね。周りにも8mmを使って、作品ではなくても、使ってる人っていうのはいらっしゃいましたか?

出光:いや、8oはなかったです。ただ私がそれをやったのは、UCLAでブルース・コナーが授業やったとき。それともう一人、カール・リンダー(Carl Linder)っていう人がやった授業を見て。

中嶋:カール・リンダーとブルース・コナーが講師をやっているカリフォルニア大学の……

出光:エクステンションですね。

中嶋:これは夜間にやっていた学校ですか?

出光:そう、夜間にあった。

中嶋:これは聴講できる?

出光:取れるんです、誰でも。

中嶋:あ、そうなんですね。

出光:大人向けのという感じのでしたね。

中嶋:じゃあ、この授業に行くために、カメラを買った?

出光:どっちが先かは忘れちゃったけど。ブルースを見てて、買ったのか。それもあったかもしれない。ちょっとはっきり覚えてないです。

中嶋:この大学の授業についてちょっと興味があるんですけども、授業といってもなかなか教えられないですよね。その映像を撮る方法というのは。

出光:そう、そういうのは教えないです。

中嶋:どのような……

出光:ただカール・リンダーが…… そのエクステンションっていうのは、カリフォルニアのベニスのところにあって。あの頃メインストリートのあたりは全部空き店舗だったんですよ。

中嶋:そうなんですね。

出光:そこをUCLAが借りて、そこでエクステンションの授業をしてたんです。

中嶋:面白そうですね。

出光:面白いですよ。だから色んな人がスーッと入って来れる。

中嶋:そこで自分の映像を。

出光:みんな作って、それで見せたり、意見を出したりしましたね。

中嶋:話し合ったり。

出光:まあ、私そこまでは覚えてない。

中嶋:他にはどんな方が学生というか、聴講をしてたんですか。

出光:もう本当に一般の、働いてる人が夜、来たって感じ。

小勝:そういう人は何が目的なんでしょうね。

出光:やっぱり何かをやろうって、表現したいっていうあれなんだと思いますけどね。

中嶋:やっぱりカリフォルニアで、ハリウッドが近いっていうのも、映像に関する関心が高い人が多い理由だったんでしょうか。

出光:サンフランシスコはどうでした?

中嶋:サンフランシスコも、やっぱり映像をやってる人は多かったですけども。

出光:ね、それでブルースはサンフランシスコなんですよ。

中嶋:そうですよね。

出光:ね、だから、ハリウッドとはあんまり関係ないんじゃないかな、と思いますよ。

中嶋:そうですよね。カリフォルニア大きいですからね。で、そこで最初の作品といえる《You Can’t Get What You Want》(1970, 8mm, 8分? 現存せず)を撮られる、っていうことですね。この作品について、お話いただくことはできますか?

鏑木:この作品は、現存していないんですか。

出光:あのね、無くなっちゃったんですよ。8mmだからコピーが取れなくって、それでその原版だけ持ってたら、引越しする時に無くしちゃった。

小勝:アメリカから日本に来られる時に?

出光:違う、日本の自宅から、ここを建てて、ここに持ってきた途中に無くなっちゃったの。

中嶋:それは残念ですね。

出光:悔しいですね。

中嶋:これは、どのような作品?

出光:あのね、当時ヒッピーってのがいて、そのヒッピーの女の子に、作品撮るよって言ったら、うんと言って、ちゃちゃちゃって洋服脱いで、真っ裸になって。そして、その時一緒に撮ろうと思ってたおじいさんがいるんですよ。そのおじいさんってのは、大きな大企業に一生会計士として働いてた人で、定年退職したら、なんか急に詩を書き出したっていう。彼がアナイス・ニンを紹介してくれたんですけど。だから、アナイスを知ってるような、やっぱりそういう環境にあったんですよね。それで、彼、そしたら彼もあっそうって、自分もぱぱぱぱーって洋服を脱いで、それで私がカメラ向けたら、二人で音楽かけて、わーっと踊り出したっていう、それを撮ったっていう作品なんですね。

中嶋:なんか作品の描写を聞いていると、とてもなんていうかおかしみが、ある映像のように感じるんですけれども。

出光:おかしみですか(笑)。

中嶋:そういうユーモアみたいなものが、元々その作品の中で表したいものとして、おありだったんでしょうか。

出光:いや、特に何も考えてなかったです。ただそれを見て、捨てるか捨てないか、私が決めるわけじゃないですか、その撮ったものを、作品化するか、それとも捨てちゃうか。それでも残したっていうことは、私の中に何かすごくあったんですよね。その、ちょっと言葉にならないけど、心を打つものが。それはやっぱりヒッピーの女の子の生き方と、その会計士を一生続けて、その家族を全部…… 奥さんは死んで、子供達は結婚して、自分がやっと一人になる、それでビバリーヒルズの大豪邸に住んでるんですよ、一人で。

中嶋:お金持ちなんですね。

出光:それでその家で撮らしてもらったんですよ(笑)。でもなんかその彼がね、うん。

鏑木:それは出光さんから、二人に何か指示などはされていないんですか。

出光:何もしてないんですよね。

鏑木:じゃあ、もう本当に音楽をかけたら、二人は楽しそうに。

出光:そうそう(笑)。おじいちゃんも本当に意気投合して踊り出したっていう。

鏑木:面白そうですね。

出光:面白い絵。

鏑木:見れないのが残念。

出光:残念ですね。

小勝:8mmだと、音は一緒に撮れないんでしたね。

出光:そうなんですよね。音が撮れないから。

小勝:音楽がないのがちょっと残念というか、結構出光さんの映像は色々効果的な音楽を、入れてらっしゃる。

出光:そうですね。

中嶋:じゃあ、やっぱり今おっしゃってましたけども、作品として選んだ。で、これは作品であるという風に最初にお決めになったもので、他にも色々撮られていたということではあるんですね。

出光:そうですね。撮ってましたね。

中嶋:その頃は、人を撮っていらした?

