文字サイズ : < <  
 

堂本尚郎オーラル・ヒストリー 2008年11月15日

東京都世田谷区深沢、堂本尚郎自宅にて
インタヴュアー:池上裕子、粟田大輔
書き起こし:野田弥生
公開日:2009年6月1日
 
堂本尚郎(どうもと・ひさお 1928年〜)
画家
日本画家堂本印象の甥として、若くして日本画のホープとなるが、パリに渡ってアンフォルメルの画家として活躍する。その後アンフォルメルと決別し、1964年のヴェネチア・ビエンナーレでは《連続の溶解》シリーズでアルチュール・レイワ賞を受賞。その後1970年代の《惑星》から《蝕》シリーズへと、厚塗りの画面から静謐な抽象画へと移行した。第1回目では印象の思い出と1955年からのフランス留学、ミシェル・タピエや具体美術協会との交流について詳しく語っている。第2回目では1966年のアメリカ滞在と、1967年にパリを離れて日本に帰国した経緯について、また2000年代の《蓮池図》シリーズについても制作プロセスを語っている。

池上:2008年11月15日、堂本尚郎先生にお話を伺います。

堂本:生まれは1928年でしょ。

池上:はい。京都でお生まれになっているわけですけれども。本当に有名なご家庭で。

堂本:堂本印象という伯父がいる。

池上:小さな頃から、そういう芸術一家にお生まれになって、特に意識することもなく、画家への道というものを目指されたのでしょうか。

堂本:これはほんとに、良くないといったら良くない。良いといえば良いのだけれど。生まれた時からその雰囲気だから。それとね、なんて言うんだろう、僕はあまり賛成じゃないけど、家中というか、親戚一派がみんな絵描きになるのが当たり前みたいな馬鹿げた雰囲気でしたね。だから抵抗も何もなかったし。それから、僕自身にとって非常に良かったことは、子供の頃からその雰囲気の中にいて。特に印象に残っているのは、6歳の時に僕の伯父が与えてくれたベラスケスの本ですよね。だから、あなたが今質問しておられるように、普通かと言えば普通ではない。本当に芸術のためという感じ。それから、京都という街だから、すべてにそういう雰囲気がある、と。僕の育ったところの近くにあったのは建仁寺。建仁寺というのは、京都の禅宗の五山の一つですかね。それで、そのなかに、(俵屋)宗達の《風神雷神》(17世紀前半)があった。あなた京都は知ってます?

池上:近くには住んでおりますが。

堂本:住んでいるの?

池上:神戸なので。

堂本:あ、そう。神戸。

池上:近いことは近いです。

堂本:そうするとね、どこがいいかね。ちょうど、東山安井通りから建仁寺の園内っていうの? それを斜めに通過した所に祇園町があったの。それを通過していくと、京都の中心の、映画館なんかがある繁華街に出るわけですよ。だからそこをしょっちゅう通過して。

−電話のため一時中断−

堂本:だから、要するに芸術家一家というか、その雰囲気は、あなたが言われるように、特異と言えば特異よね。だから自分を反省して、僕が絵描きで、今日があるのは当然のことであるというような感じはある。それから、これは僕が荒川修作に言ったんだけど、「おまえは、やっぱり偉いね」と。「(美術と)何の関係もないところから、ここまで来ているというのは大したものだ」と言ったことがあんだけどね。それと、日本だけの現象だけど、あなたは向こう(アメリカ)で勉強しているからわかるだろうけど、日本画と洋画があるんだよね、日本って。そうでしょ。

池上:不思議な国なんですよね。

堂本:不思議な国なんだよね。ある時にね、日本画と洋画の違いは何だという話になって。これは、日本の美術家にとっては、大きな疑問点であって、それから、大きな矛盾があるわけね。それで、亡くなった河北倫明っていう美術評論家の大先生が、「それは一体何だろう」という質問をされた時に、彼は「絵具の問題だ」と言ったわけだ。「それだけの違いで、精神的には変わらない」と。それは、非常に良い返事だと思うんだけど。ところが、作家たちにその認識のある人は非常に少ない。ただ、あなたの質問に返ると、僕は日本画で、京都でしょ。それで、京都には、いわゆる洋画というのは、黒田重太郎とか、太田喜二郎とか、大した絵描きがいないわけ。それで、日本画では竹内栖鳳、東京では(横山)大観だね。それから、もう少し下ってくると、上村松園がいたり。僕は美術学校では日本画科なんですよ。教わった先生というのが、小野竹喬という教授だった。上村松篁は助手だったんだね。そういう雰囲気で育ったというか、習慣付けられたから、個人的に絵を描くということには、抵抗は無かった。だから現在でも、これはもう結論になるんだけれども、もしも僕の美学というものを主張するとするならば、西洋美学は知識として持っているけれども、僕の感性の脈にあるのは日本画である、と。

池上:はい。突然、結論までいかれた訳ですけれども(笑)。

堂本:だけど、本当にそうなんです。

池上:はい。そのなかで、堂本印象さんがベラスケスの画集を下さったりですとか、伯父様自身は開けた考えで。

堂本:僕の伯父は、世の中で批判されている部分も随分沢山あって。そうでしょ?  まず多作であって、移り気であって。僕も若干、彼に対して、その社会的評価に疑問を感じたことはあったわけ。だけど、彼が死んで20何年たって、彼の作品を横に置いてみてね、確かに、浮気っぽいとは言わないけども、次から次にこう、新しいものを求めた。だから、ひょっとすると、僕もその部分を継承しているかもしれないね。

池上:先生もわりとスタイルが大きく変わっていかれるということろがありますね。

堂本:そう、変わっていく。それと僕は、もっと大きく変わったのは、京都から飛び出して、日展から飛び出して、家から飛び出しちまったということよね。うちの家庭というのは、堂本印象が生まれた後に、実は、家が倒産しているんですよ。

池上:そうなんですか。堂本家が?

堂本:堂本家が。それでね、堂本家というのは、絵描きじゃなかったのよね。大きな酒造のだんなだったわけ。なんていう酒だったかな。賞菊(しょうぎく)、賞でる菊か。そういう商品名で。場所は京都御所の近くにあって。それで、お爺さんが大変な趣味家だったんだ。趣味家だから、遊び上手でもあったんだろうね。それで、潰したわけだ。これは僕が話を親父から聞いたりしたんだけれども。それで路頭に迷って。男が4人で、女が5人兄弟なんだ、僕の伯父・伯母はね。

池上:親御さんのご兄弟ですね。

堂本:そう。それで、その中の三男坊が印象で、四男坊が僕の親父なの。それで、この二人が再建するわけよ。

池上:では、ご苦労されて堂本家をつくりなおすわけですね。

堂本:そう。再興した時に、これは堂本印象のヒストリーになってしまうけれども、龍村織というのがあるでしょ、京都に。龍村織のデザイナーになるわけよ、伯父は。彼がデザインした作品は、どんどん右肩上がりにいくわけだ。ところが、僕に祖母がいて、祖母ということは、印象の母。印象の同僚はみな、美術学校に行っていてね、大した絵描きじゃないけれども、たぶん。それで、母親が息子の印象に、「あなたも絵が描きたいんじゃない」って。「もちろん描きたい」と。「ただ、私がそっちに専念したら、明日から飯は食えないですよ」と。そうすると、祖母は、それを承諾するわけ。それで伯父が描いて、一回目の文展か帝展かで、落選するんだよ。その時、福田平八郎も落選しているわけ。そして、その次から、二人とも入選した。だから、福田平八郎と堂本印象はいいライバルである、と。そういうこともあるんだね。これは、誰も知らないようなことだけどね。だから堂本印象というのは、デビューは遅いんですよね。35歳くらいかな、確か。それで、ちょっと待って(印象の画集を取りに行って、戻ってくる)。これが、伯父が描いた親父(印象の父)の肖像だよね(《故父》、1924年)。これは何年だ。

池上:1924年となっていますね。では、このお爺様が、遊び上手で(笑)。

堂本:そう、遊び上手。だからお爺さんがね、この時代にこんな格好しているわけですよ。

池上:非常に伊達者な感じですよね。

堂本:そう、伊達者なの。

池上:狐の襟巻きをされて。

堂本:これなんかは、印象自身の創作かもしれない(1924年作の《坂》を示しながら)。彼は、6歳の僕にベラスケスをくれるくらいだから。アンリ・ルソーだとか、いろんなものを勉強しているはずよ。だから、それをうまく盗むというか、活用するのかもしれないし、実際にこういう場所があったのかもしれない。だけど、いずれにしても、彼の絵のエスプリは、こういうとこなんですよ。

池上:非常に、ハイカラな。

堂本:それで、彼が(堂本家を)再興してくれて、龍村を辞めて、純粋に絵描きになっていったのが、このへんですよね。それで、これが一回目の入選だ。

池上:はい。この前に一度落選を経験されて。

堂本:そう、一回落選したんだ。そういう雰囲気の中で僕は育ったんだ。だから、僕は荒川に、単純に「おまえ、偉いよな。何でもないところから自ら絵描きになって」って。僕なんか当然なるべくして(なった)。だから、いろんな良い面も悲しい面も(見てる)。画壇のいやらしさとか、美術学校もそうだけどさ。ね?

