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福岡道雄オーラル・ヒストリー 2013年2月8日

河内長野市 福岡道雄仕事場にて
インタヴュアー:江上ゆか、鈴木慈子
同席者:谷森ゆかり
書き起こし:永田典子
公開日:2014年4月19日
 

江上:今日は特に信濃橋画廊のことについてお話を伺いたいと思います。よろしくお願いします。まず最初に、信濃橋画廊というのは、1965年から2010年まで大阪にあった画廊で、なぜその画廊のことを福岡さんにお聞きするのかというところから伺ったほうがいいと思うんですが。福岡さん、よく作家の方からは、信濃橋画廊の「顧問」とお聞きすることが何度かあったんですけど。

福岡:「顧問」と言われる場合と、影では何と言われてるか知らんけど(笑)、「番頭さん」と言われてた時もあったし。あるいは初めの頃は、そこで初めてする作家が「あの人何だろう、いつも土曜日に居てる」っていう感じで。

江上:いつも土曜日に画廊にいらっしゃる。

福岡:ほとんど20年間、休みなく行ってましたね。

江上:えっ、それは開廊からですか。

福岡:開廊から。20年間休みなく。それでもう一人、僕の友人で平田というのがいるんですけど。

江上:平田洋一さんですね。

福岡:彼も10年間、皆勤です。それで山口さんから皆勤賞をもらったことがあります。車の後ろに敷いてある小さな毛布みたいなのが皆勤賞で、僕と平田がもらった。そういうのを今、思い出しました。ほとんど毎日行ってましたね。

江上:信濃橋画廊は、今、山口さんと出ましたが、もともと山口勝子さんという方が主宰者でいらっしゃるんですけれども、山口勝子さんとはどのように、どこでお知り合いになられたんですか。

福岡:山口勝子さんは、絵画を行動美術(協会)に出しておられたんです。そんなのと、僕は研究所にいてたもんで。

江上:大阪市立美術館の。

福岡:うん。そこで、僕は知らないんですけど、山口さんのほうはいつも一緒におられるお友だちから、「あれが福岡道雄だよ」と聞いたということを、山口さんから直接聞いたのを覚えています。

江上:それはいつ頃ですか。それこそ(福岡さんが)白鳳画廊とかで作品を発表されていた頃ですか。

福岡:白鳳画廊なんかで発表してて、まあ関西では一応華々しくデビューしたらしいんですよね(笑)。「私はもっと早く知ってた」と言われて。それまでは(注:画廊を始めるまでは)、個展をされて僕が見に行ったり、あるいは僕の個展を見に来ていただいたり、その程度の知り合いだったんです。だから画廊をされるときは、僕はよく知らなかったです。

江上:始める段階では、よく知らなかった。

福岡:うん。画廊の設計を僕の友人の山口勝弘さんがされたというのは、あとで知ったんですけども、どこだったかな、大阪城公園かなんかでの僕の展覧会を山口勝弘さんが見に来られたとき、その時に偶然、山口勝子さんも見に来られて、そこで僕がご紹介したんです(注:1961年の彫刻家集団「場」野外彫刻展)。それまでお互いにそういう人が親戚にいてるというのは知ってたんですけども、会ったことはなかった。お父さん同士が、いとこという関係です。だから何になるんですかね、「またいとこ」というのになるんですかね。

江上:山口勝弘さんと勝子さんがご親戚ということなんですけど、山口家ですよね、たしか淡路島のご出身ですよね。

福岡:そうです。淡路です。

江上:山口勝子さんのご経歴というか、子どもの頃のことですとか、画廊を始められるまでのことについてご存知のことがあれば、お聞かせいただきたいのですけれども。

福岡:山口勝子さんはずっと絵を描いておられて行動展の会友をされていたということと、山口勝弘さんが現代美術のほうに行ってたということと、もう一人、僕は一度お会いしたと思うんですけど、お名前はちょっと忘れましたけど、淡路で陶芸をやられている、たしかいとこの人がおられて(注:藤井佐知のこと)。だから「ああ、美術家の一家なんだな」とは思ってました。

江上:淡路というと、焼き物はたしかE平焼ですとか、地場産業としてあると思うんですけど、そのご関係ですかね。

福岡:と思うんですけどね。

江上:ちなみに山口勝子さんが描かれていた絵というのは、どんな絵なんですか。

福岡:十八番というかオハコは、牛を描くことなんです。

江上:牛!

福岡:大きな、100号とか、200号はなかったですか、だいたい100号から150ぐらいに大きな牛を一頭か二頭描かれているのは覚えてますね。僕が知ってからは牛専門みたいでした。だから六甲にはよくスケッチに行っておられたみたいです。六甲牧場とか。

江上:先ほどのお話だと、画廊を始められた時点ではそれほどお知り合いではなかったということなんですけれども、あとからもしかしてお聞きになったかと思うのですが、どのような経緯でその画廊を始められたかというのはご存知ですか。

福岡:画廊は、ちょうど偶然に四つ橋線が通った時期と、たしか一緒だと思うんです。

江上:地下鉄の。

福岡:だから1965年ですかね、地下鉄が西梅田まで通ったのと、陶磁器会館ができた年です。

江上:(信濃橋画廊のある)建物が。

福岡:お父さんが陶磁器関係の理事長をされていたんです。それで、最初は地下室に中華料理屋か何かができる予定だったらしいんです。でもどうしてか知らないけど、建築途中でやめられて、お父さんが「こんなとこが空いてるけど、画廊でもしないか」ということで、たぶん始められたんだと思います。それと山口さん自身も、自立して何かそういうことがしたいなというのが、ちょうどうまいことかち合ったというか、そんなので始められたと思います。でも、後で聞いた話では、本人は、あんな現代美術の画廊をしようなんて、夢にも思ってなかったって。「どんな画廊だったの」って聞いたら、日動画廊とかフォルム(画廊)とかに、画廊を始める前に、どういう風にしたらいいかということを相談に行ってたらしいです。だから、あの辺のイメージがあったんです。でもそうかといって、これもあとで分かったんですけども、本人は、おじぎをしたり、なんかこうして「売る」ということがすごく嫌いなんです。だからたぶんそういう画商は無理だという気がしますし、あそこの画廊の内装というか設計を、さっき言った山口勝弘さんにお願いしたらしいんです。それで、いざ作ってみたら、そんな画商の画廊じゃなくて、いわゆる現代美術系の画廊になってしまってた。あと、一番最初のオープニングのときにお願いした選者というか評論家の人が、高橋(亨)さんと赤根(和生)さんでしたよね。だからパッと開けてみたらいきなりバッと、とんでもない世界だったと(笑)。だからビックリしてしまったらしいです。

江上:へえ。山口勝弘さんが最初にされた内装というのが、これですか、この1965年の(『信濃橋画廊1965—1995』、信濃橋画廊、1995年、4−5頁の写真を見ながら)。

福岡:床が黒いやつです。これです。一部分に「福岡くんの彫刻を置けるようにしといたよ」といって、四角いタイルがあるわけです。ブロックなんか置かなくてもここに彫刻が置けるように山口さんは設計されて。それと奥の壁と…… どっちか(の壁)が真っ黒だったんです。

江上:ああ、これですね。こちら側の部分ですね(写真を見ながら。入り口から見て左手つきあたりと、右手入口横の壁面が黒かった)。

福岡:その当時、真っ黒な壁の画廊なんかなかったのと、それと天上からフックをつけて吊れるようにした。その辺がよその画廊と違ったのと、その当時まだ出だしの、スライダックスといって照明がゼロからずーっと徐々に明るくなるスポットライトが付いていました。その時はまだほかの画廊にはなかったです。でもそれも、みんな、いっぺんひねってみるんですけどね、分からないんですよ。暗くしたら「ああ、これがええ」ってなる。明るくしたら、「あっ、こっちのほうがええ」って(笑)。だから僕がよく言ったのは、「とにかくもう諦めて、もういっぺん明日来て朝やってみたら」とか言ってましたけども。

江上:そのあたりの内装は、山口勝弘さんが考えてされたんですね。

福岡:そうです。それと画廊としたら、すごく大きかったんです。

江上:当時としては。

福岡:はい。作品も大型の作品がちょうど流行りだした頃で。最初のうちはこの大きさで、よそにない空間というか、地下だけども少し天井が高いんです。天井がついてても、よそのビルよりは天井が高かったというのがあって、珍しがられたのもあって、そこそこ客が付いてきたんです。

江上:当時としては珍しかったということですけれども、具体的に当時ほかにあった画廊というと、どういう画廊が、大阪では。

福岡:貸し画廊では、あの画廊(注:「画廊あの」のこと)がありました。「あの」は小さな、八畳ぐらいの大きさの。でも「あの」はまもなくやめられて。あと(ギャラリー)安土とか。それから何があったかなあ、あかお画廊とか、いろいろありました。僕らが見るのはだいたいそのあたりですね。あと老松通り(大阪市北区)に現代画廊とか大阪画廊とかいうのがありましたね。本屋さんの2階で版画をやっていた、みやざき画廊というのもありました。

江上:先ほど開廊記念の「20人の方法」のことが出たんですけれども、選者を高橋さんと赤根さんになぜ頼まれたのかはご存知ですか。

福岡:それは知らないですけど、その当時、美術記者として一番見ておられたのは高橋さんでした。それと赤根さんが『美術手帖』にも書いておられたし、その二人が一番よく回っておられて。一応、選者に山口勝弘も入っているけれども、それはあくまで名前を貸しただけで、ほとんど彼は選者には入ってないと思います。こっち(関西)の作家は知らなかったですから。