出光:やっぱり周りの人を撮ってたということと、あとはやっぱり時間的な制約、子供という制約があったから、周りっていうことを常に意識して。

小勝:出光さんの場合は、自分の作品を作ろうと思って撮ってたわけでしょうか? というのは、スーパー8とかそういう簡単に映像が撮れるもので、一般の人はホームムービーをまず撮るわけじゃないですか。子供さんがこう、ヨチヨチ歩いたり。そういうものは撮らなかったわけですか?

出光:最初、買ってきた時はね、撮りました。そして、カール・リンダーの授業で見せました。そしたらせせら笑い(笑)。本当にせせら笑いましたよ、彼は。

小勝:素人がこんなものを撮ってみたいな(笑)。それで、やめたわけですか。

出光:こういうのを撮るのはやめようと(笑)。

小勝:なるほど。

中嶋:そうなんですね。自分が撮った映像をブルース・コナーのように、モンタージュのような形で編集していったという形。

出光:そうですね。まあブルースだって、人が全部捨てたのを拾って、こうやったんで。だから私が始めたきっかけも、やっぱりブルースを見習ってっていう感じですね。

中嶋:長回しで撮るよりかは、その切り替えの妙というか、そういうものの面白さへの関心っていうのが、元々あったっということでしょうか。

出光:そうですね。

中嶋:で、今拝見できないですけども、そういうところもあったのかなと思いました。この他にも、このカリフォルニア大学の夜間学校にいた時に作った作品というのが、ありましたか?

出光:うんとね、馬を撮った作品。それはもうカール・リンダーにめちゃくちゃに言われ…… あ、あれはブルースにめちゃくちゃに言われたんだ。それで捨てちゃいました。

中嶋:めちゃくちゃにというのは?面白くないって?

出光:これを作品だと言っているお前はどうかしてる、みたいな。

中嶋:そんな厳しい批評をする方でもあったわけですね。

出光:彼はすごい。

小勝:それはどういう馬ですか、その牧場にいる馬?

出光:いや、あれは野生の馬だった。野生の馬を撮った映像があって、それをどこで見つけたのかは忘れたけど、どっかで見つけて。だって野生の馬だから結構面白かったんですよね。

中嶋:野生の馬がいるんですか?

出光:いっぱいいて。それを誰かが撮ったんですよ。

小勝:その誰かが撮ったフィルムを、こう繋ぎ合わせた……

出光:うん、繋ぎ合わせた。

中嶋:その誰かが撮ったフィルムというのは、どこで見つけられたんですか?

出光:それはね、サムのスタジオにあったんです。

小勝:ああ、なるほどね。

出光:そういう意味で、サムは音楽なんかでも、ジョン・ケージとかなんか使ってますでしょ。それなんかもやっぱりサムのスタジオにそういう音源があったんですよね。だからラッキーだったと思います。

中嶋:色んな素材がそこにあるわけですね。

出光:そこにあって。だから探さなくても、ジョン・ケージ(がそこにある)。私自身はだいたい彼のことを知らない、ほとんど知らないでいたわけじゃないですか。で、武満(徹)さんが、アメリカに来た時に寄っていけば、その自分の作品を、置いていらっしゃるわけじゃないですか。そういう意味で、すごいラッキーだったと思いますね。

中嶋:なるほど。でも、的確な目で選び取られるのは、出光さんなわけですから。色々なものがそこにあると思いますから。

出光:武満さんもう、来ると「僕はあなたに会いに来たのではありません、サムはどこにいるんですか」って(笑)。あれは、きっついなーと思って。それはわかってますよ(笑)。

小勝:武満さんがですか?

出光:はっきり言うんですよ、彼は。

中嶋:武満徹さん、カリフォルニアに行かれたんですね。

出光:旅行でね。旅行で来ると、サムに会いに寄ってくる。

中嶋:サム・フランシスさんはやっぱり日本の美術家ととても深い繋がりが、あったんですね。

出光:そうですね。繋がりがありましたね。

中嶋:ちょっと話ずれてしまいますけれども、サム・フランシスさんも、日本の美術に何か感じるものというものが、あったんでしょうか? そのように言われてはいると思うんですけども。

出光:私はわかりません。あんまり、そういう風に感じたことないですね。

中嶋:ああ、そうですか。

出光:うん、ないです。だから父がサムの絵を見て、「余白が仙pじゃ」みたいなこと、それのなんか誤解じゃないんですか(笑)。

中嶋:なるほど。それをみんなが真に受けて。サム・フランシスは、たらし込みをやってるとか、そういうことなんですね。そうなんですか。あまり作品の話は、サムさんとはなさらなかった?

出光:しなかったですね。難しくて、私には。理解できません。

中嶋:難しい話になるわけですね。映像作品を作っていた時期と、同時にご経験になったのだと思うのが、女性解放運動なんですけれども、その女性解放運動のコンシャスネス・レイジング・グループでにはどのように参加されるようになったのか。

出光:それはね、なんだったんですかね。うん、確かまあ、始まって、こういうグループが出来たよって教えてくれたのが、スーザン・タイトルマン(Susan Titleman、美術家)。当時は美術学校の生徒だったんだけど、のちにライ・クーダー(Ry Cooder,1947-)っていう音楽家と結婚して、もう辞めちゃったんだけど、彼女が教えてくれたんですね。

中嶋:そうなんですね。

小勝:その人もサムさんのところに通ってきてたんですか?

出光:うん、スーザンとライはね、なんかある時期、日本語を習いたいって、変なあれがあって。それで割と家に歩いてこれる距離に住んでたんですね。

小勝:ああ、じゃあ、出光さんを訪ねてきた?

出光:そうじゃなくってね。私の友人で、ケイコさんっていうUCLAに通ってた画学生の方がいらして、その人から習ってましたね。

中嶋:そのスーザン・タイトルマンさんは、この頃はフェミニズムっていう言葉は?

出光:使ってました。

中嶋:フェミニズムの活動にとても積極的に関わって。

出光:最初はね。最初はすごい積極的だったけど、あっという間にライと結婚して、秘書みたいになっちゃって。

中嶋:うーん、そういう方もいらしたわけですね。

出光:うん、だからスーザンが、ある意味すごい典型ですね。

中嶋:この、CRと書いてらっしゃいますけども、(C)コンシャスネス・(R)レイジングのグループに参加されて、どのようなことが話し合われるんでしょうか?