池上:(粟田を見ながら)深く頷いています。

堂本:そうでしょ。そういう部分を全部見てきたわけだよね。それで「創造美術」というのができて(注:創造美術は1948年1月発足)。あ、これは飛びすぎたな。その後、僕は舞鶴にいくわけよ。

池上:そのお話もお聞きしたかったのでお願いします。京都市立美術工芸学校(注:通称美工、現在の京都市立銅駝美術工芸高校)にご入学されますが、当時は12歳で絵画科に入ることができたのですか。

堂本:そうだったかな。僕らの時代というのは無茶苦茶なんだよ、戦争中で。まず、卒業式がない。そして、入学式もない。それから、学校で15歳まで勉強して。その後は軍需工場だったよね。そして、戦争が終わったのは、17歳半ばだったんじゃないかな。僕は3月生まれで、戦争が終わったのが8月だから。

池上:学徒動員をされて。

堂本:そう。だからね、たくさん体験しているでしょ。そこで面白いのが、僕と同い年なのがジャスパー(・ジョーンズ)(Jasper Johns)なんだよ。ジャスパーともその話をしたことがあるのだけれども。あいつは海軍の水兵で、横須賀に行っていた。(注:実際はジョーンズ1930年生まれ)

池上:仙台にもいたことがあります。

堂本:神奈川県。あれは何といったかな。今、航空母艦が入ったりするところ。そこで、彼は読売のアンデパンダン展をみて、絵描きになるんだよ。

池上:意外なところで繋がっているのですね。

堂本:そうなの。同い年で。イヴ・クライン(Yves Klein, 1928〜1962)も同じ年なんだ。ブルーの作品の。だから、片方は戦勝国で、もう片方が敗戦国でも、社会的ニーズというのは同じなんだよね。僕が非常に面白いと思うのは、政治家でも、ルーズベルトがいた時代ね。ド・ゴールがいて、日本には吉田(茂)がいて、ドイツにはアデナウアーがいて。今はどこの国にも(そういう大物は)いないでしょ。画壇だってそうだよな。一番偉いのが平山(郁夫)さんだものね。あの人は、僕の一つ下だけどもね。あの人は院展だけどね。僕は日展でしょ。その時、学校改革が起こったのが、アメリカに占領された直後なんだよ。それで、京都の美術学校でも、偉い先生方が全部首を切られるわけだよ。GHQの命令で。アメリカは先生も出席率が良くなかったら駄目なんだよね。ところが、(日本の)美術学校の先生なんて、1ヶ月に1回くらい来るくらいで、もう学生には先生なんていらないわけだよね。それで、全部(首を)切られたわけ。恐らく京都は文化都市だからという理由で、米軍の中でも選りすぐりのインテリ層が派遣されて、美術学校に進駐した最初のジェネラル(将校)も共産主義のシンパだった。それで中井宗太郎とくっついて、彼(中井)はGHQの後押しで学校改革をするわけだ。そういう複雑な背景がある。それで、(中井が)衆議院議員になったもんだから、創画会(注:創造美術の意)という美術団体を出て。それの京都の先導衆をやったのが上村松篁であった、と。東京には山本丘人とか色々いたわけだ。僕は、それを悪いとは思わない。日展の非常に民衆的なあれ(性格)からいくと、そういうことが起こってもいいだろうと。だけど、変わっていく人たちは、本当にそれだけの思想を持っている人なのか。これは、その時僕は20歳前後の時だけれども、大変な疑問だったね。あの人たちは、制服を変えただけじゃないか、と。僕の友達で一番仲の良かったのが、京都の麻田鷹司っていうんだよ。それから、ほぼ同級生に近いのが加山又造。加山もそっち(創造美術)に行ってしまうわけ。みんな創画会に行ったんだ。創画会の人はもう、「私は新しいのよ」っていう感じで、わりに軽薄な。(注:この時点ではまだ創画会は創造美術という団体名だった。その後1951年に新制作協会日本画部、1974年に創画会と名前を変える)

池上:その「新しさ」ばかり言われること自体に疑問を持たれていたのですね。

堂本:そう。だから、昨日まで竹槍でやってたやつが、ばっと日本は変わるわけだ。変わるための再創造というのは、僕は必要だったとは思うけども。人間というのは、精神的な内容は変わらずに(そうした再創造が)できるはずがないのだけど、日本の敗戦という失われた60年間は、そういう身代わりがあるだけで(今日まで)きてしまったわけよ。美術だけじゃなくて。それが今日の我々が持っている、大きなプロブレムとなっているわけでしょ。だから、政治も含めてすべては全部くっついているんだけどね。それで、麻田、加山、上村松篁、秋野不矩、みんな(創造美術に)行ったわけだ。しかし、僕は動けないんだよね。まず、日展の小野竹喬にも習っている。伯父貴は日展でしょ。だから動けなくて。そんな人ばかり日展にいるわけ。麻田鷹司と僕は、大親友だったんだよ。クラスで必ず1位か2位を取ったのはこの二人だったわけ。その片割れが創画会(注:創造美術の意)に行ってしまったわけだよ。僕は鷹司に「どうしておまえ、そんなところに行くんだ」と言ったら、彼が「馬券売り場があるとする。日展という馬券売り場にはわーっと人が並んでいる。隣には新しい馬券売り場が空いている。わしは、そっちに行った」と。だから、「おまえはそんな男か。僕は行かない」と。そこで激論になるのだけども。だから彼が出世作を描いた時に、僕は日展で特選取った時期なんだよね。そういうことがあって、それから月日がたって、僕は幸いにも、1952年にヨーロッパに行くでしょ。ヨーロッパに行った1952年にはサンフランシスコ平和条約ができて。
 ところで、うちの伯父貴は独身なんだよ。結婚してないわけ。ひとつには、家が潰れて、伯父は再興するのに忙しくて、結婚できないままでいた。片方には、(伯父には)結婚について自分の美学があったんだと僕は思う。そうして、僕は独身の伯父と同じ家に住んでいて。僕はこういう人間で、アンテナをいつも張っているから、だいたい日本の国内の動きはわかるよね。美術界だけじゃないですよ。それでいよいよ、「僕らは、外国に行けそうだよ」と伯父にいうわけ。おそらく、正月に言ったんじゃないかな、52年の。お雑煮で祝いながら俺が話したんだと思う。「そうか。じゃあ、お前が全部リサーチしてこい」と言うわけ。それで、5月に行くんだけどね。その間に僕がしたことは、リサーチだけではなくて。伯父貴が非常に親しくしてもらったのが、朝日新聞の創立者なんだよ。村山長挙(むらやまちょうきょ)っていうんだ。(注:長挙は朝日新聞の創立者である村山龍平(むらやまりょうへい)の娘婿)その彼が吉田茂と親しくて。それで吉田さんはその当時、内閣総理大臣にもうなっていたんだな。そして、マッカーサー元帥がいて、(マシュー・)リッジウェイ(注:Matthew Bunker Ridgway。マッカーサーの後任として1951年4月から1952年4月までGHQの第2代総司令官を務める)という人がいて。吉田さんが、GHQのジェネラル達に何かプレゼントをするというので、絵をあげるわけね。その絵の依頼を、吉田さんが朝日新聞の村山さんを通して依頼してきて。(印象は)2回くらい(絵を)あげているんですよ。

池上:印象さんが描かれた絵をプレゼントとして贈られたんですね。

堂本:そう、(伯父が)描いた絵を。屏風だよ。それがあったので、いよいよヨーロッパに行けるよ、となった時に、村山さんというか朝日新聞が、堂本印象を特派員にするわけ。

池上:そういう繋がりがあったのですね。

堂本:それで行けたんだ。そして、伯父貴一人では悪いというので、俺は鞄持ちとして同行したんだ。その時分はほんとに、独身の伯父と僕とで面白かったよね。金があるないにかかわらず。こんなに楽しいことはないな。金を使うだけでいいんだもん、6ヶ月の旅行で。彼は大きいお札でぼんと持ってるでしょ。それで帰ってきたら、お釣は全部ホテルの引き出しに入れているわけだ。僕はそこからもらって(笑)。そういう楽しい思い出があって。

池上:では、特派員という形で行かれるわけですが、特に何かをやらないといけないというわけではなかったのですか。

堂本:いや、書いていた。

池上:書いて、レポートにして提出するというお仕事ですね。

堂本:全部書いていた。いろんな本があるよ、朝日のね。その時にすごい人たちが伯父のサポーターになったんだ。加藤周一さん。それから、森有正さん。そういう人たちがみんな、パリにいたんだよ。他には、荻須(高徳)さんがいたな。あと、藤田(嗣治)さんと伯父は非常に親しかったな。それでパリの藤田さんのアトリエにも行ったし。いろんな関係があって。僕は鞄持ちで行ったんだけど、1952年の当時、パリには日本料理屋が一軒しかなかったんですよ。それは「ぼたん屋」といって、モーツアルト広場の124番だったかな。そこに全部来るわけ、日本人が。

池上:そこに行けば、いろんな方に会えるのですね。

堂本:会うというか、半分はホテルになっているわけ。あれはホテル・レストランなんだよね。主人が日本人で、奥さんがフランス人。そこにいたのが、土方定一さん(注:1904〜1980年。美術評論家。1951年、神奈川県立近代美術館初代副館長就任。1965年館長就任)に、田村泰次郎さん(注:1911〜1983年。小説家。『肉体の悪魔』、『肉体の門』などが代表作)。あなた知ってる? 『肉体〜』の。知らんだろう。若すぎる(笑)。それから、丸岡明という能楽の偉い先生。それと、船戸洪吉という毎日新聞の人。その当時ね、三大新聞は、読売は海藤(日出男)、朝日は小川(正隆)、それから、毎日は船戸。その3つが争っていた、日本では。それで、朝日はルーヴル美術館を持ってきて、《ミロのヴィーナス》がやってくる。読売はミロ展。毎日新聞はやることがないから、そこでやったのが日本現代美術展だ。みんなこうなんだよ。これはきっと君たちの役にたつよ。ほとんどみんな知らないから。それで、三大新聞がそれぞれ(展覧会を)やって。三大新聞があんまりにも競争したもんだから、今の悪い癖がついている。外国の作家や美術館を呼んで、全部自分(新聞社・美術館)でペイ(支払い)してしまう。一番悪い癖をつけたのが、国立西洋美術館。高階(秀爾)はもう館長をしていたのかな。それから、なんとかコレクションという、アメリカの有名な。

池上:バーンズ・コレクション。

堂本:そう、あれが来た時(1994年)に、読売が悪いことをした。読売が全部金を出した。それを、高階が嘆くんだけれども。例えば、今はピカソ展がきているでしょ(「巨匠ピカソ 愛と創造の軌跡」展、国立新美術館、2008年10月4日〜12月14日)。あれは、ピカソ美術館の修複のためにきているんだよ。それで作品が邪魔だから、全部送り出している。その間にペイしてもらって、美術館を直すわけ。日本には、残念ながらコレクションがないから、現ナマを出さなくてはならない。それが弱いんだよ。

池上:代わりに出すものがないわけですよね。

堂本:ないわけだよ。あるんだけども、例えば、法隆寺の百済観音なんかを出すと、ああいう乾漆のものは風土が違うわけ。だから、どうしたって駄目なんだね。それで、パリに52年にお供して行って。伯父のことは、もう面倒臭いから加藤周一さんとかああいう人たちに渡してね、「頼む」って。それで、僕は一人でパリに残るわけ。そして、パリのグランド・ショミエールという研究所に行って。その時分、研究所に菅井(汲)がいた。今井俊満もいて。

池上:油絵の具で何かを描かれたのは、それが初めてですか。

堂本:うん、初めて。それで研究所にいて、日本画の絵の具といったって通用しない、やっぱりあちらはチューブ(の油絵の具)でしょ。しかも、僕に与えられた時間っていうのは4ヶ月くらい。いや、3ヶ月しかなかったわけよ、パリにいる時間は。その時にいたグロメールという教授が、菅井と僕を並べて、「お前ら、フランス語ができないのなら、即帰れ」って言われたんだよね。そりゃそうよ、誰も(フランス語が)できないんだから。