江上:なるほど。この時、福岡さんもご出品されているんですね。

福岡:はい。(注:開廊記念「20人の方法」1965年12月16日−27日 出品者:今中クミ子、今井祝雄、河合隆三、河口龍夫、橿尾正次、喜谷繁暉、坂本昌也、榊健、寺尾恍示、中馬泰文、平田洋一、福岡道雄、福田武、藤原向意、舩井裕、宮永理吉、向井修二、村上泰造、森口宏一、吉原英雄)

江上:じゃあそれが福岡さんとしては、信濃橋画廊との出会いということになるんでしょうか。

福岡:そうです。その時に初めてそこの画廊に行って、それが一番最初で。その次の週からたぶん毎週土曜日に行ってたんだと思います。ずっとそこにいるようになったのは、ひとつは、作家自体が作品の展示も知らないというのか、極端に言ったら釘もよう打てない作家が沢山おるわけです。カナヅチの音を聞いてたら分かるわけです、「あ、これは手伝わんと駄目だ」とか。打ったり抜いたり、打ったり抜いたりするわけです。「僕の絵は重いから」とかいって、こんな五寸釘を打つわけですよ。「その絵はこのぐらいので大丈夫だ」というのを教えたり、いろいろ手伝ってました。どうしてもそれは無理だというような作品があるわけです。例えば、壁のこっちの端からこっちの端まで、鉄骨のH鋼というか、重たい、100キロ以上あるやつですけど、それをグッと(突っ張って)持たせたいというわけ。僕の作品は(壁の)距離よりも2ミリか3ミリ大きく作ってある、だから持つはずだと。「それは無理だ。それドーンと落ちるよ。だってこれ鉄筋いうけど、内側は鉄筋じゃないよ」って。そんなことも知らない作家がたくさんいてたんです。そしたらあきらめて、下に置いてましたけど。それとか、すごい重たいものを「天井のここに吊したい」とか。「でもここは駄目だ、ここだったらいける」とか、そういう手伝いをするのがきっかけで、画廊に自然に居るようになってしまった。

江上:それはでも、言ってみれば縁もゆかりもない画廊で、縁もゆかりもない作家さんですよね、それぞれ。なぜそうやって毎週手伝う羽目になったんでしょう(笑)。

福岡:ひとつは、僕も好きだし、山口さんも「ちょうどいい人が現れた」というんで。平田なんかも手伝ってくれてましたけども。それと、画廊というところがすごく溜まり場になってて、そこに行ったらいろんなことを勉強できるというか。まだ大阪には美術大学はなかったもんですから(注:大阪芸術大学は、1964年設立の浪速芸術大学が1966年に改称された直後で、卒業生の作家活動が活発になるのは1970年代から)、画廊というところでみんな色々習うというか、教えてもらうという状況はありましたね。だから新聞記者の人たちも、取材以外にそこにずっと長居してるような人もたくさんいましたし。

江上:作家さんは勿論、ほかにどういう人たちが集まってましたか。

福岡:最初の時は、いわゆる文化人というんですか、詩人の人が多かったですね。あとカメラマンの人、小説家もいました。ちょっと名前は忘れましたけど。いろんな職業の人がいましたね。それはさっき言った、そこへ行ったらいろんなことを知ることができるというのか、流行りもすぐ分かるし。大阪の場合は流行りには少し鈍感でしたけども、それでも何ヶ月か遅れで東京の方から。

江上:先ほど、いきなり「20人の方法」で現代美術の展覧会になってしまったと。基本的にはその後、記録で見ても、ずっと予定が入っていろんな方が展覧会を行っているんですけれども、順調に貸し画廊として沢山の作家さんが。

福岡:そうです。最初のうちは、ご自分が行動美術に出しておられたもんですから、行動関係の作家が何人か会員展をやったり、親しくて、どうしてもしないといけないような作家が何人か入ってたんですけど、あとはいわゆる現代美術の若手の人たちが、ずっと順調に行きましたね。

江上:先ほど、ほかにどういう画廊があったかというお話もあったんですけれども、割と開廊して2〜3年のうちに、例えば「あの」と合同で「第1回現代美術大阪100人展」(1967年12月18日—24日)ですとか、あとギャラリー16と「可能性の実験」展(1968年8月26日—9月1日)とか、ほかの画廊と共同開催のような展覧会が開かれているんですけれども、こういったものはどういう流れで開かれてたんですかね。

福岡:その辺は僕もうひとつ詳しく知らないんですけども、今から思ったら、画廊同士が割と仲が良かったというか、とりあえず現代美術を盛り上げていこうというようなものがきっとオーナーたちにあったんでしょうね。僕はいつか、「そこの画廊とここの画廊って固めないで、もう全部に話してみたら」というようなことを言ったことはあるんですけど、その話は実現しなくて、今みたいな展覧会が何回かあったと思うんですけど。ちょうど美術のあったかいときで、作るほうも、見せるほうも、見るほうも、なんかそういうのがあったみたいですね。でもそれには僕は直接関わってはいないんです。

江上:なるほど。福岡さんが直接関わられたものとしては、企画展をされていますね。69年に「内向性の眼」という。

福岡:はい。

江上:ほかに福岡さんの企画展は、信濃橋ではされていますか。

福岡:あんまり企画展は、してるようでしてないんです。ただ画廊のやった企画で、名前を考えたり、「いや、その作家はやめといたら」とか「この人入れたら」とかいう意見は言ったことがありますけどね。でもあんまりそれは採用されなかったように思います。

江上:そうなんですね(笑)。それは山口さんが考えられた企画で、ということですか。

福岡:そうです。山口さんのほうは、やっぱり画廊の営業のことを考えてやられるから、もしこの人を入れたらひょっとしたら次に展覧会をしてくれるかもしれないという気がどこかにある。僕の場合、そういうことを抜きにして言うもんですから、そんなので話が合わなかった場合がありましたね。それはそれで正解だったと思うんですけども。さっき、自分の企画した展覧会がもっとあると思ってパーッと見てたけど、意外とないんです。

江上:そうですか。でもこの頃、たとえばほかに河口(龍夫)さんですとか、「部分展」でしたか、企画されていて(1972年8月7日—19日)。作家さんの企画というのは何個かありますね。

福岡:そうですね。河口も確か一つか二つ、あったと思います。

江上:あたたかい時期だったとおっしゃっていましたけれども、作家さんが企画をするというのも、そういうこととつながっているんですか。

福岡:どうかなあ、そんなに多くの作家が企画をしたわけじゃないですけども、山口さんにある程度信用があって、「この人だったら」という人に任せたと思うんです。ひとつには、人に任せることによって全く自分が予定してなかった作家が入ってくるという、そんな意図はあったかもしれません。

江上:なるほど。企画自体の依頼というのも、山口さんが作家さんに依頼する感じだったんですか。

福岡:そうです。山口さん自身も、最初は具象的な画廊にしようと思っていたし、ご自分もそういう世界しか知らないと思っていたのが、抽象というのがすごく面白いと、そんなのが5〜6年目ぐらいですかね、分かってきたのは。で、10年目ぐらいには「画廊が面白い」と言い出して。順調に借り手があったせいもあると思います。こちらからお願いしなくても次から次から申し込みがあって。

江上:5〜6年目から山口さん自身も意識が変わられてきたみたいなんですけど、「20人の方法」って開廊の時にされて、その後節目ごとにされてますよね。5周年のときには記録集では選者とかが付いてないんですけど、この時ぐらいから山口さんがご自身で選んでいらっしゃったんですか。

福岡:「20人の方法」展はすごく気に入っておられてね、これはかなり続くと思うんですけども。僕は早くから、「もうやめたら?」って言ってたんですけど、とにかくタイトルが気にいったらしくて。1972年に美術の世界が少し変わり始めて、だんだん作らない方向になっていくんです。

江上:作らないというのは?

福岡:観念的な仕事。

江上:コンセプチュアルな。

福岡:作品もこじんまりした、あるいは既成のものであったり、そんなので大きな会場をもてあますような作家が出てきて。で、借り手がちょっと減り出すんです。

江上:そうなんですか。へえ。

福岡:ちょっと人気がなくなるんです、あの大きさが。ビルの中の小さな画廊は人気があるようになったりして。そんなこともあって、「ここを仕切ってみたら?」といって仕切ったんです、少し。会場を二つにして、それで一つに「エプロン(apron)」という名前をつけて、始めたわけです。それで「エプロン」というのは、一番奥の変形した会場だったんです。事務所が最後の「エプロン」だったんです、四角いほう。

江上:最後、事務所になっているところが「エプロン」ということは、ほんと、あのすごい狭いスペースが?

福岡:そうです、そうです。

江上:閉廊時に「エプロン」だった場所が、最初は事務所だった。逆だったということですね。

福岡:ええ。最初はそこが事務所で。あそこの会館ができた時に、暖房が重油だったんです。外から重油を入れて、ちょうど事務所の中に鉄の扉があって、そこにいろんな機械類が入っていて。それと最後に倉庫として使っていたところに、ビル全体の冷暖房の機械が入ってたんです。あるときから重油が電気になって、エアコンがつくようになって、それから「ここを会場にしたら」といって鉄の扉のところをフタしてしまって事務所と入れ替えたんです。そしたら真四角になってスッキリして。事務所はこっちの変形のとこでもいいわっていう感じ。そしたら山口さんの居場所がなくなってしまった。なんか斜めになった奥のほうの狭いところに、いつも座っておられました。

江上:「エプロン」が、一番最初72年にできますよね。それまでは開廊したときの山口勝弘さんの内装、ずっとそのままだったんですか。

福岡:そうです。

江上:で、「エプロン」を閉廊時と逆転する形でつくられて、今の形になるのはいつなんですか。今というか、(閉廊時のように)再び事務所と「エプロン」が入れ替わったのはいつですか。それはお分かりになります?