出光:はっきり覚えてないんだけど、最初のトピックがね、「あなたたち車が故障したら自分で直せる?」っていうのが、最初のトピックでした。うん。

小勝:つまり女性が機械に弱いという、そのところを。

出光:そうそう。機械に弱いっていうところをついたトピックでしたね。

中嶋:じゃあ、目的というのは、女性が一人でも生きられるように、というような意識なんでしょうか?

出光:どうなんでしょうね、そこまではっきり具体的にはわかんないけど、でも、今まで女性は出来ないって言われてた事を一つ一つクリアしていこうよっていう、そういう感じでしたよね。

中嶋:それは、ディスカッションすることで、一人一人ができるようになる、なんていうか具体的な話し合いが行われるというイメージですか。

出光:そうですね。それで、それはやっぱり思い込みにすぎなかったとか、そういう気づきみたいなもの(を得る)。

中嶋:気づきですね。

出光:だからその中に、パサデナのミュージアムのキュレーターをやってて、のちにニューヨークでホイットニー美術館に行ったのかな、バーバラ……

中嶋:ロンドン?

出光:ううん、ハスケル。バーバラ・ロンドンはずっとニューヨークのMoMAにいた。CRのグループにはバーバラ・ハスケル(Barbara Haskel)なんかも入ってましたね。

中嶋:ああ、そうなんですね。これは、アーティストや美術関係の方が参加されているグループだったんでしょうか?

出光:まあ、たまたまそうなったっていう。誰かが誰かに声をかけると、やっぱりみんなアート関係だったっていう。

小勝:なるほど。

中嶋:これも、割と白人の方が中心だったという風におっしゃってましたね。

出光:そうですね。アフリカ系アメリカ人はいなかったですね。

中嶋:アジア人もいないんですか?

出光:アジア人もいなかったですね。あなたのいらした時は、アジア人が多かったですか?

中嶋:多かったです。私はアメリカに行く前はイギリスに行ってたんですけども、アメリカで驚いたのは、人種別にコミュニティがあるっていうことですね。サンフランシスコにはアジア人がたくさんいますけれども、アジア人と付き合うべきだという雰囲気はありました。大学にいると、アジアの人達が話しかけてくる。それなのでロサンゼルス、サンタモニカにはいなかったのかなということをちょっと思ったんです。

出光:やっぱり私の時代だと、サンタモニカっていうのは、白人の居留地ですよ。だから、アジア人は、本当にいなかった。最後の方になって、篠田一家が越してきたっていう感じですね。

中嶋:ああ、そうなんですね。

出光:うん、だから、スーパーマーケットなんかで、アジア人見て、あれは日本人かどうかと、お互いにこうやって見合って、「ソーリー」って言って、「日本人でいらっしゃいますか?」なんて、やってましたよね。

中嶋:そういう時代ですね。

出光:ねえ、そういう時代です。

小勝:やっぱり高級住宅地っていう感じなんですか?サンタモニカは。

出光:サンタモニカは高級住宅地でしたね。

中嶋:そうですね、じゃああまり人種の事はお考えにならなかったのかという風に思いますね。

出光:人種の事は、私自身は考えてないけど、その行った先で、人種、それはサンタモニカじゃなくて、もう東部にいた時はひどかったですよ。

中嶋:あ、そうなんですね。

出光:「ノージャップ」って言葉を、もうしょっちゅう言われました。

中嶋:そうなんですか。

小勝:それはお店とかですか?

出光:お店もそうだけど、特にあの東部にナンタケットって島があるんですね。そこに行った時なんかは、ある人の家に、白人の友人が入って行くじゃない。それで私があとに続く、そうすると門に入った瞬間に、上から「ノージャップ」って飛んでくるんです。そういうことは彼女と一緒に車を二人で運転して、アメリカの横断旅行した時は、もうしょっちゅうですよ。中西部とかサウス(南部)で。

中嶋:そうなんですね。横断旅行されたんですね。いつ頃なさったんですか?

出光:あれは1964年くらいかな。1962年に行ったから、1963年か64年。

中嶋:ニューヨークにいた頃?

出光:ニューヨークにいた頃、コネチカットに住んでた、いわゆるWASPの友達と一緒に二人で車運転して、横断旅行したら、やっぱりもう中西部や南部では、あーっと思いましたね。

中嶋:地域によって差があるんですね。

出光:地域は違いますよね。

中嶋:先程お伺いするの忘れたんですけども、そのニューヨークとその東海岸と西海岸のその印象の違いというのも、もしあればお聞きしたいんですけども。

出光:カリフォルニアは、私の知る限りは、ですよ。私、学生でいたわけじゃないから。私は移民としてやっぱり見られてましたよね。何かあると、移民扱い受けて。それが、あんまりいい意味の移民の扱いじゃなかった。だけど、ニューヨークの頃は、日本人はだいたい学生として見られていた、だからそこには差別はなかったですよね。

中嶋:そういう違いもあるんですね。ちょっと話をまた戻します。そのコンシャスネス・レイジングのグループの中に、ジョハナ・デミトラカス(Johanna Demetrakas)さんもいた。

出光:ご存知ですか?ジョハナ。

中嶋:あの《Womanhouse》の(注:ジョハナ・デミトラカスは1974年にジュディ・シカゴやミリアム・シャピロらによる《Womanhouse》の記録映像を発表している。デミトラカスの作品名は「Womanhouse」で出光氏の作品名は「Woman’s house」)。

出光:あ、《Womanhouse》(デミトラカスの)ご覧になりました?

中嶋:ええ。撮られた方ですよね。彼女のような、映像を手がけてる人もたくさんいらした?

出光:いや。彼女と私だけでしたね。

中嶋:ああ、そうですか。でも、お知り合い?