池上:菅井さんや今井さんも、その時はまだできなかったんですか。

堂本:できない。まあ、「にんじんください」、「コーヒー一杯」というのはできるよね。だけど、芸術論とかそういうのは、できっこないでしょ。だから「お前ら、早く帰れ」と言われたのは覚えている。グロメールというのは共産主義だからね。そんなことがあって。ところが僕は、その時に近代美術館で遭遇した作品は全部知っているわけだよ。伯父がいたから、画集で見ていたんだ。「ああ、あれがこれか」ってね。近代美術館はおおらかというか、今のポンピドゥーが出来る前は小さな美術館だったわけね。それで「これが芸術だな」と思ったのと、もう一つ強烈なのは、ローマのシスティーナ礼拝堂のミケランジェロの天井画。あれを見た時に「日本の画壇なんてクソ食らえだ」と思って。忘れもしないヴァチカンの広場。柱がずーっとあって。太陽の光で(柱が)真っ白で、青い空があって。それで、システィーナ礼拝堂に入ったら、かーっと暗くて、ふっと(上を)見たら、天井があるのよね。アメリカ人がよく好む「グレート」って言葉、「本当にグレートといったらこれだな」と思ったよね。それで、もやもやとしたものも吹き飛んで。強烈だったね。過去を全部切ってしまいたい(と思った)。

粟田:日本画の絵の具は持ってきたんですか。

堂本:まあ、それは後で(笑)。まあ、そんなことがあって。それで、伯父貴が日本に帰ることになって、僕は「帰りたくないなあ」と思って。(パリには)今井がいる、菅井もいる。今井や菅井だけでなくて、(ピエール・)アレシンスキー(注:Pierre Alechinsky。1927年〜。コブラの創設メンバー)とか、みんないるわけよ。それで、大体同年輩でしょ。なんでそれで鬱陶しい日本に(帰らないといけないのか)。しかも僕は日展ですでに二回特選を取ってるんだよね。緋毛氈が引いてあるわけ。帰ったらそれに乗らなきゃいけないわけよ。「嫌だなー」と思ったけれども、伯父貴を連れて帰るのが僕の義務であるというので、(日本に)帰るんだよね。それで帰って、親父が東京まで迎えにきてくれて。その夜、二人で泊まっていて、「俺はパリに行く」と言ったら、「お前、今帰ったとこじゃないか」って怒られたんだけどもね(笑)。それで、留学生試験を受けるわけ。大義名分がなきゃ行けないわけよ、もう。家庭的に。だから、留学生試験に受かれば、文句言うやつはないだろう、と。すると、受かっちゃったんだよ。

池上:それはフランス政府の留学生試験ですか。

堂本:そう。でも私費留学生よ。

池上:私費であっても、当時は試験に受からないと行けなかったんですね。

堂本:そう、それがないとビザは下りない。それから、それ(ビザ)があっても、保証人がいないと行けない。当時は保証人がなきゃ駄目なんだよ。

池上:フランスのどなたかに、保証人になってもらうんですか。

堂本:そう。それは、社会的にきちんとしている人。だから僕の場合は、ソルボンヌ大学の教授だったけどね。そういう人がお墨付きをくれなきゃ行かれない。それで留学生試験を受けて行くんだけどね。それでさっきの君の質問だ。僕のやってたことは日本画でしょ。その時はやはり日本画の誇りみたいなものを持っているからね。それで材料はね、船だと、神戸からマルセイユまで50日かかる。だから大きなケースに日本画の絵の具を入れて下宿屋に行った。下宿屋はフランス人の家。(アルマン・)オーシュコルヌ(Arman Hauchecorne)という名前を知っているかな? 京都の(関西)日仏学館の館長もしたことがある、神戸の領事をした人なんだけど。そこの家に下宿して、また研究所に通いだすわけだ(注:1955年の渡仏時に通ったのはグランド・ショミエールではなく、エコール・デ・ボザール。パリ国立美術学校)。それで、もう一つ強烈なのが、ファルギエール(注:シテ・ファルギエール(Cite´ Falguie`re)。エコール・ド・パリの画家達が多く居住したアトリエ長屋)。(シャイム・)スーチン(Chaim Soutine)や(アメデオ・)モディリアーニ(Amedeo Modigliani)がいたアトリエの近くなんだ。そこで、日本から持っていった和紙を、日本画よろしく台に貼って、ドーサ(注:ミョウバンを膠液で溶いたもの。滲み止めに使う)を引いて、やろうとしたら、乾燥が猛烈にきた。紙にばーっと皺がよるわけ。それで研究所に行くと、みんなこう(油絵の具で)描いてるでしょ。それで、その時期に僕が遭遇したのは、サム・フランシス(Sam Francis)なの。

池上:同じ研究所におられたのですか。

堂本:研究所じゃない。彼はもうデビューしていた。研究所だと、もう鼻クソみたいなやつばっかりしか残ってない。僕はだいたい美術学校も大嫌いだったけどね。それでサム・フランシスとか、(ジャン=ポール・)リオペル(Jean Paul Riopelle)とか。サムはアメリカ人で、リオペルはカナダ人。それから、ちょっと離れたところで、(アントニ・)タピエス(Antoni Ta`pies)はスペイン人。(カレル・)アペル(Karel Appel)はオランダ。それから、アレシンスキーはベルギー人。みんな一緒だった。僕にとって一番強烈なインパクトがあったのは、サム・フランシス。どうしてサム・フランシスだったかというと、サム・フランシスは、西海岸の作家なの。あなたはアメリカを知っていると思うけど、アメリカというのは変な国でさ、人種の問題もあるけれども、東と西が完全に対立しているんだよ。でしょ?

池上:はい。遠いですしね。サム・フランシスは西出身で。

堂本:そう。サムと僕とは、ほとんど最初に会っている。知ってる? こんなのあるんだよ。これが、僕がパリの研究室で最初に描いた油絵。

池上:これなんですね。

粟田:これが最初の。

堂本:最初の油絵。そして(写真を見せながら)ここに菅井がいる。それで、これがサム・フランシス。これがサムのアトリエ。それでサム曰くね、僕はその時分アメリカの東西の問題についてそんなに知らなかったんだけど、サムは「僕はカリフォルニア人で、一番近い国は日本だ」と言っていたんだ。太平洋を越えたら近いでしょ。「ニューヨークは遠い」と言った。

池上:(この写真には)サム・フランシス夫妻と書いてありますね。

堂本:そう、当時はその人が奥さんだ。ムリエールっていってね。彼女はアメリカ人で、素晴らしい女性だった。サム・フランシスの白と黒の絵があるでしょ、ホワイト・ペインティングという。金が無かったんだよ。だから、白と黒(の絵の具)しか買えなかった。その絵の具代を出してやったのがその奥さんなんだよ。その奥さんは、アメリカ大使館の、タイピストだった。まあ、いろんなことがあって。僕がサムに惹かれたのは、(サムは)「ヨーロッパ人は主張が強い。いい面もあるけど、主張が強くて、コンセプトを持っているのが西洋人だ」って言うんだよ。だから絵画においても押し出してくる。ところが(サムは)、「東洋は引きだ」、というんだよね。だからサムの絵は「引き」でしょ。そういうものが彼との共感を得たところだろうね。だから僕は今でも、ある程度のヨーロッパ好きではあるけれども、今日になるとあまりね。もうそんなに、学生時代とか若いときのように、情熱的に向こうに傾倒するということはなくなって。だからやっぱり、日本の美学に帰っていかざるを得ないということ。どうしてそういうことが起こったかというと、サムやアペルもいたかな。リオペルとか、ジョアン・ミッチェル(Joan Mitchell)とか、すごく親しかったわけよ。それで、モンパルナスにドームという喫茶店があって、前に、ロトンヌがあって、こちらにクーポールがあって、ロダンのバルザックが立っている。向こうは、アーティストが集まるところだ。(アルベルト・)ジャコメッティ(Alberto Giacometti)は、ほとんどロトンヌのカフェに座っているし。僕はジャコメッティもよく知っていたけど。そしてみんな金がないわけよね。僕も下宿屋もね、寒いでしょ。こう氷がばーっと、ウィンドウに氷柱がさがるんだよ。仕方がないから、電熱器買ってきてつけたら、ショートしちゃうわけ。どうしてかというと、40ワットのリミットがあるわけよね。それで家にはいられないから、みんなカフェに行くわけ。それでカフェで暖をとるんだよ。

池上:では、やむにやまれず。

堂本:そうなんだよ。

池上:遊びに行っていたわけではないのですね。

堂本:遊びじゃない。そうすると、カフェのテラスでは、夜中の12時半までは電気がついているわけ。フランスの法律では、乞食が来たときに、水一杯は出さなければならない。そういう中で、僕たちは育てられたわけ。それで、サムなんかとよく話したんだけども、第一次大戦が1918年に終わった時に、我々の先輩は何を残していったか、と。シュルレアリスムであり、ダダイズムなんだ。そして、第二次大戦で犠牲を払って、やっと今、このテーブルに居ると思う。僕たちは一体何をするべきか、というのは最大の問題だった。戦勝国の若者と敗戦国の若者が一緒にいて、それを言っているんだからね。

池上:戦争が終わっていないと、ありえない光景ですよね。

堂本:そう。だからこれが大きな、僕の現在まで支えられている(経験だ)。

池上:そういう芸術論を戦わせていく中で、アンフォルメルが。

堂本:いや、それはね、また別。

池上:別ですか。

堂本:それは別。一部。それで僕は、タピエスに変な質問した。タピエスは非常に伊達者で、僕は一番好きでね。タピエスとは、パリの画廊ででも、ニューヨークの画廊でも(一緒だった)。僕も契約で、あいつも契約で、彼はナンバー・ワンで、僕はナンバー・ツーなの、いつも。

池上:何がですか。

堂本:売れ行きが(笑)。それでタピエスに「あなたに一つ疑問があるんだけどね。どうして生きてるの」と聞いたのよ。それには彼はぎょっとしたよね。「どうしてそんな質問をするの」。「スペインは内乱があったろ」って。「フランコがいて、あの時、若人はほとんど死んでいった。お前はどうして生きているんだ」と。彼は7つ上なんだよ。そうすると、当然(レジスタンスを)やってる。

池上:レジスタンスに参加しているはずの世代ですよね。

堂本:そう。そうしたら「ありがたいことに、自分は結核で、サナトリウムにいたんだ」と。僕は14年パリにいたんだけども、歴史とかそういうもの繋がりが(あったんだ)。だから僕はパリの風景を写生した覚えはない。それと、日本に帰ってきた時に、これはもう、かなり大きい理由で。ちょうど湾岸戦争の一番最初(第三次中東戦争)が起こった。まだ生まれてないよな。