福岡:あれはいつだったかな。

江上:5階ができたタイミングでもないんですか。

福岡:「エプロン」のほうが先です。

江上:入れ替わるのが先。

福岡:小さな最初の「エプロン」は何年ぐらい続いたかな。よく調べたら分かると思いますけど、そんなにはなかったと思うんです(事務所と「エプロン」の入れ替えは1978年1月)。「エプロン」をつくった一つのメリットは、小さいけども、そこで誰かの企画の展覧会ができるという認識で。それで大きなほうに、地方から来た、あまりお客さんのいない作家たちがされた時に、こっちの部屋で白髪(一雄)さんをやったりしたら、それでお客がクックッと来るわけです。

江上:ああ、なるほど。実は「エプロン」で、それこそ元永(定正)さんとか村岡(三郎)さんが「20年の記録」という展覧会をやっていて、「これは何なんだろう」と思ってたんですよ(いずれも1973年に開催)。今ちょっと地方からの作家さんということが出ましたけど、今回の、兵庫県立美術館に収蔵予定の「信濃橋画廊コレクション」にも、橿尾(正次)さんとか、「北美」の作家さんの作品とかありますよね。しかもかなり古い年代からされていて。そういう地方の作家との交流みたいなものがあったんですか、よく出てきて使われるという。

福岡:大阪にこんな画廊ができたよというのが、結構『美術手帖』なんかを通して全国的に名が知れられるようになって、北美の土岡(秀太郎)さんとかあの辺の方たちが時々訪れたり、そこの人たちも個展をするようになったり、国立国際美術館ができてからは(1977年開館)ネオダダの連中なんかが何かで来たときに信濃橋画廊に立ち寄ったり、名前は結構知られるようになっていました。大阪にこういう画廊があるということは。
 ひとつにはやっぱり空間が良かった。雑居ビルなんですけど、地階ですからあまり抵抗がなくて、すっとすぐ入れてしまうもんですから、ほかの雑居ビルに入っている画廊とちょっとイメージが違うというのか、雑居なのに割と独立しているような形になっていたのと。それと山口さんのお父さんがそこの理事長をされていた関係などがあって、休みの日に搬入搬出が自由にできるという。「土曜日はちょっと無理だけど、日曜日にしたい」、地方の人はそういう人が多かったです。時間がかかるから、とっても2〜3時間では出来ない。後々には松井智惠さんみたいに、飾り付けに1週間かかるとか、そんなのはわざわざ企画の日を盆休みとかお正月の突端にするとか。そういうとこを利用して1週間ぐらい飾り付けに貸せるという、そういう有利さがあって、現場で作る作家たちにとったらありがたい画廊だった。
 山口さんも、いつも画廊に行ってるわけにはいかないから、信用できる人には鍵を貸してしまって、作家が勝手に開けて、勝手にシャッターを下ろして帰ってた、そういう感じでしたね。

江上:ちょっと話が戻りますが、「エプロン」ができて、白髪さん、元永さんの名前とかも出てきましたけれども。信濃橋画廊というと独立系の作家さんというか、無所属の作家さんがすごく活躍されている印象があって。当時、関西では具体(美術協会)の人たちの存在感が大きかったと思うのですけれども、実際のところは、そのあたりはどうだったのでしょう。信濃橋に集まってこられる面々というか。

福岡:ちょうど反団体展というのが開廊あたりから出ていて、(そうなると)個展でしか発表できない、あるいはグループ展でしか。(画廊が)大きいからグループ展にも向いてたんですね、個展だけじゃなくて。それと団体展の中にも、団体展に出してるのに、僕はこっちのほうの仲間に入りたいという気持ちはあって、まあ両刀遣いですよね、そういう人たちも結構いたのと。僕個人としたら、「反具体」はありましたね。

江上:福岡さん個人的に?(笑)

福岡:山口さんにかなり吹き込んだんだけど、山口さんはべつに「反」はなかったですね(笑)。具体の人たちも、一回もここの画廊に来られてない人が半分ぐらいおられて。

江上:あ、結構おられますね。

福岡:来る人はしょっちゅう来る、具体だけどもわざわざ具体の具も言わないような人だし。元永さんとか堀尾(貞治)とか、あの辺はそうですね。白髪さんも、厚生年金会館が近くにあるんです。そこで週に一度絵画教室を持っておられて、その関係もあって、時々寄ってもらいましたね。

江上:できれば今回、兵庫県立美術館に入るコレクションのことも教えていただけたらと思うのですけども。今回収蔵される「信濃橋画廊コレクション」で、一番制作年代が古いのは、福岡さんのドローイングなんかもあるんですが、群で、かたまりとして見たときに、1970年代の初め、木村光佑さんとか、山中(嘉一)さん、久保(晃)さん、舩井(裕)さんの版画がどっとあるんですね。山口さんがコレクションを始められたのも、そのぐらいの時期というふうに見ていいのでしょうか。

福岡:そうです、最初は版画からですね。版画を何点か買われたのと、版画家のほうも、会場を貸してもらったというので、当時の人は何枚かを置いて帰るというか。

江上:お礼を兼ねてという。

福岡:そうです。そういう関係で少しずつ溜まっていったのがメインですね、版画の場合は。それともうひとつは、自分の作品を画廊に置いておいて「売ってくれないか」といって預けていって。

江上:ストックとして。

福岡:はい。あるいは画廊のほうから頼む場合もありましたけども。それが知らず知らずのうちに溜まっていってしまったというのか、預かったけど結局、売る気がないから、溜まる一方で。作家のほうもそんなにあてにはしていませんから、そこの画廊には。だからそのまま置いていったのもあるし、最後見てみたら、どっちに聞いても分からないのがありましたね。売ったのか、置いていったのか。

江上:それは、画廊と作家さんの長年のお付き合いの結果、そういうことになっていった、という。

福岡:「こんなに沢山あったのか」というような版画家の人も、たぶんあったと思うんですけども。本人もそれを覚えてないんです、「えーっ、そんなにあったの?」って。

江上:置いていかれる方と置いていかれない方があるという、そこはやっぱり作家さんと山口さんの信頼関係みたいなものが。

福岡:そうですね、信頼関係ですね。今回も一人だけが「あれとあれとは返してほしい」というぐらいでしたね。あとはみんな「どうぞ」いう感じで。版画の場合はほかにも(エディションが)ありますからいいですけど、そうじゃない一品ものの人も、「いやあ、あれは返してほしい」という人は、そんなにいなかったような気がするんです。山口さんは「いくらでも返す」と言うてましたけどね。「ちゃんとお金を払って、それを返す」と。値段が全然違ってるんですよ、当時はほんとに1万円ぐらいだったのが、今は数百万になっているのがありますし。でも、よくあの(画廊の)中にあんな沢山入ってたな、というのは実感しましたけどね。

江上:そうですね。画廊の活動のほうに話を戻しますと、今回、資料も館のほうに来てますので、そういうのを見ていますと、細かいことですが、1973年から「サマーフェスティバル」という展覧会があって、これが結構、続いてますよね。私は全然知らないので、当時のことを。これはどういう展覧会だったんですか。

福岡:それも僕はあんまり賛成してなかった。「もうやめたら」って言ってるんですけど、それも山口さんが気に入られていたタイトル名で、かなり続いていると思います。

江上:10年以上続いてますね。

鈴木:1986年まで。

福岡:その人選なんかも僕はあまりタッチしてなかった。山口さんがすごく気に入っておられた展覧会です。

江上:実は興味を持ったのが何故かといいますと、初回の1973年のサマーフェスティバルの時に座談会が開かれていて、福岡さんが司会をされていて、報告書みたいなのが残っているんですよ。

福岡:そうなんですか。

江上:はい。作家さん全員で。

福岡:なんか新聞を出した記憶があるんです。

江上:たぶんそれのまとめが、新聞として出てるんだと思います。

福岡:「新聞出そう」とか言って、1回だけ出したことがあります。そのときに座談会をしたのを覚えてますけどね。司会者が悪かったから。

江上:いえいえ(笑)。

福岡:いやいや、ほんとにそうだったと思います。

谷森:そのほかにも勉強会を作家同士で行われたって聞いてるんですけど。

福岡:あそこの会館の上に会議室がありましてね。その会議室がほとんど使われてないんです。それでもったいないから、山口さんならほとんど数千円で借りられるから、何回かいろんなテーマを設けて討論会みたいなのをしましたね。僕、何を言ったかしらないけど、僕が司会みたいのをしたこともあるし、「僕は評論家の人は大嫌いだ」とか言って怒ってしまう人もいてるし。そんなことがありましたね。

江上:どういう方が来られてました?