出光:そうでしたね。

中嶋:《Woman’s house》(シカゴの)を撮影するようになった時の経緯がそのお知り合いになる前なのか、後なのか。

出光:前です、前です。

中嶋:ああ、そうなんですね。

出光:ジョハナとはなんかで知り合って、向こうに子供がいて、こっちも子供がいて、海に一緒に遊びに連れてったとか、そういうこともしてましたね。

中嶋:あ、そうなんですね。

出光:うん。

中嶋:じゃあ、ご友人でもあったわけですね。

出光:そうですね。

小勝:そもそもこのご著書によると、そのコンシャスネス・レイジングの運動の中で、さっきの女性は機械に弱いという思い込みで、(出光さんが)だから私は16mmを扱えないって言って、ジョハナに笑い飛ばされたのが、なにくそというきっかけになったっておっしゃってましたよね。

出光:そうですね。

中嶋:じゃあ、ライバルでもあったという感じですかね。

出光:ある意味ではね。うん。

小勝:そのジョハナさんの《Womanhouse》っていう映像も、美術館とかに入ってるんですか? (注:ウーマンハウスについては、ジュディ・シカゴの自伝 Chicago, Through the Flower―My Struggle as A Woman Artist, 1975(小池一子訳『花もつ女』、PARCO出版、1979年)に詳しい。)

出光:ウーマンハウス、全然有名じゃないです。

中嶋:あ、そうですか。

出光:フェミニズム運動が始まりました。コンシャスネス・ライジング・グループを作りましょう、って作った。ジュディがなんか学生達と一緒にプロジェクトやってるんだよっていう、そういうテンポ、でしたね。

中嶋:ジュディ・シカゴは、その頃ジュディ・シカゴという名前じゃなかったですかね。

出光:違います。ジュディ・なんとか、なんかややこしい名前(注:ジュディ・シカゴの最初の名前はジュディス・シルヴィア・コーヘン。1970年に現在の名前に正式に改名することを『アート・フォーラム』誌で発表した。)

中嶋:そうですよね。でも彼女自身は、よく知られる存在だったんでしょうか? 今ではもう伝説的なプロジェクトで……

出光:全然、だから、それが始まると、私それ(自伝)に書いたけど、なんか苛立ってましたね。

中嶋:苛立って?

出光:うん、「自分はもう一生懸命やってんのに、なんで私は名前が出ないの」みたいな。それで、しょっちゅうサムのところに来てたんですよ。

中嶋:ジュディ・シカゴが?

出光:うん。

中嶋:ああ、そうなんですか。

出光;もうしょっちゅうサムのところに来て、なんだかんだって、言ってたのがすごい印象に残って、そのジュディがっていう感じで始めました。だからジュディ・シカゴより、ミリアム・シャピロ(Miriam Schapiro)って一緒にやった人の方が、私はむしろ尊敬してるんですね。ミミは黙ってやる。で、ジュディみたいに私がやったわよ、とは絶対言わない人。それだけど私がすごい一生懸命なんかやってると、彼女は後ろで助けてくれる。そういうタイプ。

中嶋:今ではこの二人が、一緒にやってたという感じはなかなか想像しづらいですけども。

出光:しづらいですか?

中嶋:うん、作風が全く違いますよね。

出光:ミミはまだお元気なんですか?

中嶋:えーと、最近の展覧会では、模様を使った絵画のようなものを出してました。(注:シャピロは2015年に死去)。

出光:何を使った?

中嶋:模様ですね。タイルの模様のようなものを使った絵画のようなものを。多分ごく最近にも出品してると思うんですけども。

小勝:あのWACK!展にも出してましたかね(注:WACK!: Art and the Feminist Revolution展。2007年から2008年にかけてロサンゼルス現代美術館とP.S.1コンテンポラリー・アート・センターに巡回)。

中嶋:そうだと思います。

出光:何展?

小勝:WACK!展、あの出光さんも出された。

出光:あ、そっか。

中嶋:ジュディ・シカゴさんはその頃、ニューヨークとカリフォルニアの美術界における扱いの落差にすごく怒っていらした時期かもしれないです。

出光:だから、男優先ってやつに、すごい腹立を立てていた時期ですね。

中嶋:ええええ。

小勝:ジュディ・ゲロヴィッツでしたね。(注:ゲロヴィッツは最初の夫の姓。1961年に結婚、64年に夫が死去。)

出光:あ、ゲロヴィッツだ。

小勝:東欧系なんですかね、何系の人だっけ?

中嶋:ちょっとそれは、今度北原(恵)さんにお聞きしましょう。じゃあ《Woman’s house》(1972年、フィルム、13分40秒)は、これを撮ってみようという風に思ったのは、その中でちょっと面白そうな出来事があったからという。

出光:というか、やっぱりあんまりそんな出来事なかったですよね。本当これ一点ていう感じ。あの当時、72年。とにかくこれ撮っとかなきゃ、これっきゃないみたいな、感じですね。

中嶋:映像見ると本当にすごい迫力なんですけども、私達は出光さんの作品からしか当時のことを知ることがほとんど出来ないんですが、ご自身はどのように感じられましたか、すごいですよね。家中に、作品が貼りめぐらされてる光景は。

出光:すごかったですよ。ただでも私は必死になってカメラを回してて、あれがとにかく初めての16mmの作品なんですよ。

中嶋:その前に16mmで何か撮ってみたりとは。

出光:してなかったんですね。だから、なんか撮ってることに一生懸命で、その生の感じを覚えてないくらい。

中嶋:そうなんですね。カメラ越しに見たという感じ。

出光:そうですね。

中嶋:あれはやっぱり出光さんの視点のようなものを、反映しているという風にみても構わないですか。

出光:カメラ、ですか?