池上:はい、まだ生まれておりません。

堂本:最初の湾岸戦争のことは今でも(覚えている)。本当に一番最初の頃。その時はもう大変だった。日本にいる親父はパリには米がないだろうと送ってくれて。でもその米にはコクゾウ虫がわいてでるような時代なんだよね。それから、メディアが怖いのは、第一次大戦の時に使った写真を、日本の記事に載せているわけ。だから、コンコルド広場に戦車が並んでいるわけ。そんなことは現実にはなかった。だからメディアって、それで飯食っているから仕方がないけれども、やりすぎというか、やらせが随分あった。それでどの辺まで話したかな。

粟田:タピエスと画廊で1番と2番というお話でしたけど。

堂本:そうそう。そういう経験があったわけだ。

粟田:どういう風に契約に至ったのですか。

堂本:契約というのは、おかしいんだよ。(ポール・)ファケッティという画廊(Galerie Paul Facchetti)があったんだけども。もう無くなったんだけども、知ってる? 知らないだろう。

池上:ポロックの個展をいち早く開いた画廊でしたよね。

堂本:そうそう。これはイタリア人でね。家具屋なんだ、実家はね。小さいおじさんでね、だけどなかなか勘がいいんだよね。それが画商をやっていた。随分早いよ、(ロドルフ・)スタドラー(注:Rodolphe Stadler。Galerie Stadlerのオーナー)よりも早いんだから。それでファケッティがグループ展をやることになって。それで、僕も出してくれと言われて。なぜ僕に出してくれと言ったかというと、ミシェル・タピエ(Michel Tapie´)っていう人がいるでしょ。あれを具体と提携させたのは、僕が仕込んだんだけど。それで、タピエが具体の雑誌をだす時に、パリの作家に、原色カラーの写真を送ってくださいと、吉原(治良)が頼んでくるわけ。それで、その写真をうつすにあたって、ファケッティは非常にテクニシャンのカメラマンだったわけ。そこで僕の作品を持ち込んだわけ。サムの作品もみんな持ち込んで。そうしたら、その時にファケッティが、「これは一体誰の絵だ」と言った。僕は無名よね。「僕のだ」って。「ああ、こんな絵を描くのか」と言われて、それで「次のグループ展に出してくれ」って。それでグループ展に出して。僕は当て馬だったのよね、彼にしてみたら。ノエルというフランス人の絵描きを出したかったわけ。全部で5人ぐらいのグループ展やって。僕の絵が一番に売れちゃって、それでデビューするわけ。

池上:では、最初はファケッティだったのですね。スタドラーではなく。

堂本:一番最初はね。おかしいだろ、本当に。それで、ファケッティで出して。僕の出世とはどうだろう。これは是非、声を大にして言ってほしい。誰も知らないから。どうしてかというと、堂本というと、美術家の名家であり、金持ちであり、いい男である(笑)。(君は)笑ってるけど。

池上:同意の笑いです(笑)。

堂本:三幅対なんだよ、僕は。だから敵がものすごく多いわけ。

池上:そうなんですか。

堂本:ものすごく多い。

池上:やっかみのようなものですか。

堂本:僕はこの展覧会(注:2005年の堂本尚郎回顧展、京都国立近代美術館と世田谷美術館で開催)をやってはじめて市民権を得たって言ったくらいなんだから。まずは、東京人ではなく関西人である、と。これはやっぱりすごいでしょ。だから、上野と京美と言うと、全然(扱いが)違うもの。僕はくそくらえっていってるけどね。だけどまあ、そうだったのよ。それで、いつもそういう風に、僕は妬まれているわけよ。そしたらある日パリで、これもおもしろい話だけどね、下宿していたオーシュコルヌという家ね、さっき言ったでしょ。お父さんがフランス領事で、神戸の領事の資格のある人で。息子が、ジャン=ピエール・オーシュコルヌ(Jean Pierre Hauchecorne)といって、京都の(関西)日仏学院の教授でもあった。それに妹がいて、ギメ美術館の図書館員だったの。僕はそこに下宿しているから、オーシュコルヌ・ファミリーがいるわけなの。するとある日、彼女が仕事から帰ってきて、「堂本、アルバイトしたいか」と言った。「なんですか」と聞いたら、「ある雑誌社に頼まれているんだけど、雑誌の編集者に会ってらっしゃい」って。1956年くらいかな。56年とは、初めてヨーロッパやフランスが、東洋に意識を持つ(時期だった)わけよ。それまでは僕なんかが安物のモンパルナスの映画館行くと、ベトナム戦争の映画があるんだよね。日本がヨーロッパと戦争して、日本の飛行機が、ヨーロッパの飛行機を落とすと拍手喝采。ベトナム人がいっぱいいるわけだ。だから東洋がまだ、日本人とかベトナム人とか中国人とか全然わからない時代。

池上:区別してないような時代ですね。

堂本:それで、フランスで東洋人を軽蔑して言う時には、「シノワ」って言うんだよ。それで「東京は北京のどこにあるの」って言われた。

池上:そんな時代だったんですね。

堂本:56年よ。生まれてないの?

池上:生まれていませんね。

堂本:そんな時代に、フランスは初めて東洋、特に日本に目を向けようとした。というか、日本の生産力というのに気がつくわけだ。ソニーのトランジスタができたりして、色々な時代ですよね。だから、ヨーロッパというのは、それぞれに植民地政策をやっていた国だから、ものすごくそういう鼻はきくよね。そうしたら、その編集部は旅行エージェンシーの編集部だったわけ。それでいよいよフランスから日本にツーリストを送り込みたい。それにあたって、この小説の挿絵を描いてくれ、となったわけ。それで原稿わたされて。「原稿? なんやこれ」って。そして高階に電話して、「これ読んでくれ」と言うと、高階が読んでくれて。そして挿絵を描くわけ。

池上:どういうお話の小説だったんですか。

堂本:覚えてないよ。

粟田:挿絵はその小説に合ったものを描いたのですか。

堂本:挿絵はね、もちろんそう。だから、文が読めないと駄目だから、高階大先生が、その時分まだ学生だからね。彼が全部読んでくれて、描いて提出したら採用されるわけ。採用されて、一日たったら電話がかかってきてね。その編集長が「私のミスで、実は、あなたに依頼した時に、あと4人の日本人に依頼した」と。そうしたら、「あなたのを採用したら、クレームがついたから、使うわけにいかない」と。だから「ついては、その原稿料も払いたいし、とにかく事務所にきてくれ」と言われて行って、5,000円かなんかもらったんだろうね。その時は、僕はいつも寝坊でタクシーに乗って行ったから、もう5,000円とっくに飛んでんだよね(笑)。そんなことがあって。(その編集者は)金髪の絶世の美人だった。そのレディーが、「あなたには大変悪いことをした。私に出来ることは、何でもやってあげるから」と。フランス語が出来たら、「ツバメになりたい」と言いたかったんだけど(笑)。ツバメって単語知らないから。それでモジモジしていた。そうしたら、彼女が「サロン・ド・メ(Salon de mai)っていう展覧会があるのを知っているか」って言ったんだよ。登竜門だからね、「もちろん知ってる」と。「出したいか」って言うのよね。「もちろん出したい」。「それじゃあ、作品はあるか」と言うんだよ。作品はある。僕はメゾン・ドゥ・ジャポン(注:大学都市(Cite´ Universitaire)の日本館、Maison du Japon)にいたんだよ。メゾン・ドゥ・ジャポンっていうのは、これよね(アルバムの写真を見せながら)。高階とか、芳賀(徹)とかみんなここにおったんよ。その時分は日本画やめて研究所入ったりしてるから、せいぜいこのくらいの大きさの作品が10枚くらいあったかね。そうしたら、「作品を見にいくから」と言われて。その編集部の絶世の美人が、ある紳士を連れてきたから、僕はひざまづいて僕の絵をひっくり返っているのを見せて。そのジェントルマンは、バーバリーのレインコートを着て、白いひげを生やして。ここに出てるかなあ(アルバムを探しながら)。大変な人だったんだけどね。ここに高階がいるでしょ?

池上:あ、はい。

堂本:これ、マルロー(Andre´ Malraux)よ。これは小澤征爾。

池上:これですか。

堂本:征爾が賞をもらう前に、家へ来ているんだよ。そんなことがあってね。そうしたら、その紳士が「悪くないな」と言うんだよね。それで(彼が)帰るときに、「私はこういう人間だから」って(名刺をくれた)。向こうの名刺は銅版で刷ってて、大きいんだよな。それで見たら、「ジョルジュ・サル(Georges Salles)」って書いてあるの。僕の親友で、フランスの海軍武官をやっていた日本語のできる人がパリに帰っていたから、その人に電話して「おい、ジョルジュ・サルという爺さんがきたけど、あれ一体誰かな」。「そんな人がお前のところなんかに行くはずがない」と。「だけどここに名刺がある」。「何の用事で来た」。「こうこう、こういうことで来た」。「そうか。それは誰か知っているか」。「いや、だから聞いているんだよ」。「ルーヴル美術館の館長だよ」。ルーヴル美術館の館長というのはフランス人、全フランス美術館のトップ。それが、あとからわかったけど、(ギュスターヴ・)エッフェル(Gustave Eiffel)の孫なんだよ。その人が「悪くないね」と言って、次に誰かをよこしますと言って、出てきたのが(ベルナール・)ドリヴァル(Bernard Dorival)なんだよ。パリの近代美術館の館長してた、高階の先生だよ。で、ドリヴァルが見て「いいね」って。その次にコミッティーの人がきて。そのコミッティーが、(ジェラルド・)シュナイデル(Gerard Schneider)というスイス系フランス人の絵描きね。向こうの人は洒落たいい方するんだよね。「近いうちにあなたはインヴィテーションを受けるであろう」って(笑)。

池上:素敵ですね。

堂本:そうなんだよね(笑)。おめでとうって言って、すぐ帰るわけ。それでその絵をサロン・ド・メに出して。これはまた傑作なんだ。ずっと、これは全部に続くからね。展覧会って言ったら、値段書くだろ。15万円って書いたんだ。

栗田:それをご自分で。

堂本:そう。

池上:15万フランで。

堂本:15万フランで。アンシャン・フランだよ。オールド・フランで。そうしたら、ある人から電話がかかって。それで「あなたに興味があるんだけども。これから行くから」って。私はこの時黙っていたけど、よれよれのバーバリーを着た人が、こんなに髭を生やして、カメラをぶらさげて入ってきて。「興味がある」って。ともかく、「3万なら買う」って言うんだよね。「15万は高すぎる」って。それでまた、名刺置いていって。こんなの。