福岡:評論家に関しては、建畠(晢)さんとか、篠原(資明)さん、京都芸大の先生をされていた。その人たちに僕は、食ってまではかかりませんけども、「評論家は嫌いだ」と言って。今思ったら、ちょっと言葉が足りなかったなと思ったりしましたけど。

江上:作家さんはどういう方が来られてましたか。

福岡:どういう方といわれても困るけど、だいたい病気みたいなもので、画廊を回り出したら、1週間に必ず回る、こことここは必ず回るというような作家が100名ぐらいいましたね、いろんな意味で。

江上:ああ、当時。

福岡:それとひとつは、勤めからシュッと抜け出すということもできたんです、その当時は。

江上:大阪あたりに勤めておられて。

福岡:ええ。ちょっと早引きしたり、あるいは営業マンの人だったらそれにかこつけてシュシュッと回って、そういう人がいましたね。大学の先生なんかも週に2回か3回行ったらいいだけで、結構自由だったのと、そんな関係で、100人はいましたね、いわゆる「画廊病」みたいな人たちが。いいとか悪いとかじゃなくて、習慣的に回っておられたという。

江上:なるほど。いまお聞きしているのはだいたい1970年代ぐらいまでの話ですかね。

福岡:1970年代が一番そういうのは多かったですね。

鈴木:勉強会ではどういうことがテーマになるんでしょうか。

福岡:はっきり覚えてないですけどね。僕が覚えているのは、突端に「なぜ作るか」とか(笑)。そうしたら、「わあ、福岡さん、きついな、いきなりそんな質問されて」ってなことで話が進まない場合もありましたし、要はちょっとプロ的な話が多かったです。だから面白くなかったですね。話がすぐつぶれてしまって。

江上:わりと議論、討論をするっていう感じなんですか。

福岡:うん、そんなのとか。いっぺん白髪さんを怒らしたことがありました。それは、信濃橋の会場で、僕と平田君が掛け合い漫才みたいな感じで、何を話そうかという計画もなしに話し出したんですけど、白髪さんが「面白くない!」って言うから、「面白いと思わんかったら帰ってください」とかいって、そんな調子で帰らせてしまったことがありましたね。そんな、結構激しいあれだったですね。司会者がきちっといて、分かるようで分からんような討論会じゃなかったですね。どっちかというと、けんか腰みたいな感じでしたね。

江上:例えば海外に行かれた方の報告会とか、そういうタイプではなかった?

福岡:そんなのはなかったです(注:やや後年だがこの会議室で小清水漸によるヴェネツィア・ビエンナーレのレポート等がなされたこともあったようである)。

江上:1970年代ぐらいの話をいまお聞きしてるんですけれども、具体的にその頃の画廊で開かれた展覧会で、何かすごく印象に残っているものとか、あるいはお客さんのエピソードで残っているようなことはありますか。

福岡:最初の10年ぐらい、もうちょっとですか、個展をしたりグループ展をしたら、必ずオープニングパーティがあるんです。結構お酒が出たり、ビールが出たりして。必ず2〜3人、帰りに階段から引き上げて、路上に放り出して、山口さんがシャッター降ろして帰ったのは、何回かありますね。家ではお酒は飲めないけども、ここに来たらお酒がたらふく飲めると。あるいは画廊をはしごして来る人とか、オープニングは結構入りましたね。それと派手でしたね。テーブルをサーッと出して、白い布を掛けて。今みたいにちょっと置いておくようなパーティじゃなくて、ワインだけじゃなくて、ビールもあり、ウイスキーもあり、いろんなもんが並んでいるという。

谷森:豪華ですねえ。

江上:どこからやってくるんでしょう(笑)。

福岡:どうしてでしょうね。「今日はパーティがあるな」というと一升瓶を持ってくる人もお客さんでいてて。必ずのびる人は決まってましたけどね。

谷森:オープニングパーティで榎(忠)さんが大砲を撃たれて、近くの交番の方が駆けつけたとお聞きしたことがありますが。

福岡:榎さんが大砲を撃ったのって、僕、記憶にないんです、話は聞いてるけど。「撃たなかったよ」というのは聞いてるような気もする。

谷森:そうですか。それは何年代のお話ですか。

福岡:それも1970年代と違うのかなあ。

江上:JAPAN KOBE ZEROの頃ですよね、榎さんというと。そうすると1972、3年かなあ(大砲が展示されたのはJAPAN KOBE ZERO「解体と再生」1972年7月10日—15日)。

福岡:山口さんが怖がりで、「そんなことしたらえらいことになる、周りに交番もあるし」いうのでやめさせたような記憶があるんですけど、それがいつの間にか「撃った」と風に流れてしまって、撃ったことになってるんです。そこで第1発を撃ったということで。その辺は、僕はちょっと記憶が曖昧なんです。

江上:1970年代の初めぐらいに作らない作品ができてきて、「エプロン」を開いた。「エプロン」を開いたことで、観念的な作品も発表できるし、画廊のほうで企画展もできるようになってということだったのですけれども。その後、70年代の後半ぐらいになってくると、周りの環境の変化として、例えば大阪でいうとギャラリー白とか、京都だとアートスペース虹とかが、たしか1970年代の終わりから80年代の初めにかけてポコポコっと次々と出来ていって、今からふり返るとすごく現代美術の発表の場が増えていったように見えるんですけど、実際その辺はどうでしたか、当時の印象として。

福岡:たしかに増えて。それは、一つは大阪芸術大学ができたせいがあると思います。それまで大阪にはいわゆる芸大がなかったんです(注:先述のとおり大阪芸術大学は1960年代半ばの設立)。大阪芸術大学の連中が、どっちかというと白とか向こうのほうで個展をし出して。番画廊さんは、どちらかというと信濃橋画廊系統の流れのような作家をやっておられたような気がします。

江上:貸し画廊ですから、基本どちらかというと借り手が選ぶんですよね。

福岡:そうでしょうね。一つは大きさです。番とか信濃橋は、ちょっと頑張らんとできないなと。
 僕らの経験からいったら、やっぱし大きい画廊でするのは怖いです。

江上:ああ。

福岡:すぐ分かりますもん。パッと入ったら分かる。小さいのも分かるけども、「なんや」で終わりで、それで帰ってこれてしまうというのか、作家のほうも「ヤッター!」という余韻がないという中で平気でできるというのか。そのかわり、またすぐしたくなるんです。

江上:そういう意味でいうと、もしかすると信濃橋では、「エプロン」と、本体といったら変ですけども、(大会場)とで、借り手の傾向に差があったんでしょうか。

福岡:地方から出てくる人がめいっぱい本領を発揮して。

江上:大きいほうで。

福岡:大きい絵で発表したいという。大きい絵は運送が大変だけども、密度の濃い作品で発表したいというのがあって。小さいほうは、どっちかというとシュシュッと描いた、ドローイング程度の作品でごまかせるというのか、そんなあれはありましたね。まあ、その逆もあったんです。地方の無名の作家を小さいほうで企画してあげるとか。
 作家というのは「企画」にすごく弱いんです。「企画」といったら聞こえはいいですけど、山口さんに言わしたら、「それは企画じゃない」と。「企画はうちは年に3本ぐらいしかしてないはずだ」とか今でも言いますけどもね、確かにそうで。でも作家にしたら、無料で貸してもらったことを「企画」と言ってしまうんです、「僕は今度、企画だ」とか。作家同士が話しているのをチラッと耳にしたら、「これ企画か?」って話をしてるのが聞こえることがありました。僕らにもよくそういう質問が来ました、「これは企画なんか?」いうて。

江上:へぇ、そうですよね。実は貸し画廊の「企画」というのが、私も常々実態はどうなのか疑問を持っているところで(笑)。山口さんとしてはやっぱり年に2、3本ぐらいしかされてないという意識で。

福岡:はい。

江上:それは、単にお金をタダにしているだけではないという意識が。

福岡:だから会場代はもちろん無料だし、運送代、カタログ代、案内状、切手代、一切合切、全部画廊持ちです(注:経費負担の範囲については、企画展の中でも幅はあったようである)。

江上:それが企画? 

福岡:そうです。

江上:さっきのお話だと。

福岡:それは年にだいたい3回ぐらいと山口さんは言われていました。

江上:そうじゃない、作家が企画と言っちゃって、でも実際はそうではないものがあったんですかね。

福岡:それはもうほとんどそうです、信濃橋画廊の場合は。「エプロン」でいくらか収入を得て、それで大きいほうを無料で貸す。だからいろんな若い方がそこで一生懸命できる機会もあったし。だからそのふたつなかったら。だから山口さんはほとんど儲かってないんです、最初から。一時だけ、「福岡さん、儲かってるのよ」と言うたことはあります。でもほんの一時的で、あとはトントンで行けたらいいことで。トントンということは、ああいう画廊でスタッフを雇っている画廊ってないんですよ、意外とありそうで。みんなは親戚の人とかお姉さんとかにやってもらっていて、でもそれを2人も雇ってたんです、最初から。

江上:最初からなんですね、スタッフさんは。

福岡:最初から2人雇って。画廊ができた当初は、いいとこのお嬢さんですね、まあ言うたら。お嬢さんが勤めたい職種に「画廊」というのがあった。毎週はいやだ、毎日勤めるのはいやだ、と。週に3回ぐらい行けたら理想的な職場で、あとの週に何回かは、休みのときはいろんな習い事をする。そういうのがあって、最初のうちはずっとお嬢さんを雇ってたんです。そのうち少し時代が変わってきて、ずっと勤めたいという人が出てきて。でも山口さんにしたら風邪で休まれても困ると。だからかなり長いこと2人を雇ってました。

江上:わざわざ2人を置いていらしたのは、なぜですか。スタッフの役割というのを重視されたんですか、山口さんは。

福岡:これは偶然ですけど、2人入ったら、どっちかが事務的に向いてたり、どっちかが社交的な……
(faxが入り中断)

江上:2人いたら、どちらかが事務的に向いてたり。

福岡:それとお客さんにも、「こっちは苦手で、こっちのほうに行く」というのがどうしてもできてしまったりして(笑)。この人の日には必ずこの人が見に来るとか、そんな人がいましたね、よく考えたら。それとさっき言った、外向的な人と事務に向いてる人とが偶然できたりして。

江上:さっきお聞きした、「エプロン」で儲けたお金を注ぎ込んで、タダで貸すという。貸し画廊というとお金をもらって運営してるというイメージがすごく強いんですけれども、信濃橋のやり方をお聞きすると、作家を育てるという側面が非常に強かったのかな、と。

福岡:そんなこともないと思いますけど。勿論、(育てることも)するんですけども。僕は怒られたことがあるんです。僕は「商売」という言葉を使ったんです、(信濃橋)画廊に。そうしたらすごく怒られてね、半年ぐらい干されたことがあるんです(笑)。

江上:えーっ! 山口さんにですか?