中嶋:はい。

出光:だと思いますよ。別に先に行って自分でこういう風にって計画して、こうしてこういう風に撮りましょうって決めて撮ったんじゃなくて、とにかくカメラを担いで行って、はい始め、で撮りだしたわけだから。

中嶋:もう、ぶっつけ本番のような。

出光:そう、ぶっつけ本番で撮ったんですよね。だから、私、やっぱりなんて言うのかしら、私が印象に残ったものだけをとにかく撮った。で、当時高かったんですよ、フィルムが。

中嶋:そうですよね。

出光:だから、あんまり回すわけにもいかないしっていうところがあって、こことこことここを撮っておこう、っていう感じでしたね。

小勝:あの、カール・リンダーさんが手伝ったんですかね。

出光:うん、カール・リンダーが手伝った。

中嶋:照明ですか。

出光:あ、照明手伝ってくれましたね。

小勝:音は後から入れたわけですかね、その辺も出光さんが、こういう音とか、音楽とか、

出光:ええ、全部ですよね。で、あえてナレーションは入れなかったです、あれは。

中嶋:そうなんですね。誰も写ってないのでちょっと恐ろしい感じが、

出光:あ、そっかー。

小勝:なんか女の声で、ハイ、とか、アーイ、とかこう聞こえるんですけど、

出光:あー、あれはね、サムが一柳(慧)さんか武満さんからもらったレコードの中から引いてきたんですよ。

小勝:なんかこう、いかにも当時の雰囲気というか。

出光:そうですよね。

小勝:あとは、イングランド民謡かなんか、結構古い感じの音楽。

出光:タータタ、ってありますね。

小勝:あれもすごくいい感じで、音楽もその都度、出光さんが全て決めてやってらっしゃたんですよね。

出光:よかったですか、音楽?

小勝:ええ、すごく。こないだ改めてまた見まして。

出光:ありがとうございます。嬉しい。

小勝:いえいえ。そのジョハナ・デミトラカスさんの方の《Womanhouse》の映像も見たんですか?中嶋さん?

中嶋:私は見てます。はい。

小勝:どんな感じですか?

中嶋:ちゃんと覚えているとはいえないんですけども。こないだ映像祭で、《Woman’s house》(1972)をもう一度見て。出光さんのは、出光さんの作品だな、という風に思ったんですよね。で、ジョハナ・デミトラカスさんの方は、もうちょっと記録のような感じです。

出光:そうですよね。本当に私もそう思いました。記録としてはきちんと成立してる。

中嶋:それなので、出光さんの作品の方は、やはり出光さんの作品だという風に。

小勝:なんかこう、画面がこう揺れてる感じの、あの感じも、いわゆるたどたどしさも感じるんですけれども(笑)。なんかこう撮ってる人の感動がそのままこう伝わってくるような。

出光:ドキドキしてるなあ、って(笑)。

小勝:そうそう。

中嶋:誰かの目を通じて見てるような感じが、しますよね。その人の心情と一緒に見ているような感じもしました。なので、全く別物ですね。多分(シカゴの)作品、《Womanhouse》を実際見たとしても全然違うと思うんじゃないですかね。

出光:そうですよね。

中嶋:その、教育についてという(質問票にある)項目なんですけども、あんまり映像を撮るための教育というか、指導を人から受けていないわけですよね。

出光:全然受けてないですね。

中嶋:そのことがかえって良かったという風にお感じになることはないでしょうか。

出光:大いにあります。

中嶋:そうなんですね。なんかこう美術学校でね、まあ映像のクラスはまだそれほどなかったと思うんですけども、絵なり、彫刻なりを習うということは、ある種のやり方や、形をこう受け取ることでもありますよね。そうではないところで、ご自分のスタイルを作ったというところをお話しになっていただければ。

小勝:(美術の教育というと)《加恵、女の子でしょ》(1996年)を思い出しますよね(笑)。

出光:そうですね。

中嶋:やはり自由にできるようになったという風にお考えですかね。

出光:そうですね。16mmを始めて、一つ、技術的にやっぱりわかんないところがあったんですよ。それで色んな人に聞いても、機材がそんなに近くになくて、やっぱりUCLAに行って習ってきなさいって声がすごく多かったんで、じゃあサマースクールを取って、ちょっと技術だけでも習ってこようかと思ったら、子供と遊んでて、足を怪我して、行けなくなっちゃったんで。それを知った時に、あ、これはもう習わない方がいいんだ、習っちゃまずいんだ、思った。

中嶋:で、サマースクールには行かなかったんですね。

出光:うん、行かないんです。

中嶋:色んな巡り合わせで。

出光:色んな巡り合わせで、結局こうきちゃいましたね。

中嶋:それがみんな良い方に転じたっていう風に、思いますね。

出光:と、自分でも思ってます。うん。

中嶋:この後、初期作品、かなり早いペースで作っていらっしゃいますよね。年間に3、4本、発表されるものを作っている計算ですかね。この頃。

小勝:72年、

中嶋:72年に《Inner-Man》(1972年、フィルム、3分40秒)。《Inner-Man》もかなりこう前作と、前作というか《Woman’s house》とは全く違うスタイルですけれども、

出光:そうですかね。

中嶋:こう、すごく色々なやり方をされてると思うんですが、《Inner-Man》の構成というか、は、どのように思いつかれたんでしょうか?

出光:あなた、あの最近版の《Inner-Man》……

中嶋:服部さんが入ってるやつです。

出光:服部さんどう思いますか?正直なところ聞きたい。

中嶋:(鏑木と)一緒に見てたんですけど。

鏑木:恵比寿映像祭(東京都写真美術館、2018年)の時のバージョンですよね。

小勝:新しいバージョンになったんですか?

鏑木:そうですね。

小勝:どういう風に?

出光:あれ、おちんちんが揺れるじゃないですか、

小勝:《Inner-Man》の?

出光:うん、これ。あれ、恵比寿だから、写真美術館だから、検閲に引っかかるっていうんで、服部さんがやったの。

中嶋:服部(かつゆき)さんとは。

出光:ここで働いている方が。

中嶋:自分の顔を、あれ服部さんのアイディアなんですか?

出光:服部さんのアイディアで、(事前に断りなく)服部さんが自分でさっさか入れてきた。(上映プログラムのアフタートークで)「出光さんに言いました」って(彼は言っている)。最近、私の記憶がおぼつかないのを手にとって、もうあの時に「いいって言いました」とか言って(笑)。

鏑木:服部さんのご判断で、隠してあるんです。それが服部さんのお顔(の写真)で隠してあるっていうのは、ユーモアという意味では面白いとは思うんですが、やっぱりオリジナルを見たかったとは思います。

出光:なんか、あの服部さんの顔ばっかり印象に残らない?