池上:大きい名刺ですか(笑)。

堂本:それは(ピーター・)ギンペル(注:Peter Gimpel、ギンペル・フィルス(Gimpel Fils)画廊のオーナーの一人。兄のチャールズ(Charles)との共同経営)だったんだよ、ロンドンの。それでその時分はもう僕はサムと友達だったから、サムに電話して、「おい、ギンペルってやつが来てな。けしからんよ。俺の15万の作品を、3万だって。どうしよう」って。(サムは)「文句を言わずに売れ」と言うんだよ。それでギンペルに「気が変わりました」と言ったわけ。それが、ロンドンに行ってすぐ、売れたわけ。僕のデビューはこうだったわけ。

池上:その挿絵自体はボツになってしまったけれども、それが、もっと大きなチャンスにつながったということですね。

堂本:そう。だからもしも、ボツにならなかったら……

池上:もう、そのままだったかもしれないわけですよね。

堂本:そのままだった。せいぜい原稿料もらっておしまい。

粟田:それはどういう絵だったんですか。

堂本:あんまり、あれ(覚えていない)なんだけどね。

池上:サロン・ド・メに出した絵というのは、ここ(2005年回顧展図録)に出ていますか。

堂本:最初のほうに出ていたね。「よく(回顧展に)こんなもん出すね」と言われて。2点くらいあるよ。

池上:これ、渡仏されてからは、こちら。

堂本:そう。これこれ。

池上:これですか。(《作品》1956年、2005年回顧展図録の2−01)

堂本:うん。だけど、この絵じゃないよ。

池上:これに似た系統。

堂本:そう。

池上:まだこういう、ちょっとうねるような絵の具に移行する前の。

堂本:僕の絵というのは、全部自然なんですよ。日本で自然主義なんて、面白くないかもしれないけど。でも自然というのは、拡大解釈したら宇宙までいきますからね。

池上:こういう系統の絵は、(画廊に)買われてということですよね。それから、こちらのように、もう少し筆触が激しくなっていくような、こういうタイプの絵に。(《タンシオン・デスプリ》、1956年。2005年回顧展図録の2−02)

堂本:それは前の。それは全部水絵なんだよ。

池上:あ、こちらはまだ水彩なんですね。(注:作品リストでは油彩・カンヴァスとなっている)

堂本:うん、水彩でもないけども。グアッシュというか。ところが僕は、岩絵具を持って行ってたから、混ぜているかもしれない。

栗田:岩絵具も入っているかもしれない。

池上:それは、面白いですね。

堂本:だからね、結論として、さっきの河北倫明の話じゃないけど、僕の場合は、使えるものは全部使ってしまえ、なんだよね。白髪(一雄)じゃないけど、まあ白髪だと足を使う。僕は足は使わないけども。まあどう考えても僕は、西洋画ではないしね。だから、どうしても日本の洋画壇では受けないわけ。面白い例があるのだけどね。ある有名な、山田正亮という絵描きがいるんだけどね。僕が山田正亮にシンパシーを持った理由を教えておこう。僕なんかから見たら、(彼は)王道の人間だよね。(でも僕は)いつも百パーセントで描けた。だから色々紆余曲折があったにしても、パリに行って、こうやってデビューする。日本にいたら、日展で特選も取ってくる。さっきの三要素をちゃんと揃えとる。ところがそうでない、それをやらせてくれたのは、僕自身の仕事の才能もあったかもしれないけど、社会現象的なものもあるわけ。

池上:うまい具合に、フランスが東洋に目を向け始めていた、というようなことがあったわけですよね。

堂本:そう、そこにうまいように乗るわけさ。そこには東野芳明がおり、僕らの系統っていったら東野、中原(佑介)、あの系統でしょ。東野は僕を100パーセントは評価しなかったけれども。まあそんなことはどうでもいい。だけどそれに漏れたやつが山田正亮だったわけ。だから僕はある日、山田の展覧会の時に、ちょうど峯村がいたかな。僕は、あまり峯村は、本当は好きな男じゃないけどもね。だけど彼が立派なのは、李禹煥を代表にしたもの派を作ったから、偉い、と僕は思った。日本にそういう評論家はいなかった。全部西洋志向だった。それで埋もれたのが山田正亮なの。これは僕らの怠慢だったかもしれないね。評論家も含めてね。僕なんか(彼を)見落としていた。それから、僕は山田とずっと親しくなるんだよ。そうしたらある日、「堂本さん、家においで」って。「なんでや」と言ったら、「絵を教えてやる」と言ったのよ、彼が。山田正亮の絵って知ってる?

池上:いえ、ちょっとイメージできないんですが。

堂本:あ、そう。君は知ってる?

栗田:僕も(知りません)。

堂本:ちゃんと勉強して。一時は、(彼の絵は)右から左に全部売れたのよ。佐谷画廊の時分。今はもう、こうなっているんだろうけど(手を下にむけて)。もう大変な画家だったわけ。僕は彼が売れようが売れまいが関係がない。だけど快い絵だなと思って。そうしたら「堂本さん、絵の描き方教えてやる」って。その時、むっとしたよね。

池上:そうですよね。

堂本:だけどまあ、埋もれた作家で可哀相と思っているんだから、こっちもおおらかにいたわけよ。それから、山田正亮がどうしてだめなんだって、ずっと考えてみた。僕は、梅原(龍三郎)、安井(曽太郎)というのは肯定しないのよ。ところが、日本の評論家や画商というのは、梅原が岩絵具を塗ったからって評価するんだよね。「そんなもの関係ない」って僕は言う。どうして僕が安井曽太郎を嫌いかと言うと、安心してアクセスできる、非常にアカデミックな、日本でしか通用しないモダニズムでしょ。

池上:毒がないと言いますか。

堂本:そう、もっと悪いのは小磯良平だけれども。あんなのは問題外。だけど、安井ですらそうなの。僕は日本画の畑で育っているから、学生時代から、安井も梅原もどうしても僕は駄目だった。それは、長い間悩みましたよ。だから成績は悪いしね(笑)。レポートなんか出したら、全部たたかれてしまう。ところが、考えてみたら、その山田正亮というのは、安井曽太郎の延長線だったんだ。だから、あの所謂キュビスムの、アカデミックなキュビスムの、決まりがあるでしょ。彼が僕に絵を教えてやると言ったのは、むしろ僕にはそれが全くないから。

池上:規則がない。まさに。

堂本:そう。だから、彼はそういうことを言えたんだろう。僕は逆手に取って、ざまあみやがれって(笑)。僕の美学は違うんだよ、って。

池上:はい。まさにこちらは、フォルムがないと言うような。

堂本:そうだよ。だから、本当に僕にはないんだよ。僕の周辺の中村一美とかに、「お前ら、理屈言う前に描け」と僕は言うんだけどね。宇佐美圭司もそうだし。どんどん、自分を小さくしていくわけ。

栗田:規則を。

堂本:そう。その中で、安心できるんだろうね。だけど僕はパリにいて、さっき言ったように、モンパルナスで、何のタンダンス(傾向)もなくて。同じテーブルで、目的は非常に抽象的で、何をやるべきかということを語り合った。これはやっぱり大きいよね。

池上:そちらこそが、自分の属する場であるという風に思われたんですね。

堂本:そう。それと、こういう絵を描かなくてはならないという規則が全くないわけ。それで、まわりのヨーロッパの人なんかは、アンフォルメルでフォルムを壊すとか言ったんだけども。これはさっきあなたも少し質問しかけたけれど、僕は美学的な理由でアンフォルメルというグループにいたんじゃないんですよ。なぜいたかというと、その前に言った、日本の置かれていた、戦後の新しくなるかと思ったら、何にもならない、なんの変化も起こらない日本の画壇。それが嫌で出たわけでしょ。なんとか、そういうのから脱却したいと思っている人間がいたときに、そういう(地元のしがらみから)脱却したいという連中が(パリに)いたわけよ。

池上:フランスに、いろんなところから来ていたわけですね。

堂本:そうそう。それはきっちりと分けないといけない。だから、僕はアンフォルメルの美学がどうだとか、あまり興味はないんだよ。

池上:それが非常に大事なところだと思うのですが。

堂本:それは分からないけど。だから「あいつはあまり勉強してない」とは言われていたかもしれない。

池上:そんなことはないと思います。

堂本:だけど、僕はアンフォルメルの集まりからすっと出ちゃったでしょ。3年くらいしかいなかったでしょうね。居られなくなった。過去の文化を否定するなんて、そんなことは不可能だ(と分かった)。僕は(自分の)置かれた小さな世界を否定して、自分をボツにしかけたの。過去の文化を否定するというのはありえない。それでタピエからも遠のくわけ。

池上:タピエとのお付き合いについて、少しお聞きしたいのですが。

堂本:いいですよ。

池上:最初にお会いした時というのは、どなたかのご紹介ですか。

堂本:今井(俊満)。

池上:タピエの最初の印象は、どういう感じでしたか。

堂本:やはり、変わったじいさんだよね(笑)。じいさんと言うと失礼だけど。あれは(アンリ・ド・トゥールーズ=)ロートレック(Henri de Toulouse--Lautrec)の孫(注:はとこ)になるのかな。落ちぶれ貴族ではあるんだけどね。本当の名前は、ミシェル・タピエ・ドゥ・セルラン(Michel Tapie´ de Ce´leyran)というんだよ。僕はその時分、(ミシェル・)ラゴン(Michel Ragon)とも知り合ったけれど、やはり(タピエが)一番鮮烈な印象を与える人ではあった。それから彼がピック・アップする作家たち。さっきのファケッティの問題もタピエがかんでいるんですよ。ジャクソン・ポロック(Jackson Pollock)やアメリカのエクスプレッショニズムをフランスで一番早く理解したのは、タピエだ。だけどタピエの悪口を言うやつは、「彼はただそれを利用したに過ぎない。タピエは、自分の美学というものを持っていない」と言われている。

池上:はい。先生はどう思われますか。

堂本:僕は、あの人は感覚的な人だと思う。

池上:はい。そんなに戦略的にやっていたわけではない、と。

堂本:いや、戦略的。ものすごく戦略的。だからそれで身を滅ぼしたわけだ。勅使河原蒼風と組んでみたり。具体と(のコラボレーションを)やったのは僕なんですよ、本当は。

池上:そうですか。

堂本:そうだよ。(僕が)吉原治良さんと親しくなったのも面白いんだよね。二科展を見に行くと、変な絵があったんだよ。それを好きになって。伯父貴に「変な絵があるけど、買ってくれないか」と。すると伯父が買ってくれたわけ。

池上:買ってくれたんですか。

堂本:うん。これくらい小さいよ。買ってくれて、それで、吉原さんと繋がりができて。向こうにしてみたら、変な奴だと思っただろうね。その時はまだ、僕は日本画だし。具体というグループはないし。