福岡:うん。怒ったらもう口聞かないんです。

江上:でもその間も毎週行ってはるんですね。

福岡:うん、そうです(笑)。自分がどうして怒られてるか分からないんです。あとで聞いたら「そんなことか」っていうのが結構ありました。ものを売って、まして絵を売ってお金をもらうということはすごく抵抗があったみたいです。すごく矛盾してるんです。

江上:すごく矛盾してますね(笑)。画商さん向きじゃないですよね。

福岡:会場も、貸すということにすごく、どっちかというと気がとがめているようなとこがあったわけです。

江上:そういうところが無料で会場を提供するということに、逆につながっている。

福岡:そうです。だから、これという作家は、ほとんどお金を払ってないと思います。

江上:これという作家、山口さんがこれと思われる作家ということだと思うんですけども、何かそこに一貫した傾向みたいなものはありましたか。

福岡:一貫した傾向は、ひとつは時代の流れもあったと思いますけど、彫刻にすごく興味がありました、いわゆる立体という。絵画より。

江上:初期からずっと閉廊まで。

福岡:そうです。僕も彫刻をやってたし、山口勝弘さんもどっちかというと立体ですし。ひとつは、ちょうど絵画の低迷期で、あまり魅力のある絵画がなかった時代がありましたね、しばらく。版画が主流になったりして。絵画は一時ちょっと影を潜めていたことがありました。

江上:はた目に見ている分には、例えば(信濃橋画廊)コレクションとかもなんですけれども、現代美術の画廊というと最前線を行くという一般的な印象があるのに対して、信濃橋は、たしかに時代も反映しているんだけれども、むしろ時流に流されずに、割と独自の表現をしている方が集まっていたような印象を持ったのですけど、そんなことはないですか。

福岡:東京だったらどうなってたかちょっと分からないですね。関西の場合、少し鈍感というのか、あまり新しいものに対して…… 僕らもあまり知らなかったですね。誰かがどこかでやってるんでしょうけども、こちらが知らないだけで。ひょっとしたら東京もたぶんそうだと思うんです。僕らは何かを、雑誌とかいろんなものを通してしか知らないんですけども、東京の作家もそんなに時流に敏感じゃないと思うんです、全体的に見たら。信濃橋画廊の場合は、最初のうちは時流というのか、彫刻がかなり主流になってて、彫刻が一つの時流みたいになってて。いろんなのがありましたけども、すごく新しいことというのはそんなになかったし、いっても話題にならなかったから。

江上:えっ?(笑)

福岡:僕らも忘れてるんかもしれないけど。今から思ったら、高橋さんが企画した一日だけの展覧会とか、あんなのは結構面白かったんですけどね(注:「一日だけの個展」1971年3月29日−4月3日)。作品が一つもない会場とか。ストリーキングみたいに裸になってビッと走ってきて、山口さんがひやひやしてたことがありましたけどもねぇ。

江上:へえ、それはいつ頃ですか。

福岡:それも1970年代だったと思います、中田(和成)という人でした。学校の先生になってしまったんですけども。大阪城の一番上の天守閣から、何十メーターだったかな、大きなコンドームをバーッと垂らしてみたり。面白い作品、面白い作家は何人かおったんですけど、ほとんど記録に残ってないですね。

江上:そうですね。時代的な流れのことに話は戻って、1980年前後に色々状況が変わっていって。芸大ができたのが大きいということなんですけど、ちょうど1983年ぐらいから、後に「画廊の視点」になる「大阪現代アートフェアー」、アートフェアみたいなのが始まったりするんですけれども、そういう売る場所に関しての状況とかもこの頃から変わってたんですか。それとも、あまりそれはなかったんでしょうか。

福岡:形はあったんですけれども、実際にあまり売れたとかいうのは聞いたことがないですね。一生懸命そういう風にしよう(売っていこう)という、山口さんはあまり熱心じゃなかったんですけども。あまり成功はしなかったように思いますね。

江上:信濃橋の展示空間の話で言いますと、ちょうど1984年に「信濃橋画廊5」が開廊してるんですけれども、これはどういう経緯で。

福岡:あそこの会館の方が…… 一番最初はあそこに管理人の方がおられて、そこに寝泊まりされていたんです。

江上:ずっと?

福岡:はい、毎日。あの「5」のところが和室だったんです。和室が二間ありましたかね。何のための和室かといったら、座ってあぐらをかいて、お酒でも飲みながら会合をしようというような場所で作ったんですけれども、ほとんど利用されてなくて、ずっと空いてたんです。それで僕が「あそこ空いてるから、あそこも借りたら?」と言って、すごく安く借りられて、そこを改装して今の「5」の部屋にした。そしたら、下が「エプロン」の小さいとこだったのが、今度はもっと大きい上(「5」)で企画して下でお金をもらうとか、その逆になるとか、もう少し自由になった。だから展覧会があっという間に増えるわけです。

江上:そうですよね。一回3本ですもんね。

福岡:はい。

江上:開設記念展が「個のなゝつ」(1984年6月18日−30日、出品作家:福岡道雄、橿尾正次、小清水漸、森口宏一、村岡三郎、下谷千尋、山口牧生)という展覧会だったんですね。このときは福岡さんも出されているんですよね。

福岡:はい。

江上:このメンバーは山口さんが選ばれたんですか。

福岡:それはほとんど僕が選んだんです。

江上:彫刻家の方が中心というか、ばかりと言ってもいいですね。彫刻作品。

谷森:何かテーマとかあったんですか。

福岡:テーマはなかったと思います。

江上:このときの出品作が、福岡さんと山口牧生さんのが、両方(信濃橋画廊)コレクションに入ってますね。

福岡:それはたまたま。僕もそうだし、たぶん、山口さんもそうだと思うんですけども、そのまま置いていったままなんです。

江上:なるほど(笑)。コレクションのことで言いますと、「5」ができて、その翌々年ですか、86年から「今日のドローイング展」というのがあって、そのちょっと後、1988年から「主張する小さなオブジェ展」が始まりますよね。両方ともたくさんの作家さんが小品を出される展覧会で、山口さんのコレクションにはこの2つの出品作がすごい多いみたいなんですけど、そのあたり何かご存知ですか。

福岡:それは、一つは購入しやすかったこと、価格が手頃だったのと。例えば10万にしても、画廊が買ったら5万円で買っている。あと買っても、山口さんはそれをどこかに飾るとか何かにするという気が全くないんです。買いっぱなしなんです(笑)。画廊に置きっぱなしになって。それで溜まっていってしまったんです、画廊に。本来ならそれをおつかいものにするとか、あるいはもう少し値引きして安い値で売るとか。売るというのは全くあれなので、とにかく買いっぱなしです。

江上:なんで買ってはったんでしょうね(笑)。

福岡:なんででしょうね。買うということは好きなんです。

江上:あ、そうなんですね。

福岡:デパートへ行っても、何か買うというのは好きなんです。やっぱり余裕があるからなんでしょうけど、なんか買うというのは好きなんですね。

江上:特に最近のものを見ていると、すごく若手の方のを、勿論、値段が安いというのもあるんですけど、積極的に買っておられるので。やっぱり若い作家が頑張ってるから応援するというお気持ちがあったのかなと。

福岡:それはあったと思いますよね。名の出た人はどうでもいい、無名な人を買いたいという気はありましたね。

江上:今回、コレクションのこととかをいろんな方にお話しすると、山口さんが買われてて、しかもそれが全部あそこにあったというのを、皆さんすごく驚かれるんですよ。「どこに置いてたの?」って言われる。

福岡:ほんとに。

江上:福岡さんご自身が、先ほど、最初の20年は皆勤賞だったとおっしゃっていました。20年で切れ目になると、ちょうど1985年、「5」が開いてすぐぐらいになるんですけれども、それから福岡さんご自身の関わり方がちょっと変わられるんですか、信濃橋画廊への。

福岡:ひとつは、それまでその近くの幼稚園に絵を教えに行ってたんです。粉浜(大阪市住之江区の地名)なんですけどね。そんなのがあって、お昼休みが2時間ぐらい、午前中はそこの子どもに絵を教えて、お昼からは自分の子どもを教えるというようなあれで、時間が2時間か2時間半ぐらい中途半端に空いてて、その間にそこの画廊によく行ってましたね、土曜日以外はお昼に。だから週に2回行ってるぐらいだったんです。そんなのもあったし。あとは大学に行くようになってから、車で大学に行ってるでしょ? 帰りに寄ったりしましたし。山口さんは、ちょうど家が僕の帰り道ですから一緒に、降ろして帰ってくるとか、そんなのがありました。

江上:ということは、スタイルと言ったら変ですけど、細かいことは変わられたけれども、20年目以降もずっと福岡さんの皆勤賞は続いたんですね。

福岡:いやいや、それからだんだん僕も少し美術に興味をなくしてきたのと、作家が様変わりというか、代替わりというのか、知らない人が出てきて。行っても話ができないというのか。それまでは「おい、おまえ」の友だち関係なんかができてて、若い人は僕を慕ってくれてたし、僕もいろんなことを教えたりしてた、そういう関係がだんだんなくなってきて。それでだんだん足が遠のいていきましたね。一応、画廊に見に行ってたとは思うんですけどね、展覧会は。見ていたし、もう1週間(のばして)、「3週間にしてあげたら?」とか、そういうアドバイスはしてました。「1週間ではかわいそうだ」とか。