鏑木:そっちが見えちゃいますね、確かに。

小勝:じゃあ、三重になってるわけですか。

中嶋:そうですね。構成としては三重のイメージでしたね。

出光:大変になっちゃいましたね。

中嶋:女の人がいて、男性がいて、その男性がすでに割とコミカルなのに、さらにあの、

出光:そうそう。

鏑木:服部さんのお顔の写真自体が、また別の個性があって。

出光:そうなのよね。

小勝:それはちょっとね。

中嶋:まあ、あの時は、服部さんもいらしたし、そういうものとして見ましたので(笑)。

出光:服部さんがいなかったらどうなるの?

中嶋:なんだろうって思うかもしれないですね。とても。

小勝:ちょっと私あの時忙しくて行けなくて、拝見できてないんですけど(笑)

中嶋:別バージョンで見ると、やっぱり違うんじゃないかという風には思いました。

出光:できればない方がいいですよね。

小勝:それはそうでしょうね。

出光:だから一回上映だから、やっちゃったらいくら文句言ったってわかんないわけでしょ。そういうわけじゃないんですか?

小勝:文句っていうのは、作者が?

出光:おちんちんがね、ぷらぷらしてるのを、都だからダメだっていう。

小勝:ああ、そうですねー。

出光:ダメなんですか?

鏑木:クレームを避けて事前に処理をされるのは、初めてだとおっしゃっていましたね。

出光:私、今回が初めてです。で、あれは日本でも色んなところでやったんですけど、一回もクレームついたことないですね。ただ都とかそういう公の機関はわかんない。

小勝:都とあと、そういった美術館ではとにかく、あの性器の問題に関しては、やたらうるさいんですよね。ほら、なんでしたっけ、愛知県美の(グループ展で)鷹野隆大さんの作品の性器が見えているのを観客が通報して、警察が撤去するよう指導に来たとか。(注:以下の愛知県美術館の2014年度研究紀要を参照。 https://www-art.aac.pref.aichi.jp/collection/pdf/2014/apmoabulletin2014p45-53.pdf

鏑木:《Inner-Man》は、今後写真美術館に収蔵される予定なんですか。

出光:みたいですね。

鏑木:それをあのバージョンで?

出光:聞いてないんだけど、都だから、そうですよね。

鏑木:それは出光さんのご意向と違う形ですね。

出光:ですよね。

鏑木:作家の意向が一番大切ですよね。

小勝:それはそうですよね。著作権がある、出光さんご本人が、あれで嫌ならやはり嫌だっていうことは言えると思いますけどね。

中嶋:あれは現代版という感じで、イメージです?

出光:現代版?(笑)……そうですね。

中嶋:《Inner-Man》については、この頃ユング心理学を学んでいらして、あのような自分の中にいる男性というイメージが膨らんできたということでしょうか?

出光:ええ、そうです。

中嶋:ユング心理学にご興味を持ったきっかけというのもおありなんですか?

出光:きっかけというのは、私、話が戻りますけど、悩むタイプでして……(笑)色々アメリカで悩んでましたら、知り合いがこういうこともあるから行ってらっしゃいよって言って、もう既にアポイントメントをとってね。

中嶋:カウンセラーの。

出光:うん。それで、教えてくれたの。そういうメモをくれたんですよ。ああ、行ってみようって、私の好奇心がまた働きまして、トコトコ行ったら、結構面白かった。

中嶋:それはカリフォルニアにいた時ですか?

出光:ええ。サンタモニカにいた頃ですね。

中嶋:ニューヨークでは、結構ユング心理学のカウンセラーに話を聞いてもらうっていうのがアーティストの間でもあったと思うんですけど、カリフォルニアでも同じようにそういう傾向はあったんでしょうか?

出光:いや、カリフォルニアで、アーティストって、ユング心理学ってのは、私は知りません。

中嶋:あ、そうですか。

出光:だって教えてくれたのは、子供の保育園の学校の先生だったんですよね。

中嶋:あ、そうなんですか。

出光:うん。

中嶋:なぜ保育園の先生が?

出光:彼女ね、モンテッソーリなんですね。

中嶋:今話題の。

出光:今、話題なんですか。

中嶋:そうですね。モンテッソーリの教育を受けると、頭が良くなるっていう。

出光:うちの息子二人出してきたけど、みんな止めるでしょうね。

中嶋:そうなんですか(笑)。

出光:だめですよーの例ですね(笑)。

小勝:サム・フランシスさんは、ユング心理学はに興味は?

出光:私がやり出したら、彼も興味持ってやり出しましたね。でも、そうなんかすごい差別ありましたよ。カウンセラーも、サムが有名なアーティストだからやりたがるの。

小勝:なるほどね。サム・フランシスさんにカウンセリングしている私、みたいな感じで、自分の名声を。

出光:そうそう。そういうことなんだろうと思うけどね。

中嶋:あと端的に心理学者として、興味がある対象ってことでもあるんですかね。

出光:善意に考えれば。

中嶋:うーん。なかなかいつもそのサム・フランシスの壁というか、存在が、人生の中にある感じがしますね。

出光:その頃は、しましたね。うん。

小勝:でも、それはお父様と比べて、どうですか?

出光:どうなんだろう。グッド・クエスチョンですよね。ちょっとそれは考えたことない。でもサムに関しては、サムと離婚したら、もうないものになるじゃないですか。

小勝:なるほど、そうですよね。

出光:でも父は、お墓まで一緒ですよね。

小勝:まあ、父の娘であることは、終わらないですよね。

出光:終わらないですよね。ちょっと考えてみますね。

小勝:そうですね。離婚すれば、他人ですものね(笑)。

中嶋:で、またその《Inner-Man》に戻るんですけども、《Inner-Man》の独特なアニムスの表現として、この男性がこう…… あれは全身タイツのようなものを着用してるんですか?

出光:いや、あれ裸ですよ。

小勝:この時は裸なんですよ。

中嶋:あ、そっか。

小勝:後の方では、全身タイツに変わってくるんですよね(注:《アニムス パート2》1982年)。

出光:全身タイツ?