池上:まだない頃ですよね。

堂本:ない。それで、治良さんの所に行って。治良さんもなかなかの洒落者だしね。だから、楽しかったですよ。ところが、その後に具体ができて。白髪(一雄)と僕は、同級生なんだよ。

池上:そうですよね。京都(市立美術専門学校)の。(注:現在の京都市立芸術大学)

堂本:あいつは、(僕が)入学した時、ずっと先輩で、3年くらい上にいるわけ。すると、どんどん下りてくるんだよ(笑)。最後には一緒だった。それで気が付いたら、あいつのほうが下だったんだけども。

池上:そうなんですか(笑)。

堂本:彼も日本画科だった。色々な事があってね。

池上:タピエに具体の機関誌をお見せになったのも、堂本さんですよね。

堂本:いやそれは後で。その具体でピナコテカというものがあった。ある時吉原さんと芸術論なんてやって。吉原さんが一番尊敬していたのは藤田(嗣治)なんだよ。彼のアトリエへ行くと、藤田の絵が置いてあったりしてね。今は藤田さんをそんなに思わないけれども、やはり、僕らの時代にはシンボルだものね。ある種の憧れがあったし。それと、吉原さんと僕は洒落者同士がくっついた。ある時は、大阪のキタなんかで飲んだりして、そういう生活よね(笑)。それ以外には何にもないわけ。ところが、彼がやろうとしている方法は、大阪に前衛があるのか知らないけど、本当に「もうかりまっか」なんだよ。その「もうかりまっか」が面白い。あれは京都にもない。東京の理屈っぽいのも嫌だ。それで、僕は神戸が好きな人間だったから、学生時代に遊びに行くのは神戸。それで、京都の祇園も結構だけども、大阪のキタのバーで遊んでるほうがはるかに面白い。もちろん、飲み代は吉原さんが全部出した。それで、具体の薄い雑誌ができるんだよ。彼がそれを僕に送ってくるのかな。そのうちに、僕がパリ行っちゃうわけ。するとパリへも送ってきたわけよ、何号かね。(ところで、パリでは)今井俊満が勅使河原蒼風とタピエをくっつけるわけだ。それでタピエという人は、これ(お金のジェスチャーをして)があれば行くわけよ。それで、今井も蒼風さんから援助金をもらって(日本に)行った。これは個人的な事だけど、そういうことがあったのよ。それでタピエが1957年に日本に来た。今井と(ジョルジュ・)マチウ(Georges Mathieu)がサム・フランシスを連れて。今井にしてみたら凱旋だよね。その時に、僕はパリでデビューする。ところが、今井がいない間に堂本は今井の牙城を取った、と言われるんだよ。

池上:それはスタドラーでの個展のことですよね。そういうことがあったんですね。

堂本:そう。そしてその前に、今井が行った後で、僕はプライズを二つ取っちゃうんだよ。一つは、パリ近代美術館の外人なんとか(「パリ在住外国人青年画家展」、パリ国立近代美術館、1958年3月)のグランプリを取ったのと、その次は、プレミオ・リソーネ(国際美術展、イタリア、リソーネ市、1959年9月)でセカンド(第2位特別賞)を取って。そして、今井がいない57年に初めての個展をやって。それが大盛況でね。

池上:出品作が全部売り切れたというお話ですよね。

堂本: まあね。その時に、「堂本憎し」と思ってるやつ、今井にしてみたら憎いよね。今井はそれを全部盗んだと思ったんですよ。ところが僕には、さっき話したように、サロン・ド・メに出したり、色々とあったんですよ。実はサロン・ド・メには問題があって、今井なんかは絵を出したくても出せなかったわけよ。

池上:やはり招待されないと出せないわけですよね。

堂本:そう、出せない。僕は図らずもそういうプロセスで入ったけど、今井はサロン・ド・メの本家にアプローチして、なんとか入ろうと運動をして。それは(ジャン=ミシェル・)アトラン(Jean-Michel Atlan、1913〜1960)という人だったんだ。だけど(コミッティーから)アトランは切られたわけ。だから今井は入れなかった。僕はシュナイデルという王道のほうで入ったんだよ。そういうくだらないことがいっぱいあるわけ。だけど、人生ってそんなものだよね。僕がこんな話をするのは初めてよ。

池上:はい、色々と文献を拝見しましたけど、知りませんでした。

堂本:言ってないもの。それで、今井が蒼風とやって。蒼風は悪くないよな。結果としてどうかわからないけど。僕は息子の(勅使河原)宏とは親しかった。ところが、蒼風とやるなら、あの具体の大阪的なしっちゃかめっちゃかも面白いじゃないかと思って、僕はタピエに(具体の機関誌を)見せるわけ。それでいよいよ(タピエが)57年に東京に行くから、吉原さんに会いなさい、と。大阪駅でタピエが出てくるのを吉原さんが嬉しそうに迎えたりして。

池上:待ち構えている感じですよね。

堂本:そう。あれは全部、僕がお膳立てしたの。それで最後の結論なんだけど、吉原さんが「堂本、具体に入ってくれ」と言った。僕は断った。

池上:それは、57年ごろのお話ですか。

堂本:いや、その後。吉原さんが、「堂本なくして今日の具体はない」って書いたあの時分に「君入ってくれ。会員になってくれ」と。僕は「断る」と。「もしも僕が入ったら、あなたとは同列ではなくなるんだ」と。僕は最後まで「あなたと友達で、同列でいたい」と。

池上:具体の方たちは、吉原さんのことを「先生」と呼んでいましたからね。みなさんは、お弟子さんのようなところがありますからね。

堂本:そうなんだよ。だからやめようって。ついに入らなかった。だから僕は具体で展覧会をしてない。ところが、今井みたいなそそっかしい男が具体で展覧会をしたり。だから、やはり一本通さないといけない。僕は一本通す。通しすぎて損をするけど。

池上:その57年に、タピエとマチューがフランスから日本に行く時に、堂本先生に一緒についてきて欲しいというようなことにはならなかったのですか。

堂本:ない。僕はもうデビューしていて。これがまた面白いんだよ。57年。今井も具体もみんなのけて、僕はどうして展覧会ができたか。それは57年の確か秋だったと思う。僕は、今井を飛行場へ行くバス・ターミナルにスタドラーと二人で送りに行ったよ。行ってらっしゃいって。その時には、僕の展覧会がもう決まっているわけ。どうしてかというと、その前に、フランス人の契約画家で(フランシス・)サレス(Francis Salle`s)という絵描きがスタドラーにいたの。そのサレスというのは大酒飲みでね。非常に良い作家よ。昔の具体の厚いカタログがあるでしょ。あれにサレスも出ているけどね。スタドラーというのは、今事故を起こして問題になっているシンドラーというエレベーター会社あるでしょ。彼女も僕のコレクターだけど。これは、またあとで話をしよう。シンドラーがエレベーターで、スタドラーはスイスのロープの会社だったの。

池上:エレベーターを吊るロープですか。

堂本:それだけじゃない。アルプスだもん。スタドラーは、そこのお坊ちゃんだったの。ローザンヌにお屋敷がある大富豪の次男坊。それで実は、これ(ゲイ)なのよ。親父は困って。それでパリへ送って、画商をやらしたわけなんだけども。フランスの画商なんて、ほとんどこれ(ゲイ)だよ。(エメ・)マーグ(Aime´ Maeght、La Galerie Maeghtのオーナー)もそうだし。クロード・ベルナール(Claude Bernard、Galerie Claude Bernardのオーナー)もそうだし。だからフランスで出世しようと思ったら、まずユダヤ人になれ、と(笑)。それからこれになる。それをみんな冗談半分でいうんだから。それで、これになって、ユダヤ人になって、大金持ちの年寄りのばあさんのツバメになれば、絶対出世するっていうんだから。そんなことより、どこまでいったかな。冗談言ってたら駄目だ(笑)。

池上:スタドラーで、サレスという方が。

堂本:そう。展覧会をやろうとしていた。

池上:それがたまたまキャンセルになったのですか。

堂本:いや、そうじゃないんだよ。スタドラーが、食料と場所を与えたわけよ。

池上:そのサレスさんに。

堂本:そう。そこで、展覧会の準備をするということになっていたわけよ。それでいよいよ蓋を開けようと思って、夏の8月の終わりに行ってみたら、一点も作品がなかった。毎日飲んだくれていて。それで困って。その時はもうタピエが日本から帰ってくるんだよね。帰ってきて、さあどうしようということになって、タピエをトップにして相談になる。そうしたら、自分のところのグループの展覧会をやるか、(ルーチョ・)フォンタナ(Lucio Fontana)をやるか、それとも新人を開発するか、と。そうしたらタピエは「新人は一人いる」といって、僕が引きずり出されるわけ。そういうものなんだよ。だから、それで僕はデビューしたわけ。ちょっといいもの見せてあげようか。フォンタナやで、これ。

池上:ああ、すごい。こんなところに(コーヒー・テーブルの下の引き出し)、無造作に入っていますけど。

堂本:これ、裏にちゃんとサインしているでしょ。

池上:すごいですね。これは何年の作品ですか。

堂本:何年だろ。

池上:59(年)ですかね、これ。

堂本:では僕がデビューした年。

粟田:(フォンタナの)裏は初めて見ましたよ。

池上:すごいです。

堂本:まあ、どうってことはないよ。

池上:いえ、ここに入っているということが、またすごいです。

堂本:どうってことはない。これも面白かった。パリからフォンタナの家へ、(アントニオ・)サウラ(Antonio Saura)というスペイン人の絵描きと一緒に行ったんだよ。それで、こんなの(作品を指して)売れっこないよね。(フォンタナは)本来彫刻家でしょ。日本のお墓と違って、むこうのお墓って、いろんなものが付いている。

池上:装飾的ですよね。

堂本:そう。それのデザイナーなの。

池上:フォンタナはそれで生計を立てた。

堂本:そう。それで、彼のアトリエに行ったら、「ちょっとおいで」と言われ、地下へ行くと、モニュメントがいっぱいあるわけだよ。フォンタナはダンディーだったよ。ヴェニスのビエンナーレで僕が出した時、朝フォンタナに会って、「ボンジョールノ」でしょ。それで、昼になったら、ボン・ジュールか(笑)。一回一回、(連れている)女の子が違うんだからね(笑)。朝、昼、晩って違うんだよ。それは洒落男だったよ(笑)。僕は本当はずいぶん考え方が違うんだけどね。フォンタナ、それから、白系ロシアの(セルジュ・)ポリヤコフ(Serge Poliakoff)ね。僕は、前衛とかそちら側だけではないんだよ。ジョルジュ・サルに会うでしょ。そしてサルの手下のジャン・カスー(Jean Cassou)か。ジャン・カスーはやっぱりレジスタンスの戦士よね。そしてジャン・カスーなんかと一緒に会ったのが、(ピエール・)スーラージュ(Pierre Soulages)ね。だから僕は、そっち側の系統にも非常に親しい人がいるわけ。だけどもちろんサロンとかには(友人は)いないよ。