江上:それはやっぱりいい作品を作っている作家は、ということですか。

福岡:はい。

江上:なんとなく若干足が遠のいたとおっしゃっていますけれども、一方で見てもおられるし、ご自身の展覧会もずっとされてますよね。まあ付かず離れずというかたちだったんでしょうか、それ以後は。

福岡:付かず離れずというよりも、お互いに利用してたんでしょうね、たぶん、言葉で言ったら。だから山口さんも相談したいことは相談してくれたし、僕も結構言いたいことは言えたし。でも展覧会の中身に関してはあんまり言わなくなりました。僕も知らなくなりましたし。

江上:徐々に。

福岡:ええ。しっかりした、昔みたいな企画もだんだんなくなってきたし。それと山口さんもだんだん疲れてこられたというのか、最後の10年ぐらいは会場がいくつも増えてたから、それを埋めていくのも大変だったと思います。

江上:山口さんご自身がそういう状況になって、先ほどから歴代スタッフさんがずっと2人いらしたということなんですけれども、例えばそこでスタッフさんの果たす役割も変わってきたりしたんでしょうかね。ちょうど谷森さんもスタッフだった(笑)。

谷森:そうですね。

福岡:スタッフによって画廊というのはずいぶん変わりますねえ。

江上:そうですか。

福岡:それは、ひとつはオーナーが画廊のことをほとんど何もしないですからね。作家と雑談はしていても、あんまり作家に「ああしなさい、こうしなさい」とも言わないし、どっちかといったらそこにいてるだけでいいんであって、あとはスタッフがいかに頑張るかによって画廊はずいぶん変わっていくもんですね。だから何人かは、その時代に合ったいいスタッフがいましたし、「ちょっと合わんなあ」という人もいましたし。時代とともにずいぶん変わってきました。最初は本当に700枚か800枚くらいの案内状をみんな手書きで書いてたわけですから。それがだんだんガリ版刷りになって、今はパソコンになってますからね。それと、すごく仕事できる人を嫌がったんです。

江上:そうなんですか(笑)。

福岡:最初のうちは知り合いの絵画教室のお嬢さんの人から選んでもらって、気に入ってたんですけども、途中から新聞広告で採るようになった。そしたらたくさん来るんです。最初のうちは週に3日でいいという条件ですから、かなり、20人ぐらいの人が来て、それを5人ぐらいに絞って。それには僕は一切タッチしてませんでした。山口さんが選ぶんですけど、もと画廊に勤めてた人とか、そういうしっかりした人は嫌がるんです。

江上:なぜでしょうね。

福岡:それが分からない。素人っぽい人を選んでしまう。「バリバリできる人をなんで選ばないんだ」って、僕、言ったんですけどね、駄目なの。もし選んでたらどうなってたか分からないですけども、だから、そういう衝突もなかったし。

谷森:1980年代後半あたりから、次の世代の、松井智惠さんや今村源さん、そういった作家の方たちが信濃橋画廊で個展を始めるじゃないですか。あれはどういう流れで皆さん信濃橋で個展を始められるんですか。

福岡:それぞれ違うと思う。松井智惠さんなんかは、こういう条件で、前もって作る日を設けてと、だから松井さんにしたら結構ありがたかったと思う。あんまりそうできる画廊はないからね、準備期間にそんなにもらえるとか、勝手にドアを開けて勝手に帰れるとか。深夜までできるわけなんですね。

江上:しかも松井智惠さんなんか、(個展の時に)床のフタ開けたりとか、倉庫の物出したりとかされてましたよね。

福岡:開けて、そこから梯子が付いてるんです。事務所に上がれるんですよ、1階に。そうしたいって言ってたんです。でも「それだけは駄目だ」って断られてました。

江上:(会場の床の穴から床下を通って)貫通させたかったんですね、事務所まで。

福岡:そうです。事務所に抜けられるようにしたかった。それは駄目だって。あとは結構好きなことしてましたね。作家にとったら結構ありがたかった画廊であったと思うんですけどね、なくなってみたら、実際みんな困ってるみたいですから。

江上:今まで信濃橋でされていた方が皆さん困ってるっていう話は聞きますね。やめられるまでの経緯というのを、いろいろあろうかと思うんですけれども、差し支えない範囲でお聞かせいただけたらと。

福岡:一番大きいのは、3つ(2005年1月からは「5、」も出来て最終的には4つ)の会場を埋めていくのがすごくつらく、しんどくなってきて。それはほとんど電話で応対されてたんですけども、その電話もだんだん、すること自体が億劫になってきたのと、足が弱られて、自分が画廊にだんだん出られなくなってきたことと。うーん、なんだろうねぇ、それと美術自体にだんだん興味が失せていったんでしょうね。すごく面白い時代もあったって言ってましたから。それと作家の気質も変わってきたというのか。

江上:具体的には。

福岡:すごく頑張ってる作家というのがいなくなった。だから応援したくなるような作家がいなくなってる。僕は「プロ」という言葉よく使いますけど、プロの作家が、もともといないですけども、山口さんから見たら、「この人は育ててやりたいな」、そんなのがたぶんあって、そんな人たちはたぶんプロと見てたと思うんですけど、そんな作家がいなくなってきたね。

谷森:山口さんの、作家を見る目自体、ありましたよね、作家を見るセンスというか。

福岡:一つは、自分が絵を描いてて、自分の絵なんかもう嫌になってやめられて、その分作家につぎ込んでいったんでしょうね。

谷森:そういえば言ってはりましたよね、「分かるのよ、私は」って。「私は分かるのよ」って、言ってはりました。

福岡:でも、さっきも言ったかもしれないけど、もうちょっと儲けてほしかったなって(笑)。その分を形として、例えばカタログを作ってあげるとか、そういう形で残してくれたら良かったのになと思う。それだけがちょっと心残りですね、本当にね。

鈴木:山口さんは商売っていう意識がないんですね。商売っておっしゃったら山口さんが怒ったっておっしゃっていたように、山口勝子さんには「商売してる」っていう気持ちが全然ないってことですね。

福岡:ないんでしょうねえ、すごく怒られたとこみたら。「商売」ということで怒られたのと、「商売人」という言葉を使って怒られたこともありました。商売まではええけど、「人」は(笑)。

江上:「人」は許さん、みたいな(笑)。

福岡:こっちは全然分からなくって。だから画廊をする人にはうってつけだったかもしれませんね、ある意味では。

江上:画商ではないですね。画廊と画商というのは違いますもんね。私は信濃橋の、たぶん最後の10年ちょっとぐらいをまあまあ見せていただいたと思うんですけど、地下に降りていくと、必ずスタッフの方が、5階に作家さんがいれば連絡をしてくださる。で、出るときには、山口さんがいらっしゃったら必ずごあいさつに出てきてくださるという、ものすごくきちんと、そのあたりの接客を徹底されているというのを、非常に感じてたんですけど。

谷森:展覧会されていた作家も怒られたそうです、ちゃんとあいさつを(しろと)。山口さんのほうから「評論家の、学芸員の何々さんなので」って紹介されて。

福岡:「紹介をしてくれ」ということは、盛んにスタッフの人に言ってたね。

谷森:「そこはきっちりしなさい」と、あいさつは。

福岡:みんながしてたかどうかは知らないけども。そこで上手に紹介する人と杓子定規にする人と、まあいろいろあったんでしょうけども。

谷森:若い作家に教えなければいけない、というお気持ちもあったんだと。

福岡:いや、そんなに難しいことじゃない。一番最初はもうお茶の入れ方から教えてましたね。お茶を入れることを知らない若い人が多いらしいですね。「急須」って言葉も知らないって、このあいだ新聞に載ってましたけどね。へえーと思ってたんですけど。お茶の入れ方とか、お茶の葉っぱを換えてほしいとか、お茶だけはいいのを買ってほしいとか、いろいろ注文つけて、お茶碗にも凝ってましたね、一時。お茶も考えもんで、画廊を何軒か回ってお茶ばっかり飲んでられないですよね(笑)。僕なんか、入れてもらう前に「いらない」って断るんですけどね。
 …まあ、いろんな画廊が出来るんでしょうけどね。

江上:なくなってしまってから振り返られて、あらためて信濃橋画廊というのはほかの画廊と比べてどんな場所でした?

福岡:最初は一番行きにくい、辺鄙な南の場所だったんですよ。画廊といったら北の方に、だいたい老松通りにあって。(2004年、四つ橋筋の北に)国際美術館が移転したあたりから、ちょっと変わりだしたなと思って。こっちに引っ越してきて、今度(大阪市の)近代美術館ができるからというから、いずれあの辺が画廊のメインの場所になるんだろうなという予感はしますけどね、でも一番これからというときになくなるから。また同じとこで画廊やってますけどね(注:2011年7月に橘画廊が開廊、地下のメインスペースのみを使い、独自の企画展を開催するスタイルで活動)。

江上:福岡さんご自身はいろんな画廊で発表されてるじゃないですか。

福岡:僕はいろんなとこで、意外と大阪ではしてないんですよ。それはひとつは、ここで好きなようにさせてもらってたから。自分のしたいときに、「2〜3週間欲しい」と言ったら3週間させてもらってました。最初は2週間でしたけども。そのかわり、よそではしなかったです。声が掛かってもしなかった。

江上:大阪では?