小勝:えっと、例えば岸本清子さんの時。

中嶋:ああ、そうですね。

出光:あれは別の男の人ですよ。

中嶋:あ、全然違うんですね。

出光:違う人。それでこれはやっぱり日本で撮ってるんですよ。やっぱり日本にくると、こっちも縮こまるんですね。

小勝:そうなんですか。

中嶋:裸じゃまずいという。

小勝:アメリカだったら全然問題ないわけですね。

出光:アメリカって、カリフォルニアのね、あのサムの世界は、何でもありですよね。

小勝:なるほどね。

出光:本当に。

中嶋:裸で踊ってくださった男性は、どのような方なんですか?

出光:彼はね、お母様が精神病院に入ってたんですよ。それで、彼が4歳の時にお母さんが出てきて、お母様にHow do you do?って。

中嶋:「はじめまして」。

出光:「はじめまして」、って言ったていう。

小勝:ああ、これ(自伝)に書いてらっしゃいますね。このゲイの図書館員っていう、これですか?

出光:そうそう。ゲイで、UCLAで図書館員をやってたんですけど、本当に自分がゲイであるっていうことがすごく嬉しい、なんていうの?

中嶋:アイデンティティとして。

出光:うん、そういう人でしたね。

中嶋:ただ単純に、出光さんが思われるご自身の《Inner-Man》が、あのような感じだとは解釈できないんですけれども。

出光:それはだから、私自身の《Inner-Man》でもないし、彼女、踊ってる人の《Inner-Man》でもないんですけど。ただまあ、こういう日本の和服を着て、日本の踊りを踊ってる人の男性性、ていう。一般的にね、男性性もあるよって。むしろそういうことをちょっと表現してみたかったなー、と思って。

中嶋:やっぱりこれもすごくおかしみを誘う(笑)。ひどいギャップですよね。

小勝:そうですね。

出光:あ、そうですか。

中嶋:すごくこんなユーモアってものが、ユング心理学の単に生真面目なセッションの後に、出てくるものなのかって。(笑)非常に意外な。

小勝:これはユーモアを意識してらっしゃいます?

出光:やっぱりそうですね。

小勝:あ、そうですか。

出光:やっぱりアニマスっていうことが常に、うん、あります。

中嶋:これは、16mmの作品ですよね。

出光:そうですね。

中嶋:じゃあ、これは16mmとして編集するのは、すごく難しかったのではないですか?

出光:でもね、別に動きを合わせようとか、ここの動きの時にこういう風にっていう風にはもう考えない。頭と手でばっと繋いじゃったから、難しくはなかったですね。

小勝:その二重焼き付けという、あれですか?

出光:これはだから、アメリカなんかでは、こんなのただ普通の現像と変わらないんですけど、日本の場合は二重にすると、プリント代が高くなるのね。それだけの問題です。

小勝:そうですね、16mmはそうするプリントは頼むわけですよね。

中嶋:これはその撮ったものの上に焼いてるってことですか?

出光:撮ったものを二つ合わせてた、だからオリジナルっていうのがあるんですけど、そのオリジナルを二つこう乗せて、それで焼いてくださいって、言う。で、日本はそれがすごく高いんですよね。アメリカは元々二枚一緒に、たった一つの映像であっても、二つのあれを合わせて。で、片っぽうの映像の部分、黒味の部分ていう風にわかれてくるんですよ。

中嶋:なるほど、じゃあ、それほど技術的には難しくない。ただアイディアは、こうブルース・コナーさんからきたモンタージュとはちょっと違いますよね。

出光:うん、それは全然この場合は違いますね、ブルースとはね。

中嶋:やっぱりちょっとこういうの見ると、発想がどこから来たんだろうっていう風に思ってしまうんですけども。

出光:ああ、そうですか。だから発想は、全くユングですよね。例えば、あなたなんか見てても、あなたのこの辺にこう(笑)。

小勝:裸の男性が(笑)。

中嶋:踊ってる(笑)。

出光:イメージしたり。

中嶋:そんな風に見られてたら、本当に、楽しくなってしまいますね。こういう作品を作る一方で、73年に入ると、そのフィルム作品の、一般的に場所シリーズと呼ばれているものを始められるわけですよね。

出光:そうですね。

小勝:Atシリーズですね。

出光:場所シリーズ。

小勝:《At Santa Monica》。

中嶋:出光さんの作品の特徴の一つだと思うんですけども、本当に様々なトーンのもの、すごく楽しい、おかしいものと、あとはこの《At Santa Monica》や、《At Yukigaya》っていうのは、こう光をテーマにしてらっしゃると思うんですけども、とても、なんて言うか、美的、審美的というとちょっと違うと思うんですが、アプローチが全く違いますよね。(注:〈at〉シリーズ(場所シリーズ)は出光氏がゆかりがある地で風景を中心に撮影したフィルム作品。米国で居住したサンタモニカや東京の雪ヶ谷などが映されている。)

出光:そうですか?

中嶋:ええ、そのように多分観客は受け取るんだと思うんですけども。この《At Santa Monica》、1973年の作品について、どうしてこのような光をテーマにされたのかっていうのを、教えて頂けないでしょうか。

出光:光をテーマにしたのかを?

中嶋:光をテーマにされたわけではないですか?

出光:だからね、これ、裏話を言いますと、これもなにかに書いたんですけど、《At Yukigaya 2》(1974年,フィルム,11分10秒)、74年に作ったのを、作った時に、映像祭(「第2回アンダーグラウンドシネマ新作展」安田生命ホール)っていうのがありまして、作品を作れという声がかかったんですよ。だけど、すごい忙しくて、子育ての真っ最中、それでフィルムっていうのは日本橋の方まで買いに行かなきゃいけない。で、そんな時間はとてもなくって、と思ったら、こういうフィルムがあったわけです。どういうフィルムかっていうと、ハイコントラストフィルムって言って、クレジットを撮るためのフィルムで、それをいっぱい買いためてあったんで、それを使ってこれを作ったの。

小勝:そのフィルムの特徴っていうのは、そのなんですか、光が……

出光:コントラストがすごく強くなって。

小勝:コントラストが強く出る。

中嶋:「Yukigaya」の方は、そのハイコントラストフィルムで撮られた。

出光:それで、これがものすごい好評だったんで、のせられて、「Santa Monica」も作っちゃった。

小勝:《At Santa Monica 3》(1975年、フィルム、16分)

中嶋:そうなんですね。

小勝:Yukigayaの2とSanta Monicaの3ですよね。

中嶋:なるほど。

小勝:なんかでも、拝見してると、すっごくやっぱり詩的な、ポエティックで、光の揺らめきとか、そういう見ていてすごく心地良いリズム感みたいな。

出光:あります?