池上:はい。アンフォルメルだけでなく、他の方たちともお付き合いをされていたということですよね。

堂本:そう。だから、最後は(ピエール・)レスタニー(Pierre Restany)が、僕に随分接近するけどね。レスタニーはその時期、「アンチ・タピエ」をやらないと成立しなかった。片方にポップ・アートがあって、何とかしないといけないというのでヌーヴォー・レアリスムをやって。僕は派が違うけれども、彼とは非常にシンパシーを感じたんですよね。レスタニーが僕に興味を持ったのは、やはりこの時期だね。

池上:堂本先生が《二元的なアンサンブル》をされていた時期ですね。

堂本:あのタイトルは、レスタニーが付けたんだよ。この時代にイヴ・クラインが金を使っているでしょ、セーヌ川に金をまいているじゃない。これ(《連続の溶解1963−58》、1963年)は面白いんだよね。どうしてこうなんだろう、と。僕がこれをやった時に、日本の画商が「堂本はついに、畳をつくりだした」と言った。

池上:この《連続の溶解》シリーズでビエンナーレでは賞を取られますが、日本では、あまり評判がよろしくなかったということなんですが。

堂本:商売にならなかったからでしょ。僕は南画廊の志水(楠男)がヴェニスに来ていたから、「展覧会やらせてくれ」と言ったら、断られたの。

池上:あまり彼は気にいらなかった。

堂本:分からないわけ。ある日セザール(Ce´sar)が「堂本、あなたは早すぎる」と言ったよ。「10年早い」って。この時代に分かるわけがない。この系統なんて、どこにもないんだもの。そうでしょ? フランスにもなかった。この時、面白かったよ。富永(惣一)さんが国際審査員で。世田谷美術館の館長していた、誰だっけ。

粟田:嘉門(安雄)さん。

池上:嘉門さんが64年のコミッショナーをされていたのですよね。

堂本:そう、コミッショナー。それで嘉門さんは、英語もフランス語も、イタリア語も出来ないんだよね。一緒にいた人は豊福(知徳)と僕と、斉藤義重とオノサト・トシノブ(注:本名の表記は小野里利信)。それで東京画廊が、モーター・ボートでこんな斉藤義重のカタログを積んで、ビューっと会場に来るわけ。南画廊はオノサトをゴンドラに乗せて(笑)。

池上:おかしいですね(笑)。

堂本:それで、現地採用は、僕と豊福だったの。豊福はミラノ(在住)で。ともかく二人で仲良かったのね。どちらが賞を取っても恨みっこなしで。それで、嘉門さんは何をしているんだ、ということになって。それで、パビリオンの設営は、職人はイタリア人でしょ。僕はフランス語ができるけど、彼(豊福)はイタリア語ができる。それで、一番に(設営が)出来たわけよね。向こうの労働者は働かないから、朝からブドウ酒を持っていって、みんなに飲ませてやったら、すごく働いた。

池上:では、本来嘉門安雄がすべきことを、堂本さんと豊福さんが代わりにやってしまったということですか。

堂本:もちろんそう。

池上:それは面白いですね。

堂本:それで僕が賞をもらったんだよね。その時、(ロバート・)ラウシェンバーグ(Robert Rauschenberg)が大賞を取ったんだよね。これが本当に不愉快だったよ。ラウシェンバーグの作品の運搬はアメリカの海軍がしたんだよ。海軍の船で来たんだ。しかもジャルディーニからサン・マルコに橋を作ろうとした。工兵隊が来たら作れるわけよ。それはさすがにヴェニスの市長が「お断り申し上げる」と言ったらしいけど。(注:実際にはアメリカの軍艦ではなく、軍用機で作品を輸送した)

池上:それはそうですよね。

堂本:うん、あれは面白かった。ジャスパー(・ジョーンズ)もいたし、ラウシェンバーグ、それから、サイ・トゥオンブリもいたし。僕の隣の部屋が、サイ・トゥオンブリなんだよ。

池上:ヴェニスでですか。

堂本:ヴェニスのホテルでね。(マース・)カニングハム(Merce Cunningham)も来てたよ。その時に、ラウシェンバーグが大賞を取って、僕が二賞(アルチュール・レイワ賞)を取って。その時に、あとから「お前にやられた」と言われた。アメリカの作家の丸を描く人。的みたいなのを描く人。

池上:ターゲットですか。

堂本:そう。

池上:(ケネス・)ノーランド(Kenneth Noland)ですね。

堂本:そう。ケネスが「お前にやられた」と(笑)。ケネスもここに遊びにきたことあるのよ。

池上:あら、そうですか。

堂本:うん。僕は、彼の家にも行った。ニューヨークの、少し離れたところ。いい男だったよね、ケネスも。まあしかし、あれでしょ。ケネスとサムの話が面白い。ある日さ、ニューヨークに行った時に、サムが、エメリック(Andre´ Emmerich Gallery)で良い展覧会をやっていて。それで、ノーランドに「今度のサムの展覧会いいね」と言ったら、彼は「初めて市民権を得たよ」って。うんと後だよ。強烈だよね。本当に強烈だよね。

池上:やはり、西から来た人への(抵抗があった)。

堂本:やっと認めてくれた、と。

池上:そんな時代になってもまだ、そういうことを言われるわけですね。

堂本:そうよ。だけど、サムはやはり弱いね。ちょっと一つの美学的系統の中に入れるのが難しい。だから、どうしても一匹狼というか外様で。

池上:突然ビエンナーレのお話に飛んでしまいましたが。その前に、1958年にスタドラーで個展をされた後、今度はニューヨークのマーサ・ジャクソン(Martha Jackson Gallery)で個展をされますよね。そのあたりもお聞きしたかったのですが。

堂本:これは、また面白いんだよ。ギンペルが買ったでしょ。それが何年かな。

池上:1956年ですか。サロン・ド・メの事ですよね。

堂本:そう。あのニュースが、一週間後にニューヨークに入ったんだよ。一日本人である僕がパリでデビューした、と。すると文句なしにニューヨークから画商が飛んできたんだ。それが、マーサ・ジャクソンだ。それは、ギンペルが買ったから。完全に(英米は)一枚岩だった。だから、今の湾岸戦争(イラク戦争の意)だって、ブッシュがやると、みんなでついていって、イギリスもついていくでしょ。実に自然だな、と僕は思っているんだけどね。だから、マーサ・ジャクソンは、そこからです。彼女が飛んできて、すぐに契約になるの。

池上:もう来年個展しましよう、というように。

堂本:そう。それで個展をする。何年に個展をやったかな。

池上:59年の1月となっております。それまではパリにいらして、ニューヨークというのはどういう場所でしたか。

堂本:これは面白い。まず、貧乏絵描きだから。そして女房つれて、初めてね。ニューヨークに行くのはいくつの時だ。ともかくヴェニスのビエンナーレは37(歳)だもんね。

池上:はい。その6年も前ですから。

堂本:マーサ・ジャクソンでの最初の展覧会だった。

池上:31歳ですよね。ニューヨークに初めて行かれて。

堂本:ニューヨークに行った時ね。妻と三等の切符で行くんですよ。パリ−ニューヨークのフライトが6時間だった。(サービスは)水一杯だけだった。しかも、夜に発って。その晩は本当に、移民の労働者みたいな感じよね。それで、やっとニューヨークに着いたの。ニューヨークはケネディ(空港)じゃなかった。あれは何空港だったかな。そこからマンハッタンに入っていくの。とにかく強烈だったんですよね。飛行場で鞄を持って歩いてよ。ドアを開けようと思って鞄を置いたんですよ。そうしたら、自動ドアがバーっと開いてね。カルチャー・ショックだった。

池上:それはまだ、パリにはなかったのですか。

堂本:パリにはないよ。それでもう、あーっとなって(笑)。そうしたら、黒人のポーターがニコニコと笑っていたよね。それが、何年だ。

池上:1958年の末ですね。

堂本:それで、今のマンハッタンに入って。僕らは画廊に泊めてもらった。そうしたら、マーサ・ジャクソンが息子に「堂本を案内しておいで」と言ったかな。連れていかれたのは、今大問題になっている、アメリカのウォール街。ウォール街に連れていかれた。それで、ウォール街に教会があるでしょ。あれが真っ暗のシルエットに見えたよね。それで「これがアメリカだよ」と言われて。今ならこう(手を下に向けて)だけどな(笑)。

池上:はい(笑)。当時はもう輝いていた。

堂本:ショック。マーサ・ジャクソンって面白い人だよ。マーサは、ケロッグって知ってる?

池上:コーン・フレークのケロッグですか。

堂本:そう。あれのお嬢さんだ。だから、大変な金持なわけ。彼女はクリストもバックアップしていた。それから、ジム・ダイン。クリストと僕の関係も面白いのよ。クリストが亡命した時に、僕は知り合ったんだ。だから、クリストはここにしょっちゅう来てるよ。いろんなことがあるんだよ。アメリカの印象はそれ。それで、展覧会のオープンが1月1日だったの。

池上:新年ですね。

堂本:1月1日で、「お正月じゃないか」と。マーサが「あなたは黙ってなさい」と言うんだよ。「ここは私の画廊だ」って。マーサにとってみたら、「なんだ、田舎者が」と思うよね。田舎者とは言わなかったけど。それで、クリスマスの時に飲むお酒、何ていったかな、卵酒みたいな。

池上:エッグ・ノックですか。

堂本:そう。あれをこんなに大きな器に入れて。オープニングでね。そこに来てくれた絵描きが、フィリップ・ガストン(Philip Guston)や(ウィレム・)デ・クーニング(Willem de Kooning)。どうしてかというと、みんな行くとこないんだよ。

池上:お正月で(笑)。

堂本:だから、マーサが「お前は黙ってなさい」と言ったのはそれなんだよ。それでもう彼女が全部やってくれた。

池上:あなたにとって良いことなのだ、と。1月1日の夜が。

堂本:そう。それで、オランダ人の亡命者なんだけれども、あの有名な人。あの人と一緒に僕の記事がニューヨーク・タイムズに出たんですよ。

池上:オランダ。デ・クーニング以外のオランダ人で。

堂本:以外で。デ・クーニングより、もっと善良なおじさん。(ハンス・)ホフマン(Hans Hoffman)。そう、ホフマン。

池上:ホフマンはドイツですね。

堂本:ドイツか。ハンス・ホフマンも来たんだ。

池上:錚々たるメンバーですね。

堂本:だから1月にやれ、と。(その時期は)展覧会がないということを、マーサは知っているわけよ。

池上:いい話題になるわけですね。

堂本:そう。よく勉強しましたよ。これ31(歳)だもんな。君いくつ?