福岡:うん。一時。白鳳画廊の荒木(高子)さんが、あかお画廊いう画廊をまた引き受けられて、そのときに個展しないかって言われて。その時は、ちょっとつらかったですけども断って。そんな風に割としなかったです。

江上:別にそれは契約とかいうことではなく?

福岡:契約じゃなくて、気持ちの。

江上:気持ちの問題として。

福岡:一応、(信濃橋画廊の)看板作家みたいに自分で思ってたから(笑)。よそに看板掛けるわけにはいかないとは思って。だから最初のうちは、自分で自分のこと言うのもおかしいですけども、僕も頑張ってて。そこに僕が土曜日にいてるから、そこでいろんな話ができるからって、周りにいろんな作家が寄ってきた時代が一時あったわけです。最初の10年か15年ぐらい。そんなこともあって、看板じゃないですけど、そのかわりよその画廊からは嫌がられました。

江上:嫌がられてた!(笑)

福岡:嫌がられるというか、煙たがられるというか。一部の作家にも煙たがられてました。山口さんが嫌いな作家がおるわけですよ、個人的に、なんでか知らないですけど。そんな人は自分とこではしないし。「それは福岡のせいだ」ってなことになってしまったりして。まあ僕は平気でしたけど、ちょっと嫌われましたね。画廊は意外とそんなところがあって。僕は東京画廊と信濃橋画廊以外ではあまりしてないんですよ。

江上:同じく老舗のギャラリー16でもされてますよね。

福岡:ギャラリー16で1回だけさせてもらった(1987年3月24日−4月5日)。

江上:1回だけなんですね。

福岡:それは僕からお願いしたんです。山口さんを通してお願いした。

江上:なぜですか、それは。

福岡:僕から言うのは嫌で、山口さん通して。そしたら1週間くれたんです。そんで僕は1週間じゃ嫌だ、2週間欲しいって、また。

江上:なぜギャラリー16でしたかったんですか。

福岡:それは京都でひとつもしたことがなかったから。それとギャラリー16が、大きい部屋だったから。

江上:三条にあった頃ですかね。

福岡:三条の駅前に変わったときです。そこを二つに仕切って貸してましたね。時々大きくしてた。僕は初めて京都でするし、大きいのを使いたいからって。それで井上(道子)さんとちょっとあれがあったんです。1週間が2週間になって、まだ大きいのをくれと言うから(笑)。そこで山口さんがどう調整してくれたか知らないですけど。

江上:信濃橋のほうでは、最初の10年、15年とおっしゃってますけど、結構最後のほうまで信濃橋に行ったら福岡さんいてはって。

福岡:一番最後だけはしっかりしようと思って。もう山口さんが行かれなくなったときがあったんです。

江上:本当に作家さんからよく聞くのは、山口さんがおられて、福岡さんがおられて、やっぱり独特の緊張感と、それはおそらく得られるものもということなんですけど、あって。皆さん感謝の言葉しかないみたいなことおっしゃるんですよね、山口さんに対する。独特の画廊の空気みたいなのがあったということを、結構長い時期にわたって、使われる側としては言われてるみたいなんですけどね。

福岡:45年ですかね。

江上:ねえ、45年間。

福岡:もう少し若いときから始めらてれたらよかったね。10年遅かったような気がするんですけどね。

江上:そうですね。本当に体力的なことで、最後はね。

福岡:そう遠くない自宅との距離でしたからね、地下鉄一本でシュッと来れたから。
 本人がこういう話をされたら一番いいんでしょうけどね、どう思ってるのか(注:このインタヴューに先立ち、江上は山口勝子氏にもインタヴューを申し込んだが、固辞されたため実現しなかった)。

江上:福岡さんご自身はどうですか、印象に残っている展覧会。ご自身のものになるかもしれないんですけど。

福岡:やっぱり現場制作で展覧会した松井智惠さんとか、谷森ゆかりとか。谷森ゆかりも現場制作。そこでしかできない仕事をやってて、そんなのが印象に残ってますね、ほかの画廊ではそういうことほとんどあり得ないというか。よその画廊も、もしそういうことができたら個展の可能性はもっと広がると思うんですけどね。でもそれだと、ほとんどの画廊経営は成り立たないですから。

江上:そうですね。売れる作品ではないですしね、最も。

福岡:それこそ美術館にもっと予算が回って、美術館がそこでもういっぺん再現させるぐらいの予算があったらいいんですけど、そういうのもないし。それと最初の個展は作るほうも純粋というのか、絵だったら絵を描いてそれを発表するっていうだけしか頭になかったから。だんだん、これはこの美術館に入れようとか、これはどうかしようとか、そういう意図が少し後ろに見えるようになりましたね、途中からね。いわゆる美術館用の絵を描いているというか、そんなのパッと見たらだいたい分かりますけどね、そんなのが一時ありましたね。それと、(前に)言ったかどうか知らないですけども、毎日制作して、絵だったら40〜50枚溜まって、その中からこれとこれと、ゴッホがそうだったらしいんですけど、「これを出してくれ」というような個展があったらいいなと思いますね。今はそうじゃなくて個展のために描くわけですからね。
 これから画廊はできるんでしょうかねぇ。とにかく本当はいい場所にいい空間がほしいんですけども、そこじゃあ採算的に合わないから、どうしても今にもつぶれそうな古いビルに移っていかなきゃいけないし、でもそういうビルもいずれつぶれるでしょうから。ずーっとある画廊は少ないですね。

江上:そうですね。最後の10年間は大変だったようですけれども、それでも信濃橋画廊が、45年ですかね、続いた理由は何だと思われますか。

福岡:それは、あそこ自身がひとつも変わらなかったっていうことです。

江上:場所が?

福岡:場所が。どこの画廊もなんかかんか変わっていくわけです。変わっていくごとに良くなったらいいんですけども、意外とそうでもない場合もあるわけですね。「どっちかといったら前のほうがよかった」というのが。そのひとつは、(家賃など)画廊の経営が大変だということもあるでしょうし。信濃橋画廊はあそこにずっとあった、あのビルが45年間ずっとあそこにあった、そういうのが結構大きかったと思いますね。だから地方の人が来てもあそこ行ったらあそこにあると。でもそうじゃなかったら、「確かここにあったはずやのに」と思って行ったら、もう全然違うところに移っていて分からなかったとか。それは大きかったと思いますね。山口さんも、あそこだから45年間続いたのであって、あれが梅田の方に行ってしまったら、ひょっとしたらもうちょっと早くやめられたかもしれない。あのビルが建った時からあるから、あの画廊が自分の家みたいに思ってるんですよ、ビル自体を。下と上と借りてるもんですからね。中の事務の人は何回も様変わりしてるんですけども、自分は最初から居てるから(笑)。
あのビルは、何とかいう、割と有名な建築家が建てたビルです。だから4階建てのわりにはしっかりした柱が入ってて、どっしりしてて。階段も20センチほど広いんですよ、幅が。それもありましたね、大きな作品が入れられる。200号ぐらいでもすっと入る。でもよその画廊は階段がまず狭いから、どうしても大きいのは入らない。彫刻も、入り口がまず入らない。だから20センチの違いというのか、たしか1メーター20だったと思うんです、(入口の扉が)両開きで、片一方は締めたままですけど。20センチの余裕というのがずいぶん良かったと思いますね。あのビルはすごく凝ってて、みんなは地下の床の下を土だと思ってるんです。でもあの下に水槽があるんです。それをみんな知らないで、ものすごい重いのを持ってくるわけですよ。「土じゃないんだ」って、この下、15センチの床。

江上:上がってる。

福岡:うん。だから石の人には、大きなのは必ず覗いてもらって、梁のある所に置いてもらうように指導してましたけどね。何回かあったんです、石の彫刻が、積み上げたのがドーンとこけて、床のピータイルがみんな割れてしまって。

江上:わーっ。

福岡:もうひとつ、名前は忘れましたけど、直径2メーターぐらいの、菱形の鉄のパイプの彫刻が、10個ぐらい並んでたかな、それが将棋倒しになってしまって、一番奥の壁がつぶれてしまって。そんなことはありましたね。それからもう一人、浅田(慶明)君という人が、飾り付けのときに、梯子の上の安全ピンを留めるのを忘れて、ダーッと開いて、頭を打って救急車で。このとき僕はいなかったんです。山口さんが大騒ぎしたらしいんですけど、救急車で入院したって。大きな事故はそのぐらいですね。ケンカもなかったし。ケンカっていうのがなくなりましたね。

江上:なくなりました。昔はあった?

福岡:うん。東京は特にしょっちゅうあったらしいですけど、大阪でもケンカはありましたけどね。

江上:どういう場面でケンカするんですか。

福岡:やっぱりパーティで酔っぱらってですよ。殴り合いのケンカになったりして。

江上:えーっ(笑)!