小勝:ええ。

出光:ああ、そう。

小勝:で、ものすごくこれがやっぱり評価されたわけですよね。

出光:そういうことなんですかね。

小勝:やっぱりそういうなんていうか、美術的な観点から、映像批評みたいなところで、評価されたんじゃないでしょうか?

出光:そうでしょうね。そうですよね、当時の映画祭なんていうと、みんながなんか納豆食べてるようなシーンが多かったと思うのね。(笑)

小勝:それは家庭の情景ですかね。

出光:家庭の情景。

鏑木:フィルムで撮っている他の作品の中でも、こういう作品は当時、珍しかったのではないでしょうか。

出光:すごい珍しかったみたいです。本当に。

小勝:これは全部時系列ですか?

出光:はい、時系列です。

小勝:だから同じフィルムの作品でも、こちらに出ている《Baby Variation》(1974年、フィルム、8分)ですとか、あのカラーの《Something Within Me》(1975年、フィルム、 9分30秒)もそうですかね。なんかものすごく内臓的な、感覚みたいな。(笑)

出光:そんなわけでも。

小勝:レバーをぶら下げて。

出光:撮影しなきゃいけないど(笑)、ああ、そうだ、食べようと思って買ってきたレバーが冷蔵庫にあったから、っていう、そんな感じですよ、当時は、うん。

小勝:うーん、なんかその辺の落差っていうのが、また、ね。見ている我々としては、このカラーの内臓の、レバー着色系のおぞましいところをあえて出すような、つまり自分の内臓を見せるみたいな、そういう無意識をさらけ出すみたいな、そういうことなんでしょうか、そういうタイプの映像と、それから今のハイコントラストで非常に詩的に、こう自然の風景、水や風や葉っぱのざわめきみたいな、そういうのを追ってらっしゃるものと、この二極の振幅の大きさに、我々としては、おおっとびっくりする。出光真子という映像作家の、なんていうかすごいく広い振幅を感じるんですけれども。

出光:ああ、そうなんですか。

小勝:ご本人としては、どちらも真子さんという。

出光:そうだと思います。うん。

小勝:どちらも表現したいものなんですか?

出光:うん。

小勝:《Baby Variation》とか《Something Within Me》のその内臓的なものを、あえてやってらっしゃる方には、やっぱりユング心理学とかそういう影響があるんですか?

出光:意識の上では、ないですね。だから無意識的にあるのかもしれない。

小勝:なんか単にきれいごとではないぞ、みたいな。すごい強さを感じるんですけれども。出光真子さんの。

出光:ああ、そうなんですか(笑)。

小勝:どうですか、こういうあたりは?

中嶋:《Something Within Me》は。

小勝:この前の恵比寿映像祭でも上映されたんでしたっけ?

中嶋:はい。あのカタツムリが非常に印象的な、あれをずっと撮っていることができる方がいるっていうのに(笑)。

出光:どういうとこで?あれなんですかね?

中嶋:何を見てるのかがわからなくなる程、なんて言うんですかね。ある意味では、冷徹なんですよね。人は多分ああいうのは見て、実際に見てたら、目をそらしたりとか。

出光:あ、そうなんですか。

小勝:なんかこうおぞましさとか、気持ち悪さとか、そういうのを感じると思うんですけど。

出光:ああ、そう。感じるんですか?

中嶋:ご自身は、そう感じないで撮っていらしたってことですよね。

出光:はい。どうして?(笑)食べるじゃないですか?

中嶋:レバー?

小勝:レバーも、カタツムリも。

出光:カタツムリも。

中嶋:カタツムリも?

小勝:うん、カタツムリも確かに食べますよね。

出光:エスカルゴですよ(笑)。

中嶋:まあ、食べるからいいというわけでは。(笑)

出光:おぞましいなんて考えたことない。ああ、そうなんだ(笑)。

小勝:ああ、そうなんですか?

中嶋:独特の美しさもありますね。

出光:ありますよね。

中嶋:見ていて、惹かれて目が動かなくなってしまうような感覚と、引き離そうと思うような、普段だったらカタツムリ気持ち悪いと思うような感覚に、分裂していくような、そういう視覚的な体験があったなという風に思いますね。で、そういう視覚経験っていうのは、あまり得る機会というのはないんですよね。で、それを出光さんが作ってくださってるというような。《Something Within Me》というのは、そういう作品だという風に思いました。

出光:ありがとうございます。

中嶋:で、そういうものが、《Something Within Me》っていうことで、出光さんの中にあるんだという。

出光:うん、怖いですよ(笑)。

小勝:怖いですね。

中嶋:まあ、端的に言って、恐ろしい作品だと思います。

出光:恐ろしいですか。

中嶋:恐ろしい作品と本当にきれいで心休まる《at Santa Monica》や《at Yukigaya》のような作品と、あとは見て笑ってしまうような、《Inner-Man》のような作品とあるのが、先程小勝さんが言ったような振幅の大きさというもので、驚きますよね。で、美術史家の貧しい発想だと、どのようにしたらそんな発想が出るんだろう、ということになってしまうんですけどね。まあ、そんなことは多分、ご自身でも特定されないんじゃないかは思いますが。

出光:じゃあ、なんか5時になったから。

小勝:そろそろね。だいぶお疲れだと思います。すいません長くなって。

出光:こちらこそ長々と。

中嶋:ありがとうございました。