粟田:僕は今、32歳です。

堂本:そうだろう。そのくらいの歳だもの。

池上:そういう画商の戦略というものを目の当たりにされたわけですね。

堂本:そう。面白かった。

池上:その時に知り合われた抽象表現主義の方とか。

堂本:デ・クーニング。それから、ホフマンでしょ。ホフマンのところに行ったことがある。その時分は、ニューヨークにシダー・バー(注:Ceder Bar。1950年代には抽象表現主義の作家達の溜まり場だった)というのがあった。

池上:ありますね。今もあります。

堂本:僕はシダー・バーの写真を持っている。毎晩ほとんどそこで会っているよね。僕がそこで関心したのは、アメリカの絵描きは、あれだけ飲んで、ベロベロになっても、あくる日はちゃんと仕事をしている。これがフランスだったら、あくる日グーグー寝ているよ(笑)。その違いがある。あと、静電気起こるじゃない。あの静電気だってフランスでは起こらないよね。ウェットでしょ。そういう違いがある。

池上:ちょっと文化の違いがありますよね。

堂本:文化ね、うん。僕はアメリカを嫌いではないけど、ハーモニカ文化とハンバーガー文化だな、と思う。

池上:みなさん、よく食べ、よく働くということですよね。

堂本:そう。僕が会わなかったのは、ジャクソン・ポロックだけ。

池上:亡くなっていましたものね。

堂本:ジャクソン・ポロックが死んだ車は、マーサ・ジャクソンの息子の車だった。ポロックは、2回くらいトライするんだよね。それで、最後に成功するわけ。その大きな車は、シボレーだったかな、オープンカーで。作品と交換するんですよ。その作品は、西武(美術館)で初めてアメリカ絵画の源流展というものをマーサ・ジャクソンのコレクションでやって。あれは僕がやった。そこに出てたポロックの作品だね。

池上:その頃、ネオ・ダダのジョーンズとかラウシェンバーグなんかも、すごく勢いがあった時代だったと思うんですが。

堂本:誰? ネオ・ダダ?

池上:はい。ジョーンズとかラウシェンバーグなんかも当時、ネオ・ダダという風に呼ばれていました。

堂本:僕は、ジャスパーもラウシェンバーグも友達であり、それこそ同時代の空気を吸った人間、という意識がある。僕がアメリカで面白かったのは、「プライマリー・ストラクチャー」の時代が面白かった。(注:ユダヤ美術館でカイナストン・マクシャインが企画した展覧会。Primary Structures: Younger American and British Sculpture, Jewish Museum, New York, April−June, 1966)

池上:はい、それはもう少し後みたいですね。

堂本:ということは、ジャスパーにしても、ラウシェンバーグにしても、あのドロドロした(抽象表現主義の)古臭い延長線。その前から僕らも意識していたよ。ただ、そのカテゴリーを便利屋が書いただけであって。僕はジャスパーと同じテーブルで話して。それこそ、ジャスパーとラウシェンバーグがパリに来た時に、僕とセザールがいて。4人で話し合うとかしてね。

粟田:どういうことを話したのですか。

堂本:覚えてない。僕らは芸術論なんてしないの。芸術論するなんてガキよ。絶対しない。そんなことをしている暇はないよな。個人主義というか、我々はインディヴィジュアルでしょ。だから、群れて、それこそ何派、何派でやっているのは、やはりガキよね。

池上:最終的には、個人で信じるところをいくしかないということですよね。

堂本:そうだと僕は思うけどね。だから例えば、レスタニーとの付き合いでも、僕はあのグループではなくして、でもイヴとも友達で。イヴなんて、死ぬ1日前か2日前に会いにきたんだからね。それで、あいつ死んだんだけども。

池上:前にお話を伺った時に、「イヴ・クラインが、『堂本は自分のスタイルに縛られていないから羨ましい』という風に言っていた」ということを聞いたんですけど。

堂本:そう。それはその夜だ。その夜にモンパルナスのカフェで、僕と女房と、それから、ファッションモデルの一位をとった、なんとかいう人がいたんだよ、日本人で。その3人でお茶を飲んでいたら、イヴが入ってきて。それで、彼はジェントルマンなんだよね。「座ってもいいですか」と。彼は、格好をつけるんだけどね。「どうぞ、どうぞ」と。その時に「いいな、私はオーディエンスがまた変わることを期待されているから。変わらなきゃいけないのがつらい」ということを言っていたよね。それで、僕は「だけど僕は変わっているんだよ。大きく変わっているのが分かってないだけよ」と。イヴは髭を焼いてみたり、絹を扱ってみたり。いろんなことやったでしょ。

池上:次はどんなことをやってくれるのかっていう期待が。

堂本:そう。やはり不思議だね。あれだけの哲学を、柔道を通じてやってた男が。だけど、イヴなんてまだましだよ。ジャスパー・ジョーンズなんて今やもう廃人だからね。彼が悩んでいるのは、自分の絵が自分からとっくに離れて、それで格付けされている。じゃあ自分は一体何だ、と。市場経済に巻き込まれたら、そうなるんだから。だから僕は今、決して金持ちになれなくて、税金も取られて、「嫌だね」なんて言っているけど、そういう意味で僕を育ててくれたのは、やはりパリだよね。毎晩無数に貧乏絵描きがいるんだよね。彼らが死なずに毎晩ブドウ酒を飲んでいるわけよ。絵は売れていない。

池上:なんとかなるんだという。

堂本:なんとかなる。それが芸術家なのかもしれない。だから、今のメディアでよく言われるような、村上(隆)も結構だけども。そういうものじゃないよね、と思う。村上は、どこまで自分をコントロールしていくか。僕は、あれは一つの方法だと思うし。僕は反対していないですよ。反対してないけども、作家としてあそこからもう変われなかったら、これはしょうがない。

栗田:自分の作ったルールに(捕らわれてはいけない、と)。

堂本:そう。だから僕は変革した。それは、アンフォルメルから抜ける時ですよ。その時に、僕は画面を2つに割るんですよ。実際に画面が2つなんだ。ここから始まるんだよ。やはりこれは屏風(から得た発想)でしょうね。

池上:それはやはり、アンフォルメルも一つのルールのようになってきてしまうことへの思いですか。

堂本:そう、終焉ですよね。

池上:脱却というか。

堂本:そう、この時に、僕は武満(徹)と一柳(慧)と友達になるんですよ。どうして交流やるようになったかというと、オーケストラのいろんなエレメントが、奏でることで一つのものつくるでしょ。だから、あの二人の影響はすごく大きいわけ。で、完全にこう切っている。これはもう、一つのカンヴァスにできないことはないんだけど、切らざるを得なかった。

池上:音楽から触発されたような部分もあったという。

堂本:音楽というより集合。部分と集合と言うんですか。音楽だけではないです。もうちょっと哲学的。それで、ここ(《連続の溶解》シリーズ)へ入ってくるわけよね。このシリーズは(カンヴァスと構図が)分かれていくでしょ。分かれて、分かれて。これ全然売れてないのよ。これはうちの奥さんのコレクション。これもみんなコレクション。それで、こう入ってくるのよ。これは全部「陰陽」なんですよ。

池上:はい。ポジティヴなものと、ネガティヴなものということですね。

堂本:そう。だから、ひょっとしたらサムの影響があって、スイスの哲学者、ユングだったかな。まあいいや。ずっとここにいって、ここにダーっとふるわけだ(図録をめくりながら)。

池上:はい。

堂本:それで、これが面白いのは、ここまではパリなわけ。これもパリ。泥臭いでしょ。それで、これ(《連続の溶解 24の円、白、黒、灰色》1967年)がニューヨークなんだ。

池上:すきっとしますね。

堂本:そうなんだ。これ全部ニューヨークよね。

池上:だいぶん、ミニマルな感じになってくるというか。

堂本:なるね。もちろんミニマルの影響もあるし。それから、ニューヨークのビルに非常階段があるじゃない。

池上:あのガンガン音がするやつですね(笑)。

堂本:そう(笑)。僕のアトリエは、バウリー(注:Bowry。ニューヨークの下町)よ。

池上:(あの地域だと)非常階段といえば、ああいう外に付いているタイプのものですよね。

堂本:そう。バウリーに居たんだからね。それで、ここから丸が入ってくるの。それまで丸はないわけ。それで、これが全部なくなって、丸ばっかりになってくるの。これも赤とグリーンでしょ。これは曼荼羅だよね、赤の。日本の影響を受けたのは。それでこの時分に、ソビエトのやつが飛ぶわけよ。

池上:はい、スプートニクのもう少し後の。

堂本:なんだったかな。ガガーリンが「地球は青かった」と言うと、イヴ・クラインが横にいて「ほれみてみろ。俺のも青だ」と。単純なんだよ(笑)。僕のタイトルは全部、この時分は宇宙でしょ。この辺から出てくるわけ。《蝕》シリーズとか。

栗田:こういうのは、ドローイングはされるのですか。

堂本:ドローイングもありますよ。これ(《蝕W》1976年)なんかは、丸の延長。これは偶然出てきたんだよ。

池上:波のような。

堂本:これをやって、つぶさなかったら、これが出てきたの。

池上:丸を重ねていくことで、波がでてくるという。

堂本:そう。この辺が、25年前に手術をした後の療養の南仏のイメージなんですよ。これは、なぜかというと、同じ形態が波打ち際で起こるという。それで、ここにきて。それから今度、このシリーズは、京都の法然院なんだよ。これは原爆のあれよ。《臨界》という名前を使っているでしょ。

池上:核実験の。

堂本:臨界という言葉は、日本では嫌われたから使わなかった。フランス語でやったんだけども。それで今度は、あれになったわけだ。ついに到達したわけだよ、これ(《蓮池 無意識と意識の間》シリーズ)にね。だけど、こうやって見てもらうと、いわゆる洋画じゃないでしょ。

池上:そうですね。いわゆるアンフォルメルの頃の作品でも、実は非常に日本画的なものを私は感じるのですが。

堂本:そうなんだよね。それで結構なのよ。

池上:非常に理性的で静謐という風に感じますよね、一見激しいようなものでも。

堂本:いや、それは知らんけど。

池上:すみません、今日はすごく時間が長くなってしまって。

堂本:いいよ、そんなの。俺の為にやってるんだから。そうでもないか(笑)。君の為にやったんだ。次にまた来るんでしょ。

池上:はい。では今日はだいぶん長くなってしまったので、これで終わらせていただきます。