福岡:そんなんがなくなりました。ケンカがなくなったのと、言い合いがなくなりましたね。みんなおとなしいというのか、仲が良いというのか。現代というのは、美術もおとなしくなったし、人間もおとなしくなったし、ケンカする必要がなくなったし、みんな仲良くというような感じでしょうね、きっと。それはこれからまだまだおとなしくなっていくでしょうね。

江上:よりしなくなる。

福岡:1950年代後半から60年代にかけての、がさがさしたああいう時代は、戦争でもない限りないでしょうね。

江上:それはいいことなんですか。

福岡:やっぱりいいことでしょう、これがどんどん進化したら。素直に美術館に行って、素直に鑑賞できるというのは、これはいいことだと思いますよ。気持ちの悪い作品なんか誰も見たくないですよ。いずれ、僕は知らないですけど、ノルウェーとか向こうの方の人種みたいになっていく気がしますけどね。それでいて激しいというか、ラグビーみたいな世界が残っていくと思います。ラグビーっていうのは、変に、殴り合いのあるような世界には流行らないんですね、あれ。激しさはたぶんあるでしょうけど、それはルールに則った激しさであって。

江上:あちこち行ったり来たりしながらも一通り、時代を追ってお話をお聞きした感じかと思うんですが、何か聞き残したことは。

谷森:現代美術というものが戦後生まれて、画廊も出てきて、関西も美術館ができて。やはり信濃橋画廊の役割っていうと変ですけど、信濃橋が関西のアートシーンで行ってきた役割みたいなのはあったんですかね。何か画廊が役に立つ……

福岡:信濃橋が役に立ったかどうか? これは分からない。これからどうなるか、やっぱり時代が、歴史が明かさないといけないと思う。まあ簡単に言ったら、今、現役の人も含めて、そこそこの作家は網羅してると思うけど。かなり高名、有名になった人も含めて、1回はここでしてるっていう。それは、作家の思う企画でしてもらえているからしているのであって、お金払ってまでしてくださいと、とっても言えない人たちがしてくれて。それも結構一生懸命描いてきてくれているというか。
 元永(定正)さんなんか絵で食ってましたからね。それはそれで、そういうやり方があるというか、売れんとだめですから山口さんもそれは承知で、売れないから、よう売らないから、何点か買ってましたけどね。100枚展かな、ミニミニ100点か(「元永定正ミニミニ百点展」1976年12月13日−25日)、100点描くというのは簡単なようで結構大変でね。だいたい想像はつきますけど、描き方って。本人はそんな大変じゃないのかもしれないですけど。
 でも、古い作品を見たら「どうしたのかな」っていう人がかなりいてるから。本当にどうしたのかなと思いますね。まだまだ若い人で亡くなっている人もおるんですけど、70歳ぐらいの人がほとんどですけどね、どうされているのかさっぱり分からないです。もちろん作家もしてないだろうし、画廊も回っておられないだろうし。

江上:そうやって美術を離れていかれる理由はそれぞれなんですかね。

福岡:ちょっとした理由やきっかけがあるんでしょうけどね。なかにはいい作家もいましたけど。ただ女性の方は結婚してやめる方が多いですね。大学出て2〜3年で2回ほど発表して、結婚して、そのまんま主婦になってしまうケースがかなり、この1960年代、70年代に多いですね。それが少し最近なくなってきたのかなと。その逆がないですね、結婚したから男の人がやめて奥さんはバリバリやってるっていうの(笑)。そんなのが、さっき言った北欧ではあるような気がしますね。

江上:ちょっと違う話かもしれないですけど、福岡さんご自身は、なぜ自分が続けてこられたんだと思われますか、彫刻家を。

福岡:難しい質問だな(笑)。僕は、でもね、いくつか区切りがあって。3つか4つぐらいですけど節目節目があって。いわゆるイメージだったら、イメージはここで終わったと、これはここで終わったと。あるいは最後のほうはここで終わりにしないといけないなと、そういう終わり方もありますけども。一番最後は、もうこれで終わろう、と思って終わる。どっちかと言ったら堪能したというのか、もういいっていうような感じがあって。もう少し肉体的に若かったら、今頃、大学の先生あたりに迎えてくれたら、こんな先生いない、一番いいなあと(笑)。いろんなこと教えられるし。さっきも話したんですけど、美術大学っていうのは、ほとんどみんな作家にしてしまうんですよ。作家先生ばっかし増えてて。そこにどうして学芸員の人が教授で入らないのかとかね。教授じゃなくても非常勤でいいですよね。あるいは画商の人が非常勤やったり、コレクターの人もやったり。そういう人が絶対、美術大学には要ると思うんですよ。それが全然なくて、みんな絵描きにしてしまう。そうじゃなくてそれを見分ける、「お前はコレクターがええんと違うか、金持ちになれよ」っていう人がおってもいいし。

江上:それはすごいですね(笑)。

福岡:あるいは「学芸員がいいんと違うか」と言われる人もおったりして。言われなくてもそこで自然とそういう風になっていくシステムがあったらいいなと思うのに、なんか、みんな作家にしてしまう。入るほうも作家になろうと思って入ってしまって。外国にはあるような気がするんですが、ないんですかね。

江上:どうでしょうねえ。ただ、まあ「見る側を育てない」っていうことは日本ではよく言われますけれども。

福岡:日本の大学の、学芸員の資格を与えるのがなんかすごく曖昧なような気がして。

江上:そうですね。何か言い残したこと、聞き残したことがあれば。

福岡:言うほうも聞くほうも難しいですねえ。こういうの慣れてないでしょ。

江上:慣れてないです(笑)。

福岡:「ああしまった。一番大事なこと言い残した」とかね。そんなのがあったり。いらんことばっかり言って話が流れていったり。

鈴木:今日お話を伺っていて、山口さんと福岡さんのご関係がすごい素敵だなというか、あんまりない、珍しい感じがしたんですけれど。福岡さんにとって山口勝子さんという方は、同志というか志を同じくする人という感じなんですか。

福岡:いや、前に言ったかもしれないですけど、パトロンでもあったんです。だから僕、お金がなくなったら作品を置いてきて。だからたくさん置いてあるのは、買ってもらったのもあるし、どっちかといったら押し売りの場合もあるわけです(笑)。そんなので、そのときにはちゃんとまとまったお金をもらったり。それも「これ買ってください」といって置いてくるわけじゃないんですけども、自然と分かってしまうというか。生活というのか、僕は贅沢はしてませんけども、かなり金銭的に面倒を見てもらったことはあります。ただ、山口さんがお酒が飲めたらよかったのになあと思います。

江上:お酒、駄目なんですね。

福岡:お酒は全然駄目なんです。それと社交が意外と駄目なんです。ちゃんと話したら、さっき言われたみたいに、丁寧に、僕らなんかできないことをされるんですけど。好んで誰かをお友だちにして付き合うってことはなかったみたいですね。

江上:福岡さんと山口さんは、画廊にいらっしゃるときとかにかなりじっくりお話しされることも多かったんですか。

福岡:じっくりですか? 画廊の話に関しては、かなり僕は、きついことも言いましたね。特に作家の人選でもめましたね。さっきも言ったみたいに、(僕の意見は)あまり通ったことがない。そこは頑固だし。画廊が面白くなってきたと言われたのが10年ぐらい経ってからで、どう面白かったかはあまり聞いてないですけども。それは自分が作品を作るのをちょうどやめられたと同じような時期で。

江上:その頃までは作品も行動のほうに発表されて。

福岡:2人の先生に習っておられたんですけどね。下高原龍巳という人、何点か入ってたと思いますが。

江上:下高原さんは「信濃橋画廊コレクション」に入っています。

福岡:もう一人は小林武夫という先生で、小林陸一郎のお父さんですけども。その二人がまた揉めだしましてね。「これはわしの弟子だ」っていうことで、山口勝子さんの取り合いになったんです。たぶんいろんな贈り物もよくあったんでしょうね、お礼とかね、そんなのはちゃんとする人だから。下高原龍巳さんの絵は家にも何点か持っていますね、確か。昔の話で何か抜けてないかなあ。

江上:言い残したことがあれば。

福岡:いい時代だったんでしょうね。僕なんかどっちかといったら貧乏人だから、あんまり考えられないようなことが山口さんの日常生活の中にかなりたくさんあって。ましてや女同士だから、子どものときから汚い言葉をかけられたことがないんですね。兄弟に男が1人でもおったら子どもの時「バカ!」とか言われたり、そういうことがないわけですよね。「姉妹同士でいったいどんなケンカしてるの?」って、「ケンカするの?」って言ったら「よくする」って言うから、どんなんかって聞いたら、着る物が掛けてあるのをポトッと下に落とすとかそういうので。

江上:上品なケンカですね(笑)。

福岡:そんな意地悪がケンカになるんですって。そんな話を聞いて笑ってましたけどね。

江上:すごく大事なことを聞き忘れてるような気もするんですけど。

福岡:僕に「画廊しないか」って本気のように言われたことはあります。

江上:そうなんですか?

福岡:一時。「福岡さん、画廊儲かるのよ」って。「あなた継ぐ気ないか」って。

江上:それは譲るってことですか、福岡さんに。それはいつ頃ですか。

福岡:いつ頃だったかなあ。調子のいい時ですからね、真ん中ぐらいでしたかね。それと僕の娘に譲りたいなって気はちょっとあったみたいですね。ただ娘のほうが、そういう商売気がないのと、違う世界に行ってしまってますから、それ以上は言われなかったけども。ほかのスタッフさんたちには「この人だったらいいのにな」と思ってますと、「いや、それは嫌だ」と。身内じゃないと嫌みたいですね。僕なんかどちらかというと身内に近かったんでしょうね。でもまあ身内がいても、この世界だけは本人が嫌と言うかもしれないし、分からないですよね、好きじゃないと。

江上:ほかに続いている画廊というとそれこそギャラリー16さんぐらいですよね、今。

福岡:16は、自分の画廊よりも先輩だから一目置いていた。あと山口さんが認めてたのは番さんですね。

江上:番画廊さん。

福岡:山口さんが画廊をされたときは、関西の主立った画廊にはみんな、あいさつ行ってます。それがすごく頭に残ってて。よその画廊でうちにあいさつに来たのは、(番画廊の)松原(光江)さんだと。それはずーっと残ってて、何回も聞きましたね。画廊の世界も、オレのとこはオレのとこじゃなくて、みんなでもたれ合ってやっていかないと成り立たない世界っていうか、そういうのがたぶんあったんだと思います。特に現代美術はね。

江上:どうもありがとうございました。